トム・クルーズを映画館で二十二年振りに観た。なぜか、ハンブルクでトップガンを観て以来の再会である。生まれてこのかた映画館に十回も足を運んだ事があるかないかの人間としては、大変な頻度であり、映画はトム・クルーズ、宗教はサイエントロジーしかないというぐらいである。
昨年の「
ノルトヴァント」に続いて同じ映画館で同じ料金を払って観た「オペラチオン・ヴァルキューレ」は、前者のパロディだかなんだか分からない四流作品に比べる術もなく、超一流のハリウッド作品であった。
映画自体は、制作発表からベルリン訪問やサイエントロジー禁止運動などを通じて話題を追ってきていて、特にクーデターの主人公たるクラウス・フォン・シュタウフェンベルクにおけるシュテファン・ゲオルクの影響などと多くの情報が流されたので無関心ではいられなかった。ロードショウ二日目に出かけた劇場は、その期待に反映した混雑を恐れたが、あのドイツ三流映画とよりは少し多い七人ほどのために上映された。
新聞評やスタッフとの座談会にあるようにシナリオのクリストファー・マキュリーや監督のブライアン・シンガーなどの映画制作の実力とトム・クルーズのキャラクターを魅せつけられたと言って良いだろう。さらにHPでのトレーラーの珍奇な音楽も全く耳に入らず、ドルビーサラウンドを効果音として使わない真の映画表現となっていたのには改めてハリウッドの技術程度の高さを再認識させられた。
FAZ新聞の社説は、全米で一千万を越える入場で韓国など世界中でこの事件の存在を知らしめた効果は大きいと、決してホロコーストの重荷から解放される訳ではないがとしながらも、昨今強く自負している戦後ドイツ連邦共和国が歩んで来た茨の道の成果をここにも見ている。ハリウッドが制作した「何をどのように考えてを描かない、何をしたかを映し出す」典型的な娯楽作品に対して、どうしてここまでの事が言えるのかそれを読んでいく。
先ずはこの映画が慎重に史実を起こしながら余分なものを加えず、極力トム・クルーズの映画としてフォン・シュタウフェンベルクに焦点が当てられた事で、再三に渡る映像化に比べてもその映画技法の秀逸さでハリウッド・リアリズムの最高域に達している。それを通して、同様な嘗ては砂漠のロンメル将軍などの誤まった英雄化とその偶像の崩壊とは一線を隔すクーデターの視点が出来上がっていて、歴史劇としての面白さを思う存分味あわせてくれるからである。
帰路の車中ではいつものようにドイツ・モナキーのヒットラーの神格化への影響が討論されていたが、一体ナチスドイツの多くは保守的であったり、伝統的ドイツへの憧憬を持った元帝国の軍事指導者や政治家、法律家や行政家、一般市民の良心の有無とナチスドイツの紀律を重んじた軍事ファシズム政権の関係に思いを至らせることが出来れば良いのである。
それならばゲッベルスがやったようなプロパンダ作品でしかないのだが、その違いは多くの点で構成的な映画表現がなされている点であろう。一例を挙げれば、シュタウフェンベルクが東部作戦本部たるヴォルフス・シャンツェにて二度目の試みで初めて導火線を切るのだが、その後の非常事態における ― これは軍事に係わらずなのだが ― 組織の命令系列の正統性と法的な正当性においてドミノ倒しのように勢力図が変わっていく面白さをスリル満点に描いている。
多少なりともこうした問題に関心を持っている者なら、ファシスト政権もしくは軍事力によって秩序が保たれている社会におけるクーデターのありかたを考えるであろうし、現代においては強健な軍事力以上に情報や警察力の内務行政によって民主主義的ではない社会が制御されている場合も「目には目を歯には歯を」のレジスタンス活動の可能性が模索される。現実に世界の殆どの民主的な政治が行なわれていない国々ではこうしたクーデターは政治的形態として日常茶飯に存在している。
この映画は、ブッシュ政権下に制作されたが、その得票の集票作業に始まって、その二期目政権においても「多くの良心の政治亡命者」を輩出した。だからこそそこにこうした歴史政治映画が制作された背景があるのだろうが、ブッシュ政権によってまたその傀儡の同盟国の政権を支持した選挙民の責任の取り方をも同時に問うている。
ヒットラー暗殺計画もドイツ人のアリバイとする観方もあるが、今回の映画化では最新の研究成果は活かされなかったとは言うが、名優ケネス・ブラナーが演じるトレチュコフのヒトラー暗殺の試みも重要な動きとして描かれていて、フォン・シュタウフェンベルク自体が人道的立場からユダヤ人迫害と当初から明白であった国家社会主義の暴力性への批判の行動として、政治や軍事的な動機を越えつつ暗殺後の正統的ヴァルキューレ計画を模索した面が十分に描かれている。
非常事態における情報の混乱する中で ― それはまるであの神戸地震の状況を思い起こさせたが ―、判断を迫られる局面が刻々と変わる状況の描き方は秀逸であって、政治につきものの、「もし」、「仮に」という状況が再現されるスリル感は最高級のものであった。時間は流れると同時に演繹的にその責任構造に遡れるのが歴史の記録に他ならない。
そのような意味で現代性をもった娯楽映画なのだが、そうした日々を我々が今日生きている現実をフラッシュバックさせる芸術性をも示していたと評価したい。
通常のドイツ映画館上演なのでドイツ語吹き替えであったが。ケネス・ブラナーのそれを除くとトムの甲高い声よりもドイツ語のそれが正しく雰囲気を伝えていただろう。化粧などもあるにしてもトムは若々しく子供のようにベルリンの外交政策担当アドヴァイザーと写っていた写真を思い浮かべる。新聞が書くように、トム・クルーズは馬鹿ではなくて、自分が出来る事を良く分かっていると批評されている。それでも撮影中サイエントロジーの方向へと導こうとアイデアを盛んに出していたという。冒頭のシーンは出来上がって最後に充分に練られて編集し直されたようだ。あのナイーヴさは、まさに先天的なもので、この映画でも素晴らしく活きていた。
追記:劇中使われるヴァルキューレの音楽はクナッパーツブッシュ指揮となっており、山荘の場面でヒットラーが騙されてヴァルキューレ計画に署名する段に、フォン・シュタウフェンベルクに向って「うううう、ヴァーグナーに造詣があるか?ナチョナルソシアリズムはな、ヴァーグナーが分かってないと十分に理解が出来んのだ」と呟く。
参照:
Operation Walküre – Das Stauffenberg-Attentat
正当化へのナルシズム [ 歴史・時事 ] / 2007-11-29
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