Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2017年5 月

2017-05-31 | Weblog-Index


表現主義の庭の歪な男たち 2017-05-31 | 文化一般
母体より出でて死に始める芸術 2017-05-30 | 音
二週間の予定を何とかこなして 2017-05-29 | 生活
デフォルメされた秀峰の数々 2017-05-28 | 文化一般
とても峻別し難いロマン派歌劇 2017-05-27 | 文化一般
昇天祭のミュンヘン行 2017-05-26 | 暦
先ずは週末までを準備する 2017-05-25 | 生活
鍵盤の音出しをして想う 2017-05-24 | 音
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
異次元の大ヴィーナス像 2017-05-22 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般
2015年産のお見事な出来 2017-05-20 | 試飲百景
ドイツを代表する花崗岩のワイン 2017-05-19 | 試飲百景
プロフィール画像をアップ 2017-05-18 | 雑感
教育がナットラン! 2017-05-17 | 女
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
モンテカルロのやくざな上演 2017-05-15 | 音
新たなファン層を開拓する齢 2017-05-14 | 音
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
現時点最高の2015年リースリング 2017-05-12 | ワイン
「白鳥の歌」は常動曲の主旨2017-05-11 | 音
身を焦がすアダージェット 2017-05-10 | 音
時間の無駄にならないように 2017-05-09 | 文化一般
ブルックナー交響楽の真意 2017-05-08 | 音
2015年産の売れ残りを購入 2017-05-07 | 試飲百景
LEKIの皿留め部品を入手 2017-05-06 | アウトドーア・環境
芸術の行つくところ 2017-05-05 | 文化一般
2016年産の果実風味への期待 2017-05-04 | ワイン
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
特別効果の「さすらう若者の歌」 2017-05-02 | 音
あり得ないような燃焼の時 2017-05-01 | 文化一般
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表現主義の庭の歪な男たち

2017-05-31 | 文化一般
承前)エミール・ノルデ展で油絵も幾つか面白いものがあった。その一つが北海に浮かぶジルトの対岸にあるゼーブルに1926年に購入した自宅の庭を描いた絵である。そこに現在の財団の本拠地でありエミール・ノルデ美術館があるようだ。

何よりも興味を持ったのは、所謂表現主義の反対概念でもある印象派的な画法で散りばめられた庭の花であり、その奥にはニムフのような女性が立っていて、前面で歪な男たちが語らっている絵面である。

そもそも言葉自体のEXPRESSIONとIMPRESSIONの対比とその画風の相違を観て、音楽における表現を考えることも少なくない。大まかなところでは、リヒャルト・ヴァークナーのドビュシーへの影響とか、ロシアの近代作曲家に於ける美術で言うディ・ブリュッケからデア・ブラウエライターへの流れ、遡ればユーゲント・シュティールとアントン・ブルックナーなど語りつくせないほどの材料がある。

しかし、ここでは何といっても、その二つが取り合わされたような画法が使われていて、恐らくこのノルデの特徴のようで、評論家からは配合を勧められてもより強い対照を主張したという。要するにそこにどうしても次元の乖離が生じて、そのグロテスクさが強調されている。

面白いのは、この画家の作品はゲッベルス博士の食堂に掲げられていたというが、ヒットラーがやって来る時には外されていて ― そもそもドイツ表現主義は反フランス印象主義の民族主義であって、ノルデも二度もナチの党員になっている ―、また所謂退廃芸術として認定されてからもダダイズムのグループらによって密かに買われていたということだろうか。なるほど、絵はキルヒナーの方が上手くて異常に高価に売買されているのかもしれないが、ダダイズム運動などが出てくると、そうなのかと思う。(続く)



参照:
百年後の現在の社会の構造 2015-06-04 | 音
市中で鬩ぐ美術品 2006-08-29 | 文化一般
即物的な解釈の表現 2006-03-23 | 文化一般
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母体より出でて死に始める芸術

2017-05-30 | 
承前)オペラ「タンホイザー」において、この二幕のフィナーレを理解するかどうかで終わってしまうと言われている。それは内容的に音楽的にも頂点を迎えているからで、最大の山がそこにある。その前に付け足されるような形で奏されるのが所謂「ジングクリーク」と呼ばれるそのもの「歌合戦」である。

後年の楽劇「マイスタージンガー」においても同じような光景が展開されるが、ここではタイトルロールのタンホイザーはヴィーヌス丘での所業から生き地獄に突き落とされることになる。そこからのフィナーレに全てが集約されて、主調で築かれる二つの山を経過的に繋ぐエリザベートの父領主ヘルマンの「ローマへ」が休止を挟んでト調で歌い始められる。そして、一小節のアッチェランドで短くモデラート60からプュモート76へと急加速されるとともに主調の合唱へと戻る。

そこでチェロと第二ヴァイオリンが先導するアッチェランドが、フィナーレをバッハの中部ドイツのプロテスタンティズム音楽を模倣するかのように弾かれることで、初めてこのオペラの意味合いが認識されるとしても良いだろう。FAZなどは演出をして、ルターの記念年を「母体より出でて我々は死に始める」と挙げて、カステルッチ演出はヴァルトブルクからルターと連想したものではないかとしているが、音楽的にどうも全く理解していないようだ — それもその筈で初日の演奏では充分なアッチェランドが掛かっていなかった。

そしてフィナーレが閉じられるのだが、この場面を経験して楽匠の真意が読めなければ、もはや楽劇「ジークフリート」より前の創作について言及することなどは無意味だろう。それどころか所謂ヴァークナー愛好家と自称することなどもおこがましい。そして当夜の公演は初日と比較できないほど、その意味が明らかとなっていた。いつものように、電光石火の加速などはたとえ天才指揮者でも管弦楽が手慣れて来ないと出来ないことで、初日には出来なかったものなのであり、弾けば弾くほど決まって来る。

序に言及しておけば、三幕では反対に小さな事故もあった。木管楽器が落ちて穴が開いてしまっていた。少なくとも生で聞いたペトレンコ指揮では初めての光景だったが、如何に木管楽器が前回以上に苦慮して吹いているかであって、レコーディング風景と同じように自己の要求が高まれば高まるほど一寸した一節が吹けなくなるのである ― 今年ベルリンのフィルハーモニー初日でのポカも同じようなものだったろう。

二幕でその内容を掴めた聴衆は、当夜の管弦楽団も合唱団も何もかもが引けてからも ― 既にその前の通常のカーテンコールでペトレンコが奈落を覗き込むと誰も居ないので「もう帰っちゃったの」という仕草をしていた ―、最後の最後まで恐らく数十人以下の人は握手を続けたのである。指揮者自身も満足していたことは間違いなく、ソリスツ陣と一緒に大聴衆が引けたあとの大劇場でカーテンコールを浴びながら、聴衆の一人一人の顔を確認していた想いは充分にこちらにも想像がついた。どう見ても玄人筋の顔ぶれであった訳だが、それもミュンヘンの聴衆でありその質であることには変わりない。

そして、その支持を集めた対象が、決して演奏技術的な結果やベルリンに将来君臨するスター指揮者の功績では無く、だからと言って楽匠の創作における音楽的な成果や効果などでもなかった。その対象となるものは、楽匠が心残りとなっていた創作の本質に関するところであり、今回のカステルッチの演出がどれほどその本質を突いているのか、どうか?

初めて所謂「出待ち」らしき人々を確認した。最後まで拍手していた人々と重なるのだろうか。その対象となるものを考えると、あまりに蛇足のように感じるのは私だけではないと思う。(続く

TANNHÄUSER: Video magazine (Conductor: Kirill Petrenko)


参照:
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
なにか目安にしたいもの 2017-04-22 | 雑感
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二週間の予定を何とかこなして

2017-05-29 | 生活
久しぶりに旧交を温めた。前回に会ったのが2010年6月であるから七年ぶりであった。暑い一日だったが陽射しが良くて、夕飯はナーヘ川沿いのガーデンで食事が出来た。簡単な食事だったが、ソーセージのグリルで少なくとも涼んだ。

流石に先週から今週と1500㎞以上走ったので疲れた。そして暑いのでパンを取りに行っても走れるかどうか分からなかったが、いつものように峠をこなして、汗を掻いて、三回の試飲会のアルコールを流して、すっきりした。

もう一つ、土曜日帰宅後に留守録音が出来ていたのを知って嬉しかった。但しホームページの時刻表が間違っていて三幕の後ろが切れていた。そのあと番組にヤンソンス指揮のジークフリート牧歌が流されることになっていて、要らぬものはカットしたかったからだ ― 木曜日のミュンヘンからの帰りにはバイエルンの放送交響楽団のペトロ―シカなどが流れていたが、その音楽の稚拙さに、一時間前には聞いていたタンホイザー音楽演奏とのその知能指数の差が甚だ顕著に表れていてげっそりした。それでも必要なのは一幕だけだったので、AUDACITYで録れていたのでそれをそのまま不要な部分をカットして一幕だけに編集した。

それどころか、録音した16Bit4800kHzをそのまま16Bit出力するだけでなくて32Bit floatでも保存した。そもそも24Bitでも録音できるようだが、絶対の確実性からまた生中継でないことそして放送局のネット放送の質からして16Bitでと判断したのだった。実際に生中継での中断はないもののそこで入っていたシグナルとしての電気ノイズが確認された。結果としてはある程度満足できる水準だ。

32Bitfloatで書き出した方が明らかに瑞々しさがあるが、それでもライヴ録音した断片には遥かに及ばない。放送での質がそもそも異なるのだろう。それどころかバイエルン放送にあるダウンロードともそれほど変わらない。如何にミュンヘンからのライヴ放送のストリーミングの音質が優れているかが分かる。それでもAUDACITYは、入力にWASAPIを選択することも可能であり、ハイレゾリューション録音すれば大きな可能性があるのかもしれない。

「タンホイザー」の新制作の7月9日公演は、フェストでのオープンエアーと共にネット放送だけでなくてARTEで放送されることが決定したので、その公演にも大きな期待が集まっている。更にいつものように完全生中継ではなくて、21時45分始まりの録画中継なので出先先から帰宅後に録画し易くなった。



参照:
とても峻別し難いロマン派歌劇 2017-05-27 | 文化一般
先ずは週末までを準備する 2017-05-25 | 生活

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デフォルメされた秀峰の数々

2017-05-28 | 文化一般
エミール・ノルデの美術展に出かけた。「グロテスクの数々」と題したヴィースバーデンでの展である。美術館に出かけるのは記憶する限り残念ながら2008年「クラナッハ」以来で十年ぶりかも知れない。今回出かけたのは、いつものように新聞に記事が載っていたからだが、その見出し写真の「マッターホルンが笑う」を見て、記事は兎も角、新たな関心が芽生えたからである。

その自費で製作して金銭収入にしようとしたという絵葉書シリーズから観た。1895年のアルプス登山から、一連のデフォルメされたヴァリスから東部アルプスまでの秀峰が描かれている。当然のことながら、後年のクレーへの影響などは無視できないまでも、同時にこの展のグロテスクと同時に次の時期に突き進むファンタジーの世界そして表現主義へとの繋がりが興味尽きない。

ファンタジー集として集められた黄色と黒の昔話シリーズなどは絵本などでも慣れ親しみのある挿絵のようなものだが、これも表現主義との関連だけでなく、その後の所謂ウェットインウェットという水彩画法つまり絵具を水で流すような方法と固着での作法との関連でも興味深い。

出展数絵画30展、その他80展で、朝一番に入場して待ち合わせの13時前までじっくり見て回り必要な写真も撮ったので、詳しくは改めて纏めたい。

折からの美術館工事で駐車などもう一つ不便に感じたが、朝一番では二三組の入場者しかなく、昼頃になっても無人の部屋で写真等も写せた。日曜日は込んで避けたいと思っていたが、この程度の入場者であればほとんど問題なかったであろう。

エミール・ノルデの作品は、バーデン・バーデンのフリーダー・ブルマ美術館にも常設展示されているということなので ― そこでは2013年の特別展に80展が紹介されて絵画数は多かったようだ、何れ訪問したいと思っているが、今回の展示会である程度その作風を一望できたと感じられた。その点今回は、寧ろ絵葉書など初公開の作品などに関心が向かった。因みにノルデ展がパリで最初に開かれたのは、2008年10月のごく最近のことだった。(続く



参照:
お手本としてのメディア 2008-01-20 | 雑感
情報巡廻で歴史化不覚 2008-10-27 | アウトドーア・環境
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とても峻別し難いロマン派歌劇

2017-05-27 | 文化一般
ミュンヘンの新制作「タンホイザー」二日目を体験した。今後まだ四回の公演があり、最後のオペラフェスでのものは野外中継且つネット中継されるので、また初日の録音等が存在するので、演出面を加えて音楽面では初日との差異などを中心に先ずはメモ代わりに書き留めておこう。しかし、この作品の本質若しくはヴァークナーにおけるこの創作の意味合い否ドイツェロマンティックにおけるこの創作の意味合いについては触れざるを得ない。

演出面を加えてと書いたが、音楽面とこれを峻別するのは難しい。それは、声楽と奈落にある管弦楽を峻別するのにも似ている。今回の立見席は視覚的には悪くはなかったが、音響的には決して良くはなかった。だから序曲から、その演奏の細かなところも十二分には聞き分け難く、そのテムポも初日よりも遅く感じた。そのような控えめな座付き管弦楽の響きを耳にすると同時に、おっぱい丸出しのバレー団が次から次へと登場するので、我々のような百銭練磨の強者でも、折角の音楽に心が中々回らない。

この演出を観ていると、バイロイトの音楽を邪魔にすると言われたカストロフ演出を思い出さずにはいられなかった。しかしそれに比べると情報量は少ないので、批評にもあったように目を瞑っておけばよいかと言えば、なかなかそうはいかない。何といってもエロスである。

そうこうすると今度はまた誰もが触れなければいられないエレーナ・パントラコーヴァが歌うヴィーヌスの丘の場面で、中々難しい歌を歌うのだが、それ以上に奈落の弦と木管の掛け合いなどが驚くべきバランスで吹いているのを聞いて、初日の放送事故の中継では聞こえていなかったものを確認する。そしてラディオでこそ聞けなかったのは、舞台裏のブラスバンドであり、当然ながらのその位置感でありその音響効果なのだが、愈々巡礼での合唱でのそれは圧倒的で、ここにきて漸く管弦楽団がそれ相応の大きさであり、ロマンティシェオパーとしてのバランスが示されているのを認識する ― 正直そこまではNHKホールの方が綺麗に鳴るのかもしれないが、東京では一幕後に高額席を捨てて立ち去る人も出るのではないかと思ったぐらいである。

しかし、この公演はそれだけでは到底済まなかった。つまり二幕になると管弦楽を抑えた効果が明白になってきて、二場のヴォルフラムの「静かに」の指定のある叙唱の効果などまるで彼のストラ―ラー演出の紗の中で演じられる「シモンボッカネグラ」を思い起こさせる遠近効果が甚だしかった。勿論そのスーパーオパーの歌唱技術が際立つということでもある ― FAZなどではリーダー風に口を開けずと揶揄されている。 

そしてゼンガークリークの場面から二幕のフィナーレへと進むのだが、そこだけについて言及するだけで、論文を二つ三つ書くに充分なほどの内容が示されていた。それは圧巻だった。(続く



参照:
昇天祭のミュンヘン行 2017-05-26 | 暦
先ずは週末までを準備する 2017-05-25 | 生活
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昇天祭のミュンヘン行

2017-05-26 | 
昇天祭だった。ミュンヘンに新制作「タイホイザー」二日目に出かけた。それほど暑くもなく、陽射しも手頃で、朝10時に出たので、一時間ほどは道中でピクニックをするつもりだった。しかし、折からのシュトッツガルト21にも絡む工事渋滞で、途中で車を止めて一時間ほど楽譜を勉強するどころか、ノンストップですら一時間前に地下駐車場に入れなかった。ミュンヘンに通い出してから少なくとも新制作シリーズでは開場になってから入るのは初めてだった。いつもは開場になるのを外で待っているのが普通だったのだ。

つまり総計して一時間ほどは渋滞待ちをしていたことになる。休日だからトラックはなかったが、行楽シーズンで交通量が多く、想定外だった。あれほどフランスからの車を見ることも珍しい。よって、ピクニック用の握り飯や茹で卵、ミニトマト、桃などを走る車中で平らげた。車中で身繕いする時間もなかったので、そのまま劇場の地下駐車場に乗り入れた。

ピクニックの余裕をもって10時過ぎに自宅を出発、劇場到着が15時過ぎだった。渋滞は燃費に良くないが最初から経済運転を心がけていたので、100㎞当たり往路8.6L消費、つまり32Lほどの消費だった。復路の下り370㎞はある程度飛ばして、3時間半ほどで一時過ぎには帰宅した。下りに関わらず33Lほど消費した。15時間の旅だった。今回はほぼ満タンで93ユーロ支払ったので、やはり85ユーロほどの燃料費だったろうか。駐車料金が21ユーロなので、交通費は車両維持費を除いて100ユーロ以下となる。

今のところ危惧していたブレーキディスクの警報が出ていない。これに関しては交換までの距離が延びれば伸びるほどお得になる。それは後輪のタイヤにも言えて、雨でもない限りそれほど問題はないので、同じ時に交換するまではゴムを使い切ることになる。双方合わせるとかなりの金額になるので、経済的負担が大分軽減されている。その分ワインに注ぎ込んでいるようなものだ。



参照:
思ったよりも早く失せる 2016-02-07 | 雑感
経済的に降臨するミュンヘン 2015-05-26 | 暦
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先ずは週末までを準備する

2017-05-25 | 生活
就寝前に鍵盤で合わせ乍らタンホイザー三幕の変二の音符を見ていると、これは移調楽器でないと吹き難いだろうなと思った。だから半音階的なパッセージを合わせてなるほど楽匠が最後までこだわった意味合いが分かって来た。またはロ長とか五つもシャープが付いていたりしている。

そのような事情もあってかネットにはラディオ生中継を聞いて、木管楽器奏者陣に、それどころかペトレンコ指揮に初めて失望したというのがあったが、なるほどそのように響く原因がこれで分かった。やはり音階を指で押さえることで感覚的に分かることもある。

土曜日には日曜日の中継放送の録音がドイツュラントラディオで放送されるようだ。一幕を録音し直したいが、生憎一日中出かける予定なので、タイマー録音を考える。もしそれで上手くいけば場合によっては今後初日にも再び訪問可能となる。現在使っているストリーム放送用ソフトではスケデュール録音できないので、新たなものを探す。一つ試してみたが、サムプリングレートなどの関係で録音速度が変わってしまって話しにならない。ポップスを録音しているような人はピッチが少々変わっても気にならないのだろう。そこで今まで編集に使っていたAUDACITYを使うことにした。これならばある程度の質のWAVで録音できるようだ。

時間がない中で先週も今週も最低の距離は走っている。気温摂氏18度でも陽が陰っていて、森の中の風はヒンヤリしていた。先週の30度を超える中でのこの冷気は今年の夏の過ごしやすさが出ていると思う。この時期には暑い年は完全に夏らしいが、今年は夜は涼しいので、きっと涼しい夏になると思う。

走りの質は相変わらずだが、一時の不調は乗り越えたかのようにも思う。しかし丁度1年前に歯茎が痛んだように、どうもこの時期になると炎症が進むようで心配である。兎に角、そろそろ今年の夏の過ごし方を考えていけないようになってきた。



参照:
鍵盤の音出しをして想う 2017-05-24 | 音
楽匠の心残りから救済されたか 2017-05-23 | 音
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鍵盤の音出しをして想う

2017-05-24 | 
鍵盤の音出しをした。合わせて10時間ほど掛かっただろうか。ソフトシンセサイザーを使うのは初めてであり、無料のソフトを使うのだから、なかなか難しい。ネット情報の助けを借りて、先ずは有線で音出しが可能となった。無線の方は、使用しているノートブックがブルートュース4ではないので、読み込まない。そこで昨年購入したアダプターを使ったのだが読み込んでもシンセサイザーソフトSTUDIO ONE3と交信しない。速度が問題なのか何が問題なのかは分からないが、更に研究が必要そうだ。やはり無線でないと気軽に音出しが出来ない。

その他の問題は、出力のサムプリングレートなどを合わせてやらなければいけないので、平素使っている音楽ソフト録音再生向きのアップサムプリング設定を変更しなければいけない猥雑さがある。いずれ新たなノートブックを購入する時までは若干煩わしい。

一番苦労したのは、鍵盤とソフトが交流していても、音を出す方法がなかなか分からなくてリズムボックスだけが暫くは流れていたことだ。そしてオーディオ再生に「音」が欠けていることに気が付いて、ようやくプレゼンスという音の素材のデータベースに行き当たった。しかしそこの楽器のリストを見つけるのにまた一苦労した。

しかしそれら無料のソフトの出来は今まで知っているハードのシンセサイザーと比較して予想以上の出来だった。鍵盤のタッチも悪くは無く、調整も可成り可能なようなので、少なくとも電子ピアノとかエレクトーンとかいうようなものは完全に無用になっているのを実感した。それどころか大きめの鍵盤を使えば専門的にピアノを研究しない限りこれでも充分だと思わせる。少なくとも私が知っているようなピアノの音大生徒程度ならばそもそもピアノなど要らないのである ― かの兼常清佐の有名な「猫が鍵盤の上を歩いても同じだ」という痛烈な皮肉を繰り返しておこう。

少し運指なども練習したいと思わせるほどに、楽譜を読み込んでおけばこのようなピアノでもかなり音楽が出来るのは確かであり、イングリッシュホルンなどの旋律やペダルの無いオルガン程度などはこれで充分に表現できそうだ。

ピッチの調整やその他の音の微調整の可能性も可成りあり、正直音合わせのつもりで購入したが、和音も問題なく響かせて、更に様々な楽器のアーティキュレーションも試してみることが出来そうで、ピアノ譜にあたるというよりもどうしても総譜から弦楽器ならば弦調や奏法などにもどうしても思いが至るので、とても勉強になりそうである。

まさかこうしたことが数千円の投資で出来るようになっているとは思わなかったほどの質の高さであり、やはりこれもデジタル技術の恩恵ということが言えるだろう。そこで作った音をスピーカーで流すと馬鹿にならない音響である。数年前までは小さな携帯用のキーボードを買おうかと思っていたが、こうした形態の方が拡張性があって遥かに高品質なのだ。



参照:
決して民衆的でない音楽 2008-12-09 | 歴史・時事
蜉蝣のような心情文化 2008-05-14 | 文学・思想
GEWA' GEWA' PAPA PAYA 2013-02-11 | 文化一般
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楽匠の心残りから救済されたか

2017-05-23 | 
承前)「タンホイザー」新制作のミュンヘンからの中継を聞いた。前番組で中継事故があったので心配になっていたが、一幕は数十分ごとに二分間ほど中断された。冒頭から数回の中断と放送事故を防ぐためのテープが流れた。そのようなことで二幕、三幕も危ぶまれた。このようなことになるぐらいならば初日を良い席で聞けばよかったとも思った。しかし幸いなことに二幕、三幕は完全に中継障害が無くなって完璧な放送が楽しめた。あれだけの音ならば平土間の良い席と変わらないだろう。

仕方なく一幕はMP3程度のものを二週間ほどダウンロードできるもので補った。だから全体を真面な音響では充分に聞けていない。それでも二幕のフィナーレを聞けば、なるほどいつものように初日では完璧な演奏は不可能だが、上手くいけば初演150年以上経過して初めて「ヴァークナーの心残り」が晴れるかもしれないと感じた。

書いたように一幕を細かく聴いていないので、音楽的な成果に関しては実際に劇場で聞いてみて判断したいが、少なくとも版に関してはこれ程すっきりした解決法は無いと思わせた。一部管弦楽法上の修正はありそうだが、ダウンロードした楽譜からは、今回の演奏のように、なぜ今まで演奏されなかったが理解できないほど、しっくりと決まっている。大きな挿入部分は所謂パリ版と呼ばれるヴィーン版にゼンガークリークでのヴァルターの歌を加える1861年版部分が採用されている。

なぜこの引用がしっくりくるかといえば、所謂劇中音楽のようにあの「マイスタージンガー」のように吟遊詩人風のパロディーであるからそもそも後期のヴィーン版での修正とは関係が無い。歌手の負担などの実際的なことでの短縮と語られているが実際にそうなのかどうかはもう少し調べてみないと分からない。しかし今回の解決法は今後一つの模範になるだろう。それは叙唱風の箇所でも上手に管弦楽をつけていてその後の作風のように違和感が無くなっていたからである。

初日の歌について触れておくと、ハルテロスの歌は情熱にあふれて充分にドラマティックであったが、この歌手のいつものようにリズムが綺麗に取れていないので充分なヴァークナーになっていなかった ― ティーレマン指揮のジークリンデでは目立たないのはそもそもしっかりしたリズムが打たれていないからだ。恐らく苦労してドイツ語も上手に喋り、開演前にホールで生放送に出場するなどの努力は天晴だが、ドイツ語アーティキュレーションを最優先にするばかりにリズムが確り出ていない。外国人の悲哀さえ感じさせるのは、ゲルハーエルが見事にリズムを固持しながらも自由自在にドイツ語のアーティキュレーションを歌い切るのとは対照的だからである。

そのヴォルフラムの歌は二幕でも三幕でもピカイチで、この新演出シリーズの歌でのハイライトであることは間違いない。ゲルハーエルのために作曲されたようだという声が聞かれるが、見事というしかなく、遅いテムポをとっても律動が崩れないペトレンコ指揮と相まって歌の頂点だろう。

タイトルロールのフォークトも予想以上にリリックな声だったが、この場違いのようなタンホイザー役をとてもよくこなしているようで、演技と共に実演で楽しみである。その他、マイスタージンガー再演でポグナーを歌ったツェッペンフェルトのバスも最低音で厳しかったが立派に歌っていた。パンドラトーヴァ共々何回か歌っていくうちに可成りはまり役になりそうだ。

総合すると、ゲルハーエルは欠かせないが、エリザベートは替えが利く配役である。東京では二人とも出ないので、前者の飛車落ちだけで済むだろうか。しかし圧倒的なのは合唱団で、今まで決して悪くはなくても圧倒的な成果を示したことが無かったが今回はベルリンの録音に比べるまでもなく最高級の合唱だった。

終演後のブーイングが激しかったカステロッチの演出に関してはバイエルン放送では評価しており、恐らく理解が高まって評価が高まっていく可能性はありそうだ。これも実演を体験してからコメントしたい。



参照:
1861年版のドイツ語上演とは 2017-05-16 | 文化一般
愈々初日のタンホイザー 2017-05-21 | 文化一般
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異次元の大ヴィーナス像

2017-05-22 | 文化一般
承前)少し興奮状態で朝起きした。夕刻の初日の総稽古風景を観たからである。快晴になって横になってはいられない。早くから出かけるとパン屋がまだ開いていなかったのでその前に一汗かいた。まだまだ「タンホイザー」は頭に入っていないが、自身にとっても作品にとっても殆んど初演のようなものであることは、幾つもの演奏の録音を聴いていて分かっている。なぜこの作品の演奏が難しいのか、それともあの頃のヴァークナーの創作の問題なのかはよく分からない。恐らく、バレンボイム指揮の演奏のようにオペラ業界の伝統や慣例の中で上手にお茶を濁しておいた、つまり作品自体が作曲家の最後までの心残りであったことに関係しているのだろう。

ミュンヘンの新演出タンホイザー初日である。バイエルン放送で放送された総稽古の様子を観る。キリル・ペトレンコ指揮の演奏が次元が違うことは何時もの通りであるが、演出も次元が違っているようだ。但し成功するのかどうかは分からない。

ヴィーヌスをパンクラトーヴァが歌うという意味を知った。なるほど考えてみればヴィーナスは美しい女性でなければいけない。だからおばさんが「(今後ともお呼びがかからない)興味がない役柄」ということなのか?兎に角、肉襦袢を着ないでも充分だと思うのだが、「今までのタンホイザーとは次元が違う」ことは間違いないと保証してくれている。それにしてもおばさんのヴァリコフスキー演出「影の無い女」のバラックの妻の歌唱を思い起こせば、今回も立派な歌を演技を披露してくれるだろう、正しく体当たりの「大歌手」である。

エレーナ・パンクラトヴァよりメッセージ 「バイエルン国立歌劇場 2017年 日本公演」


それにしても自らフィッシャーディースカウの亜流というゲルハーエルのインタヴューを聞くと、結構面倒なことを語っている。エリザベートのハルテロスなど豪華キャスティングなのだが、どれもこれも一言ありそうな歌手陣で、指揮者は余程ずば抜けた力量が無いと纏まらないことは明らかだ。正しく、現在のミュンヘンの歌劇場でスーパーオパーが上演されている所以だ。いずれにしても、「影の無い女」の演出同様、そこで救済などされなくても、昨日から今日、今日から明日への時の流れがそこに河のように流れ続けているという感覚は共通しているようだ。

午前中にあるバイエルン放送交響楽団の番組の中で先ほど亡くなった指揮者スクロヴァチェスキー指揮のブルックナー交響曲二番が放送される。あのハ短調の響きが魅力的な曲であり,中々名録音が無いので夕刻の予行練習として録音してみようかと思う。(続く



参照:
感動したメーデーの女の影 2017-05-03 | 文化一般
入場者二万五千人、占有率93% 2017-04-21 | 文化一般





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愈々初日のタンホイザー

2017-05-21 | 文化一般
承前)バレンボイム指揮の2014年ベルリン制作「タンホイザー」を最後まで観た。楽譜はパリ版のように始まり、結局はドレスデン版の演奏であった。ゼンガークリーグでパリ版に直された部分があったが、古臭いロマンティッシェオパーのレチタティーヴが異様で、それに合わせるかのように三幕のテムポを落としていて長いヴォルフラムとタンホイザーの歌唱が続き眠気を誘う。

なるほど歌手陣も管弦楽団も立派であるが、指揮者の設定したテムポなどは、この指揮者の常とは言いながら、美しさの反面角が落ちてしまっていてネオロマンティズムのようなものを感じさせてあまり愉快ではない。ザイフェルトの歌唱は、二幕ではまるでトラムプヘアースタイルになっていて馬鹿にしか見えないのだが、三幕では落ちぶれた姿で歌を聞かせる ― 演出の力が大きい。ヴォルフラムの声が威圧的過ぎて、まるでバスのように響く。合唱団がなぜ今一つ上手くないのかは不思議だった。

そのような版でもパリ版のヴィーナスの丘を入れていて、邪魔になるバレーがまるでピーター・セラーズの手の動きなものをひっきりなしにしているようで、バイロイトのカストルフ演出以上に邪魔になる。古典の新たな再生のような演出意図なのかもしれないが、モーツァルトなどのオペラのように扱うのは間違っている。そもそもこの版でこの曲を聴くとどうしても後年の作品群の習作のようにしか聞こえない。

いよいよパリ版にヴァルターの歌などが追加されたような版が楽しみになって来た。一方、ミュンヘンのヴィデオの続きがアップロードされていて、演出に関しては益々分からなくなってきた。演出家カステロッチがおかしなことを語りだしているからである。肉を描くとなるとどうなるのか、それも皮と中身の違いとなると触感が無くなることになる。よっぽど無機的な演出をしようというのだろうか?可成り危ない。(続く)
TANNHÄUSER – Castelluccis Bildwelten: Episode 3 "Fleisch" (ger/en)

TANNHÄUSER – Castelluccis Bildwelten: Episode 4 "Verwesung"/“decay“ (ger/en)


Christian Gerhaher; O du mein holder Abendstern"; Tannhäuser; Richard Wagner


参照:
「タンホイザー」パリ版をみる 2017-04-27 | 音
様々なお知らせが入る 2017-05-13 | 文化一般
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
RICHARD WAGNER: "TANNHÄUSER" (BR-KLASSIK)
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2015年産のお見事な出来

2017-05-20 | 試飲百景
二年ぶりのザール行だった。昨年は急遽取り止めになったからである。そして、2015年産のリースリングは、ナーヘだけでなくザールでも偉大な年になっていたことを再確認した。大成果である。他のより日照時間の長い地域に比較すれば2015年陽射しがとても効果があって、乾燥した長い秋が功を奏したのは明らかだった。

なるほどより容易に楽しめる2016年産に比較すると明らかに力が均衡しているのは他の地域とも変わらないが、既に大物ぶりの偉大さを示しているのを確認した。

ファン・フォルクセム醸造所のグローセスゲヴェックス「シャルツホーフベルク・ペルゲンツクノップ」を初めて試した。2015年は購入したがその出来は分からなかったが、これで確信した。恐らく今までのザールリースリングの中でもトップクラスの出来だと確信した。

あのくゆるほどのスモーキーさと均衡する酸が後に伸びる余韻は、今まで知る最高級グランクリュ、キルヘンシュテュック、ペッヒシュタインやグラーフェンベルクなどの特徴を超えていた。そもそもシャルツホーフベルクはエゴンミュラー醸造所によって甘口としてその存在は知られていたのでそのテロワーに関しては懐疑の方が強かった。しかしこれが示しているのは間違いなくドイツ有数のテロワーであるのだ。お見事な出来というしかほかに言葉が見つからなかった。



参照:
これもリースリングの神髄 2016-01-06 | ワイン
苦み走るようでなければ 2017-02-13 | ワイン

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ドイツを代表する花崗岩のワイン

2017-05-19 | 試飲百景
デュルバッハ訪問は二十数年ぶりだった。片道150キロほどでそれほど遠くはないのだが機会がなかった。高速道路から少し離れていて、谷の奥が行き止まりのような場所であるからだ。何よりも、その土壌が綺麗に反映するリースリングは当時はなかった。

VDPのテロワーを重視する方針から、今回は期待した。なぜならばドイツではほとんどない花崗岩土壌であるからだ。それでも多くの人は未だにバーデンのワインは、その高温の気候やカイザーステユールの火山性土壌から、ブルグンダー種の地域だとか酸が効いていないとか一面的で間違った迷信を信じている。勿論バーデン地方では昔から最高のリースリングはデュルバッハと決まっていた。

さて期待に応えたか?これはVDPの成果と言えよう。これならばもはやコルマールのそれを珍重する必要などは毛頭なくなった。今回訪れたアンドレアス・ライブレ醸造所で、2016年グーツリースリングと樽試飲として「シュタインレッセル」、2015年グローセスゲヴェックス「アムビュール」を試した。それで充分だった。

グーツリースリングでこれほどまでにミネラルを感じさせてもらえれば文句は無い。買えて楽しめるリースリングだ。そしてラーゲンヴァインは更に凝縮される。グローセスゲヴェックスは、2015年の弱い酸ゆえに既に楽しめる。そのミネラルは格別だった。

「アルテレーベン」らとは比較にならないような樹齢とクリスタル成分を含む花崗岩に根を伸ばしたミネラルは喜びである ― 花崗岩岩壁を登るクライマーには分かってもらえるだろうか。一体どこの誰がバーデンのワインは酸が弱いなどといったのだろうか?これ程のシャープさは雑食砂岩土壌のリースリングと並ぶリースリング愛好の渇望の的でしかない ― 細かに拾う手掛かりに刺さる結晶や足掛かりのような研ぎ澄まされたあの感覚である。

幸いなことに2017年産の霜被害も三割方の減産に終わりそうで、これまた期待が出来る。バーデンバーデンから30分ほどで買い付けに走れるので、ぜひ次の機会を活かしたいと思った。

醸造法はステンレスを使った単純なものだが、炭酸なども綺麗に落ちていてとても落ち着いたワインだった。しかし赤はもう一つな作りで、これは仕方ないと思った。


参照:
フランススーパー売りのワイン 2012-10-09 | ワイン
人類の将来の進展のために 2012-12-02 | アウトドーア・環境
体が焼けそうな花崗岩 2014-10-20 | アウトドーア・環境
黒い森の花崗岩を吟味 2014-10-07 | アウトドーア・環境


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プロフィール画像をアップ

2017-05-18 | 雑感
プロフィール欄に画像を入れた。子供が学校で製作した紙切りである。長く探していたが、古い雑誌類を整理していたら見つかった。道理で手紙類や写真アルバムを探していても見つからなかった筈だ。自身のプロフィールにしようと思って探していたのだ。

製作した本人が小学生であるから、かれこれ二十七年前のことである。ブロンドの髪になっているのはその色しかなかったのか何か知らないが、全体的に中々感じが出ているのだ。足の感じや髪の感じなど、小学生の視線は鋭い。

それどころかこうしてよく見てみると、パジャマのようなものを着ていて、内履きに分厚いものを履いている。すっかり忘れていたがあの当時に履いていたものを思い出した。当時は気が付かなかったが、可成りの観察力と子供の記憶は凄い。

あの頃はフライブルクに通う冬の間、毎日のように遊んでいたから当然と言えば当然なのかもしれないが、その当時の写真以上に子供の視線が活きていてとても素晴らしい。シュヴァルツヴァルトの谷間の小学校の図工の課題などと馬鹿に出来ないなと思う。



参照:
黒い森の新旧エコシステム 2012-02-15 | 料理
目前の時を越えた空間 2012-02-13 | アウトドーア・環境
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