Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2015年5月

2015-05-31 | Weblog-Index


桃の味の正体である酵母 2015-05-31 | ワイン TB0,COM2
キーボード付きのカヴァー 2015-05-30 | 雑感
冷徹な分析のための時計 2015-05-29 | テクニック
フェアートレードなあじ 2015-05-28 | 雑感 TB0,COM2
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音 
経済的に降臨するミュンヘン 2015-05-26 | 暦
こうなると付け焼刃の勉強 2015-05-25 | 生活
木樽とその不可欠な効力 2015-05-24 | 試飲百景 
湧き上がるような高揚感 2015-05-23 | 生活
痛みが感じられないこと 2015-05-22 | 雑感
無用な台詞へのその視線 2015-05-21 | 文学・思想
分析必至な破天荒な状態 2015-05-19 | 雑感
活発化への大阪特区構想 2015-05-18 | 歴史・時事
菜食主義者のワイン 2015-05-17 | ワイン
そろそろ飲み納めごろ? 2015-05-16 | ワイン
サマーカットにはしる 2015-05-15 | 生活
除熱が上手くいかない日々 2015-05-14 | アウトドーア・環境
スポーツ眼鏡を受け取る 2015-05-13 | アウトドーア・環境
そもそも条件の悪い環境 2015-05-12 | アウトドーア・環境
全身の疲労感の経験 2015-05-11 | 生活
全く異なる情報処理能力 2015-05-10 | 生活
歴史的分析対象となる思索 2015-05-08 | 歴史・時事
価値判断のありどころ 2015-05-07 | 文化一般
還元法は十五年も前のこと 2015-05-06 | 試飲百景
負の遺産に向き合う姿勢 2015-05-05 | 歴史・時事 TB0,COM2
ザールへ再び味試し 2015-05-03 | 試飲百景 TB0,COM2
燃え尽きそうな味わい 2015-05-02 | 文化一般
ハイテク製品の収集効果 2015-05-01 | テクニック


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桃の味の正体である酵母

2015-05-31 | ワイン
今回ザール地方からミッテルラインにかけて四回の試飲をした。詳細は改めて纏めるとして、やはり試飲は経験値を増すとても重要な作業である。誰と共に試飲しようが、一人で判断するのとは異なるのも重要な勉強になる。

例えば今回は、初めてドイツ屈指のタレント、ギュンター・ヤウフの醸造所で試飲した。それほど期待もしていなかったが、結局2014年産はまだまだ若過ぎることが分かった。それもそのときには分析できなかったのだが、最終日の夜にフェリエーンヴォーヌングでトニ・ヨースト醸造所の2013年ものとこのオルテグラーフェン醸造所のマックを比較試飲しているときに気が付くことがあった。

同行のSAARWEINさんは昨年もこの醸造所を訪れていてそれほど高い評価をしていなかったのだが、それを確かめようと立ち寄ったのだ。勿論資金的な余裕があれば将来の期待できる醸造所であろう。しかし現状では十分な質に至っていない。そこが明確になるようなことがあった。

一つには、ミッテルラインのリースリングに比べるとその土壌に有利さがあって品がよいのだが、反対に雑味というか高級リースリングらしからぬ清潔に欠けるものがあるのだ。これをして、桃の味と指摘されたので、その出所を考えてみた。そうだ、これは酵母臭以外の何ものでもない。白桃のようなこの味覚は酵母である。ヨスト醸造所で先代にそれを指摘すると、きっぱりと今飲むなら2013年産と方向を変えた。そして如何に2013年産の質が高かったかを語った。要するに腐りが多かったので、2014年産は酵母の影響が強かったに違いない。



参照:
木樽とその不可欠な効力 2015-05-24 | 試飲百景
リースリング・ヌーヴォーの夜 2012-12-09 | 試飲百景
専門的見地での市場淘汰 2015-02-26 | 雑感
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キーボード付きのカヴァー

2015-05-30 | 雑感
日本で調達した3つ目のものは、タブレットのキーボード付きカヴァーである。ケースを使っていたのでディズプレー面を傷めることはなかったのだが、キーボードがないとどうしても文字が書きにくい。そこでこれを試している。ブルーティースの接続も悪くはなく、かなり使いやすい。寧ろ問題はケースとしての使い勝手であり、キーボードの痕が画面の保護フィルムに傷として残ることである。要するにカヴァー機能は限定的だ。

タブレットを使うようになってまだ一年経たない。それでも日常欠かせない端末となってしまった。理由は簡単で室内でも持ち歩くことができ、充電能力が高いので、一日に一度だけ夜中にお充電しておけば良い。それで、12時間ほど使えるLenovoのYOGAの蓄電池は素晴らしい。


今回の正規並行輸入商品は、仕上げの仕事ぶりは本体に比べると大分落ちるが、3000円程度の価格としては満足行く機能を持っている。特に、特殊キーなども使いやすく、文字を書く以外の時も使いやすいようになる機能である。これならば旅行にはノートブックは要らない。



参照:
冷徹な分析のための時計 2015-05-29 | テクニック
フェアートレードなあじ 2015-05-28 | 雑感



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冷徹な分析のための時計

2015-05-29 | テクニック
日本で調達したものの二つ目はGPS時計である。ワイン街道にはスポーツ時計のポラーがあるので態々日本でと思うが、米国製の商品は価格に変わりなく、日本の方が商品が多い。為替の変動で少し安いだけだが、選択肢が多い。ナヴィマスターと称する商品で、GPSと心拍測定機能の双方がついていて比較的入手しやすい価格となっていた。高度の表示はGPSで出るのである程度は使えるだろうが、本格的にはPCが無いと使い難いので山での使用は限られるだろう。特に岩壁では役に立たないかもしれない。

それはともあれ何よりも使いたかったのは平素のランニングトレーニングでの分析だ。だから心拍数計測も欲しかったのだ。先ずは沢沿いの道を計測してみた。これは駐車場のところでGPSが捉えられずに半分失敗した。谷が開かれたところで、歩きながら捕捉を試みたら折り返し点近くになって漸く捕捉した。そこで、復路は計測した。予想よりも若干距離が短く出たが、その記録から現実を直視できるので都合がよい。往復で5KMに満たないことは分かっていたが、それ以上に高低差は大きかった。それでも往復路を使っているのでもう少し早く走るべきだ。

さて、二度目は峠登りを試したくなった。そして初めて胸に計測計を巻く。まるでゴムを調整する感じでブラジャーの大きさを都合するようでおかしな気持ちになる。それを巻いてパン屋に行くとなると隠してあるだけに殆ど変装願望のようなものだ。今回は自宅からGPSを捕捉しておいて、抜かりないようにした。心拍系もオンにしておいた。

ハイカーが集まっていうるところを薄着になって走り出す。腰が痛くて調子が悪いが、全て記録にとってあると思うと、悪い面も出すために心拍数が上がるのも参考になるだろう。しかし時計を見ると通過時間などがそれほど悪くは無く、最後のスパートを心拍をあげるチャンスと思ってダッシュする。予想通り19分は割らなかったが、8秒経過ぐらいで最後の走りが効いたようだ。そこからふらふらしながら降りていくと、下にいたハイカーが登ってきた。それをやり過ごして、小用を済ませる。これも記録されているとなんかの参考になると思ったからだ。そして駐車場に返ると殆ど基礎タイムの34分であった。

さて自宅に戻ってログをPCに読み込むと、高度ががたがたになっていて、衛星を三種類も替えて計測されている。理由は分からないが、山陰に入ったので、都合のよい衛星で終えなかったのだろう。どうもそれが原因で高度の記録は大分間違っているようだ。そして肝心の心拍数が全く記録されていなかった。その後室内で試してみると漸く心拍数を掲示するようになった。もう一度試してみなければいけない。やはり胸のバンドは若干強めにしておかないとづりそうで走り難い。この峠のコースも5KMを若干切っているようだが、高度差は正確に測ってみないと分からない。

米国製の商品であるから腕のバンドなどもごつくてあまりしっくり来ないが、常時着用するわけではないのでこれで仕方ないであろう。PCと繋ぐグリップの形状も洗濯鋏みたいだが、場所が限られていたのだろう。あまりにも大陸的な作りである。先ずは機能さえ確り作動してもらえばよい。高度の計測や衛星の選択などもう少し工夫してみなければいけないが、客観的な分析が出来るので大変動機付けになりそうだ。

もう一つ山や大都市などで使ってみたいのはGPSのナヴィゲーションで、先にPCで目標値を設定しておいて、時計にデーターとして保存することでナヴィとして利用できるらしい。早速旅行先などで試してみたい。スマートフォンなどを使っている人がいるがそれよりも利点があるのかどうか?少なくともGPS捕捉状態で12時間の使用は決して悪くないだろう。

最初のGPSの捕捉は屋根の上から手を出してやると直ぐに捉えることができた。南向きの屋根だったからいくつも衛星があれば当然かもしれないが、このあたりも結構使いやすい。しかし、オリジナルの米語の取扱もそれをそのまま訳した日本語のそれもあまり親切とは言いがたい。少なくともHPなどの情報源は必要だろう。なによりももう少し欲しいのは、PCではなくてタブレットで使えるソフトなどの仕様で、有線でなくてもデーターが転送できればと思う。コムパクトカメラでも最も問題となるところではある。それ以外では夏時間と冬時間の切り替えなどが設定されていてもよいだろう。



参照:
良し悪し判定の水先案内 2015-05-04 | 生活
嵐の中での中身の熟成 2012-07-15 | 暦
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フェアートレードなあじ

2015-05-28 | 雑感
日本で調達したリュックサックを受け取った。パタゴニア社の「アッセンションバック」25Lである。これが欲しかったのは、現在使用中のペッツル社のバックが18Lなのでフレンズなどのクライミング道具一式が入らなくなったからだ。勿論水筒などを除けば押し込めるのだが、一部に裂け目が入ってきていて、どうしても大き目のものが必要になってきた。その上は35Lのミレーのものしかないので、それを使い古してしまうのは惜しい。そこでこれに食指が向いた。なによりも350Gとどんなリュックサックよりも自重が小さい。そしてクライミング用になっているので最低のバランスは保証されている。

実際に手にとって感じたのは、その細身で小ぶりな軽さで、本当に25L収納できるのかとの疑惑だった。そして生地の薄さだった。実際に用具一式を詰め込んで、更に水筒やヘルメットなどを乗せれる余裕があった。その通り量感はあるが、軽く、薄くコムパクトだ。昔のカリマーのリュックサックを想起させるが、材質が全く違う。

留め金の調整機能など今までに見たことが無い種類の小さなもので、背負い帯を締める紐やウエストの紐なども取り外せるようになっている。これもはじめてみたシステムだ。それでも背負い帯などは十分なパッドがつけられていて、形状が定まっている。これならばある程度の重量までは問題なく担げそうだ。しかし、あまり重くなると快適ではないということがネットには書いてあり、そうした向きには35L入りを勧めるとある。その他細かな配慮もあるようだが、それは使ってみないとなんとも評価しがたい。しかし2015年モデルカラーの黄色は決して悪くは無かった。

そして何よりも嬉しいのはフィリッピンで生産されていて、フェアートレードが約束されていることだ。これはスポーツ道具などを選択する場合とても重要な商品価値だと認識する。

記憶があるうちに火曜日の試飲をメモしておく。ビュルクリン・ヴォルフ醸造所へお客さんを連れて出かける。短い時間に、グーツリースリングと二種類のオルツリースリング「ルッパーツベルガー」、「ダイデスハイマー」の2014年もの、2013年からオルツリースリングの遅い瓶詰めの「ヴァッヘンハイマー」、PC「ホーヘブルク」、「アルテンブルク」、そして2011年PC「ランゲンモルゲン」、グローセスゲヴェックス「ガイスボェール」、2,010年の「ホーヘンモルゲン」を試飲する。

何よりも驚いたのがヴァッヘンハイマーの熟成で、とてもまろやかなスパイシーさがチャーミングだ。これなら買ってもよいと感じた。大抵は最初の半年で飲み干して飽きが来るのだが、2013年度に関しては2,014年が若すぎる今、一部木樽熟成が長かった遅い瓶詰めのこれが素晴らしい。流石にお客さんも直ぐにこれに飛びついた。そして2011年のランゲンモルゲンの瓶熟成が素晴らしい。飲み頃のようだ。ホーヘンモルゲンは悪くは無いがその価格ならば2013年を薦めた。ガイスボェールはとても薬草風味がよいが、まだまだコリアンダー風味が浮かび上がらず、今から一年以内に飲むならば間違いない2012年物を薦めた。とてもよいフェアーな価格で買い物が出来たと思う。2013年は、ロベルト・ヴァイル醸造所でも同じだが、長持ちするワインならば購入しておくべきである。2001年と2004年の中間ぐらいの良年で、この先長く話題になる年度であろう。



参照:
グラマラスなリュックサックの腰 2011-07-15 | 雑感
そろそろ飲み納めごろ? 2015-05-16 | ワイン
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耳を疑い、目を見張る

2015-05-27 | 
眠気というよりも、目が疲れている。どうも長距離ドライヴの疲れは目から来るようだ。逆にこれだけ走れるようになったのは、良い眼鏡のお陰かもしれない。以前は夜道を走るのが億劫になったときもあったが、最近はまた深夜のアウトバーンを飛ばせるようになった。

さてミュンヘンの初日のオペラ「ルル」新演出のなにから書こうか。結果からするととても価値があった一日旅行だった。あれだけの質のオペラを日常上演可能なオペラ劇場は流石である。最後の付け焼刃の勉強に、行きがけの車の中でザルツブルクでの「ルル」のヴィデオをCDに焼いたものを流していた。ミュンヘンの劇場でもその噂を聴衆から耳にした。とても話題になった上演のようだが、「これではとても」とその音楽を聴いていた。

なるほど台詞やディクラマツィオ―ンに重きをおいた2011年の上演でメディア化されてもいるようだが、音楽的には指揮者のマルク・アルブレヒトの見識を疑わせるものだ。第二・第三幕はCDを焼くときにエラーが出来て聞けなかったが、第一幕の出来で十分だろう。あのような演奏では、ベルクの作曲の真髄どころかその音楽構造が全く浮かび上がらない。このような上演がまかり通っているようでは百年後にもこの楽曲は理解されていないことになる。まだ若い指揮者のようだが、親戚の防衛大臣のおばさんやこうした実力でドイツを代表するのは解せない。なるほどヴィーンの座付き管弦楽団らしきからそれ風の付随音楽を奏でているが、それではどのような技法で書かれていても、同じように劇に付けられているただの音楽となる。そのようなベルクの音楽が二十世紀を代表するオペラであるわけが無い。

そしてアウグスブルクを過ぎて、ミュンヘンの環状にさしかろうかとするときラディオは夕方の生中継の予告を伝えていた。そこで前日の最後のゲネプロのエンディングが流れた。その最後の一声とペトレンコ指揮の管弦楽団の充実した響きに満足した。初演のブーレーズ指揮のパリの座付き管弦楽団からは聞けなかった響きである。そしてその声の強さは何かと思った。これならばザルツブルクのそれのようなことは無い。態々出向いたことが報われる可能性が見えたのだ。

その三幕の構造から見てみる。やはり何よりも間奏曲で変奏される俗謡主題に代表される調性とその音調の利用がこの幕の音楽構造を十分にあらわしている。そこでも複調的な展開があるが、一場における12声部からの複雑性とその収斂との対比でもある。遺作でもあるヴァイオリン協奏曲でのケルンテンの民謡やバッハの引用のそれの扱い方を思い出さずにはいられない。これらは、「白鳥の歌」と勘違いされそうになるが、アイブスの交響曲などの多層性でもありアロイス・ツィンマーマンの「ディ・ゾルダーテン」などに拡大されるものだろう。

その効果はと問われるときに、今回のチェルニアコフ演出はこの一場で、群集つまり社会を ― 第二幕転換点でも男女の番として ― とても明白に示しており、要するに群と個、社会と個人、世界と主観などの関係つまり相克として、この音楽構造を解釈している。多声と調性や、自由と束縛など、様々な二項対立がここでは一括組織化へと動くために、恐らく20世紀初頭の社会学的な認識の発展に呼応するのだ。そこから音楽はカオスへとも進むのが、この一場の多層性であるだろう。そしてそうした多層性が二場のクライマックスへと収束するようになっている。全幕のサイン波構造の中での終結であるから、その構造感は定まっているのであるが、この第三幕における構造感はとても憎い手練手管で、まさしく劇場音楽の天才のなせる業である。

勿論こうなれば画家の歌手が演じる黒人の客がシェーン博士の息子であるアルヴァを撲殺し、シェーン博士の歌手が演じる切り裂きジャックがルルを刺殺するまでの運びは楽曲の分析などなくとも聴衆にその音楽構造を明白にする。そして落ち着くところへと落ち着くのだが、今回の演出ではゲシュヴィッツ令嬢はナイフで刺されて瀕死とはならずに生きるのである ― ドイツへ帰国して女性の権利のために法学を学ぶのである。その音楽も将来へと開かれている。

そうした全体の構造とは異なって、開かれたままのものは第一幕の転換の音楽のまさしくマーラーの交響曲十番そのものの響きであり、少なくともブーレーズの指揮ではこれほど充実した音楽は奏でられてはおらず、ここでは第三幕でのそれとの連関において甚だしい効果をあげていた。そしてそれがシェーン博士とルルのソナタへと、まさしくこのオペラ作品の核となるソナタの対峙構造へと導かれることになるのだが、特筆すべきは十二音技法的な扱いの中での低弦や低音の管楽器のバスの鳴らせ方の明白さであり、多声の対位法的な扱いとしてもとても秀逸であった。

反面、今回のそれではそこへと導かれる画家とルルのカノンから医療顧問官の死への音楽の流れの歩みは、スピード感を落としそれほど音楽的な強調が無かった割には、演出と相俟って ― ややもすると間男を見つけた旦那の心臓麻痺の一件が芝居がかって見えるところなのだが ―、とてもよい一連の流れの中で展開されていて、明らかに転換音楽へとそれが流れ込んでいる。アルバン・ベルクの劇場感覚と管弦楽法の非凡さこうしたところにも顕著となる。

画家の自殺を受けて、三場の劇場楽屋でのシェーン博士とルルの対峙のガヴォットのソナタは音楽的にも全曲中最も充実した箇所であり、ここにおける声部の扱い方こそが、このオペラの音楽的な解釈の全てではないだろうか?ブーレーズ指揮の録音でももう一つ不満であったところを、バイエルンの座付き管弦楽団は可也健闘していて、大変充実した音楽を体験できた。そして第二幕一場でのシェーン博士の暴力から反対に射殺されるまでの流れも演出としてとても上出来であった。

そうした管弦楽の充実は、全体の転換点となる第二幕一場から二場への転換の音楽にも聞かれるのだが、それに続くルルの登場とその歌い始めまでの準備、そしてそのときの音楽の精細さには圧倒される。この表現も特筆すべきもので、ブーレーズの表現では若干隔靴掻痒といえる箇所であったが、今回はとても合点が行った管弦楽表現だった。そもそもピエール・ブーレーズの指揮はよく批判されたようにあまりにもテムポが早い部分があって、その管弦楽団のサウンドの移り行きは鮮やかになるのだが、音楽表現の肝心なところをあまり聞き取らせないことも少なくなかったのである。

歌手陣では、タイトルロールのマルリス・ペーターソンに喝采が集まっていたが、シェーン博士を歌ったボー・スコーフスに初めて感心した。氏が余興の時に擦れ違ったりしたことがあるが初めてその歌唱に接して、とても正確に的を押さえて歌っているのがよく分かり、若いときから名声が高かったのも頷けた。その他、ゲシュヴィッツ令嬢のダニエラ・シンドラームなどなかなか立派な歌謡陣でドイツ指折りの劇場であるだけのことはある。こうした高品質の上演がされるのも公的な援助があるからで、今回の舞台も決して芝居的にも大人のものとしても隣の芝居小屋に負けないほどの充実したものであった。

アルバン・ベルクの「ルル」三幕完成版が、西欧のオペラ芸術が到達した一つの頂点であったことは、漸くこれだけの時が経ってはっきりと確信できるに至ったのである。大芸術はなかなかそう簡単には社会に定着しないということであろうか。

Kirill Petrenko conducts the final scene from LULU


参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
二十世紀前半の音楽効果 2013-11-28 | 音
こうなると付け焼刃の勉強 2015-05-25 | 生活
経済的に降臨するミュンヘン 2015-05-26 | 暦
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経済的に降臨するミュンヘン

2015-05-26 | 
聖霊降臨祭間の動きを記録しておかなければいけない。可也忙しかったからである。そして疲れた。土曜日に一っ走りしてから身体を休めて、日曜の11時前にはミュンヘンへと向かった。18時のオペラに間に合うようにである。360KMほどしか離れていないので、頑張って走れば3時間で移動可能だが、目的はオペラ観戦であり走ることではなく、帰りに眠くなるような事は避けなければいけなかった。

そこで、休暇の最終日であるから逆方向への渋滞は予想されたが、案の定シュトッツガルトかカールツルーヘはお昼前に渋滞していた。ミュンヘン方向へは二三箇所滞ったらことはあったがストップアンドゴーは全く無かった。途中バイエルンに入ってから持参のパンを頬張り、おもむろのミュンヘンに入った。祭日でトラックが一台も走っていないので、巡航速度を守ることが可能だった、時間に余裕があるので出来る限り燃料消費を減らすことに精を出して、片道で35Lも消費していなかった。燃費100KM7.3Lほど間に落としたからだ。つまり、満タン70Lの半分も消費していないということは、往復給油無しで移動できるということだった。これは経済的に興味深い。

ミュンヘンの北側からオリムピック公園やらBMWの本社を通り過ぎてホーフガルテンに差し掛かったときに電話が入った。日本からのお客さんがフランクフルトに到着したのである。とんだ勘違いをしていて、お客さんを迎えることは出来なかったのだが、オペラ終了後に折り返しで待ち合わせすることにしたのであった。

早めに地下ガレージに入れて、劇場入り口の下に停めた。このお陰で幕間に全く問題なく車に帰って、残りのサンドイッチを頬張ることが可能となった。なにも倹約するつもりは無かったのだが、町はダルマイールをはじめ軒並み閉店していて、観光の町ミュンヘンといえどもいかにもドイツらしく商売っ気が無い。パリとは大違いである。

それでも劇場周辺の山用具シュスターやボーグナー本店、お茶のアイレス、百貨店ベックなどのショーウィンドーを覘いて、マンハイムやフランクフルトとは違う都会の空気に触れたのである。そして劇場の近くに腰を下ろしてノンアルコールビールを飲む。最初の休憩ではコーヒーを飲み、二度目には車で軽食、そして10時過ぎまでのカーテンコールを終えて、駐車料金の支払いの列にならんでいると、車を動かしたのは22時15分を過ぎていた。地下でも電話は繋がったようだが、ワイン街道で待っているお客さんから電話が掛かったのは丁度車を出そうとしているときであった。

来た道を忠実に戻ろうとしてが若干遠回り気味にアウトバーンまで戻り、にわか雨のアウグスブルクを過ぎると、ある程度燃料も、帰宅時刻も定まった。火曜日明朝1時40分ということで、帰宅途中若干眠くなるところはあったが比較的無難に戻ってきた。嘗てはミュンヘンから自宅まで2時間40分で飛ばしたことがあるが、現在の速度規制からすれば殆ど不可能である。それでも帰宅してもまだ燃料が7lほど残っていたのには感激した。帰りは可也アクセルを踏んだが、ミュンヘンからしたらやはりくだりになるのだろう。ミュンヘン往復を安く出来れば、ミュンヘンが経済的に近くなる。決して走行時間だけではないのである。

90年代のジェラール・モルティーエー時代にはザルツブルクに通ったものだが、あの当時の一日1000km走破の意欲も気力も失せて久しい。実際に、730km走破してお客さんと飲んで、四時間後に起きると流石に眠かった。そうした生活に慣れていないのと、あの当時にように無理をしなくなくなったのである。



参照:
靴が汚れるだけのコロニー 2015-02-21 | 生活
パンチの効いた破壊力 2015-03-08 | 文化一般
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こうなると付け焼刃の勉強

2015-05-25 | 生活
「ルル」の三幕は、はめこ構造の中で、どんどんと逆行していくのだが、その中で調性の強調がシュールリアリズムな効果を上げている。初めてじっくりとパリ初演のVIDEOを観た。生演奏のためが管弦楽が可也がたがたになっている。流石にLPの方はテークを録ってあるのでそこまでは不満は無かった。

三幕の楽譜を探しているうちに、結局全曲のフルスコアーを落としてしまった。こうなるとこれで一通り目を通さなければ気がすまなくなった。ピアノ版に比べるとオーケストレーションされているので風通しはよくなるが、やはり情報量は格段に増えた。

第一幕でルルの主題と対照的なガヴォットはプチブリュジョワを描くようだが、それは画家との単純なカノンからシェーン博士の主題として引き継がれ、二場のコーダでの最初のクライマックスを迎える、そして更に崩れた三場のラグタイムを挟んでイングリッシュヴァルツァーへと広がり、ガヴォットが手紙の主題となって、シェーン博士とルルの性的対峙へと進む構造は、もはや知能判を超えた天才的な劇場感覚としかいいようが無い構成である。

上のパリ上演では例のフィルムの挿入場所でプロテクターも使っていなかった。当時の技術だから仕方が無いのかもしれないが、事情はそこまで手が回らなかったのだろうか。全曲の転回点となるとても大切な場所であるから殆ど無策となっていたのには驚いた。

刑務所から脱獄したルルの弱り方が筋書き通りながら、全体の構造の中で異質に思えたので、余計に音楽構造を探ることになる。勿論劇場効果的には、その後のアルヴァとの対峙へのクライマックスと最後の勝利を強調するためには当然なながらの運びには違いないが、もう一つ音楽的な構造が読めなかった。

正直、三幕に関しては楽譜が無ければ、これほどの書法だとは見抜けなくて、遺作のヴァイオリン協奏曲との関連での和声的なコントラスト以上には十分に気がつかなかったのだ。ここまで書き込まれている作品だとは知らなかった。

夏休みの宿題を八月の最終週に泣きながら片付けるような付け焼刃の勉強になってしまったが、マーラーの第六交響曲のように音符が頭に焼きつかないとしてもそれは仕方が無いだろう。多声的でなかなか複雑なところが少なくない。



参照:
湧き上がるような高揚感 2015-05-23 | 生活
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
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木樽とその不可欠な効力

2015-05-24 | 試飲百景
試飲会は面白かった。ロベルト・ヴァイル醸造所に着いたのは16時を超えていてパン以外は口にすることが出来なかった。忙しかったので仕方が無い。本来の計画ならば正午に出かけて早めに帰宅して、ミュンヘン行きに備えるつもりだったのだ。結局日にちを間違えていて、その分色々と仕事をしているうちに遅くなった。それでも春の試飲会は新鮮なリースリングで、グローセスゲヴェックスなどの仮注文に備える目的だから、それでよいのだ。口に食事している場合ではない。

改めて醸造所のコンセプトを確認した。木樽が導入されてから、一部には清潔度が落ちたという批判があることをぶつけてみると、なるほど100%のグローセスゲヴェックスとラーゲンヴァインの50%では2011年からそれによって変化していることは確認された。要するに複雑性が増したことであるのだが、瓶熟成を知らない人々には何のことか分からないのは当然のことだろう。

ドイツ一番の技術力と品質と評価されながらもそれ以前のグローセスゲヴェックスの瓶熟成の無さは、ダイデスハイムの昔の名前のバッサーマン・ヨルダンのそれと双璧であった。要するに90年代のシュヴァルツ親方の成果を受け継いだ醸造親方の優等生的な解決法でしかなかったのだ。我々は、木樽の利点と欠点をそれ以前の出来で身体に沁み込ませているので、ステンレスの醸造だけが品質でないことは認識していたのだ。

そして瓶熟成が必要となるグローセスゲヴェックスの時代になって漸くその利点が不可欠なものとなったのである。なるほどヴァイルのグレーフェンベルクは2007年産でも未だに新鮮だ。今回試飲した2006年産のシュペートレーゼの甘口も決して悪くは無かった。要するに長持ちはしても、成長しないワインだった。

それが木樽で大変革したのだが、その味筋はより複雑になった。そしてその判断はより難しくなった。例えば、2004年産キードリッヒのヴィラージュは酵母味が残っており、気になる人はとても買えない。昨年とは全く違うのは、葡萄が違うからで、昨年ほどの健康は得られていない。そして、プリユミエクリュのクロスターベルクは、一般受けしていたが、石灰の丸みが飲み易くさせていたに過ぎない。リースリング愛飲家ならば手を出さないリースリングである。

そしてテュルムベルクは酸が可也激しい。しかし、これはグレーフェンベルクをある程度期待させるに十分であった。そして木樽こそ、複雑さと瓶熟成を約束するものである。「木樽は丁度シャブリのようにクリーミーさを添える」とする見解はとても優れていると思うが、決してフーダーのような小さな樽の味付けをしているのではないことが肝要である。大きな樽でゆったりと呼吸させることが瓶熟成の基本である。醸造の可也の裏話を聞いてしまったが、2011年以降のグローセスゲヴェックスはとても将来性が豊かになったことだけは確信する。

今回持ち帰ったのは結局グーツリースリングで木樽は一切使っていない。もしこれで雑味があるとしたならば、葡萄が腐っていただけに過ぎない。少々残糖を多めにして飲みやすくしてある。もしこれで不満ならば、同じ価格帯のレープホルツ醸造所のオェコノミラートを買うべきだ。帰宅して、昨日開けたヴァッヘンハイマー・リースリングを比べると決して悪くは無いのである。とても苦味が先行しているようで現時点では若過ぎで推薦できないと思ったリースリングに違いが無いのではあるが。その意味からすると、拘りのミュラー・カトワールの2014年産は秀逸だ。注目されるに違いない。



参照:
還元法は十五年も前のこと 2015-05-06 | 試飲百景
根腐りしているような市場 2015-04-19 | ワイン
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湧き上がるような高揚感

2015-05-23 | 生活
肩の調子が悪くても、とても忙しいので合間を縫って一っ走りする。峠へと20分3250歩は低調で、週初めの疲れがまだ抜けていない感じである。新しい靴ではじめて走ったが、土踏まずが押されてしっくりこない。それでも足のグリップが素晴らしく、爪先の曲がるところが先寄りになる感じが明白で、速く走らせようとするのがよい。地面とのずれがない分、必ずこれで記録が出る筈だ。下りも足のパワーが必要になるが、以前のような腰や膝に負担が掛かる感じが無くなり、踏みしめる感じが強くてこれもよい。もう少し大事に使いたい。

急に忙しくなった原因は、月曜日のミュンヘンの初日が日曜日と勘違いしていて、いろいろと計画を微調整しなければならなくなったことである。そしてもう一月がついたのは、全く作曲家ツェルハの名が見つからなかったHPに三幕と明記されていて、どうも従来の二幕版ではなく補完版が上演されるようなのだ。これは正直驚いた。普通ならば補完完成者の名前とその旨が大きく示されていい筈なのだが、どうもウニバーザル出版社はこの三幕版を標準としてしまっているのかもしれない。1990年代にザルツブルクで体験したのは未完版であったので、いよいよこれではじめて補完版に接することになる。

そうなるとDLしていたヴォーカルスコアにはそれが無い。ルル組曲のフルスコアーをダウンロードして調べ始めたのだが、三幕の下調べはこれ以上は出来そうにも無い。代わりにブーレーズ指揮の補完版LPとそのシェロー演出の初演のVIDEOでお勉強する必要が出てきた。てっきり二幕版だと高を括っていたので少し疎かにしていたからだ。それでも生まれた一日の猶予は大きく、じっくりと時間を費やせる。それにしても、思ってもみなかった幻の三幕補筆のそれが体験できるとなると嬉しくて仕方が無い。

二幕の場面転換で、上昇から下降へと転換するわけだが、その効果は初めて完成版で統一感が表れるのだ。ベルクの十二音技法は、シェーンベルクやヴェーベルンのそれのように無調の延長ではなく、重なりの和音の威力に真価があると思うが、嘗ての多声音楽におけるデュファイやオケゲムに比べるとジャスカン・デュプレのように変拍子の使い方やその生き生きとした「アクセント」のつけ方は譬えようも無い愉楽の時を演出してくれる。

連休最終日で、国鉄の機関士ストライクがあり、アウトバーンは混雑が予想される。だから十分の余裕を持って動かなければいけないが、そこで体験できるだろうことを思うと、肩の痛みを圧して出かける意欲が湧き上がる。三幕版となるとその構造感もさておき、二回の休憩を挟んで時間的にも存分にベルクの達筆を体験できるとなると胸が躍るのだ。バイエルン放送クラシックが生中継する - HPに指揮者ペトレンコと演出家ツェルニアコフの決断と書いてあるので決して補筆版がミュンヘンでレパートリー化しているということではないようだ。



参照:
無用な台詞へのその視線 2015-05-21 | 文学・思想
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
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痛みが感じられないこと

2015-05-22 | 雑感
新しい靴を下ろして走りに行こうと思った。週末の買い物をしていると気温が思ったより高く、肩の調子も今ひとつなので断念した。このところの気温の低下が堪えて頭痛がするほど寒かったりする。Tシャツからセーターまで小まめに調整しなければいけないのだが、仕事をしていると反応がついつい遅くなってしまう。昨年傷めた右肩まで痛むとどうしても憂鬱になってしまうのだ。

ネットで沖縄知事の記者会見を二種類、外国特派員協会のものと日本記者クラブのものを両方観た。とても印象が強かった。就任前から就任とみてくると益々その発言の明確さと自信が強まってきていて、その発言に圧倒される。県民の支持だけでなく日本国内外でもその姿勢を支持する声が強くなっている背景がその発言に表れているのだろう。

なるほど琉球の民の歴史的な変遷をそこに見るときに、どうしても被害者である側面があるのだが、翁長氏の態度にはそうした被害者意識のようなものが感じられないのが素晴らしく、それに対応する東京政府の態度の方が卑屈であると感じさせてしまうのである。まさしく氏が形容する「保守政治の堕落」であり、戦後政治の行き着いた先が今の安倍政権だとすると、日本人は琉球に学ばなければいけないのである。

加害者は忘れてしまうが、被害を受けた方はその痛みが身体にしみこんでいるようである。普段は痛みも何もない健康な生活を送っていると、痛みを忘れてその営みに全く気がつかないのだが、どこかに痛みなどがあるとそれに慣れてしまうことなどは無くて、やはりとても都合悪いことになるのである。痛みが感じられないということは、品格もなにもないということなのだろうか?



参照:
民主主義の品格の欠乏 2014-11-18 | 歴史・時事
基地阻止基金の値踏み 2015-04-11 | 歴史・時事
贖罪という営みの文化 2015-04-24 | 文化一般
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無用な台詞へのその視線

2015-05-21 | 文学・思想
先日購入したヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を読み始めている。ベルク作曲の「ルル」のヴォーカルスコアの勉強と並行しての作業である。原作自体が二つの作品名があって、オペラ化に当たって適当にアイデア流用したような印象を持っていた。しかしこうして作曲家が当時原作に創作力を刺激されたのと同じように原作を読んでみて、明らかに思い違いしていたことに気がついた。

なるほど原作自体が数年の間を挟んで、各々全四幕と全三幕の戯曲として1900年前後に創作されていて、後にルルとして統一化されている。そのような原作の創作過程から、原作から作曲家がイマジネーションを強くして音楽化されていると誤解しやすいのだが、とても丁寧に描かれている戯曲であって、作曲家は入念に台詞を割愛しているに過ぎない。こうして読書してみると、必ずしも台本にかあけているところを感じるわけではないのだが、作曲者の創作過程に少しでも近づくには決して欠かせない作業であると認識を新たにする。

オペラの一幕に相当するのは、「地霊」の第四幕三場までである。面白いと思ったのは、画家が印象主義をして、「現代芸術が嘗ての大芸術に引けをとらないで済むことだ」と語らしていることである。1900年前の芸術的な状況を思うと同時に、所謂表現主義的な創作時期とされるようなその現場での視座を示している。これに作曲家が三十年後には全く視座から視線を投げかけていたことを感じさせる「無用な台詞」である。



参照:
燃え尽きそうな味わい 2015-05-02 | 文化一般
腑分けの変態的な喜び 2015-04-22 | 音
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分析必至な破天荒な状態

2015-05-19 | 雑感
先週は四日間登った。肩の痛みを訴えながらであったので、腰にも堪えたようだ。帰宅後、一晩寝ると起きると腰が立たなかった。どのように腰に来たのかは分からないが、左肩の痛みをカヴァーするためにどうしても腰を捻ったりしたのだろう。久しぶりの腰の痛みである。それでもなんとか買い物に出かけた。肩の痛みは相変わらずだが、稼動範囲は大分広がってきている。それでも横に上まであげることは出来ない。

腰に張りがあるとまっすぐ立てないことも多いが、それ以上に若干病的な気持ちになる。だから一週間ぶりに走れたのはよかった。気温も摂氏12度と低く、陽射しも強いのでコンディションとしては決して悪くは無い。それでもゆっくりと走った - 往路12分2050歩、往復25分4110歩。なによりも新しい眼鏡で走るのは初めてだ。これがよかった。確り重みが鼻に乗って全く揺らがない。依然使っていたジャグアーのスポーティーなものよりも安定感があるのが嬉しかった。汗はあまり掻かなかったが、これならばずり落ちる様な感じもしないのだ。先ずは購入成功である。車の運転にも全く問題なかった。但しツルの蝶番部の前部を岩に擦って、少し傷ついた。これは仕方が無い。

新聞を見るとオーストリアのケルンテン州が破産寸前という。その財政基盤が、事故死したイェルク・ハイダー博士時代の財政負担のつけから二進も三進も行かなくなったという。大阪と比較するととても共通点が多いかもしれない。弱い地方で力強い政策を打ち立てて実際に首都ヴィーンに負けないほどの政治的「成果」を上げたことから地元では圧倒的な支持を得ていた典型的なポピュリズム政治家であった。そしてヴィーンで第二与党を率いて国政にキングメーカーとして君臨したが、破廉恥な発言からEU諸国からも強い批判を受けたのだった。

そのナチ党の家族から純粋培養された性格や行動など「思い切った発言」と「個人攻撃」で支持者を魅了しており、地元での辞任宣言を覆すなど、注目を集め、中央と地方を行ったりきたりするなど、その人気と注目度を背景に政治生命を送ってきたが、最後の話題つくりは飲酒運転による事故死と、典型的な破天荒な人生を歩んだのだった。大阪市民はケルンテンとは異なり、東京以上の歴史文化的な背景があり、こうした上昇志向・権力志向のポピュリズム政治家とは必ずしも有権者の思考とは相容れなかったことが今回の結果となったのではなかろうか。

ポピュリズムの研究家はそこに何を見出すかは分からないが、どうもこうした遣り口は決して技術的なものではなくて、その政治家の生い立ちや性格などと深く結びついていることは間違いなさそうである。しかし、有権者がそのようなポピュリズムをどのように判断するかはとても分析が難しそうである ― ポピュリズム政治家に熱狂するのは知的、教育程度が標準以下の有権者層なのは知られている。



参照:
年末年始のプローザ一抹 2015-01-11 | 文学・思想
ポピュリズムにもならない遺物 2012-09-01 | 歴史・時事
男なら運転前に一寸一杯 2008-10-17 | 生活
黴の生えた高い民意 [ 歴史・時事 ] / 2005-04-05
活発化への大阪特区構想 2015-05-18 | 歴史・時事
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活発化への大阪特区構想

2015-05-18 | 歴史・時事
フランケンから帰ってきてPCを立ち上げると、大阪市の存続が決まっていた。バイエルンの小さな村やその他の自治を考えていたので、とてもいろいろなことを考えさせられた。住民投票の66%は決して十分な投票率とは思われない。数字を見てみると、有権者数が二百十万人と人口二百五十万人に対して比較的高く、高齢化しているようだ。最も興味深いのは在日朝鮮人などの外国人数であるが、聞いていたのとは大分異なり意外に少なく、十二万人ほどしか外国人登録していない。つまりそれ以外は既に帰化していて、今回の住民投票などでも郷土愛つまり「愛国的」な判断になったのではないだろうか。それはとても大切なことであり、地方自治とかの原点は市民のアイデンティティーであるからだ。

帰宅の車中のラディオはビルマなどからの難民が、東南アジア諸国の沿岸でブロックされて、彷徨い続けることになっていることから、厳しい批判を浴びているということである。こうした状況は許されない。日本へはどこからどれぐらいの難民を受け入れているかは分からないが、一層積極的な難民援助をするべきであろう。将来的にはより多くの外国人を受け入れるようでなければ、現在までの経済的な活動は戻らないに違いない。

大阪市は津波などで甚大な被害が予想されるとされているが、大阪が活性化するためには朝鮮系移民の影が薄れるような積極的な移民政策をすればよいのではないか。本来の商業的な活発化にはグローバルな商人が多すぎるようなことは無く、シナの新シルクロード政策に乗じて東京とは独立した経済圏を発展させたいとすれば、大阪のようなニューヨークに通じる雑然とした文化地盤が役立つに違いない。



参照:

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菜食主義者のワイン

2015-05-17 | ワイン
先日ブログの検索ワードに「カステル・ペーター」が入っていて驚いた。本日仕事に訪れた人がそこで働いているからである。バート・デュルクハイムに入る前の平野部にある観光客相手にレストランなどをやっている醸造所である。自分自身はその場所柄から訪れたことは無いが、話はよく聞いていて、そのワインも貰ったことがある。

そして今何を話題にしているかというと、菜食ワインということだ。正直一体何を言っているのか分からなかったが、フィルターリングのことで気がついた。勿論ボルドーのことであるが、卵を使ってフィニッシングをするというあれだ。そもそもリースリングなどでは話題にもならなかったように思うが、ビオワインから更にもう一つ売りとしてこの概念が持たされているようなのだ。

市場としては、亜硫酸云々以上にヴェジタブリアン人口は多いから、当然のことながら経済的な魅力があるのだろう。そうした取り組み自体は営業努力であるから評価されるべきだろうが、そうした情報の一面性で誤った消費動向を招くことは決して賞賛されるものではない。

ビオワイン自体が、そもそも高級ドイツワインの中では標準になっていて、葡萄以外にはなにも材料を使わないワインが主流になっているところで、こうした試みが逆にそうした部分的な売りを謳わないワインに対して否定的な誤解を招きかねないからである。そうしたものを含めてワインの質と呼ぶのだが、魅力あるテロワーと健康な葡萄がなければ幾ら努力しても魅力あるワインとはならないから、個別の売りを強調しなければいけないことになるのである。因みにカステル・ペーター醸造所の女性親方も日本を訪問していて、多くそこに輸出されているらしい。それは、それで結構なことである。



参照:
シュタイナーのエコ農業 2007-05-22 | アウトドーア・環境
大量生産ビオ商品市場で 2012-08-26 | 試飲百景
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