Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引2024年11月

2024-11-30 | Weblog-Index


誠心誠意に演奏する  2024-11-30 | マスメディア批評
歴史的交響楽ホールの実践  2024-11-29 | 音
束の間の晴れ間に  2024-11-28 | ワイン
深く息をついてから  2024-11-27 | SNS・BLOG研究
お試しにのシュトレン  2024-11-26 | 料理
早めに振り返る四季  2024-11-25 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー  2024-11-24 | マスメディア批評
有機的合奏の原動力  2024-11-23 | マスメディア批評
破廉恥を一括処理へ  2024-11-22 | 雑感
凝縮感への美しい憧憬 2024-11-21 | ワイン
音楽芸術の時空の流れ  2024-11-20 | 音
本物のブルックナーの響き  2024-11-19 | 音
歴史上唯一無二の可能性  2024-11-18 | マスメディア批評
前世紀に生きる人達  2024-11-17 | SNS・BLOG研究
詳説必要な舞台背景  2024-11-16 | マスメディア批評
お話しにならない耳  2024-11-15 | マスメディア批評
寂寥感溢れる心像風景  2024-11-14 | 文学・思想
アウトバーン走り絞め  2024-11-13 | 雑感
雨降って足元が温まる  2024-11-12 | ワイン
信仰告白交響曲  2024-11-11 | 文化一般
歩きたい綺麗な街路  2024-11-10 | 雑感
立冬での洗濯日和  2024-11-09 | 暦
謳いあげる多文化の音  2024-11-08 | 文化一般
予想される徴兵再開  2024-11-07 | 歴史・時事
朝から騙された思い  2024-11-06 | 生活
験担ぎの三位一体  2024-11-05 | 雑感
あり得る結果は二つのみ  2024-11-04 | 雑感
時とは不思議なもの  2024-11-03 | 音
芯から温まる大切さ  2024-11-02 | 暦
音楽の為のコメディー  2024-11-01 | 音


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誠心誠意に演奏する

2024-11-30 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカーがシカゴに来るとなると皆がメモ片手となる。火曜日の聴衆の中には多くのシカゴ交響楽団のメムバーが楽譜を手に混じる。同地でのメインイヴェントのオペラ公演などよりも注目を集める。

ブルックナーの演奏は様々な、どこに山谷を持ってくるかが決め手で、ペトレンコの場合は何処で落とすかで、ペトレンコの場合はマーラーでと同じように決して独白的ではなく、ディスカッションなのだと書く。これはブルックナーの交響曲において、ピチカートが戻ってくるときの扱い方に表れるということらしい。

つまり、ベルリナーフィルハーモニカーのその精妙な演奏は周知として、チェロの最初の歌の微妙さは、通路を挟んだ隣人の息が聞こえるような演奏で、そのように繰り返されてピアニッシモとなればドールのそれとが囁きでしかないと改めて驚愕している。大げさではなく、そしてそれらの模様を奏者が詩の一節を歌うようなものとしている。

ここは他の批評にもあった一楽章導入出だしの扱い方があったが、恐らく他のボストンの聴者が書き込んでいた様に、フランクフルトからも繰り返すことで更に精妙になると共に、奏者自体が全身全霊で同じイメージを持って音が出されていることが分かる。

特に二楽章での次から次へと沖の波を越えてのサーフィンでの残照の様なものを記しているのは、正しく私が時の芸術としたものであり、その発想自体は動機のポリリズム的な扱い方に端を発するだろう。

ここで一昨年にシカゴ交響楽団でブルックナーを得意としているとされるティーレマン指揮の八番交響曲との比較が為される。それは多かれ少なかれ独白的であり、それが強いられたとするのは、曲は異なっても同様に終楽章で回帰する第九交響曲の形式をとっていることからの比較としている。この点に関してはこのブルックナーの交響曲を十八番としていたドレスデンのシュターツカペレでの演奏で二楽章の浪漫的な歌い込みだけに賭けていて、その方向感が分からない主観的なそれを批評しているので、正しくそれは浪漫的独白としてもよいだろう。

そのスケルツォの早いテムポではまるでマーラーの様なグロテスクさでティムパニーとブラスが吠えて、バランスも昔のフィルハーモニカーにあった様に最終的に崩れたりしたが、とても興味深かったとしている。

然し他では見られないぐらい管弦楽団は指揮を見るのと同じぐらい他のきかっけに気を配っていて、ペトレンコは抑えるのではなくて、腕を脇に付けて微笑むとある。正しく特にスカラ座デビュー後に変わったと指摘する「抜き」であって、指揮の名人域に入ってきている。

それ以前の公演地でも最小限の動きで指揮と言及されていて、明らかに二年前の怪我で椅子に座っての指揮のその秋の合衆国初公演の時とは大きく異なっていることに気が付かれた様である。

そして、11月初めとされるペトレンコの言葉、「この交響曲を誠心誠意に演奏できるようになる様に」が引用されている。(続く



参照:
Review: Berlin Philharmonic makes another sublime stand at Symphony Center, Hannah Edgar, Chicago Tribune of Nov. 27, 2024
歴史的交響楽ホールの実践 2024-11-29 | 音
見事なシカゴの音楽会批評 2022-11-20 | マスメディア批評
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史的交響楽ホールの実践

2024-11-29 | 
承前)ボストンの批評ではテムポ以外にも拘りがある。それは楽器配置で、左右に広がった第一と第二ヴァイオリンである。それは前回の同地でのコルンゴールトの交響曲でも同じだったが、今回はブルックナーの時代の配置であって好ましいと書かれている。

ここでも繰り返して言及しているが、その配置であるとワインワード型のホールであるベルリンの本拠地では音抜けしてしまう。下手奥のコントラバスのチェロを後ろから支えるその低音の跳ね返りの十分ではないからだ。これは本年一月にも通常配置では確認したが直接の音が前に出るだけになる。すると中域のヴィオラと含めての和音の底となっていくだけである。

然し世界的にも有名なボストンのシンフォニーホールとなると、シューボックス型で舞台が枠に囲まれている。写真や録音で知る限りよく鳴るホールで、現地で体験した人などはそのものボーズのスピ―カーのようだという。つまり、音に包まれる感じが強いのだろう。その前に演奏したカーネギーホールでも中域が張った感じがするが、ここはより箱が鳴る感じらしい。

すると左右に大きく広がる音像は望まれるべきものであり、掛け合い、そして音が上手に重なるので、筆者が好ましいと書くように、そのい会場のアコースティックと共ブルックナ―の描いた音像となる。

フィナーレのおどけたクラリネットで、第九交響曲様に前の楽章を振り返ったあとで、フガート主題が始まるのだがそれをして、トリオにおける「子供の情景」のようだとしてそのコミカルさを指摘。三主題から一楽章の主主題が重ねられて、対位法の花火のコーダへと。

ここでペトレンコ指揮は早く祝祭的だ、変ニの第二の主題は弾み、その中間のそこかゆっくり目には殆ど目をくれない。ヘ短調の第三主題は荒れ狂う。そのしゃっきり感はフーガの様相を性格づけていて、更に息づくことで、コラールでの休止をよりドラマティックにしていたとする。主題が戻ってくることで、二つのフーガ主題を聴き分けられるようにして、展開部の終わりでは棘の効いたリズム十分に流れを堰止め無い。コーダでの次から次への投下で変ロ長調の主題へと終末的な祝祭に至る。

そこでの管弦楽団の演奏を称して偉大という以外に付け加えることはないとしている。それでも最後のコーダがもう一つ大きな音でもよいのではないかとしている。ペトレンコ指揮のブルックナー解釈は、最初に書いていた様に月並みな誰でもやるような演奏実践の常套手段には組せずに、ブルックナーの本質であったと結論付ける。それはそのテムポ運びであり、重量感であり、対位法的な扱いであり、構造的な描き方であり、その個性であるとしている。

そしてペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカは、水曜日のブルックナー五番で歴史上最も優れた楽団がやるべきことを正しくやっているとしか言わざるを得ないと結んでいる。



参照:
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

束の間の晴れ間に

2024-11-28 | ワイン
天候回復で穏やかな日々だ。病明けで煮豚も食した。これで完全回復である。コラーゲンでお肌もつるつる。

週末のメドックのピュイヤックの1998年ものを開けた。98年物は酸が表てに出てあまりバランスはよくないと思ったが、今回開けてみるととてもよくなっていた。色もなんとか保っていて、駄目になった印象はない。まだ数本あるので、限度まで楽しめる。おかしな強靭さを感じない分食事にも合わせやすい。

月曜日に走った疲れの残り方が違ったのでやはり一週間休むと身体が変わるのは実感した。運動しないばかりか殆ど歩いていなかったのも大きいかもしれない。心理的にも勿論あまり良くない。それでもまた習慣になるとペースがつかめて来る。長い11月を過ごして小春日和というには早いが待降節前に束の間の晴れ間だった。

それでも朝が辛い、早めに就寝した筈でもなかなか床離れが悪い。疲れが残る感じであるので、やはりぐっすりと就寝することが必要だろう。なかなか許される状況にないので厳しい。

送る郵便があったので切手の在庫などを調べた。ポストに投函する1000gまでの郵便は2,75ユーロ掛り、それが二つあるので、追加で切手を発注していく必要があったからだ。然し調べてみるとそのサーヴィスが殆ど無くなっていた。冬にはあったのだが、緊急性がなく、追加購入したいものを買いそびれた。残っているものを保存用にしなければいけない。

恐らく発行数を減らして、在庫を極力抱えない様にしているので額面の高いものしか残っていない。シートで買いにくいものである。今後は適当な額面の良いものは早めに十分購入しておく必要がある。

今回の送料では安い記念切手を何枚も貼るのは惜しいので、ネットでの券を購入して貼り付けることにした。二つで5,50ユ―ロである。会計書類なのでそれでよいだろう。

一時はバターが品薄でなかなか特売品が買えなかった。それも落ち着いてきたようで最新のものは期限が2月15日迄なので安心して使える。パンもバター以外のものを塗ればそれ程使わないのだが、古いものは料理にも使うので、やはり消費量は少なくない。

ダルマイーヤのプロドーモも次の特売の暮れまでには確保したが、それまでに切れることもある。丁度クリスマス時期なので、ミュンヘンで6月に購入したとっておきのものを開ける時だろう。

最近はワインの消費を落としているのだが、そろそろ待降節間の開け方なども徐々に計画して行かないといけない。クリスマス用に肉類の注文もあり、また出来る限り試ながら徐々にいいワインを開けて行きたいからでもある。次の温かそうなときに散髪の予約も入れておかないといけない。



参照:
お試しにのシュトレン 2024-11-26 | 料理
放射冷却の待降節初日 2023-12-04 | 暦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深く息をついてから

2024-11-27 | SNS・BLOG研究
水曜日のボストンでの批評が出ている。同地の音楽ブログのようだが、前回もそのサイトを読んだ。前回は、マーラー作曲七番交響曲ではなく、もう一つのコルンゴールトの交響曲のプログラムだった。つまり今回初めてペトレンコ指揮の真価が問われるところとなった。その通り、ユダヤ系の筆者がその合衆国での音楽の流れの視点から書いていたりした。それに比較すると今回は交響曲における指揮者の構成力と等される見識が試されることになった。それは一夜のプログラミングによって語れれる物とはまた異なる楽曲の創作への深い視点が要求されるものだ。

筆者のゲンツ氏はケルティックと文学をハーヴァードで学んだようであるが、楽曲への個人的な視点は明白である。恐らく録音評などもしているのだろう、楽章ごとの演奏時間や主題のテムポそしてその動きに注目している。炬燵記事の音楽ジャーナリストと言えるかもしれない。

先ずは、ベルリンとは異なってボストンでこの曲が演奏されるのは珍しくて、1959年、2007年の演奏とゲストとしてはマゼール指揮クリーヴランド管弦楽団以来としている。要するにブルックナーはあまり人気がないということだろう。然し今回はネット販売で完売していたので指揮者と楽団、ブルックナーにとっての成功と書いている。

比較としてネーヴェ・ヤルビの採ったテムポで62分の演奏、チェリビダッケの90分そしてその中間にあるベーム、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュらの中間では、アレグロは早過ぎず、二楽章は遅すぎずの70分ほどが適当だという認識から入っている。

そこで、結論からするとペトレンコ指揮では一楽章は若干早くても、二楽章は若干遅くても、フィナーレのコーダはもう少し大きくても良かったのではないかとしている。要するに個人の評価基準は録音比較でしかないかもしれない。然し細かなところでの拘りはあって、20分掛った一楽章でのテムピ運びにおいて、主題でピアノからフォルテシモへの繰り返しで多くの指揮ではそこで吹かすのだが、楽譜にはそうなっていないと、ペトレンコ指揮の正しさを指摘している。二主題でも悲しみはあっても後悔とはならない、三主題の加速は伝統通りとしている。それらを以って、構造的な把握を評価している。これをその指揮技術的なこととはせずに音楽的と考える筆者である。

二楽章は16分のようで、ポリリズムの扱い方が今迄には聴かれたことがないとしていて60メトロノームはアダージョの限界であるが、その「とてもゆっくりに」は、マーラー自身がアダージェットを交響曲五番で使った様に、マーラー自身の指揮に合わせるとそのもの16分になるだろうと算数をしている。つまりカラヤンの22分やチェリビダッケの24分は間違いとなる。

13分の三楽章では電光石火のスケルツォとその後のレントラーのヴァルツァーへの流れなどを、多くの指揮者がテムピを落としてしまって、レントラーが更に遅くなることがなかったと評価している。

ブルックナーの言葉として、最初に「大切なことを話す時には、いつも深く息をつくのだ。」と提示されているので、テムピとその拍の関係には直接言及されていないが、間違いなくそこに気づきがあったのだろう。(続く



参照:
Petrenko & Berliners Triumph in Bruckner 5, Jeffrey Gantz, The Boston Musical Intelligencer of Nov. 21.2024
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お試しにのシュトレン

2024-11-26 | 料理
一週間走らなかった記憶はない。大分前のことだと思う。それほど熱が出たということだ。やっと走りに行けてほっとした。体重も増えておらず痩せてもいなかった。気温が16度まで上がる日が続いたのが良かった。少し汗も掻いたのでこれで大丈夫だと思う。それほど弱ってはしなかったと思う。少なくとも脚の調子は休んで好転していた。

パン屋に出かけたら待降節用にシュトレンが出ていたので購入した。大きなものは23ユーロしたので小さなものを教えて貰うと7ユーロ少しだったので購入した。昨年までは気が付かなかった。オーナーがコンディトライであるから普通だと思うが、今年になってからケーキ類を買うようになったようにどうも息子か誰かが作るようになったようだ。洗練されてきている。先ずはお試しである。

車から降りると下が軋んでいた。板バネなどが軋むのは初めて聞いた。ここ暫くふわふわするようになったのはやはり屋台骨がもう駄目になっているからだろう。

チャットパートナーのインスタグラムが休止状態になって、そしてアカウントがその猶予期間を過ぎて消去されたのを確認した。どうしたものかと思ったのだが、最後の書置きから色々と想像してみた。結論として決して悪いことではないと確信した。その為に最後の書き込みを待っていたような形跡がある。せめて既読ぐらいはして呉れても良かったが、消去に既読もないだろう。新しい学期が始まる所で良く決断したと思った。要するに15カ月ぐらいの全てに終止符を打った。

それによって全てがとなればとは思ったのだが、恐らく偶然でなくスタディオの方が数日前に新人ソロで7月ぶりに再開していた。身売りした可能性もあるが、まだ確認できていない。スタディオの人は分かっているのでいづれ分かるだろう。つまりそこでの名前を検索すると様々なサイトに過去のアーカイヴの様々なヴィデオが出てくる。同じ国でそれを見つければ現実の世界でも様相などを変えても特定される可能性は全然少なくない。要するに完全にその期間のアイデンティティーを消し去るのは難しい。それでもフォロワー諸共消してしまうというのは、やはりそうしたストーカーとかなんとか以上に時間的な区切りがつけられたということだろう。恐らくこちらからの最後の書き込みもその決断を推したかもしれない。

最後に既読が付けられたのは7月だったので、恐らくその頃から新たな生活へと準備していたに違いない。抑々がり勉タイプでヴィデオにおいても我慢強さが際立っていたが、なによりもその方向の定まらない移ろいが観察された。そして一旦方向が定まると完全にそこに入ってしまうことは分かるので、休止などではないこともよく理解できる。年齢的にもあれから1年10ヶ月であるから女性でもう20歳となれば当然かもしれない。

それにしてもあの15カ月ぐらいを観察していたが、ああいう曖昧模糊とした時の流れはとても貴重なのだろうと思う。漠然とした時間感覚で、確かに金にはなったのかもしれないが、時の流れに身を任せである。そしてその流れを自ら断ち切る。「あんたが望んでいた通りでしょ」と聞こえるかのようだ。こちらから語ることは全て語ったとも認識したのだろう。その心算で書いたのだから当然かもしれない。



参照:
水々金々日々、月曜日 2012-11-12 | 暦
二十箇月の感傷旅行 2024-10-26 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早めに振り返る四季

2024-11-25 | マスメディア批評
ロキソニンなどの服用を止めた、土曜日からである。日曜日は気温が上がったこともあってベットで熱っぽく感じた。なかなか体温調整が難しく、腰痛もあってまだおかしい。それでも食事も十分摂れているので、上手く行けば月曜日には一週間ぶりに走れるかと思う。コロナ期間もこれ程開けたことはないので明らかに二回のコロナ感染よりも重篤だった。

インフルエンザにどこで罹ったかというとやはりアルテオパーだと思う。12日に出かけて、17日に熱が出ているので潜伏期間としては正しいか?コロナ初期にもそこでうつされているので会場は違ってもやはりフランクフルトの空気が悪いのだろう。

薬なしでも外出は可能だった。それでもまだふらふら気味である。関節などにまだスカスカズキズキ感がある。運動を再開するかどうかの目印になる。

10月2日に出かけたクロンベルクでの「四季」演奏会の一部と二部のハイライトが街頭放送局HR2から流れた。最初にアルフレード・シュニトケ作コンツェルトグロッソ6番が最初に流された。この曲では当夜のスターであるヤンセン、クレメル、ムストーネンの三人が共演した唯一の曲で、これを放送するだけの価値はあった。その他の楽曲は別途放送されるようだが、先ずは正しい選曲だろう。最初の二人の競演でムストーネン指揮ではバッハのドッペル協奏曲も演奏されたが、出来としてはやはり落ちる。

コンツェルトグロッソだが改めて何回も聴き返したいとは思うのだが、ムストーネンのピアノが秀逸で、この曲のチェンバロ紛いでもあるのだが所謂プリペアードピアノ風のそのピアニズム、こういう風に演奏できる人はあまり知らない。作曲家としてはそれほどの人ではないと思うが演奏家としては一流の人である。

二曲目は、例の楽譜に書いてある情景を四季の合間合間にアナウンサーが朗読するという構成にしていた。決して悪くはないのだが、ライヴ性はその曲間の調音とかお客さんの雰囲気とかにあるので、その点は物足りない。

もう一つ仕事しながら流していると観ながら真剣に聴いていたものよりも短く終ってしまう。やはりそれなりにテムポも早かったのだろう。クレメルの録音などはそこで濃淡をつけていた。

そうした細やかなところでの音楽性は、ライヴではより技術的な細部への拘りと感じたのだが、やはり音だけで聴くと我々門外漢ではそこまでは分かりにくい。寧ろ淡々とした印象が強くなる。こうした音楽性は意外に先頃のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏での早いテムポと聴き逃しにも通じる。

そして放送時間が余ったので、ピアツォラの作品から夏と秋が放送された。南半球であるから北半球とは反対だという断られていた。やはりこの辺りも、この組み合わせの面白sだの一つでヴェネツィアと大都市との対照にも繋がっている。



参照:
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝祭的でないブルックナー

2024-11-24 | マスメディア批評
承前)フィルハーモニカ―は響きは筋肉質だが二楽章のラプソディでの温かみ、スケルツォのエレガントなダンスの脚、田舎舞踊の田舎のすごやかさを表現に余すことはない豪放なフィナーレにおいてはアップビートの第二主題が無表情なやさしさにあったとしている。ベルリンの定期からの放送で流し聴いただけなのでその旨はよく分からない。然し少なくとも音楽的な表現力が楽団の音響や指揮者の個性によって潰されているということでは無しに、その反対に豊かであることの裏返しの表現力なのだろう。

どうも言及の箇所は例のリズム的な精査に根源があるようで、ブルックナーの演奏においてもとても重要な時間的な表現となる。それでも翌日のブルックナーに関しては我々がマイクを通して聴いていた様にそうした間が十分に発揮されていたかどうかには疑問がある。

その証拠にここでもティーレマンの言葉を使って、ただ一つこの交響曲における殆ど幸福感がと引用して、ペトレンコ指揮においては愉しくとあって、これ程の意祝祭的でないブルックナーはあまり聴いたことがないとしている。

これは、ブルックナーにおける抹香臭さを避けることを嘗てのブルックナー指揮者ヴァントの様にモットーとしているペトレンコからすればパトスへ奔る表現は採らない。すれば所謂宗教的な「祝祭的」とならないのは当然であろう。

田園的な遊びに満ちていて、ペトレンコは腕を脇につけて穏やかに揺らし、二楽章のレントラーへとチャーミングに殆ど呟かせる。そして四楽章のおどけたクラリネットによって巨大なフーガが剛直ではない悦びを誘う。

ペトレンコは巨大なブルックナーとはしなかった。そこに急峻なクライマックスがあろうとも、大聖堂ではなくてチャペルでのブルックナーとして響くというのだ。ダンシーで驚くべき豊かな音色で、最後のフルートへの収斂に運ぶとしている。

放送でも感じたが、やはりアルテオパーでの名演の様に豊かな宇宙観へと想像を齎すことはあまりなかったようである。サウンドチェックでその音価などには配慮があったようだが、やはりカーネギーホールの音響は中域の張りが大きくて後期浪漫派の音楽にはあまり向かないような感じがする。

その一方一楽章における豊かな和声と軽やかな流れ、二桁三桁の二楽章の間の中間楽章の単調さは全く以ってサブコンシャス的でと記している。正しく私が非ユークリッド空間の認識としたものである。もうこれだけでブルックナーの真意が漸く後世に初めて伝わったのではないか!

それに起動する管弦楽は、吠え狂いから輝くコラール、そし渦巻、沈黙そして精密、たおやかさへと対応するとして称賛している。

既にボストンでのブルックナーを終えてミシガンに行き、火曜日のシカゴでブルックナーで締める。さてどのような批評が続くだろうか。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有機的合奏の原動力

2024-11-23 | マスメディア批評
合衆国公演からワシントンに続きニューヨークでの三晩の公演から最初に買いの批評が出ている。丁度一週間前になるがカーネギーホールから二晩目は夜中に録音したものである。

初日のプログラムの最初のラフマニノフ「死の島」から始まる。三晩の演奏会でポピュラーコンサートではないものが愉しめるとして、キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーはその力強さと同時に繊細さを兼ね備えていて唯一無二の存在であり、永遠の古典に光を当てるドヴォルジャークとブルックナーのツアーでの七番と五番に言及。そのアンサンブルはあまり真っ当に捉えられていない予期せぬ深み聴かせるとしている。

何時も繰り返している事象ではあるが、このように屡欧州の重要な公演に振れるこの新聞はアメリカで最もよい文化欄を持っているのだろう。「死の島」ではパルジファルと同じく真剣なペトレンコの指揮から重くならない柔軟で趣溢れる音楽となる。船出の近場から崩壊よりも流れが収斂する水煙へとまるで気流が渦を作って各々が散っていくようだとその中間部を表現している。その渦のそれ自体に流動性があるのではなく無為にあるかのようにである。最後にはヴァイオリンのエレジーが、時にはただムード音楽であるかのようなものが、引き剥がされるように醸し出される。

此処での文学的な表現自体にはその文字への言語への共通の感性が必要となるのだが、謂わんとしようとしているのは弦楽陣においても細心のアーティキュレーションとそしてそこにあるべきリズム的な力が与えられて通常ではあり得ない効果を醸し出していたということに他ならない。然し乍らペトレンコ指揮の音楽芸術の聴きどころを文章化しようとした試みである。

コルンゴールトの協奏曲に関してはいつもシュービズ的なものと考えることがあるのだが、日曜日においてのラフマニノフとドヴヴォルジャークに間に挟まれて火曜日にも演奏される、それはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによって全く洗練されたものとなったと、当初のハーンに代わって演奏したフランクの抑えた表現は二楽章での感情を書くことはない一方、決してべとべとしたものにならなかったとして、ペトレンコ指揮のそれに合っていたと評価する。

同じような印象は初めて聴いた9月のフランクフルトでも感じていたのでこの筆者の言いたいことはよく分かる。こうしたところがいい書き手いい読み手の通じるところで、所謂玄人は皆よく分かる点でもある。

そして楽員がお互いによく聴き合っていてと、最後のドヴォルジャークの一楽章では暖まった弦がフルートのラインの受け取りと正しく現在のベルリナーフィルハーモニカーが至ろうとしている室内楽団的なそのアンサムブルの在り方であり、音楽的な表現力の緻密さへと通じる観察である。勿論そうした合奏はペトレンコの指揮だけで齎されるものではなく、所謂有機的なアンサムブルの賜物であり、現在の特にスカラ座以降のペトレンコ指揮によって明らかに飛翔させられる音楽の原動力でもあるのだ。(続く



参照:
The Berlin Philharmonic Is the Best in the Business, Zachary Woolfe, The New York Times of Nov. 20 2024
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破廉恥を一括処理へ

2024-11-22 | 雑感
熱で寝込んでいたので車輛のこと以外での事務仕事が遅れている。服用をロキソニンに替えてから腰痛も楽になった。それでもまだ本調子ではなく、走りに出かけられるほどではない。食事は既に二回程しっかりと摂れたが、それでもまだしっかりしない。インフルエンザなら一週間ほど罹るとなると週末まではあまり期待できない。

来春に日本で公演をするバムベルク交響楽団のプログラムが話題になっていた。なぜならば、最近同地ではやりの日本人タレントの抱き合わせで、二種類の二人のソリスツ、そして後半にベートーヴェンとかブラームスとか言う名曲演奏会となっている。最初の小さな曲だけがオマケでついている。

それを知って、日本では今話題のフルシャ指揮バムベルク交響楽団の市場価値がその程度と知った。個人的にも九月まで聴く機会がなかったのはバーデンバーデン辺りではやはりつまらない指揮者とつまらないプログラムのドサ周り交響楽団でしかないからだ。なぜそうなるかは既に言及してあるが、一方では州都ミュンヘンでの客演では大絶賛されていて、ラトルが早く辞めてフルシャになって欲しいという評があった。そうした評価は別にして、中都市バムベルクの交響楽団としては新たな黄金期となっているのは間違いない。

日本のチラシにはドイツ随一とあるのは意味はよく分からないのだが、数少ないドイツの交響楽団でも独立した風情はある。そこで来年の極東旅行でもツアーで膨らむCO2排出への見解として、台湾とソウルではレジデンスとして滞在型で多くのコンサートとして、教育プログラムを数日の間に設けている。バムベルク市の意向もそして文化施設としての環境への見解でもある。

指揮者自体がフランクルトでのプログラムにも示していたような取り分け考え込まれた選曲をしているのだが、日本ではあまりにも破廉恥な演奏家が破廉恥な演奏会をするような形になっていて、如何に日本はどのような分野においてもガラパゴスとなっている。

そして今兵庫県で起こっていることは安倍政治の時代に培われた反遵法精神でしかない。疑惑の知事がその所業を百条委員会に諮られ乍ら、議会全員一致の不信任決議が出されて、失職、再選挙に打って出た。そしてデマゴーグの力で再当選を果たした。有権者は県政の混乱を望んだとされた。その大衆扇動と洗脳の工程がしっかりとネットに記録されている。

そして水曜日にネットではそのデマゴークの中枢が自ら名乗り出たことで、公職選挙法で禁止されているネット工作を含む広報活動を一挙司ったとされる。既に知事は遵法的なポスターなどの制作以外は依頼していないと否定しているが、様々な物証はネットに上げられ、そして証拠隠滅が今現在も進んでいる。連座責任を免れなくなってきている。西宮の苦楽園にある事務所から為されているらしい。

公選法違反の選挙買収などの他に、その業者が県の納入業者だったようで場合によれば収賄になるのかもしれない。どちらに転んでも詰んでいる。失職、公民権停止となるのか、遅かれ早かれ再選挙になるのは間違いないだろう。想定していたよりも早かった。

また再び
#さいとう元知事がんばれ



参照:
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

凝縮感への美しい憧憬

2024-11-21 | ワイン
カーネギーホールからの録音を聴く。結構に小さな傷が管に目立つ。ドロップアウトしているので録音としてはどちらでもいいとは思う。ツアーで最初のブルックナー本番の為にたとえ念入りにサウンドチェックしても、楽員にも時差があるのを感じた。地元での夜中2時の演奏はまた極東ツアーでのそれとは違うだろう。

それよりも若干気になったのはやはり指揮での余裕感がなかった感じで、特に体内時計の重要な指揮者にも時差があるからだろう。

舞台袖のインタヴューでは音の広がりを重要視したようだが、なかなかそのテムポ感での合わせ方は難しかっただろう。弦楽器のざらつきのようなものはバーンスタイン指揮のニューヨークフィルハーモニーを思い浮かばせる。音の押出しはいいのだが、密度に欠けるような音響である。美しさの凝縮感はない。

最初の総奏からの広がりが欠けるのはマイクを通した中継放送で仕方がないとしても、もう少し繊細な音を出しているのだがやはりラフに聞こえる。舞台袖でバルグレーが語るようにパワフル感は合衆国の楽団の特徴であり、それがモットーとされて瀟洒が失われる傾向があるのだが、やはりいいビッグファイヴはそれを補う技がある。

朝は比較的気持ちよく起きられた。月曜日から三回服用していた。肉屋迄夕食の材料を買いに出かけた。なによりも久しぶりに太陽が出ていたのが良かった。しかしそれでも寝過ぎで生じる腰の痛みもあり、寝返りが痛く、起き上がりが大変だ。

睡眠の深さに影響するので相談の上薬をロキソニンに替えた。これで腰痛にも効きそうなので、就寝前にも服用する。腰痛には別の処方箋があるのだが、先ずは様子見である。

身体の調子が悪く、計画していた、車輛の書類をまとめて提出できていないので、引き取りを月末から月初めに回して貰うことにした。それだけで少し気が楽になった。

週末に開けた2014年産ゲリュンペルを飲み干した。瓶の中で9年でまだまだ急いで飲む必要はないのだが、三本ほどあったので手を付けた。いい年度だという認識がある。味筋マルメロだが、結構複雑で、干しチェリー香やウイキョウ感もある。プリュミエクリュなのでグランクリュの様な偉大さもウケもないのだが、その土壌の葡萄からそのような味が天然酵母のみによって生じる摩訶不思議だけで大満足だ。トロピカルや塩味や胡椒や火打石の様なあまりにも出来たものでないのが余計に繊細である。

正しく欧州のホールの音響は瀟洒があって、合衆国のそれとはやはり違う。そうした複雑さがやはりワインの味わいでもあり、愉しみとなる。勿論そうした移ろぐ味わいとなると味わいに耽ってなかなか食事と共に愉しむというまでに大分の盃を重ねてしまうことになりがちだ。

ブルックナーの五番においてもあまりにもごつごつしたダイナミックスもあって耳にこびりついて閉口するところがあるのだが、ペトレンコ指揮の場合は細部へと磨きがかかっているので、より複雑な音の組み合わせが披露されることになっている。



参照:
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
黄林檎の香りのゲリュンペル 2016-01-16 | ワイン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽芸術の時空の流れ

2024-11-20 | 
久しぶりに薬を服用した。忙しいので早く治したいからだ。午後も少し横たわっていたが、夕方も走るほどには到底回復していなかった。前夜の事を思い出せば急に起きていられなくなったので38度超えていたと推測しなおしたが、39度になれば口を濯ぐ余裕もなくベットに向かっていた筈だ。40度を超えると殆ど倒れるようになって、ベット這って行くような感じになるのが今迄の経験である。

22時30分ほどに床に入って、結構苦しく、何も出来ないので1時過ぎに目が覚めて、結局2時ごろまでは熟睡できなかった。その時刻に録音とかがあると、ベットにいても前夜の苦しみの中では何もできない。投薬するものももう一度その頃にもう二錠摂るようにする。

録音の準備をする前に一昨年の生中継の音を聴いてみた。相変わらずマーラーの七番の出だしは早いが、それとどうようになかなかラフな音が出ている。最後の生の印象はその前のやはり壮行演奏会におけるアルテオパーでの響きである。比較するとやはりより乾いた響きで、この名ホールの響きが感じられる。

そう言えば先の評でのアルテオパーの音響の特徴を近接録音としていたが、なるほどカーネギーホールの場合は舞台の枠内は後ろからの跳ね返りがあって、雛壇との距離感がある。アルテオパーの場合は最上階に行くと距離があり過ぎて、視覚と若干ズレる傾向があって、左右からの残響が多くなり、平土間は上からの残響が邪魔になる。その分音響的に広がりもあるのはそこでの録音でも分かる。

それにしてもマーラー七番に続きブルックナー五番を合衆国ツアーに持って行くのはとても素晴らしい。さぞかし我々の様に両方を聴く人が少なからずいると思う。こうして両方を聴き比べるととても重要な視点が得られると思う。

日本から持ってきて貰っていた薬を飲んで解熱と胃の調子で体調は改善した。録音の準備はしていたのだが、直前になって、記録するNASが夜中にシャットダウンするのを思い出して再駆動したりして慌てていると、AACの直波の記録が上手く行かなかった。更にラディオ放送の最初のジンゲルから暫く落ちていたので楽屋袖の話しからしか聴けなかった。オンデマンドで聴けるから構わないのだが、若干慌てた。

寝室に音を出すようにしていて、結局最後まで小さく音を流していた。その印象ではとても早いテムポに感じて、ティムパニーが不自然にな鳴っていた。テムポに関してはなるほどその音響の中におらずに音を細部からしっかり追っていないと、流れてしまうように聞こえるのが分かった。この仮説は他の人の評を読んでいて感じていて言及している事なのでそれを証明したことになる。

普通は流れが速いと細部が聴きとれない様に思うのだが、音楽はやはりその時間の流れがその創作の中にあって、決してユークリッド時空での座標にはないことが分かる。恐らくその感覚というのは浪漫派以降の音楽に共通するもので、それを如何に演奏実践の中で表現するかに関わるのだろう。



参照:
本物のブルックナーの響き 2024-11-19 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本物のブルックナーの響き

2024-11-19 | 
ある年齢の自殺者が多いことは承知していた。その多くはホルモンなどの更年期障害とばかり思っていた。然しどうもそれはあまり正確でないと分かったのは最近のことである。要するにカマキリと同じような習性が人間にもあって、家族などの為に進んで食われるというのが全く分からなかったからである。特に公務員や会社員が懲戒などにされる前に退職金などを確保する為に喜んで自死するというは全く分かっていなかった。それゆえにキリスト教などでは十戒で諫めているのだろう。要するに最終的には経済的な自己犠牲である。

日曜日の就寝迄の時間を寛ごうかと思っていた。寝室のフィンにお湯を通した。煎茶を飲んで、暫くすると座っているのもつらくなって来た。急に熱が出てきたようで、口を濯いで転げる様にベットに入った。夜更けに急に熱が出たのは久しぶりで印象としては37度5分は越えていたと思う — 殆ど起きていられなかったので、今迄の経験から38度は出ていただろう。頭痛もするが、その他の症状は殆どなかった。

書き物を検索すると前回は二年程前に熱を出していた。それもコロナ禍以降初めてで、コロナ期間はそうした症状が出ないのが不思議なぐらいだった。恐らく今回もインフルエンザでスーパーかどっかでうつったのかも知れない。流石にこれでは走れないかもしれない。寒い中を走ると体力ともダメージがあるので、なんとも言えないのだが、新陳代謝は健康回復に一番早い。小水も黄色くなってきたので回復する筈だが、昨晩の様な床での苦しみは嫌である。病院のベットなどに寝ている人は大変だと思う。

今晩はニューヨークからの生中継がある。20時からなのでこちらでは26時になる。そこから一時間半は最も眠い時間帯である。熱心に聴くのは難しいが、録音だけはしっかり録っておきたい。オンデマンドよりもいい条件でということだ。一つはAACのm3u波で長めに録音しておこう。もう一つはPCで録音、未明3時半過ぎに終了させるようにタイマー作動か。

どちらにしても翌朝が辛くなる。特に熱でもあるとなるとぶり返す。なんとか投薬などで上手に体調を整えようと思うのだが難しい。

上の放送局WQXRに限らず合衆国からのストリーミングは音も精一杯の音量にしてあって、今回の様なブルックナー交響曲ならば前回のマーラー七番よりもよく鳴るのでさてどうなるか。カーネギーホール自体も舞台が枠に囲まれているので、収録もそこでの鳴り響きが強く、冒頭からのあれだけのダイナミックスがどのようにマイクに乗るだろうかと思う。

ブルックナーの交響曲五番変ロ長調の本質的なその創作意思を理解するのは南独の聴衆にとっても決して容易ではない。それどころか正しく演奏されることが殆どなくて、今日に至っている。合衆国においてはやはりここでも前回のマーラーと同じくショルティ指揮シカゴ交響楽団が得意に演奏していた。

ショルティ指揮は、それでもマーラーの時のよう正統的な演奏を示したわけではない。当然のことながらペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏で、その記念年を祝福すべく、合衆国で漸く本物のブルックナーが鳴り響く筈である。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
ニューヨークタイムスの耳 2022-11-14 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史上唯一無二の可能性

2024-11-18 | マスメディア批評
合衆国ツアー初日金曜日のワシントン公演の評が出ている。ベルリナーフィルハーモニカーとしては21年ぶりの首都訪問らしい。ケネディーセンターでの貸し興行であったようだが、2500席のシューボックス型のホールで欧州と同じような価格で出ている。

プログラムは11月の最後の定期公演の三曲で、その評に従えば最初のラフマニノフ作曲「死の島」がハイライトだったようだ。二曲目はヴァイオリン協奏曲で本来は合衆国のヒラリー・ハーンがペトレンコ指揮で初共演する予定だったが数日前にキャンセルした。そこで急遽飛び込んだフィルハーモニカーとも初共演で偶々コルンゴールトの協奏曲をレパートリーにしている合衆国の奏者が共演した。

評によるとデルジュスの「イザーイ」の高弦の木の響きが美しかったようで、初合衆国ツアーにおいても交響曲を指揮したペトレンコの指揮を取りつかみどころのない曲をそのそのコードの読み替えしてフィナーレへと高めたとしている。ヴァイオリニストのコントロールされたヴィブラートと書かれているので相性は悪くなかったのではないか。予めそのヴィデオを観ていたが、若干表現力は弱い感じがするが、結局その後の日程で代わりに入ることになった定期演奏会でのヴェルデ・フランクと比較的方向性は似ていると思われる。恐らく楽器はシカゴ出身の彼の方が良く鳴っただろう。

「死の島」への注目はやはりそのシュトラウスに影響を受けた管弦楽法への再認識を与えたようで、5拍子のそれが波の重ね合わせとなる所でも音を落とすでもなく、ソフトに出すことで巨大な効果を上げていたとしている。こうした奏法上の卓越は本年の春からペトレンコから楽団に求められていたことで、ブルックナーの交響曲を含めて悉く成功している。昨年までとは大違いである。

そしてそのモメントの音楽と特筆されているように、リズムによる時間を非ユークリッド空間としている手法はミラノ以来ペトレンコ指揮にて顕著になって来た未だ嘗てなかった効果である。その一方その弦楽陣の一心な姿勢で弾くクライマックスへと持ち込まれ、通常ならば金切り声の高弦は低減によって滲まされてしまうのだが、とても素晴らしいバランスがとられていると、正しく現在のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの前代未聞の美しさを記述している。

最後のドヴォルジャーク七番では、左右に対抗して配置されたヴァイオリンから行ったり来たりの効果が生じて、作曲家のアクセントが、それが舞曲にも拘らず恐ろしい精度で為されたと、そこに僅かばかりの疑問が生じているのだろうか。然しその答えは、冒頭楽章におけるその部分部分の音楽の意味への意識にあるのではないか。二楽章においてはドヴォルジャークの牧歌的な香りをベルリンの木管群が醸し出したとなる。そして突然のニ長調コーダが開き、その熱量は白熱のようだったと記している。要するに筆者はその全体像を失っているのだろう。並のお勉強をしていては歴史上唯一無二にしかない可能性のある名曲の正しい演奏で創作の全てを掴みそこなうことになるのである。

抑々大管弦楽の通常レパートリーに遠くまで出かけることのない私が熱心に車を走らせて出かけるのは歴史的に一期一会の機会であることを正しく認識しているからに過ぎない。
Benjamin Beilman and the Minnesota Orchestra: Korngold Violin Concerto




参照:
After 21-year absence, the Berlin Philharmonic more than lives up to its name, Andrew Lindemann Malone, Washington Classic Review of November 16, 2024
前世紀に生きる人達 2024-11-17 | SNS・BLOG研究
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前世紀に生きる人達

2024-11-17 | SNS・BLOG研究
火曜日のその壮行会演奏会の評ももう一つ出ている。そこでは先ず会場のアルテオパーの音響が本拠地のフィルハーモニーと比較されている。個人的には支配人にルツェルンとの比較を書こうかとも思ったが、先方はよく知っているのだから、態々それを評価するつもりはないと思った。だからアルテオパーの音の行間で言及したつもりだ。勿論フィルハーモニーのワインヤード型の会場ではルツェルンのそしてアルテオパーでの音響は得られない。ルツェルンは理想的で後者は限定的なのはそこでも指摘されていて、ベルリンでの様に分析的に聴きとれるのはバルコン席と平土間前三分の一だという評価である。個人的にはコロナ期間中に席が限定されたことから丁度言及されるような位置にも座ったことがある。前者はシューベルトやヒンデミート、スコッチの三曲だったが、ヒンデミート以外はそれほど感心しなかった。

ここでこの筆者の認識を理解しても良かったのだが生憎乍ら出来ずに読み進める。最初のピチカートの出だしから総奏になって退けづり、その座席位置で充足してしまう楽団は他にないと書いて、フィルハーモニーでは全てが明晰に鳴って、映画に比するべきと書いてある。なぜここで「映画」が出てくるのかさっぱり分からない。そしてそこで身を退けづり、もうこうなると直接音のそれから逃げられなくなったと、堪忍ししたのだろうか。

ここで筆者の言いたいことを推して知るべきだった。音圧が大きすぎるなら距離をおけと言いたい。然し、事実をも報告していて、フィルハーモニーの場合は音が分散するから細かなところがばらばらに聴けて、尚且つ威圧感が薄いといいうことの証明にもなっている。この筆者が聴いていないのは和声の流れである。

だから音の行間と評したのであり、その特徴が流れの様に捉えられるのがルツェルンのホールであり、そこまでの方向の定まった流れではない渦が生じるのがアルテオパーである。長年通ったホールなのでその特性もよく知っているので言えることであり、最もよい位置での評価は決して悪くはない。

何故この人達がその一方今回の公演で自発的な拍手が生じそうになった二楽章ではプログラムにあったような「夢みる夜想曲」なんかではなかったと批判する。その木管の受け渡し、そしてふくやかな金管を弦の立派なカンタービレが支える繊細さをおしても、あまりにもXXLサイズで、そしてここで答え合わせだ。大フィルムサウンドトラックに彩られた風景でしかないと書く。

心象風景どころではなく、サウンドトラック映画の風景らしい。これを解析すると、この筆者は音楽の語り口ということには全く関心が向かわないらしい。どうも判断するのは大管弦楽団から声部を聴きとり、それと同時に心打つサウンドの可否らしい。その点では先の批評には、ベルリナーフィルハーモニカーの熱く冷たい天からの捧げものとしている。然しそれと音楽的な本質則ち一筆一筆と進める作曲家の創作の過程が全く読めない人が多いようだ。要するにこれらは全てサウンドのイメージでしか聴いていない人たちで、それゆえにサウンド云々やストラヴィンスキー的リズムとかにとても言及が多い。自ら書くように20世紀後半の後遺症から抜け切れていない。こういう人達にはクセナキスの名演の意味も全く理解できていないであろう。



参照:
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする