予想以上に面白かった。昨年撮影された、バイエルンとオーストリアの放送協会の共同制作映画「
馬の背を分ける真実 ― ルイス・トレンカー」である。ドイツ語には尾根を行き来するという言葉があるが、それに近い意味だ。南ティロルとその独立運動をどうしても意識させる主人公の生まれ故郷やそれらの谷の文化である。
1990年ボルツァーノで97歳の一生を終えるようだが、ハンガリー・オーストリア二重帝国に生まれ、ナチスの下で映画を制作して、終戦後は北イタリアから「物語師」として活躍した人物を通して、ティロルも同時に描かれる。そこで描かれる政治的な視界こそが、馬の背からの風景なのだ。
そのような背景から歴史文化的な映画も制作しているようであるが、ここで描かれる人物像は、
レニ・リーフェンシュタールとの出合と関係、そこに
アーノルト・ファンク博士も含むゲッペルス宣伝相らとの関係も描かれる。シナリオは、戦後のヴェネツィア映画祭期間中の偽造「エヴァ・ブラウン日記」の売り込みを話の発端にすることで、時を行き来する形のバイオトップと呼ばれる個人の歴史ドラマでしかない。
そこで描かれているのはどこにでもよくいるようないい加減男トレンカーなのだが、当時の反ユダヤ主義やファシズムのイデオロギーからは一線を隔していて、自身の撮る映画の登場人物やスタッフ、それどころかユダヤ人の協力でハリウッド進出も試みるなど、当然のことながらベルリンから睨まれるのである。
その辺りこそが、
レ二・リーフェンシュタールの上昇志向の対照として描かれていて、いい加減男の本望である。もちろん適当にその迷路をすり抜けるフットワークの軽さも帰来の人間像として描かれ ― 同郷のラインホルト・メスナーなどとも共通する生活力でもある ―、そこから
エヴァ・ブラウン偽日記事件の真相に迫る。要するにそうしたことをやらかす人間の典型として描かれているのである。よって、彼自身の作品におけるティロルの独立などを描いた映画においても、それほど精査しなければいけないインテリクチュアルな思考が働いているのではなくて、所詮工業高等学校で学んだ技術屋でしかないことも示されている。
同時に、それは
ベルリンでのオリムピック映画の制作をトレンカーから譲られたリーフェンシュタールのその仕事ぶりの背景やその思考をそこに映し出す形となっていて、寧ろ観衆の興味はそちらへと向かうかもしれない。しかし、この映画の本当の主役は、年老いた感じで描かれているアーノルト・ファンク博士でもなくて、
ゲッベルス博士であろう。
宣伝相ゲッベルスを描いたものは数多くあるが、ここでのその仕事ぶりはとても興味深い。要するにナチの権力闘争の中でも異色の存在として、只の強権の脅しやスカシだけではなくて、各々の世界で活躍する錚々たる著名人を最終的に思いのままに操りプロパガンダの道具とする手練手管を操る人物として描かれている。
なるほど、これを見ると、
指揮者フルトヴェングラーがゲッベルス博士に拍手する場面のヴィデオ映像における両者の表情などが理解できるようになるのだ。文化活動の深くまで立ち入りつつ、それを重要な宣伝媒体として国民に影響を及ぼすための高度に専門的な仕事であり、プロレタリア独裁におけるリアリズムイデオロギーの科学的な文化活動とは大きく異なるナチズムイデオロギーの芸術を用いた情報操作活動なのである。
そして、その申し入れを受け入れないファンク博士は、年々隅に追いやられて行くのだが、この映画の最後にテロップとして「1940年にはそうした状況を脱却すべくナチ党員になる試みをした」とあり、更に「晩年は森林保安官として暮らした」とある。こららの事実はどこにも書かれていない。戦後再びフライブルクに居を移して再出発を目指すが、その映画のプロジェクトには支援者が見つからなかったことから実現せずに、生活に困りながらじり貧の晩年を送っている。
この映画の前に、トレンカー監督の自作となった「
山は呼ぶ」を観た。ウィンパーの有名な
マッターホルン初登頂を素材にしたドラマである。監督本人にとっても既に演じていた役柄で、英国人ウィンパーに敗れたイタリア人カレルを中心に描いている。監督本人が出演した同名の映画があまりにドラマ化されてしまっていたために制作を思いついたとある ― この背景には当時のファンク博士が歩まなければいけなかったサイレントからトーキーへの劇場仕掛けの映画への傾向があるに違いない。
映画自体は、イタリアにおけるナショナリズムを批判的に描いていて、ウィンパーとの友情を軸においている。この点ではトレンカーはコスモポリタンな考えを持っていて、何よりも南ティロルの環境においてそうした個性が育まれていたことは間違いないようだ ― 決してあのあたりのドイツ語圏の風土がそうしたものとはいえないのだが、一種の生活の知恵というかイデオロギーなどとはあまり違うところでの谷の生活があることを忘れてはならない。
そこで再びゲッベルス博士が気になる。あの当時の第三帝国の情報操作やその遣り口を知れば知るほど、現在の日本で行われている情報統制の方法が ― これに関しては個人的には日本を脱出するときには米国の情報操作として昭和の時代から認識していたが ―、もはやナチスのその域に達していることを思い知らされた。そしてそれに今でも気が付かないだろう日本人を沢山知っている。フクシマ禍で完全に騙されたままでいる人々が少なくないことを知っているからで、とても危険な状態にあるのだ。
参照:
ナイフエッジ、真実は何処? 2015-11-26 | アウトドーア・環境
制御される雪煙の映像 2009-08-24 | アウトドーア・環境
映画監督アーノルド・ファンク 2004-11-23 | 文化一般
維新への建前と本音の諦観 2015-11-21 | 歴史・時事
【映画】 ルイス・トレンカーの伝記映画公開 (月山で2時間もたない男とはつきあうな!)
放送局が権力による違法な介入を蹴飛ばせない理由/砂川浩慶氏(立教大学社会学部准教授) (videonewscom)