Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2018年8月

2018-08-31 | Weblog-Index


ルツェルンの実力如何に 2018-08-31 | 雑感
アルパイン協会の表彰 2018-08-30 | 生活
ドレスデンの先導者 2018-08-29 | 歴史・時事
何と、勧進帳を読めと 2018-08-28 | 文化一般
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
「あのようになりたい」 2018-08-26 | 音
期待しないドキドキ感 2018-08-25 | マスメディア批評
ベルリナーシュロース話題 2018-08-24 | 歴史・時事
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
早起きはなんぼの得 2018-08-22 | 生活
血圧急上昇の晩夏 2018-08-21 | 女
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
生中継の妙、色々 2018-08-19 | 雑感
殆どマニアの様な生活 2018-08-18 | 生活
ポンコツよれよれ引退? 2018-08-17 | マスメディア批評
あまりにも忍びない 2018-08-16 | 生活
組み込まれる経済プラン 2018-08-15 | 文化一般
濃くなる縦波の密度 2018-08-14 | 音
小さなライン大きなワイン 2018-08-13 | 雑感
呪術から抜けられずに 2018-08-12 | 文化一般
ペテン師野郎の指揮 2018-08-11 | 文化一般
歴史的年度になりそうだ 2018-08-10 | 暦
噴水の水音に涼む 2018-08-09 | アウトドーア・環境
知らなかったなどとは 018-08-08 | マスメディア批評
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活
サチって仕舞う音響 2018-08-06 | 音
最も暑い週末を迎える 2018-08-05 | アウトドーア・環境
指揮者の手解き次第 2018-08-04 | 雑感
満期ご奉公御免まで 2018-08-03 | 雑感
語る価値のあるもの 2018-08-02 | 女
干ばつの毎日の驚愕 2018-08-01 | 音
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ルツェルンの実力如何に

2018-08-31 | 雑感
第一次スイス遠征は無傷だった。来年一月までのヴィニェットが高くなった感じがしたが、立て続けに使える。写真撮影は無かったと思う。帰路一か所だけ知らずに前の車についていったらスピードが出ていたが、あとは前方の車に赤いフラッシュを見て、ブレーキを掛けたぐらいで無事だった。何回も走ると場所を再認識するので大丈夫だろうか?バーゼル周りのアウトバーンが工事の為に酷いことになっていた。あとはトンネルを対面通行にしていてとても怖かった。通常の二車線で時速100㎞に絞って、カメラを構える道路で、80㎞で対面通行させる根性にはついていけない。ゴッタルダトンネルなどの大惨事は二度と起きないと高を括っているらしい厚かましさにはついていけない。

ランダウの速度違反を写された場所は今回も知らぬ間に走っていた。どうも制限の表示が見難いらしい。一度自動車クラブかどこかに通報してみたい。すると坂道になってスピードが出過ぎる結果になる。それでも帰宅は無事一時過ぎには着いた。終演は22時だったが、早めの16時過ぎに入車したのでそのまま地下のP2の最後の二桁で入れた。数が80ほどしかないので初めてそこに停めた。それでも会場で払うと15フランで済んだ。早めに入れた方が結局得なことも分かった。来週も早めに入って、天気が良ければ対岸へ散歩もしたい。

それにしてもルツェルンの渋滞にも呆れた。宿から駅前会場まで3分ぐらいかと聞いたら、主人が今の時間帯なら10分は掛かる、ラッシュアワーだと答えた。何のことか理解出来なかった。だから裏道を走ればと言ってみたら、駄目だと付け足した。実際に、トリプヒェンのヴァークナーの家を通り過ぎて、街中までは二三分だったが、駅前の方に抜ける道は信号渋滞していたので、湖の方に近づいてたらそこも渋滞していた。大学の横を通って結局数キロ走るのに一時間ほど有した。それでも引き返す車はなかった。皆分かっているようだ。結局駐車場に入れた時は前コンサートもガイダンスにも遅すぎた。要するに道が無いのである。今回ルツェルンで習ったのはこのことで初めての経験だった。高速から降りてくる方ではここまでひどい経験は無かった。こうしたことの積み重ねが常連になるかどうかの大きなところで、慣れてくると色々なことが合理的に予測計算可能となる。つまり、ミュンヘンでと同じように公演をじっくり堪能可能の状況を作れる。

会場係のお姉さんとも話したのだが、やはり常連さんになると今までか感じなかったことが色々と分かってくる。要するにアウェーとホームの差だ。人見知りするたちなのでアウェーでは出し物を充分に楽しめない私なので、こうした積み重ねが大きい。駐車料の点もよく分かった。現金がどれぐらいいるかも分った。ガイダンスも二日目には参加した。話し手のシュテール女史と何回か目が合ったが、どこかで会ったことがあるのかなとも思った。まあ、熱心に聞いて時々メモすると気になるのだろうが。こうしたこと全てに加えて、今度の進展如何によってはバーデンバーデンの祝祭に係って行こうかとも思っているので、老舗の音楽祭のことが気になった。こちらも今年から定期となった。宿はもう少し試してみないと駄目だ。日本製のエアコンは効果的だったが、さて価格比ではどうだろう。

明らかに違うのは会場案内などのマンパワーで、その質と量が比較にならない。更に警護の兵?が入っている。玄関で券を検査しないでも、入り口だけで座席を監視している。恐らく撮影も監視しているのだろう。逆に残念だったのは初日にはアナウンスが聞こえ難く、私の真後ろで電話が鳴った。これは酷い。やはりもう少し注意勧告すべきだ。客層は昔と比べると、特に前の会場時代とは大分低下している。観光客が多いのだろう。客観的にコンサートだけで比較すると、ベルリン、ボン、ルクセムブルク、フランクフルト、マンハイム、シュトュツガルト、バーデンバーデン、フライブルク、バーゼル、チューリッヒ、ルツェルン、ザルツブルク、ヴィーン、ロンドンの中で、オペラは駄目だがバーデンバーデンはトップクラスだと感じた。来週のマーラーでルツェルンのそこも見極めたいが発券状況からやはりバーデンバーデンのような大都市住民層の大きな基盤が無いのだろう。



参照:
瑞西の交通規制行動 2006-02-09 | アウトドーア・環境
ルツェルンの方が近いか 2017-10-12 | 雑感
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アルパイン協会の表彰

2018-08-30 | 生活
先週末アルパイン協会加盟二十五年の表彰を受けた。リースリングのワイン一本と25年バッチと友人の書いたヴァンデルングの各地のルートから一冊選んで貰った。最後のものにはアウトグラムを本人に書いて貰った。表彰対象では25周年が一番短く、その次の表彰からは地元新聞向けにプレス撮影があった。

計画が立てられずに一年間お休み状態だったので、その話などをしていたのだが、周りも徐々に年齢が嵩んでいて、若いメムバーと出来るだけコンタクトを取るようにしないと中々続けられない。BASFの熊男のような一人は岩場でひっくり返ったかで腕を痛めていた。筋を痛めたらしい。手を突いたという事だった。

予想しなかったのはクライミングやボールダーで名のある一人が会員で、そこに現われていたことだ。岩場のあるような地域ではクライミング系とアルパイン系の二系統があって、後者は、そもそもアカデミックなアルピニズムの大組織なので、その地域によっては実際にはそれほどアクティヴではなく、厳しい山登りをしている人も多くは無い。前者は、地元の岩山も先ず大きな目標となるので参加している人はアクティヴで、そこからアルプスで活躍する人も居る。その仲間は地元で新ルートを開いているような人で、パリにまでボールダーに行く実力があったので、てっきりアルパイン協会の会員ではないと思っていた。

流石に地元では最も会員数の多い結社であり、幅広い人が参加しているだけのことはある。本人もBASFの水処理のプラント建設、整備の部署に勤めていて、出張が多いと語っていた。離婚してから家を建てて今は横にいたおばさんと住んでいるようだ。あの手の離婚者を見ると最初の奥さん以上に魅力的な女性を連れている人は殆ど居ない。勿論本人の加齢もあるのだろうが、他人事ながらご苦労さんだなと思っていつも見ている。

個人的な目標としては六年先にどれぐらいの活動が出来ているかだ。一先ず目標としていた体力、技術の向上の限界を見定めて、その実力でどのようなアルパイン活動が可能かどうかを検証することになる。実地の経験を積んで行くことも重要だが、アルピニズムの場合は数だけ打つことのリスク増大がとても激しく、命がもたないという致命的なルールがある。その危険性を上手く回避して限界を何処まで高めれるかというのが目標である。



参照:
ハイナー・ガイスラーの訃報 2017-09-14 | 雑感
やらかしてくれる人 2017-02-21 | アウトドーア・環境

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ドレスデンの先導者

2018-08-29 | 歴史・時事
日曜日の早朝の森の中は気温摂氏7度しかなかった。それでも陽射しがあるといい汗を掻く。これぐらいの気候が一番いい。水曜日、木曜日とルツェルンなので、週末から続けざまに走っておいた。これで週末再び体を動かせば十分だろうか。日の入りが早くなり、日の出も遅くなるので寝起きが辛い。

その森からの帰路、車中の文化波ラディオは、ケムニッツでの騒動などに関連してニュースを伝えていた。その前に米軍の沖縄と海外一位を競うエアーベースラムシュタインで30年前に起きた飛行機ショー事故の話題が流された。パイロットを含めて観衆が70人も犠牲になった事件だった。

ケムニッツの件は久しぶりに大事になった事件のようである。祭りの際に外国人との争いで刺殺されたことからケムニッツ市中が西部劇の街のようになっている。外国人とみれば襲撃して血祭りにあげろと騒いでいるので、日本の人種主義者グループと全く変わらない。サッカーのファンクラブのフーリガンやPEGIDAなども皆、根は同じである。西ドイツならばあり得ない光景であるが、二十数年前までは社会民主共和国だったところなのでそれほど驚かない。街中でドイツ人にも人権を認めろと騒ぐような爺さん婆さんは死ぬまで変わらない。洗脳教育とその反作用は怖いものである。それにしても、なぜあの手の無教養な連中は同じような言葉を使うのだろう。要するに逆差別がそこに存在して「ドイツ人にも人間らしさを」などとぬけぬけと言えるのか理解に苦しむ。世界中で同じような語法が流通している。ドイツのようなプロテスタンティズムの国でこうした意味の倒錯した言葉が使われるとは思わなかった。やはり行間を読んでいたような東ドイツ人民の表裏のある生活信条がそのような人を形成してしまうのだろうか ー どこか管理社会の日本人民に似ている。

WUT IN CHEMNITZ: Bundesregierung verurteilt "'Hetzjagden" scharf


それが安物の所謂日本で呼ばれるようなネトウヨ勢力の結集となって、ベルリンにおいても野党第一党になっているのが現状である。そして放送は伝える。ケムニッツだけでなくてドレスデンなどでも音楽家が先導していて、多くの親派とそれ以外の者の沈黙がそこにあると。勿論ここで名前こそ挙げられていないが先導者というのは指揮者クリスティアン・ティーレマンを代表とする。流石に「血祭りにあげろ」とは叫ばない。社会的立場があるからだ、そして明日から仕事が無くなるからだ。しかし、謂わんとしていることは今でも変わらない。「ローエングリン」の歌手がポーランド人になったことについてのコメントに関しても、ミュンヘンの劇場の広報部長などはその発言の主旨をしっかりと嗅ぎ取っていた。こうした人間がインターナショナルなニューイヤーコンサートなどに登場してよいものなのだろうか?少なくともそぐわないと感じて当然である。

一方、昨年日本でペトレンコと共演したユダヤ系移民ドイツ人ピアニストのイゴール・レヴィットも早速盛んにネット活動をしている。正直最初は彼のカウンター活動にはあまり共感出来なかったのだが、その考え方も分かってくると支援したいぐらいに思うようになった。その考え方は簡単である。PEGIDAのような主張や活動をその当然過ぎるような主張を放っておくと、AfDのような政党が野党第一党になり、取り返しのつかないことになりかねないということだ。つまり臭いものは元から絶たなきゃダメで、今回の件でも恐れているようでは余計に奴らを助長させて、本当に大変なことになってしまうという危惧である。だからネトウヨ同様の輩も片っ端からモグラ叩きのように叩いて行かないと手遅れになるという事になる。つまり広い市民層が、差別などは絶対許さないという強い姿勢で挑むことが必要になる。

焦って来た。先ずは燃料を満タンにしないといけない。スーパーも先に済ましておかないと午前様の帰宅の翌日が時間的に厳しくなる。服装も迷うところだ。もはや暑くはないが、小ざっぱりしたいと思う反面、遠くて映らないが二日目は実況中継で、場合によっては将来も残りそうな公演となる可能性が強いので、おかしな方に色合いだけでも目立ちたくはない。ホテルのチェックインは15時からなので、10時過ぎに出発して、年間通行券ヴィニェッテなどを購入して、ピクニックしながら走ればよいだろうか。ホテルで着替えて、一休みしてからでも十分に間に合う。コンサート後にしか食事をしないので準備しておかないといけない。そもそも最後のルツェルンの音楽祭訪問はクラウディオ・アバドの最後の年だったから数年前のことだが、車では頻繁に走っているので距離的な感覚は残っている。走行距離340㎞で、全くミュンヘンと変わらないが、道路状況は異なる。上手く走れば、交通量が少ないのでこちらの方が楽である。燃料も満タン一回で出来れば往復したいが、現地でどれぐらい走るかが今一つ計算できない。ホテル往復は7㎞以下と近いが、気持ちの良いところでお昼やお勉強でもしようと思うと未知の距離を走らなければいけなくなる。



参照:
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
ヒトラー革命と総ミュンヘン 2015-11-11 | 暦
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何と、勧進帳を読めと

2018-08-28 | 文化一般
PCが重い。そろそろ買い替えが近づいてきたかなと思う。先ずは清掃などをして誤魔化そう。勘違いしていたようだが、日曜日の夜にザルツブルクの初日があったようだ。ベルリンの新聞も金曜日の批判に対して土曜日の演奏のその自由闊達さを絶賛している。金、土曜日の批評が出そろう前に、ORFが短く報告をしている。気に入ったのは、「指揮者と管弦楽が喜びに満ちているのが感じられた。その熱狂が聴衆に伝わり、ベートーヴェンの第七へと高まって、スタンディングオヴェーションとなった。」という節である。端的なながらも金曜日、土曜日と追ってきた者にはその光景まで目に浮かぶものではなかろうか。そしてしり上がりに完成度は高まっているのだろう。その為か熱心な書き手はロンドンまで帯同しているのだと思う。

そこで来年からのことを空想する。恐らく、開幕はマーラーの第八、もう一つのプロはチャイコフスキーの五番の前にシェーンベルクかベートーヴェンだろうか?それを持って来年はブカレストまでツアーが続く。有り得るのは同じプログラムでの日本旅行だ。訪日情報は日本で何時頃出るのだろう?。

週末にはミュンヘンのバッハラー支配人の去就がオーストリア筋から出て、2021年以降のザルツブルク復活祭支配人として候補に挙がっていると伝えられた。音楽監督ティーレマンが早速拒絶していて、州当局から聴取もあるよう。半公営化しない限りあり得ないが、なにも今更ティーレマンを追い出す価値など微塵も無い。2015年の非人道的な行ないへの懲罰と、ただの嫌がらせにしか思えないぐらいだ。大きな構造として、キリル・ペトレンコのドイツ・オーストリア間での引っ張り合いとなるが、ベルリンの管弦楽団もやはり連邦政府内の経済活動に貢献すべきで、バーデンバーデンの芸術的なコンセプトが新支配人の下でしっかり定まれば全くそこに欠けるものは無い。モーツァルトの代わりはブラームスとブーレーズの2Bで務めて貰おう。

2021年のオペルンフェストでペトレンコ指揮はミュンヘンで最後となるが、既に2020年8月末には音楽監督を辞めているとすれば、2020年新制作が最後となる。ユロウスキーが新任するのは2021年9月1日で同時にドロニー体制になってからである。そこから常識的に考えてペトレンコは2020年夏以降には新制作の時間が無く、以降は再演で客演となる。先にもヴィデオで言及のあった「ディゾルダーテン」や「影の無い女」以外では再演の可能性はなにか?ペトレンコ監督の最後の新制作を2020年夏前の「トリスタン」と仮定すると、2020年復活祭の出し物は?ズバリ大胆予想「フィデリオ」新制作、カウフマンとカムペ、スケデュール空けてます?先ずは楽団も小編成からきっちり行きましょう。

泣きべそ状態になって来た。べ―ト―ヴェンもまだ今一つ調べないといけない。フランツ・シュミットは大体呑み込めたが、車の中でも耳からも復習が必要である。ラぺリの二曲は簡単に見直しておこう。シュトラウス二曲も二回聴いたので復習でよいか。プロコフィエフにご無沙汰していたのでもう一度確認しておかないといけない。その読譜についてペトレンコが最新のヴィデオで答えている。

「残念ながら視覚的暗譜能力が無いので、何回も何回も捲り返すことになります」 ― それもその前後の話しからすると、自筆譜とかも含めて同じ作品をピアノ伴奏から管弦楽まで繰り返しているので、私の受け身とは違うとしても全く同じではないか。そして、スヴァロフスキーシステムの拍節ごとのアナリーゼをみっちりやると一頁一時間も掛かるという ― なるほどこれでは打ち上げなどしている時間は無いわ。

そうすることで初めて、「大きな部屋の整理棚のどこの引き出しに何が入っているか、座っていながら手を伸ばせば届くようにしておかないと、引き出しを探さないといけないストレスに病む」と語る。音楽劇場の事故防止には楽譜が助けになるとして、もしなければより自由になるとしても、そこまで作品が血と肉になれば、本当にムジーツィーレンするのに必ずしも暗譜が必要とは思わないと答えている。まあ、突っ込んで推測すると、細かなところも完璧に演奏できる筈がないから、間違いを視覚的に固定して次の練習に生かしたいというのが本音だと私はいつも思っている。要するに勧進帳なのだ。これぐらいの才人になるとなにをやってもこちらは感心するだけだ。少なくとも暗譜で楽団を黙らす記憶力自慢などは毛頭必要のない人なのである。そしてあの程度の指揮技術になると楽譜が邪魔にならないのだろう。この人に掛かると歴史上の大指揮者が簡単に吹っ飛んでしまう。

"OFFEN GESPROCHEN" – Nikolaus Bachler und Kirill Petrenko über die Spielzeit 2018/19 cf.18m15s‐23m15s




参照:
職人魂に火をつける人 2018-08-27 | 文化一般
「あのようになりたい」 2018-08-26 | 音
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職人魂に火をつける人

2018-08-27 | 文化一般
土曜日のシュルターホーフからの中継は価値があった。当日は恒例の連邦政府解放の日で、首相府の主メルケル首相はなんとアゼルバイジャン出張だった。シュタインマイヤーは知らないが、悪天候に拘わらず何人かのVIPは雨合羽を羽織って最前列に陣取っていたようだ。顔が認識できたのは、シュレーダ―政権時の国会議長ヴォルフガンク・ティレ―ゼ博士だった。東独SPDの代表だった人である。大統領候補になったかどうかは知らないが有名政治家の一人だった。とても盛んに大拍手でご機嫌そうだった。
Strauss: Tod und Verklärung / Petrenko · Berliner Philharmoniker


野外であるから聴衆の反応も分かり難かったが、最初は雨降りで雨中に座らされて腹立たしかったと思う。少なくとも300ユーロを寄付している人があのざまはあまり見たくなかった。しかし後半になって雨も上がり、雨合羽を脱ぎ捨ててからは何とかチャリティコンサートの趣となって来ていたようだ。少なくともニュースでも扱われるようなイヴェントであるから、意地でもという気持ちもあったろう。個人的にはベルリンに住んでいたらあそこに座っていたかと思うと一寸複雑な気持ちだ。何かお土産でも貰えたのだろうか?

だから七番交響曲後の歓声は可成り意味があると思う。そして前夜の喝采以上にかなり熱かったのではなかろうか。スクエアーの中での演奏なので、音響的にも細かな表現は期待出来なかった、その反面とても直截な表現がベートーヴェンでは楽しめた。なるほど細やかなダイナミックスは使えないので、その方での表現の妙は無いかわり、まるで所謂1930年代のノイエザッハリッヒカイトの戦前のベーム指揮のようなゴリゴリ感が迫力になっていた。それでも楽団は、細やかな表現・表情の定着から、過度な緊張を強いられたであろう前日よりもアーティキュレーションが明晰になっていて、とてもよい機会になったのではなかろうか。日曜日のザルツブルクはとても期待される。残念ながら生放送が無いので一週間先に確かめることになり、ルツェルン訪問前には聞けないのが残念だ。来年からは同じプログラムでもフィラデルフィアの欧州イスラエル公演のように立て続けにライヴで流して欲しい。するとペトレンコとフィルハーモニカーの意志がとてもよく見えてくると思う。

余談であるが、芸術的にナシオナルソツィアリズムと相似するような響きがそこで聞かれても、現在のネオナチズムの修正主義の響きとはなりようが無いことから、こうしたものを安心して聞けるのである。それ以上にこうしたザッハリッヒカイトが示す職人的な技の精査こそが、ペトレンコのフィルハーモニカーをもう一つ音楽的に上の次元へと導く原動力であることを実感させてくれる。マイヤーがパユの腕を掴んで、恐らく「あれぐらいでいいかな?」とか声を掛けているのを観ても、楽員の職人魂のようなものが表に出て来ることで全ては好循環へと向かう大きな期待を抱かせた。

バーダー氏のインタヴューにあったように「嘗ての歌手も皆ペトレンコ指揮を絶賛していて、あれだけの高い要求をされながら、誰も自分自身を曲げたとは思っていない不思議」の本質は、基本的にはこうした己の技を磨くことで得られる音楽家の職業的技能やその信条の共通基盤と、ペトレンコの目指すストイックなまでの精査の芸術が相似しているからに違いない。

まさしく近代芸術においては、バッハラー支配人が語るように、オペラ座に集う聴衆も少なくともその晩だけでもそうした絶え間ない営みが希求される芸術に触れることで得られる啓蒙思想的な「今日よりも明日への向上」を体験するという事になるである。それは、いくら幾らの儲けを出して、その金を芸術家の元に落とすことで豊かさを希求しようと考える「更なる大きな市場」のエンターティメントとは、やはり相容れないものであるのが理解可能ではなかろうか。

具体的にこの日の中継映像を観ていると、前日から当日に掛けての課題が一つづつ解決されている様子が、楽員の表情や楽員間の「業務連絡」、指揮者の「良し」サインなどに悉く表れていて、その多くはリハーサルで言及されたことかもしれないが、想像するにこれだけの楽団であるから自浄作業というか修正が楽器陣毎になされているのではなかろうか。主に楽器間のアンサムブルやバランスであろうが、一々指摘されるまでも無く修正されない限りはこの程度の楽団は成り立たないと思う。これをして「猛獣使い」とか何とかいうような馬鹿は流石にいないだろう。



参照:
「あのようになりたい」 2018-08-26 | 音
ベルリナーシュロース話題 2018-08-24 | 歴史・時事
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「あのようになりたい」

2018-08-26 | 
今晩の中継が始まる前に昨晩の感想を書き留める。録音はしたのだが久しぶりに「ドンファン」で音飛びが大分あり使い物にならないが、生放送でじっくり聞いた。オンデマンドのMP3を聞くぐらいならば、再放送とデジタルコンサートで再びこの曲を録音・録画するしかない。しかし演奏は、とても落ち着いていて恐らく今まで演奏された中で最もゆったりしていたのではなかろうか。典型的なペトレンコの指揮で、アーティキュレーションの精密さ以外のなにものでもない。管弦楽団は、弦楽陣は先ず誉めておきたい。特にヴィオラはいい仕事をしていた。その調子で、他の声部と精妙に合わせられるようになれば管弦楽団がもう一つ上のクラスに上がれる。流石に樫本のリードとまたソロも立派だった。しかし予想通り管楽陣はまだまだである。特に木管は、パウのフルートが抜け出て仕舞って、その横のマイヤーのオーボエはみすぼらしく貧相でしかなかった。ブールグ、ゴリツキの弟子か知らないが適格には吹いていたが、あれではドイツ一番の管弦楽団のオーボエストの音として恥ずかしい。それでもバーデンバーデンでは気にならなかった。特に「ドンファン」のようなソリスト的な音楽が要求されると致命傷だ。クラリネットは誰が吹いていたか分らないがそれほど目だたなかった。バーデンバーデンでのフックスは目立っていた。

クラリネッティストと言えば休憩時のインタヴューのアレクサンダー・バーダーのインタヴューがとりわけ面白かった。彼はコーミッシェオパーに在籍していたので誰よりも長くペトレンコを知っている訳だが、先頃のバービカンの演奏会を訪問してその後に食事でもとなっても、ペトレンコは「パルシファルの準備がある」とあれだけのコンサートの後でもまだ準備に怠らない姿勢を語る。インタヴューアが楽士さんの話しとして、「ラトルは、最初はリンカーンを乗るような塩梅だったけど、結局はポルシャにした」と例え話をしたのに対し、恐らくラトルサイドからそうだと納得する。そしてそれならばペトレンコはなにに乗るか?との質問に答えて、ミュンヘンでの五年間の成果を聴いて、その例えからすると船舶の操舵ではないか、つまりポルシェのようなキレキレの遊びの無いハンドル操作ではなくて、時間差がある乗り物となる。それは座付き楽団のその反応時間にもよるとは思うが、寧ろ本質はその後に続き、ペトレンコは殆どどの楽器の間をも自分の中に持っていて、それは月日の信頼関係というようなもので結ばれていると感じるという。そして、それは直ぐに叶うものではなく、数年の月日が掛かるが「私たちもあのようになりたい、それが彼を選んだ理由だ」と語った。

まさしくその通りで、二曲目の「死と変容」は名演だったのだが、上の意味からするとまだまだ可能性があって、あれだけの後年の歌劇作曲家としての音楽的なイメージをそこから引き出す演奏は作曲家本人指揮でも出来なかったと思う。そうした音楽性をフィルハーモニカーは其れこそバーデンバーデンで身に着けて行くことになる。もしかすると間の取り方ももう一つ身に着けるかもしれない。中々我慢出来ずにの感じもあったが、あれこそが座付きの劇場感覚だ。ペトレンコ指揮でのオペラ上演は楽団にとって毎年の音楽セミナーのような時期になると思う。

ベートーヴェンに関しては、休憩時に二楽章アレグレット主題のフルトヴェングラー、カラヤン、アバドの比較がされたが、恐らく中庸というテムポは予想通りで、丁度その比較で言えば如何に最初の拍のテヌートからそれに続く音符一つ一つのニュアンス付けが明らかになる。そして長いクレッシェンドの中でふつふつと情感が熟成されるのは、その適格なリズム運びの棒によるペトレンコの魔法でしかない。敢えて、繰り返し聴く前に音響状況は悪かろうベルリナーシュロースのシュルターホーフからの中継映像を楽しみにしたいと思う。16時のコンサートは、予報ではよりによって丁度その時間帯に短時間まとまった雨となりそうなのでお天気の神に祈りたい。

同時にミュンヘンの方も負けずとインタヴュートークヴィデオをアップした。この内容がなかなか興味深い。指揮者の職業柄スポーティーである必要として、私生活ではどうしているかの質問に、イザール河沿いをサイクリングというのは初めて聞いた。「オテロ」や「サロメ」への更なる見解や演出への夢とか、歌手への視線やら、楽譜の勉強法や新制作準備への手順やら盛沢山で、詳しく纏める価値があるかとも思う。いずれにしても、ペトレンコの芸術の神髄に触れたいと思うならば、音を聞いて「あれっ」と思ったところを、最終的には楽譜に当たるしかないのではなかろうか。楽団との関係と同じように、バッハラーの話しではないがオペラ劇場での虚心坦懐な質の高い聴衆のそれとの対話でしかないのだ。



参照:
期待しないドキドキ感 2018-08-25 | マスメディア批評
ベルリナーシュロース話題 2018-08-24 | 歴史・時事
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期待しないドキドキ感

2018-08-25 | マスメディア批評
第七交響曲イ長調をお勉強していた。もう一つ呑み込めていないところもある。音資料を探しているうちに、トスカニーニとハイティンク指揮のYouTubeを見つけた。前者は期待していたが全くいい加減な譜読みで失望した。あれはトスカニーニ読みなのだと分かった。逆にそこから当時のイタリアのオペラがどのように演奏されていたかが分らないだろうか。ヴェルディやプッチーニがどのように鳴っていたかと、それが正しいのとはまた違うかも知れない。フルトヴェングラーに比較するまでも無くトスカニーニの指揮はアーティキュレーションがなっていない。
Toscanini's Best Beethoven Recording! - Symphony No 7 (1936)


そこで騙されたと思って、今やハイティンクオタクの私が観たのは十年前のコンセルトヘボーでの演奏会だ。あの会場の階段からどのような感じで現れるのかと観ていると、横の扉が開いて付き添いに抱えられるようにして杖を突いた爺さんが出て来る。これには驚いた。確かに先輩のブロムシュッテットのような健康状態は期待していなかったが、まさかと思った。まだ80歳少しであった。指揮者のような体を動かす商売では無く、その辺りの年金生活者で体の不自由な人でしかなかった。まさか、あれだけ活躍している人が何級かの身障者とは知らなかった。

驚いたと同時にその指揮台にまで上がる儀式は人々を感動させるに十分な序章である。あれから十年、この五月にも倒れていることから、これは異常に元気なブロムシュテット翁とは違う、感動がプログラミングされているようだ。これだけ足の不自由な指揮者を私は知らない。痛風か何かだろうか?さて指揮者に上ってタクトが下ろされ音楽が始まるとこれまた異常に意気溌剌とした印象だ。テムピもメトロノームを意識していて、決して悪くはない。よくそのテムポで振れるなという印象もあって、例の主題提示部の二主題への移行部分が誰よりも最もペトレンコ指揮のプローベに近く舞曲化している。これはどういうことだ。それ以外にもレガートとアクセントの使い方も意識していて、あのブラームスでの失望を跳ね飛ばしてしまった。

特に三楽章以降は名演で、嘗てからブレンデルの伴奏で見せたような鳴りがコンセルトヘボーと会場の音響からとても立体的に鳴る。その管弦楽団の巧さは欧州ピカ一であることは言うまでも無く、フィリップスのレコーディングがロンドンのフィルハーモニー管弦楽団で行われた不幸を改めて思う。なるほどこの十年間ほどのこの指揮者の演奏会は玄人筋でとても評判が良かったことを裏付けている。兎に角、よく鳴ると同時、カラヤンサウンドのように低中音部がマスキングされることも無いので、とても各声部が生き生きしていて尚且つ伸びやかに鳴り切るのが素晴らしい。ある意味大管弦楽団でのベートーヴェンの理想なのかもしれない。充分に今日的だ。なるほどサイモン・ラトルが尊敬する訳で、彼の指揮でのフィルハーモニカーの演奏との芸術の格差は大きい。絶賛される筈だ。仕事師である。まるで足取りも覚束ないのに時速300㎞でポルシェで飛ばす爺のようだ。
Beethoven - Symphony No. 7 (2009)


その反面、当時の反響を知っていても、ポピュラー名曲演奏会のような頭の悪そうなプログラムの演奏会には出掛けなかったのだが、それは今でもフランクフルトまでべートヴェンを聞きに行く気持ちにはならない。アムステルダムまでとなれば猶更で今後とも一度も生を聞くことなく終わった指揮者の筈だったが、今回はMeToo騒動のお陰で急遽ルツェルンで初ライヴ体験となる。私自身、殆どランランとハイティンクのファンではないかとも思える。

さて、ペトレンコ指揮のフィルハーモニカー、初日の事故は避けられないかもしれない。何時もの通り出来も期待しない。可成り追い込んで来るのではなかろうか。怖いもの見たさの気持である。編成の大きさはハイティンク指揮ともそれほど変わらないのではないかと思う。管などの自然倍音はどうなるのか。やはりフィルハーモニカーがどこまで鳴らせるかに掛かってくると思う。ラトル指揮で全く響かなかった音響と音楽の膨らみこそが期待されるのだ。

私はドキドキしながら20時からのラディオのディレー生中継に専念する。ARD夏のフェスト特集として平素以上の高音質の中継を密かに期待している。メムバーは全く変わらないと思うので、土曜日にTV中継映像でそれを確かめるぐらいだ。デジタルコンサートの無料クーポンは生では観れないワンのルツェルン中継録画に取っておこう。



参照:
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
血圧急上昇の晩夏 2018-08-21 | 女
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ベルリナーシュロース話題

2018-08-24 | 歴史・時事
土曜日のイヴェントの案内が入っている。ベルリナーシュロースでの演奏会の歴史的背景について述べられている。1929年からこの企画が始まったのも、ベルリンでフェスティヴァルをそれもオペラフェスティヴァルを開いて世界中からの観光客を見越したからだとある。今のミュンヘンのそれに似ている。それに対して芸術的な意義が見つからないとして、このホーヘンツォル家のシュロースを歴史的遺産として使おうとして七回のコンサートが付け加わり、徐々にアトラクションとしての価値を増したようだ。

最初はシュターツカペレや市立劇場の座付き楽団がシュロース音楽隊とされていたようだが、1933年からフィルハーモニカーが登場してエーリッヒ・クライバーが、反ナチ政権の為1935年に亡命する迄ニ年間指揮した。その後、バロックからの作曲家末裔であるハンス・フォン・ベンダが場所に相応しいバロック音楽から古典派までの曲でオープンエアを指揮して人気を博したらしい。その理由は60ペニッヒで聞けるという社会的な使命もあったというから、今でいう何とかForAllというのと同じである。その意味からするとヴァルトビューネとも変わらない。その他戦後内部的に指揮指導をしていたレオ・ボルシャートの名前も挙がっている。さて70年ぶりにどれほどのイヴェントになるだろうか。予定通り隣のベルリナードームのあるルストガルテンでパブリックヴューイングもあるという。

プロムスからのチャイコフスキーを聞いた。ザルツブルクで名演を披露したリサ・バティッシュヴィリの音色を堪能したものだ。ロンドンでは、最初の音から弓が上手く走っていなかった。だからどうしても倍音が響かない。そして飛翔する筈のところがもう一つ行かないだけでなく傷もあった。本人の一時間の時差の影響もあるだろうが、ザルツブルクでの映像制作時のような演奏はいつも叶う筈がない。逆に安心したが、二楽章から三楽章などは挽回して、ザルツブルクよりも上手く行っていたところもあった。それでもラトル指揮でのドヴォルザークよりもいいところが出ていた印象だ。

ラトル指揮と言えばザルツブルクでのマーラー第九が話題になっている。評価が分かれているようなので興味を持った。勿論九月の第一週にそのラトル氏と一緒にルツェルンで同曲を聴く予定だからだ。バイエルン放送での評で大体分かった。大まかにいうと、ハイティンク指揮で期待されるような「白鳥の歌」に近いものではなく寧ろ三番などに近い「愛の音楽」が繰り広げられているという事だ。完全に解釈の問題で、その評価で批判もされ大絶賛もされてもいる。

個人的にはルツェルン音楽祭のHPでの紹介の仕方が本当に正しいのか、それともやや一面に偏り過ぎるのかに関しては疑問があった。少なくともアルマ・マーラーの想い出を見る限りそれほど諦念に満ちた曲ではありえないと思った。それを言えばすでに若い頃の曲でも行き過ぎ感はあるので、本当の表現はそうしたステレオタイプの文学的な解釈では導かれないものだと確信する。

なるほどラトルが得意とする交響曲10番のクック版などを前提とすると、今回の演奏実践は正しいように聞こえる。個人的な興味は、ハイティンク指揮の解釈のアンティテーゼである筈がないと期待させるところにある。私たちにとってはレナード・バーンスタインの呪縛から逃げることが先ず何よりもの関心なので、今回のラトル指揮のストップアンドゴーがゴムひもが伸び縮みするような物理現象的なイメージを抱かせるとしたらそれは格別面白いと思う。しかもラトル指揮の場合は入念にそれをリハーサルで仕上げてきている訳だ。そして四楽章の頭の触りを聞く限り、少なくともベルリンのフィルハーモニカーから期待されたような充実した響きでないことも確かだろう。ラトル指揮のコンサートに何を期待するかの違いだけである。本当のファンはこれからも支持するであろう、そしてただのミーハーにとってはペトレンコへと関心が向かってしまって、もはやロンドンのそれに関心を持つことなどは無いであろう。個人的には散々良い面も悪い面も聞き尽してしまったので、ハイティンク指揮の前の無料の「グルッペン」ぐらいへの関心が適当なのだ。そもそも同地のフィルハーモニアとは違い決して悪い管弦楽団ではないが、ロンドンのシムフォニカーやミュンヘンの放送交響楽団に金を掛ける方が間違いだ。米国の超一流に金をつぎ込んだ方が遥かに価値がある。



参照:
手塩にかけるイヴェント 2018-08-23 | 料理
尻を捲くり立ち留まる 2005-10-29 | 歴史・時事
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
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手塩にかけるイヴェント

2018-08-23 | 料理
塩が切れそうだった。様々な塩を使っているので、その一つの海水の塩田の塩である。それも同じ種類の顆粒と粗塩の両方があって、ミルに入っている後ろのものが無くなりかけている。同じ塩の顆粒を使っておけばよいのだが、一度料理に使い分けるとそれが無いと気分が悪い。そこでスーパーで買おうとすると、生憎同じものが切れていた。キロ当たり2.19ユーロなので通常の塩と比較しても高価ではない。それにミルで使うので、使用量も限られる。それならばと同様のものを探すと、キロ2.69ほどでキロ入りがあった。当分使える量である。

調べてみると、イタリアとクロアチアに挟まれたスロヴァニアの海岸で昔ながらの方法で干された塩だという。そもそもスロヴァニアに海があることも知らなかったが、地中海とは驚きだった。写真を見ると観光向きの絵ではなくてピランスカソルと称して本格的に塩田をやっているのが窺がえる。この価格で手作業と書いてあるので半信半疑だったが、合点が行った。地図で見ると数キロほどの国境間で、イタリアのトリストの隣だ。最近は日本などでも再び塩田の塩を高級に出しているとも聞いたが、こんなのが安く買えるとは思わなかった。これは楽しみだ。さぞかし味のコクがあるだろう。先ずは古いのを使い切って、汗を掻きながらミルの蓋を外して、詰め替えなければいけない。隣にヒマラヤの岩塩もあったが、こちらの方は黄色みがかっていたので料理を考えてみないといけない。

来週木曜日放送予定のルツェルンのコンサートにまだ残券がある。全部は到底埋まりそうが無いので、映像の映りもあろうから、アカデミーなどで配券してしまうのだろう。やはりフランツシュミットの交響曲がネックになっているようだ。実際一楽章を振り返ったが、その楽器間の受け渡しも慣れた作曲家の手練手管というよりも、楽団の中の演奏者の感覚が綴られているような感じもする。なかなか面白いのだが、詳しく音を追うだけで疲れるような音楽で、若干ブラームスの三番やシェーンベルクの受け渡しを思い出さなくもない。とても精妙だと思うが聴く方もそれだけの集中力を強いられる。その意味から決して容易な曲でもない。それがなにもヴィデオで伝わった訳でも新聞評だけでもないのだが、なんとなく総合的にそのようなイメージが社会に伝わっているのだろう。実際にここでこうして書くこともそうしたムードを助長させている。だから皆挙って高額券を買ってという事にならないのだ。そしてワンの人気などもごく一部のものだと思った。難しいプログラムにはランラン並みの客寄せパンダが必要なのだろう。但し客質が下がるのは間違いない。

さて、土曜日のシーズン幕開け二晩目が今週末に迫って来た。一体誰がそこに現われるかはとても興味深い。先ずは首相のメルケル博士夫妻、シュタインマイヤー大統領の日程が空いている方のどちらかは出て来るだろうか。そうなると外交官筋も出て来る筈だ。あとは政治家閣僚やベルリン市のお偉方だろうか?プロイセン家は一体誰が代表するのだろうか?その他の有名人どころはベルリンではどうなのかは分らない。比較対象としてはあまり良くないが、ヴィデオに残るヒットラーの誕生日を記念してフルトヴェングラーが指揮するフィルハーモニカーであろうか。観光対象でもあるヴァルトビューネなどとは違う本格的な大イヴェントになることは間違いない。



参照:
早起きはなんぼの得 2018-08-22 | 生活
逡巡もしおどきの生活 2014-12-03 | 料理
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早起きはなんぼの得

2018-08-22 | 生活
朝四時前に目が醒めた。最近は寝室だけは窓を閉めているが、他の部屋の窓は開けて寒気を夜中に入れておくことにしている。だから明け方になると少し冷える。二度寝で寝坊する。小用に立った序に枕もとのタブレットにメールが入っていた。要件は分かっていたが開けてみると、添付付きメールが届かないという話しだった。そこで直ぐに他の方法を知らせようと思ったが、タブレットでは書き難かった。四時を過ぎていたことでもあり、起きて寝惚け眼でPCを立ち上げて、メールを返した。

そこまですると眼も醒めて、前夜から準備しておいたサイトを開けた。ティケェットの発売日である。来年の五月なのだが、発売時刻などを問い合わせるのを怠っていたので日時しか分からない。だから発売所が開く時間に合わせてと思っていた。その計画でパン屋一走りなどの時間割を考えていた。どうせ早く走り終えて戻ってこなければ、買い時を逃すと思っていたので、PCの前で仕事をすることにしたのだ。五時を過ぎていたから当然だ。するとなんとネット販売が始まっているではないか。

キリル・ペトレンコは義理堅い人である。父親がコンツェルトマイスターを務めた管弦楽団でマーラーの全交響曲演奏のプロジェクトは毎年一曲づつ指揮をする。プロジェクト「マーラー9x9」は進行中である。流石に2016年のべルリナーフィルハーモニカーの後任に指名された時に、地元の人たちはもうこれでプロジェクトは終わりだと覚悟した。しかしなんと最後までやると意思表示があったのだ。
Tour of Asia with Kirill Petrenko: Finale of the 1st concert

Mahler: Symphony No. 4 (Komischen Oper/Geller/Kirill Petrenko)

Kirill Petrenko: Finale of Gustav Mahlers Symphony No. 7


ペトレンコのレパートリー選択は様々な考察が張り巡らされていて、2008年の交響曲第1番に始まって、3、4、5、6、7番が続いて、そして来年はブレゲンツで第8番が演奏される。この交響楽団で演奏されれば他所でも指揮をする筈だ。8番は次のシーズンぐらいにはベルリンに先駆けてミュンヘンでも指揮するのだろうか。それとも就任コンサートで取り上げるのだろうか?第九合唱付きは来年のジルフェスタ―と予想する。少なくとも演奏会までにはその先の予定が発表されているだろう。このフォアアールベルク交響楽団にサラ・ヤクブラックやクラウディア・マーンケなどのソリスツ陣とザルツブルクの合唱団などを加えてブレゲンツ祝祭合唱団などが総力を挙げての公演は夏の祝祭と並ぶ大きなイヴェントになるに違いない。

個人的には、地元フェルトキルヒの定期会員のペトレンコのお母さんを含む人々の様子も楽しみにしているのである。熱い声援があるのか、それとも冷静な姿勢で音楽に聞き入るのかなどとても興味津々で、このモニュメンタルな作品をボーデンゼーの人達は本当に平常心で受け入れられるのだろうかと想っている。私にとってもアバド指揮が曲目変更になって怒り心頭で病身の本人に抗議をしようと思ったぐらいなので、初生演奏体験が待ち遠しい ― いい加減なことを書いてしまった、一体私が体験したミヒャエル・ギーレン指揮の交響曲第八はどうなったのだ、あれは1998年だったのか。
Mahler: Symphony Nr. 8 [Gielen] Banse, Pecková, Kallisch, Winslade


初めてのブレゲンツのフェストシュピールハウスだが、二カ所の定期公演の一つの地元フェルトキルヒで出来なかっただけの大きな編成を入れる1656席の十年ほど前に補修された大ホールである。調べてみると、横に長めの舞台で、平土間が階段状になっていて、大会議に使い易い傾斜になっている。その反面二階席のヘッドスペースが狭いようで、何時もは大編成ではバルコン席を喜ぶのだが今回は平土間とした。その大編成の全景が得られながらあまり遠くないよな席を獲得した。朝の時点では、定期で掃けた以外の一席だけ同列で残っていたのが丁度狙っていた列で、お母さんやプレスはその前列ぐらいかと予想した席だった。写真等で研究したので後ろ過ぎることは無いと思うが、一番いい席はどれだろうか。

料金は一番上で特別料金59ユーロでそれに5ユーロの送賃が掛かるので64ユーロになった。コンセルトヘボーの適当な席とあまり変わらないが、出し物が大掛かりなだけ仕方がない。因みに私がログインした時には、GPを入れて三回目の上演の定期会員数の少ないフェルトキルヒ定期向けの晩で、上から68、69、174、138席残っていた。発売初日は50席ぐらいしか掃けないだろうか。

前日に宿も手配しておいたので、無理せずに宿泊可能の準備をした。大掛かりな曲だから、指揮者の叱咤激励の苦労同様に、全身ががっくりと来るかもしれない。



参照:
第八交響曲をキャンセル 2012-05-09 | 文化一般
特別効果の「さすらう若者の歌」 2017-05-02 | 音
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血圧急上昇の晩夏

2018-08-21 | 
胸が少しパクパクしている。最近は、この季節の変わり目の為が、心臓に負担が掛かるような気持がするのだ。そこにどうしても血圧に影響する新事実を知る。口説こうとしていた女性が、大学生でなく、ギムナジウムの生徒だと分かって血圧が上がった。なにも急いでどうこうの心算は無かったのだが、年齢からすると大学生の筈なのだが、まさかと思った。流石に年齢までは質せなかったが、あとで考えるとドキドキした。流石にギムナジウムの娘を口説こうとは思わないが、実際にそうだったのだ。二十歳前後だとみていたので、そろそろバッチュラーを終えて、グラデュエートにでも進むのかなと勘違いしていたのだ。いい機会を見据えようと思っていたら、少なくともアビトユーアまで一年あることになる。アビテューアのお手伝いぐらいならばできそうだが、ギムナジウムの女生徒はクライミング位でしか付き合ったことは無い。これは困った、想定外である。

夜中にシカゴからの放送を録音しておいた。偶々、アンネ・ゾフィー・ムターのチャイコフスキーの協奏曲演奏だった。最初からストラディヴァリウスの芯の通った最高級ボルドーのような美音が満開だ。そして進むと明らかに遣り過ぎの歌い口が耳に付く、印象させるのはフォンカラヤンなどのチャイコフスキー演奏で、それほど変わらないと思う。キリル・ペトレンコなどが指す「西欧のチャイコフスキー」であろう。フルトヴァングラ―の「悲愴」など歴史的に定着したものであろうが、今こうしてムターの演奏とムーティの伴奏を聞くと我々が期待するようなシカゴの機能的な響きよりも、如何にも脂ぎっていて、フレンチロココへの飛翔が全く期待出来ない。ムターの技術とその音量と貫禄は否定しようがないが、高い金を払って態々聴こうとは思わない。失望まではしないまでもこのようなチャイコフスキーならば御免だ。リサ・バテュアシュヴィリのグァルネリ・デルジェスよりも素晴らしいストラドサウンドで弾いてくれる人はいるかもしれないが、チャイコフスキーが少しでも分かってくるとそのハードルは高くなる。ハイフェッツなども生で聴けばよかったのかもしれない。

ミュンヘンの「マイスタージンガー」三日目が最上席3席を入れて残り17席になった。あとは視界が効かない席だ。サイドのバルコンは出るかどうか知らないが、多くの人は理想的な配役となりそうな舞台上の芝居もしっかりと生で観たいだろう。最上席も中々平土間前方が出なかったのはあのタッパのある舞台を知っているからで、視角を重要視したと思われる。だから「金に糸目を付けぬ、熱心な」私には中継の日のバルコン席の配券となったのだった。

ベルリンでのリハーサルが始まる。私は昨年台湾での第七番イ長調の練習風景を振り返る。ヴィーンで出会いのあった作曲家の述べるコンサート評も交えると、一楽章序奏と主題部のテムピの対比はメトロノーム指定に近いようで、序奏から八分の六ヴィヴァーチェに移りゆくところは最初の聴き所だろう。ヴィデオに残っているのは第二主題へと移るところの舞踏的な経過区だ。キリル・ペトレンコのベートーヴェンはこうした移り変わりの妙が味噌になりそうである。第二楽章のテムポも早く感じられたというので、メトロノーム記号に近いと思う。粘度を下げたボーイングで同時に持続性と軽さを増した演奏とある。この点から更に後半を大胆予想してみたい。
佩特連科與巴伐利亞國立歌劇院管弦樂團 9/8彩排


またまた興奮して来た。体調が心配だ。夏の終わりは毎年胃癌症状で体調を壊すが今年は一寸違う。冷たいものの摂取量は減ったが、水分補給量は増えて胃液も薄くなって気分も悪くなった。更に夜中の気温変化から血圧も上がり気味で、とても怖い。



参照:
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
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グァルネリ・デルジェスの音

2018-08-20 | 
土曜日は結局「ポッペア」生放送を途中で切り上げて、3satの「西東詩集」管弦楽団演奏会を観てしまった。「ポッペア」の方の音楽は順調に進んでいて問題になっていた件のバイエルン放送協会の放送障害も無かったのだが、モーツァルトザールの収録がいま一つ冴えなかった。そして映像で観なければいけない気持ちになった。それ以上に「西東詩集」の方の呟きの反響をじわじわと感じていたので、そちらへと移ったのだ。そして、ヴァイオリンのリサ・バテュアシュヴィリの演奏に興奮してしまった。その演奏に熱が入って行くにつれて、途中からどんどんと私の呟きがリツィートされて行く、最終的にはフォローワー数を超えていた。

この女流は、アルフレード・ブレンデルの一押し演奏家という触れ込みだったが、2016年のバーデンバーデンでのドヴォルジャークの演奏ではそれほどの確信は持てなかった。後ほど調べてみると恐らく楽器もグァルネリのデルジェスで同じだと思うが、ラトル指揮の伴奏では十分に弾き切れていなかったようだ。
Dvořák: Violin Concerto / Batiashvili · Rattle · Berliner Philharmoniker

Dvořák: Violin Concerto / Batiashvili · Nézet-Séguin · Berliner Philharmoniker


今回のチャイコフスキーの演奏はこの曲への認識を新たにしてくれるほどの名演奏だった。そのヴァイオンリンの技巧と響きの細やかなコントロールを聴けば、ガダニーニのクレメルもストラデヴァリウスのムターも要らない。若干想像させたのはオイストラフだが、分らない。本人はミュンヘンでツュマチェンコに14歳からついているので、流派としてはどうなのか。正直これだけのヴァイオリンの音を聴いたのは久しぶりで、恐らく女流では今一番本格的ではないかと思う ― 少なくともムターよりも若く彼女の柔軟性が嬉しい。
Lisa Batiashvili & Daniel Barenboim - Tchaikovsky/Sibelius - Violin Concertos (Trailer)

Salzburger Festspiele 2018 - Orquesta West-Eastern Divan y Daniel Barenboim (17.08.2018)


一楽章でもしっかりと管弦楽に耳を傾けていて、バレンボイムの独自のリズムの下でのイスラエル・パレスティナの彼女彼らの音楽への共感のような音色をヴァイオリンで綴っていくのだ。ジャズで言うところの即興のようにそこに流れ込んでいく音楽性と技術の確かさは、恐らくムターを始めとするヴェテラン女流には求められない柔軟性で、こうした大曲でそれをやってのける室内楽奏者的な技量に驚いた。それこそがツュマチェンコ教授の下でティーンエイジャーとして身に着けたものではないかと思う。同じミュンヘンのユリア・フィッシャーとの比較は今は敢えてしないが、ブレンデルが認めたその才能を漸く見極められたことが先ずは嬉しい。私が会場に居たならば皆以上に一楽章から大拍手を送っていたのは間違いない。それほどに素晴らしい。

どのような世界でも変わらないが、柔軟に対応可能というのは、最たる技能であり、経験のなせる業でもある。それを支える天分でしかないと思う。こうした芸術の世界ではそれが舞台の上で芸として示され、その芸をなんだかんだと楽しめることほどの愉楽は他に一寸無いのではなかろうか。クラシック音楽の場合は、ジャズにおけるほど即興的な面白さは無い訳だが、協奏曲の場合はどこまで行っても指揮者とソリストの間の齟齬はあるので、まさしくその呼吸が楽しめる。

今回の指揮者バレンボイムの場合はピアニスト出身としての経歴から、室内楽奏者としてまでは行かなくても少なくとも日常の音楽劇場や協奏曲などの合わせものの方法を完成させている ― バテュアシュヴィリはバレンボイムの音楽が呼吸をしているといった。この協奏曲を聴いていて、その独自のリズム感とそこの関係が良く分かった。管弦楽団の演奏者の方も、特になにもマイスターのヴァイオリンの息子バレンボイムだけでなく弦楽陣は直接にヴァイオリンにも反応していて、とても良かった。

協奏曲が終わってもリツィートの波はあったが、そのほどんどのドイツ語圏の感想などを見ると、やはり素朴なこの故サイードのアイデアの活動への共感以上には、芸術的な感応にまでは至らないのが殆どかもしれない。作業中に誤って元の呟きを消してしまって不愉快な印象を与えたかもしれないが、それはやってしまったので仕方がない。飽く迄も重要なのは芸術的な共感であるというのは、政治家ではなく、自らのイスラエル国籍を恥じるバレンボイムの本心であることも詳しく彼のインタヴューを読まなくとも理解している心算だ。

日本からは3satは観れないのかもしれないが、ヴァイオリン好きには見逃せない。オンデマンドはVPNを挟めば問題なく落とせるだろう。中途半端なヴァイオリニストの演奏を聴くぐらいならばそれだけの価値があるだろう。



参照:
Daniel Barenboim und das West-Eastern Divan Orchestra (3sat)
「ヤルヴィは一つの現象」 2018-05-13 | 文化一般
絶頂の響きの経済性 2015-02-27 | 文化一般
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生中継の妙、色々

2018-08-19 | 雑感
夜中に窓を閉めるかどうかの微妙なところだ。翌日の気温を考えれば夜のうちに冷やしておきたいのだが、寝室を除いて窓を開け放しにするとそれなりに冷えて、若干明け方の睡眠が浅くなり、朝が辛くなってきた。日の出前に起きたいのだが、中々体がついて行かない。

ランランの演奏中継が流れてきたのには驚いた。生中継は後半からの予定だったからだ。しかしそのリンクが繋がらなくなって、焦り気味に色々と試していると、僅か四分足らずながら演奏風景が流れたのだ。明らかにテスト中に流してしまったようである。最もラディオ中継はしていたようなのでそれほどの大事ではないが、とても興味深った。左手の調子はタングルウッドと同じようだったが、それに苦慮している真剣な表情が見れたのが良かった。ラディオも聞いていないので批評が出るのが楽しみだ。今後左手の調子が戻るのかどうかは知らないが、ランランのピアノを知っている人が何かを書くだろう。

流出Videoを見ると、ランランの表情が映るように左右に二台のカメラが立っている。これはどう見ても映像化が前提となっているようで、制作会社が撮影している。ドキュメンタリーになるのか、仕上がりによっては製品化するのかは知らないが、生中継を断った理由はここに関係しているのだろう。

お試しでウニテルの動画を観た。知らなかった映像どころか演奏会があった。日本では、インターネットなどない頃だから、全く知る由も無かった。ヴィーナーフィルハーモニカーがベルリンのフィルハーモニーでバーンスタイン指揮でマーラーの第九を演奏するというものだ。年代は調べていないので分からないが、コンツェルトマイスターのヘッツェルの横に髪のフサフサのキュッヒルが座っているので、大分前の演奏会だと分かる ― ベーム指揮の日本公演ではもう既に禿げていた。バーンスタインからすれば日本で振った二回の第九のその間で、最初のニューヨークフィルのものは聴いていないが、その後のイスラエルフィルとの演奏よりも端正で、後年のベルリナーフィルハーモニカーとのものよりもいいかもしれない。少なくとも今お勉強に使うなら一番良さそうな資料になる。ヘッツェルが率いている時の方が楽団も堅実で良かったような感じがする。

それにしても背景のサイドの壁も何か高いベルリンの壁のように見えて、演奏者の後ろには網の柵までついていて、まるで陸の孤島西ベルリンを象徴しているかのようだ。あの当時のフィルハーモニーを回想するが、これは気が付かなかった。それでもあの壁際に建つフィルハーモニーでの休憩時の雰囲気の漆黒の闇の異常さは今でも忘れない。

タングルウッドからの放送は雷雨が酷そうだが、録音はタイマーで上手く録れたようだ。どんなショスタコヴィッチになっているか楽しみだ。少し触りを聞くと雷鳴に影響されずに細やかな仕事ぶりで好感が持てる。同じようにルツェルンの祝祭管も以前のようなオールスターは無くなってもシャイーの指揮がなかなか冴えているようで、とてもいい。丁度先日聞いた、エストニア祝祭と都饗と、これを比較すると、交響楽団はいかにあるべきかという議論のとても良い材料になると思う。エストニアとルツェルンは寄せ集めで共通しているが、交響楽団としての鳴りは全く異なっていて、ルツェルンの出来は際立ち、何がエストニアに足りないかは明らかだろう。同じような意味で都饗に足りないものも比較するとよく分るのではなかろうか?シャイ―がヤルヴィと比較して指揮者として優れているとは容易には言えないが、恐らくその常任の経験からしてオーケストラビルダーとしては格違いであることが如実に出ている。それはゲヴァントハウスやコンセルトヘボーで残してきたもので明らかで、その点では都落ちのヤンソンスと比較しても分かり易いかと思う。業績の芸術的な格が違う。そこを小澤と斎藤記念と並べてみると余りにもはっきりし過ぎないだろうか?

それはバーンスタインのマーラー演奏実践にも表れていて、決して大雑把な仕事ではなくて、寧ろこうして改めて聴いてみるとキリル・ペトレンコなどとその楽譜の細部への拘りではそれほど変わらないことになる。技術面などは別にして、その客観性を何処に置くかという差異でしかない。ベルリンでの昔のヴィデオを観れて、とても参考になった。自身の中で記憶されていたのは、実はそうした細部の繋がりの効果であって、その後の爆音を鳴らすことで成果としたようなマーラーの交響曲解釈では無かったという事だ。エサペッカ・サロネン指揮などのものの方が遥かにハリウッド的グロテスクを狙ったものであるかが理解できるかと思う。



参照:
組み込まれる経済プラン 2018-08-15 | 文化一般
ペテン師野郎の指揮 2018-08-11 | 文化一般
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殆どマニアの様な生活

2018-08-18 | 生活
歯医者に行ってから初めて走った。明け方結構冷えたので窓を開けている分小用に立ったり、決して深い睡眠とは至っていない。だから朝も陽がのぼるまではなかなか醒めない。結局沢沿いを走るころには陽が昇っていた。それでも16.5度とそれほど気温は上がらない。覚醒しないところで頑張って走るしかないのだ。なにも無理をする必要はないのだが、色々な意味で正常化に戻すにはこれが一番早道である。汗を結構掻いて戻って来た。ワイン街道もそれほど気温が上がっていなかった。何とかこれで仕事も手に付くようになるだろう。

デュカ作曲「ラぺリのためのファンファーレ」、なんてことはないブラスのファンファーレなのだが、ベルリナーフィルハモニカ―は私と同じように泣きべそ掻くかもしれない。フィラデルフィアの管弦楽団がオルガンの響きを出すほどには出来ないとしても、リズムを正確に吹くことで音程を求められると可成り手ごわいのではなかろうか。技術以前にどのように合わせて来るのかが問われる。キリル・ペトレンコ指揮のプログラムはどれもこれも大管弦楽団への課題練習曲のような趣で、結局ついていけない奏者も現われるに違いない。

もう一つの「死と変容」も以前からの感じていたそのサウンドの印象よりも演奏実践の可能性がとても高い曲だと分かった。先ずはしっかり鳴るかどうかというような大管弦楽団の問題もあるが、ホルンの低音や管弦楽法上の可能性と同時に楽劇で発揮する表現の可能性も示されていて、ペトレンコ指揮では一筋縄で行かぬことが分かった。特に弱音からテュッティーでは「悲愴」での鳴り以上に厳格な鳴りが要求されそうで、その間はオーボエの一節の表現が、精妙なリズムで演奏されるとなると、中々厄介だろう。少なくともサイモン・ラトル指揮での演奏のように単純には全く行かない。四回目のルツェルンでもどこまでの精度に持ってこれるだろうか?

BBC4の映像を観る方法を探したが上手く行かない。それは諦めておいて有料の二週間お試しのサイトに入った。数の割にはこれといったものは見つからなかったが、急いでコピーしておこうと思ったのは幾つかある。特に存在を知らなかったようなユニテル制作映像が幾つかあった。コピー防止でネットには出ていないからだろう。その中でも先ず注目したのはアルテュール・ル-ビンシュタインのブラームスの一番協奏曲で、これは五月に勉強していたものだ。但し録音ではイスラエルの管弦楽団の下手なのに晩年のよれよれした演奏でしかなかったが、アムステルダムではそれほど年代は変わらないと思うがしっかりしている。そしてその時に比較対象となったアシュケナージのピアノに付けていたハイティンクの出だしの動機の六拍子を諫めたが、ここでは立派に演奏している。ピアニストの関係としか思えないのだが、決してそれがアシュケナージの奏法と揃っていた訳ではない。恐らく二人の相性が悪かったという事になるのだろう。そしてここではブラームスの直接の指示を参考としたルービンシュタインのそれにしっかりと寄り添っている。

想像するにハイティンクも自己顕示欲が強く出ていた時代もあって、様々な意味で若い時の素直な指揮とは異なって無理して大指揮者面をしていた時期があったのではなかろうか。勿論最終的にもムーティなどと比較すると下のランクであることは間違いないのだろうが、壮年期には謙虚には受け入れられなかったのだろうか。いつの間にかまだ聴いたことの無い指揮者ハイティンクのマニアになってしまったようだ。肝心のルービンシュタインの演奏はブラームスとショパンのスケルツォがあるが、流石に衰えはあるが、音楽解釈としてホロヴィッツなどよりも現代でも通じる謙虚さがある。伝統を受け継ぐ者の演奏に熱心に耳を傾ける若きハイティンクとその姿勢こそ見上げたものである。



参照:
まるでクリーヴランドか 2018-05-03 | 音
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
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