クリスマスオラトリオである。初日が第一部となっている。先日フランクフルトの定例会で演奏されて、その感想などを書き留めていたのだが消えてしまった。それほど記憶に留めおく必要の無い演奏であったので、へレヴェーへ指揮のベルギーの演奏家たちとの古いヴァージンの録音と比較してみたかったので忘れてしまったのである。
フランクフルトでのヘンゲルブロック監督のバルターザーアンサムブルは定番であり、そこで大きくなっていったようなものであることを前回舞台で挨拶としていたが、指揮者がハムブルクの放送交響楽団の監督になって、ポピューラーコンサートの仕事が多くなったようで、その質は大分落ちてきていた。
器楽だけでなく合唱の指導や練習も儘ならないのかもしれないが、嘗てのような枝葉までに意思が生きるようなことは無く、ドイツ語を上手く演奏しているだけに過ぎなかった。もともと我々の会の中でバッハの演奏においては特に傑出した演奏実践を示してきたわけでもなく、他のガーディナーなどのそれに比較すると違和感が少なかっただけなのであるから、今回の不成功も想定内なのかもしれない。しかしバイロイトにもデビューしてポピューラーな音楽家となっただけに当日の入りは特別良くて、八割を超える入りであったのは、そうした期待がどこかにあったからだろう。
いずれにしてもこのオラトリオがある意味バッハの受難曲オラトリオに相当する楽曲であってそのように作曲されていることが、こうした演奏に接してでも明確になったことだけは特に価値があった。
ラッチンガー教授の「イエスの生い立ち」を開いた。三部作の最終刊でコレクションアイテムであったのだが、その出生の秘密などをこうした超一流の神学者が解説するとこうなるのかと興味は尽きない。なによりも、婚約者マリアとヨゼフの関係について、著名な聖書学者ギニルカ教授の論文を引き合いに出して、婚約後一年が経って同棲へとと言う時に妊娠が発覚して、ヨゼフは当時の法からすると二通りの道があったとする。つまり、司法の手にゆだねて婚約破棄を訴えるのと個人的に婚約を解消する方法の二つである。結局は、表向きにすることなく婚約解消へと動いたのだが、マタイ伝の第一章にあるように、夢に天使が現れて、解任の意味を知らされて、更にダヴィデの子孫と告げられたものだから、気を取り直してイエスの誕生を迎えるのであった。マリアには、直接天使が現れて、事情が告げられると、もはやと思っていたマリアであるが結婚を決意するのである。
正しく聖書にあるように正しい判断をヨゼフがすることになるのであるが、独身の法王であるラッツィンガー教授がこの件を執筆する情景もとても興味深いのだが、ここに文化というものが根付く素地があることは誰も否定できないのではないだろうか?なるほどこの背景設定だけを考えるならば、吉本新喜劇でも藤山寛美の芝居でも何でも良いのだが、近松ものにしてもこうした展開が為されないのはなにも一神教の世界観が存在しないだけとはいえないのではないだろうか?
なるほどダヴィドを元にするユダヤの一神教の大きな枠組みがそこにあるのは否定できないのだが、こうした展開こそが文化的な深みを生じさせる訳で、改めて西洋学問のその後の展開や発展の原動力をそこに見る思いである。大阪などにはその近松でさえ理解できない政治指導者が居て、本人に教養が無いことは無視しても、教育についてとやかく発言しているのを聞くと、正しく日本の文化の程度というものの浅墓さを思い知らされるのである。そのような土壌には情操教育も、文化も何も存在しない。まともな教育を受けない限り学問も文化も無用の長物でしかない。
摂氏二桁とこの季節離れのクリスマスを迎えた。ディナーに備えて、就寝前から山の上まで走ってやろうと思っていた。曇りがちで更にこの気候変化から嵐気味の朝だったので少し遅れ気味に出かけた。ワインの地所を散歩するものは見かけたが、流石に山へと上がる者は居なかった。通過地点のベンチ通過は通常通りだったが、前回のように雪も無く足場が良い割にはタイムが出なかったので、急にペースが落ちた。漸くのことで頂上に着くが、今までの最低の記録で42分で5900歩であった。二分ほど休んで、息を整えてから下り始める。ベンチを過ぎて、下りも最終直線に差し掛かるとしたから二人連れの男が快調に駆け上がってくる。一人はブロンドでもう一人はダークで力強い感じであるが、二人ともスポーツ現役な感じは見るからに分る。近辺にはオリムピック選手もラグビーを中心に居るが、そこまで若くは無いが競技者であるのは足取りからして間違いない。
更に驚いたのは、顔を合わせたことのある犬を連れた親爺の後に見える影である。白髪の老婆にしか見えないが、なぜか手の振りが大きい。ノルディックウォーキングと思ったら、近づいてみてジョギングであった。この行程を走っているのを見たのは直前に見た二人組みに続いて二組目であり、私を入れて三組目である。頂上まで走り続けれるとは予想しないが、それにしても凄い。他の行程で見かける白髪の婦人は体つきも細身でいかにもスポーツを遣り続けていた雰囲気があるがこの「老婆」は違うのだ。
実際に今日は正直、腕の痛みを下りで大きく深く振るので和らげることが出来たと思うが、なんとか続けて頂上まで走り続けただけに過ぎない。そうした行程をクリスマス初日にこうして走る人を二組も見かけただけで驚くのだ。日本のご来光とは違うが、なにか駆り立てるものがこの人たちにはあるのか、それとも偶々一時間近く遅れて走り始めたので効した人たちを見かけただけか?降りてきて暫くすると小雨が振り出した。
参照:
信頼と期待のライフスタイル 2012-12-24 | 暦
降誕祭前の髪結い風景 2012-12-20 | 暦