水曜日はジンデルフィンゲンまで電車で出かける。シュトッツガルトの駅がどうなっているのか知らないが、前回の記憶では地下鉄に乗ったと思う。
車庫は水を撒いてモップで入口へと流すだけだ。今の車では森の駐車場までは最後の走行だった。溝があったりで乗り心地も悪いが、そのガタガタ感も玄武岩の上での足元の滑り感もこれでおさらばだと思った。それでも国道での走り心地はやはり全然悪くはない。
戻って来てから未だ捨てられていない潰したボール箱を重ねて奥へ追いやり、そこから水を撒いて水を追いやる。最後の三分の一ぐらいで5リットルがなくなった。特に壁との角に砂類が浮いてきて、モップで泥が動いてきた。それを押し出す。
更に継ぎ足した5リットルで、入り口横の砂の山を掘り出して、外へと流す。土曜日に綺麗に掃いていたので流すのに苦労するような量感ではなかった。汚れた水も綺麗に流れた。これ以上は掃除機で吸えるぐらいだ。油汚れ部分にシャムプーをかけてブラシで擦る。そして直ぐに乾いて来る。匂いもなにも全くないので、地面で寝転んでも全く問題がないぐらいになる。ボルダーリングのマットで寝れる。
そして新車になるとそこで内燃エンジンをかけて排ガスを出すこともなくなる。同じスクエアーには12件住んでいるが、既に二件は電気を使っているので、これで三件目になる。数年経つと過半数になると思う。つまり排ガス量が減少する。生活環境が高まる。これだけで嬉しい。
「くるみ割り人形」の一曲だけは親族や友人の死亡で書き加えられたとあった。「運命の動機」、「スペードの女王」とそれらの創作に触れているとどういう趣で作曲されているかは直ぐに分かるようになる。然し実際にはそうした曲でもただのエンタテーメントとしか受け入れられない場合が多い。特にこのバレー曲の場合はクリスマスへの作品として捉えられているとなるとそれ以上の感興も思い浮かばないのであろう。
それだからこそそうした創作の意図をも何も知らないでも伝える様な演奏でなければ全くの価値がないことが分かる。それをして作品の本質と呼ぶ。それ以外はフェークでしかないのである。エンタメを否定はしないのだが、フェークに付き合わされるのはかなわない。抑々仕事が得るとかそうしたホビーであれば違うのかもしれないが劇場でもホールにでも態々出かけてそうした偽物に付き合うことほど無駄な時間はないのである。人生の無駄である。
だから今までに熱心に通ったのは十代の時の一年間だけで、その時の目的に適うだけでそれだけでよかった。そのような事は今後ともあり得ない。こちらに移住する時も音楽祭のあるシュヴェツィンゲンに住処を探したぐらいで、近所に住んでいたらとか、大都心に住んでいたらというのはあるかも知れないが、それ以上に個人的には時間の無駄でしかない。
もうあの時代は、つまり化石燃料を消費することが豊かさであった時代は漸く終焉を迎えたと実感するようになった。如何にそれで、これからは無駄のない気持ちの良い社会に住みたい。
参照:
瀟洒で尚且つの感情表現 2024-12-09 | 音
幼子を迎える準備 2024-12-08 | 生活
車庫は水を撒いてモップで入口へと流すだけだ。今の車では森の駐車場までは最後の走行だった。溝があったりで乗り心地も悪いが、そのガタガタ感も玄武岩の上での足元の滑り感もこれでおさらばだと思った。それでも国道での走り心地はやはり全然悪くはない。
戻って来てから未だ捨てられていない潰したボール箱を重ねて奥へ追いやり、そこから水を撒いて水を追いやる。最後の三分の一ぐらいで5リットルがなくなった。特に壁との角に砂類が浮いてきて、モップで泥が動いてきた。それを押し出す。
更に継ぎ足した5リットルで、入り口横の砂の山を掘り出して、外へと流す。土曜日に綺麗に掃いていたので流すのに苦労するような量感ではなかった。汚れた水も綺麗に流れた。これ以上は掃除機で吸えるぐらいだ。油汚れ部分にシャムプーをかけてブラシで擦る。そして直ぐに乾いて来る。匂いもなにも全くないので、地面で寝転んでも全く問題がないぐらいになる。ボルダーリングのマットで寝れる。
そして新車になるとそこで内燃エンジンをかけて排ガスを出すこともなくなる。同じスクエアーには12件住んでいるが、既に二件は電気を使っているので、これで三件目になる。数年経つと過半数になると思う。つまり排ガス量が減少する。生活環境が高まる。これだけで嬉しい。
「くるみ割り人形」の一曲だけは親族や友人の死亡で書き加えられたとあった。「運命の動機」、「スペードの女王」とそれらの創作に触れているとどういう趣で作曲されているかは直ぐに分かるようになる。然し実際にはそうした曲でもただのエンタテーメントとしか受け入れられない場合が多い。特にこのバレー曲の場合はクリスマスへの作品として捉えられているとなるとそれ以上の感興も思い浮かばないのであろう。
それだからこそそうした創作の意図をも何も知らないでも伝える様な演奏でなければ全くの価値がないことが分かる。それをして作品の本質と呼ぶ。それ以外はフェークでしかないのである。エンタメを否定はしないのだが、フェークに付き合わされるのはかなわない。抑々仕事が得るとかそうしたホビーであれば違うのかもしれないが劇場でもホールにでも態々出かけてそうした偽物に付き合うことほど無駄な時間はないのである。人生の無駄である。
だから今までに熱心に通ったのは十代の時の一年間だけで、その時の目的に適うだけでそれだけでよかった。そのような事は今後ともあり得ない。こちらに移住する時も音楽祭のあるシュヴェツィンゲンに住処を探したぐらいで、近所に住んでいたらとか、大都心に住んでいたらというのはあるかも知れないが、それ以上に個人的には時間の無駄でしかない。
もうあの時代は、つまり化石燃料を消費することが豊かさであった時代は漸く終焉を迎えたと実感するようになった。如何にそれで、これからは無駄のない気持ちの良い社会に住みたい。
参照:
瀟洒で尚且つの感情表現 2024-12-09 | 音
幼子を迎える準備 2024-12-08 | 生活