Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2022年9月

2022-09-30 | Weblog-Index


携帯型DACの実力は? 2022-09-30 | 音
独FBIの方からの電話 2022-09-29 | 暦
室内楽会場の環境芸術 2022-09-28 | アウトドーア・環境
「半糞有色黒人」の総譜 2022-09-27 | 音
クロンベルク再訪へと 2022-09-26 | 文化一般
傲は指揮者の特性か 2022-09-25 | 雑感
あまりにも美しい音の響き 2022-09-24 | 音
難しい切り替えの指令 2022-09-23 | テクニック
失敗を演出する制作意図 2022-09-22 | 文化一般
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般
冬タイヤ装着への準備 2022-09-20 | 暦
形而上の深淵が開く仕草 2022-09-19 | 文化一般
三年ぶりのライン渡し舟 2022-09-18 | アウトドーア・環境
紙一重の読み替え思考 2022-09-17 | 文化一般
往復499kmのバーゼル劇場 2022-09-16 | 雑感
何時の間にドイツの森に 2022-09-15 | 文化一般
来年の祭りからの避難計画 2022-09-14 | 暦
宝物館とならぬ音楽劇場 2022-09-13 | 文化一般
クレーンゲームのど飴 2022-09-12 | 文化一般
魔弾の射手から守護者へ 2022-09-11 | 文化一般
セル指揮ブルックナーの響き 2022-09-10 | 音
行きはよいよい帰りは怖い 2022-09-09 | 生活
遺伝かはいざ知らず 2022-09-08 | 音
初の本格的な秋の降雨 2022-09-07 | 暦
堪える夏の終わり 2022-09-06 | 生活
聴認識の限界を試す 2022-09-05 | 音
米国お披露目ツアーへの弾み 2022-09-04 | 文化一般
ルツェルンのお土産吟味 2022-09-03 | 生活
わらないドタバタの一日 2022-09-01 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

携帯型DACの実力は?

2022-09-30 | 
旅行用のDACが届いた。支払いは済んだのかどうか確認していないが、早速開けて試してみた。なによりもの目的は、ミニノートブックに繋いで、デジタル出力から録音可能となるかどうかだった。

先ず荷物を受け取ると封筒に入っていて、思ったよりも簡単な送り方だった。箱はこの辺りの中華製品と同じく頑丈にコムパクトに出来ていて、これだけで日本製品よりもいいと思わせる。いいところを安く真似しているのだろう。

早速同封のUSBケーブルで接続して、ヴォルュ―ムのスイッチをオンにすると、LINUXが読み込んでいた。ブラウザーでラディオを流すと綺麗に流れて、ヘッドフォンでも快適な音が流れたが、以前の録音を流すとどこか歪みやノイズも感じた。例のBRのノイズだったかもしれない。しかし何よりもヘッドフォンを外しても録音可能で、オフにするとアナログ録音に切り替わっていた。これで目的を達した。旅行先のホテルでこれから生中継が始まる放送のタイマー録音準備をしておけば問題なく可能な筈だ。

ノイズが気になったので早速メインシステムに繋いである音楽専用LINUXに接続してみる。ヘッドフォンでは問題なく流れたが、それをラインアウト若しくはコアキシャルからデジタル出力にするには梃子摺った。結局送る時のパルスオーディオを使わないといけないようで、DACからの戻りは再生できなかったようだ。先ずラインアウト出力はやはり団子になる傾向があって、音作りはしてあるのだが、やはりHiFiには遠かった。持論ではデジタル機器を駆使すれば適当な価格でスタディオ音響再生が可能としていたが、やはり最後はアナログ処理になる。ヘッドフォンのそれは音場感やノイズに対しても敏感に聴けるのでモニターには使える。しかしそれ以上の美感は求められない。成程ヘッドフォーンの方が臨場感は出てくるのだが、このDACでは音の分離や密度が足りない。

デジタル出力に期待したが48kHzしか出力しないようで、この価格帯としても物足りない。入力は32Bit384kHz迄対応しているので現時点では全く問題がないが、やはりメインで使っている三倍ほどの価格の製品には到底敵わない。

アナログ出力にしてもハイレゾになればなるほど低音がぼたついて、やはりこの辺りの製品ではハイレゾの綺麗な再生は難しいと思った。圧縮AAC音声のヴィデオなどでは差が分かり難いのだが、それでもバーデンバーデンの「スペードの女王」とかになるとライヴを知っているだけにその差が厳しい。やはりAACでもアップサムプリングで出力するとよりライヴに近づく。

一先ず目的は達成したが、旅行以外には普段使わないとすると惜しいので、やはり篭り部屋でも使ってみたい。しかし音質がこの程度となると、アンプへの投資意欲が下がった。なるほど音楽映像だけでなく映画やニュース類などを観ようと思えば、小さなシステムは使い易い筈だが、もう一度最低必要な出力とか品質について検討してみたい。11月の一度のミュンヘン行を断念したが、その資金でも無駄なものにはやはり投資したくない。もう少し様々な面から検討したい。



参照:
独FBIの方からの電話 2022-09-29 | 暦
傲は指揮者の特性か 2022-09-25 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独FBIの方からの電話

2022-09-29 | 
散髪に行った。前回は7月10日頃なので、二か月以上伸ばした。先日の寒気がなければ早く言っていただろうか予想外に冷えた。ここに来て雨となって冷えが和らいだ。チャンスであった。来週中頃からは摂氏20度近くまで上がりそうなので、気持ちの良い黄金のオクトーバーを過ごせるだろう。

最近は日の出が7時半近くになっていて、朝が起きれなくなっている。早く夏時間が終わって欲しい。夜は反面19時過ぎ迄は野外活動が可能である。床屋ではもうマスクが要らなかった。10月1日からどうなるかと四方山話を振ると、まだ決まっていないというのである。土曜日が初日なので、恐らくこのまま突き進むのだろう。

流石にやり手婆も、近隣交通機関やお店では必要になるのにおかしいと話している。勿論誰もマスクなどは望んでいない。勿論婆らはブースターを何回も打っているのだろう。こちらはお構いなしで、此の侭推移して欲しいものだ。ワイン祭りのことも話していたので、それは当然だと思う。

しかしこれで次の散髪も混む前に出かけられると思う。11月の待降節前に予約を取っておけば、新年迄は引き延ばせる。もうそこはお正月だ。現金を使ったので、新たに現金を下ろしに行った。上手くいけばこちらも年内はこれで済ませれるかもしれない。年四回200ユーロもあれば現金はそれで十分か。もう一つ必要なのが洗濯屋のシャツ一枚2,20ユーロぐらいである。その他は音楽会などのプログラムぐらいか。

税務当局から入金確認は来たもののまだ口座が閉鎖されている。閉鎖を開放するだけの判断とは別の様で約束が違うといいたいが、遅れ過ぎて次の支払いが出来ないでいる。何とかしろと言いたいが、銀行で遅れている可能性もある。発注したDACは支払い不履行なのだが、商品だけは送られてくる。実は次の発注を考えている。

冬の篭り部屋の机を見たら奥にオーラトーンの5cのモニタースピーカーが置いてあるのに気が付いた。この春から仕事机のそれを片付けて篭り部屋に送り込んでいたのだった。昨今人気のデジタルアンプを使ってみたいと思った。調べてみると出力60wぐらいでも使えそうなのだ。勿論上で発注したDACからのラインアウトからラインインに送り込む。PCから直でデジタルで出してスピーカー迄直結となるので、YouTubeぐらいはそれで聴けるのではないかと思う。NASのシステムやサブのスピーカーシステムにも満足はしているのだがもっとシムプルなシステムも使い易いと思う。

公開している番号の電話が鳴ったので珍しく年に二三度出るときの一回として受話器を上げた。するとおばさんの真面目そうな声で、独連邦犯罪局の依頼で電話していると話した。そして私の名前を出して本人かと聞かれたので、即座に「彼は居ない」と居留守を使った。そもそもそんなところから電話が依頼者を通じて掛かるのかも疑問だった。調べると広域犯罪も扱っているようで、所謂独連邦共和国におけるFBIらしい。余計に電話で問い合わせというのが不思議だった。思い当たることは幾つかある。例えば復活祭での刃傷沙汰とか、必ずしもこちらに犯罪容疑が掛かっていなくても聴取して欲しいことは幾らかある。確かに態々書類を送ってくるという問題では無かろう。そもそも犯罪容疑なら呼び出しが直ぐに掛かる。また掛けるといったが、でも調査ならばやはり所轄の警察を通じるか、直接しかないと思うのでやはりフィッシングか。



参照:
ワークステーション仕舞 2021-09-20 | 生活
批判的に処する冷静な感覚 2012-05-16 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

室内楽会場の環境芸術

2022-09-28 | アウトドーア・環境
街道筋の閉鎖が除去された。その一日前に数日ぶりに走った。前回水曜日は足の調子が悪かったが、休んだお陰で全く問題がなかった。やはり疲れると駄目なのだと分かった。

新ホールへの訪問は週末に迫った。曲目等は様々なのでと思ったが、改めてプログラムを見るとそんなに悪くないと気が付いた。時間を作ろうと思う。杮落としに関する評が載っている。音響が大絶賛されている一方、その環境にやさしいコンセプトなど全てが成功しているようだ ― 抑々、ホールの音響なら計算(と恐らく経験)で誰でもいいホールは作れると書いている。

そこから世界の有名室内楽会場、フィラデルフィアの1726ローカスストリート、ロンドンの36ヴィグモア―ストリート、マサチューセッツリノックスの297ウエストストリートの横にベートーヴェンプラッツのカザルスフォールムが置かれるだろうとしていて、カーティス、ウィグモアー、タングルウッドとカザルスフォールムとされるだろうとしている。

確かにここで書かれている通り、件のシフ指揮のバルトーク作曲ディヴェルティメントの演奏もその稀に聴く密な印象にも拘らず四声部の構造が拡大鏡で覗くように聴こえ、しかしその不協和音はあくまでもシャープであり、丸められていることはない、それが指揮者演奏家の腕だけとは聞こえずに、付け加えることのなく削られることもなく響いたと分かるとしている。

まさしく放送で響いたそのものであり、殆どぼけ老人の様なシフの指揮も楽団のアンサムブルの上に乗って、それでも自らの音楽となしていたが、それ程素晴らしい音響だった。それがこのホールでの最大規模の編成のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲では無指揮者で演奏されたことでも証明されていた。

いい演奏というのは、いい演奏家だけが為すものでなくて、聴衆が為すものではない、その環境が大切なのである。音楽に限らず、芸術を作るのは環境なのだ。故に当地の駅からの開発と組み合わされたようで、環境開発としても視察が楽しみである。

上の批評で思いつくのはやはり夏のツアープログラムのマーラーの七番である。如何に細部の楽譜を音化しながら同時に全体の響きとしてその音響構造に注意を向けるか、もしくは作曲家が意図したその音を聴かせるかでしかない。そういう音の構造自体が現在の交響楽団などが成立した時、つまりそれらが伝統とか個性とかするようなメインレパートリーでの演奏では要求されないアンサムブルなのである。尚の事、より歴史のある劇場の座付き管弦楽団の世界とは大きく異なる。

しかし、こうした室内楽のアンサムブルにおいてはよりその創作に迫れるというのはそういう意味合いもある。今回でも室内管弦楽団が演奏したハイドンにおいても、その弦の奏法とかで、比較的容易にありうるべきバランスのアンサムブルに近づけるというのはそういうことなのである。エアール音楽祭でそうしたブラームスの交響曲の演奏が叶った背景でもあり、個人的にも十年以上は大管弦楽団など眼中にはなかった理由でもある。



参照:
クロンベルク再訪へと 2022-09-26 | 文化一般
並行した空間からの響き 2006-02-03 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「半糞有色黒人」の総譜

2022-09-27 | 
本年のベルリンナーフェストシュピーレ最終日の評がベルリンのターゲスシュピール紙に出ていた。今回のミンガスの曲の再演でも学ぶことがあったので、最後纏めておきたい。生放送番組でも作曲の背景などを知っているか知らないかはどちらもあり得るという事だった。しかし、今回のコンセプトの中でのフィナーレとしてのそれは記しておく必要がある。

先ずこの高名なジャズメンの背景なのだが、チェロで管弦楽団員を目指していてその人種故に成れずにジャズを目指したところまではよく知られる。この「エピタフ」初演の1961年当時に問題となっていた黒人差別問題では、実は本物の黒人ではなかったのだ。本人が「ハーフシットカラードニーガー」と称していたように、スェーデン、英国、中華の血が混じっていたというのである。その実1940年には黒人特許のジャズしかなかったという事である。

だからこの二時間にも及ぶ大曲が、ソロとバンド、二群のバンドなどでの対位法的な扱いや対比が音楽的に構築されていることの意味を、当時の黒人解放の社会背景と共に想像することが可能となっている。中継を聴いて直感的にこの演奏がルツェルンの音楽祭でなされなかったことで、そこのダイヴァシティーの嘘臭さが強調されたと感じたのである。まさしく作曲として表現されているそのものだ。

その後に1989年に合衆国を代表する作曲家の一人ギュンタ―・シュラーによって総譜が校訂されている。その初演は2007年になって初めてで、今回が再演だったらしい。その楽譜と内容から、ジャズメンだけでは演奏が難しく双方を知っている奏者を必要としたという事だ。シュラー自体が若くしてシンシナティ―の奏者になってその後第三の道としてジャズとの間に立脚した作品を出している。手元には、管弦楽団の在り方の問題から1958年に創作した「スペクト」のシカゴ交響楽団での録音があるが、シェーンベルクの音色旋律を押し進めながらも、ミンガス作品との共通性もなくはない。

この批評にある動きが抑えられた指揮のエンゲルとドイツェオパーベルリンのビッグバンド並びに管弦楽団そしてジャズ研究所の面々が内面の抑圧からの暗さと内なる歌、錯綜と恍惚を思いのままの演奏の喜びと特筆すべき明晰さで表現したとの評にその創作の内容を知ることが出来るだろうか。

ゲストの1980年に第二回初演を共演したランディ・ブレッカーのトラムペットに関しても賞賛されていて、その他の木管楽器、サクソフォーンの音色に関しても言及、フリーダムのテクストを歌った歌手の強い印象、パーカッションの出し入れの精妙さ、ドラムとコントラバスの息を吞むソロの妙技、ブラスの調性ギリギリのアコードとティムパニーとの未だ嘗て聴いたことのない音色のオーケストラサウンドを体験したと絶賛している。即興の妙に関してはもう少し繰り返して生中継放送録音を聴いてみないと分からないが、少なくとも繰り返して聴けるだけの内容があることだけは既に認めている。

指揮者のエンゲルにとってはある意味日常茶飯の仕事であったかもしれないが、今回の様にフィルハーモニーの大ホールを一杯にしての大成功はやはり大きな成果だったのではなかろうか。
Charles Mingus: EPITAPH (Preview)


ギュンター・シュラーによる1991年のサンフランシスコでの練習風景:
Charles Mingus' "Epitaph" (c. Gunther Schuller), June 9, 1991. Final Rehearsal- Davies Hall, SF



参照:
Musikfest Berlin: Die Freiheit, die ich meine, Isabel Herzfeld, Tagesspiegel vom 20.09.2022
ミンガス作演奏の第一人者 2022-09-21 | 文化一般
興奮の復活祭の追憶 2022-05-05 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クロンベルク再訪へと

2022-09-26 | 文化一般
土曜日はクロンベルクからの生中継を流していた。新しいホールの杮落とし特番だった。17時15分から始まる最初のコンサートの前の15時過ぎには番組が始まった。凄い力の入れようだ。21時半前まで中継が続いた。HR文化波が直接関わっていた様ではないのだが、ホールの本体であるセミナーの録音などはアーカイヴとして大分持っているようで、今後もメディアパートナーとして活躍するのだろう。

そもそもこのアカデミーは弦楽それもチェロを中心とした演奏家を輩出したのでカザルスホールになったのだが、最近では日本ではミュンヘンで優勝した岡本が杮落としでも弾いたように成果であった ― 今回は弦を切ったらしいが。そしてソロを弾いたタメスティも卒業生となっている。今回はスイスで演奏拒否を受けたチェロの女の子なども出ている。

そのような塩梅で、アカデミ―に関わっていないとその演奏に接する機会も少なかったのだが、またそれ相応の専用ホールもなかったことも大きい。そこで今回の新会場となった。その目的からも、ソロの音響から室内管弦楽団の大きさまでを考えられて600人足らずのホールで多目的に使われる様に設計された。

新聞によるとその為にも壁を気が付かれずに材質など可変させることが出来るようで、杮落としでも大小の形態のアンサムブルで試されたのだろう。形状としては最終的にフォーラム型になったようで、室内楽の特性上聴衆と一体になってというのが諮られた結果らしい。その結果は、反射の壁を作るために遂に複雑な形になっている。目指すのは自然のドルビーサウンドだというからなるほどだ。更に上へと天井が嵩上げされて、舞台上の反射板が必要になった。

これ以上は現地視察してからしか語れないのだが、放送の音質も素晴らしく、そこで聴いた限りは残響もいい感じで広がって、なによりも舞台での反射の速度感が素晴らしいと思った。通奏低音はがっしりとしかし重くならずにごしごしと響きながら上声部ともしっくり合っている。とても現代的でありながら、肌触りのある音響は喜びの愛撫であって、とても魅力的だ。TVニュースを観ると、予約している座席からの音響がとても楽しみになる。

実はクロンベルクは先ごろ亡くなったご近所さんの里でそこでヴィクトリア女王の娘さんでプロイセン王妃の薬局の息子がいたので知っている。今回も亡くなったエリザベス女王との関係も語られていたが、所謂ザクセン王家の子孫でもある。今も立派なお城はホテルとして使われている。駅から歩いて行けるような場所にある。2006年に出かけた際に調べてまとめてあるが、芸術家のコロニーが生まれた場所であり、今後はクロンベルクの室内音楽祭として、フランクフルト市内から電車で30分も掛からないことから多くの聴衆が集まるのではないかと思う。元副首相のショイブレ博士はコロナ感染の為か体調不良で欠席。

フランクフルトのアルテオパーの中ホールの音響もまずまずである事を考えると、若い人の登場の場となると同時に大物の演奏会も期待したいところだ。先ずは出かけて行って、その音響を確認して、まだ来年まで完成していないセミナー領域などの雰囲気も視察してみたい。結構楽しみなのである。来週早々に床屋の予約を取った。年内もあと二回ぐらいか。



参照:
並行した空間からの響き [ 音 ] / 2006-02-03
クロンベルクの皇后陛下 [ 女 ] / 2006-02-02
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

傲は指揮者の特性か

2022-09-25 | 雑感
FiiO(飞傲)のDACを買おうかと思っている。切っ掛けは旅行中の宿でのライヴ放送録音が動機付けとなっている。七月のザルツブルクは祝祭劇場から30分ほどのところに泊まったので、WiFiさえ動いて呉れれば留守録も不可能ではなかった。しかし10月にアウグスブルクから早めに出かけてとなると、放送の受信だけでなくPCからどこかにデジタル出力しないとデジタルサウンドを録音出来ない。ザルツブルクではノイズキャンセルイヤフォーンを使ったが、充電時間など覚束ないので、USB-DACへ送り出して、それを録音しようかと思う。

HDMI出力を録音しても構わないのだが、20ユーロ程でUSB電源で使えても、何か無駄な配線が増えるような感じで、重量も200gほどになっている。それに比較すれば小さなヘッドフォーンアンプが数倍の価格である。価格差は大きいのだが、ハイレゾでいざとなれば自宅のDACが壊れても一時的には代用可能になる。重要なのはPCから出来るだけピュア―なPCMを取り出すことである。それをLINUXに接続すればPCから思うように回路を区切って使える筈だ。USB接続の大きな利点だと思う。更にそこから電源を取っていることになっている。

移動中のノイズキャンセリングフォーンには特別なDACは必要ないのだが、ミニノートブックを本格的な試聴に使用しようと思えば、サムプル周波数384kHzの32Bitまで使えるのでアンプさえ真面ならば真っ当なヘッドフォーンが使える筈だ。

ワイン祭り初日は久しぶりに喧しかった。最初はバスの振動も耐えていたが、流石にノイズキャンセリング無しではいられなくなった。振動はキャンセルできなくても喧しいのはやはり倍音成分なのだ。200ユーロ以上したが、飛行での使用を考えていたが今や近所のドライヴ以外には欠かせなくなった。安いものである。二週間も他所に宿泊していたら幾ら掛かるか。

それなりの人は集まっていたが、近所からだけ。マンハイムとかの遠方の人や旅行者は殆どいない感じだった。但しPAシステムが9世紀からの市の壁に跳ね返って、壁際の自宅は揺れ続けた。近いに住む人は今年はバンドが来ていないので出かける価値はない。それでもワインフェストは好きだと言っていたが、以前はそんなにいいバンドが来ていたかなと思った。南欧向けとか出しものにもあるようでこちらはよく分からない。少なくとも歌詞とか言語とか何とかでの差異なのだろう。あんなリズムマシーンに様なものに差異があるとすれば音楽以外の要素である。

対抗して大音量でベルリンからのラディオを流したが、なるほどキリル・ペトレンコと相談してのクセナキスの曲の指揮は悪くなかった。ああした曲になれば何もフィルハーモニカーのような上質な演奏団体は要らない。その差が出ない。バルトークはヴァイオニストが上手かった。なによりも指揮者のユロウスキーの口ぶりが一番上手かった。上手過ぎるだけに後半のマーラーでは口三味線程に指揮出来ていないのも丸わかりである。あそこ迄明白に語るならそれだけの音化しなければいけないのだが、本当に楽譜を其処迄読み込めているのか、それともただの指揮者の文学なのかが定かでない。その点エンゲルなどはあっさりと自分のやろうとしているコンセプトしか語らない。評論家のような指揮者は大抵実力が至らない。



参照:
あまりにも美しい音の響き 2022-09-24 | 音
難しい切り替えの指令 2022-09-23 | テクニック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あまりにも美しい音の響き

2022-09-24 | 
オクトーバーのミュンヘン行を練った。11月の二泊の宿をキャンセルしたから、その予算が浮いた。やはり帰宅が25時前は無理だと思った。念の為にアウグスブルクにミニバー付きの宿をとっておいた。安いところだけならばミュンヘンの南や東にもあったが、コンサートの翌日に、態々買い物に行くのも面倒だと思った。だから、帰路に泊る所として確保した。往路に15時にチェックインして仕舞えば、適当な時刻にミュンヘン入りして、翌日のチェックアウト迄ゆったりと出来ると思った。お土産に何かを購入しても、秋でもありお昼ごろワイン街道を出発すれば17時間ほどはアイスボックスの氷はもつので朝までは大丈夫である。ミニバーではあまり氷はもたないのだが、アウグスブルクから3時間ぐらいなら何とかなるか。天候状況や体調などにもよるが、前々日まではキャンセル可能なのでまた考えればよい。

2019年のミュンヘンでの「死の街」、ブルーレイをコピーして、LINUXシステムのSSDの中から再生した。PCM48kHzでしかないハイレゾである。なぜか再生の音質が悪い。リッピングの過程でエラーから落ちたというよりも音が冴えない。それで、ブルーレイに焼く為に先ずはNASへと転送する。数時間掛かった。アップロードの速度が遅いからだ。そしてそこから同じシステムで呼び出すと、馴染みの音色が蘇った。まさしく劇場で響いていた音響である。管弦楽の美しさも比較にならないが、マルリス・ペーターセンの歌声はそこ迄音質が上がらないと最後の最後の声の表現がそっくり落ちてしまうと思った。勿論ヨーナス・カウフマンの最も売りの表現は上の部分での発声とその表現力である。

その音質による差があまりに大き過ぎて驚愕している。上の例ではなぜまたこんなに声がない人がと思わせるだけでなく、その技術にも影が射す歌唱にしか聴こえなかった。要するにその最後の最後のところでの発声表現をしているので、そこの情報が落ちてしまうと最高級の歌唱が駄目になる。管弦楽においても同様で、単に正しい音を出そうとしている以上のその挑戦の差異が付かなくなる。勿論雑音が入ったりとかではない完璧な筈の再生なのだが、やはりデジタルデータ転送での落ち溢しがあるのだろう。演奏家の評価においては最後の最後は音が美しかったというのがある、これ以上の誉め言葉がないという表現なのである。

音響が悪いとコルンゴールトなんて、所詮映画音楽の作曲家ぐらいにしか思えないのだ。しかし本当にいい演奏はそこから本当の音楽を引き出してくる。最初からその音を楽譜から読みだせていない限り、そのような表現は不可能なのである。こうしてペトレンコ指揮の演奏を聴けば、同じ演出がバーゼルではそれ程の効果を生まなく、こうした天才によって初めて全貌が表現されたことがよく分かる。無能な音楽家が音色だとか何とかいうのが余計に笑止千万なのである。改めて音楽劇場の在り方を考えさせられる制作のメディア化であった。

さて上のコピーデータ、最終目標のブルーレイ焼き付けをしようと思ったら、なんと収納キャパシティー25GBを超えていて、50GBを買わないと駄目なことが分かった。その価格は一枚3ユーロを超えている。それは余りにも高価過ぎる。安くなる迄はNASの場所を喰うことになる。MKファイルだから幕ごとに分けてもいいのかもしれないが。音声の割には画像が良すぎるということなのか。でも、48kHzサムプリングでも素晴らしい音は出ている。



参照:
音楽劇場としての条件 2019-11-22 | 音
邪魔になる日本語字幕 2021-06-20 | 音
ブルーレイROM三枚目 2022-01-09 | 文化一般
難しい切り替えの指令 2022-09-23 | テクニック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

難しい切り替えの指令

2022-09-23 | テクニック
懸念となっていた旅行用PCの録音が可能となった。前回のザルツブルク行では生放送を祝祭会場の大ホールにいながらにして録音出来た。そして、その後バッテリー交換から少しシステムを強化していた。主に旅行で使う音楽以外のプログラムやネット関連をインストールしただけと思っていたが、どこでそのようになったのかその後一切オンラインでは録音出来ないようになって仕舞った。

調べた結果、PulseAudioのコントロールで入力等を設定することで使いたいように使えるとあったのでやってみた。それでも上手く入力しない。以前はDACをUSB経由で接続していたので、そちらからの返しとして録音可能だった。しかし旅行中にはDACもなかったのでブルーテユースでノイズキャンセルイヤフォーンに送り込むときにそこから録音した。予想よりも綺麗に録音出来た。ブルーテュ―ス自体の圧縮は致し方ないとしてもその前段でもあり、また放送の圧縮を考えれば十分だ。

しかし、日曜日にプラハからの中継とベルリンからの両方を同時間帯に録音したいと考えて、ミニラップトップで試してみたのだ。時間を掛けても録音不可になっていた。結論からするとどこでスイチィングが切り替わったかは分からないが、ブロウザーの再生を切り替えるなど、所謂ラインの独占権を切り替えてやることで通るようになった。

実際にはアルゴリズム上の指令の順番などで変わるようで、そのようなことはウィンドーズ操作中にも起きることはある。WAPIとかALSとか皆似たような機構で、独占するゆえに音質が冴えるというものだ。出来るだけ切り替えミキサーなどの機械固有の性能に影響されないように録音するのがオンライン録音の決め手である。但し使い勝手にはノウハウが発生する。これでありとあらゆる録音が可能となるので、今後必要ならば旅行用にDACを購入すればそれはそれで本格的なオーディオをイヤフォーンでも聴けて録音も可能となる。簡単な動画コピーもこれで撮れる。

昨年6月に劇場で逸早く購入した2019年制作のコルンゴールト「死の街」が賞をとったらしい。当然の評価である。ブルーレイで購入して、既に購入した焼き付け器を外付けしたウィンドーズでは再生した。しかし回転音が喧しい。だからリモートで使っているLINUX音楽専用PCで再生したかった。しかし中身がパイオニア製のVerbatimはLINUX仕様にはなっていない。なんとか接続可能となり、さて読み取るとなるとなぜか内蔵器とは違ってDVDでさえも読み取れない。そこでメークMKというのを試してみた。名の通り暗号解読後にMKに変換するだけのプログラムで、それも期間限定のシェアウェア―らしく、それならばPCで読み込んでも同じではないかとも思った。

兎に角コピーは出来たので、それをNASにコピーして場所をとるのも馬鹿らしいので、改めてMKファイルとしてブルーレイに焼き付けようかと思う。なぜブルーレイ一枚を購入して更にブルーレイROMにコピーしなければいけないのか分からないのだが、こういうコピー防止を使うから余計に不法なコピーも氾濫する。デジタル音声技術もそうなのだが、映像になるとその価値の多くはよりコピーで失われる。映像メディアなどだけでなくそのオンライン配信も如何に新たなビジネスモデルとはならないかのまた一つの傍証ともなっている。勿論こうした人たちがブルーレイプレーヤーなどを買うこともあり得ないというのも火を見るよりも明らかなのだ。



参照:
紙一重の読み替え思考 2022-09-17 | 文化一般
眠りに就く前にUBUNTU 2022-08-21 | テクニック
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失敗を演出する制作意図

2022-09-22 | 文化一般
承前)チューリッヒの老舗高級紙が「魔弾の射手」の初日について書いている。二日目公演があったのでそれまでに一通り出たのだろう。チューリッヒの新聞がオペラについて書くとなれば勿論地元のそれが基準で、必要な対照はミュンヘンやシュトッツガルトに取られているのだろう。

見出しに、マルターラはヴェーバーの人気狩人オペラでの失敗を演出して、それがこの世紀の作品の制作をとてもワクワクするものにしたと掲げた。それによってなにが得られたか。よりヴェーバーの音楽の歴史的な価値とその内容の本質だとなる。こうした公的な劇場での古い作品の上演の目的は、それに態々接してメルヘンの世界を垣間見ることなどではないのである。

先ず音楽的には奈落の床をリフトアップして ― エンゲルの奈落入りはその頭しか見えずに拍手を拒否していたのだが ー、序曲で上がり終わると元へ戻る。その頂点は「狩人の歌」であった筈だ、そこで聴衆にその価値へとまたは非価値へと意識を喚起すると書く。まさしくその非価値が「狩人の歌」にあって、そこがこの制作のフィナーレにまで付き纏われて大ギャクの契機を与えていた。

次にリフトアップされた時こそがまさしく「狩人の歌」の場面で、舞台上の合唱団はブロイライの椅子に座ったままである。その一方上がってきた楽団員は最前列にエンゲルが客席を向いて皆がビアマグに歌を吹き込んでもごもごと「狩人の歌」を歌っている。これだけで完全に「ドリフの全員集合」のギャグなのだが、この風刺は誰にでも利くがこの制作の基本コンセプトを如実に表している。

同様のギャグは、後ろの合唱団が舞台中舞台で歌ってそこの幕が閉められてからの最初のブロイライのシーンから利いていて、花嫁花婿候補は別れて一人づつのテーブルについていて、年増のアガーテの女友達が不吉な前兆を演じて、壁に掛かった額を掛け直しても繰り返し繰り返し大きな音を立てて落ちてしまうのをまた掛け直しに行くというものだ ― ヴェーバーの音楽が台詞に遮られて数分も続かないことをパロディー化もしている。

この繰り返しがそれはギャグの基本だけで終わってしまうと惜しい。なぜならば、その繰り返しこそが、継がれるヴァ―クナーの作品としてライトモティーフとして使われる構造の起源だからである。他紙も書くようにマルタ―ラーの演出が脱構造化だとすれば、この新聞に書かれるようにその影響は浪漫派オペラとしてのヴァ―クナーだけでなくベルク、そして現在の映画音楽にもなくてはならない表現方法の創造者であったとなり、それらをも脱構造化しているのかもしれない。

具体的には、少なくとも現在の我々にとっては最早根源的な恐怖心を不合理を悪夢を反映した音楽的原型がどのように聴こえるかという問いかけでもある。1821年に初演された時の同時代の音楽はベートーヴェン作「ミサソレムニス」であったと注意を促している。

比較すべき跳躍が見られるのは「トリスタン」の野の半音階であり、「春の祭典」であり、シェーンベルク作第二四重奏曲のシュテファン・ゲオルゲ「他所の宇宙からの空気を感じる」の和声からの解放の時であるとしている。(続く



参照:
何時の間にドイツの森に 2022-09-15 | 文化一般
魔弾の射手から守護者へ 2022-09-11 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミンガス作演奏の第一人者

2022-09-21 | 文化一般
月曜夜にベルリンからの生中継を聴いた。同地で開かれていたベルリナーフェストシュピーレの最終日のフィナーレ公演である。夏前に出かけようかと計画した公演だった。結局その前々日の同じフィルハーモニーでのベルリナーフィルハーモニカー公演との中日を埋められなくて断念した。美術館周りだけで一泊払うにはベルリン市街でのホテルは高すぎた。また車で行くほどの意欲もなかった。

しかし、こうした大フィナーレと称賛されるような演奏会になるとは思っていなかった、更に満席になるとも思っていなかった。この状況を知っていたら、少なくともマスク義務さえ列車になければ出かけていただろう ― 序ながら、ドイツで最も有名な指揮者ユスティス・フランツがマスクせずに途中下車させられたらしい。

躊躇させたのはそのベルリンドイツオペラのビッグバンドの腕とかその演奏曲目のチャールズ・ミンガス「エピタフ」についてほとんど知識が無かったこともある。実際に生中継を流していて、ビッグバンドとスイングはあまり得意ではないなと感じた。個人的には先週の木曜日のバーゼルでの新制作「魔弾の射手」のフィナーレでのカコフォニーを思い出すような始まりで、二つのバンドを使う意味を出してきた。しかしその音楽的な意味づけは、より分からないのだが、何か共通したところも感じた。

こうした観念連想は芸術の世界にはとても重要で、それによってはじめて社会に世界にへと影響を持ち始める。劇場内でイデオロギーをアジっても限定的な影響しか与えないのとは正反対なのである。劇場に検閲を掛けるというのはそういうことなのである。

情報によれば1962年に高名なジャズ奏者が初演したこの作品は総譜だけで500頁にも至り、今回客演の故人と共演したトラムペット奏者のレンディ・ブレッカーの楽譜だけでも60頁あるという。それを一週間も掛けて練習しても本番の即興演奏で初めて完成するのだという。だから初演の時も楽譜が揃っていなかったりで、状況はそんな感じだったらしい。しかし、現代作曲の初演同様に、何とか通すだけの初演とは違って、その後捨て置かれた楽譜からの校訂再演などを含めて最もいい演奏になるだろうと名トラムペット奏者が語っていた。

このバンドは、座付き楽団のジャズコムボから正式な活動へと進み地元のジャズ研究所と一緒に活動している団体の様である。同じ場所でのペトレンコ指揮のアカデミーが混じる演奏会よりもその点でも教育的には良かったのではないか。指揮者エンゲルの日程を考えると、バーゼルでの「魔弾の射手」の総稽古を終えてベルリンへ飛んで、更に今度は火曜日には第二夜目をバーゼルで振るのだろう。ラディオのナレーションが紹介するように、一寸やってみるのではなくて、この分野での第一人者となっていて、批評でも大変手間のある仕事を為す指揮者と、エンゲルが振る所はいつでも第一人者としての仕事とされて、それを繋げていくだけで、現在の世界の音楽芸術の最先端の一部が垣間見える。

十数年前の「オルフェオ」上演でも今でもあれを映像化して欲しいという人が書き込みをしているように、この様な活動を続けていくととても広範な範囲でとても意識の高い程度の高い聴衆の数が集まってくると思う。もう数年でその知名度もタレントとしてトップクラスまで上がってくるのではなかろうか。



参照:
音楽劇場指揮者の実力 2022-08-01 | 文化一般
紙一重の読み替え思考 2022-09-17 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬タイヤ装着への準備

2022-09-20 | 
アルプスの峠では積雪のようだ。まだ10月晴れが期待できるが、ミュンヘンなどへ向かうとどこで降られるか分からなくなる。今年は早く冬タイヤに替える事にした。既に予約を取っておいた。そのあとでミュンヘンに向かう。不安定要素を除いておきたい。

EU統一の夏時間終了になってから遅くなる傾向があった。以前は4月~10月が夏タイヤで、11月第一週のスキーシーズンに合わせていた。其れからすると早いのだが、今年は雪が降りそうなので、勘を働かして勝負である。冬タイヤ二本はまだ新しいので、残り二本さえ使えれば問題がない筈だ。燃費はあまり変わらない。そもそも遠出する回数は限られる。

それでも9月にしては寒い。布団などはまだいいのだが半袖短パンで寝るのは寒くなった。今晩から長袖長ズボンにする。朝走る時も走って温まるまでは裸では寒かった。日曜日には大きなザウマーゲンのスライスがあったのでそれを焼いた。平素は2kg以上になる胃袋詰めは中々買えず、膀胱詰めなので、やはリ胃袋の方が美味いと思った。それも真ん中あたりのスライスなので、幽門とかも遠いのかおかしな味わいもなく、コリコリと楽しめた。

通常ならば地元のリースリングを開けるのだが、ラインガウで購入したキードリッヒのオルツリースリングを開けた。試飲会で飲んだ時も以前のものと比較して悪くはないと思ったが、食事に合わせると更によかった。ヴィラージュワインなので土壌的には最大公約数的な千畳岩であり、様々な樽からのミックスとなっている。昔からのカルタヴァインの様に味の方向性を整えているというよりも、土壌感が楽しめる。但し上位のプリミエクリュなどに比較するとどうしても焦点が暈けた感じになるのだが、それを比較してみないと分からない様に醸造してあってVDPの方針であるブルゴーニュシステムの造り方がコロナ禍以前よりも研ぎ澄まされてきている。

日曜日のSWRからの復活祭「スペードの女王」の録音中継は素晴らしかった。音源は既放送済みのArteの映像と同じ筈なのだが、音質が違った。エンコーディングはAACで同じ筈でも、ヴィデオの方はやはり映像に合わせて最後に音響調整をしていると気が付いた。要するにラディオ放送の様にステレオ感や音場感よりも映像と違和感がないことの方が重要だからだ。それだけ放送は音場感が優れていて、舞台の上と奈落との鳴りの違いが余計に明白になり、その合わせ方も具にわかる。なによりも奈落でのベルリナーフォルハ―モニカーの苦心が手に取る様に分かってとても面白い。

つまり歌に楽器がどうやって合わせるかに尽きて、キリル・ペトレンコの腕の見せどころである。会場で四日左右や正面などで聴いた経験からすると、生においても若干低弦などが威圧感を以て響いたところもあるのだが、来年の復活祭の「影の無い女」では更にその辺りのバランスは微妙になってくると思う。新たに活躍するアシスタントにも期待したいところだ。その反面、ここぞという時には鳴らしてくるのがフィルハーモニカーで、それはフォンカラヤン時代の録音などでお馴染みだ。その鳴り方が当時よりもはるかにシャープにスピード感を以て響くので生においても引き締まっている。まさしく指揮者も楽団も大満足したのはそこであるという事だ。それが開幕のマーラー作第七交響曲で決まっていた。



参照:
バッテリーチェック 2020-11-11 | 暦
まるで億万長者ゲーム 2017-11-25 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形而上の深淵が開く仕草

2022-09-19 | 文化一般
承前)オペラの読み替え演出って何だろう?恐らく、舞台設定を変えて、ト書きやテキストやその配置などを変える事なのだろう。「魔弾の射手」は同じジングシュピールとされる「魔笛」などのメルヘンオパーにも影響を受けているのだろうが、その内容はシカネーダーにおける啓蒙的なものではなく、当時のグリム童話などにも通じる昔話に近いかもしれない。但しその音楽的内容はオペラとして、「フォデリオ」を通してそれらを継ぐ作品として、死の一年前のETA・ホフマンによっても評価されている。同時に劇場作品として問題点が指摘されている。

まさしくマルタ―ラーのこのオペラ作品に対する原点がそこにあって、永く演出のアイデアを温めていたようだが、其の儘今回の演出の核になっている。その批評点は後世のアドルノの論文に扱われている通りであって、その具体例は少なくとも今回の演出の舞台を見ていればプログラムに掲載されている両小論文を読むまでもなく直感出来た筈である。

ホフマンによっても批判点となっているのは、その深く民族的なまでに訴えかけるその劇の在り方であり、アドルノはそれをして、ビーダ―マイヤー的な日常の厨房からの前世への謎の風景のようなものとしている。湿気った調度が透視されたような塩梅で、後年のポーの「アッシャ―家の崩壊」とかジャンパウルのようだとしている。

更にそうしたメルヘンの世界は、当時の独文化屈指の「魔弾の射手」において開かれていて、紙一重だとある。それは、性衝動が市民性と紙一重なのと同様に、「魔弾の射手」においてカタストロフをやり過ごしているとなる。それが所謂歌芝居でのと変わりなく、とても危険な芸術であったと語る。

マルタ―ラーの舞台設定はいつものように進行役となるような芝居の人たちが舞台上で何かを営んでいる。具体的にはマルタ―ラーチームと呼ばれるような人たちとその小道具や大道具なのだが、今回の場合はまさしく上にあった重要な局面を準備していて、芝居と歌の世界を繋ぐお膳立てとなっている。全く日常生活の一瞬であるような、例えば首の方向け方からもう既にそこには形而上の世界が開いて来る。まさしく紙一重の世界の深い淵が一瞬で開くのである。

これで、なぜ200年間もこの作品が上演されているのか、またはその上演が必ずしも容易ではないかの説明に適っている。同時に、こうしたファンタジーでそのト書き通りにまたテキスト通りに芝居をして魅せることが出来るとすれば、子供向きの商業演劇とか其れでは足りなくて、完全映画化とか、否ディズニー映画化となるのである。その様にまでしなければ誰にも相手にされない。しかし一寸考えれば直ぐに分かるように肝心のヴェーバーの音楽がそのようなところで本来の効果を発揮することなどはないのである。

流石にここまで紐解けばオリジナルの上演とか読み替えの演出とかの議論は本質的な事では無いことは理解されると思うが、逆にこうした全体像を制作として貫徹して描くことの困難さも理解されるだろう。一方にはキリル・ペトレンコが復活祭で行う様に飽く迄もその音楽的な追求からスーパーオペラとしての上演を目指す、一方でエンゲルらが音楽劇場としてその作品の劇場的な効果を徹底的に引き出す劇場上演を目指す試みがあるのだ。なぜ、オペラとして創作されたものの本質が劇場舞台でしか再現されないかの回答にもなっていると思う。(続く



参照:
独墺核レパートリー 2021-12-02 | 音
何時の間にドイツの森に 2022-09-15 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三年ぶりのライン渡し舟

2022-09-18 | アウトドーア・環境
ライン河を越えて試飲会に出かけるのは久しぶりである。前回はコロナ禍の前になるので2019年9月だった。三年ぶりになる。ロンドンのウェストミンスター付近でも凍えているようだが、これほど冷える九月は初めてだ。

久しぶりにヴィ―スバーデンから車を走らせると、最近は見ていなかった東側からのワイン地所も眺められて気持ち良かった。最近は行くことも無くなったのだが、それはそれで美しい場所柄である。ブラームスは1883年5月から滞在してライン交響曲の影響を受けて秋に三番を書き上げた。

行きは船賃をケチって遠回りして陸路を向かったが、やはり橋の工事だけでなくヴィ―スバーデンのアウトバーン入り口閉鎖などナヴィに把握されていなかったもので、街中も15分ほど余計に走った。船賃は一人一車5ユーロだったので、それぐらい余分に燃料を使ったかもしれない。

帰りも正刻と半を目指して船着き場を目指したが、少し遅れて30分待ちかと思ったら、数分遅れて入ってきたフェリーに乗れた。やはり、距離が短くなると酒帯運転でも大分楽になる。やはり陸路をラインを越えてマインを越えての価値はない。早くマインツの橋が直って欲しい。

危惧していたラインの水量は十分そうで、問題なくフェリーは走行していた。但し天候の為か自転車とかの行楽客は全くいなかった。これも今時としてはとても珍しい。

地元のワイン祭りが六月に開催されずに来週から六日間も開催されることを知った。幸運にもこの間に早朝出かけたり夜間外出の予定はなかった。事実上閉鎖されてしまう。新しい法律では完全交通閉鎖できるようになったようで、以前のように強行突破で自宅まで車を入れることは不可能になったようだ。要するに車両によるテロなどの防止が完全閉鎖へと繋がってしまったのだろう。

通常のお勤め人ならば早朝の通勤もあるだろうが、それが不可能になっている。つまり来年の例年通りの日程でもそれが通用する。既に計画した避難日程では土曜日にミュンヘン発になっているが、時間通りに恐らく15時にまでに帰宅できないと自宅まで車で入れないことになる。もしその解除時間が短縮されれば、週末を通して更に旅行を続けなければいけなくなる。

一体どれほどの経済効果があるのかは知らないが、朝までの飲んだくれ彷徨に一体どれほどの価値があるのか全く解せない。やってみてまた人が集まらなければまたコロナ禍以前のように縮小が続くであろう。

今回は涼しいので窓を閉め切れるのでそれなりの生活は可能となり、始終ノイズキャンセリングで暮らす必要はない。しかし六月は暑くなるので不可能なのである。世界最大のワイン祭りは今週で終わりだろうが、その客を更にということなのだろうか。確かに往時は地元で世界有数の規模で行われていたのは事実だった。今年は夜間は寒くなりそうなので、早々と店仕舞いで殺風景となって、来年は出店など縮小へと動いて欲しいと思う。権利だけは朝まで開ける契約でも客が来なければ資が取れない筈だ。



参照:
隠密のラインの旅 2019-09-22 | 試飲百景
塗り潰されていた感興 2022-08-10 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紙一重の読み替え思考

2022-09-17 | 文化一般
バーゼルでのマルタ―ラー演出「魔弾の射手」初日、予想に違わない公演だった。少なくとも個人的にはティ―テュス・エンゲル指揮でなければいかなかった。しかし序曲が始まってからせり上げられた奈落には少なくとも二人の友人と更に住所氏名など分かる人がいた。正直あまり指揮や演出に集中するには邪魔になる。楽団の中でのその音楽家としての出来栄えを特別評価したいとも思わないからで、これはまさに個人的な感想だ。ベルリナーフィルハーモニカーを客観的に品定めするときとは一寸違う。

公演30分前のレクチャーは満員になっていて、初日に集まる人々はやはり意識が高い。1000席の大劇場は平土間は詰まっていたが、安いサイドなど視覚に問題のある席は空いていた。ざっと入場者数は900人未満だったと思う。因みに、最も安い席を30フランで自分で購入したのだが、予想通り上手の舞台脇のセット内は見えなかったが、写真と下手のセットでその様子は分かった。それ以上に奈落も近く、本舞台への視界は完璧だった。フランクフルトなどでは不可能で、音響的にも小さな劇場の利点である。

序にその劇場の程度を述べれば、今回は室内楽団を呼んでいるので批評対象にはならないが、合唱に関しては芝居も歌も悪くなかった。但し歌手陣はやはりその程度の劇場の水準であった。

しかしそれだけに中々意欲的な制作を為しているようで、例えばブルーレイになっているミュンヘンのペトレンコ指揮「死の街」のサイモン・ストーンの制作もここの劇場のオリジナルだった。その他では同じエンゲル指揮シュトックハウゼンの「リヒトから木曜日」は年間オペラ賞を獲得している。謂わば、ここの聴衆は可也先端の制作にまで免疫があることは間違いない。
Trailer DONNERSTAG AUS LICHT


先ずは「魔弾の射手」フィナーレから語ると、奈落と舞台上の二つのアンサムブルが異なる音楽を奏して終わるという、流石に通常のオペラ上演で初めて経験したのだが、ここの聴衆はまさしくその原型になっているアイヴス作「答えの無い質問」の上演を経験しているようで全く当惑していなかった。自分自身は可也先端にいる劇場の聴衆だという意識があるのだが、ミュンヘンにも通うようになって、保守層になっているのかと思うぐらいに、ここの劇場は先端的ともいえよう。
ルールのトリエンナーレからアイヴス
Trailer: Universe Incomplete, Ruhrtriennale 2018


レクチァ―の内容はどちらかというと、劇場の前回の「魔弾の射手」が2003年だったとか、新制作は二年間の準備期間があったとか、裏話の面と、演出のマルタ―ラーのコンセプト、そして音楽的には管の古楽器だけでなくて、弦も腸弦を使うことにしたという情報が出された。一方、5フランのプログラムは40頁程の小冊子で、舞台写真15頁、内容は劇場とティームのドラマチュルギー二人とマルタ―ラー本人とエンゲルへのインタヴュー、そしてオリジナルの粗筋、ETAホフマン「不滅の生命」、狩りに関するスイスの新聞の小トピック記事転載、そしてアドルノ「紙一重の形而上」である。

このロマンティクオペラが、そもそも文化的にどのような意味があったのか、あるのかの考察無しに公立劇場が取り上げるものではない。そして聴衆もそうした文化歴史的な思考無しにこうした出しものを観賞しても全く意味がないということを示している。一体どこにオリジナルの上演なんてあるのか、そして読み替えなんてされる演出があるのか、少しは体験して下さいということではないか?(続く



参照:
往復499kmのバーゼル劇場 2022-09-16 | 雑感
サウンドデザインの仮定 2022-07-01 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする