その点、現監督のネゼセガンは知的程度も高いようでコミュニケーション能力にも秀でている。なんといっても指揮技術的には優れているので、成長が期待される。反面それだけに目立ちがたりであるのは指揮者の本性で、その指揮に批判が集まるのはその点である。技能的にはギリシャ人のカラヤン二世の方が高いのかもしれないが、フィラデルフィアでのつまらない録音も楽団のためと言うならば理解されよう。そして今回のようなプログラミング作りは、その能力の一つとして十分に誠実さを窺がわせ、舞台捌きも決して悪くはないどころか、広い聴衆に訴えかける力も有している。プロテストについて一言付け加えた前夜に続いての同曲のアンコール「愛の挨拶」までのプログラミングもである。
Yannick Discusses The Philadelphia Orchestra's 2018 Tour of Europe and Israel
今回のイスラエル建国70年ツアーに際して、その抗議活動も含めて、やはりこの活動に注目したい。まさしくコメントされたように、今回のツアー実施への裏表をも全て含めての決断への「尊重」である。この点では、生誕年と言うだけでなく、そのバーンスタインの交響曲「不安の時代」の演奏が先ずは火曜日にエルブフィルハーモニーから一時間時差で生放送される ― 既にフィラデルフィアからは放送されている。この指揮者の音楽的な実力もその限界もある程度は把握出来たと思うが、彼自身が語っているようにバーンスタインは指揮者としての手本となっていて、その点でもこれはこの指揮者の知的な芸術活動に期待するところでもあるのだ ― 至らないまでもその活動は北アメリカからの一つの指標とはなるのではなかろうか。
The Philadelphia Orchestra's 2018 Tour of Europe and Israel preview
休憩後の二曲目は新曲のオルガン協奏曲だったが、これはフィルハーモニーのオルガンも聞けて良かった。そして管が各々にそこに絡む訳であるから、もう一つのプログラム曲「ドンファン」よりも管弦楽団のショーウィンドーとして熟慮されている。編成も大きく、その管の繋がりだけで一聴に値した。またオルガンのポール・ヤコブのペダルテクニックも見ものだった。
2018 Tour of Europe and Israel: Rehearsal Clip from Brussels
さて愈々三曲目のシューマンの交響曲四番であるが、そのままの大編成で、既に書いたようにプリンシパルの奏者などが出て来るのだから、そのサウンド自体にも初めから期待させた。放送であったように大編成でありながら室内楽的なアンサムブルを目指していて、管と弦もとてもよくコントロールされている。まさしく指揮者の腕なのだが、それは上のザヴァリッシュ指揮の録音で全く出来ていないことが可能となっている面で ― メゾフォルテと呼ばれたその指揮者でもとどのつまりカラヤン世代であることを思い起こさせるに十分な脂ぎったサウンドで嫌気がさす。ムーティの方が遥かにおしゃれだろう、しかし日曜日に放送されたラヴェル編曲「展覧会の絵」をネゼサガン指揮で聞くと、現在シカゴとフィラデルフィアではどちらが音楽的に機能的かは明白で、シカゴが苦戦している ― だからキリル・ペトレンコを尊重したのだが、フルトヴェングラーと同じようにベルリンには負けたのである。同時に終楽章では編成に見合うだけに十分なダイナミックスを準備しているのだから、シューマンの交響曲らしからぬ熱さもある。それでも例えばロスフィルのような金管が響く訳ではなく、なるほど欧州の趣味ではそれほど熱い支持は得られないかもしれないが、十分に会場は湧いた。勿論シューマン解釈へである以上に管弦楽への絶賛がその拍手にもよく表れていた。その意味ではより洗練されたクリーヴランドよりは湧きやすいかもしれない。
Rimsky-Korsakov: Scheherazade Op35 - The Tale of the Kalandar Prince
そこからすると一曲目のブラームスの協奏曲では、前日ブルッセルでは「フリーパレスティナ」の抗議行動で演奏を中断・再開しており、この日も指揮者登場前にフィルハーモニー支配人が一言述べたように、聴衆も演奏者も一寸した高揚と緊迫感があった。ネゼセガンに期待される正確な読みと指揮技術はその通りだったが、若干ピアノをマスキングしてしまうぐらいな音量を出していたのは残念だった。メムバーもプリンシパルが若干落ちた編成で演奏していて、音量コントロールが儘ならなかったとも思われない。少なくともグレモーのあのピアノにはもう少し丁寧に合わせてもよいと思った。言うならばそこがこのメトの次期監督が、キリル・ペトレンコ指揮の「ばらの騎士」のカーネギー会場で習わなければいけないと指摘されるところだろう。もう一つ危惧していた二楽章などでの合わせ方は、これはよく辛抱していたと思う。三楽章はピアノもコントラストが付いていたのでとてもうまく運んだ。違う会場で、合わせものを演奏する難しさもあったかもしれない。つまりネゼセガンがそこまでコントロール出来ないのか、若しくはペトレンコのブラームスの様にそこまで合わせようとしないのかの疑問は指揮者に向けられるもので、管弦楽団の技術的な問題とはまた異なる。(続く)
Carnegie Hall Live Recap: Kirill Petrenko and the Bavarian State Orchestra
それに引き換え、ヘッセンの放送管弦楽団でシュミットの四番を振るヤルヴィのヴィデオも観たが、あの弱体の管弦楽団がアルテオパーで充分なプレゼンスで演奏しているのに驚いた。近くにいても、精々ダルムシュタットでべルント・アロイス・ツィンマーマン演奏会などでしか聞いていないが、その放送局の規模に見合った予算の中で、合弁されたザールブリュッケンのそれに毛が生えた程度の楽団である。だからあの難しい曲を中々聞かせるパーヴォ・ヤルヴィの実力に脱帽した。少なくともヤンソンスよりも偉くなるのは間違いないと思う。
Schmidt: 4. Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Paavo Järvi
内容に関しては想像するしかないのだが、重要な枠組みとして、オペレッタ自体を上演してそれをお客さんが娯楽とする以上に、初演当時制作された映画を撮る形でもう一つ枠を広げることで、舞台上で描かれる世界が逆に純粋な芝居となっているようだ。この方法は劇中劇の目眩まし効果よりも、例えば科白を殆ど切ってしまうような方法で、更にその音楽創作の直截な効果を浮かび上がらせる効果になっている様。
Franz Lehár: DIE LUSTIGE WITWE