― 聞こえたのは、二つの言葉で叫ばれた悲鳴だった。最後にロシア製の機関銃がものを言うまでスラヴ語が勝っていた。
若松が密生する中を、右に左にと巧く距離をとって匍匐前進すること、何とか無事だった。残りの軍曹のグループには組み入れられなかったのである。民族突撃隊は神とはもう争わなかったし、隣人を叱ることもなかったが、まだツケを返済しようとも思ってはいなかった。ただロシア人の声がそうしているうちに遠ざかった。好人物であるかのように聞こえよがしに誰かが笑った。―
ギュンター・グラスの新著「玉葱を剥く時」には、親衛隊として、国土を護る兵士としてソヴィエト戦車に向き合い、誤って前線の後ろに廻りこんでしまった危機一髪の瞬間が描かれている。その記述を評して、この作者の文章として嘗て無いほどに、テンポと視点の交換があり、一人称と三人称が、語り手の「後の時点からの観察」としてつなぎ目なく交差していると言う。
そのように叙述するフーベルト・シュピーゲルが書く新刊の新聞評を読む。480に及ぶページには回答は書かれていない。彼はなぜ沈黙を突き通したか?これはなぞのままである。家庭に運ばれ消費される素晴らしく綴られた語りや見解は、相変わらずである。だからこの書籍で、自分を護り意味づけを期待する者でなければ、この結果に文句を付ける謂れは無い。
著者が我々に何かを伝えようと苦労した成果が報われたかどうかは、道義的な核心でなくて、美学的な核心なのである。言うなれば、芸術的信条、芸術的作品と作家の人生が、はめこのようにしっかりと結びついているかの問題なのである。
読者は、何処までが事実で何処からが創作なのか判らない。判るのは作者だけなのだ。そして、ダンツッヒの三部作の彼の文章の、幻想のネタ元が今回の書籍であるとする。
しかしながら、回想自体が覚束ないものであって、覚めたり微睡んだりと認知の交差があり、往々にして思い出は美化される。ギュンター・グラスはここできっぱりと「回想の偽り」を強調していると言う。キーワードが挙がる。玉葱と琥珀。その芯にあるもの。剥いて残るは乾いた皮だけの玉葱と、永遠に凍りついて死んだ琥珀の中身。
だからこそ、作家は美化しようとしない。この暗い背景を背に、語り手は腕を撫でながら、嘗ての自分である少年と共に、固まったその脂の中に像を結ぶ。二つ目に恐怖と空腹が挙げられる。
― これは言わなければいけない。空腹、こいつは、空き家かなにかの様に、私に住みついた。収容所の寝床でも、バラックの中でも、大空の下でも、場所を占めた。
こいつは、人を蝕む。蝕むことが出来るのだ。一人の若者は、想像するに早めに任務を放棄した若者であるが、何千の朽ち往く動物の一人であった。たったひとかけらの武装解除者は、もう既に永く、みすぼらしく見られたような姿ではなくて、全てのドイツ軍の足並みを乱していた。そのような図を、たとえ可能だったとしても、私の母に見せる事が出来ただろうか。―
再び、冒頭に続き付録冊子の一節を引用した。新著の後半は、石工から芸術家に、文学者になって行く立身出世の物語で、戦争で、終戦で骨身に沁みた空腹感が出世心のバネになり、生殖への意欲となる通俗的な情景が美化されることなく赤裸々に描かれているらしい。
さて、ここでこの評論は、この文学が二重構造を持っていると解説する。それは、もしかすると一つは事実関係を纏めた引用した小冊子であり、その内容をもう一つの世界と抱き合わせて構成した本文の文学でありえるだろう。しかし、この評論に触れられていない今回のパフォーマンスは、まさに三つ目の構造に相当する。現在、もしくは現在からの視点、世界観なのである。
ギュンター・グラスは、CNNの独子会社放送に対して、CIA批判をしたようで、溢れる情報を制御する情報組織に注意と警鐘を鳴らした。英国での航空機テロ未遂事件の情報が不十分なことから、陰謀説も流れるドイツの巷であるが、先ほどのコブレンツでの列車爆弾未遂事件でもレバノン人らが逮捕された。
この話をすると近所の英国人トムが、仕事上の永い友人のレバノン人のことを語ってくれた。仕事も進み平和な家庭を持つ彼が、明日から休暇に出ようと出かけた矢先、彼の家庭は火の海となったと言う。トムは続ける。我々の世代は、このかた戦争と言うものを経験していない平和の中に暮らしていた。しかしこうして手近に存在して、兵士が誘拐され子供達が餌食となる。
ギュンター・グラスが根も葉もないことを言うとは思わないが、端から真実などを求めるのではなくて、ただ覚醒しようとする。その覚醒も、情報の渦の中で認知もままならないので、出来る限り相対化して物事をみようとする。これは、この作者が三つの次元で、今までも語ってきたことに違いない。
各紙批評
Günter Grass: "Beim Häuten der Zwiebel", Steidl Verlag, Göttingen 2006, 480 S., geb., 24,-€, ISBN 3865213308
参照:78歳の夏、グラスの一石 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-15