Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年05月

2007-05-31 | Weblog-Index



遵法的議会外政治行動 [ マスメディア批評 ] / 2007-05-30 TB0,COM0
フラッシュバックの共観 [ 暦 ] / 2007-05-29 TB0,COM0
突然、激しい風が吹いて [ 暦 ] / 2007-05-28 TB0,COM2
記憶にも存在しない未知 [ 文化一般 ] / 2007-05-27 TB0,COM0
みちをきくたのしみ [ 文化一般 ] / 2007-05-26 TB0,COM4
やまなみのしたにどじょう [ 試飲百景 ] / 2007-05-25 TB0,COM2
現代オカルトのビオ思想 [ 文学・思想 ] / 2007-05-24 TB2,COM3
朝食ドイツパンの衝動 [ 生活 ] / 2007-05-23 TB0,COM2
シュタイナーのエコ農業 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-05-22 TB1,COM0
ドイツワイン三昧 第六話 [ ワイン ] / 2007-05-21 TB0,COM0
好みの味と慣れない味 [ 試飲百景 ] / 2007-05-20 TB0,COM0
懲りない葡萄園の農夫達 [ ワイン ] / 2007-05-19 TB1,COM0
右に位置するヨハネ像 [ 文化一般 ] / 2007-05-18 TB0,COM0
フランケンシュタイン蔵 [ 試飲百景 ] / 2007-05-17 TB1,COM3
肢体がスルッ鼻がプルン [ 料理 ] / 2007-05-16 TB0,COM6
死んだ筈だよ、生きて.. [ 生活 ] / 2007-05-15 TB0,COM0
個人所有権と経済対価 [ 文化一般 ] / 2007-05-14 TB0,COM0
中庸な議会制民主主義 [ マスメディア批評 ] / 2007-05-13 TB1,COM2
煮ても焼いても喰う料理 [ 料理 ] / 2007-05-12 TB0,COM4
ワインの時の三位一体 [ 試飲百景 ] / 2007-05-11 TB0,COM0
教皇無用論のアカデミスト [ マスメディア批評 ] / 2007-05-10 TB0,COM0
狙い定まらぬ小さな狩人 [ 女 ] / 2007-05-09 TB0,COM0
好みに主観は存在しない [ 試飲百景 ] / 2007-05-08 TB0,COM0
四苦八苦する知識人 [ 文学・思想 ] / 2007-05-07 TB0,COM6
本試飲に備え予備試飲 [ 試飲百景 ] / 2007-05-06 TB0,COM0
民主主義の政治モラル [ 女 ] / 2007-05-05 TB1,COM9
四月の終りから五月へと [ 暦 ] / 2007-05-04 TB0,COM2
客観的評価を求めて [ 試飲百景 ] / 2007-05-03 TB0,COM2
近代物理教の使徒の死 [ 文化一般 ] / 2007-05-02 TB1,COM2
上目使いにそっと天を仰ぐ [ 文学・思想 ] / 2007-05-01 TB0,COM4
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遵法的議会外政治行動

2007-05-30 | マスメディア批評
G8ハイリゲンダムに向けてのメルケル首相の演説は良かった。一部しか知らないが、グロバリズィールング反対派への語りかけとその政府としての基本姿勢は正しい。

何よりも議会制民主主義制度を採用する社会における議会外政治行動に注目して、それが合法的な手段で行われる限り、それに耳を傾けたいとするのは、昨今の議会制度における衆愚政治化とメディアを使ったポピュリズム政治化の進む民主主義への問いかけである。

そしてそこで問われているのが、ジャーナリストをはじめとする文化人や現場からの批判なのである。批判と行動と活動無くして、「対話の道」は開かれない。首相は、「暴力を以ってしては対話は開けない」とサマリアで会見したばかりのプーティン大統領との会見で試みられた「デモンストレーションと発言の自由」の権利尊重を再び俎上に乗せる。

その権利こそが自由民主主義の根幹にあって、制度的問題を顕著にする議会制民主主義への梃入れとする考えは、首相のブレーンに強く存在しているようである。同時に、グローバル化は国民の不安を招いているとして、人間的な顔を持ったグローバリズムを、政治的に抑制の効いたそれを政治として約束した意味は大きい。

つまり、シュレーダー前政権が、世界経済において「選択肢無し」と、一方的に取り込まれる形でのセールスマン外交を展開したことから、その経済成長優先と自由経済市場のなかで政治の無力化を喰い止め、「まこと」の政治をする姿勢を示す。

その政治背景には、温暖化問題と強く結びつくグローバル化反対への大きなうねりに、大きな威力を発する緑の党などの野党の声を大きく削ぎながら、大連立政権のパートナーである社会民主党の底力を自らの政治力へと活かす意欲と見られている。国内問題解決後に外交へと向うのは通常の政権運営と言われる。

特にその中でミュンターフェーリンク副総理の活躍が今回の会議で注目される。氏の持論である社会問題としてのグローバリズム資本主義再考が、ヴィチョレック・ツォイルの発展途上国援助と共に、「ハイリゲンダムの頂上」から社会と環境のスタンダードを世界へ向けて強くアピールしたいとする。

その後者のアフリカ問題は、先頃ケーラー大統領が北京にて、中共政府の国際的貢献としてのアフリカでの活動を支持と共に人権面で牽制したことに表れる一貫した連邦共和国の姿勢となっている。

そして、今回の会議において「経済問題は環境問題に反しない」とする姿勢を採り、中国やインドやブラジルの所謂膨張諸国に率先してそれを示したいとするが、それをどこまで説得出来るかは判らないと首相は語っているようだ。そのためには、詳細は各国のお家事情を配慮して措いて、予め定めることなく、その結果としての政治的しくじりを避けたいとする方針のようである。

再び本題の議会外政治行動の重要さとその市民の権利は、民主主義の二本柱をなすほどに、議会内活動と比べて益々重要性を増している。勿論これは、制度化されたロビイスト活動をも含む連邦制や地方自治を補足する広く社会的な行動であり、遵法精神をもって広範に行われなければいけない。

その権利が充分に行使されない社会を非民主的な社会や制度と呼び、形式だけの議会制民主主義がそこに並立することも多い。またそうした典型的な政体がプロレタリアー独裁の社会主義政体であり、現在でも北京などに存在するばかりか、つい此間まで民主化を求める市民が大量に虐殺されたのは記憶に新しい。古今現在、自国民に銃口を向けた政権はその主義如何によらず滅びると言われるが、中共政府が未だに存在しているのは摩訶不思議である。

寧ろそれよりも議会制民主主義の形態を採用しながら、中共軍顔負けの発言をする自衛隊と言うものが存在して、それを制度上文民統制しているとする政府が極東に存在している。この文民統制自体が、形骸化した議会制民主主義の形式的な制度に則っており、広範な議会外政治活動が機能していない限り、その制度が保障する統制が民主的とはならないことをここに露呈しているように思われる。


既にホワイトハウスは環境問題での会議での目標は受け入れられないと声明した。これに対してガブリエル環境大臣は、「アメリカが譲歩の準備がないように見えるのが環境問題への最大の懐疑となっている」として批判する。さらに「メルケル首相とブレアー首相の環境政策の目標に明らかに逆らっている」と下準備で訪れ「ブッシュが聞く耳を持って呉れれべ」と言う米議会代表の民主党のナンシー・ペローシとの会談後に発言した。「二酸化炭素削減へと原発依存志向」を採るロシアを指して「あれほどずさんな原発管理の国はない」とチェルノブイリ禍の記憶のみならずロシアの現在を強く批判した。



参照:
批判的民主主義行動 [ マスメディア批評 ] / 2007-04-19
Die Globalisierungsgestalterin von Günter Banns, FAZ vom 25.5.07
<クラスター爆弾>禁止条約結論出ず、大治朋子、澤田克己、07年5月26日付け毎日新聞
死と破壊の言説(PDF)
政治の原風景(PDF)布施哲(名大国際文化研究科)
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フラッシュバックの共観

2007-05-29 | 
承前)「記憶」を「意識」によって整理すれば、それはフラッシュバックのようなものなのである。前者が現実の日常生活の中へとそっと挿入されても、後者の覚醒を生むことはないと思われる。反対にそうした効果が表れずに次から次へと蓄積されるからこそ、記憶として積み重ねられていくのであろう。新著「ナザレのイエス」の著者は、それにイエス・キリスト、使徒、教会などの主観と客観を使い分け、パズルのようにこれらを組み合わせることで、その目的を達成している。

ヨゼフ・ラッツィンガーは、第十章「イエスの自己賓辞」でヨハネによる福音書を取り上げている。そこでは、イエスの言葉が直説話法で最も多く扱われているから、イエスの主観を通した形で、その「記録」を読み解いている。

先にあげた「わたし」の述語が不特定な箇所があり、これの意味を考える。その前に、述語が特定されている箇所は計七箇所あり「生命のパン」、「世の光」、「入口」、「良い羊飼い」、「復活と生命」、「道と真実と命」、「まことの葡萄の木」と続く。それについて、もっとも重要な並列的に対照され応対される二箇所が7章から挙げられる。

― 祭りの終りのいちばんたいせつな日に、イエススは立ち上がって大声で言った。「のどが渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。聖書に書いてあるとおり、わたしを信じる人は、その内部から生きた水が川となって流れ出るようになる」―

― この言葉を聞いて、群集の中には、「この人は、ほんとうにあの預言者だ」と言うものがいた。―

― 彼らは答えた。「あなたもガリラヤ出身ですか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことがわかります。―

この箇所は、三人称で描かれる客観によって、一人称で説明されたことが、三人称で疑惑として議論を呼んでいる。そしてその回答として、当然のことながら「記憶」が呼び興されて蘇るのである。それは、イエスが出生した古里の世界であり、旧約聖書「出エジプト記」3章14なのである。JHWHと奇怪に呼ばれる者こそが、ここで一人称で語るものであり、つまりANIとJHWH省略されてANI HUと言う者なのである。

つまり、国土も寺院も無いイスラエルの神はただ唯一の神であって、民衆の神であって、世界の神で無ければいけなかった。つまり、述語が代名詞化する「俺、俺」(It is I)とは、一人称で称する神なのである。

ここで初めてイスラエルは神を持つ、視点をかえれば、未知との遭遇がなされ意識が芽生えたとしても良いかもしれない。さらに、14章9「わたしを見た人は、父を見たのだ」と語り、神と相対的に一体化して存在することになる。それが「俺」となる。人の子、子、父、これをして、一体・HOMOOUSIOSと呼び、ニケアの初回公会議にて定まり、これを以ってヘレニズム化に防波堤を築き、多神教化を避けたとする。

多神教の序に、ここでは扱われなかったグノーシスの思考は、既にこの新著の第八章で比較言及されている。そして、その「状態の変容」や「事象の境界」やその倒錯を考えるとき、あくまでも実であるユダヤ教の全能の見えない神に対して、二元論を想定するのは不可能であると判る。なぜならば、それは、あくまでも閉じた系を仮定しなければいけないからである。

意識の覚醒を未知の受容と認識とすると、こうした思考において閉じた系が不可知論の領域にあろうが、ネオプラトニズムの領域にあろうが、陰陽の領域にあろうが、その意識においては大して代わり映えしない。

それゆえか、上記カトリシズムにおいては、湖の上を歩く奇跡の観測者もしくは遭遇者の恐怖心を、また取れすぎた魚に不審を懐くペトロスの主観を強調して、彼らの意識を垣間見せる。これを著者は、人を襲う典型的な「霊感の恐怖」であり、「神の畏怖」であるとして、人力の及ばない未知のものへの意識の拡大を暗に示唆している。

当然のことながら、未知への遭遇と五感を越えた霊感の存在を、三人称として記録してそれをフレッシュバックすることで、覚醒の意識層の「開かれた境界」を定義することが出来る。そして、ここでの本題である不可解な表現「わたしだ」が、一人称の主観の記録としてまたは神秘として、マタイの福音14章にプロスキネシスとして表れ、三人称複数の弟子の二人称の言葉に切り替えられて、その記憶を呼び起こす。

― 船の中にいた人たちは、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言ってイエススを拝んだ。

(聖霊降臨祭の月曜祝日に)



参照:
みちをきくたのしみ [ 文化一般 ] / 2007-05-26
一神教と多神教の対話について(PDF)
一神教と多神教(PDF)
聖書資料におけるイスラエルの一神教(PDF)
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突然、激しい風が吹いて

2007-05-28 | 
昨晩から今日にかけて、積乱雲性の突風が吹き、断続的な雨と落雷を観測した。朝九時過ぎに窓際に座っていると、あまり聞いたこともないような竜巻状のうねりが聞こえ、強い風が家の中に舞い込んだ。

プフィングステン(聖霊降臨祭)の祭日である。新約聖書「使徒の宣教」2章には次のように「記録」されている。

― 五旬祭の日が来て、一同がいっしょに集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、火のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、聖霊が話されるままに、色々な外国語で話し出した。―

流石にこれらの観測や記録についてではないが、ヨゼフ・ラッツィンガーは、以下のようなこの章の後半37節から41節について、「我々にとって、形而上の推測ではなくて、これは歴史上の中心にある神の実存を示す」とする。

― 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロスと他の使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねた。...ペトロスの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが信者の仲間に加わった。―

そして、「ヨハンネスへの黙示」1章7の実現。 ―

見よ、そのかたが、
雲に乗ってこられる。
すべての人が彼を仰ぎ見る、
ことに、彼を突き刺したる者どもは。
地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
そのとおりだ。アーメン。

ゴルゴタの丘の上高く掲げられた十字架上での成就と、「わたしだ」の言葉が最も強い啓示の主張であるとする。

その共同体の始まりこそが、この日であって、こうして毎年繰り返されていることで、次ぎの「ヨハネンネスによる福音」8章28節が実現されたとする。

― そこで、イエスは言った。「あなたたちは、人の子を上げるときに初めて、わたしが主であること、また自分勝手には何もせず、ただ父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。―

こうして著書「ナザレのイエス」第十章「イエスの自己賓辞」から「わたしだ」の節において、ヨハネの共観福音書から二種類の「わたし」を扱っている。一つは、既に紹介した「わたしはまことのぶどうの木で、わたしの父は農夫である。」(15章1)の様に述語が添えられたものであるのに対して、もう一つは、代名詞で受けられた「わたしだ」である。

その用例と意味合いの一つが上の啓示であったが、同時にローマンカソリック教会の主観がここに重なっている。あたかもサンピエトロ寺院の伽藍をそのドームの真ん中に立って見上げるかのような、抱合された感覚をここでも得る事が出来る。その感覚を母体原体験とか表現することもあるが、ここで著者が試みているのは、必ずしも個人に属さない人類の「記憶」と言うようなものであって、また芸術とすると例えば「千人の交響曲」の音楽体験などを髣髴させる文章表現なのである。

神学界のモーツァルトどころかグスタフ・マーラーのようなこの著者は、ここで大変興味深く文章を綴っている。それは「記憶」が何時の間にやら「記録」となっていて、現実が存在していると言う錯覚とも認知ともつかない境地への誘いである。一見、上のような逐語的な解説は詭弁に映りさえするのであるが、最終的には説得力を持ち得るのは、著者の文学的な技能以上に、この伝統的巨大教会の名実共の「記憶」ゆえとしか言いようがない気がする。(続く
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記憶にも存在しない未知

2007-05-27 | 文化一般
脳神経学分野の課題は、デヴィッド・リンチなどのハリウッド映画で「トータル・リコール」や「マノリティー・リポート」で筋書きを提供している。ロスアンジェルスの高層ビルのバーに脳神経学者クリストフ・コッホを訪ね、そのカルテックにおける企業についての新聞記事を書いている。

この会社は、主にアジアからの出資の希望が多く、その特許「アイ・プレディクト」である「視線の行くへの公式」はCMなどに効果があるとして注目されている。しかし、結局は米軍の研究支援を受けることになった様である。

氏のトレードマークである赤い靴に、この公式のヒントがあるらしく、訪問者が驚きをもってそれを見つめた後の行き先が、この公式によって求められる回答なのであろう。

研究者としては、チュービンゲンで物理を学んだ後にMITで、かのジェームス・ワトソンと遺伝子コードを解読した現代生物学の雄フランシス・クリック教授の弟子になって、その後共同研究の後、二年前の師の死をもって、新たな研究へと進み出たとある。

それは、師匠が敢えて手をつけなかった「意識」に関するもので、その「所在」を位置物理的につきとめようとするものである。その回答は、クリック教授においても神学の問題として扱われていて、自意識として哲学の場でも議論されるものである。

少なくとも莫大な神経の信号の切り替えで、記憶や行動はコード化されて制御されて、それが絶えず起こるところに自意識が存在していることは解明されている。そして、その一部だけが外界からの刺激を遮断しつつ感覚器官のように他の脳の部分を観察しているとする。それがどうしたものであるかは、いまだに不明であるが、脳に存在していることは間違い無いとする。

この研究者は、子離れから家庭の環境が変わった時、気晴らしにロッククライミングを始めた。そして今、深淵の上にぶら下がっているとき以上に、禅の空の「意識」に詳細が表れることはないとして、それについて近頃研究しているようである。

彼は、世界を飛び廻る学者のカトリック家庭に生まれ、アビテューアをイエズズ会の学校で終えている。そして、進化論では、自意識の自動化が待っていて、人類は皆無意識の内にゾンビとなるとしている。

同時にこの研究者は、無神論よりもむしろ不可知論を攻撃して、つまり原子と細胞から出来る「意識」に自然の摂理を解く。それは、原子核からクォークへと進んでいったように、人類は新たな発見を宇宙に見つけ、そこに意識の覚醒があるとする。

これは、先の意識や記憶の問題として解くと、意識を新たに広がる世界に見出すことが出来るとすることであり、我々はそうした覚醒に生きていることを思い出せば良い。

彼が可能とする新自然神学が生まれるのは、地球外生物の発見でもあるかも知れないし、他の発見であるかもしれない。しかし、そうした発見や発想は、我々の日常に芸術や学問として存在しているが、それが今までは従来の神学を覆すには至っていないだけなのである。

こうして、記憶にもどこにも存在しない未知との遭遇とその認知に、「意識」の存在を我々は掴めた。そして、アグノシティズム(不可知主義)と呼ばれるものに対照してグノシティズムが存在していて、補角を埋めるような構造になっていることにも気がつく。



参照:
Welche Ameise versteht schon Einstein?  - Der Neurobiologe Christof Koch, FAZ vom 9.5.2007
突然、激しい風が吹いて [ 暦 ] / 2007-05-28
現代オカルトのビオ思想 [ 文学・思想 ] / 2007-05-24
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みちをきくたのしみ

2007-05-26 | 文化一般
香道の講演会に参加した。ミュンヘンのシュテュレーブ女史の体験と研究をもとに話が進められた。

先ずは歴史的な香合わせから発展とスライドを使った今日の実践を二本柱として、殆ど知る者のない香道が紹介された。

日本の平均的な教育程度の者に、この香道を尋ねると、多くから源氏物語の香合わせが言及されるが、香道の中身を知る者は居ないと言う。日本人にとって、未知な道なのである。講師のインガさんは、日本滞在中に香道志野流に参加している。

志野流は武家遊びから発達していて、千利休も門下であったと言うから面白い。それに対して、三条家から発達した公家の香遊びを御家流と呼ぶらしい。

最も関心を持っていたお茶席における香の使い方やそのキリシタンの影響を受けると言う秘儀としての道であった。これは、インガさんも独自に調べたようだが、一切の関係が見つからないどころか、香道は茶道に比べると遥かに遊びが強調されていて、他にも出席者から質問があったが、瞑想などとは殆ど相容れ無いものと説明された。

また、ドイツ語では道を途と訳するが、これも興味深い。なぜならば、日本の道は途ではなくタウであると思われるからだ。すると、少なくとも香道においては実際は「道」であるよりも「遊」であると言うことになるが、一体ドウであろう。

確かに、スライドなどを見ていると、姿勢や無言の所作などに様式化した道の片鱗が見られるが、茶道における侘び茶に対する「名物」に相当するような香具が無いことも、上の否定を裏付けているようだ。その反面、ヤニとなった貴重なもしくは骨董的な香木が大変高価で価値があるとされる。

こうしたことから期待したような、香道の世界観としての「タウ」は兎も角、キリシタンの影響は否定されたが、それらの材料をオランダ人たちが東南アジアから運んで来たことは特記される。

我々に関心があるのは、香道はワインの試飲にも極近いが、なぜそこまで形式化されたのか、やはり判らないと同時に茶道に比べると様式化はそこまで至っていない。あらゆる外来文化の日本化の傾向と特徴は、ワインの試飲やそうした文化スクールにも表れていて、何れソムリエ流とか、セラー流とか、買い付け商人流とかの家元が割拠するのだろう。

ただ、インガさんが言われていたように、香りを覚える方法はどうもワインと殆ど同じで、特定の印象を回帰して定着・同定させながら分析的に嗅ぐ。これがシステム化されて概ねの年代を当てるとなるとソムリエ流となる。ワインの試飲でもそうだが、その辺りになると試飲の目的が不明瞭になって、お客様にお奨めするアドヴァイザーの手練手管が何時の間にか「道」になるのだろう。つまり、真剣勝負の出会いがなくなるのである。

また、あれだけの香りの中に浸かっていても惑わされなくなると、それは鈍感になったと言うことではないのだろうか?そうなると、どうしても道がつきながら遊びに徹している香道が不可思議で、ワインの試飲に遊び興じている内に、こちらは何時の間にか花園にひらひらする蝶々になっているのである。

莊周夢蝶

昔者莊周夢為胡蝶、
蘧蘧然莊周也、
自喻適志與!
不知蝶也。
俄然覺、
則栩栩然蝶也。
不知蝶之夢為莊周與、
莊周之夢為蝶與?
蝶與莊周、
則必有分矣。
此之謂物化。

香道では嗅ぐを「聞く」と呼び、「香が満ちました」と言って終わる。
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やまなみのしたにどじょう

2007-05-25 | 試飲百景
瓶詰め直後の試飲や春の試飲会などに続いて、五月には二回の試飲のお客さん、そして五月の試飲会などで、試飲本数もかなりの量をこなした。そのなかでも、五月始めに行ったものは、最も系統立てて企画したものであった。そのプログラムを総括しながら、ワインの試飲を語りたい。

この企画の発端は、土壌に関する疑問とプファルツ地方産のワインの特徴の確認があった。これらを明白にする辛口リースリングの試飲に絞ることが出来て、概ね所期の目的を達成したものと自負している。その客観的な成果は、緑家さんの感想をご覧頂きたい。

二つ目の隠されたテーマである「特徴」が、一つ目のテーマである「土壌」によって、どれほどに浮き彫りとされたかはなんとも言いがたいが、少なくともミッテルハールトと言う山並みを背にしたプファルツヴァインの中心領域産のワインを系統的に網羅することで、全体にこれを代えることは許される。

訪問した四件の醸造所やワイン酒場などは、その目的から少なくとも2006年産に関しては妥当な選択であった。最初に歓迎ワインとして試飲したバッサーマンのライタープァード地所のワインから、その周辺、さらに翌日該当地域の中で最も南側に位置する地所から始め、翌日へとかけて試飲するワインの地所も北上して行く。先ずは南端のビュルガーガルテンの下支えのある土壌、そして北へと向かいギメルディンゲンの地所マンデルガルテンに、その隣のビエンガルテンや次の町ケーニッヒバッハの地所を、またルッパーツブルク産にカルクの混入してくるダイデスハイムの地所等を交えながら試飲していく。さらに、その午後の昼食には、そのカルクの土壌から小さな隆起を越えて、フォルストの玄武岩が交じるペッヒシュタインまでのワインを試す。

その後は、フォルストの村を中心とした周りの殆ど地所のワインを試して行き、再び夕食にはギメルディンゲンを中心としたワインに切り代える。そして、翌日は、ヴァッヘンハイム・フォルスト間の地所を時計回りに大きな輪を描くようにして、ダイデスハイム・ルッパーツブルク産のワインへと戻りつつ範囲を拡げて行く。その後にニーダーキルヘン産のフォルストともダイデスハイムとも異なるワイン街道から少し離れた地域のワインを試し、夕食には南ワイン街道へと足を伸ばしもしくはワイン街道の北よりの地域でそこのワインを試すとした。

こうしたプログラムで、確認出来ることは、雑食砂岩ベースのワインの典型に、泥地によって水分が十分に養分をもった時、その土壌にカルク質が増えた時、玄武岩の混入量が高い時、珪素の多い砂地で養分があまり溜まっていない時のリースリングの味や香りにおける影響である。これはとりもなおさず、この地方のワインの特徴に結びついていて、その養分は蜂蜜のような花園の香りを現出させて、カルク質は切れの良いミネラル風味のワインを作り、玄武岩はその花園にベールをかけて充満させ、砂地はシャンペンのような湧き上がり感を創出する。

雑食砂岩基礎の特徴は、モーゼルのスレート土壌やナーへの火山性土壌のような多様性を生まないかもしれないが、くすみ気味の南国の果実や香水のようなワインの味の基礎となっている。そこに各々の土壌の特徴が加わるとしても良いだろう。

該当の中心領域は、南北略15キロ、東西2キロほどの地域に横たわっていて、歴史的にもその収穫量から一等地であり、ローマ人のワイン栽培も進んでいた。そして、細かな土壌の特徴のニュアンスを活かすエレガンスへと近代的なワイン醸造が向って、現在でもドイツで最も価値のあるワイン地所が存在する土地柄である。それ故に、特に辛口リースリングが抜きに出ているわけでも全くないが、品質の良い魅力的な辛口をラインガウと並んで産出し易いことには違いない。

実際に全プログラムを完璧に履行は出来なかったが、試飲に付随してワインの経年変化や等級を体験することが出来たのは幸運であった。

リースリングほど土壌の影響をその出来栄えに反映する葡萄は無いとするのが通説であり、今回もこれを余すことなく提示出来た。そこで芽生えてきた新たな関心とは別に、その時期や年度によっては全く異なる試飲企画のコンセプトをテーマとして定めることが可能であり、試飲は買い付けのための行動であると共に、新たな出会いの機会であることを痛感した。

ワインの摘み取り体験や有料ワイン試飲会や博覧会への訪問、ワイン蔵見学や体験、季節料理とワイン食事会など、数多くの催し物や企画がある。そのなかでも、今回のものは、土壌と言う最も硬い地盤となる含蓄を築くものであって、この体験は甘口リースリングや他のドイツワインなどの判定においても重要な試金石となると思われる。

私の様に、やや並みの舌をもっているとしても、誰でも体験すればこうして深みへとはまって行くものなのである。

上の写真はある醸造家の裏庭にある岩石コレクションから、白いカルクと黒い玄武岩。

写真の南左端にムスバッハとその右上ギメルディンゲンの両町の間を縫うよう、ワイン地所ビュルガーガルテンやマンデルガルテンが手前に伸びる。そこから地図真ん中下方にあるダイデスハイムへとかけてケーニッヒスバッハの大きな斜面がゆったりと落ちる。落ち切った写真の下方がルッパーツベルクとなり、再び右上へとスロープが上るとダイデスハイムの地所となる。そこから一旦小さな谷を隔てて、広い大きなスロープが横たわり、写真右下ボール状マーキングのフォルストへと至る。写真で確認出来るようにそこは山裾が盆地状となっていて、秀でたミクロ気象が特徴となる。そこから写真右へと一旦小さな尾根を上ると地所ペッヒシュタインとなって砂地のゲリュンペルへと続いていく。
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現代オカルトのビオ思想

2007-05-24 | 文学・思想
先週の新聞にバイオダイナミック農法に関する記事を見つける。ベルリンのカフェー・アインシュタインで、元国務大臣レナーテ・シュミット女史が女性代議士たちを集めて、これについてお話をしたと言われる。

この新聞記者は、「まあまあ、そこで驚愕もされることもなく、シュタイナーに言及されることとなり、これで、迷い道へと進む怪訝もなくこれがドイツプロテスタント勢力の土台となった」と語る。

この農法は、先頃カッセルの大学でドイツで初めて講座が持たれることになり、そのオランダ人教授をして、そこで農学を教えるのではなくてシュタイナーのアントロポゾフィーのオカルトを教えているだけではないかと強い批判が挙がっている。

しかし、この記事にあるように、我々都会生活者は土いじり等とも縁遠く、農業など知らない者が殆どで、バイオ、バイオと二言目には口に上らせるだけなのである。バイオ商品に高い金を払い、喜んで健康なものと信じて、変わらぬ不健康な生活を続け、経済活動に貢献するのである。

プロテスタント信仰者にとって、反省することも無く、これほど魅力的な逃げ道はないと思うのは私だけだろうか?

その逃げ道の一つとして、陰陽の二元論的世界観もしくはグノーシス的世界観が、罪滅ぼしを願う工業先進国から、または根本的に西洋化出来ない極東のアジア主義者から生まれている。

特に胡錦濤主席のハーモニー(和谐)社会政策は、我々の知っているマオ思想も、小平の楽天主義も、江沢民の三大主義思想論をも批判せずにすべてを多極化の中で抱擁しようとする思想である。

学而 12
有子曰:“禮之用,和為貴。先王之道斯為美,小大由之。有所不行,知和而和,不以禮節之,亦不可行也。”

子路 23
子曰:“君子和而不同,小人同而不和。”

そこでは、中庸と言う言葉を使うことなく、ジャコバン派の過激を諌めて、陰陽のバランスの中で調和させようとする思考があるのだろうか。

それとも、このように見てくると、哲学思想文化の世界で進んでいたポストモダニズムの影響が、今頃になって政治社会の主導的な思潮になってきている気配すらある。それが、二元論的なそもそも仮想である二大政党制の衆愚政治でありポピュリズムである。細分化して専門化した近代科学が、または象の鼻に触れて判断を下すような短絡が、こうしたカルトを生みだす温床を育てているだけなのかもしれない。



参照:
イエス家の三つ以上の棺 [ マスメディア批評 ] / 2007-03-01
求められる明快な宇宙観 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-25
活字文化の東方見聞録 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-12
二元論の往きつく所 [ 文学・思想 ] / 2006-04-16
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朝食ドイツパンの衝動

2007-05-23 | 生活
毎朝、こうしたものがあれば、それだけで幸せなのだ。思えば、肉屋が閉業してしまってから三年ぐらい経つ。豚肉のはんぺんが焼きあがるのを待って、ブロッツェンと共に取りに行く。それを目前にして朝が始まる。戦闘開始なのだ。

そうした機会がなくなって、戦意を永らく失っていたが、少なくとも月・水・金はこれが手に入ることが判った。これで、胃腸の調子も万全、一日をそれも月曜の朝から攻めることが出来そうである。長い減食期も終り、食欲が強く出て来た折りに、こうして新たな機会に巡り合う。

甘ちょろい柔らかなパン屋など眼中にない。あんなものは、帽子を被ったペドフェィリアの親仁 ― 配達の様子を見て決めつけた ― がパン種を運んで来て、訳のわからない女達がなまっちょろい手でオーヴンにこめる、どうしようもない気持ち悪いものなのだ。あんなものは、キオスクにミルクシェークのようなものを取りに行く男が、ろくに咀嚼もせずに咽下するものだ。

あんなものは無い方が良い。訳の分からぬものは、噛み切って、飲み込んで、腹に収め込んでしまえ。清々しい朝は、こうして血生ぎり、血気溢れるのだ。日は昇り、ぎらぎらと照りつける。なにを戸惑う必要があるものか。

朝食の新鮮なドイツパンほど衝動的なものはない。青空へと向かって勢い良く、なにもかも吹っ飛ばしてしまえ。
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シュタイナーのエコ農業

2007-05-22 | アウトドーア・環境
バイオ・ダイナミック栽培について、ラインヘッセンのヴィットマン醸造所と共にこれを導入したクリストマン醸造所で話を伺った。詳しい者は、あのシュタイナー学園のルドルフ・シュタイナーが生み出した農法であることに直ぐに気がつくかも知れない。またその翌日、それを謳ってはいなようだが、経験からその実践を活かしているゲオルグ・モスバッハー醸造所でもワイン地所見学をした。また、大手名門ブリュックリン・ヴォルフ醸造所も、ダイナミック栽培を推進している。

こうしたエコ農業のコンセプトには、賛否両論あり、ドイツのワイン農業でも、従来の高級ワイン業界に抗したバイオワイン農業団体との間でも、主導権争いがあるようだ。また、ダイナミック栽培の言う具体的な方法は、エコ栽培においても既に承知されている方法であるとするライプホルツ醸造所のような立場もある。

ダイナミック栽培の考え方は、端的に言えば、エコ栽培で出来うる限りの人工的な企てを排除したところから、積極的に手をかけて最も自然の恵みを受け易い形へと栽培を改善・改良して行く方法となる。水栽培などとも比べられる要素もある。

人工的な肥料の代わりに有機的な牛の角などの肥料を撒き、ラボーで準備された水を撒いて、土壌を力強くする豆や茶などを積極的に農閑期に植えていくのである。また、植物の成長が、星座や月の影響を受けるとして月陰暦に従う作業を行っていく。

多様な微生物から、土地はいつも潤い且つ、単一化しないように配慮される。こうすることで、自然の循環を活かして、土地を何時までも活き活きと保持することが出来るようである。その結果、豊作の年と寡作の年の量的平均化が得られると理論は語るが、実際にはどうであろうか?

肥料にて豊作を演出して、市場にて過供給を生み、その成果の放棄を余儀なくされることほど、誰が考えても理不尽なことはない。中庸なバランスを取ったダイナミズムが、経済にも働くとしたら、それは本当の自由経済市場の成就ではないのだろうか?しかし、我々は地球環境さえも、急激に変動させて、そうした神の手さえも我々は完全に失ってしまった。

嘗てはBASFがワイン農家をその合成肥料の大得意さんとしていた状況は、見る影も無くなっている。恐らくそのような土壌の一つであるライターパッドの一部なども、葡萄を植えずに20年ほど休耕させて、自然の力で土地洗浄が進行していることをみると、こうした行いは半世紀単位で計画されていることが判る。

こうした方法を大上段に構えて実施する醸造所のオーナーの顔を思い浮かべると、かえってプロテスタンティズムのイデオロギーが垣間見える。実際、ナチ時代禁止されていたと言うシュタイナーのアントロポゾフィーの志向は、菜食主義者ヒムラーなどの国土改革運動にも現れているようだ。それらは一様に、グノーシス主義の影響が思想に強く現れている場合と見做される。

それはさて置き、こうした方法は今や農業の常識のようで、折衷的実際家モスバッハー醸造所のフロインデンシュトックの地所でのお婿さんの説明にも、その実践が多く言及されていた。それはここでも既に、断わったようにバイオ農業自体が、市場でのその独自性と付加価値示すものと存在していて、実践の良い方法は直ぐに、さらに効率化されてどこでも採用されると言うことでもある。

一例は、写真に見るような、昆虫などの生物生態観測が共同でされていることで、こうしたダイナミック栽培の実行の一部が観察できるのである。また、畝の間にある下草の種類や手入れが、その実践となっている。特に雨量が限られるこの地域は、日差しを当てると共に地面を乾かさないで、自然なミネラル成分の調整を行うために、下草で覆われることも多くなってきている。そして、春になるとディスクで根こそぎトラクターで切られて、ふんわりとそこに乗ることになり湿り気を齎すのである。それは、生物や微生物が生息しやすい環境を作り、それと同時にフェロモンによって害虫駆除をするのは20年以上の歴史となる。

医学におけるホメオパティーと同じ効果をここではダイナミックスと呼んではいるが、これは広義には東洋の思考や陰陽の東洋医学でも同じであり、実証性の問題として存在するものや、論理的に辻褄が合わないものなどもありえる。だから、そうしたものも含めて、科学的に考察して取捨選択して行く価値は十分にあるのではないか。


参照:現代オカルトのビオ思想 [ 文学・思想 ] / 2007-05-24
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ドイツワイン三昧 第六話

2007-05-21 | ワイン
名前:
A.クリストマン

場所:
ギメルディンゲン、ミッテルハールト

特記:
フランス革命後のドイツ三月革命を前に、教会と貴族の土地所有と十分の一税から解放を受け、趣味としてワインつくりが始められて、それから七代目が現当主である。ワイン醸造の六代目とは異なり、経営を専門としている。そのため1996年の引継ぎから後、より現代の市場へと合わせた嗜好やラインナップとなっている。醸造責任者の六代目は、健在であり、それ以前との品質の大きな溝はない。


履行日時:
2007年5月4日並びに5月18日

試飲ワイン:
ヴァイスブルグンダー辛口
グラウウブルグンダー辛口
ブラン・デュ・ノワール
ヴァイスブルグンダーSC
グラウブルグンダーSC
買い付けリースリング葡萄醸造瓶詰め辛口

オルツリースリングキャビネット辛口 ―
ルッパーツベルク
ギメルディンゲン

リースリングキャビネット辛口 ―
ルッパーツベルク・リンツェンブッシュ
ダイデスハイマー・パラディースガルテン

リースリングシュペートレーゼ辛口 ―
ダイデスハイマー・モイスヘーレ
ダイデスハイマー・ビエンガルテン
ケーニッヒスバッハ・オェールベルク

赤ワイン辛口 ―
キュヴェーC 2004
シュペートブルグンダー 2005
サンローレン 2005
キュヴェーSC 2002
シュペートブルグンダーSC 2003
シュペートブルグンダー オェルベルク 2002

ゼクト ―
リースリング ブルート 2002

全20種類。

感想:
リースリングワインは、酸が強く、それに対してバランスを取るような強い蜂蜜の香りなどが特徴となっている。それが最も強く出ているのがビエンガルテンであり、ダイデスハイム産のモイスヘーレやパラディースガルテンである。特に前者は後味の切れが良いので、その特徴を和らげつつ、良い香りを出している。また後者は、まだ開ききっていない可能性を感じさせて良い。独特なアルコール溶剤の成分を醸し出すリンツェンブッシュと共にリースリングの素晴らしさを出している。

ギメルディンゲンとルッパーツブルクの土壌の差を瞭然する土地のワインのラインナップも面白い。それに比較して、オェルベルクの地味な香りと味覚は、その名の通りこのラインナップの中では最も辛気臭い。

ブルグンダー種に関してはあまり付け加える事がないが、SCなど漬物のような匂いやら、なかなか慣れないと親しめないものが多い。

それに比較して、赤ワインは丁寧な作りで、シュペートブルグンダーなどはタンニンの量も多くまだこれから愉しめる。


総論:
酸濃度が高く、通常の消費者には、ここのリースリングは難しい。しかし、昔からすると大分、市場の好みにも配慮するようになっていて、愛飲家が探すと素晴らしい物が見つかる。ただ、その比較的高めの価格設定は、どうしても広い客層を相手にするよりも、少数の信奉者をターゲットとしている。それが、伝統的に趣味のワイン作りとしてのこの醸造所のモットーでもあろう。

通常のエコ栽培を通り越して一挙にバイオ・ダイナミック栽培方法を2004年から採用していて、その内容は改めて記する必要がある。それが、どのような品質として、消費者へと伝えられるかは殆どまだ信仰の問題であるかもしれない。しかしそうしたフィロソフィーが、商品開発や市場設定にも活かされているのは間違いない。そうした点をも含めて評価すべきである。



参照:
醸造所訪問 Weingut A. Christmann (新・緑家のリースリング日記)
アーモンドの咲く里に [ 試飲百景 ] / 2007-03-16
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好みの味と慣れない味

2007-05-20 | 試飲百景
北西からまた南西からと来客が相継いだ。お天気も良く、飲んで、食べて、歩いてと行動的に過ごした。動けば動くほど、体力だけでなく財布の中身を消費するが、健康とはそういったことをも含めて指すのだろう。

今回も合わせて五件の醸造所で試飲を繰り返した。そのうち二件は、開催中のマイシュピッツェンと呼ばれる高級ドイツワイン協会のワイン博覧会の行事の一環として参加していて、各々試飲会を行った。

先日訪れて、すべてのワインを試飲したところであり、新たに差し出されたワインは四種類ほどでそれほど新味はなかったかも知れないが、一緒に訪問するお客さんが異なるので大変興味深い。特に女性の感想が交じるのも嬉しい。

なぜならば、その其々のワインに対する感想や試飲の選ぶワインや購入するそのワインの価格など、人其々異なるのが面白い。ワインの味への分析は、殆ど変わらないのだが、好みは皆其々あるのだ。

具体的に言うと、ミュラーカトワールのリースリングの強い味よりもヴァイスブルグンダーを、フォン・バッサーマンの現在のマイスターのワインには透明で力のあるウンゲホイヤーを、クリストマンの強い酸のリースリングや変わった味のブルグンダーよりも値打ち物の2003年酸赤ワインを選んだ。また、シュピンドラーのイエズイテンガルテンを食事の後に試飲して購入。そしてゲオルグ・モスバッハーの果物の薫り高い酸が強く表に出て、ミネラル風味の多い物ものよりも、旨味のあるヘアゴットザッカーのシュペートレーゼとカビネットを選んだ。

各々のワインに対する各論は改めて纏めるが、選択の基準の相違が好みであって、それは殆ど味覚の敏感さや評価とはあまり関係ない。旨いものは旨い、不味いものは不味いのである。

同じように、マコンから訪れた我々のアルペン協会の友好協会の仲間が、前日ワインの試飲をした。これもワインの原料を生産している農家の人もいて、外国へと輸入していると聞いた。なるほど、あの地域では瓶詰めして直接商品にするのではなくてサパージュのワインとなる商品を作り、大手が瓶詰めしたりしているのである。つまり市場に合わせて、その味を調整して大量生産するのである。その立場からすると、好むと好まざるに係わらず種を強く打ち出すドイツのリースリングは特別に絶賛されるのは当然であろう。

味の好みと言えば、先日日本から醸造所へ持ち込まれたお土産の上等な海老煎餅が封を解かれて置かれたままになっていたようだ。各々の醸造所でそれについて話を聞くと、「慣れないと、なかなか愉しめない味」で「魚の味でなかなか進まない」とか、「以前にやはり日本人から貰った物は、かなり匂いが強くて酷かったが、それに比べると全然良かった」とか、驚いたことに全く同じ反応であった。

実は以前に、偶々スルメ烏賊を貰った事がある。それをワインと食べようかなどと愉しみに考えていたが、袋を開けた瞬間から気持ち悪くなったことがある。やはりあの手のものは、かつてそれに慣れ親しんでいたとしても、全く受け付けなくなる種類の味らしい。勿論、上のお土産は大変質も高いものであり比較出来るようなものではなく、「ワインに合わせることが出来ないだろうか」とする考え方に「そうだろうかな」と言ったようなものなのである。

味の分析は、あるイメージを回帰することが出来るかどうかでもあり、それを好ましいと思うか、奇妙と思うかは、その人の経験や食生活などのライフスタイルに関わっていて、選択の基準となっている。これは、その質にはやはり一切関係ない。

先日試飲の店先で、「好みが同じだと大問題だよな、皆が同じ女性が好みだったら、これは豪いことになる」と話したのである。
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懲りない葡萄園の農夫達

2007-05-19 | ワイン
承前)ダイデスハイムにある石像を見ていると、首を撥ねられたと言うバルバラの首が欠け、ヨハネの首も残念ながら欠けている。このヨハネは、サロメに首を撥ねられた洗礼者ヨハネでは無いが、こうして首が無いことで顔つきが全く判らない。

さて、ラッツィンガー博士は、速記的な史実をして、そうした考え方はまさにグノーシス的な見解であるとしている。つまり、インゴ・ブレールの見解「ヨハネによる福音は、宗教を感化して強化する文学的な作品で、我々の眼からすると史実とは言えない」をして、これは誤った歴史認識と誤った信仰認識に立脚していると批判する。要するに、それは肉を、肉体化を史実とするグノーシスなのだと。

イエスの演説が録音されている訳でなしとして、そうした認識論に対して記憶と言う概念を提示する。そしてそれは、この福音書において非常に個人的なものとして編集されている例を挙げて行く。

しかし、19章35にある記憶は決してただの個人的な回想ではなく、あなたたち(我々)と言う教会を指していて、この福音書における回想の主体は複数の弟子達であることを明示する。

この要素は、結局はローマンカソリックの基本姿勢であるとここで読者は知るのだが、なにも今更ツヴィングリとルターの論争を呼び興す必要も無く、共同体の意味合いをここに学ぶ必要も無い。むしろここで示されているのは、近代の哲学であり、ありとあらゆる学問の基礎にある対話に、他者に自己投影する態度に違いない。

特に脳神経学の最新の研究成果などを耳にすると、ここに繰り広げられるカトリシズムの信仰態度は、大変に思考形態として参考になると思われる。そうした関連を含めて、「記憶」と「記録」については改めて考えるとして、その発端となったヨハネの福音書のワインへの言及を扱った部分へのラッツィンガー博士の章節を少し試飲してみる。

主にそこでは2章の「カナの結婚」の話と12章の「ぶどう園と農夫」のたとえ話が解説されているのだが、先ずはありとあらゆるこの地球上の生命の基本要素である水から、パン、オリーヴオイルと並べられる地中海文明を思い起こす。そして賛歌104に、草、家畜、パン、ワイン、そしてオイルが挙げられるとき、神の恩恵であるワインは御心を喜ばすとある。

水は必需品であり、ワインは祭りに供される、ヘブライ神学者フィロンの考え「ワインの供給者こそが、神のロゴス」であるとして、そこに喜びと甘味と快活が授けられる。

だから、カナの結婚式に供される520リットルのワインは一体全体豪遊を表わすだけなのかと問いかける。そして、三日目の3の数字の意味を考えながら、伝承される栄光が神の顕示であることを導く。同時に、富みも貧しきも水も火もパンも、労働と共に日々の生活に欠かせない一方、過ぎ越しの祭りに供されるワインにその実りの意味合いが強く込められる。

また、15章におけるイエスの別れの挨拶に、その成就がワイン畑の唄として詠まれる。それが、カナの結婚に、また、ワインの幹へと肉体化したイエスが葡萄の実をつけるとき、もしくは失望の酸っぱく食べられない実をつけるとき、新たな意味合いを持ってくる。

そして、「ぶどう園の農夫」の地主である貸与人からの土地強奪を推して、イスラエルを考えて、またワインの幹がもはや神の恩恵ではなく、イエスがそのものとなるときに、彼がそのもの神のものとなることを示す。だからこそ、もはやこれは奪われるものも無く、奪われることも無い存在となるが、そこに浄化が欠かせないものであると語られる。

そこで、大命題が挟まれる。イエスの言葉は、「いつも今を語り、将来を語る」と。一体、我々は、今日の出来事を、眼を開いて、そこに近代の論理を見ているのか?

「神は死んだ、そして我々が神になった」、

「我々は今や誰の持ちものでもないどころか、自分自身のもので、世界を支配しているのだ」、

「やっと、我々はやりたいようにやれるのだ」、

「神を捨てる、そして自らを尺度とする」、

「ワイン畑」は我々のものだ。

著者は言う。人類に、世界に、何が起こっているのか、さあ、見てみよう!

実りは、予言どおりに成就され、実に美味いワインが出来上がった。同時に、神はそうした腐った葡萄をもぎ取ることが出来る。神の公正から不正や暴力を取り除いて、初めて枝は貴葡萄に弛み、摘み採られ、搾られて、立派なワインとなるのである。

著者の故郷にはワインは育たないが、バイエルンにはフランケンワインも供される。
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右に位置するヨハネ像

2007-05-18 | 文化一般
左から輪を持ったアレクサンドリアのカタリーナ、本を携えたヨハネス、マリアとニコメディアのバルバラが十字架を囲んでいる。1431年に作られた石像で、地所の名からグラインの像と呼ばれる。シュパイヤーの大司教区の管轄地であるダイデスハイムの歴史的記念物である。

14護神の聖人とされるカタリーナは、マクセティウス皇帝時世に轢死刑を受けるとその車輪を壊し、最後は首を撥ねられたとされる。言語障害における守護神とされる。同じくバルバラは、自らの父親に攻めを受けて首を撥ねられたとされ、雷や火事に対して、探鉱、建築、鍛冶、砲兵、地質関連の守護神とされる。

マリアはさておいて、その後の初期キリスト教を考えるとき、ヨハネは重要である。その福音書や予言等で有名なここに具象されているその福音記者に、ヨゼフ・ラッツィンガー博士は、新著「ナザレのイエス」の中で、光を当てている。

なによりも一体誰がこの四つ目の福音書を編み出したのか?と大きな疑問を紐解いて行く。そこで、前世紀の後半の研究成果である、ルドルフ・ブルトマンの「この福音書は旧約聖書やユダヤ社会よりもグノーシス的な内容となっている」とする見解を挙げ、ヘロデ王時世の上流階級のヘレニズムの教養からこの編者を吟味する。

― さてシモン・ペトロスともう一人の弟子は、イエススについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエススと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入って行ったが、―

特にこの18章15のそのもう一人の弟子に注目して、その正体に迫る。そして主題である、一体編者は?を答えるに、この福音書の受難書としての性格から、19章35における「目撃した者」がこの弟子であり十字架の前に立っていた事を振り返る。

― その弟子が、イエススの胸元に寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですかと」と尋ねると、―

― いまだにかつて、神を見た人はいない。父のもとにいる独り子であるイエスス・キリスト、この方が神を示したのである。―

つまり、この証言こそが洗足の事象を掘り下げて、さらに13章25にあるような胸元により掛かる弟子の様子が、1章18が「胸元」となって対応しているのだとする。その福音家は、イエスが神の子であるように、イエスの傍にあるとしている。

それでは、この弟子は一体誰なのか?ヨハネについては隠されている。預言者と福音家もこれに近いにも拘らずなぞのままである。そこから、ウルリッヒ・ヴィルケンスの「最も愛されている弟子は、史的な人物像では無く、信仰の構造である」とする見解と反対に、それを具体的な証人とするとすべての福音書は無に帰すとする。

そして興味ある事にフランス人の研究から、長男が客の右に座り、胸に頭を埋めるのがユダヤ人の習慣であったと言う。そして、これらをすべて見たとする事から、ヨハネスクールと言うものの存在を考え、そこから長老ヨハネと言う存在を演繹する。(続く
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フランケンシュタイン蔵

2007-05-17 | 試飲百景
身売りした大醸造所での試飲会である。三月に続いて本年二回目の試飲会である。そのような訳で、瓶詰めから時間の経った落ち着いたワインの試飲を期待した。

人手に渡ろうが、ここのワイン蔵の歴史には変わり無い。その町中の地下の世界を尽く繫げる長大な蔵の一部に、次のプレートが掛かっている。中世末期に掘られた蔵の極一部の由緒を示している。

― スパイヤーの大司教ルドルフ・フォン・フランケンシュタイン伯、1554年にこれを作る ― とある。ここのワイン蔵でも最も新しい部分でないかと思われる。

新たに瓶詰めされて市場に出た中から幾つか。樽違いのヘアゴットザッカーは以前の物ほど新鮮さが無い。モイスヘーレは始めの当たりが面白い。ホーヘブルクは残念ながら売切れてしまったライターパッドに似ている。グラインヒューベルはミネラル風味がなかなか良い。ウンゲホイヤーは既に書いた通りである。樽試飲していたフォルスト産のプロブスが、ステンレス熟成ながら、なかなかしっかりしているが価格ほどの価値があるかどうかは疑問である。木樽作りのダイデスハイム産のアウフ・デア・マウワーの方が安くて良い。シュペートレーゼのラインヘーレやキーセルベルク・アウスレーゼ、ムスカテラーのアウスレーゼ、シュティフトのアウスレーゼなどを試すが、昔からすると大分弱弱しい。ライターパッドのトロッケンベーレンアウスレーゼも試すが、ハーフボトルで150ユーロは高過ぎる。

温暖化が進んで貴腐が進んだところで糖比重を上げる事は殆ど問題が無くなっただろうが、2006年のように腐敗が混ざると、殆ど粒毎に剪定を行ったのであろう。そのお蔭で、流石に汚れは皆無で、硫化物の多さも気にならなかったのは立派である。手間暇かけたお駄賃代わりの価格なのだろう。

意外に、前回と違い良く感じたのが、プロセッコの発砲ワインであった。これも価格が7ユーロは高過ぎる。赤ワインやブルグンダー品種は試さなかったが、ザールのケッセルシュタットと言う醸造所のワインをそこで試すことが出来た。

試した地所は、モーゼルのヨゼフへーファーとルーヴァーのカッセラーニーシェンのワインであったが、ザールのアイラークップを思い出した。感応時間的に後の方に味がある。お茶で言えば玉露の旨味みたいなものである。土壌の特徴なのであろう。酸も効いていて、その点から、決して悪くは無いのだが、古臭いワインの印象がする。後のものは、グランクリュでも比較的安価であったが、全体の価格を見るとあまり勧められない。

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