(承前)今回の演出においてオックスがリアルな姿で舞台化された。その背景にはそもそものこの楽劇のタイトルロールであったことがある。実際に今回の公演では現在のタイトルロールのばらの騎士則ちオクタヴィアンはそのキャスティングと存在感からして三番目以下でしかなかった。
そこで度々引用されている作曲家と台本のホフマンスタールとの度重なる往復書籍にその創作過程を見る。そして100年間この楽劇の音楽的若しくは内容が十分に聴衆に伝わっていなかった状況の原因をそこに迫れる。
その前提である作曲家がモーツァルトのダポンテオペラに拘っていたことはよく知られる。その一方10年ほど若い作家の方は各幕が静かに終わることで危機感を抱いていた。専らドラマテュルギーによる様だが、そうなると現在のような形はつまり次作の「アリアドネ」のプロローグに繋がるトリックは最後のアフリカのお小姓がマルシャリンのハンカチを拾う所のユーモアにあるとなる。
このことに気が付いたのは、今回の公演においても演出家ハリー・クッパ―が特に変更したというお小姓からインド人らしき運転手への書き換え、そして一幕では部屋の使いをしていた男性がハンカチをを拾って嗅ぐということから「オクタヴィアンの次の若い恋人になる」という書き物が幾つか見られたからである。勿論この楽劇が「フィガロの結婚」や「ドンジョヴァンニ」のオペラブッファのパロディーであることから、ケルビーノがアルマヴィーヴァに、ドンジョヴァンニに、そしてオクタヴィアンがオックスにという繋がりは百年間語り続けられていたであろう。然しここでそうした大団円に掛けた様式的な創作であるったことが分かる。要するにそうした嘗ての楽劇のフィナーレとは異なった新古典的な様式感であったとも説明されよう。
このクッパ―演出では、表面上は子使いのアフリカ人の子供を使いたくないので綺麗なインド人としたと読み取り、其の儘本来の形式は守られる。然し実際の印象はどうであろう。なるほど一幕の歌詞にもあるようなそうした植民地的な状況をここではアフリカからアジアに置き換えただけとなる。
2014年のザルツブルクでの批評などを読むと、嘗ては東ベルリンのコーミッシュェオパーで活躍して2019年に同地で亡くなった社会派の演出家としてあまりにもそうした要素が見つからない演出だと書かれていた。さてどうだろう。20世紀の初頭にあったアフリカへの眼差しを丁度植民政策の末期にあったアジアに移して、そして今日の聴衆にはそのことに気が付かせるギャグとしたのではないか。そしてこれまた月並みに語られるマルシャリンの次の若い男という観想を少なくとも今回の再演で感じただろうか?これが三幕の前半から後半への音楽であり舞台であった。
そこからこうしたスタイリッシュな作りを「アリアドネ」の前作の本格的な楽劇から進めていた。そこで改めての本格的楽劇挑戦が「影のない女」によって為される。同時に最初の作曲家の構想におけるトリオそしてデュエットで終えるというあまりにも容易な解決によって、大衆向けの創作となってしまう作家の危惧がどのように避けられたのか、それともドレスデンでの初演成功から戦後のカラヤン指揮による録音やザルツブルクでの上演から愈々ミュージカル作品となる、それを引き継いだカルロス・クライバー指揮によって決定的な不理解へと至ったことを示すことになったというのが今回の再演での大きな回答でもあった。(続く)
参照:
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般
過去を学ばなければいけない 2016-12-17 | 文化一般
そこで度々引用されている作曲家と台本のホフマンスタールとの度重なる往復書籍にその創作過程を見る。そして100年間この楽劇の音楽的若しくは内容が十分に聴衆に伝わっていなかった状況の原因をそこに迫れる。
その前提である作曲家がモーツァルトのダポンテオペラに拘っていたことはよく知られる。その一方10年ほど若い作家の方は各幕が静かに終わることで危機感を抱いていた。専らドラマテュルギーによる様だが、そうなると現在のような形はつまり次作の「アリアドネ」のプロローグに繋がるトリックは最後のアフリカのお小姓がマルシャリンのハンカチを拾う所のユーモアにあるとなる。
このことに気が付いたのは、今回の公演においても演出家ハリー・クッパ―が特に変更したというお小姓からインド人らしき運転手への書き換え、そして一幕では部屋の使いをしていた男性がハンカチをを拾って嗅ぐということから「オクタヴィアンの次の若い恋人になる」という書き物が幾つか見られたからである。勿論この楽劇が「フィガロの結婚」や「ドンジョヴァンニ」のオペラブッファのパロディーであることから、ケルビーノがアルマヴィーヴァに、ドンジョヴァンニに、そしてオクタヴィアンがオックスにという繋がりは百年間語り続けられていたであろう。然しここでそうした大団円に掛けた様式的な創作であるったことが分かる。要するにそうした嘗ての楽劇のフィナーレとは異なった新古典的な様式感であったとも説明されよう。
このクッパ―演出では、表面上は子使いのアフリカ人の子供を使いたくないので綺麗なインド人としたと読み取り、其の儘本来の形式は守られる。然し実際の印象はどうであろう。なるほど一幕の歌詞にもあるようなそうした植民地的な状況をここではアフリカからアジアに置き換えただけとなる。
2014年のザルツブルクでの批評などを読むと、嘗ては東ベルリンのコーミッシュェオパーで活躍して2019年に同地で亡くなった社会派の演出家としてあまりにもそうした要素が見つからない演出だと書かれていた。さてどうだろう。20世紀の初頭にあったアフリカへの眼差しを丁度植民政策の末期にあったアジアに移して、そして今日の聴衆にはそのことに気が付かせるギャグとしたのではないか。そしてこれまた月並みに語られるマルシャリンの次の若い男という観想を少なくとも今回の再演で感じただろうか?これが三幕の前半から後半への音楽であり舞台であった。
そこからこうしたスタイリッシュな作りを「アリアドネ」の前作の本格的な楽劇から進めていた。そこで改めての本格的楽劇挑戦が「影のない女」によって為される。同時に最初の作曲家の構想におけるトリオそしてデュエットで終えるというあまりにも容易な解決によって、大衆向けの創作となってしまう作家の危惧がどのように避けられたのか、それともドレスデンでの初演成功から戦後のカラヤン指揮による録音やザルツブルクでの上演から愈々ミュージカル作品となる、それを引き継いだカルロス・クライバー指揮によって決定的な不理解へと至ったことを示すことになったというのが今回の再演での大きな回答でもあった。(続く)
参照:
壁を乗り越えて進もう 2020-01-03 | 文化一般
過去を学ばなければいけない 2016-12-17 | 文化一般