2012年に音楽監督ケント・ナガノ時代に制作された「神々の黄昏」再演は、バイロイトのそれとは大分違っていた。それどころか春に一先ず終えたツィクルスとも大分違っていたと想像する。それは
春の新聞評などを読めばよく分かる。批評は皆、バイロイトの蓋の被った奈落がある劇場とは異なる通常のオペラ劇場では、祝祭劇場のために作曲された楽劇はまともに演奏が出来ないというほどの印象を齎した。だから、批評家はキリル・ペトレンコのような才人ならばそれが解決されえると考えた。
2015年の「最後のバイロイト祝祭劇場での録音」を聞いて、ミュンヘンでは満足できるバランスで響かすのは難しいかなと考えていたが、流石に批評されると直ぐにそれに反応出来るのは天才のなせる業でしかないと思った。力のある評論家も指摘のやり甲斐があることだろう。それ故にか一週間前までは高額券は大分余っていたが、口コミで情報が広がったのか三回の一回目が終わると直ぐに完売されてしまったようだ。
当然であろう、劇場の音響に合わせただけではなくて、その演出にも十分に配慮された演奏実践が思うように出来る指揮者など殆ど居ない ― それは演出上の時間の間の取り方と、そのコンセプトの両方を指す。この日のクライマックスは明らかに「ジークフリートの葬送行進曲」にあった。まさかこのような演奏が生で聞けるとは想像もしなかった。そのテムポもバイロイトでのそれとは全く異なっていて、とても落ち着いたアーティキュレーションで、そのダイナミックスはプロローグから第一幕、第二幕を通してそこへと頂点が築かれるように配慮されていたのである ― 逆にバイロイトでのそれが演出に合わせたせかせかしたものであったのはそうした配慮であったことが推測可能となる。
キリル・ペトレンコの「指輪」の特徴となっていた早いテムポはむしろ遅められ、メリハリのある声部の強調はここではまるで昔の大指揮者がそうしたようにとても求心的な管弦楽の鳴りとなり ― つまり必要最小限の和声のヴェクトルが重力のように働くのだが ―、来るべき破局のクライマックスを最初から準備するようになる。こうした響きをして、「ロシア風とか深みが足りない」という人はもはやいまい ― まさしくこうした点が、超一流管弦楽団をリトアニア出身のマリス・ヤンソンスの手兵にするには惜しいと言われるのとの最大の相違だ ―、それどころかこうした内に向かう力強く、密度の高い響きは、クナッパーツブッシュなどのヴァークナー指揮者からも聞いたことがないもので、葬送行進曲における打楽器の強打などは、そのダイナミックスとともにフルトヴェングラーの天井が抜けるかと言われたほどの音響効果を生じる。
最初のノルンの三重奏が素晴らしかったのは、その言葉とイントネーションと、そこまでの三作の楽劇のおさらいの音楽の表情付けであり、なぜかバイロイトの劇場どころからその放送録音でもこれほどの精妙さは聞き取れなかった ― なるほどバイロイトでの演出の舞台がそうした落ち着いた丁寧な仕事をぶち壊していたというのはこの意味からは正しい。反対に、狩りの合唱の威力などはバイロイトの方が成功していただけでなく、ジークフリートが落ちていく裏寂れ感などは、今回の演奏実践にはそれほど表現されてない一方、これまた隣の台詞劇場に負けないほどの芝居効果が素晴らしい場面が幾つもあった ― 決して歌手がバイロイトより素晴らしい訳ではなかろう。
演出家クリーゲンブルクの仕事にはそれほど興味がなかったのだが、こうした本格的な芝居作りをしているとしたらやはり見逃せない。それに合わせるように、ブリュンヒルデのモノローグとなるのだが、残念ながら最後の「自己犠牲」はテロップを見ていても聞き取れないほどだった。しかし、その前のグートルーネの最後の歌唱も一人芝居として最高の部類だった。ラインの娘の歌唱も芝居としてとても大きな存在感を示しており、そこに作曲されている音楽を正確に響かすためには、管弦楽の音量を技術的に抑えればよいというようなものではなくて、台詞と音符をしっかりと再現することでしかないと改めて思わせる。
こうした当たり前の公演がなかなか出来ないのは、恐らく春に行われた時にも批判されていたことであり、ここに来てとても精妙な形で上演されるに至ったことでも分かるだろう。それ故に、ギュンターやハーゲンを演じた歌手に対する聴衆の反応も大きく、アルベリヒが夢枕に出て来る場面では、2015年のバイロイトで批判されていたようなシンコペーションの極端な強調もなく、寧ろ声部がバランスすることの内包的な緊張感が強調されていた。それは逆にその後の夜明けなどに代表されるもしくはプロローグの「ラインへの旅」で強調されていた管弦楽的な響きの精査よりも、飽く迄も台詞に立脚する音楽劇場の上演が強調されることになる。それも室内歌劇的な精緻さの中で行われるから、逆に「ラインの黄金」からの漣が様々な形に変遷していき、そして最晩年の「パルシファル」の目の詰んだ織物の海に注ぐような作曲作法に、しばしばその心理効果が裏付けされる。その移り変わりの妙を聞くと「方丈記」ではないが、一体この半年もしくは二三カ月でなにが起こったのかとしか思われないぐらいだ。
この演出では、フクシマの情景がプロローグだった。そして、ユーロのロゴがグローバリズム権力と欲望を象徴する。それについて語るつもりはないが、全体の公演として音楽に大きな影響を与えているのは間違いなく、ここではジークフリートを歌うレンス・ライアンも批判を受けることはない。そしてその終幕に山が築かれることで、とても求心的な歌唱が要求されていたのも事実であろう。
そうした中で、予想していたように浅い奈落から不協和音の破片が飛び散るようなことにはならずに、最初の劇的な山は復讐の同盟の場面であり、それが自然にジークフリートの槍と死に繋がっていく展開は見事に音楽的に再現されていた。敢えてバイロイトの演奏実践と、今回のそれの相違を一言で表現すれば、前者はアヴァンギャルドな表現主義風、今回はドビュシーへと繋がる印象主義風とのレッテル張りも可能だろうか?
そのように今回の公演の演奏が演出の芝居の精妙さに影響されていないとは思われないのだが、なによりもこの座付楽団が、世界で殆ど出来る管弦楽団が無いような、こうした響きのアンサムブルを達成していたのは驚きでしかない。こうした力量がなければ、たとえ指揮者ペトレンコがやろうと思っても出来ない訳で、コーミッシェオパーのそれでは全く不可能だったものであり、やはり音楽監督としての積み重ねで初めてなされるものなのだろう。ミュンヘンのオペラの管弦楽は、往路のラディオで流れていたカルロス・クライバー指揮などでも馴染みであり、昨年から三回聞いたが、良くなったと感じたのは今回が初めてである ― 今東京公演があってもヴィーンやドレスデンのそれと十分に張り合えるだろう。
この指揮者がベルリンへと移り、サイモン・ラトルが作り出している管弦楽団の精妙さは、この後任指揮者で決して壊されないどころか、前任者のクラウディオ・アバドの時代にはなせなかった芸術的な域を更に推し進められることも確認した次第だ。
Bayerische Staatsoper - Schlussapplaus Kirill Petrenko "Götterdämmerung" (19.12.2015)
参照:
ネットでの記録を吟味する 2015-11-30 | 音
祭神現れ皆頭を垂れ 2015-10-25 | 雑感
予定調和的表象への観照 2015-09-29 | 音
阿呆のギャグを深読みする阿呆 2014-08-04 | 音
Bayerische Staatsoper - Schlussapplaus Kirill (19.12.2015)