Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年06月

2007-06-30 | Weblog-Index



岩場で快適な晩を過ごす [ 暦 ] / 2007-06-29 TB0,COM2
解体への胸突き八丁 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-06-28 TB0,COM0
ヘリコプターの着地場所 [ 生活 ] / 2007-06-27 TB0,COM0
九時過ぎのワイン畑散策 [ 暦 ] / 2007-06-26 TB1,COM2
取違た偽物に身を任かす [ 女 ] / 2007-06-25 TB0,COM0
旬を心置きなく飲みたい [ ワイン ] / 2007-06-24 TB0,COM6
法に於ける信教の自由 [ 歴史・時事 ] / 2007-06-23 TB0,COM0
青い鳥が、飛び交うところ [ 女 ] / 2007-06-22 TB0,COM0
秩序破壊的実力行使 [ 生活 ] / 2007-06-21 TB0,COM0
同志を愛せ、君と等しく [ マスメディア批評 ] / 2007-06-20 TB0,COM0
茹でて剥いて栗のように [ 料理 ] / 2007-06-19 TB0,COM4
一緒に行こうか?ネーナ [ 女 ] / 2007-06-18 TB0,COM2
進化しないオェッツィー [ 雑感 ] / 2007-06-17 TB0,COM0
菩提樹の強い影に潜む [ 文学・思想 ] / 2007-06-16 TB0,COM3
ニコゴリの取り持つ絶妙 [ 料理 ] / 2007-06-15 TB0,COM3
民主是個好東西 可平 [ マスメディア批評 ] / 2007-06-14 TB0,COM0
夏バテ時のためのサラダ [ 料理 ] / 2007-06-13 TB1,COM10
克服すべき倫理と回答 [ 数学・自然科学 ] / 2007-06-12 TB0,COM0
最も古いドイツ語医薬書 [ 文化一般 ] / 2007-06-11 TB0,COM0
骨肉の争いの経験と記憶 [ 生活 ] / 2007-06-10 TB0,COM0
胃が痛むほどに追詰める [ 女 ] / 2007-06-09 TB0,COM0
制限域の自由な境界線 [ 暦 ] / 2007-06-08 TB1,COM0
石頭野郎にぶつけろ! [ 生活 ] / 2007-06-07 TB0,COM0
活き活き、力強く、先鋭に [ 雑感 ] / 2007-06-06 TB0,COM0
キラキラ注がれる水飛沫 [ 暦 ] / 2007-06-05 TB0,COM0
歯脆シュパーゲル食納め [ 料理 ] / 2007-06-04 TB0,COM2
自由民主の連邦共和制 [ 歴史・時事 ] / 2007-06-03 TB0,COM0
適切な国の責務とは? [ 歴史・時事 ] / 2007-06-02 TB0,COM0
投資家の手に落ちる報道 [ マスメディア批評 ] / 2007-06-01 TB0,COM0
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岩場で快適な晩を過ごす

2007-06-29 | 
昨晩は、九時三十分まで岩場にいた。午前中は雨が降ったりしていたが、午後は青空が雲の間に見えてきていた。午後五時に現地で待ち合わせて、二三分小雨が僅かばかりちらついたがなんとか気分の良い晩となった。

暑くも寒くも無い日が続いていて凌ぎ易い。少々運動しても、直射日光が無いので汗が出ないのが良い。

頂上に吹く風が肌寒いぐらいであった。山は雪だと言う。写真は、九時過ぎの空である。

数少ないチムニー登りの出来る岩場である。中には椅子や溝などが深く刻まれている。






十字架の立つ岩場の頂上。
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解体への胸突き八丁

2007-06-28 | アウトドーア・環境
BASF社長ハムブレヒトがシュピーゲル誌のインタヴューに答えて、ベルリン政府のエネルギー・環境政策を非難したことが、大きな波紋を呼んでいる。

それは、来週火曜日からのエネルギーサミットへの向けて、核エネルギー全廃と環境規制の二股をかけた政策をとるベルリン政府が、現場の工業会に耳を貸さないならば、ドイツは非工業化の道を歩むしかないと批判したらしい。

それに応えて、SPDのガブリエル環境相は、CDUの顧問であるこの大化学工業の社長を、スターリニズム経済者と厳しく糾弾した。ブッシュ大統領のごとき過去からのマネージャーの主張であり、莫大なビジネスチャンスを潰し、二十年先の国民経済を落しめすとした。米国の産業家のニュービジネスを求める態度とドイツのそれとの大きな差を指摘する。

しかし、これは客観的に考えれば、ルートヴィヒスハーフェンのような場所で、一世紀以上も古い、化石燃料と材料からの中間材への化学工業を営み、悪臭と膨大なエネルギーと労働力を発散させていることが、そもそも特殊事情である。幾ら高分子材関連の収益が上がろうが、そのドイツ国内のプラント共にいつまでやっていけるか疑わしい。

EU憲法制定への今回のポーランドの ご て 問題自体が、シュレーダー前首相が現在も関与するロシア・西欧間のエネルギーパイプラインをポーランドを態々避けて敷設する事から、ポーランドが危機感をもって挑んだ事情がある。その結果、なだめ役となった英国とフランスがポーランドにどのような保障をしたかは明かされていない。また民族主義的な盛り上がりや、また戦略的にイラク派兵や迎撃レーダー基地で米国カードを使うなどする政権運営は、旧共産圏の特徴のようでもある。

その問題にも、エネルギー消費者としてだけではなく、エネルギー供給グループとしてパイプラインプロジェクトの当事者として係わるBASF社長が、こうした発言をして政権に揺さぶりを掛けた意味は大きい。既に、環境大臣がCDUの政権では環境問題は、蔑ろにされて出る幕が無かったと、SPDの政策を強調したことから、メルケル連立政権の次へと目線は投げ掛けられる。

現実問題として、2020年への段階的な排出量削減は、こうした歴史的な重厚長大産業において、ますます胸突き八丁となることは目に見えていて、さらなるプラントの解体と新技術によるアジア地域への移転が加速されることには間違いない。少なくともSPDは、従来型の労働市場の解体を認める必要があるのではないか。

EUの環境政策とドイツのそれを同調させることすら容易ではないのが事実であろう。
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ヘリコプターの着地場所

2007-06-27 | 生活
近所にヘリコプターが着地することは数年おき毎にある。

一度は、役所前の小さな駐車場の広場に着地した。その後、そこには木が植えられて、着地は不可能となった。その当時は、電線の地下架設化を終えていなかったことから、着陸スペースが限られていたのだろう。急病人の搬送であったと思われる。

二度目は、既に役所前には木が植えられていたので、ワイン畑の中へと着陸した。ワイン畑には蔓を這わせる鉄柱などが至るところにあるので、今でもその着地場所の斜面を歩いても高度な地上からの誘導が必要であった事が知れる。子供が抱えられてハイデルベルクの大学病院方面へと運ばれていった。救急車ならば少なくとも30分ほどかかる道のりであるが、ヘリコプターなら10分ほどで専門緊急医療所への搬入が可能であったろう。

三度目が今回で、場所から見るにカトリック教会の前の野外プールの駐車スペースへと着陸したようだ。二度目の場合と同じように自動車クラブのクリストフ号ではないかと思われる。場所からすると、水泳中の事故か何かのようにも思えるが、高度な緊急医療は考え難い。

救急車以上に緊急性があるだろうから、気になるのである。
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九時過ぎのワイン畑散策

2007-06-26 | 
土曜日晩の九時に撮影した。日差しの強い日々が続き、ワイン祭りが開かれて、その後は雷鳴が強い雨を告知する日々が続いた。

久しぶりに晩の散歩をする。開花直後の風景以降、初めてワイン畑を散策する。

緑の粒は硬くも大きく育っている。しかし、雨降りのためか、指で強く押さえると比較的容易に破裂するものもある。さて、果皮のしっかりした葡萄になるのだろうか?

写真は、玄武岩土壌の地所ペッヒシュタインに垂れるバッサーマンヨルダン醸造所のリースリング葡萄。
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取違た偽物に身を任かす

2007-06-25 | 
「いいえ、手を禊ぐ、冷たくて清らかな水が、疎ましいのです」 ― 多和田葉子は答える。

樺太の丘陵にあるスターリン時代のコンクリートで出来た無骨なサウナ小屋の裏へと廻りこんで、案内のロシア人が湧き水のせせらぎへと誘った時である。そして、米国を訪ねる女流作家は、ニューヨークの14番街で会うロシア人の友人の前で、彼女の婚礼に参加できなかった米国の政治社会事情を言い訳として取り繕うのを疎ましく思う。

1979年ナホトカでの初めての入国のパスコントロールの記憶と、稚内の風景に、ニューヨークでのロシアンサウナでの状況までが入り乱れる。そこの古いサウナでのピューリタン的な秩序で執り行われる、濡れた樫の葉を振るう光景が、そして神道のお祓いに重なる。

十三のエッセイからなる新著「SPRACHPOLIZEI UND SPIELPOLYGLOTTE」の最も長い章「U.S.+R.S. 極東欧州のあるサウナ」で取り違えられるのは、それだけでなく次のような地名である。

稚内は、ワッカ(輪)がナイ(無い)となり、札幌がアイヌ文化の余勢を借りて、「さっぱり」や「うっかり」と響くように、これが「おっかない」と変容させられる。

同様な例は、パウル・ツェラン研究から、「Bettstatt」の文字から二つずつ並ぶTの文字が十字架へと引き継がれて、漢字の草冠を二つ以って同時に四つの十字架に見える「薔薇」へと引き継がれていく。「アーモンドを数えろ」では、またもや数える「bitter」なものに「苦」い二つの十字架を見つけてしまうのである。

そのような見違いは、アルファベットのOとアラビア数字の0との間にもあり、西欧から見て東にあり、極東からみて西に挟まれるインドのこの発明品は「無」となり、それは測ることの出来ない時間の「間」となる。近東を挟んだ西洋と東洋の対決は、軸をずらす事で尽く避けられる。

神田を散策する有名な文章に於ける「レモンの酸味に溶解する東京の日常」に、「風水」にあるような、見えない四面の壁を想起する。それを、「日本の住居」の章で語られる、選別された物が並べられる典型的なドイツの住居をショールームのようだと揶揄して、プライヴェートな空間と考える。そして、それを、過密な東京において、皮膚の延長にある仮想の個人的空間だと定義する。

ある学会で出会った宣教師が、「荒野」の意味を質問に自嘲ぎみに答えたとき、この作家は、「荒野無き救済は無い」、「他所者は救済されなければいけない」のだと、そして、「この姿勢の肯定的な面を一般にヒューマニズムと呼ぶのだ」と悟る。

その姿勢を、東西の二項対立の暴力として断罪して、それから逃れるために、だから目線の軸をロシア・シベリア、ニューヨークと移していくのだとする、一方では明治維新の「一神教の信仰の自由」への庶民の戸惑いを思い出させる。

そして、パラダイスはと聞かれると、些か疎ましい気がすると述懐する。なぜならば、「ユートピアが始まるところと、パラダイスの終わるところの間の生を狭く感じるからだ」として、そこに「無」と「間」を挿入する。

こうした様々な文脈を以って文化が語られるエッセイである。当初から、甚だ野暮で単刀直入な疑問として、「一体誰が、この綺麗に植物の意匠に装丁された、ドイツ語の書籍を手に取るのだろうか」、「日本語からの訳もしくはその発想からの記述であろうか」との声が聞かれた。同時に、朗読会を終えて、文章からは理解できなかったが、遥かに楽しめたとする反響も見た。

この内容を、文化のずれた視座から放つ光明とするかどうかは、また別な事象である。全編を貫く観念連合の輪や読ませる言葉遊びの面白さや取り違いの面白さが、この 未 知 の女流作家の作品に、如何ほどの威力を放たせるのかは皆目判らない。

その不明さは、自身が語る「自分の置かれている状況を判断したり、その条件を批判することが出来なかった。一体、何と比べよと言うのだ? パラダイスもユートピアも知らない。...私の無批判ぶりは、しばしば礼儀と思われたのである」に顕著に表れているだろうか。

ゲーテの「野ばら」の訳詩を挙げて、著者本人が記すように、日本の音楽教育の日本の伝統的でも、欧州の本物でもないものへの批判に賛意を示して尚且つ、「子供時分にこうした誤りの音楽教育を享けれて感謝している。なぜならば、それはポストモダーンにおいて重要なテーマである 偽 物 で、それに身を任せれたからだ」と告白している。



参照:
青い鳥が、飛び交うところ [ 女 ] / 2007-06-22
法に於ける信教の自由 [ 歴史・時事 ] / 2007-06-23
辺境のとても小さな人々 [ マスメディア批評 ] / 2007-04-11
絵に画いた牡丹餅 [ BLOG研究 ] / 2007-03-18
そのもののために輝く [ 生活 ] / 2006-11-13
An der Spree (PDF), "SPRACHPOLIZEI U. SPIELPOLYGLOTTE" Y.Tawada
SWR2 Buchkritik (DOC) von Lerke von Saalfeld
Die Pflanzenwelt der Buchstaben von Georg Patzer
Yoko Tawada (Konkursbuch)
観念連合 ―
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
引き出しに閉じる構造 [ 文学・思想 ] / 2007-01-11
帰郷のエピローグ [ 暦 ] / 2006-12-10
蜘蛛の巣と云う創造物 [ BLOG研究 ] / 2006-04-21
手触りのよい本 [ 文学・思想 ] / 2006-04-09
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旬を心置きなく飲みたい

2007-06-24 | ワイン
春に探して選んだ比較的単純なワインが今旬を迎えている。ドイツで最も評価された中規模醸造所ミュラーカトワールの新シリーズMC2リースリングと同じく家族経営のゲオルグ・モスバッハーのグーツリースリングである。

前者は、瓶詰め直後第一印象はその独特の味に抵抗があって、二回目の試飲になって初めて購入した。その後の印象は、変わらず良いが、旬がまだこれからと言う印象もある。桃系の豊かな風味と残糖の少ない本格的な辛口は、2006年のワインの中でなかなか男っぽいのである。しかし、開栓後二日目のバランスの崩れは致し方ない。7.6グラムの酸濃度が表に出ないので新鮮さが失せ易い。これは、2006年の酸の質によるところが多いのだろう。暫らくしてから再び集中して飲みたい。

後者は、第一印象は酸(8.5G)が勝っていてあまり良く無かったのだが、瓶の中で落ち着いて来るに従いバランスが良くなって来た。比較的高い残糖値(8.0G)で判るように、少々荒削りな酸と糖分が瑞々しい黄色系の果実風味の中に均衡していて、その糖分を隠して夏の日々にも清々しい。

試験者皆さんの感想をも参考にしながら、飲んで来たが、今が旬と見られる。土壌のミネラル質への想起を示唆頂いたので、それを確かめることが出来た。それは、上記の酸がいよいよ様々な化学結合状態を形成してきている様子で、その奥ゆかしさが今知れるところとなってきた。

早速、追加購入に行き、若旦那さんに、その辺の事情を伺った。思い通り、ダイデスハイムのヘアゴットザッカー産とニーダーキルヘンよりのノンネンシュテュックに続くレッテン産のものと情報を得た。そして、このヘアゴットザッカーは、自家が栽培する七箇所に渡る地所から、中間部のキャビネットやシュペートレーゼ用の区画とミネラル質の高い上部を除いた、下部の区画を意味する。

これで、そのミネラル質の味が、カルキに準拠するものである事が確認された。もちろん、玄武岩の影響を全く無視出来ないものであるが、何よりもヘアゴットザッカーの特徴としても良いのである。

個人的予想では、ここ一月ほどで、些か草臥れてくる可能性があるが、それまでは心置きなく飲みたいワインなのである。そして、今年の最も安くて旨いワインなのである。
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法に於ける信教の自由

2007-06-23 | 歴史・時事
個人の信教の自由は保障されなければいけない。しかし、その表現は制限されるべきだろう。集会の自由も保障されなければいけないが、キリスト教世界における法のあり方は必ずしも普遍性を持たないのかもしれない。

マインツ大司教レーマンは言う、「国の中立性は、各々の宗教の社会における影響に対してそれら宗教に目を向ける場合、反映しない一方的寛容や公正を以って、取り替えられるべきものではない」。

要するに、キリスト教は欧州の歴史であるのみならず正当な文化であり現在へと引き継がれているとする意見は、宗教と国の関係としての欧州文化のアイデンティティーを強化している。これは、イスラム教には法的に そ の 資 格 の 無 い ことを示している。

ケルンにドイツ最大級のモスクが建てられることから議論は沸騰した。大抵の者は、町中にコーランが流れるようなことでなければ、態々目くじらを立てて議論するほどのこともなかろうと思うだろう。しかし、見識者の見方は異なり、モスクの二つの25メートルにも及ぶと言う真ん中の丸屋根を挟む鋭塔からして ― プロテスタントの天を突く意志にも負けず ―、そこに現世の征服の意味を読み取って、宗教の問題だけでは無いと説く。

トルコ政府が示すEU加入やそれに纏わる昨今の動きと、この問題をあまり遠くない政治問題として、ドイツ問題であるトルコ人労働者の二世三世の移民同化の失敗と見るのである。モスク建築の度に議論されるのであるが、その都度欧州のIDが再び試されることとなる。

偶々、イスラムが男女の差別をして、豚肉を好むドイツ人を不浄とするから問題なのではないだろう。二千人も集まる大会堂は、モスリムの集会場となり様々な意味を持つ。既に建設予定の地域から移住した家庭もあるようだ。

それならばトルコ人がゲットーの中で暮らせば良い訳では無い。チューリッヒにはユダヤ人街があり現在も異様な風景を映すが、ドイツではモスクに集まるムスリムが西洋の法に反すると言えるのだろうか?ローマンカソリックは、女性を蔑視していないか?

若者たちは一見多くの者と同じく、宗教に無関係のように見えるがそれは誤りである。だからこそ、フランスで起きたような暴動騒ぎを防ぐためにも、少数者の宗教的な共同体が必要だとする意見すらあるのだ。

ドイツの大司教が発言するように、宗教は国の基礎となる世俗の各生活共同体の核であり、その新旧宗派もしくはユダヤ教毎に住み別けられているのが国であり欧州であるのだ。そして、その信教の自由は、全ての宗教に対してではなく、キリスト教とユダヤ教を意味するのは正しいだろう。

憲法裁判所長パピーアは、キリスト教は文化的に継承されて歴史的な価値観とあり方において、重きが置かれる形態であるとして、「憲法裁判所がこれを扱うと、その宗教に関する国の中立性は厳しい政教分離を意味するのではなく、囚われることのない信仰の自由の推奨への調整を意味するのだ」と定義する。

「憲法が求めていない、厳格な政教分離は法的に州毎にも可能だ」とするが、それは紛争解決の方法でしか無いとする。しかし、個人的に現在の教会税のあり方に必ずしも賛意を示せないとすると、こうした法的な議論は意味があるが、今後のEUを考える場合、厳しい政教分離が最大公約数となると思われるがどうだろう。

こうした特殊性は、上で説明された通りキリスト教にのみ当てはまるのであり、他の宗教ではそれが必ずしも一神教でも無くとも、近代の法精神と矛盾することは想像に足りる。



参照:文化に見合った法秩序 [ 文化一般 ] / 2007-07-06
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青い鳥が、飛び交うところ

2007-06-22 | 
ご近所に住む日本学の学生さんに、マンハイムで初めてお会いした。席上日本語で話しかけられて驚いたのだが、その自然な会話能力から僅か三ヶ月間福岡に住んだだけとは信じられなかったのである。

なるほどボンでも学んでいるので、良く勉強をしているには違いない。それにしても、以前ここでも登場した何人かの高校生の交換留学とは異なり、学術的な関心をも見据えながらの語学力なので、その才能を余計に思う。

反対に学問的に興味ある課題が見つからなければ、その語学的才能も宝の持ち腐れとなる。語学のみで生計をたてる者などは限られているからで、これは日本語だけではないが、その専門だけではキャリアーとはならない。つまり、なんらかの専門的な興味か課題を見つけ出さなければいけないのである。

さて、この頭脳も精神も活き活きとした女性が、なんらかの形で日本語の知識と能力を活かすのは、はたして「ちるちるみちるの青い鳥」の空なのだろうか?

こうした回りくどい書き方をするのも、先日、ベルリン在住の作家の多和田葉子さんの朗読会に参加して話を伺ったことで、感じたことがあるからだ。

そこでは、主催者により紹介に使われたシベリア鉄道を通っての入欧とハンブルクでの研修のプロフィールから、また「丸い月」の詩での始まり、「バウムクーヘン」のエッセイ、「日本の住居」のエッセイ、中国語の表記、「人身事故」の詩、「間と無」に繋がるエッセイ、「言語の警察」のエッセイで締めくくり、質疑応答となる運びの中で、浮かび上がる空間・時間がふわふわとした感覚を持った。

要するに当方の野暮な質問に ― FAZのインタヴューでの回答の朧な印象から ―、文化間の差異を、どのような固定した視点においても観察出来ないとする、境界領域の開いた文化感を示唆していたのである。

これは、表層的には嘗ては政治的に領域が閉じていたソヴィエト旅行の障壁が、今や米国に存在するとする地理的空間的な領域であり、時間的な経過がそこに恐らく主観的に関わってきているからでもある。

なかなかどうして、失礼を承知で評せば、新鮮な精神と表情を維持するこの女流芥川賞作家が、当夜示したその感覚こそが、まさに文化と言う領域のなかに存在していて、多文化や多極化の一言では到底収斂しない領域を理解させるのである。

つまり、上の不思議な感覚と言うのは、主観が空間的にも時間的に移動することで初めて得られる客観の一つでもあり得るのかもしれない。そして、その領域が閉じた境界によって定義がなされているときには、決して客観的な不思議感覚は生まれないということでもあるのだろう。

これが、以前に「根無し草的なさすらい人」と批判した、閉じた境界を右へ左へと写像を移動させる感覚とは大きく異なるのは明白なのである。

日本での研修にて、それを研究としたいとするご近所の彼女にとって、どのような形でその開かれた境界を探すことが出来るかの問題であるようだ。

多和田葉子のエッセイについては改めて記したい。



参照:
取違た偽物に身を任かす [ 女 ] / 2007-06-25
活字文化の東方見聞録 [ マスメディア批評 ] / 2006-05-12
菩提樹の強い影に潜む [ 文学・思想 ] / 2007-06-16
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秩序破壊的実力行使

2007-06-21 | 生活
ここ数日内にラジオで聞いたニュースから二題。

一つは先週金曜日夜のスパイヤーで起こった射殺事件である。市内を時速百五十キロで走行する車を、巡回中のパトカーが静止しようと追いかけ、援護のパトカーと衝突。パトカーによって挟み込むが、体当たりさせながら、さらに逃走するのを、タイヤを銃撃するがそれでも止まらず、フロントグラスを狙い撃ちする。運転者の19歳の若者は、上半身に玉を受けて翌朝死亡する。

同乗者の女子を含むティーンエイジャーもろとも逮捕される。警察当局によると、犯人は札付きの犯罪者で、薬物と暴力行為の常習者と知られていたそうである。

欧州には、死刑の罰則は無いが、実力行使によって、不法行為を防いだ事件である。

もう一つは、ハイデルベルクのネッカーブリュッケ横の発掘場所から、4メートル以上のジュピターの柱が見つかったことである。ジュピター像は、ここでも紹介したように現物もカールスルーヘに存在するが、これほど立派で状態の良いものはないと言われる。

興味深いのは、二世紀の終りの物の発掘と言われるが、何を目的として破壊されたかである。初期キリスト教による、多神教への否定・破壊行為と考えれるが、ラーデンブルクでみたようにゲルマン人の野蛮行為と決めつけられる場合も多いのだろうか?
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同志を愛せ、君と等しく

2007-06-20 | マスメディア批評
ここ暫らくの連邦共和国内政における政治的動きを忘備録としておく。

左派党は、その党員数からSPD(ドイツ社会民主党)、CDU(キリスト教民主同盟)に続いて連邦共和国の第三党となった。既に書きとめた左派党のブレーメンでの初の西ドイツ議会進出の成果が大きい。その後、社会民主党の方針が発表されて、ベック党首を先頭に左派イデオロギー路線が明確になっている。生産的と非生産的を対照させる論理にこれが顕著に現れている。

もともと、グローバリズム批判の矛先がネオリベラリズムへと向っていて、特にヘッジフォンドを代表とする実体のない経済や金融経済の不安は避ける事の出来ない政治課題であることから、社会主義経済運営の必要性が問われている。

社会民主党の前首相シュレーダーの天敵ラフォンテーヌが、元PDSのビスキーと共に、西ドイツのWASGと合弁された左派党の党首に就任したことから、経済運営への政府の関与と方針の明確さが要求されるようになっている。

ラフォンテーヌは、ケインズ経済主義者と呼ばれるように、労働組合の要求達成と公共サーヴィスの充実を以って、つまり計画経済をもってマルクスやエンゲルスの指摘した過剰生産の問題を解決しようとする。

「皆が幸福になろうと思うものは、自らも幸福と感じなければいけない」と前PDS民主社会主義党首ギジーが語るような政策なのであるが、ラフォンテーヌは、「同志を愛せ、君自身と等しく」と語るように、さらにマルクス・レーニン主義に傾いている。

この元ザール州首相は、ブッシュ大統領とブレアー首相をテロリストと呼ぶように、その発言や政治姿勢は益々過激化しており、外国人労働者に対する問題発言なども記憶に新しい。

暴力無き革命を標榜しても、ドイツ民主共和国が否定されたように、段階的社会主義への道は、西側出身者の元社会民主党党首によって、より制度・理論先行型の政治となっている。

今後、その古巣SPDとの間でフランスの左派を手本とするような理論闘争がデジャヴの如く現れて、キリスト教民主同盟が適正にネオリベラリズムに介入する具体的政策を採るだけで、選挙民の支持を掻っ攫うことが出来るようになるのだろう。

ラフォンテーヌの言う「社会主義を通した自由」は、丸山真男が戦前の「自由民権運動」の言葉の英文化への困難性をさして言及する、消極的自由「...からの自由」であって積極的自由「...への自由」でないことが判る。つまり、自由への運動の欠損と制度としての権利が翼賛体制を準備することを示している。それは、進歩的なヴァイマール憲法の「財産権への留保」が呼んだナチズムの共同体思想への流れであり、その言動と共にもっともこれに近い思想を左派党の党首は示している。

余談であるが、反グロバリズムの議会外運動ATTACなどは、そのイデオロギーから左派党は近いのであるが、ラフォンテーヌの言う「自由」はこの運動に矛盾するものであることも事実である。

なによりもこうした政治状況を齎したのは、ネオリベラリズムの悪用に相違なく、その新自由主義の真価を改めて査定する必要が新聞等で既に唱えられている。



参照:
「何を、どう、翻訳したか」 ― 「翻訳と日本の近代」、丸山真男、加藤周一
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茹でて剥いて栗のように

2007-06-19 | 料理
アーティチョークを茹でる。ピザの上に載っているものなどを食することは多くても、殆ど瓶詰めのものを食しているだけであろう。

生もレストランで食していてもそれほど印象にない、生を自ら茹でて食するのははじめてである。

料理法を参照しながら、塩茹でにしてそこに白ワインを加える。予め皮を何枚か剥いておいたので、三十分で充分であった。茹で揚がりの皮が皿に広がるとなかなか美しい。





敢えて先の色が変わったようなものを茹でたが、その見てくれとは大違いに、茹で揚がりの香りが緑茶のようでなかなか良いのである。青臭くない。



さて、皮が剥けると繊維状の部分が出て来るがこれを取り去ると栗状の本命へと辿り着く。竹の子のようでもあり、栗のようでもある。

何れにせよ楽しめる部分はわずかばかりしかない。レモンを絞る。
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一緒に行こうか?ネーナ

2007-06-18 | 
現存するドイツ人女性ではメルケル首相に続いて最も有名なのは誰だろう?

元なんとかガールの人か、モデルのクラウディア・シーファーか、ポップロック歌手ネーナだろうか?どうも時代が違うかもしれない。

何れにせよこのネーナが、ハンブルクに学校を作ると聞いた。教育は州の管轄なので、最もリベラルなハンブルクでこそ可能になったと言う。既に48人の新学期生が登録しており、他の地方から家庭毎引越してやって来るものも多いと言われる。

規制の無い自由な教育をモットーに、学年無しの10年生の小学校である。グループで自らカリキュラムを決めていくのは何も珍しいことはないらしいが、四人の子持の47歳の彼女のファンである同年輩の親御さんの支持が強いのであろう。

因みにハンブルクには64の私立学校と402の公立学校があると言うから驚きである。

自主と言えば、拘束で、これは相反する。

さてコンセプトを読むと嬉しくなるのは、学校は開いているが、9時とか10時とかやってこれば良く、お昼を挟んで16時までが授業である。授業料は年間150ユーロも易い。

ハンブルクの教育条例は、「何人も自らの能力や適正に合った教育を、本人の可能性に従って受ける権利と義務を有する」とある。



参照:
有名人2006VIDEO
Nena - 99 Luftballons
Nena - 99 Luftballons TV Hits des Jahres 1983
Nena - 99 Luftballons (99 Red Balloons) LIVE!!!
Nena - 99 Luftballons (Live in Dortmund 1983)
Nena - 99 Luftballons ZDF Hitparade 1983
Nena live - 99 Luftballons Rock Pop in Concert 1983
Nena live - LeuchtturmRock Pop in Concert 1983
Nena live - Sattelitenstadt Rock Pop in Concert 1983
Nena live - Ich lieb Dich Rock Pop in Concert 1983
Nena live - Nur geträumt Rock Pop in Concert 1983
Nena - Nur geträumt live Quartier Latin 1982
Nena - Irgendwie, Irgendwo, Irgenwann (Live @ Hitparade '84)
Nena - Irgendwie, irgendwo, irgendwann - Thommys Popshow 1984
Nena - 99 Luftballons (60 Jahre NRW, Germany, 23.08.2006)
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進化しないオェッツィー

2007-06-17 | 雑感
5300歳のオェッツィーことアイスマンの死因が確定したようだ。チューリッヒ大学の解剖学のリューリ教授が、現地ボルツァーノの中央病院のCTを使ってメスを入れずに解明した。

ジーメンスの機械やマンハイムのエンゲルホルン博物館やベルリン・ツーセ研究所の協力を持って 司 法 解 剖 が行なわれたらしい。その結果、左肩鎖骨の近くの動脈(ARTERIA SUBCLAVIA)の背中の壁の13ミリに及ぶ損傷によって、大量出血からの心臓停止によるショック死とされる。凶器とされる矢先は、既に胸部から見つかっている。現在の医学でも生存の可能性が高くない致命傷で、矢が抜かれたことで周りの胸腔に大きな血腫が見られると言う。

犯人は、その傷の形状から、下から射ったか、跪いて射ったとなるらしいが、現地の地形からして、イタリア側への逃げるオェッツィーを谷から追いかけてきて、やったのだろう。

そして、矢先を残して、矢を抜いている状況から幾つかの状況が推測されている。つまり、自らが抜いたのか、友人が助けようとして抜いたのか、犯人が自らの身元を隠すために抜いたのかなどなどである。肩甲骨が打ち抜けれる力が加わったことも特記されている。

手には大きな怪我をしており、死体の近くに、矢の筒と銅製の斧が在ったことも重要だろうか?

「詳しくは、遺体の発見状態を改めて吟味して、その死へ至った状況を説明したい」と教授は語る。興味あるのは、胃につまっている食料のみならず、肺に見られる木の花粉であり、当日下の谷の森で食事後に登り詰めて来たとされる状況である。

そして、何よりも発見現場の印象から、死の直後にどのように保存される状態へと至ったかであり、この羊の皮と草の羽織を着たオェッツィーが、殺害後に持ち物ともども割れ目に押し込まれたのか、雪崩が起こったのか、あの緩やかな稜線付近の薄い氷河に埋まっていたのが不思議でたまらない。

プロジェクトグループは、進化論的考察から、病気の進化を突き止めたいとしている。

写真は、地形的に死体遺棄現場と思われる周辺と稜線に建つ記念碑と現代のオェッツィーらしき人物。

参照:
オェツィーと現代の人々 
[ アウトドーア・環境 ] / 2005-08-20
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菩提樹の強い影に潜む

2007-06-16 | 文学・思想
菩提樹が、門の前の水場の横に立っている。珍しい風景である。この風景で始まるのが、ヴィルヘルム・ミュラー作の「菩提樹」が含まれる「冬の旅」と称する連作詩集の一つである。それは、シューベルトの歌曲として最も有名な芸術歌曲であり、それ以上に最も有名なドイツの歌の一つかもしれない。

この詩の情景への疑問から、ネットで検索すると、この詩人が故郷のデッサウからヴォルムスへと何度も通ったことから、その途上で創作されたと知る。そして、この珍しい三点セットの配置からその途上にあり、滞在中にこの詩集の創作を始めたと言われる町バードゾーデン・アレンドルフの光景が紹介されている。

ドイツ文学愛好家やシューベルト愛好家にはなにも目新しいことではないかも知れないが、現実のこうした風景が現れたことに戸惑う向きもあるのではないかと思う。なぜならば、こうしたドイツロマンティックの世界こそが、象徴を見出す対象だからである。

そして、今の季節がら、何が「冬の旅」だと訝しく思った私のような読者も多いだろう。それは、また、その菩提樹の 陰 翳 豊 か な 木陰に微睡む一時の情景なのである。

トーマス・マンは、これを個人的にだれの琴線に触れるものとして味わえるとしている。「魔の山」の終りへと向う章「美しい響き」のなかで、永遠のサナトリウム逗留になにやら迫り来る時の経過を感じる日々に、主人公の若者が電蓄に耳を傾け、それに浸かる風景が語られる。

そこで演奏される様々な曲の演奏録音の中で、この曲がレコードコンサートの最後をいつも飾るのであった。他のフランスのグノーのオペラなどもこの仮想コンサートとして次なる章の霊媒会のもとで再び扱われるが、この「菩提樹」こそは主人公の青年が最後に第一次世界大戦の戦場の砲弾飛び交うぬかるみの中で口ずさむ曲なのである。

そして、ここで作家は予言者めいた口調で、この傷つき易い崩壊しそうな青年の精神の営みを語っている:

それを自問してみましょう。ある精神的な対象、つまり意味ある対象は、それ自身が一般的な心情の発露であり表現であることを示すからこそ、意味を持つのです。それは、その対象に大なり小なり申し分のない象徴 ― これに従って、それの意味の値を割り当てるのですが ― を見出した認識や感性の世界の表現でもあります。さらに、こうした対象への愛着そのものの意味でもあるのです。愛着とは、愛を護る対象を乗り越えて、その対象と彼方の普遍、あの世、― これをその対象が代理していて、その対象のなかに、意識下にせよ無意識下にせよもろとも愛着を抱かせる ― への関係性をはっきりと示すことです。

この作家の術を労した手の込んだ表現であるが、俗に言われる「死への憧れ」を、余すことなく表現している。そして、主人公が予感する、禁じられた愛の、背後に潜む世界とは何だったのか?との質問に回答を与える「死」は、美しい歌となり民族感情の深く神聖的なものから生み出されていると定義している。

まさに、こうしてドイツロマンティックの真髄の「値」に迫る表現こそが、そのパロディーに潜むこの大作の世界においても、愛着ともなっているのが素晴らしい。



参照:
冬の旅 (作雨作晴
冬の旅 菩提樹 (和留那須比のホームページ
セイヨウボダイジュ(西洋菩提樹)(植物園へようこそ! 群馬大)
影に潜む複製芸術のオーラ [ 文学・思想 ] / 2005-03-23
街の半影を彷徨して [ アウトドーア・環境 ] / 2005-12-11
火曜の夜の乱痴気 [ 暦 ] / 2007-02-21
暖冬の末に灯火親しむ [ アウトドーア・環境 ] / 2007-02-18
でも、それ折らないでよ [ 文学・思想 ] / 2007-01-26
野蛮で偉大な時の浪費 [ 歴史・時事 ] / 2006-12-06
已むを得ないお買物 [ 文学・思想 ] / 2006-11-19
八月の雪のカオス [ その他アルコール ] / 2006-08-22
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