さてもう少し時間があればドヴォルジャークの七番交響曲を調べたいが、何処まで時間があるだろうか。バーデンバーデンの祝祭劇場のネット配信には前半のベアヴァルトの交響曲のガイダンスがアップロードされている。四度の動機の扱いも然ることながら、三楽章の心のざわめきのような管弦楽法などに言及されていて、まさしく私が指摘した素朴の中の聴き所なのだ。そしてまず聞いてみなければというのも全く私と同じだ。という事はコンサート前に七番のお話しか?
Franz Berwald Sinfonie singulière C-Dur - Klassik in drei Minuten
こうして日曜日の公演のことを具体的に頭に描くと興奮して来た。仕事が手に付かなくなる。それでも楽譜を見て行く時間も無いので、先ずは木曜日のベアヴァルトの交響曲を開いた。思っていたよりもへんてこな交響曲だった。60回も指揮しているブロムシュテットはシューマンとは違うと比較しているが、あの如何にも素人臭い綴り方はブルックナーとシューベルトの間のようでもあるが、しかしその素朴の中に耳を傾けるものもある。これはどうも生演奏を聴かなければ始まらない。後半のドヴォルジャークの方はバーデンバーデンのYouTubeに既にガイダンスが流れていた。ブラームスが珍しく賞賛していた作曲家であり、その三楽章の旋回の動機を扱っていて、そのブラームスの三番にもあるそれは糸を紡ぐの歯車ということだ。勿論動機をそのメカニックな動きと対置することは良いのだが、そこには和声のシステムがあることを無視してしまえない。この辺りが造形美術の分析と異なる音響の物理現象だ。
Antonín Dvořák Sinfonie Nr. 7 d-Moll op. 70 - Klassik in drei Minuten
(承前)トーンハレマーグについて書いておかなければいけない。特にその設置環境である。これは如何にもスイスらしさもあるかもしれない。なるほどドイツにおいても嘗ての駅舎や工場跡などは新ホール開設などの時にはどこでもまず候補に挙がる。それほど空間も余っており、土地も有効利用されていない場合が多いからである。そのような中でもスイスの場合はそもそも市場も小さいので会場も小振りである。だから駅舎などでも新しい芸術のメッカとなっている場合が少なくない。それ以外にもそうした想像に係るようなアトリエなどが多くの工業団地の空きスペースに入っていることも少なくない。スイスの工場などは一部の例外を除くと小さいからである。
Tonhalle-Orchester Zürich in Zürich-West
このハーグのトーンハレは2020年の改装までの借り住まいなのも特徴的である。本来のトーンハレの方は銀行街にも近い湖畔の市街地区にあって世界一の音楽会場とも言われているが、私自身は用事があって楽屋口からしか会場に入っていないので、何が素晴らしいのかは知らない。音響は悪くはないが、開場の1895年当時の底に重いような鈍った響きが特徴だ。だからジムメン指揮の録音など聞く気もしないのである。但し楽屋は指揮者室も含めて惨憺たるもので、如何にもスイスにある埃被った古い建造物でしかなかった。恐らく、会場だけでなく、バックステージを補強するのは当然だろう。まともな指揮者は来ない。という事で若杉なども一時いたようだが、短期間で皆交代していた。
Einblicke in die Tonhalle in Zürich
なんといってもこの会場は今一番評判のいい会場でエルブのように初期修正する必要も無く、ズルヒャー湖畔トーンハレが改修されれば解体が決まっている。そして既にシナからは解体したそのままの買い付けオファーが出ている。それを知った指揮者ヴェルサー・メストは「これは百年に一回の幸運で、解体などあり得ない」とその会場の価値を表現している。実際1200席しかないのでどの管弦楽団が弾いても贅沢で、更に音が飽和しない。一人頭の容量が充分にあると見える。
TONHALLE MAAG l KLANGKUNST
最初に入った時に何人かの楽員が思い思いに音出しをしていたので、色々な場所から聞かせて貰った。小さな割には癖が無く、なにか上等の音楽室を大きくした感じだ。左右の壁を傾斜させているだけで、それほどの特徴は無いシューボックス型で、天井の反射板を含めて全てがモミの木だからIKEA素材ホールと言われている。それどころか外壁も同じだから、鉄筋に板を張り付けたような構造だ。それが視覚だけでなくとても素直な音になっている。簡単に説明すると空いた工場の中にプレハブで中に巨大な音楽室のホールを造ったようなものだ。つまり雨漏りなどの外壁処理はIKEA素材に必要ない。それでも一番交通の多いストップアンドゴーを繰り返すハルトブリュッケの脇にあるが、意外に騒音を感じなかった。なぜだろう。
Tonhalle Maag in 7 Monaten in 4 Minuten
もう一つのブルックナーの第七交響曲はチェリビダッケ指揮ミュンヘンの交響楽団の東京公演を二楽章まで観た。この指揮者は立派な演奏をすることがあるがこれは自身が他者を罵っていたように己がペテン師丸出しの演奏だ。大体後年のミュンヘン時代は評価はそれほど高くは無く、政治的に利用され、それに乗って丸々と豚になってガールフレンドと楽しくやっていたと聞く。まさしくそのような演奏で、交響楽団も二流だが、東京の聴衆がバカにされているようなものだ。あの静的なリズム運びは認めるとしても、あれでは全体像が一向に浮かび上がらず、交響曲の演奏ではありえない。精々「展覧会の絵」位を振っておけばよい指揮芸術である。
Bruckner Symphony No 7 Celibidache Münchner Philharmoniker Live Tokyo 18 Oct 1990