Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2017年11月

2017-11-30 | Weblog-Index


大人ではない子供の世界 2017-11-29 | マスメディア批評
MTBを抜き切る 2017-11-28 | アウトドーア・環境
私にとって、それは神だ  2017-11-27 | アウトドーア・環境
週末から年末年始へ 2017-11-26 | 生活
まるで億万長者ゲーム 2017-11-25 | 雑感
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
枯木も山の賑わいとか 2017-11-23 | 生活
ネジを絞められない話 2017-11-22 | 雑感
永遠の歓喜に寄せて 2017-11-21 | 文化一般
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
居心地もいけるかな 2017-11-18 | 生活
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
汲めども汲めども尽きない 2017-11-16 | ワイン
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
十年先のペトレンコを読む 2017-11-14 | 文化一般
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
キリル・ペトレンコの十年 2017-11-12 | 文化一般
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
遠隔から取捨選択する 2017-11-09 | 暦
とうとう暖房を入れた日 2017-11-08 | 暦
土人に人気の卒寿指揮者 2017-11-07 | 歴史・時事
籠り部屋でのモニター 2017-11-06 | 生活
パリとベルリンからの中継 2017-11-05 | 雑感
離れたモニターを使う準備 2017-11-04 | 生活
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
人命に軽重無しとは言っても 2017-11-02 | 歴史・時事
はっぱふみふみ 2017-11-01 | 生活
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大人ではない子供の世界

2017-11-29 | マスメディア批評
プッチーニの三部作第一部の「外套」を見た。なるほど子供の時には関心がなかった筈だ。痴話物で、「道化師」などは分かってもこれは流石に幾らませていても分からなく関心がなかった筈だ。流石にであるが、若い嫁さんをもってという前提となると、また今少し揺すぶるものがある。

イタリア語の「外套」の意味は分からなかったのだが、恐らくこの日本語訳はそれほど決まっていないと感じた。細かくテキストを見ていくともう少し真っ当な訳が浮かぶかもしれない。少なくともその「外套」は嘗て若い嫁さんを温めて、そして最後にはその愛人の死体を隠しているというだけの意味ではなかろう。文学的に二人の関係がタイトルとしてしっかり表れているような和訳でなければいけないと思う ― 歯に衣着せぬの反対の感じになるのか。

音楽的には、最後のドラマティックな殺人シーンよりも丁度中間の浮気シーンが中心だと思った。その前後の流れでが全体の三部作に繋がるのではないかと感じた。更に最初の12拍子や三拍子系が当然のことながらセーヌの流れや舟唄に通じるのは在り来たりだが、その後にヴァルツァーに持ってくるなどの工夫が面白い。更に歌の線とユニゾン楽器などの書法がメロディーの線を重視するとともに、それが歌い易いだけではなくて、厳密に合わせていく必然性を感じる。

ダウンロードしてあったシャイ―指揮のスカラ座の演奏では、あまりにもお手のもののスカラ座の管弦楽団をそこまで厳密に振ろうとしていないようで、明らかに歌に合わせるような指揮をしているようだ。それはそれで本場物の感が強く大変な強い効果を上げているのだが、なにか手持無沙汰な感がするのは、クラウディオ・アバドがあまりプッチーニを得意としていなかったことと似ているような気がする。イタリア人にとってはあまりに日常過ぎてこの作曲家の書法に関心を抱くほどの距離感がないのかもしれない。(続く

ペトレンコ指揮の「子供の不思議な角笛」と「ヴァルキューレ一幕」を無事に鑑賞した。ラディオで聞いていたから改めてとは思うが、前半の「角笛」は四回目のミュンヘンでの本番とは大分異なっていて、動画を見ると上手く行っていない部分が見て取れた。管弦楽団の精度も異なるが、歌手のゲーネの方も流石に合わせてきていたので、上手く運んでいたところもNHKでは全く駄目だった。熱心にマーラーの歌曲を歌っているようだが、どこまで読み込んでいるのか疑問に思われ、この歌手の本領は「ヴォツェック」の様なオペラの狂人の役ではないかと思う。更に、それなりの音質なのだが、カメラアングルが歌手に集中していて重要な音楽的な情報にも欠けていた。資料的な価値はある映像かもしれないが、芸術的にはあまり意味ない映像だった。それに引き換え後半の方はやはり興味深いところが更に前半でも見つかった。NHKのカメラディレクターもマーラーの歌曲よりは「ヴァルキューレ」の方が曲に馴染みがあるのだろう。



参照:
マーラー作プフェルツァー流 2017-10-15 | 音
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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MTBを抜き切る

2017-11-28 | アウトドーア・環境
頑張って山登りコースを二週間続けて走った。先週はシーズン最初で心拍計を着けたが、今回は着けずに寒さを予想して ― ライン平野の対岸では降雪中である ―、上着を着けたまま走る準備をした。土曜日は降雨だったので、晴れ間が出来ると皆動き出したようだ。少なくともワイン地所から車で上がるときに三人連れのMTBを抜かした。同じコースを目指すことは想像ついていた。上着を着たまま下のパンツは脱いで柔軟体操をしていると、やってきて、先に上っていった。その後ろ姿からこれはいいペースメーカーになると踏んだ。

あまり早く出発すると並走状態になってこれはこれで負担が大き過ぎると感じて、若干時間をおいて走り出した。案の定最初の長い急坂で後姿を捉えた(0.6km)。その後のカーヴとなると失ったが思いがけづ最後の一人を捉えて、追走するとその彼はおりてMBXを押している(0.8km)。急坂が終わったところであとの二人も待っていたようで、全員の後ろ姿も捉えた(0.9km)。その後緑のベンチで左方向に進むのが分かったので(1.55km)、これは頂上で会うことは確実だった。

その後は見かけなかったので、ハイキング道に入ったのを察した(1.7km)。こちらはひたすら林道を走るので、もしかしたら追いつくかなと思っていたら、林道と交わるところで最後の一人を待っていて、三人が揃ったところを追い抜かした(2.7km)。

それでもその上の頂上領域に至ると傾斜の無いところが続くのでそこで抜かされる準備はしていた。上からは女性一人を含むこれまた三人組が下りてきた(3.2km)。しかし声が後ろから聞こえたのだが、目の前には最後の急坂が出てきて(3.6km)、これは走り抜くしかないと思った。道は譲れない、二通りのコース取りがあるが、抜くなら抜いてみろ。そして頂上に立った。すぐに折り返しても彼らは見つからない。活き絶え絶えに急坂の下り口に行くと、二人が最後の一人を待っていた(3.3km)。二人に挨拶して、三人目には余分に挨拶した。恐らく高級の余分でMTBを購入したのはいいのだが暇潰しにこうして使ってみたといった塩梅だろうか?若い割にはトレーニングが出来ていない様子だった。頂上到着時間は大分悪かったのだが、MTBに勝ったのだった。

ピアニストのイゴール・レヴィットがボン市民の選んだベートーヴェンリンクを獲得した。今年のベートーヴェンフェストのレジデンスピアニストだった。授賞式は来年の春のベートーヴェンハウスでの演奏会でのようだ。贈与理由を「彼は息をもつかせぬピアニストで、人を虜にして魅了してしまう」と提示したのに対して、ご本人はそれに直ぐに以下のように反応したらしい。

「私は音楽を吸引力には出来ません」 ― そこから政治的な責任を導き出すような、啓蒙された市民のベートーヴェン的伝統にあるような。

あれほどの政治的な発言があるこのピアニストだけに、この発言の主旨が余計に強く響く。受賞して直ぐにこのように返せる音楽家がどれほどいるだろうか、天晴だ。



参照:
'15年シュペートブルグンダ 2017-11-20 | 試飲百景
謝謝指揮大師佩特連科! 2017-09-12 | 文化一般
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私にとって、それは神だ

2017-11-27 | アウトドーア・環境
承前)ブロムシュテットが語る「アインドイツュスレクイエム」の放送三回目である。先ずはソロが三楽章に突然現れてと語り始める。ラップランド出身の氷に閉ざされたところからやって来た才能のあるバリトンをここで聞けるのは喜ばしいとペータ・マテイを紹介する。そして詩編39を読み上げる。

「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。
6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

ホルンとピチカートに伴われ、再び三音の運命の動機が現れる。そしてブラームスの上行・下行のメロディー作法を作曲家が過ごしたスイスアルプスの山並みに喩える。その具体的な形状の音化と捉えるのがとても面白い。それがまた内容であるアバンダンな孤独感と結び続けて語られる。

そして自らの人生がまるで束の間のようで何ら意味を持たないかのようだとの諦観を歌い、手の幅ぐらいでしかないと。悲観的なテキストであるが、それが現実だと語るこの指揮者が益々宣教師に見えてくる。まさしく新著の「宣教の音楽」そのものだ。

そしてフーガに至ると、歌謡曲と違うのはただの繰り返しではないと、そこで再び最初のSeligのメロディーが出てくるのだが、しっかりと「苦しみ」で和声が暗くなりと、そして神の御手にとなる。同時に管弦楽はまた別のフーガを演奏していているが、二重フーガでオルゲルプンクトが始まる。

そもそもオルガニストが踏みっぱなしにする、その上で美しく興味深い音楽が繰りひろげられる音楽の基礎低音だが、その音楽的な基音は、宗教的には何かと言えば、神だという。人々は最後の審判においても、それよりは下には落ちない*。人々が築くどんな美しい建造物も科学も詩も絵画も全ては創造主の掌の上でなされるのだ。そうした全ての装飾や美の基礎とは、ブラームスのオルゲルプンクトとは、「私にとっては、それは神そのものだ」と信仰告白をする。

1867年のこのフーガの初演は珍しく大失敗だったが、演奏したティムパニストはそれが大切だと思ってあまりにも強く叩き過ぎたので何もかも駄目になったが、ブレーメンで再演した時は大成功したという。そしてもう一つのフーガの五楽章を含めて全七楽章が初演されたのは1869年のゲヴァントハウスであったと語る。

ブラームスがこうした合唱曲を熟知したのはそもそも若い頃にコーラスを編成して ― 因みに彼の女好きで女性コーラスを編成したのだが、はは、生涯独身を通したけどね ―、パレストリーナやラッソーなどからよく学んだんだと、もう一つのフーガの六楽章は改めてということだ。

この三楽章をNHKでの演奏と比較して、このデンマークでのそれが悪いという人は皆無だと思う。アマチュア―とプロフェッショナルの違いで、ナジという歌手はパパゲーノで聞いているが人気があって忙しすぎるのか合唱団に引っ張られているのかここでは話しにならない。管弦楽団だけは必死に支えているが、よくもこんなキャスティングが今回のツアーになされたものだと思う。

なるほど、二重フーガなどは、ペトレンコ指揮のべルリナーフィルハーモニカーの演奏を待つしかないのだが、ブロムシュテットの様な信仰告白までの確信を持った指揮が可能なのかどうかは疑問である。ただ言えることは、これが正しく正確に表現されることで初めて確信となることは確かなのである。ヴィーンの人たちにブロムシュテットの語るような北欧プロテスタントな生活感情が分かる筈がない。少なくともここ中欧から見ていても、なるほどこの話を聞いて、北の果て出身の歌手の歌を聞いて、その厳しい環境の中での温もりを初めて感じることが可能なので、南欧の浮かれて華美な生活感とは全く異なる心情なのだなと体感することが出来た。とても素晴らしいシリーズである、更に続きが楽しみになった。(続く)


*Luther Der Prediger 3.17 Doch dann dachte ich: Am Ende wird Gott den Schuldigen richten und dem Unschuldigen zum Recht verhelfen. Denn auch dafür hat er eine Zeit vorherbestimmt, so wie für alles auf der Welt.



参照:
Herr, lehre doch mich, Herbert Blomstedt (HappyChannel)
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦 
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
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週末から年末年始へ

2017-11-26 | 生活
週末にはプッチーニの三部作の楽譜に一通り目を通したい。それが終わらないと目算が立たなくなる。先ず何よりも「ジャンニスキッキ」や「修道女アンジェリカ」は子供のころからラディオなどで一部を聞いたことがあるが、もう一つ「イルタバロ」は殆ど印象がなかった。そもそも筋などもはっきり分かっていない。それでも今はヴィデオがネットにあって、ざっと見れば筋も分かり場合によればテロップも下に入っている。だから楽譜に目を通す以上に重要な情報はない。音楽の大きな流れさえ見ておけば細かな歌詞もストーリーも必要なものは自然に頭に入る。

NHK音楽祭とやらでテキストのテロップが出ないとの苦情を多く目にしたが、自分自身が日本で海外公演の引っ越し公演などを経験した時にはテロップなどはなかった。あの当時はヴィデオもアナログだけで、輸入オペラヴィデオを集めている人は特殊で、一般的にはLPを大きな対訳頁を広げながら何回となく聞いたのだった。特にオペラの場合はオートチェンジャーでない限り何度もLPをひっくり返さなければいけないので、それだけの時間と根気をもって、引っ越し公演に通う人たちは今でいうオタクなどとはもう一つ行っている特殊層だった。だから今でもオペラには馴染めないというある年齢層以上の日本の音楽ファンもいて、欧米でのようにコンサートゴアーズよりもより大衆的なオペラファン層というのは存在しなかった。

そのような訳で、日本の聴衆がイタリア語やドイツ語などで歌われるそれを理解していたかなどに疑問を呈した文章すらが音楽雑誌に出ていたのを思い出す。要するに熱心な人たちはそれだけ労力を掛けていたことは間違いない ― むしろ高度な音楽ファンとさえ見做されていた。それを考えると、楽譜に目を通して、細かな情景やら全体像を定着していくことは何でもないことで、劇場にもテロップが用意されていて、聞き取れない言葉でも確認できるのだからまさしく便利になったものである。

そのような事情は何も極東の嘗てはオペラ劇場などがなかった日本だけのことではなくて、ミュンヘンの聴衆でも全く事情が変わって来ていて、昔ならば同じ公演に何度も通って楽曲を馴染んでいうことなくなって来ていると思う。要するに聴衆から最初から高度な要求が突き付けられるようになっているのは間違いがない。

一寸気になって、メシアンの「聖フランシス」の初演の録音を聞いたら、CDを持っているにも拘らず楽団がこんなにひどい演奏をしていたのかと驚いた。パリのオペラ劇場での上演だからあの程度なのかとも思ったが、小澤征爾の良さがよく表れているとしてもあそこまでしか出来なかったのかと思った。後任のヴィーンの音楽監督になるフィリップ・ジョルダン指揮の演奏が酷いなと思うが、それともあまり変わらないとさえ感じた。

また年末年始からはミュンヘンでの最後の「指輪」上演のお勉強もより深くしなければいけないと思うようになって、ドレスデンでの「ヴァルキューレ」の公演の情報が出てきたので見た。初代バイロイト音楽監督が歌手を上手く都合していて、バイロイトへの前哨戦のようにパントラコーヴァが日本でと同じようにジークリンデを歌っている。一寸羨ましいのはツェッペンフェルトのフンディングぐらいだろうか。トレーラーを聞くとこれがまた下手な演奏をしていて、こんなものをネットに出しているのかと笑ってしまうのである。それでも売り切れになっているのは音楽旅行パックなどではゼンパオーパは人気があるからだろうか。



参照:
爺さん殺しの音楽監督 2017-11-19 | 雑感
DieWalküreI後半の放送 2017-11-24 | マスメディア批評
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まるで億万長者ゲーム

2017-11-25 | 雑感
車両保険の掛け金額が安くなっていた。無事故年数が溜まったからだが、数年前から二年ごとに減るような制度が見直されて、数年に一度ぐらいしか掛け金額が減らなくなっていた。だから強制自賠責保険と車両保険とも5%減額されたのは嬉しかった。

なにがいいかというと、新車を購入した時にどうしても保険金額が大きくなるので、その時もこの5%が大きく活きてくる。現在の車で車両保険に入っていても、壊しても盗難でもほとんど金が貰えない。古い車に車両価値がないからだ。だから少なくとも車両保険は止めてもいいのだが、そこは損得勘定が入る。目的はこの掛け金の減額で、新車を購入したときはそこから続けられる。

勿論新車価値のより低いものを購入するならば車両保険額はそのままでも低くなるのだが、今回5%落ちたことで、ある程度の車両価値があるとなるとこの5%減額が大きいのだ。要するに新車購入時の車両維持費を算段する場合に大きな意味を持つ。喜んでいたのである。来年以降、プラス何百ユーロだ。

冬タイヤに変えた。予想通り乗り心地が良くなった。車も足回りが草臥れてくると、タイヤでのショックの吸収がものをいう。週末からシュヴァルツヴァルトなどでは谷にまで雪が降るようなので、これでベストタイミングと喜んでいた。

冬タイヤも2013年10月に最後のものを安めにアマゾンで入手したのが、最後まで使えて、乗り逃げると思っていた。タイヤだけでまだ使えても車を下取りしてもらうときにそれほど金にならない。だから上手く乗り逃げたいのだ。いつもよりも長く待っていてそろそろと思っていると、いつもの親爺がやってきて、車のあるところまで来てくれという。「何回も空気を入れても抜けてしまうのでおかしいと思った」とそして上げてある車のタイヤを指さす。釘が刺さっていた。そもそもタイヤを預けてあるので、その間に検査済みな筈なのだが、目視で見落としたということになる。これじゃ金を払っている意味があるのかどうか、不安になるのである。

そこで、同じものがあるからとオファーを出すのが155ユーロである。「お宅で買うと高いからな」というと、それほど変わらないというが、あとで調べてみると約40ユーロ安く入手可能だった。それでも改めて夏タイヤを嵌めて、アマゾンに発注してそれを持って再び出かけてとなると時間の無駄も大きい。面倒なので早く遣らせた。これでマイナス40ユーロそれどころか155ユーロだ。

これも全く買う必要のなかった155ユーロなのだが、釘が刺さるのは仕方がないことで、使えるタイヤが駄目になったのは事故を除けば初めてかもしれない。まあ、慰めになるのは2013年に購入した分は前輪についていて、釘が刺さっていた後輪はその前年の五年前に購入したもので溝の深さ6ミリで、それ以上に古いものだった。つまり、年間2ミリほどの消耗で来年の冬には使えなくなる可能性があったものだ。預けて置いて明らかに得すると感じるのは清掃や保存方法などで、消耗が少なくなることである。これで一番溝が浅いのが、右側後輪で、それ以外は殆ど新品に近い感じなのだ。それだけが慰めである。




参照:
DOTでゴムの耐久を確認 2017-08-13 | テクニック
観念は自由、限りなく 2013-11-09 | 文化一般
ぼちぼちと冬の準備 2012-11-03 | 暦
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DieWalküreI後半の放送

2017-11-24 | マスメディア批評
キリル・ペトレンコ指揮「ヴァルキューレ」一幕後半の放送を観た。コンサートのヴィデオは無駄という持論だが、予想以上に興味深かった。先ず何よりもラディオ放送のそれとは、少なくともオンデマンドにおいて、音響が異なっていた。ミキシングが変わっているのかなと思ったぐらいだが、恐らくドルビーサラウンド放送もしているのだろうから、2CHでのそれは変わらないと思う。しかし視覚的な錯覚とは別に明らかに高音も低音も伸びているようで、前に出てくるとともに定位感があって、低弦やティムパニーの迫力などはラディオでは全く分からなかったものだ。全コンサートをしっかりと観たいと思っている。

しかしハイライトでも視覚的に座付き管弦楽団の面子だけでなくて、その表情などがとても面白かった。一番気が付いたのは昨年の欧州ツアーにも乗っていたピッコロの女性の好奇心溢れる視線だ。今回は第三フルートを吹いているのだが、やはり手持無沙汰になると会場の様子を窺っている - 私個人的にもこれを見ていて気になるのは東京の聴衆である。特に音楽が静まってくる時も聞き入るような雰囲気があって、どうしてもどのような顔をして静まり返っているのだろうと気になるのだろう。

クラウス・フォークトが語る「日本人のヴァークナー愛」は舞台裏での話題になっていたことは確かなのだが、それを受けて歌手としても、熱心なファンにもいいところを見せようと、一生懸命に歌っていることがひしひしと伝わってきて、パントラコーヴァ―が絶叫で想定以上の大見えを切ってしまったものだから、ペトレンコが「あれあれ、仕方ないな」となって、それがコンツェルトマイスターリンの表情にも反映されたりしていてとても面白い。

指揮者は暗譜をすることでアイコンタクトを楽員と取れるというのがあるが、チェリビダッケの凝視するようなものとは全く異なるコンタクトがとてもしばしば取られているのを見て、教壇の先生と生徒の様なものだと感じた。特にトュッティ弦楽器などでもコンツェルトマイスターよりも指揮の一撃を見るような俊敏で精妙さがこの演奏の価値を表している。

指揮者本人もこうした形での上演は本望ではなかったであろうが、これだけのタイムレスの歌手とのアンサムブルは舞台ではありえないので、一月の最後の「指輪」での特に「ヴァルキューレ」が益々楽しみになってきた ― そもそもこれのためにツィクルス券を購入した。こうした精妙でリリックな演奏が可能となれば所謂蓋無しの上演での極致を示してくれる可能性がある訳で、それによってようやくこの楽劇を心底楽しめることになる可能性が生じてくる ― アンニャ・カムペのジークリンデの弱音での発声も「マクベス夫人」で実証済みなのでこれまた楽しみである。

この東京公演での「ヴァルキューレ」は、音楽監督が長らく振っておらず、最後に指揮したのは2015年のバイロイトであり、その前の公演では管弦楽団が音を出し過ぎていて評判が悪かったので、また楽団も演奏するのはその秋のシモーネ・ヤングの指揮以来なので、どのような演奏を短時間で纏めてくるのかにとても興味があったのだ。楽団は慣れているとはいいながら少しの練習時間で天晴としか言わざるを得ない ― この練習風景が一番見たかった。

やはり座付き管弦楽団は基本的に舞台の上でオペラを演奏することがないので ― シャンゼリゼ劇場公演やカーネギー公演などを除くと ―、なるほど指揮者が語った「明るい音響だから、いつもよりも明白に演奏してください」の意味を考えさせられるのだ。四週間ほどの演奏旅行で一部の楽員は交代で帰国していたようだが ― 第三オーボエもべルリンフィルでソロで共演した奏者が吹いている ―、疲れも見せずにここまで覚醒して演奏しているのはやはり上手に動機付けが出来ているということなのだろう。

余談であるがヴィデオでこそ感じた印象は、特に女性団員がホテルの美容院かどこかでやってもらっているのだろう、なんとなくその髪の扱い方に東京の美容師のそれが見える。カメラが入るとなるとやはり準備するのだろう。一方まだ熱気の残る東京でお髭を手入れするかと思ったが結局はむさ苦しいままに通したようだ。

それにしても放送のカットなど、少なくともこのヴァルキューレ一幕のハイライトに関しては、最初のマネージャーらしきの口止め風景なども含めて、とてもよく出来ていた。このハイライトだけでもとても貴重な映像となっている。



参照:
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
想定を超える大きな反響 2017-10-02 | マスメディア批評
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枯木も山の賑わいとか

2017-11-23 | 生活
二日間ほど暖かくなるらしい。最高気温で10度ほど、最低気温からすると20度近く数日間のうちで上昇するので少し荒れるかもしれない。なによりも天気になって、走りに行けた。相変わらずの調子だが、日曜日に山登りをして心拍数を確認したことから、負荷を抑えて走る感覚が身についてきたようだ。更にフォームが安定してきているので、沢沿いの二十数分を比較的楽に走れた。ペースを落としているだけなのだが、朝早くは抑えた方が健康のためだ。

なによりも床屋に行くのが課題だったので間に合うように戻ってきた。シャワーを浴びる時間もなかったので、先ずは店を覗いてみた。知らない顔の女性が二人で、やり手ばあさんは店を投げ出したのかと思った。兎に角、先客もいなかったので直ぐに遣って貰った。比較的若目の女性だ。走ってきたところなのでうなじが濡れていたが、構わないということで始めて貰った。

初めての客の頭なので、いろいろと質問してくる。全体の長さから、うなじの短さなどなどである。サイドに張ってしまうところも念入りに切って、結局前も短くして貰った。刈る方からすると長目は安全なのだが短くしてしまうと伸びるのに時間が掛かるからだという話だった。植木屋でもなんでも同じだが、職人は少しづつ進めるのが基本なのは当然だ。そうこうしているとやり手ばあさんが入ってきた。いい従業員が見つかったようだ。

最初からそれほど短くはしないという、つまりサマーカットではないといったものの、それよりは長めだが充分に刈り上げて貰ったと思う。逆に言うと、あまりにも伸び過ぎていたのだ。前回は調べてみるとどうも8月中旬で、なんと三か月以上伸ばしていたことになる。長い期間だが、理由は何でもない対寒気に備えただけなのだ。通常ならば、うなじがシャツに触れるようになると不愉快になって切ってしまったが、今年はそのお陰で暖を取っていたのだった。流石にみっともないが、やり手ばあさんの手も慣れてきて、それほどひどい状態になっていかったことが大きい。更に運動も、走るときは裸なので、汗は掻いてもそれほど不愉快ではなかった。

しかしこうして刈り上げて貰って、陽射しの下で仕事が出来ると何とも気持ちがよい。彼女にも言ったが、どのような伸び心地になるかは分からないが、楽しみだ。少なくともクリスマス前にミュンヒェンに出かけるころには安定してきていて、早くともその次の「指輪」上演の後に一度行くぐらいだろう。嘗ては一月少し間隔で床屋に出かけていたが、短くすることで大分手間が省けるようになってきた。毛の量が減ったとは思わないのだが、短く刈り込むようにして貰うことで長持ちするようになった。前回はチップを払えなかったので、30%近いチップをそのことを断って付けて20ユーロ払った - いつもこれほど出すと思われると次の時に都合が悪いのだ。

椅子の周りには充分な量の毛が落ちていて、彼女も納得していた。「秋だからね、いや冬だからね。」と言ったが、いい言葉が出なかった。「枯木も山の賑わい」ではないが、適当なドイツ語の言い回しが思い付かなかった。陽射しの下で仕事が少しでも出来ると本当に気持ちがよいと余計に感じた。

これで、金曜日に冬タイヤ、待降節に一直線である。ネットを見ると、二回目の最後の「ヴァルキューレ」上演もすぐに完売したようだ。新制作でもまだ完売までは至っていないプッチーニと比較すると、やはりヴァークナーの力か?



参照:
中々ならない鷹揚自若 2017-08-17 | 生活
教育がナットラン! 2017-05-17 | 女
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ネジを絞められない話

2017-11-22 | 雑感
オーストリアのインスブルックの谷から手紙が入っていた。町からブルンナー峠へと向かう旧街道筋にある靴屋さんからである。スキー靴の金具が取れたので部品を送ってもらうように手配していたのだが、とても長く掛かった。初めは取り付けに靴を送らなければいけないと持っていたが、レンチでネジ留めするだけで直ることが分かったので、ネジとボルトを送って貰った。

何処にでもあるようなネジだったがマイスターの方でもメーカーに注文したらしい。郵便桶を開けて何かおかしいなと思っていたが、開けたらボルトが入っていた。しかしネジが無ければネジが絞められない。そこでメールを送ると、一緒に入れたからもう一度探してくれという。

パジャマに着替えていたが厚いコートを羽織って郵便桶をヘッドラムプで確認したが何も落ちていなかった。よく観察すると宛先の窓のところが破れていた。そんなにうまく外にはみ出すかと思って、中の便箋を見ると二つ穴が開いていて、そこに横にネジを差し込んでいたのが窺がわれた。封筒と合わせると、二つの穴の延長線上が窓の穴の開いているところだった。

なるほどまさかと思うが、そこからネジが外に落ちて紛失したのだった。その写真を早速マイスターの方に送った。現在のマイスターは、前任者の伯父さんの店を継いだのだが、正直職人としては、こうした些細なことでも、いい加減な仕事は恥ずかしいと思う。本人はどのように思ったかは知らないが、仕事の雑さに通じるような性格を反映していると思う。

紙に挟むのもいかにもプロっぽい感じがするが、せめてテープで固定するかしておけば紛失は避けられた。工房ならばそこにあるだろうビニール小袋に入れるか、少なくともテープぐらいは巻き付けて置くべきだったろう。少なくとも素人の私でも同じものを送るならばもう少し工夫した筈だ。本人はどのように感じたか知らないが、次にはどのようにネジ一つを送ってくるのか?見ものである。



参照:
源流へと戻っていく 2014-12-29 | アウトドーア・環境
少し早めの衣替えの季節 2017-09-16 | 暦
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永遠の歓喜に寄せて

2017-11-21 | 文化一般
承前)週末に「アインドィツェスレクイエム」の二楽章までをヘルベルト・ブロムシュテットの解説で観た。二楽章では、葬送行進曲が勝利の行進曲になる。ここに来て初めて登場するヴァイオリンの、その音高が雨降りのように上から届き、主題が変形される。弱音付きの響きと、「肉が草になる」無常という同じ教会コラールの変形が響く ― 勿論、雨が降らなければ草は萎れる。

テイムパニーの三連符に注目する。それが上のコラールの大きな盛り上がりに鳴り響く。その交響的歴史と同時に、故郷スェーデンで聞いた反ナチの英国からの放送の思い出が語られる。そのロンドンコーリングのジングルとして、そこにも三連符が使われていて、迫り来るものと同時に開放の響きとして使われていたと追憶される。

そして「Aber」の叫びとともに救済へと勝利の行進へと向かうと、フーガとなる訳だが、その意味合いがこれまた適格に説明される。「フーガを何か複雑なもとと考えるかもしれないが、難しく考える必要はない」と、例えばそれは説教であったり、講演であったり、政治家が語ったりするとき、特に強調したいと思うことをどう表現するか?

「二つの方法があって、一つは声を大きく張り上げてみるとか、もう一つは繰り返すことだ。しかし何度も繰り返すとなると、正気を失ったかなと思われるだろうが、音楽においては物語を綴っていくことができるのだ」と。「それをフーガと称するのだ」と。

そして喜びの感激へと進むのだが、最後に再びティムパニが響いて来るのだが、もはやそこでは脅迫のリズムではなく、永遠に永遠にと引き続く。するとヴァイオリンが天から降りて来て、静かに静かに、それをして音楽芸術にのみなせることで、他の造形芸術などでは不可能な永遠性の表現とする。聞こえるか聞こえないように。それをして、平原に遥かに続く二本の線路を見るように、その二本が平行に続いているのを想像するのと同じだというのだ。それが永遠への想像である。「当然のことながら物理的な弱音の限界はあるのだが、聴衆は音が出ているのか出ていないのかまでを想像する」というのだ。

一楽章の最初は、低弦による永遠性のオルゲルプンクトであると、同時にその変遷を示すとなる。Selige sind, die da Leid tragenの最初のSの濁った響きと第二節の母音での慰めを、ルターの翻訳として評価する。ここは、明らかに今回のヴィーンの合唱団とのツアー公演では、そこの緊張感が充分に構築されていない。なるほど言葉のアーティクレーションの代わりに響きを作る合唱となっている訳だが、その下で管弦楽が出来る限りの仕事をしている。逆行形の主題の上行の喜びへと、ブラームスがあまり使わなかったハープも涙の下行、そして最後の慰めの上行へと、ヘ長調の平安の園へと至る。

このレクイエムの特徴である慰めと平安にも幾らかの不協和音のスパイスが散りばめられていて、甘ったるい危険な蜜のセンチメンタルは混ざっておらず、射影のある深い喜びとしている。その点でも嘗てのゲヴァントハウス管弦楽団とは一味も二味も違う演奏をしているのではなかろうか。その証拠に「我が管弦楽団」と呼ぶデンマークの放送交響楽団はとってもそこまでの演奏をしていない。東京公演の演奏を聞けば聞くほど管弦楽団が全てを支えていることが分かってくる。(続く



参照:
Denn alles Fleisch, es ist wie Gras, Herbert Blomstedt (HappyChannel)
太るのが怖い今日この頃 2017-11-15 | 暦
自分流行語「香辛料」の翁 2017-11-10 | 雑感
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'15年シュペートブルグンダ

2017-11-20 | 試飲百景
一週間の締めに山登りコースを走った。週に五回走るのはそれほどなかった。大抵は二回ほどクライミングが入るので、五回走ることは珍しい。山登りコースは冬シーズン初めてで、この冬に何回こなせるか分からないが、先ずは心拍計を着けてペースを落として走ってみた。殆ど160を超えない走りは初めてだったと思う。このペースならば10キロ超えも15キロぐらいまでぐらいは問題ないと思う。それも一つの経験だ。なによりも疲れを残さずに週五回走れたのがよかった。

さて先日IKEAに序に寄ったのは、ハイデルベルクの南の町ライメンのゼーガー醸造所を訪れるためだった。これも送らせることもできたが、情報収集を兼ねてそれを重視した。先々週に電話をしたときに2005年産が販売になっていると確認していたのだが、出遅れている内にDMが来て、プライズリストなどが入っていた。

そこにチラシが入っていて、ドイツ赤ワイン大賞の一位にブラウフレンキッシュが、二位にシュペートブルグンダー「シュペルメン」が入ったと紹介してあった。どのような賞か知らないので、調べてみると、シュペートブルグンダーの一位はワイン街道最北部グリュンシュタットも醸造所マティアス・ガウルが獲得、二位もゼーガー以外のワイン街道北部ご近所の二醸造所と南バーデンの一醸造所である。

個人的に最も興味を引いたのはグローセスゲヴェックスとなっていて、VDPが地所を認証したことになっていることで、嘗てはVDP醸造所でありながらブルゴーニュシステムになっていなかったので、その変化を認めたことだ。木樽を使いながら、果実風味を膨らませ、全くバリック臭を感じさせない、新鮮に開花したブラウフレンキッシュやシュペルマンRの開いたアロマと果実風味は、どのようになしたか謎であるとコメントされている。

その下の所謂テロワーワインはSと称するがこれは樽のタンニンが強く出るタイプで、個人的にはそこまでして飲みたくないというピノノワールである。そしてベースのものは年度によるとタンニンがきつ目で硬い。しかし2015年は十年に一度以上の夏だったので、とても柔らかく、簡単に一本を一人で開けられるようなワインだ。硬いワインの時は、飲み飽きもして、何か不純物があるような感じなのだが、果実がきれいに熟成していたので全くそのような傾向がない。2015年のピノノワールはフランスでもドイツでも同じで、ドイツに関しては十年に一度以上のフランス物に対抗できる年度となった。

それも価格が8.40ユーロなので、フランス物ならば素性の分からないワインなのだが、このゼーガーのワインはハイデルベルガ―セメントの裏山の葡萄で丹念に作られている。これに対抗できるピノはなかなかないと思う。三分の一ほどのボージョレー新種のガメ種とは、全くそのしなやかさや飲みやすさも濃くも深みも違う高品質な食事用ピノノワールである。



参照:
民主主義を叫んだ独裁体制 2016-07-22 | マスメディア批評
価格に注目して貰いたい 2013-10-16 | ワイン
ブルゴーニュらしいピノノワール 2013-08-13 | ワイン
コメント (2)
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爺さん殺しの音楽監督

2017-11-19 | 雑感
そろそろ初日までに一月となった。プッチーニの三部作新制作の情報も少しづつ出てきた。先ずは、ミュンヘンの歌劇場最古参の男性の紹介だ。先ごろ日本で大歓迎を受けた指揮者と同じ90歳の現役で、舞台の背景を埋めるような通行人役が専門の団員である。

齢が語ることはそれだけの説得力がある。若い頃にリヒャルト・シュトラウスの指揮を、その死の数年前に「ローゼンカヴァリエ」の三幕前奏曲で体験しているようだ。そして70年間劇場の聴衆として、ハンス・クナッパーツブッシュやヨゼフ・カイルベルト、エリカ・ケートなどを愛してきて、63歳で務めていた銀行の課長として定年を迎えたことから、憧れの舞台に通行人として応募することになる。それ以降、演出家に重宝されて、シーズンに幾つかの制作に登場しているようだ。ヨーナス・カウフマンとは傍にピッタリ離れずで登場したりしている。

それでも過去の時代を夢想したりすることはないらしい。それは、彼に言わせると、キリル・ペトレンコ指揮の現在のよリもよかったことは嘗て無かったからだそうだ。そして今、「無口な女」に続いて、「三部作」に登場して、手回しオルガンをひいて後ろを音も無く通るらしい。そのヴィリー・ブルンナー爺は、初めて指揮者のところに行き、その登場を音楽に合わせるために総譜に説明を受け取ったというのである ― キリル・ペトレンコからである。それを思い出しただけで鳥肌が立っているブルンナーさんは、長い劇場経験の中で音楽監督が時間を取ってくれることなどと感動しているようだ。

爺さん殺しの音楽監督だと思うが、恐らくこの爺さんが熱心に仕事をしているのは明らかだったのだろう。新演出までの四週間の稽古中に一キロ痩せるという。フィットネスであり、趣味であり、生活だという。演出家女史のところに行っても相手にされず、経験で適当にやってくださいとしか言われなかったのであろう。音楽的にはそれほど厳密ではない演出家なのかもしれない。この情景がどこに出てくるのか?そろそろお勉強をしていかなければいけない。

週末は、先ずは「アインドイツェスレクイエム」の第二回目放送だ。楽譜を見ながらブロムシュテットの解説とともに聞いていこう。プッチーニのお勉強もそろそろ始めるとなると、またあまり時間が無くなってきている。

週間に四回走った。日曜日に山登りが出来れば、先週分のなまけが取り返せる。体重も増加分を再び戻せるかもしれない。動機付けが出来るかどうか?リースリングを冷やして、出来上がりのローストビーフを購入しておいた。これぐらいか?




参照:
Der Dienstälteste, Milena Fritzsche, Süddeutsche Zeitung vom 14.11.2017
キリル・ペトレンコの十年 2017-11-12 | 文化一般
アインドィツェスレクイエム 2017-11-13 | 文化一般
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居心地もいけるかな

2017-11-18 | 生活
久しぶりにIKEAに出かけた。ワインを取りに行く序である。嘗ては最も近い支店で、SAPのある町ヴァ―ルドルフにある支店である。最近はマンハイム支店にしか行かなかったので、十年ぶりぐらいだろうか。駐車場に停めて、店内を一周して来ないと買えないので無駄な時間ばかり掛かり、効率的ではないのだが、ネットで発注すると高めの送料などを取られるので、二品購入してきた。

一つは、籠り部屋の木の椅子に乗せるクッションで、ヘタレてお尻が痛くなってきたので、それを探した。しかし何年も経っているとそのKAUSTUBYと称する椅子自体は販売していても、そのとき買った都合のよいクッションは製造していない。そこでそれに近い寸法のを選ぶのだが、ネットで見つけたものを探す。店頭で見ていると、その椅子にはほかのタイプのクッションが推奨されていて、今まで使っていたものよりも機能が悪そうで話しにならなかった。そこで結局ネットで目星をつけて採寸したものを購入した。問題は、その生成りの生地よりも、その薄さが半分しかないことで、今まで使っているものと重ねて使うしかないと思った。

もう一つは、バスルームの目隠しに使っている窓のロールが破れてきたので、それの代わりになるものを購入した。ネットで目星をつけていたものは白色に関わらず厚過ぎて完全に陽射し除けだった。薄過ぎず、厚過ぎずを探した。幅が少し長くなっているので、付け替えようか短く切って張り替えようかなど暇を見つけて作業しなければいけない。15ユーロだった。

ADMETEと称するクッションの方はIKEAのその椅子への推薦ではなかったので心配したが、実際に重ねて見ると全く同じ形状で完璧だった。それが最も安い商品で9.99ユーロだったのであまり売りたくないのだろう。嘗ては安くて手軽で、ドイツでのIKEAの全盛期は十数年前だったと思う。今も買えるものはあるが以前ほど安いとは思わないようになった。

店頭で見ながら、レジで待ちながら、もはやネットでの購入の方が良いものを買えるという確信は変わらなかった。それゆえにその基本方針を変えてネットでも販売するようになったのだろうが、そのようになればなるほど競争力は落ちてくると思う。

上のようにいつまでも商品を供給できていないとか、生半可に商品を整理していると益々その魅力が薄れていくと思う。すぐに使えなくなるようなものなら買わない方がよい。IKEAの一度目の障壁は、刑務所製造とかいうその商品製造コストの問題で、今はネットでの競争力ということになるのだろうか。



参照:
途上IKEAでのショッピング 2012-12-11 | 生活
珍商品に感想して高鼾 2012-12-17 | 生活
ナヴィで目指すところ 2016-02-06 | 雑感
英国製の高価な買い物 2016-10-03 | 生活
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ザルツブルク、再び?

2017-11-17 | 文化一般
歌手のラッセル・トーマスが、ネット活動を、フォロワーを増やす為に、頑張ると書いている。今までは殆ど自身の書き込みをしてこなかったからで、キャリア的にも重要だとなったのだろう。今年の夏のザルツブルクのハイライトは「ティートの寛容」でのピーター・セラーズの演出だったと確信しているが、その中でも絶賛されたフランス人女性歌手や非芸術的な指揮者よりも、もし新生ザルツブルクがあるならば、アフリカ人歌手ゴルダ・シュルツや最も歌唱的に評価の低かったトーマスがその中心だったと確信している。

前者の方は大阪出身の中村絵里や先ごろ日本公演にも同行したハンナ・ミュラーに代わってペトレンコ指揮の最後の「指輪」に登場するが、トーマスの方は先日メトロポリタン初のアフロアメリカンの「ラボエーム」を歌っている。そこで、メトロポリタンで「黒人による黒人のためのキャスティングをやるべき」と書いていて、正直そのような社会状況は欧州にいるとよく分からない。我々からするとアパルトヘイトにしか映らないく、その主旨は想像するしかないのである。少なくとも同じく「寛容」にも出ていたワイヤード・ホワイトが先月ラトル指揮の「女狐」に出ていて、その出演を黒人云々を感じる人などはまれな筈である。

そもそもピーター・セラーズの演出自体は、そうした社会的な環境をも投影しながらの本質的な劇表現へと、その配役などを熟慮しており、各々の表現の可能性をとことん追求したことから、とても力強い演劇性をもたらしていた。その演劇性が劇場空間を取り巻くそのザルツブルクの環境へと広がっていくのはいつものことながら天才的と言わざるを得なかった。そこにこそ、初めてペトレンコの謂わんとする「考えてみる」劇場の娯楽を超えた、芸術的な価値があるのだ。

その中で、ザルツカムマーグートなどでの蛮行をバイエルンの放送局が伝えて、その舞台にそうした環境が反映しても不思議ではないと語ったのがこのトーマスであり、今繰り返しその終幕の終景の歌唱と演技を観ると、フランス人の歌唱などよりも、現地に足を運んでいないながらも、その歌唱とシュルツの終幕のシーンにこの夏のザルツブルクの集約されていたのではないかとの思いに至る。

余談ながら、来年度の夏のプログラムを見たりするのに、ログインしようとしたらパスワードを忘れていた。メールアドレスを入れるとしっかりと戻ってきた。更にパトロンの金額まで書いてあった、驚いた。パトロンを辞めてからしかネット申請はしていない筈だが、個人情報は活きているのかもしれない。しかし上の上演にしても少なくとも音楽的にはもう少しましでなければ、再び遠くザルツブルクまで日帰りするほどの気持ちは湧かない。バーデンバーデンに逸早くそこまでの芸術性を発揮してもらいたいと願わずにはいられない。

La clemenza di Tito sinfonia - musicAeterna

Mozart: La Clemenza di Tito - "Deh, per questo istante solo" - Crebassa

Russell Thomas - MASCAGNI Mamma quel vino e generoso (Cavalleria Rusticana)

Die Zauberflöte: “Bei Männern, welche Liebe fühlen”
 ― バイエルン訛りになっているのが面白い。



参照:
Russell Thomas (@travlingtenor)
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
ピリ辛感が残る最後 2017-08-22 | ワイン
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
金ではない、そこにあるのは 2017-08-23 | 雑感
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汲めども汲めども尽きない

2017-11-16 | ワイン
新聞の経済欄にアマゾンなどでの極東からの商品の脱税行為について書かれていた。アマゾンとオークションのイーベイに対して、税務当局が質問状を出したようだが、回答を得られていないようだ。租税の被害額は三桁ミリオンほどのようだが、放置はしておけないということらしい。

それらしいものは何回か注文したことがある。ケーブルの接合アダブターなどだ。殆ど価値がない2ユーロほどのものなので、関税上は問題なならなくても、売上税にすると塵も積もればの額になるのだろう。

極東とは言ってもメインチャイナが殆どのようで電化製品関係が多いのは御多分に漏れずである。どのように税に転化していくかなどは、将来的な無関税時代を考えるととても興味深い。

月曜日には煮豚にリースリングを開けた。先日持ち帰ったレープホルツ醸造所の「フォムブントザントシュタイン」である。その前に開けた「オェコノミラート」の上位の葡萄で土壌はほとんど同じか早摘みなだけの違いである。

購入時には飴を舐めていてよくわからなかったが、この醸造所のものにしては香りも豊かで、二日目ともなればリンゴや花の香りがあり、若干ハチミツに近付いているかもしれないが、そこまでいかないで留まっている。この時点で黄色系の果実があり、木の香りがあるのだが葡萄の健康状態には心配はなさそうだ。そのような塩梅で二年後には完熟していると思われる。ミネラルも香りが出てくると感じ難くなるのだが、十分に存在感がある。

それにしても2グラムほどの残糖と言い、ドイツの辛口の一つの極を行くリースリングで、味わい深くなっている分、汲めども汲めども尽きないような喜びに出合えるワインである。複雑さは必ずしも小難しさに繋がらない、そうしたリースリングである。



参照:
キレキレのリースリング 2017-11-11 | ワイン
三つの穴を埋めた気持 2016-09-01 | テクニック
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