Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2018年6月

2018-06-30 | Weblog-Index


十七時間後に帰宅 2018-06-30 | 生活
緑の原をミストリウムへ 2018-06-29 | 音
期待に膨らむ初日 2018-06-28 | 文化一般
既に遅しとならないように 2018-06-27 | 雑感
危うく逆走運転手指揮 2018-06-26 | 音
いざカウンター攻撃 018-06-25 | ワールドカップ06・10・14
「プロシア的」の情けなさ 2018-06-24 | 文化一般
配券された初めてのもの 2018-06-23 | 生活
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
これからの大きな期待 2018-06-20 | マスメディア批評
そのものと見かけの緊張 2018-06-19 | 女
ショックのUバーン体験 2018-06-18 | 歴史・時事
祭り会場から一時避難 2018-06-17 | 暦
残席から探るランラン状況 2018-06-16 | 雑感
祝杯の無い幸福 2018-06-15 | マスメディア批評
権威の向こう側 2018-06-14 | 文化一般
Don't we trust him? 2018-06-13 | アウトドーア・環境
暴漢に向かったBASF社員 2018-06-12 | マスメディア批評
またまたオタクな生活 2018-06-11 | 暦
祭りの喧噪もなんのその 2018-06-10 | 音
プロシェニウムロージェ 2018-06-09 | 文化一般
管弦楽への圧倒的熱狂 2018-06-08 | 文化一般
不安の時代の闘争 2018-06-07 | マスメディア批評
不安の時代に最高の言語 2018-06-06 | 音
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
非パトス化の演奏実践 2018-06-04 | 文化一般
「抗議するなら今しろ!」 2018-06-03 | マスメディア批評
マイクロフォンセッティング 2018-06-02 | 生活
エルブのバーンスタイン 2018-06-01 | マスメディア批評
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十七時間後に帰宅

2018-06-30 | 生活
ミュンヘンから帰宅の途で一時間ほど仮眠した。戻ってきたら目が醒めた。仮眠から起きても身体がふわふわした感じで車の運転が怖かった。真夜中の運転は厳しい。そのためかところどころにパトカーが追走するような体制で配置されていた。前回宿泊したのは、「神々の黄昏」と長尺だったのと、今回の舞台美術を掌るバゼリッツ氏の小展示観覧を組み合わせたからだった。そして今回のパルシファルは通常以上にサクサクと進んだのだが、それでも引けて車に乗って走りだすと21時20分を超えていた。時刻的には問題が無かったが、朝から眠く、車を入れたのは13時半過ぎ、自宅を出たのが9時過ぎ、帰宅が翌2時半だったので、流石に堪えた。

それ程時間を取った訳ではないが、軽くサーモン入りのサラダで昼飯をいつものようにとって、いつもならばお土産で買う肉類を断念した ― 駐車料金は25ユーロになった、因みに入場料は半額売りで42ユーロ、昼食30ユーロである。一つは暑さと、一つは通常に肉屋が並んでいたからだ。その分、カフェーで試したトルテと異なるものを二つ購入した。いつも欲しいと思っていたがお持ち帰りは難しいと思っていた。車の走行時間を聞かれて、アイスボックスを持参していると言うことで、一つづつ小箱に入れて呉れた。今見ると無事だったようだ。

カフェで隣のおばさんがベリーの乗っているカシス味のそれを注文するのを見て、同じものを頼んだので、その人がトリアーから旅行に来ていたのを知った。マルクス像の話しやギュンター・ヤウフの話しやワイン、そしてオペラフェストの話しやルクセムブルクのフィルハーモニーのことなどを話した。興味深いのは、土地柄産業構造が弱いことを自覚していて、私が指摘したようにシナ人観光客を拒否するというような東独の考えは全く浮かばず、それ以外の様々な議論がされたという事だった。

生録音は上手く行っていたようだ。ダイナミックスの上限超えクリップしてなければ大丈夫だろう。敢えて大きめの入力にしたのだ ― 要するに今回は想定外の鳴らし方をしていた。前回の「三部作」などでは放送のダイナミックスレンジが足りなかったからだ。今回は前奏曲で完全にゼロラインまで上がっているので、一部はサチッているかもしれない。一般的にはライヴは音量が上がっていくものだが、今回は一幕からして完全に鳴っていた。恐らくキリル・ペトレンコ指揮公演では最もダイナミックレンジが上に触れたものだったと思う。それほどピニッシモからフォルティッシモの差が大きかった。そもそもこの舞台神聖劇はクナッパーツブッシュなどの演奏を待つまでも無く、テムポを落としてじくじくと鳴らしていくのが抹香臭くて喜ばれるのであるが、前奏曲だけで完全に非パトスに成功していた。

ラトルであろうともネゼセガンであろうともここまで徹底している人は居ない。それどころかピエール・ブーレーズのバイロイトでの演奏が如何に中庸であるかに気が付くだろう。それ故にペトレンコの演奏に激しいブーイングが起きないのが分からない。詳しくは改めるとしても、如何にヴァークナー協会などに加盟している人の耳が節穴かというのを示している。私のような人間でさえラトルのその優しく豊かな響きが恋しくなるようなペトレンコのザッハリッヒな姿勢は、冬期の「指輪」上演で嫌と言うほど経験している。ペトレンコを評価する者としては、やはり歌芝居などで才能を浪費しないで欲しいと思う。なるほど電光石火の対応やパルス状の音出し、そしてきっちりと歌に寄り添う指揮は、恐らく歴史上嘗てなかったほどのオペラ指揮者である事は間違いないのだ。メモを見て確認しながら録音を聴くと書くことが限りなくありそうだ。
PARSIFAL: Trailer | Kirill Petrenko conducting

"Parsifal" bei den Münchner Opernfestspielen - KlickKlack - BR-KLASSIK


録音から気が付いたのは前奏曲でマイクロフォン回線でプチプチ音のようなものが入っていて少し残念だ。センターマイクは天井から吊るしてあって、いつもあんな高いところから収録しているのを知った。恐らく一番、声と管弦楽がバランスの取れる場所なのだろう。私の後ろで鳴った携帯の音などがどれほど入っているかもチェックしたい。兎に角、ここの劇場オペラライヴとしては最も迫力のある放送となっている。可成り放送局側の力が入っていたようだ。



参照:
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
論評できない異次元 2018-02-12 | マスメディア批評
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緑の原をミストリウムへ

2018-06-29 | 
ミュンヘン行の準備万端を整える。燃料は138セント弱で入れた。昨年からすると10セントほど高くなっているが仕方がない。その中で安く入れられてだけでよかった。こちらは快晴でどんどん気温が上がり摂氏30度に近づくようなのだが、午前中早く出て、アルプス地方で雨に合うと20度を下わまる。朝食のパンは購入したが、ピクニック用にはやはり握り飯を一合と果物などだろうか。帰りのこともあるので、昼飯を摂っても何かを準備しておかないと眠くなる。肉屋でサラミも買いたい。

涼しい日々から週末、週明けに掛けて真夏になるので先に汗を掻きたかった。森の中は時刻も遅くなったので、気温は20度前後ながら、とても苦しかった。空気が急に重くなった感じだ。前夜に窓を開けて就寝したので体が重くて早起きが叶わなかった。

途上のタブレットに楽譜とラトルのパルシファルを準備したが、もう一つラディオ中継の録音準備が済んでいない。アウダシティーのタイマーは問題ないと思うが、バイエルン放送協会のストーリーミングが上手く流れ続けるかは少し不安だ。もう一度テストしてみよう。もう一つはPCのセッティングで、僅か一年半ぐらいで1TB近い容量を消費している。七時間回して録音しても、7GBにしかならないが、Dディレクトリーは80GBしか残りが無いので要らぬものを消去して整備したい。どうせ年内には新しいPCを買わなければいけない。

承前)三幕はこれまた冒頭から対位法的な進行となって、どうしても交響楽団の演奏としてもう一つ上の精度を期待してしまう。このような書法はコンセルトヘボー管弦楽団などがお得意とするところではないか。これも合う合わないの問題でなくて、アンサムブル文化の相違だろう。そしてこの始まりは、「マイスタージンガー」三幕トリネコの音楽から遥々と辿り着いたという感が強く、クンドリーの呻き声で我に返る。山なりの音型が上に下へと漂い、まさに程よく浮揚して、ラトルに言わせれば巨鳥が海原を飛翔すると、ミステリウムの聖金曜日の音楽否その前に緑の原を行くことになる。緑の木曜日だ。この美しさと優しさは、このラトルの演奏で格別で、二幕の秀逸さに続くものだ。

三幕の前に登場すると激しい喝采を受けて客席の方へと身体を向けた指揮者だったが、喝采はシュテムメに向けられたものだったろう。しかしラトル自身もその出来には自信があったに違いない。聖金曜日での鐘の音響などもバーデンバーデンの神秘には至らないが、二幕とは異なりこの三幕では合唱が出て来る頃になると全ては台無しとなっている。その歌わせる場所の効果や音響や合唱の質など以外に、ヴィオラ陣などが折角のところで配慮の無い音で弾いており、如何にこの楽団はそうした音色に拘るだけの質に達していないことが知れる。これだけの楽団にしてはあまりにも不細工な音を奏でている。そこにまたスケルトンのパルシファルが何ら配慮も無いような歌を披露していて、決して演奏の水準を上げるようなことは無い。なにもカウフマンを待つまでも無く、もう少し上手に歌える人はいる筈だ ― バーデンバーデンでのシュテファン・グールドは流石に違った。要するにこの歌手にとってはトリスタンもジークフリートもパルシファルも変わらないらしい。確かに板の上での歌唱なので管弦楽にマスキングされないような配慮が働いているのだろうが、このような舞台神聖劇の音楽をそのように演奏するのが間違いなのだ。最後に再び六拍子の効果などもあり、とても上手な作りを聞かせる演奏なのだが、やはり「救済」へとは至らなかった。(終わり)

インタヴューではゲオルク・バゼリッツの話しが面白かった。彼は奥さんに同伴してオペラに出かけるがあまり熱心にはなれないと言う。それほどの音楽ファンで、音盤愛好家らしい。要するにクラシックオタクである。そして「パルシファル」は最初の前奏曲の12分で全て終わっているのに、どんどん続いて素晴らしいと言っている。これは中々示唆に富んでいる言葉で、どれほど分析的なものか直感的なものかは分らないが、中々いい。

更に所謂演出劇場の読み替えをあまり評価していなくて、今回も寧ろその緞帳などの幕を作ることで古典的な劇に戻すのが狙いのようだ。だからト書き通りにものが登場するらしい。最終的には演出家の腕だが、あまり邪魔になるような演出にはならないのだろう。さてどう解決するのか?



参照:
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
大蝦米とは何のこと? 2018-06-05 | 雑感
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期待に膨らむ初日

2018-06-28 | 文化一般
承前)「パルシファル」二幕である。バーデンバーデンでの公演と異なるのは主役のパルシファルがスケルトンが歌っていて、なんといってもクンドリーをニーナ・シュテムメが歌っていることだ。前者は思った以上にここで検討している。しかし何といってもシュテムメのクンドリ―には最初の叫びからして驚かされた。これだけでも勝てる者はいないと思った。自ら声を痛める可能性が高いがと話していた。最新のインタヴューによるとこの叫びは殆ど動物的であって、そもそもクンドリーが三幕では女であるというよりも人間になるという読み方をしている。そこでMeTooの話しに繋がって、それは男女問題であるよりもパワーハラスメントとして捉えていて、それでもこの歌手は今日的な女性像とこの神聖劇での奉仕のそのギャップを話していて、なるほどプロテスタント的な強い意志を持っている女性像が読み取れる。流石に声や技術だけでなく超一流の音楽家だとそこから分かる。そしてドイツ語を可成り身に着けているようだ。

バーデンバーデンでは思いがけずドノーゼが歌い熟していて皆を驚かせたのだが、これを聞くと世界が違った。シュテムメの歌はブリュンヒルデで聞いて、言葉の特に母音がスェーデン訛りの感じで抜けが悪く聞き難いと思ったが、その音域も合うのか若しくはコンサートで調子が良かったのが想定以上の歌唱を披露している。四時間を超えるコンサートを我慢していてもここだけでも聞ければ満足だったろう。ミュンヘンではそこにヨーナス・カウフマンが絡むと考えただけで、その公演がオペラ愛好家にとってはプラチナものであることは間違いない。正直こうしてその歌を聞いて想定外のそれに気が付いた。

そのカウフマンが、折からヴィーンツアーを一緒に行うラインプファルツ州立管弦楽団との稽古にルートヴィッヒスハーフェンに来ていて、そこにマンハイマーモルゲン新聞が訪ねて、インタヴューをしている。

キリル・ペトレンコとの共演は容易ですかそれとも難しい?

「それはハッキリ、とても要求されますよ、しかしそれはポジティヴな意味でね。彼のように異常に綿密に、正確無比に自身の想いを分っていて、稽古して、練習して止まないのは、更に細かい要求があるからで、同時にですね、演奏の時には嬉しくて、それを放つような指揮者はそんなにいませんよ。それは、本当に本当に素晴らしい。私もどこか完璧主義者なところがありますよ、そしてそのような指揮者もいますがね、直ぐに適当なところで満足してしまう。そうしたところに身を投げてしまうと、自身の向上というのは難しいです。そしてまた完璧主義者の指揮者らもいますが、稽古でそうで本番では殆ど凝り固まって失敗は許せずなんです。残念なのは本番では意欲を以って、そこからエネルギーが生じて霊感が働くのですが。長話になりましたが、端的に、キリル・ペトレンコは素晴らしい指揮者です。」

ベルリンでは管弦楽の方は最初の序奏でも舞台の上で弾くにしては粗く、なによりも指揮者がテムポだけを保持する一方、十分に呼吸が出来ていないために早いだけで我武者羅に音符を追うような塩梅になっている。ここがペトレンコとの大きな差であろう。ペトレンコが遅めのテムポで弾かせることは無いとしても遥かに風通しが良くなって、それなりに座付き管弦楽団が弾き込んで来ることとの差が大きい。

クリングゾールのニキティンは、バーデンバーデンでは高みで歌わされた分、ここではとても落ち着いた声質で素晴らしい歌声を披露していて聞き違えるほどだ。それにしてもこのデュオの部分の書法は楽匠が行き着いた頂点のような音楽で、まさかこれをして枯れた筆などと言う者はいまい。もう少しここは詳しく調べたい。圧巻であり、ラトル指揮のフィルハーモニカーの演奏も掛け替えない。動機の扱いも魔法の動機の派生のみならず、少し調べてみなけらば分からないものが重要な指示をしている。是非この二幕の演奏はDLして資料として手元に置いておきたい。(続く)



参照:
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
初物スカンポケーキ 2018-03-13 | 暦 
御奉仕が座右の銘の女 [ 女 ] / 2005-07-26
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既に遅しとならないように

2018-06-27 | 雑感
またまたコンサートのティケットを購入した。本当に行くのだろうか、大抵は日が重なってくると出掛ける時に後悔するのである。35ユーロ程度ものなので本当に行きたくなかったら捨てればよい。交通費の方が遥かに高い。批判の対象となっていた演奏をしている指揮者ハイティンクの演奏会だ。高齢で今のうちにと思う一人だ。昨年はより高齢でより元気なブロムシュテット指揮を二回聴いたので残るはこの人しかいない。キャリア的には同国人という事でアムステルダムのコンセルトヘボーの監督、そしてラトルらに大きな影響を与えたグライボーンでの監督などが主なところで、ブロムシュテットよりは少しは上なのかもしれない。引退したミヒャエル・ギーレンなどと皆同じ世代で、こうして挙げるとどこか共通項がある。

今月もアムステルダムで演奏会があったので検討したのだがあまりにも遠い割に見返りが少ないと思って断念していた。案の定二日目の拍手の時に倒れた。プログラムはマーラーの交響曲九番であった。奇しくも同じ週末にブロムシュテットが初めての九番を振っていた。こちらも既にその指揮を分かっているので断念した。ハイティンクの場合は、管弦楽がコンセルトヘボーだったことでマーラー全集を録音していて主要レパートリーとなっているが、ブルックナーの方が多く振っているのではないだろうか。両者ともマーラーを振るには少し役不足な感じがあって、今日求められるマーラーの音楽表現は期待できない。その点、ブルックナーでは、前世紀後半の特徴的な分厚い管弦楽の響きをテムポを守って振っていればそれで構わないだろう。ハイティンクの最近の評価はその流麗な響きなどが賞賛されているので、素晴らしい会場で聴ければいい。要するに欧州サウンド若しくは英スピーカーのタンノイサウンド派指揮者となるのだろうか。その為には音楽の細部も犠牲にする嫌いがあるのだが、少なくともブロムシュテットはそれなりに中々の配慮をしていて、ハイティンク指揮も生でこそ気が付くことがあるだろうか?コンセルトヘボーのような会場はなかなかないだろうが、音響もなによりもの関心事だ。

先日亡くなったツグッテンベルク追悼記事を改めて読んだ。この木曜日にラインガウでヴェルディのレクイエムを振る予定だった。七十二歳でまだ若かった。とても興味深かったのはその指揮ぶりのようで、それを観察すると普通の指揮者とは違っていたらしい。芸術至上の人だったようで、芸術の世界と世界の保護される環境との間で生きていた人のようだ。勿論財産がある人であるから特に驚くにはあたらない。その歴史的演奏を目していながら、その理想はアーノンクールなどではなくカール・リヒターのそれだったとして、実際にバッハの受難曲の演奏を礼拝に組み入れていたらしい。なるほどリヒターの真摯さ、そのもの故人の忘我の指揮ぶりとされるものと重なる。

ミュンヘンの「三部作」一日目の新たな券が放出されていた。被りつきで並び三つだった。これは先に出ていたら手を出していた可能性が高い。購入した二番目のクラスの舞台袖より手に入り易いかどうかは分からないが、もしこれを買っていたら投げる花輪を準備しなければならなかった。オペラの被りつきは歌手がお目当ての人には良いのだろうが、私たちのように管弦楽主体の人は舞台袖の方が興味深い。それでも価格が同じだったらこちらの方を選ぶだろう。正直袖は少し割高の印象を持っているからだが、試してみなければ皆目分からない。

秋の「マイスタージンガー」の券が届いた。これはバルコンなのでコンサートの時に後ろから観察していたので、こちらは間違いないと思う。まあ、「マイスタージンガー」ならば被りつきでもよかったのだが、「三部作」となるとバカ声も近くで聞かなければならないので不愉快だった。兎に角、ここ一二年の内に一通り試してみたいと思う。その後はその経験を参考に必要ならば都合のよい席を選択するだけだ。



参照:
再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
準備万端整え、いざ 2018-05-26 | 雑感
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危うく逆走運転手指揮

2018-06-26 | 
「パルシファル」一幕である。ラトル指揮のフィルハーモニーでの演奏に16カ所ほどチェックを入れた。間違い探しではなくて、注意箇所だ。三連符を入れた最初の四分四と六が組み合わされて、長いデュミニエンドがあって休止から繰り返されるが、そのあとの九拍子へと楽匠のとても動機的な扱いが精妙だ。ラトルの指揮は、引き摺るようなことが無く、とてもよいので、余計に初指揮のペトレンコのこの前奏曲の扱いを想像するだけでもゾクゾクする。リズム的にもとても面白いところであるからだ。その後の信仰の動機による「アウスデュルックフォル」の盛り上がりでコールアングレとヴィオラが並行するのだが、やはりこの楽団ではしっかり弾けていない。明らかに非力であるというよりもアンサムブルの方法の問題だろう。やはり楽器群ごとにゆっくりと管と合わせて弾かせる位の練習をしないと駄目だ ― ここが世界の頂点との差なのだろう。恐らくミュンヘンの座付き管弦楽団は今回綺麗に合わせて来ると思う。

幕が上がってゼーリックのグルネマンツの歌が始まるのだが、舞台の上では「Nun」とかの力む楽譜にはない音が気になって、これならば脱力のパーペならば今回もう少し上手く歌える可能性があるとも感じた。それはその後三連符やシンコペーションの表現にも関連していて、その歌の力み通りに進行してしまっているので、折角の創作の妙が目立たない。この舞台神聖劇を通してとても重要な点だと分かった。十八番にしているパーペとペトレンコの腕に期待したいところだ。

アンフォルタスのフィンレーは、やはりゼーリックとは反対に、言葉と言葉の繋がりをつまり音符と音符の繋がりを丁寧に制御していくだろうゲルハーハ―とは反対に、あまり決まらない。バーデンバーデンでのFAZ評は大分期待されていたが、やはりここでも全く十分ではない。同じようにオーボエのケリーが同じように滑ってしまっていて、先頃のマーラーといいここでも期待してしたほどではないのだ。そうしたシンコペーションをチェロが声に合わせるとしても、ミュンヘンの座付き管弦楽団ならさぞかし上手に合わせるだろうなと言うところが全く出来ていない。要するに奈落に入るとか板の上で演奏するとかの物理的な問題ではない技術の問題なのだ。勿論指揮者の責任でもある。

管楽器においても二拍目と三拍が結ばれて歌詞の律動に合わせられたりの創作自体が音楽劇場的な処理なのかもしれないが、まさしくそうした中声部の書法と演奏実践の感覚が座付きと呼ばれるものなのだろう。ゲヴァントハウスのそこがベルリンのそこよりも優れているとしたら関連があるかもしれない。グルネマンツの語りでは様々な動機が出て来るのだが、ラトル指揮ではあまりにも配慮されていないかのようにしか演奏されない。つまり楽譜で見ていてもただ不思議な楽想の動機となっていて、演奏自体が有機的な意味付けを持たなくなり、余計に演奏がぎくしゃくする。

アンフォルタスの「癒えぬ傷」のところでは、三連符でシンコペーション効果が出ているのだが、ここがまたリズム的にも難しく、一つの山なのでペトレンコ指揮でのゲルハーハ―の名唱が待たれるところだ。ここでは指揮が悪いようでとてもぎくしゃくとしている。

その後のミステリウムへと繋がると、その歩行のテムポから中庸にへとアクセルを踏み込んだりするのが極端で、その繋がりの難しさをどのように料理するかの聴き所なのだが、なぜかベルリンではバーデンバーデンで程うまく進んでいない。恐らくラトルのそのままのテムピではそのようになってしまったのが、バーデンバーデンでは劇場の制約で逆にあまり目立たなかったようだ。要するに楽匠の舞台の経験則でそのように書かれているという方が正しいのだろう。経験豊かなペトレンコなどの指揮では、舞台上でもしっかりと劇場のテムピを取れるに違いない。

まさにこの辺りは、反対ハンドルの外国で事故を起こさなかった運転手が ― つまり劇場で「事故」を起こさなかったコンサート指揮者が ―、自国に戻って来て逆走してしまったという話しにとても似ている。私はそこでの不自然なテムポ取りをそのように聞いた。(続く



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
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いざカウンター攻撃

2018-06-25 | ワールドカップ06・10・14
ドイツ対スェーデンの試合を観た。代わり番このARDの晩だった。嘗てのように男カタリーナヴィットことギュンター・ネッツの名解説も無くなったのだが、ZDFにはオリバー・カーンも出ていた。彼がカムバックしなければいけないようなディフェンスだと思った。兎に角、最初のお得意の密集総攻撃で得点出来なかったので駄目だと思ったが、最後には辛うじて首を繋いだ。それでもこのチームが優勝争いに食い込むなどとは誰も期待していない。毎回最初は全く盛り上がらないのがドイツであるが、いつも知らないうちに優勝争いに食い込むようになって、首相の訪問日程が検討されるようになると燃焼寸前だ。それでも今回のチームに限っては政治日程には絶対のぼらないだろう。

なによりも興味深かったのは、あのボアテンの反則だった。最終的には赤紙が出されて退場となったが、最初の反則が取られていたならば完全に負けていただろう。彼の名を聞くたびにAfDの「もしボアテンが隣人だったら」発言とその反響を思い出す。まさしく修正主義的なこの手のポピュリスト政党の常套文句で、皆が「そのような人種差別などは恥と考える」その裏側でなにか本音のような邪悪な感情に呼びかけるのがこ奴らの手段で、世界中変わらない。

勿論多くの人はそのようなスローガンに自問自答してみて、やはりそのような発言や手法は許せないと思い、実際に上の場合もボアテンに部屋を貸したいというオファーが沢山出された。この辺りは、所謂カウンターと呼ばれる運動に近い。そこで最も重要なのは、その手の連中を許さないことを示す活動で、政治活動として認めないもしくはピアニストのイゴール・ヨベットのように果敢にカウンター活動をすることだろうか。

兎に角、彼に任せるしかないチーム事情を考えると悲観的になってしまう。一体ああしたAfDの連中はこうした現実をどのように思っているのだろうか。こうしたナショナルチームのみならず、世界中の優秀な管弦楽団なども同じような塩梅で、それこそが現実で各々の人材を其々に活かすことにしか道は無いのである。

涼しい週末となって、寒冷前線で気温摂氏10度から20度ぐらいで気持ちが良い、というか眠くなる。走るのも気持ち良く、先日までの滝のような汗が嘘のように、軽く掻いた汗も気持ちよく乾く。来週は週末の30度へと再び上昇するようだ。初日が木曜日のミュンヘンはライフが予想されていて最高気温が20度以下のようだ。それならば十分に着込んでいても暑くは無いだろう。気温によってはディナージャケットも考えてみようか。よく考えるとオペルンフェストの初日は初めてだ。まあ、たとえ赤絨毯が引かれていても私は駐車場から入るので関係は無いのだが。

「パルシファル」一幕は一通り観て、感想もメモしておいた。週末中に二幕と三幕を片付けて仕舞いたい。流石にバーデンバーデンの初日の前からすると積み重ねが増えていて、結構いいところまで来ている。木曜日までに満足するほど把握出来るようになるだろうか、限が無いのは分かっているのだが。



参照:
身体の使い方や鍛え方 2014-02-22 | 雑感
スカンポンなカメルーン西瓜 2010-06-15 | ワールドカップ06・10・14
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「プロシア的」の情けなさ

2018-06-24 | 文化一般
週末は木曜日の初日へ向けての準備である。色々と調べた結果やはりベルリンのフィルハーモニーでの「パルシファル」を批判してしまわないとならないようだ。メトでの演奏は既に批判したので繰り返す必要もない。なるほど演奏会での演奏はバランスが悪いが、管弦楽演奏上の問題点はハッキリする。それほどラトルの指揮がこの曲には向いていると感じたからだ。

それに比較するまでもなくマーラーの六番はやはり駄目だった。そもそもマーラーにおけるテムポ変化などのアゴーギクの細かさは、ご本人の関心とは別にサイモン・ラトルのブルックナーほどには向かない。最終公演二日目のデジタルコンサートも観たが、ラトル指揮フィルハーモニカーの全てを曝け出した演奏だった。メスト指揮クリーヴランド管弦楽団との比較で、合奏が合うとか合わないとか上手いとか下手とかの問題ではなくて、音楽的に勝負にならなかった。後者があまりにも精細に演奏していてメストの演奏解釈があそこまで今日的なマーラー解釈になっているとは想定外のことだったが、そもそも譜読みの精度が大分違う。

ラトル指揮では複雑な個所になるとただ横に流すだけの演奏しか出来ていない。記憶からするとフィラデルフィア管弦楽団を振っていたMeTooのレヴァイン指揮などと同じでしっかりと各声部各音符の音化が出来ていない。多声的とその音楽構造とはまた違うのだ。恐らくラトルが客演でクリーヴランドをフィラデルフィアを振ってもそれほど変わらないと思う。つまり一つ一つの動機などの表情付けがそこではなされていなくて、選抜された箇所のみをプローベで表情づけしているという感じで、そもそもその精度が全く異なる。あの世代はあれで通っていたのだ。それがクリーヴランドの管弦楽団の特徴などではないことは過去のアーカイヴで流されるセル指揮のその楽団の音楽性を現在のそれと比較すれば分ることで、そもそも駄目なリズムとかだけではないところでの多声部での表情付けの細やかさはセル時代には求められていなかったものである。

マーラーの交響曲のような大編成でのその細やかな演奏は嘗て無かったもので、ベルリンでのそれを容易に切って捨てれない理由でもある。少なくとも、ヤナーチェック「女狐」でのその音楽的な実力差はベルリンの方が曲に慣れていなかったからのディスアドヴァンテージだと思っていたが、マーラーでは指揮者も含めてクリーヴランドにそれほどアドヴァンテージは無かっただろう。

二日目の映像を観ていて気が付いたのは当夜乗っていた半数ぐらいはラトル時代の最初から在籍していた人で、可成り年配も多くアバド時代の人が多そうだったことだ。コンツェルトマイスターのスタブラーヴァはクスマウル以降で最もソロを聞きたい人であるが、どうして、徹底できていないのだろう。その中の半分ぐらいは定年も近いようなのでペトレンコ時代にはどんどん変わっていくと思われるが、想定以上に悪かったのは管楽器で、半数ぐらいは変わらないと厳しいと思った。特に木管でこの人というのは限られていて、アメリカのそれと容易には比較したくはないのだが下手である。

駄目な人は直についていけなくなると思うが、そうした競争のシステムとはまた異なるところで「プロシアの管弦楽だ」とか豪語している楽員を見ると、矯正のしようがないと思った。宜しい、その秩序だった文化を指すならば、当然なのだが、そもそも英語でインタヴューに答えるソリストなんて採るぐらいならば、もう少し音質的にも「プロシア的」を徹底しろと言いたい。なにかフィルハーモニカーの「プロシア」と言うのは肯定的には受け取れない。要するに、芸術的なローカリズムや伝統とは違って、感覚的に田舎臭いだけなのである。

エルブフィルハーモニーのサイトを見ると一日経過しても、ペトレンコ指揮のユーゲント楽団だけでなく、ネゼ・セガン指揮ベルリナーフィルハーモニカーの券が残っていた。つまりそろそろ皆が押し寄せる状況が終わって、一段落して来てぼちぼち正常化だろうか。そもそも早々に売れ切れていた世界の管弦楽団シリーズはやくざな主催者のもので入場料金も高いが、ベルリンのそれは良心的な主催者で価格も微妙だった。最低席の15ユーロとか50ユーロとかはお得で、最高額も190ユーロだから、ハムブルクからならばベルリンへと行くのとの天秤が掛けられることになる。私個人からすればハムブルクはベルリンより近いが、フィラデルフィアでなくベルリンからの管弦楽団のために旅行するには遠過ぎる。そもそも録音で聞く限り、評判ほどに若しくはテルアヴィヴほどにはエルブフィルハーモニーは音響が良くないと感じている。恐らく音響修正が必要だろう。



参照:
叶わなかった十八番 2018-06-21 | 文化一般
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細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
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配券された初めてのもの

2018-06-23 | 生活
「マイスタージンガー」のティケットが早速配券された。「金に糸目は付けず」の力が伝わったのだろうか。但し日程は最後のものになったので他の都合をこれに合わせていくしかない。それほど期待している。

更にもう一つ買い求めた。第一希望はボストンシムフォニ―管弦楽団だったが、これは完売していた。そこで第二希望のペトレンコ指揮のユーゲント管弦楽団演奏会だ。前々日にルクセムブルクに行く心算だったが、先ずはこちらを確保した。既に問い合わせしていて断られたものだ。舞台の奥の席が10ユーロなので人にあげてもよいので購入しておいた。初めてのエルブフィルハーモニーである。行くのが大変だが、席を確保しておかないと他の計画も立てられないので、先ずは購入。

ペトレンコデビューの時はバーデンバーデンの「パルシファル」初日だったのでそもそも試さなかったが、購入は難しかったと思う。今回も窓口と別枠で発売したようだが、結構入るのが大変だった。いつものようにシステムのアルゴリズムを考えながらウェイティングルームに入ったが、番号は800番台だった。十五分ぐらい待っただろうか。先ずはボストン完売を受けて、何とか確保した。

舞台の奥に座った経験を考えると、大阪のシムフニーホールは珍しくて喜んで座ったが、記憶に残るのはロイヤルアルバートホールでのラトル指揮バーミンガム饗でのヘンツェの交響曲七番だったと思う。確かに前から見ていたのは覚えているが、それほど近くも無かったので、最後に作曲家と拍手しているのぐらいしか覚えていない。特殊な音響のそれは記憶にあるが、まあそれは構わない。ルクセムブルクでも被りつきにしようと思っていたが、ペトレンコの指揮を前から見れる機会とは思わなかった。

エルブフィルハーモニーでの初めてのショッピングだったので覚書としておこう。アルゴリズムや入り口の問題はどこのシステムでも共通している。ウェイティングシステムの開かせ方も若干異なるようだが、今もっともすっきりしていて公平なのはミュンヘンだと思う。その他は幾らかは癖があって、アルゴリズムを読まないといい番号が貰えない。まだ改良の余地がありそうだが、現在の需要過多の状況での目的からすると致し方ないだろう。

一度入れば30分ぐらい時間を貰えるようだが、最初だったので時間配分が分らなかった。向こうが選ぶ機能が見つからなかったのでいちいち座席表から探すと椅子取りゲーム状態になって中々取れないのはどこのシステムも同じで、最善の席からの配券でないと厳しい。それでも安全パイから確保していって決定したが、最初に焦ったのはログインで、なぜかパスワードの切り替えまでする必要が生じた。そうなると30分なんて殆ど消費してしまう。それでも何とかログインして、その後の決算でもエラーが出て電子メールで相談しろとまで出た。諦めずに証拠のショットだけ写して、繰り返すと何とかペイパル支払い準備まで行った。ここで再びエラーが二回ほど出たので、明らかにサーヴァーのパンク状態だった。ぺイパルに入ればこちらのものだった。それでも持ち時間を殆ど費やした。最後まで焦った。



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再びマイスタージンガー 2018-06-22 | 生活
決してCPで負けない 2018-05-09 | 試飲百景
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再びマイスタージンガー

2018-06-22 | 生活
我ながら嫌悪感に陥る、よくもこうもクラシックオタクのような事を毎日のように書いていられるかと思う。今年は例外としても毎年夏になると思考が鈍って、ボルダーリングのようなことを、森でマットに寝転んで空を見上げながら考えたり綴ったりしているのと変わらない。要するに暑さボケである。もう数週間もすれば夏も終わりだから仕方がない。

秋のオペラの券を発注した。九月末の記念週間の「マイスタージンガー」である。問い合わせまでに招待状も来なかったので仕方がない ― その間一通寄付願いが来ていて招待状かと思ったが違った。勿論寄付をしていれば招待された可能性が強い。寄付よりは安くつくので高額席を初めて発注した。招待日も入れて三日しか公演が無いので当たるかどうかは分からないが、注文を付けて発注した。その「マイスタージンガー」は2016年の初日シリーズ四日目に出掛けたが、立見席で音響的にも視覚的にも悪かったので、是非いい席で見納めておきたかったのである。その後のストリーミング放送も配役が悪く、ミュンヘンでのマクドナルド銃殺事件のために延長されてカウフマンは居なく、来年に再び撮影される事になっている。色々と条件が揃わないことが残念な公演となっている。

今回は記念公演で、通常公演枠乍ら配役が初日シリーズやフェストと同じぐらいに素晴らしい。カウフマンの代わりにフォークトが入り、ポーグナーもあのツェッペンフェルトの朗々とした歌声が楽しめる。そしてこの演出には最も重要なアイへのベックメッサーとなっている。なんと言ってもフォークトの風来坊にはカウフマン以上の当たり役が期待出来、コッホのザックスとの掛け合いも見もので、そこにアイへの小役人的な雰囲気が対するとなると、これまたハマる。また問題となっていたエーファもユリア・クライターという人が入っていて視覚的にも悪くはなさそうである。そこにツェッペンフェルト扮するBMWディーラーの親仁が存在感を放てば全く文句の付けようが無い。
Trailer DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG – Conductor: Kirill Petrenko

Video magazine DIE MEISTERSINGER VON NÜRNBERG – Conductor: Kirill Petrenko

Meistersinger München 08-10-2016 pt2 ending

Jonas Kaufmann & Julia Kleiter⭐Im Tonstudio/aus Korngolds 'Tote Stadt'


だから来年の公演よりもこちらの方がいいのだ。映像で細かなところを観ていると、音楽至上で舞台ぐらいはどうでもよいと思って、天井桟敷からだとやはり片手落ちになっていると気が付いた。よく出来た演出の場合はその音楽的な価値と舞台がしっかりとシンクロナイズされているからだ。

そして今回は価格も穏やかだ。これも高額券を所望した理由でもあるが、なによりももうこれだけの公演がペトレンコ指揮で行われる機会はそれ程無いので、この辺りで特上席で体験しておこうと思った。これまで二回も通った公演は無く*、今七月の「三部作」が初めてとなるが ― これの二日目の券が再び六枚出ていて、内二枚は最前列コンサートマスター前あたりでこれはよかった -、券が入手出来ればそれに続くこととなる。今後通える公演となると「パルシファル」とか、今後あり得る「トリスタン」とかの限られたものとなりそうなのである。それに比較すると「ルル」などは比較的良い席で体験していて、充分に聞いているので、それほど視覚的な効果も無くどちらでもよい。

ツ・グッテンべルクの訃報が出ていた。晩年は氏の楽団と方々の音楽祭に登場して活躍していた。今年も多くのスケデュールがあった筈だ。古楽楽器団体という事になっているが、実際に氏がその方にどれほどの見識があったかは知らない。それでも嘗てはミュンヘンのカール・リヒターの楽団を率いていた。驚いたのはFAZにおいても文化欄に追悼記事が出ていたことだ。この新聞は息子の元防衛大臣を次期首相として推していた。グッテンべルク家はドイツで一番古い家系の一つで、ニュルンベルクからも遠くないバイロイト郊外の十三世紀からのグッテベルク居城に、故人も住んでいた。そのような家系の跡継ぎとして、来週の「パルシファル」初日に臨席するバイエルン国王ヴィッテルスバッハ家の騎士に名を連ねていた。また大叔父さんはヒットラー暗殺計画の一人として有名で、父親も戦後はキリスト教社会同盟の創始者の家庭だった。死亡広告には息子さんの元大臣やその奥さんのビスマルク夫人などが長い名を連ねている。我々にとってはダイデスハイムのフォンブール醸造所のオーナーとして馴染みだった。

*実際には二月の「神々の黄昏」は二度目だった。



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社会的情念の暴力と公共 2016-06-01 | 音
寿限無 食う寝る処に住む処 2010-12-13 | 文化一般
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叶わなかった十八番

2018-06-21 | 文化一般
サイモン・ラトルのラストコンサート初日を聞いた。マーラーの第六は十八番にしている。昨年バーデンバーデンで聞いたが、その時の演奏よりは力が随分と入っていた。当然だろう。それでも先週末に再放送された楽友協会でのクリーヴランド管弦楽団の演奏とは残念ながら比較するような演奏ではなかった。なるほど昨年も生でも確認したが、二楽章のアダージョなどとても素晴らしい箇所が続出して、「演奏解釈」自体はとても立派であり、それが演奏実践として成果を上げている。

しかし演奏技術的な事に触れなくても、その細部における音化だけでなく、最強音での鳴りでもラトルのフィルハーモニカーの限界がはっきり出ていた。良くも悪くもラトル時代を代表する演奏だったが、いつになく力が入っていて、可成りリスキーなところで演奏していたのは最後だからでしかない。その全体のプログラムの解釈にしてももはや古風にしか聞こえないのがなによりも問題なのであって、それゆえのラトルの指揮であり管弦楽であったという事になる。寧ろ先日のブルックナーの九番の方が新鮮に聞こえるのである。結局生で聞いたベルリオーズの「ファウストの業罰」やブルックナー四番や「パルシファル」、そして放送では「グレの歌」やリゲティなどがベルリン時代の代表的な演奏だったと思う。バーミンガム時代はマーラーのクック版などの名演が記憶に残っているが、そうした出来はベルリンでは叶わなかった。
Bruckner: Symphony No. 9 (4-mvt version) / Rattle · Berliner Philharmoniker


恐らく、オーケストラトレーナーとしてバーミンガムでやれたようなことは出来る筈も無く、殆どなにも出来なかったのではなかろうか。アバドの時よりはアンサムブルは良くなったのだろうが、それ以上ではなかったという事になる。次期のキリル・ペトレンコが課題曲を出して幾ら練習させても、直ぐに完成する訳ではなく、徐々にメムバーの交代などが完了するまで数年はかかる筈だ。フィラデルフィアやクリーヴランドなどでは絶対聞けない音楽を奏でるようになるまでは時間が必要だ。

それにしても楽友協会でのクリーヴランド管弦楽団の録音はどれほど補助マイクを入れたのだろうか。あれだけ大掛かりな管弦楽団が細部まで綺麗に聞こえるのは合奏の腕だけではない筈だ。ヴィーナーフィルハーモニカーは話しにならないとしても、先日のブルックナーをベルリンのフィルハーモニカーが演奏した録音とは全然異なった。まさしく指揮者の世代も異なり、ラトル指揮の管弦楽と比べると今は昔の趣が強い。当時ラトル以上の適任者がいたかと考えても、もう少し若手では誰が居ただろうか?年代からするとサロネンやヤルヴィなどの世代なのかもしれないが、後者は無名で前者はより古臭くお話しにならなく、彼に相当するような人材がいなかったという事だ。ヴェルサー・メストにしてもここまで偉くなるとは誰も思っていなかった。ラトルが「ランチにカラヤンが呼びに来る」というのは、ブリテン作曲「ネジの回転」ではないがまさしく自身の中にあったカラヤンの影だったのだろう。二日目は、デジタルコンサートやハイレゾ放送などがあるようだ。まだしばらくはラストコンサートが話題になるのだろう。



参照:
運命の影に輝くブリキの兵隊 2017-04-11 | 文化一般
明るく昇っていく太陽 2017-04-11 | 文化一般
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これからの大きな期待

2018-06-20 | マスメディア批評
ネットの高速化が完了した。最高速度で51Mbps出ている。アップでも10Mbpsだから先ずはスタンダードな高速化は果たせた。何年ぶりのスピードアップだろうか。WLANの方も殆ど設置完了した。後は追々端末を組み入れていくだけだ。気のせいかルーターの伝送速度が速いのでキャスティングの音に実体感が増してきたように感じた。とても良い音がする。デジタル伝送のパケット化などでの有利性があるのだろうか?

時間が出来たので夕方早速デジタルコンサートホールに入った。一週間券を購入してから二月以上になるが、ネットの伝送速度が遅かったのでライヴはおろかオンデマンドでも最高速度では観れなかったからだ。そして先ずは来週までの参考資料として「パルシファル」のサイトを開いた。なぜか幕ごとに別れておらず、DLするのを断念して、一週間のうちに必要なだけ観ようと思った。それならばと4月のワンとペトレンコの協演のコンサートをDLした。そして、二つのインタヴューを含めて一通り観た。

とても良い出来だった。恐らく、昨年の「悲愴」のプログラムを含めて、ペトレンコ指揮のものでは秀逸だと思う。昨年の「名曲プログラム」もバーデンバーデンではよかったのだが、ベルリンではそこまでの出来ではなかった。なによりも今年は昨年のミスを招くような緊張感は無かった ― 指揮者の方は緊張していると語っている。そして前日初日ではワンも調子が悪く、演奏の精度もまだまだだった。

なによりもフランツ・シュミットの交響曲四番は圧巻だった。ヤルヴィ指揮のフランクフルトの演奏も前日のラディオ放送も知っていたが、弾きこめば弾きこむほど壮絶な演奏になる交響曲だとは気が付かなかった。特に二部の葬送行進曲はチャイコフスキーの悲愴やマーラーの六番と比べるまでも無く、若しくはベルクのヴァイオリン協奏曲など以上に直截でこれほど胸を打つ交響曲を知らない。七月に再演されるヤホの歌での「三部作」も同様、ペトレンコによって喚起され、長く忘れていたこうしたエモーショナルな音楽のあり方というのを再認識している。

ペトレンコ指揮の楽員への表情付けを待つまでも無く、フィルハーモニカーがこれほどセンシティヴに演奏するのを初めて見た。その後にバイロイトでヤルヴィの演奏をしているのでなるほどと思った。ペトレンコは短時間にラトル時代の硬直を一挙に解してしまっている。それほどオーソリティーがあるという事にほかならないだろう。そもそもこの曲はフィルハーモニカーへの課題練習曲でもあるのだ。

同様に二曲目のプロコフィエフでもまだまだやれるのは管弦楽団で、多くの批評でワンのピアノについての批判があったが、私は現時点で批判しようとは思わない。ワンのこの曲は完全に出来上がって仕舞っているからだ。これ以上、「棘とか何とか」勝手なことを書くが、二楽章のどの和音をどのようにという事だろうか?インタヴューで彼女は其れに関して予め語っていて、三楽章なんて簡単だとハッキリ言明している。批判するジャーナリストは具体的な例を挙げていない。
Prokofiev: Piano Concerto No. 3 / Petrenko · Wang · Berliner Philharmoniker


インタヴューをしているクラリネットのオッテンザムマーへのワンの返答が電光石火で、彼女の教育の高さを示している。それどころか「ハ長調だから簡単ってことは」とまで、ペトレンコの全体のプログラミングのカギについての議論にまで一言でコメントしていてその切れ味は鋭い ― 私と全く同じ言い方をしている。そしてペトレンコに関しては、「イスラエルで何回も協演したから、私のテムピを知っているから」とその主導権を言明していて、インタヴュアーは「我々管弦楽団がお邪魔するんだ」と突っ込んでいて、「その課題」を明白に言語化している。

これらのことは現場を少しでも分かる者ならば誰でも感じるのだが、どうも二流のジャーナリストと称する人種は、殆どシナ人ワンへの先入観念のようなもので音楽を聞いていて、なにもそこで行われていることに耳が開かれていない人が多いようだ。勿論その欠けるとされるものが本当に楽譜に書かれているのかどうかも確かめなければ批判とはならない。カーティスのような世界の頂点で揉まれてきたような人たちとその辺りのドイツの教育を受けた連中と比較するのが間違いかも知れないが、高尚な芸術を報じるならば少なくとも虚心坦懐に臨んで欲しいものだ。

一曲目のぺリを含めて、八月からの第二ラウンドが楽しみになるプログラムであり ― 「ラぺリ」にファンファーレの一曲が新たに加わる ―、ベートーヴェンプログラムの方が話題性はありながらもどれだけの成果を出せるかは分らないが、このシュミットの曲の絶対的な成功とプロコフィエフでの更なる精妙さはエポックメーキングなコンサートになると予想される。

インタヴューでペトレンコがフルトヴェングラーに言及しているのを初めて知った。こちらのインタヴューの方はそこが味噌だったが、ハルトマンとヒンデミットを挙げていて、それらは初演曲となるのだろうが、それらが核レパートリーとして顧みられていないことに言及すると同時に、フィルハーモニカーの本来の伝統という事について示唆している。これはここ暫く強調しているように管弦楽団で言えばカラヤン世代によって破壊されたドイツ音楽の伝統なのだが、先日のラディオ番組に聞かれたようにそこへの共通認識に欠けている現状がドイツにおける最も怪しいところなのである。兎に角、今回の映像を観て、来年以降は年間何週間かはベルリンで過ごすことになると確信した。



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解像度が高まると 2018-04-14 | 音
イスラエルからライヴ 2018-02-27 | 女
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そのものと見かけの緊張

2018-06-19 | 
マルリス・ペーターセンのハナはとても見ものだった。歌は音域として下が低過ぎると語っていたが、全く無理は感じさせなかった。上も精妙さで聞かせ、踊って芝居しての全てが揃っていた。ダニーロのサモイロフも立派でもう一つのペアーも申し分なかったが、主役が無くてはやはり成り立たない舞台だったと思う。新聞には、言葉がハッキリしない歌の中で彼女だけが留意をしていて、劇中劇構造の中でハナのドイツ語とマルリスのドイツ語を別けるなどの完璧さも指摘されていた。厳密にやればやるほど大変な事になるのだが、その微妙さがこの大ヒット作にそもそも隠されていたようだ ― 大ヒットするには中々分析不可能なものが隠されているとみるのは科学的だろう。

数か月後にニュルンベルクの音楽監督に就任するヨアナ・マルヴィッツの柔軟乍ら運動性の高い音楽には満足したが、その指揮技術以前に、今回のレハールの音楽をとても直截に聞かせてくれた。そもそも今回の演出の最初と最後は「ばらの騎士」のそれに相当するのだが、まさしくその響きは音楽的な複雑さではなくて、その時代の意匠をしっかりと羽織っていて ― プッチーニとはまたジャスカンデュプレとも共通する本歌取りの効果もあり ―、彼女が語るようにシムプル乍らとてもダイレクトでパワフルな効果が素晴らしかった ― 秋には「オネーギン」でミュンヘンデビューを果たす。

その一方、ミュンヘンへ通うともはや通常の座付き管弦楽団は我慢出来なくなる。なるほどマンハイムなどとは違って丁寧であるが、管楽器などは座付きでしかない。女流がオボーエを吹くと、その太っく鳴る、趣の無い音を奏でられ、ホルンも制御出来た音ではない。勿論田舎の劇場とは違って、外したりバラバラに鳴ったりはしないのだが、そこの音楽監督の腕の程度が分る。そのヴァイケル氏は日本で上から二番目の交響楽団の監督になるというが、オペラ指揮者に一体何を期待しているのかとも思う。二十年近く前に三島の作品を聞いた時にはもう少しヘンツェの音楽が綺麗に鳴っていたと思うのだが、こちらの要求が高くなっただけだろうか?少なくとも会場はミュンヘンの三分の一ぐらいの空間しかなく、その点では表現の幅も可成りありそうなのだが。

例えば「ヴィルヤの歌」のアテムポのところでもしっかりと言葉を置きながらの歌唱だったのだが、管弦楽団はそこまで音を落とせなかった。典型的な超一流との差で、音は大きくするよりも通る音を抑える方が管弦楽団にははるかに難しい。改めてミュンヘンの力を思い直させると同時に、オーボエの辞めた人などは丁度上で触れた女流のように強くブーブーと吹くことでオペラを支えていて、もし同じような音の出し方でコントラバスなどと合わせるとジンタになるのである。まさしくそれこそが繊細さに欠ける座付き管弦楽団の骨頂である ― そこからキリル・ペトレンコがやっていることの意味が分かる筈だ。やはりこの辺りの一流の歌手になると超一流の劇場で歌わなければ中々力を出し切れない。

当日のプログラムを読んでいると、シェーンベルクのレハールを絶賛する言葉とアドルノの「オペレッタのアラベスク」が度々引用されていて、まさしくこのレハールの巧妙でよく練られた音楽へと関心が集まる。レハールの家に行った時のこと思い出すが、あの室内の華美と瀟洒の混ぜ合わさったような独特の繊細は印象に残った。まさしく彼の音楽そのものである。それはドイツ語で言うところのSein, Scheinつまりそのものと見かけの緊張を並行して見ることの面白さで、そのもの劇場空間ではなかろうか。先日言及した開かれた作品としてのバーンスタインの作品の価値もそこにあるかもしれない。今回は特に劇中劇としたことで余計にその効果が高まった。キリル・ペトレンコも「微笑みの国」をベルリンで上演していてヴィデオも手元にあるが、あれなどは当地でのもっとも代表的な成果ではなかったのだろうか。
Das Land des Lächelns · Aria Sou Chong

Stephan Rügamer - Land des Lächelns

Liebe besiegt

Regie: Peter Konwitschny
Director: Kirill Petrenko

なるほどフランスでのオフェンバックの上演などのような薫り高いレヴュー感覚も悪くはないのかもしれないが、税金で上演される音楽劇場でオペレッタを上演して唸らせるのにはこうした上演形態しかないとさえ思わせた。
Franz Lehár: DIE LUSTIGE WITWE




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「彼女のためなら…」 2018-03-20 | 雑感
恥知らずの東京の連中 2018-05-18 | 文化一般
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ショックのUバーン体験

2018-06-18 | 歴史・時事
フランクフルトから早朝帰宅した。フランクフルトも久しぶりだが、更に地下鉄に乗るのも久しぶりだった。そしてカルチャーショックを受けた。同じような体験はミスタービーンではないが、嘗て初めてのロンドンの地下鉄のセントラルラインか何かに乗って、こんなに沢山の人種がいるのかと驚いたのだった。しかしフランクフルトのライン4は遥かに甚だしかった。

少なくともロンドンでは英国人が沢山乗っているのだが、ライン4は殆どドイツ人らしきを見ないか、その比率が異常に低く精々三割ぐらいとみた。アフリカやアジアの人種だけでなく、トルコ人やイタリア人や南欧の人だけでなく、EU内でも様々な顔を見た。金融関係の人も沢山住んでいるようで、言葉のインターナショナルも甚だしそうだ。それでもドイツ語が堪能そうな人も沢山いるようで荒れている感じはあまりなかった。旧欧州中央銀行の前が市立劇場という事もあるが、そのまま中央駅に抜けるので、丁度彼のセントラルラインに似ている。

人の雰囲気よりもかなわないなと思ったのは、地下鉄独特の焦げたようなすえたような匂いで殆ど息苦しくなった。普段あのような空気を吸っていないので余計にひどく感じるのだろう。あれでも毎日乗っていると慣れて、丁度BASFに勤めていたならば工場勤務でなくても知らぬうちに肺が侵されているようなものだ。街の活気と健康はそのもの反比例している。

我々郊外で生活している者からすると、なるほど仕事はあるのだろうが、ちっとも住みたいなとは思わせない不健康さである。車で走っているとその渋滞や町の喧噪で嫌になることはあっても、公共交通機関のごった煮の雰囲気は無く、アルテオパーのコンサートや美術館に出かけている限りは、今回のようなショックを受けることは無かった。少しインターナショナルな空港の街ぐらいにしか感じなかったのである。

やはり、ミュンヘンとは全然違うなと思うのも、ミュンヘンに慣れるとあれがドイツの代表的な大都市で、ベルリンは特殊で、それ以外はとぐらいにしか思っていなかった。やはりミュンヘンの方が一寸違うのかなと思った。

朝は朝で6時になる前から離陸する飛行機が相次いで大空に飛んで行くのが、静かな日曜日の早朝だけによく聞こえた。街の中でも飛行機の音がしているのも知らなかった。普段は騒がしいから気にならないのだろう。街の中で仕事をしてタウヌスの山の懷から通っている人も少なくないのだろうが、車の渋滞ぶりを考えるとウンザリする。

久しぶりに劇場の駐車場に車を入れたのだが、あれも入り口が分かり難い。余分に一周してしまった。マインの岸まで出なければ入れないのを忘れていた。丁度ロートシルト家屋敷の裏口ぐらいになるのだろうか。

出掛ける前にテレコムのサーヴィスの人が電話を掛けて来て、色々試してみた。先方ではやれることはやっていたようで、ルーターの調子がおかしい可能性もあるという事で、無駄な人件費を払わないで済むように、一度試してみることをアドヴァイスされた。二時間ほど順調に動いていたのでそのようなことはないと思って話していたが、念のために他所の家に持ち込んで試してみた。初めは上手く行かないので、これは故障の可能性が出てきたと思って、リセットしてみた。すると上手く行った。これで自宅で上手く行かなければ完全にテレコム側の問題だと確信した。そしてリセットをして試してみると上手く入れた。

その後調整に時間が最もかかったのは、クロームキャストであった。そもそもAudioの方はどのようにセットアップしたか記憶に全く無かったので、色々と試してみた。全く覚えていなかった初期化の方法は、横にある小さなスイッチを押すことだった。それも電源を入れて点滅してたりしたのを見て初めて気がついた。通常の映像キャストの方は昨年セットアップした記憶にあったのだが、購入して最初の時は初期化の必要が無かったので全く気が付かなかった。そもそもクロームに相当するサイトがなかなか見つかり難いのも具合が悪い。あまりPCで使うことなどは考えていなかったのだろう。

これで週明けからのラトル指揮のものも綺麗に観たり、デジタルコンサートホールをダウンロードするのに好都合な時期になった。「パルシファル」も資料にしたく、キリル・ペトレンコ指揮の四月の公演もこれで心置きなく観れる。



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木曜日は雪模様となるのか 2016-07-13 | 生活
祭り会場から一時避難 2018-06-17 | 暦
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祭り会場から一時避難

2018-06-17 | 
峠を攻めてきた。涼しい方だったが結構汗も掻いた。土曜日は肉屋も一時間早く店を開けているので助かる。兎に角早めに朝食をして、昼寝して軽く食べて出かけたいのだ。峠を走りながら、「メリーウィドー」のことも考えていた。折角、一時間も車を走らせるのだから、その間にイヤーフォンで先頃のヴィデオを聞いてやろうと思った。出かけるときはミニSDカードを外して出掛けるので、本体に必要な音源と楽譜を落としておかなければいけない。一寸手間が掛かるのだが、車に乗っている時の静寂性と有効利用が両立するのが嬉しい。

調べるとじっくりじっくりと券が売れていて、残りが六枚になっている。最後から二枚目の最高クラスの席はとても良いのだがなかなか売れなかった。こうなると完売も数時間以内の時間の問題ではなかろうか。最終日は完売している。金融の町フランクフルト市民でも135ユーロ、114ユーロとなると躊躇する人も少なくないのだろう。いろいろとみていると私のような器楽ファンだけでなくても、バルコンなどの方を好む人も少なくないのだろう。なにも特別な管弦楽演奏でなければピットの中を覗き込む必要はないのだが、劇場などによってはごもごもとした音になるとただでさえ長いオペラに清涼感が無く、退屈で暑苦しくなる。そもそも涼しげな声などは少ないのだ。

テレコムの契約改正でのグラスファイバーが未だに使えていない。先月末に設置は済んでいる筈なのだが、もう一つの番号移転を含めて、月初めになってもオンラインになっていないのを苦情した。24時間以内にオンラインにしないと契約違反なので返事をしてくるが、結局また10日ほど日が流れた。そこで苦情した。前の苦情処理はどうなっているかというと、ルーターが何とかで復旧していることになっている。また独テレコムお得意の誤魔化しである。その一方契約最初の請求書が出されて、訳の分からぬ賠償金が払い込まれている。金のことは後回しにして、先ずはいつまでに完全に使えるようになるか問い合わせているのだが、24時間以内の返答は来ていても、返答がない。そこで再び、前回の苦情処理が出来ていないことを苦情した。兎に角、月末から全くオンラインになっていないことを記録に残しておかないと、本当の意味での賠償を勝ち取れないからだ。

独テレコムで口座引き落としにしておくと謂われない金を引き落とされて閉口したことがあるので、一部は送金にしていたのだが、今回まとめて引き落としにした。また問題がこじれたら早期にに切り替えないといけなくなる。兎に角、小まめなことが出来る会社でないから、民営化しても株価も下がったまま上がらない。小株主で損害を受けたので余計に腹立たしい。民営化した企業はどこも駄目だ。



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残席から探るランラン状況 2018-06-16 | 雑感
祭りの喧噪もなんのその 2018-06-10 | 音

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