Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

大団円のその意味

2024-10-25 | 文学・思想
承前)今回の演出においてオックスがリアルな姿で舞台化された。その背景にはそもそものこの楽劇のタイトルロールであったことがある。実際に今回の公演では現在のタイトルロールのばらの騎士則ちオクタヴィアンはそのキャスティングと存在感からして三番目以下でしかなかった。

そこで度々引用されている作曲家と台本のホフマンスタールとの度重なる往復書籍にその創作過程を見る。そして100年間この楽劇の音楽的若しくは内容が十分に聴衆に伝わっていなかった状況の原因をそこに迫れる。

その前提である作曲家がモーツァルトのダポンテオペラに拘っていたことはよく知られる。その一方10年ほど若い作家の方は各幕が静かに終わることで危機感を抱いていた。専らドラマテュルギーによる様だが、そうなると現在のような形はつまり次作の「アリアドネ」のプロローグに繋がるトリックは最後のアフリカのお小姓がマルシャリンのハンカチを拾う所のユーモアにあるとなる。

このことに気が付いたのは、今回の公演においても演出家ハリー・クッパ―が特に変更したというお小姓からインド人らしき運転手への書き換え、そして一幕では部屋の使いをしていた男性がハンカチをを拾って嗅ぐということから「オクタヴィアンの次の若い恋人になる」という書き物が幾つか見られたからである。勿論この楽劇が「フィガロの結婚」や「ドンジョヴァンニ」のオペラブッファのパロディーであることから、ケルビーノがアルマヴィーヴァに、ドンジョヴァンニに、そしてオクタヴィアンがオックスにという繋がりは百年間語り続けられていたであろう。然しここでそうした大団円に掛けた様式的な創作であるったことが分かる。要するにそうした嘗ての楽劇のフィナーレとは異なった新古典的な様式感であったとも説明されよう。

このクッパ―演出では、表面上は子使いのアフリカ人の子供を使いたくないので綺麗なインド人としたと読み取り、其の儘本来の形式は守られる。然し実際の印象はどうであろう。なるほど一幕の歌詞にもあるようなそうした植民地的な状況をここではアフリカからアジアに置き換えただけとなる。

2014年のザルツブルクでの批評などを読むと、嘗ては東ベルリンのコーミッシュェオパーで活躍して2019年に同地で亡くなった社会派の演出家としてあまりにもそうした要素が見つからない演出だと書かれていた。さてどうだろう。20世紀の初頭にあったアフリカへの眼差しを丁度植民政策の末期にあったアジアに移して、そして今日の聴衆にはそのことに気が付かせるギャグとしたのではないか。そしてこれまた月並みに語られるマルシャリンの次の若い男という観想を少なくとも今回の再演で感じただろうか?これが三幕の前半から後半への音楽であり舞台であった。

そこからこうしたスタイリッシュな作りを「アリアドネ」の前作の本格的な楽劇から進めていた。そこで改めての本格的楽劇挑戦が「影のない女」によって為される。同時に最初の作曲家の構想におけるトリオそしてデュエットで終えるというあまりにも容易な解決によって、大衆向けの創作となってしまう作家の危惧がどのように避けられたのか、それともドレスデンでの初演成功から戦後のカラヤン指揮による録音やザルツブルクでの上演から愈々ミュージカル作品となる、それを引き継いだカルロス・クライバー指揮によって決定的な不理解へと至ったことを示すことになったというのが今回の再演での大きな回答でもあった。(続く



参照:
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般
過去を学ばなければいけない 2016-12-17 | 文化一般
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欧州文化での進化

2024-01-23 | 文学・思想
資料音源などを調べている。先ず、ブーレーズ指揮BBC饗の録音は使い物になりそうにない。もともとブーレーズ指揮シェーンベルクは不評であったのだが、この録音に至ってはバランスがとてもぎこちない。なぜこのようになって仕舞ったのかは、ギーレン指揮SWR饗の名録音と比較すると、やはり声楽の扱い方ではないかと思った。それ程ギーレン指揮の器楽声楽のバランスが絶妙で、もしかするとこの指揮者の代表的な録音ではないかと思うぐらいだ。勿論、ペトレンコ指揮は全てにおいて軽く超えてくるだろう。

PDF化されているプログラム冊子を読むと最後にベルリナーフィルハーモニカーで指揮したのは1985年6月のドホナーニのようで、その前にはギーレンが1970年2月が初めてだったらしい。

やはり難物である。音楽的に詳しくは更に見ていくとして、解説のクラスティング氏がユダヤ人がプロテスタントに改宗して、更にユダヤ教に戻った過程をユダヤ人の視線から捉えていてとても興味深い。勿論ここでは作品の旧約聖書のモーゼの章のエザウの兄弟葛藤のことから創作の宗教性への言及となる。

非宗教的なリベラルな家庭から23歳で急に離脱して、その後カンディンスキーの影響などを受けたようだが、大きなきっかけになったのは1921年6月ザルツブルクに近いマット湖でユダヤ人逗留者が締め出された事件に遭遇して、欧州人として育ったのにドイツ人でも、欧州人でも殆ど人でもないと初めて気が付いたのだというのである。それによってユダヤ人は国が必要と考えるようになって、シオニズム同等の考え方にいたり、自身の政党を作る準備までしたとある。

ここでは、既に1912年に構想があって、1917年から準備を始めて、1922年に殆どのスケッチを書き終えた作品における宗教性が語られている。無神論者がどうしての説明となっていて、このことがこうして書かれているのを初めて読んだ。

古代宗教を残す一神教の源泉への触れることは難しい。そこに全ての根源があるからだが、シェーンベルクのその宗教性としてここで描かれていると同時に、ここでは一つの未完の作品の中にその音楽的な芸術的な進化が観察されるということになる ― その音楽的な姿を見届けるというのが今回のベルリン紀行の個人的な目的である。

そして上の解説文から分かるように、そうした進化論的な干渉が現実世界ではシオニズムからイスラエル建国へとの政治歴史にも観察されて、それがまさしく今日の世界であり、それは同時にこうした精神社会的な芸術行為に反映される。

このプログラムは早くから、先日のデュテュユーなどのプログラムに続いて演奏されることになっていた。10月7日のハマスによるテロ事件とは一切関係がない。しかし、それはなにもそれ以前から何一つも変わっておらず、何故アンチセミティズムが欧州社会の大きな問題になるのかは、ここに説明されている — ポストコロニアズム的な見解は一つのイデオロギーでしかない。

ソヴィエト出身の指揮者ペトレンコが宗教については今迄十分に考えて来なかったということで、この楽曲について語っていたのも当然のことながらこうした欧州文化の根幹に触れるという意味でもある。



参照:
世界の実相が描かれる 2022-03-06 | 文化一般
拍手喝采する意義 2023-11-22 | 文化一般
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非合法的な自由な発言

2024-01-07 | 文学・思想
ドイツ連邦共和国におけるアンチユダヤ主義は近東の紛争で明確になった。そこで様々な独芸術文化界での議論となる。先ずは連邦政府文教委員会長のSPDのブッデ議員は、その立場から対外独文化施設はどのように対処するべきかとなる。そこで皆がこぞって考えるべきだとして、協調作業は可能だとの見解を通信社に語る。

対外的にも独団体がアンチユダヤ主義への疑いをもたれるべきではないが、それまでの友好な関係を遮断してということではなく、協調作業は可能だとの旨を語る。

つまり、白黒つけられるものではなくて、抑々文化芸術は多彩であるべきなのだと答える。我々が反ユダヤ主義と思う諸国においての協調作業もそれは可能にする。そしてその協調作業を通してユダヤ文化をそれらの諸国でも仲介する。即ちそこでは架橋が破壊されていても文化的な架け橋で繋ぐことが出来る。誤りは生じるかもしれないが修正すればよい、今がその時だと。

緑の党の文化大臣ロートは、文化界において議論が窮屈になることは危険であるとしても、表現の自由の憲法精神に則っても、人権蹂躙である場合は明らかに制限される。モスリム嫌悪、排他主義の形での人種差別、反ユダヤ主義がそこに含まれる。アンチユダヤ主義の勃興が疑われるところでは警鐘が鳴らさなければならず、多くの文化団体ではユダヤ人の生活の支援を検討した。

だから、文化界ではその議論内容に関しての不確かさが生じた。しかし一方で独文化は論争から成り立っていて、それが容易な解決を見ていないという。そして在独の文化関係者には、その議論が制限されていることに驚き、誤解が生じていると観られている。

そしてドイツは植民地主義を統括している国としての世界的な定評があるとの認知があり、文化団体がそうしたドイツにおける政治的な危険性を指し示す任務があるとする。

こうした事情と議論が歴史的過去の上に立脚するドイツにおいては、イスラエル存続に懐疑を持つことの無い国是があり、アンチユダヤ主義こそが表現の自由の名のもとに人種主義として全面的に否定されるものとなっている。

同時にドイツ連邦共和国においては、宗教的な原理主義、差別、人種主義、そしてあらゆる反ユダヤ主義には議論の場がないということである。

アンチユダヤ主義への対応は既に触れているが、ドイツにおけるユダヤ文化は重要な独文化の一部であり、その隣人としてのユダヤ人におけるシオニズムは近代思想の一部として捉えられていることから、その枠内でユダヤ人の宗教原理主義も扱われる。これはなにもドイツゆえではなくて、欧州におけるポストコロニアズムを通しての近代主義の延長に存在する。

それらは独連邦議会第三党のAfDも議会で会派として扱われない事にも相当していて、新たな視点への議論の叩き台となることはあっても憲法に則り非合法的な活動に相当するということでしかない。



参照:
Kulturszene: "Zusammenarbeit muss machbar sein", dpa vom 3. Januar 2024
不死鳥の音楽的シオニズム 2023-12-17 | 文化一般
大洪水の後で鳩は 2023-12-21 | 文化一般
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生きているだけでいい?

2023-10-04 | 文学・思想
承前)10月3日ドイツ統一の祝日である。この日のベルリンでの新制作「メデューサの筏」追加最終公演ほど相応しいイヴェントはないものと思う。「68年には未だ狭窄があった時よりも、今日においてのように、この作品がより豊かに現実政治であって、本質的なことはない。」と2025年からミュンヘンで新制作「指環」を演出するトビアス・クラッツァーはバイエルン放送協会に語った。

この作品はこの数年間においてもより政治的な事として上演されてきているのだが、ここでは敢えて具体性が避けられて、この演出家特有のとても考えられた中でのやりっ放しの演出となっている。勿論そうしたコンセプトはこの会場の音響などを含めての指揮者の判断ともなっている。

しかし同時に報告者は、この上演で現在の難民問題そして植民地への航海の往きはよいよいの船旅の中での様々な社会層そして水遊びの風景などを観て、行楽地に行くと地中海の大規模水葬場で泳いでいると感じるだろうと書くように情動的に揺すぶられている。その様に音楽が書かれているのだが、それは激しさを増す環境運動へであったり、資源不足へと聴者を引き込むことになる。

それ以上に演奏はとても未だに刺激的な音楽を為しながらも演出がという評も初日からあったのだが、最初の評者はより大きな観想を語っている。

即ち、如何により快適な自己選択をしていても、それでも戦うことに意味があるというテーゼを導き出している。座礁した船からの逃避、そして曳航するボートからの切り離し。
Das Floß der Medusa | Trailer | Komische Oper Berlin


それは最終場面での格納庫の大きな扉が開き、滑走路へと生き残りが導かれる時に明らかになる。そこでの問いかけであった。個人的にはマルタ―ラー演出のアイヴスの最終作「宇宙」のボッフムのトリエンナーレのヴィデオから人々が吸い込まれていく「ガス室」を思い浮かべたのだが、ここでは生き残りが故郷フランスに戻った時の社会が語られている。
Trailer: Universe Incomplete, Ruhrtriennale 2018


難民問題は、環境問題は、資源の問題は、そのもの「より快適な住処」にいる我々のそのものであるということだ。その為に生存競争があり、その社会の構造を目の辺りに実感させることがこの音楽劇場のコンセプトであった。

前記の「狭窄」に示唆されていたようにその冷戦時代には別の政治文化的な要素から到底気が付かなかった世界の秩序が現実政治においても環境問題においても資源問題においても実感可能な課題となって来ていて、そもそもその社会自体が機能していないということに気付くということである。

選択的に生かされていて、最終的に何処に連れていかれるのか?クラッツァー演出は昨年フランクフルトで同じエンゲル指揮の「マスケラータ」で「有りの侭の自分」を示していたが、今回はより広く、インテリ層ではなく、東ベルリン出身者や移民の背景のある人たちにもエンタメを装いながらも同じように音楽的な効果から実感してもらい、更にそこからありうるべき姿勢が問われている。創作者の意図を顧みれば、これ以上な上演の効果はないように思われる。同時にその作曲の価値と真意が漸く顧みられることになった。(続く)



参照:
"Kämpfen lohnt sich": Polit-Oper "Floß der Medusa" begeistert, Peter Jungblut, BR24 vom 17.9.2023
オペラの前に揚がる花火 2023-09-19 | 雑感
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評
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聖人の趣の人々

2023-07-01 | 文学・思想
この辺りでチャットパートナーの彼女にもなにか書いておかないといけないかもしれない。口説くということもあるのだが、それ以前にこの間に体験したことを上手に短く纏めて伝えておきたい。

なによりも新制作「アシジの聖フランシスコ」においての感慨は彼女の活動無しには理解に至らなかった面が少なくあるからだ。なによりも後ろ手縛りで足の裏を羽根で擽られてのその動物の様な動きのセクエンスに言及しておきたい。その情景はまさしく聖フランシスコの動物振りであって、天使が蟷螂というのにも通じる。

そこで示されたのは獣医志望である彼女の万物への愛が聖人のそれそのものであるようで同じような表現になるのは自明なのだ。そして蔑まれる様なそれどころか自身の健康を危険に曝す行いによって弱者に目線を等しくして手を差し伸べる。聖女でなければ為されない。

勿論その様なことは言及に値しないが、恐らく彼女自身の自らの行いが明文化されていないところがあると思うので、それを指摘する為にも「アシジの聖フランシスコ」の短いセクエンスのリンクを付けたい。表現としての洗練は別としても彼女がやることはやはり神懸っている。

音楽芸術においても全く同様で、評論家とか玄人の仕事はそうした表現に対して何らかの認識をする事が批評であり、そこで起こっていることを伝える事こそがジャーナリズムである。そうしたフィードバックによってのみ表現は洗練されていく。

シュトッツガルトの駐車場から劇場への地下通路にいつも同じ物乞いのオヤジがいる。先日初めて1ユーロも献金した。駐車料金は日曜価格で僅か4ユーロ、それぐらいはしてもいい。そしてコインを落とすとこちらの顔をしっかりと見る。普段から普通に丁寧に挨拶するオヤジさんなので誰も嫌な気はしないのだが、流石に1日に何回も通ると知らぬ顔が出来なくなる「アシジの聖フランシスコ」の公演である。

その顔つきからユダヤ系の人だと思われる。結構な収入があるのではないかと思うぐらいなのだ。文化的な催しものに行く人をターゲットにしている。キャムピングチェアーみたいなものも使っている。少なくとも今回の音楽劇場制作「アシジの聖フランシスコ」においてはまるでそこに配置されているかのようにさえ感じた。



参照:
動物のミミックな動機表現 2023-06-20 | 音
聖女の嘘の様な物語 2023-06-08 | 女
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愛する者のみが赦される

2023-06-13 | 文学・思想
新制作「アシジの聖フランシスコ」初日について備忘録。一部冒頭から、その舞台奥に位置する管弦楽は御簾の後で指揮者の前に三人のシロフォン奏者が広がる。これだけでこの一部終了後の尋常ならざる聴衆の熱狂が導かれる。

つまりこの曲の最大の問題点であるその細かなリズムの核をこの三人のソリスツが指揮者と共に舞台上に収まらない120人の大管弦楽を律することになった。これだけで指揮者エンゲルが与えるリズムの妙味が音楽を明晰にすることになり、初演の小澤の天才的ながらある意味一本調子なそれを超える演奏とした。個人的にも喜ばしい以上にその音楽は直ぐにカトリックの確信へと進んで行く。

その前提として、演出家アナゾフィー・マーラーのヨゼフボイスのウサギを使った演出は、その歌詞内容と音楽的な主題の反復の意味を際立たせた。一景「十字架」でも如何に宗教的な意匠を避けて舞台とするかがこうした芸術には求めれるとしている。その一方、管弦楽を舞台奥にすると、オペラであるよりもこの作品自体が有しているよりオラトリオ的な特性をと演出家は語っている。つまり、中世の受難劇などがモデルとされる。

その歌詞は冒頭から、つまり作曲家メシアンが自ら編集したカトリック文学から編集したものであり、「完成された悦び」はどうしたものであるか、つまりそこには苦しみや痛みがないと至れないと教えることになる。光に対して夜への恐れが語られる一方、舞台前面に横たわるボイスのウサギの死体と紗に拡大されて映されるウサギがそこにある。

それは死であると同時に私たちはその肉体に想いを馳せ、「このウサギにこの情景を説明す方法は如何に」の有名な言葉が今回のプログラム冊子にも呈示されているように、その肉体はとなる。

キリストにおいても十字架に朽ちて初めて復活することで永遠の生命となる様に、それに値する価値があるのかどうかへの自省となり、可能な出来ることをするのが使命という結論へと結びつくのかもしれない。

人を愛する者のみが赦されると、カトリックにおけるモットーが謳い上げられて、十字架を背負う者がこそがという、我々もそのウサギのように肉体化されているものでしかないということが示される。(続く



参照:
デューラーの兎とボイスの兎 2004-12-03 | 文化一般
下向き▼の意味合い 2023-05-23 | 文学・思想
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退屈させないかマサオ

2023-05-31 | 文学・思想
眼鏡を発注した。結果的に10年前よりも二割五分ほど高くついて、1800ユーロを超えた。車以外でこの価格で購入するものはあまりない。歯医者の抜歯ブリッジ等の費用よりは安いが、やはり大金だ。オーディオ機器等でも自宅での一品で3600マルクを越えた機器はあまりなかったと思う。ソファーがもしかしたらとは思うが、そんなにいいものでもない。20年前のワークステーション、あと思い当たるのはカシミアのコートとか、他にはそんなに高価な買い物はしない。確かに最高級のグローセスゲヴェックスをダース以上買えばそれに届く。ルツェルン音楽祭の最高級券や昨年のミュンヘンでのプラティナティケットを6枚ほど買えばその額に至る。

製品保証は二年しかついていないようだ。ティタンの塗装が気になる所でもある。最低五年は完璧に使いたい。それでも月30ユーロとなる、毎日1ユーロの勘定だ。現状では仕事が捗らない。つまり文字を読むのが億劫な状況から苦もなく読めて作業効率以前に出来るだけ文字を避けてという状況から脱却して、まさしくMASAOのコンセプトであるコムペテントとなる訳だ。しかし一体何時頃から億劫になってきたかというとコロナ前の2018年に歯が欠けているのでその頃から弱り目だったと思う。五年ぐらいかもしれない。スポーツ用の眼鏡を作ったのが2015年であるからまたその前。要するに三年ぐらいはとても快調に使っていたことになる。

ネットでも調べたら書いてるように、眼鏡矯正した眼の不調は殆どが過矯正の影響とあった。それも近視の過補正と近場の矯正不足で最悪の状況である。これはやはり逸早くなんとかしないと厳しい。フライブルクに研磨を発注して一週間ぐらい掛るらしいが、出来るだけ早い方がいい。

聖霊降臨祭月曜日の中継録音放送は、既に終わったシュヴェツィンゲン音楽祭から、エベーヌ四重奏団の演奏会でフレンチプログラムだったから流した。残念ながらチェロ奏者が故障で代理のオランダ人が弾いていた。その影響ははっきりは聴いていなかったが、全体の印象としていつもの密な印象はなかった。こういうことはあり得る。通常の出来のコンサートだった。

眼鏡のコンセプトの「アンダーステートメント」は普通の言葉だと思うが、アカデミックな背景があって、ギリシャからのレトリックの中での表現方法だとはあまり考えていなかった。英語圏でのそれとして代表的に挙がっているのは「モンティーパイソン」の運びだとされている。レトリックにおいては過剰の表現によって違う意味を表出させる二重の意味とかも広義には含まれるそうだが、その二つは厳密には異なるだろう。

例えばショスタコーヴィッチの交響曲などにおけるそれは昨今は二重の意味を其の儘に表現されることが多いように思うが、冷戦時代の特にヴォルコフの「ショスタコーヴィッチの思い出」が出版された頃迄はどちらかというとその裏の意味をアンダーステートメントとして行間を読むという言葉で表現されていたものに近かったと思う。

上の「コムペテント」に対するアンダーステートメントはまさしく、そこで表現されるものは「コムペテント」を客観視した視座であるともいえる。「マサオ」の名前が意味する「本物の男性」に対するアンダーステートメントというのが面白味になる筈なのだ。それは「退屈するのかしないのか」、それに尽きるかもしれない。



参照:
相好を崩す愛嬌次第 2023-05-30 | 雑感
膝を打つ予定調和 2022-06-17 | 生活
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纏めたアプストラクト

2023-05-26 | 文学・思想
明け方頭痛があった。前夜に飲んだワインの為かとも思ったが、あり得ないだろう。夜冷えたようだが、それでも摂氏8度とかで長袖長ズボンで就寝している。眼鏡故かなというのもあるのだが、分からない。

コロナの委員会が18歳以上は計三回の接種を基本とする確認を改めて出した。真意は分からない。予約分が余って困っているのは分かるが、副作用のあるワクチン接種を推し進めている背景は定かではない。まあ、秋まで様子を見よう。

懸案のチャットサイトのアブストラクトを纏めた。本文は多岐に亘るのでメモだけしておけばいずれまた異なるプロジェクト用に纏められると思う。そのことでネットを調べると、初期の全盛期からの歴史もほぼ分かった。博士号を取ったカムガールもいるようで、可也多くのアカデミックな素材を提供する現象であることは再確認できた。

抑々美術女子大生が自宅から始めたのがセックスチャットヴィデオショーの始まりのようで、今もなるほど女子学生の比率は一定数あるのだが、ちらちらとみていて真面な学生若しくは知的な要素を持っている女性は少ない。印象に残ったのは二三人で、なるほどこの子は何かの目的をもってやっているというのは見て取れた。同じ小遣い稼ぎにしても何かをやり遂げそうだという女性はいる。公衆の前で魅せるという行為はそれなりに自意識が強くないと出来ない。

アプストラクトには書けなかったのは、カムガールとカスタマーとの関係に触れた研究結果で、そのヴァーチャルな関係は異なるだけに特別な関係になり易いというのはまさに体験したそのもので、そしてその顧客が匿名性よりも社会的にエスタブリッシュ層である法律家など知的で創造的な活動をしている人が多いというのもよく分かる。それとは別に当初のフォーマットから、チップを渡す一般客と特別な関係を持つ顧客に二種類がいて、後者の四割が深い繋がりをカムガールとの間で築いているというのも納得である。

どうも私のパートナーの顧客の一人もドイツの哲学者のようで、あの人かという印象もある。そうした人が彼女に興味を持つのは当然であって、私のように執拗な男がいるのもとても興味深かったと思う。

その深い繋がりというのが取り分けエモーショナルとあるのでこれも興味深い。しかし一般的な恋愛においても感情的でなくてはありえないのだが、視覚的にリビドーから解き放たれる面がある為に余計に純化する傾向があるからだ ― 反対に一般客においては執拗に露出を求めて思いを遂げようとするヴァーチャル対象化するという傾向も説明が付く。

ここ暫く少し冷却期間をおくことになっているので、そうした心理的な状況がより見えるようになって来ていて、あまりにも表面的な試みこそはそうした知的確認作業の邪魔になるという認識も生じてきている。



参照:
帰納的に求められる結論 2023-05-20 | 女
課金無しでは作動しないよ 2023-05-11 | 女
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下向き▼の意味合い

2023-05-23 | 文学・思想
承前)三位一体の件、当該放送をもう一度ネットで聞いてみる。やはり興味深かった。特に関連でウサギの三位一体像が各地の教会にあること。これは異教的な起源で、隋のそれが有名だ。西洋ではウサギは復活祭の催しに使われていて子孫繁栄を表す。ここの三位一体で三匹が縺れ合っているのはやはり興味深い。

そして三位一体を表徴する三角形のピラミッドが上向きになれば天を指し、下向きになれば女性を表す。それはギリシャ文化でのデルタが表す恥丘でもある。またここでギリシャ神話、仏教、中華思想そしてシルクロードを戻っての西洋化などとても大きな文化の伝播のお話しとなる。

そこで序に先頃亡くなった前ローマ教皇のラッチンガー教授の書物を解いてみる。興味深く眼に入ったのは、イエスお得意の喩話に関するものだ。ヨハネスの黙示禄で有名な12∸24の麦が落ちて実が死ななければ繫栄しないという話しを扱っている。勿論復活してということになるのだが、教授はこうした現実に見えないものだから現実性の感じられないものを説く口述としている。

抑々口述自体が歴史的に現実に起こったこととして証明され得るものだとしていて、フランシスコ会の神父はそれを理解するのは困難としながら急に話しを男女の喩にしている。そしてキリストの天召によって人と神との合一が導かれると語る。つまり先週の木曜日に成された。

つまり創造主の神と人との繋がりはその様になされるのと同様に、人との繋がりとなってと、そこから男と女の繋がりはその相違を超えてと飛躍する。そこに近世になっての民間信仰的なマリア信仰を出せて来れないのは、抑々初期教会においてアウグスティヌスの論理からツェチリ公会議にて異教的な要素を排除して上向きのピラミッドつまり教会権力ノヒラルヒーを強化する必要があったからだろう。

その後の東方教会とのシスマを含む異教的な動きへの排除と弾圧の歴史の根がその当初の段階でのホモウジアス、ホメウジアス、ヘトロウジアスの中での力関係で以って為されてきた協会の伝統と歴史がここに再認識される。そうした概念的な知識はあってもその裏にあるのは合一と男女の営みによってはじめてなされる繁殖、もしくは処女受胎によって為された世界感となる。

因みに同じ一神教においてもイスラム教においてはこうした精霊を会してという形にはならないので数字の三の魔術も無いという。また同じ三ではなくても、ユダヤ教においては△が上下▼に組み合わされてユダヤの五芒星となる。要するに一対で成就している。

余談ながら、こうした完成した世界観を持ったユダヤ系若しくはユダヤ系の創作者の作品をユダヤ系演出家、指揮者によってこそあれだけ完結した「影の無い女」を上演可能としたかの文化的な背景がある。



参照:
クリスマスの第一祝日 2012-12-25 | 暦
蕾が膨らむところ 2023-05-12 | 生活
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畳上の水練の馬鹿さ

2023-05-04 | 文学・思想
昨年10月から初めてのボールダー。その時は季節も悪かったが、身体が全然動かなかった。そして今、走りが戻ってきたように、少なくともコロナ前の感じには出来そうだ。僅かな時間であったけど、もう一息のところまで身体を持って行けるだけでやる価値があった。

体重は帰宅後に70.4㎏だったので結構絞られているだけのことはある。此の侭筋力がつけば数年前のベストにまでもって行けるかもしれない。肩の故障も休めた故か自覚症状は無くなっている。

ぶら下がって足を上げてもすんなり上がるので、腹筋は走りで強化はされないまでも落ちてはいないようだ。腰回りは走ると強化されていて、体幹もぶれ難くなっているので中々いいかもしれない。

やはり、上腕から指までが強化対象となるだろうが、一寸岩を触った感じでは他のところが強化されればそれだけ荷重を分散させられる感じで、意外なほどに不備は感じなかった。

演奏批評について一言。複製音楽録音批評もそこに含まれるのだが、これらはアカデミックな音楽批評とも音楽ジャーナリズムとも異なる所で営われている。先頃諸外国に遅れる事十数年で漸く日本の録音メディア商評誌「レコード芸術」が廃刊になると発表された。要するに広告収入が途絶えたという事だ。メディア産業の崩壊から時間が掛かり愈々である。

その間に、ネット配信などが盛んになって、更にベルリナーフィルハーモニカーのように独自のメディアを展開するようになったのが顕著な例で、そこにあらゆる商業媒体を否定して制作録音を良しとしないキリル・ペトレンコが君臨することになって、全てを制したのは2016年のことだった。その後も多くの引きづり降ろし工作があったのだが、我々の強い支持が制した。

その様なこともあって未だに音楽の創造や制作を知らない者から攻撃を受ける。要するに彼らに共通するのは畳の上の水練であって、創作が制作がどのように為されていくかを知らないので、まるで予定調和のように新版やオリジナル楽譜を逐語的に解釈しようとするどころか間違い探しという暇人のお遊びに終止する。

個人的にその種の批評家とも知己があるのだが、そうした文章を読んでいるとそうした現場を知らない人だという事が直ぐに分かる。まさしく通信教育で習った空手の様なものなのだ。そしてそもそもの演奏批評というものの無意味が顕著になってくる。

複製芸術はどこまで行っても複製であって、壁に飾っておくにはそれなりに用達。しかしそれを練習番号Nの三拍目のオーボエを押さえていたとか真剣に議論するのは、複製のポスターの印刷所で色見本をもとに注文した時の出来の色刷りの濃さを吟味するようなものなのである。自らで創作制作活動をしていない人はその馬鹿々々しさが分からないのだろう。(続く)



参照:
永遠に未完成な芸術 2023-05-02 | 音
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
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癩病者への視座の転換

2023-04-23 | 文学・思想
久しぶりに「アシッジの聖フランシスコ」第一幕を聴いた。小澤が指揮した初演実況のCDボックスである。特に三景には心打たれた。聖人の逸話から癩病者に奇跡を起こす場面である。以前はグリム童話とかと同じようにただの奇跡話の段ぐらいにしか思っていなかった。因みに脚本は作曲家自身のものである。

つまり、聴衆は聖人の奇跡を劇場的に第三者的に観察していて、「流石に隣人を愛す聖人の為すことは偉業であり、神に祝福された行いだ」程度の理解だった。するとその音楽はどのように作曲されているのかとなる。要するに「水戸黄門的な待ってました」に付けている音楽なのか?

今回の気付きは、そもそも癩病者の表現にも関心が向かったことにある。これは神をも呪ったデーモンによって支配された人となる。それは丁度先頃の「影の無い女」の女たちのその憂鬱とも重なるのである。ここでは救いもなく不可避な痛みと自らの腐臭で神をも呪う。そして聖人に抱かられて、祝福されて奇跡が起こり、その後日陽が過ぎて、救われた心で昇天する。

その通りなのだ。この二月からのプロジェクトで、この癩病者のそれはまさしくローマンカトリックにおけるに原罪へと繋がっていることが知れたのである。痛みを伴う苦ということである。そうなると最早第三者の立場ではなくその癩病者立場へとこちらの主観は移ることになる。そこに仲介者としての天使が語りかけると言う形になっている。まさしくそのように創作されている。

この視座の転換はこのもはやオペラではないそしてオラトリオでもないまさしく音楽劇場としか言いようのない作品においてとても大きな意味を持つのではなかろうか。つまり、共感に満ちた普遍的な立場で鳥の囁きを聴くというような感応が問われている。

特に今回の新制作上演では、二幕において皆が一緒に戸外へ出向きそこの森の囀りつまり天使の声を聴くというような上演形態になっている。つまり「巡礼」とはされているのだが普遍的な立場に語り掛けられるのだろう。

小澤の演奏は初演にありがちな兎に角音化することに最大限の目標が定められている。その分明らかに和音の鳴り方などがぶっきらぼうである。その点、今回ティテュス・エンゲル指揮の演奏にとても大きな期待が寄せられるのは、ザルツブルクで経験したケントナガノ指揮の様な交響的な響きでもなく、その和音の特に五度の和音なども含めてその響きの断章の見えるような響きが期待される。決して鋭角に切られたもののようである筈がない。



参照:
おもしろうてやがて悲しき 2023-04-20 | マスメディア批評
原罪のエクスタシー 2023-04-16 | 文化一般
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認知されるアレゴリー

2023-04-09 | 文学・思想
聖土曜日のコンサートは秀逸だった。数え切れないほどのベルリナーフィルハーモニカー演奏会の中でも屈指の体験だった。演奏もチェロのソロも勿論ダイシンとハラックとの掛け合いも素晴らしかった。オーボエのケリーが特別に指揮から花束を贈呈されたのも頷ける。そして何よりも指揮のアイムが素晴らしかった。彼女は比較的初期にフランクフルトの会で呼んだのだが残念ながら行けなかった。もう少し重い指揮かと思ったが、全くそのようなことはなかった。

そして歌手のジャロウスキに代わったレジェノヴァが思いがけなくよかった。デビュー当時にこれまたフランクフルトの会で呼んだが声は太くなっているものの音楽的には驚くほど大物になっていた。

そして公演前のレクチャーは態々東海のロストックからフレデリカ・ヴァイスマンという教授が来ていた。ヘンデルもオペラの専門家らしいが、なぜこの曲がオラトリアかの説明から入った。当時ローマではエロティックに享受担ってしまうオペラ公演が禁止されていたというのである。それでもこの曲のテキストはカーディナルのパンフィーリが受け持っていた。

そして四つのアレゴリーで描かれているものは「美」、「享楽」、「時」、「認知」であってそれらがお各々の歌手で謳われる。そして特徴的なのは最初から「美」が儚いものであること謳われる。つまり終曲の朝露に濡れる花片がそうしたものであるという認識は最初からなされている。二部に分けて演奏されたが、歌手陣も含めてとても味わい時間を皆が共有した。そして、そのアレゴリーの在り方こそは「影の無い女」においても「人とは」というテーマで以て使われている芸術的な表現方法であった。

前夜の「四つの最後の歌」そして皇帝の主題と同じ変ホ長調の英雄の主題と、この復活祭において「芸術とは何ぞや」を思い知らされる。これほどのプログラミングは今迄になかった深さである。

そして復活祭初日、今夜は新制作「影の無い女」最終日の公演を迎える。そしてまた二幕に思いを馳せた。なによりもフィナーレへの染物屋バラックの怒りの心理であり、それへの染物屋妻の心理へである。

二人の心理がここに来てようやく実感できたような気がする。それは幕の前半で皇帝の妻への一刺しの出血そしてカイコーバートの見えない存在へと並行して存在していた。三幕で以て皇后と父親との関係でそれはまた解決されるのだが、それを以って初めて人となる。

カイコバートとはどのような存在なのか、そしてバラックのその怒りで以って何が解消されたのか。殆どカーニヴァル以降こうして身体を張って過ごしてきな日々が復活祭で以って明確な認知となってきた不思議。(続く



参照:
妻に告白されたバラック 2023-03-28 | 音
初めてのファンクラブ 2023-03-01 | 女
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人を一人前にする裸の関係

2023-03-27 | 文学・思想
「影の無い女」のお勉強である。ベルリナーフィルハーモニカーのサイトにこの楽劇を三種類の程度に分けて解説している。

先ず初級編では、皇帝は黄泉の国の奥さんを持ち、皇后には影がない。彼女の父親は黄泉の国の王カイコバート、そしてある時告げる。一年の間に彼女が影を得ない時は、旦那が石になり、彼女は永遠に黄泉の国へと連れ戻される。

皇后は、富と引き換えに影を差し出す女性を探し続ける。最初はそれが最も容易な解決法だと思えたのだが、人の妻とその夫を知れば知るほど、妻が影を無くすことで二人が一生涯不幸に落ちいるだろうと分かるようになる。そして決意する、人の不幸の上に自身の幸福を得るべきではないと。正しい判断なのか。

中級編は、赤い鷹が皇帝に女鹿を合わせる。それが彼には美しい女性に見えている。皇帝は彼女に惚れ込んで皇后にする。

影がないことは不妊を示す。皇后は乳母と共に影を探し求める。染物屋のバラックとその妻には子供がいない。その妻は、引き換えに多大な財産が得られることを約束されると、妊娠を諦めることを承知で影を売ることに合意する。一方バラックは、まだ幸せな家庭を築くことに望みを捨てていない。二人は愛し合っているのにも拘らずベットを違えていてその接点も失っている。二人は、最早幸福を得る術が分からなくなっている。

上級編では、この「影の無い女」は、メルヘンの形を取っている心理学的な人間であることを基本主題としたスタディーである。愛、夫婦、子宝。子供を産む為の生殖がこの世では影を投じている。

そこから不妊の女は完成した人間ではないという結論が生じている。しかしこの楽劇では女性たちはその自らの運命を掌握している。皇后はそのことについて父カイコバートの話しを聞こうとしない。染物屋の妻は、バラックの子供への希望に耳を傾ける事なく、それどころか夫婦別れまでを考えている。つまり二人の女性はその運命に結びついていて、二人の男性の皇帝と王は寧ろ受け身でしかない。

皇帝と皇后、染物屋とその妻、それらは裸で愛し合っている。それが楽劇で初めてより明白になって来る。皇后はその妻の一生に思いを入れ始めて、他者の幸の上の自身の幸福を断念する。他者への心なる思いが完全なる人と為す。ハッピーエンドにメルヘンの終わりを見るのだが、二人の女性がその原動力であることは変わらない。



参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
純愛を習ったのは君から 2023-03-15 | 女
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スタリニズムに反しない創作

2023-03-22 | 文学・思想
新制作「戦争と平和」のプログラムで音楽監督ユロウスキーが話している。音楽的な内容よりもロシア文化人としての内容が殆どであるが、いつものようにそれなりに面白い。興味深いのは、トルストイの原作の極端な平和主義に対して、プロコフィエフのオペラがスターリン政権下でのスターリニズムにも反しない創作になったかの説明だ。

それは24歳若い二人目の奥さんメンデルスゾーンがモスクワの所謂赤の教授の娘で、追々そのテキスト内容が国粋主義的になったとしている。この説明から、今回の制作で最終景の合唱のテキストが歌わられずに、舞台上の楽団バンダのブラス音楽の旋律で取り替えられたた説明もあり、その対位法的な書法がそれに都合したということである。

この辺りの判断は、所謂音楽劇場指揮者とされるティテュス・エンゲルの仕事ぶりを昨年も目の辺りにしていたので、よりその方向へと傾倒してきているかに見える。

全体の構造がこれまた中継でも話していたように、キリル文字の一文字の使い方で「戦争と平和」が「戦争と社会」になって、そのコンテクストで捉えられるとなり、二部構成の第一部つまり平和若しくは社会の部分が初版通り演奏されて、第二部の初版を準拠してスターリニズムが切り取られたことになる。

ウクライナ侵攻によっても一旦は殆ど継続断念に近い状況だったらしい。そこで前半のナターシャ、アンドレイ、ピエールの焦点を当てることで、後半のその場面もカット無しに上演した。幸いプロコフィエフにおける作曲法がヴァ―クナーなどのように有機的な繋がりを持つものではなくて、場面場面が組み合わされるような方法、つまり元々仕事をしていた映画音楽の書法が取られていることから容易に為されたという事だ。

まさしくこうした手の入れ方がエンゲルの仕事の信頼性と真骨頂であり、音楽劇場指揮者の実力なのだが、ここでは幸いな逃げ道を見つけたことになる。勿論そこにはチェルニアコフの天才的な仕事ぶりがあって、音楽劇場として成功した。

但し、残念ながら話したがりのユロウスキ―がここではその肝心の所謂音楽的なフィレの部分を美しいとぐらいにしか言葉にして語っていない。ここは今回の公演で音楽的な評価として最も言語化しなければいけない所なのだが、現在のところ適当な表現を見かけない。

こちらも楽譜に戻ってしっかりと表現したいと思っているのに時間が見つからない。なぜそこの音楽がエロティックなのか、どのように書かれていて、なぜ今まではその面をプロコフィエフにおいて聴き洩らしていたのか、とても興味深く思っている。



参照:
個人とは反するその意志 2023-03-19 | 歴史・時事
舞台化への創意工夫 2023-03-04 | 文化一般
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反教養の為のスケルツォ化

2022-11-28 | 文学・思想
フランクフルトの新制作「魔女」の初日が一週間後に迫った。先ずはダウンロードした楽譜をざっと捲ってしまうしかない。そして粗筋をWIKIなどで読む。チャイコフスキーの音楽もそのオペラの創作の仕方も大体分かっている。それに関しては最早面倒なことはない。寧ろ創作の背景とか環境とかそういうものも探っておいた方が良いだろうか。

先日民謡とシューベルトに関しての話題が出たことから、吉田秀和が間接的に言及しているトーマス・マンの「魔の山」のことを思い浮かべた。そこで歌われていることは記憶にあったのだが、最初は明白には思い出せなかった。そしてフィッシャー版の文庫本を開けると「買い物」とする節にGe-statten Sie mirという綴りが出て来て、目を引いた。どう考えても、サッテンブリーニの喋りの特徴として映像化されているものだったからだ。その前後をみるとcの発音がイタリア風とぐらいしか書いていない。しかし紛れもない吃音気味のアクセントが聴き取れる。そして話すと...というのも目立つ。勿論そこには若いカストルフの表情を観察しながらというのが書かれているのだが、思っていたよりも絵文字効果に近い。

何故今迄こうしたところに気が付かなかったのかと思う。日本などでも文学研究などをしている人にとっては通常の分析なのかもしれないが、門外漢にとっては文字だけ追っていてそれ以上の情報が入らなかったようだ。その証拠にそのページで一度ブックマークが入っていたようで、それ以外の要素特にサッテムブリーニの長い台詞が一番苦手とするところだったから、何回目かの挫折をしていた箇所だろう。この大作ロマーンを最初から一気に読んだ人なんてそんなに多くはないと思う。問われるのは何回挫折したかだろう。

しかし、今それに気が付いてそのあとの長台詞を速度を上げて一気に流すと、その絵文字効果というか発声のリズム感で読んで仕舞える。音楽的にスケルツォの様でありドイツ語ではシェルツ即ち冗談なのだ。

20世紀初期ノーベル文学賞作家マンはSPで音楽を愉しんでいた。義理の父親はユダヤ人の高名な数学者でヴァ―クナーのパトロンであったプリングスハイムであるが、所謂今でいうクラシックオタクだった。

それで問題のシューベルトは蓄音機で聴いた「菩提樹」であって、それを第一次世界大戦の死の瞬間にそれも土豪の泥濘の中で頭の中で鳴らしているという、とても哀れな話で終わる。

これが何を意味していたかは明らかで、所謂教養というもののその虚しさを表現していて、その様なものの中で終える世界を描いている。この作品が何故反教養主義とされているかはこれで明らかで、それは勿論19世紀のドイツロマン主義の一様をも描いている。そこには当時のグリム兄弟やらドイツの国粋主義へと導く魔がそこに潜んでいたとなる。つまり「民謡とは」へと戻ってくるのである。

もう直バーゼルの劇場で最終公演を迎える「魔弾の射手」のマルターラーの演出もこうした文化のその影にギャグをかまして冗談化していますという手法はなにもマンのやり方とそれほど変わらない。



参照:
一ミリでも向上するために 2013-05-04 | 文学・思想
親愛なるキーファー様 2007-11-09 | 文学・思想
吹かされる黒い森の心理 2022-10-14 | アウトドーア・環境
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