映画「ナンガ・パルバット」を観た。新聞評が今一つだったので期待していなかったのだが、大変素晴らしい作品であった。その評価の違いにこそ本質があるに違いない。先ずは観劇後の感想を手短に纏めると次のようになる。
ドロミテの風景から始まり、ナンガパルバットの巨大な壁とパキスタンのディアミール谷の風景に感嘆するのみであった。そこに散りばめられたドラマは、読書では些か物足りないティロルの山の人の生活感や家庭、そして共同体が程よく肉付けされる。そこに映し出される社会が有名人メスナーのそれであろうとなかろうと、それはどうでも良いのである。我々はそこにリアリティーを感じればこの社会ドラマは既に成功している。そしてそれを取り囲む環境は偽り無く我々の視線で映し出されている。
その社会ドラマには遠征隊の隊長である医者の
ヘアリックコッファー博士が素晴らしく描かれている。それは、その役を演じた
カール・マルコヴィッチス(人気シリーズ・コミッサー・レックスで御馴染み)の迫真の名演技も光るが、この山に七回も遠征を率いて、伝説的ソロ登山家ヘルマン・ブールの初登頂を含め、また実の半弟の死なども含めて、1934年から24人もの犠牲者を出した執拗なドイツ隊の「社会心理」がそこに結集しているからである。新聞が語るように白鯨アーブ船長 ― 予告トレーラーにあった映画こそが反捕鯨を掲げたそれであり、調査捕鯨を隠れ蓑とする日本の商業捕鯨の無様さを見せつける ― と比較される戦いのミトースをこの役が体現する。
そして、1970年当時の登山界の状況は、多くはティロルの山で撮影された本格的登山シーンの装備などに忠実に描かれていて、これはいつぞやの「ノルトヴァント」と称したドイツ製ハリウッドパロディー映画とは甚だ異なる。そのリアリズムの核心を行くドラマ表現として、アポロ計画で使われたメタルのビヴァークシートやザレワの12本爪アイゼン、フィンランド製の毛の手袋、ウッドの引っ張り登攀に使うピッケル、カラビナ、登山靴、スパッツ、アルミ製アブミ、ミレーのサックなど、我々が当時愛用していた装備そのものによるシュタイクアイゼンを履いた登攀風景は、決して強調される事はなく真実の当時の登山風景そのものなのである。
「ヒマラヤの雪の原を歩くことには興味がない」と当時の我々が皆唱えていたそのものが、丁度ドロミテでスポーツクライミングを切り拓いていたメスナーの著書「第七級」のその気質こそが、大スクリーンに映し出される大自然に強く投影されている。そして、初めて経験する七千メートルを越えて始まる死の世界への登攀となってクライマックスを迎える。
さてここで映画館から帰ってきてから初めて、軽く流し読みしてあったFAZの批評記事をじっくりと再び読み返す。読み進むうちに殆ど怒りを覚えたのだが、最初に宣言した通り冷静にこの核心を突くためにも、その怒りを抑えて読み続ける。見解の違いというのはどのような批評にも当然なのだがこの違和感からの反発こそがここで書き明かしたかった主題である。
記者は書く、「一体メスナー氏はドラマそれも映画というファンタジーの世界でどのような真実を語ろうとしたのだろうか、理解できない」と。一体この記者は、メスナー氏本人のアドヴァイスによって制作された劇場映画に ど の よ う な 真 実 を嗅ぎ取ろうとしたのだろうか?ラインホルト・メスナーの生い立ちをその自著よりも一層冷徹に描き、記者の言う「人生ドラマにしたゆえに失われる真実」とは何だろう。控えめでありながら殆ど台詞のない母親のその表情に、教会の神父や、父親との何の変哲もない何処にでもあるアルプスでの生活感に、この二人の兄弟の社会と環境を見てはいけないのか。脚色であろうがなかろうが、それはどうでもよい!
墓場の塀の壁を攀じる二人の子供の姿を、頂上の絶頂で見てはいけないのだろうか?弟の無事の帰宅を兄に約束させた母親の表情に二人の兄弟の関係をひっそりと暗示してはいけないのか?父親の表情や態度を隊長のカールに重ね合わされてはいけないのか?
70歳を越える監督
フィルスマイヤーは、そのような事をまるでお子様に語るようにハリウッド映画がそうするようには一切説明をしない。なぜならば、メスナー自身もヘアリックコッファー博士自身もそのような事は説明していないからである。しかし、監督は全ての社会を、環境を大自然の中に写し込もうとしている。
現地での撮影が無駄に終わったと言うが、あのアイガー北壁を三つも重ねた規模のルッパール壁を、そして巨大な雪原が流れ落ちるディアミールの渓谷を航空撮影して ― そこの谷の生活にアフガンゲリラたちのそれを重ね合わすかも知れない、そしてアルプスの谷の生活との相似をそこに見つけて愕然とする ― 、ベースキャンプを描いて、ドロミテの山々とかわらないほど画面に描ききった映像は、一時たりとも息をもつかせなかった。この映画を見て退屈する者は、「作りもの」を見ておけば良い。現実は彼らの陳腐で安物の想像を越えたところから始っている。それは丁度海抜7000メートルを越えた領域と同じようにである。
シュピーゲル誌には、当時遠征隊に参加していて、前進キャンプで最後に行方不明になった弟ギュウンターと最後の夜を過ごし、喉を痛めて下山した隊員の生き残りにインタヴューしている。彼は言う、「メスナーサイドには意見を聞いて、此方サイドには事情聴取しに来ていない」と。そして、「素晴らしい映像もあったが、現地ロケした割にはあまりに少な過ぎる」と、しかし、「メスナーの故郷の風景はこの映画の最高の場面だ」と。
ラインホルト・メスナーは、成功者でありメディアの覇者である ― だからこそこの映画では慎重に英雄化が避けられている。だから、より発言力のない者にインタヴューを求めて、それを質す姿勢はジャーナリズムの機能の一つかも知れない。しかし、このドラマ映画を観て、そのような事を突っ込むのは全く検討外れである。なぜそうなるのか?
日本の朝日新聞の一つの御手本である左右対決時の社会派シュピーゲル誌がそれをこうして取り上げるのは仕方ないのだが、ドイツの最高級紙FAZの文化欄でこのような頓珍漢な批評がされるのは、所謂TVを含む映像文化というものに責任があるように思われる。結局、あまりにもホリウッドの娯楽化が商業映画の中心となって仕舞った為に、映像で描き出すべき本質に迫れなくなっている事情がそこにあるに違いない。
未だに、映画はニュース映画か、娯楽映画しか商業映画劇場には掛からないのだろう。映像表現や音響効果を駆使して描かれるべきものは、本当に劇場空間で演じられる芝居以下のものでしかないだろうか?文学作品にも劇場にも、普遍的な真実と思わせるものが存在するからこそ我々はそこに大切なものを確認するのである。しかし、映画にはそれが前提となっていないようだ。
私達は、四十年も前に「死の領域」で起こった事実を追体験などする必要などないのである。私達は、その事件に、こうした冒険に、そうした営みに、なにかを見出すことが出来ればそれで事足りる。ドラマには真実が存在してこそ初めて、スクリーンを抜け出して、劇場の空間を突き破って初めて社会に環境に様々に作用する。
その意味から、この映像作品は第一級の映像芸術であり、最高の山岳映画の一つに間違いない。少なくともアルピニズムが文化・社会的にどのようなものであったかは、この映画を観れば理解出来る筈だ。そして、本当の表現はDVD再生して家庭で観てはいけないのである。ドルビーサラウンドと大画面の表現を家庭で体験するなどというのは只の娯楽でしかない。
映画館では、ニューヨークからのメトロポリタン歌劇場のライヴヴューがシリーズで催されているようである。それはまさに、オペラ劇上演というものが、エンターティメントでしかないことを如実に表している現象に他ならない。
今日に生きていない者は真実に触れることなどは叶わないのである。環境とは、ただそこにエゴがあるだけなのである。
参照:
Gespenster am Weißen Wal, Freddy Langer, FAZ vom 16.01.2010
Das ist nicht die Wahrheit, Spiegel-Online vom 17.01.2010
HP "Nanga Parbat"
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