Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2018年2月

2018-02-28 | Weblog-Index


凍てついたのは身体 2018-02-28 | アウトドーア・環境
イスラエルからライヴ 2018-02-27 | 女
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女
旅先でよく働きそう 2018-02-25 | 生活
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般
Accept 華為 or 羽佳!? 2018-02-23 | 雑感
所轄の警察に出向く 2018-02-22 | 生活
蛇足を画策したのは誰 2018-02-21 | マスメディア批評
eMMCを完全初期化 2018-02-20 | テクニック
バーデンバーデンへの想い 2018-02-19 | 文化一般
舞台祝典とはこれ如何に 2018-02-18 | 音
零下7.5度の寒さを超えた 2018-02-17 | アウトドーア・環境
バラの月曜日の想い 2018-02-16 | 暦
ミュンヘンのアラキー 2018-02-15 | 女
細部から明らかになる 2018-02-14 | 音
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
論評できない異次元 2018-02-12 | マスメディア批評
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音
パラレルワールドの構造 2018-02-10 | 音
ARD真夜中の音楽会 2018-02-09 | 音
尽きそうな節電の可能性 2018-02-08 | 生活
腰が張る今日この頃 2018-02-07 | 文化一般
ごついのはこれからじゃ 2018-02-06 | 文化一般
ジークフリートの鞴 2018-02-05 | 音
「舞台祝祭劇」の疲れ 2018-02-04 | 生活
生という運動の環境 2018-02-03 | アウトドーア・環境
雪渋滞に備えよう 2018-02-02 | 生活
素人に分らない世界 2018-02-01 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

凍てついたのは身体

2018-02-28 | アウトドーア・環境
シュヴァルツヴァルトの滝を見てきた。ここ数日日中も零下で、1000メートルほどの山ノ上は零下13度とか15度とかまで下がっていたからだ。ワイン街道でも昨週末の雪が残っているのを見ても期待が出来た。朝用事が入って出遅れたが、陽が昇っても融けることは無いと9時に出発した。車を走らせると直ぐに外気温計に目が行く。またもや零下7.5度が出たかと思うと1.5度なってそれが繰り返される。ドイツ車の宿命で車両がしっかりしていてもどんどんと刃が毀れるように電装系が壊れていく。センサーが壊れている訳ではなく、その入力を読み取るところの不良と思っていたが、表示と共に久方ぶりに零下の温度を表示するようになった。液晶のそれはある程度時間が経つと元に戻るのは分かっているが、温度の計測のその意味はどうしてか分からない。外気温系だけを修理させるほどでもなく、その代用はなかなかない。古い車を乗り続ける限界を感じながら車を走らせて、アルザスを超えてバーデンバーデンからアウトバーンに乗るとしっかりと零下三度ぐらいが表示されていた。それが正しいことは変化を見ていて確信した。少し気持ちが上向く。

自宅から滝のあるところまでは200㎞も無く、二時間少しで駐車スペースまで到着する。最終的には私道に入って停めさせてもらうのだが、道が分かり難い。そもそも滝の下からアプローチすると更に遠く、道も崖っぷちを走っていくことになるので天候に左右される。今回も無理をして出かけたのは寒さの峠はまだであるが、しばらくすると降雪が予想されていて、そうなると積りに積もるので難しいと思った。スキー場と違って誰も必要以上に除雪しない。山道も完全に乾いていて、最後の町の前から凍り付いていたが雪が路上にはない。予定通り11時過ぎには駐車スペースを見つけて、着替える。

何と外気温計は零下13度を指していた。まるでアルプスのようだ。それでも陽射しが燦々と照って風さえなければそれほど寒くはない。雪面に反射する陽射しはスキーで入る山間のようである。前回ミュンヘンに宿泊する節に不凍液を混ぜておおいたので数時間は大丈夫だろう。山道に入ると凍り付いていたので場所があるうちにシュタイクアイゼンを付ける。このような厳しい条件では先々に解決しておかないと間に合わない。さて凍結具合が楽しみだ。数年前のあの巨大な氷柱を登れるか。難易度では最上位から一つ下である。オーヴァーハングの手前の程度である。

滝に近づくと激しく水が落ちる音がした。これはと考えると、上部のダムの水が完全に凍っていなくて並々とあったことに気が付いた。この冬は異常に降雨量が多いのでどんなに温度が下がってもなかなか凍結していないのである。完璧な状態ではないと観念した。実際に下まで降りると、水飛沫が酷く、氷柱もまだまだの状態であった。これだけの水量は初めてで、肝心の場所をザイルで降りると酷い水飛沫で濡れた。下部を試して登るとそこら中から水が入ってきた。靴の中まで水が入ってきたのでこれは駄目だと思った。雪の中で首まで浸水したことはあるが、零下13度で水シャワーは厳しく、結果が怖いので、降りてきた。降りてくるといってもザイルが完全の凍り付ていて、全く容易ではなく、その間にも容赦なく水飛沫が降り注ぐ。

降りて下から見ると、ザイルの掛け方が悪かったのが分かった。馬の背のようになっている角は登り切れないがその側面ならばあまり水気が掛からない。ザイルを掛け直してもう一度調べてみると。馬の背の角に近づくほど浮いているので、アイスバイルを振ると抜けた音しかしない。側面もまだまだ氷を形成していて、表面が小さな氷柱の集まりになっていてバイルの効きが不確かである。要するに難しいだけど崩壊の危機が高い。そうこうしていると横で大きな崩落があった。温度はそれほど上がらなくても水の勢いでも崩落するようだ。

今回は数年前のような大氷柱を登るのは厳しかった。ザイルの掛け方も大体分かったので、次の機会に生かしたい。いつも登っている側面も雪が付いていないためか結構部ブッシュなどが出ていてそれ程綺麗な氷結になっていなかった。半分だけはノーザイルで試してみたが上で落ちる危険まで冒して無理をすることは無いと思った。一本指の縦爪のシュタイクアイゼンとモンスターの威力は抜群なのを再度確認した。もう一つ右手用にいいバイルを調達すれば可成り登れる自信が出来てきたので、お開きにした。

ヘルメットだけでなく眼鏡のグラスも何もかもが凍り付いていた。帰路を登るときに手の指先が痛み出した。つまりそれまでは凍り付いて感覚が無かったのだろう。あまり長く凍らしておくと凍傷になる。指先が普通に使えていたので気にしていなかったが、やはりあれだけ濡れて凍ると怖い。陽射しの心地よさに騙されていた。



参照:
高めるべきは経験値 2012-02-14 | アウトドーア・環境
なにはともあれ氷柱を登る 2013-01-20 | アウトドーア・環境
利き腕の氷瀑モンスター 2012-02-09 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イスラエルからライヴ

2018-02-27 | 
YouTubeLiveを観た。イスラエルフィルの中継で、10分前からオンしていたが、始まるのもミュンヘンの劇場並みに遅かった。テルアヴィヴはいつもあのような時計なのだろう、お客さんの動きが遅かった。そして携帯電話の警告アナウンスがあって、やっと始まる。キリル・ペトレンコが指揮台に上がろうかとするとき画像が止まって、これは駄目かと思った。その時に画像が一段落とされたようでその後は完璧に流れた。流石にYouTubeである。どのような契約になっているのかは知らないが、これならばどこの楽団も出せる筈だ。カメラワークも定まらなかったりしたが、徐々に落ち着いてきた。

細かなことは録音録画を再生してからにしたいが、お目当ての王は想定以上に良かった。チッラッと見たゲルギーエフ指揮でのミュンヘンでの中継でもただ単に叩くだけのピアノの印象があったがなかなか柔らかい感じでとても良いピアノである。才能も然ることながら可成り幼少期から立派な教育を受けたピアニズムだと感じた。北京にいたのではなせなかったのは明らかだ。
יוג'ה ואנג-פסנתר.ההדרן השני שניגנה יוג'ה ואנג,בסיום נגינתה בלווי התזמורת הפילהרמונית הישראלית בי'ם.


流石に七回も本番を経ているだけ指揮者との間合いも良く、オーケストラさえもう一つ上のクラスならばさらにスリリングな演奏が可能なのを確信した。4月にベルリンからの中継があるのでとても楽しみだ。ラぺリも初めて聞いたが、イスラエルフィル乍ら今までの指揮者では到底不可能な音楽を奏でていて、次元が違う。その分、「ペトルーシュカ」でも明らかに上手く行かないところが頻出するが、同時に期待していたような譜読みがなされていて、ベルリンでの指揮が待ち遠しくなる。だから下手な演奏と同じぐらいにとても素晴らしい曲に初めて触れるような美しい場面も目白押しで、これも期待以上だった。

王がピアノを受け持つようになっていたのだが、プロコフィエフの三番のあとで大きく息をついていたように、到底無理だと思った。その分アンコールを二曲弾いていたが、他所のホールでは「ペトルーシュカ」のピアノ版を弾いていたようである。繰り返すが、プロコフィエフの越後獅子は楽譜を見てみないと分からないが、きっとああいう風に書かれているのだろう、そして夏に再びザルツブルクからルツェルンへと回って来て同じ曲を演奏する時どんなにかスリリングな演奏になるだろうかと想像するだけで興奮してしまう。

それにしても、イスラエルでも楽員がペトレンコの表情を見て喜んでいたが、なるほどミュンヘンの奏者が語るように音楽の表情で指揮されているのが映像からよくわかる。ある時から出来る限り奏者に分かり易いように表情をつけるようになったとかインタヴューで話していたが、なるほどと思う。兎に角、ペトレンコが指揮することでインターナショナルな比較が容易になる。イスラエルフィルもヴィーナーフィルハーモニカーも国際基準での批判に曝されることにもなる。それはベルリナーフィルハーモニカーでも変わらない。

メルキュレ2015年を開けた。前日にステーキに合わせたのであるが、翌日もそれほど変わらなかった。どうしても御多分に漏れず色目も薄目でシュアロネーズの土壌の浅さのようなものを感じる。2015年産でなければこれで十分満足したと思うが、この辺り年ならばブエルゴーニュワインでなくてもドイツのシュペートブルグンダーでの同価格で更の複雑でチャーミングなものがありそうだからである。若干のタンニン風のそれも渋みに感じるだけで、要するに夾雑味感があるということになってしまう。



参照:
Accept 華為 or 羽佳!? 2018-02-23 | 雑感
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蝶々さんのMorningCall

2018-02-26 | 
目が覚めて小用に立った。ベット脇のタブレットのインジケートラムプが青く光っている。特別のアプリが点けっぱなしになっていたかなとか思ったが、テュイッターだと気が付いた。ベットに戻ってみると、ヤホ女史が先日出したものをリテュイートして呉れていた。今までの様子から気が付いてハートマーク位はとも思っていたが、メトからのWDRでの中継のお知らせで、既に誰かが出しているだろうとも考えていたので引用までは考えていなかった。

こうしたやり方はコミュニケーションテクニック上もとても効果のあるやり方なのだが、マネージャーがやる以上に、ご本人の歌姫としての生甲斐として、自分の歌の影響に人一倍関心を持っているという執着を感じさせる。新派か藤山寛美かは知らないが、兎に角「トスカ」ではないが「泣かせるのために生き」の感がある。そしてこうした中継があると普段は出せないほどの声を出すことも12月の「アンジェリカ」でもその二回の中継と一回の実演で経験済みである。そうしたとても合理的な精神が無いことには、あのような役を歌い演じあげることなど尋常には不可能だ。

特に今回はメトロポリタンからの「蝶々さん」ということで、エルモネーラ・ヤホはどうも2010年の飛び入りした日本公演では途中放棄もあったようであまり評判が良くないために、余計に反応にも関心があるかもしれない。「椿姫」を「大物」歌手に代わったということでそもそもリリックな声の小柄な彼女にはその前提がとても厳しかったのに違いない。プッチーニがやはり十八番なのだろう。そしてプッチーニの芸術を考えると彼女のアプロ―チが一つの解決策であるということも間違いないのである。そもそも冷やかし気味にメトロポリタンからの放送を聞いてみようと思ったのだが、こうなると真面目に聞かなくてはいけないような気持になってきた。

先日のライプチッヒでの就任演奏会の評が新聞に出ている。結論からすると私が放送の音声上の問題かどうか結論を出せなかったことを断定している。つまり、彼の得意とする音響母体の腸をつかみ出して、そのコントラバスからの下の下から積み合されてその上に管楽器が乗る楽団の伝統的特産を引き出す一方、彼の掃く新しい箒はあまりにも細く、メンデルスゾーンの力強く生き生きとした面を犠牲にした嫌いがあると指摘している。まさしくラディオで聞いた通りである。更に、前任者のシャイーが最初から演説をぶって、最後にはあのような終わり方になったことを考えると同じようにはならないだろうとしている。良かれ悪しかれ、それほど大きな期待をしても仕方ないネルソンズ時代となることは既に述べた通りだ。それでも町中にNELSONSと赤色で書かれたプラカードが目を引くようで、協力関係が揺るぎないものになれば積極的にアンサムブルに係ってくるかもしれないが、本人の言う様に二年ぐらい様子を見てということだろう。

カーネギーホールからの中継を調べていたら先日ヴィーナーフィルハーモニカーが演奏したものがオンデマンドで残っていた。少し聞いて、ベネゼイラ出身の指揮者の程度が知れた。もともとアインザッツのしっかりしない座付き管弦楽団だが、それがブラームスを言い加減に弾くものだから場末のサーカスのジンタのようになってボロボロである。あのような演奏をさせてぬけぬけとしているような指揮者は少なくともまともな市場では全く相手にされない。二流どころか三流指揮者である。初めてまともに聞いたが、話題性だけで名前が知れたようだが、我々の耳を汚すような音楽はあまり聞こえないところでやって欲しい。あれではヴィーナーフィルハーモニカ―はドサ周りの楽団にますます成り下がっていくだろう。だから前楽団長が解任された訳だ。伝統の恥さらし、極まる。

こうした中継の録音などが、嘗ての完成された制作録音など以上に、SNSを使った双方向のインターアクティヴなコミュニケーションを使って、会場での所謂ライヴとはまた違う方法でとても重要な表現方法になってきたことは否定できない。そうした新たな可能性は、たとえどんなに進歩史観が否定されようが事実であり、逆戻り出来ない歴史なのである。それぐらいのことは一流芸術家ならば皆百も承知なのである。



参照:
ヤホに表現の可能性を 2017-12-20 | マスメディア批評
天才も実践から学ぶ 2017-12-28 | 音
旅先でよく働きそう 2018-02-25 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅先でよく働きそう

2018-02-25 | 生活
新しいタブレットMediaPadM3を使いだした。使い勝手は慣れないので分からない。今まで出来ていたことでまだ出来ていないのは日本のRADIKOを再生することだ。これはどうもあまりにGPS機能が良過ぎて日本国外であることがばれてしまうようだ。その他はルート化もしていないのでよく分からない。ルート化のタイミングを考える前に、様子を見ている。

防御ガラスは比較的うまく貼れたと思うが完璧ではない。最初の合わせの時から穴の位置がどうもうまく合わなかった。それでも空気溜まりが出来るような埃も無く ― カメラのポコポコで吹いた、一か所だけ細い毛屑があるようにも思うが気が付かない程度で、縁が少し傾き加減にずれている位である。誰も気が付かないが、ガラスだけに指紋がとても付く。それ以上に気になるのはスリガラスではない反射で、欠点として書いてあった感じ以上に思う。今までのものがフィルムを張っていたこととの差が大きいのだろう。

その反面画像は期待したほどではないが、それに見合うだけの映像などを映すことの方が大変である。それでもWiFi通信能力が高いのかNASからの画像もストレスが少なくなっている。但しマルティタスクとなるとやはり動きは遅くなる。その価格290ユーロの価値をどう見るかだが、もう少し使い込んでみないと何とも言えない。

皆が絶賛する音響は以前のものもDOLBYシステムを使っていたので高音の伸びは悪くなかったが、なるほど今回の物は机の上で鳴らすとそれなりに大管弦楽団もそれらしく聞こえる。旅先の代用としては無いよりはましである。しかし本当に興味があったのはヘッドフォーンからの音で、これは誰も触れていなかったが結構感動させる。要するに高級モニターヘッドフォンを使ってもある程度の聞き分けが出来る程度である。試しにキャストで流してみると中々であり、もう少しアプリケーションを厳選してみたい。少なくともノイズキャンセリング程度のヘッドフォンでは全く問題が無いと思う。Iフォンとかポッドが使い物になるのが漸く分かった。

あとは使い勝手なのだが、二つのスイッチの位置が、寝ながら構えていると指が触れてしまう右の上の位置になって、構え方を考えてしまう。現在はケースに入れて使っているので、出すと軽くなって違うのかもしれないので分からない。これも購入したケースとグラスとの関係でもあり、可成り重くなって、以前のヨガとそれほど変わらない。但し本体が薄いのでバランス感覚は悪くはないのだが、まだ手に馴染みにくい。

光量の調整などももう少し簡単に出来るように整備しなければいけない。もう一つ違うのは、キーボードを使ってオフィースファイルを使うときで、これは以前購入したリノヴォのためのブルーテュースのキーボードでもとても仕事がし易くなった。理由は分からないのだが、それだけ能力が上がっているのは間違いなさそうである。旅先でちょこちょこと書き物をするぐらいには全く問題が無さそうだ。

要するに旅行用のコムピューターとしての機能は可成りあると思う。総合的にメディアパッドという名前以上の使い易さがあり、自宅でよりも外出先で使いたいという感じである。充電は付属のケーブルでもそれほど遅くはない。寧ろ光量を上げていると落ち方は早そうで、この辺りの使い方はいろいろと試してみなければいけないだろう。

アンドリス・ネルソンズのインタヴューが新聞に出ていた。就任した名門管弦楽団の特徴や強みに触れて、ブルックナーの三番のアレマンド主題を歌って見せながら、バッハからロマン派のそれがそのまま表現として生きていると、ヴィヴラートを掛けたpppで、祈りとしての演奏になるのだと、他の管弦楽団では押さえ過ぎるという。その多層な響きは干渉を伴ったレントゲンで骨から筋肉が見るようなもので、そこにとても感じやすい繊細なニュアンスがあり、フランス風とは違うドイツのそれだとしている。これはライプチッヒでしか経験したことが無いものとする。ドイツ風の響きというものが全く異なって定義されていて、それを知りたければライプチッヒを訪れろと言う ― 「強く、直線的」なステレオタイプのドイツ風響きへの批判はドイツへも向けられているのであるが、それ以上にこういう瀟洒な美的感覚は日本などでもなかなか聞き取れていないものだろう。

これは昨年ブロムシュテットで経験したもので、嘗てマズーア時代に日本で言われていた「いぶし銀」だけではなかなか分からなかったものを流石に上手く表現している。同時に前日に書いた批判に関する管弦楽団との進む方向に関しては、その通り何かを変えるつもりは無く名前を挙げて、三代の先輩を継承するだけであるとしていて、自らを良く知っている人らしい発言である。

子供の教育などがこれからの中心となるので一時半少しの飛行距離にあるリガの自宅との間を通うとしていていて、二年以内ぐらいに引っ越しを考えるとしている。その背後状況も放送で聞いた通りの指揮に全て表れていた。その一方で、市内での対話や教会での演奏も盛んにしたいと、またウルフ・シルマー劇場音楽監督の重なるレパートリーと計画を尊重してその中でオペラも振ってみたいと話す。「トスカ」を挙げているのは奥さんの登場ということに違いない。

こうやって話を聞くと、この人のセンスもライフスタイルもよく分かり、バイロイトから帰ってしまうようなナイーヴさもよく分かる。ヴァークナーやシュトラウスも振りたければ、後任のユロウスキーがそれほど「決まる」とは思えないので、ミュンヘンへも客演もあるのではなかろうか。要するにポストが定まっていても客演以上のことはそれほどしない人のようでもある。



参照:
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名門管弦楽団の演奏会

2018-02-24 | 文化一般
ポストに案内が入っていた。ベルリンからかバーデンバーデンからかは分からない連名によるものだ。初めてである。要するに来る復活祭のプログラムが入ったご案内で、例年よりも売れ行きが悪いのかもしれない。昨年のプッチーニ「トスカ」後遺症があるのかもしれないが、そもそも後継者ペトレンコ指揮のコンサートの様に完売はなかなかしなかった筈だ。それでも今年はフィッシャー指揮とハーディング指揮などなかなか売れそうにないコンサートが二度もある。一昨年はより知名度の無いホーニック指揮でも結構売れていたのは「悲愴」だったからだろうか?最終的には市内で配るのだろうが、気になるところである。興味深いのはこうやってフィルハーモニカーの便箋でツェッチマンの名前と連名で、恐らくデジタルコンサートの名簿を使って案内を出すことで、これはより両者の一層の協調関係を示唆するようで、ペトレンコ体制へと一気に進めて貰いたい。

ライプチッヒからの中継を聞いた。バイエルンからは「利口な女狐」もあったようだが、そこの放送交響楽団がクリーヴランドのような程度で演奏出来るとは思わなかったのでどちらでも良かった。しかし21代目カペルマイスター就任演奏会には食指が向いた。一つは昨年生を聞いて「聞き直した」名門管弦楽団が様々な曲でどのような演奏をするか。もう一つはボストンと掛け持ちの真面に聞いたことのないアンドリス・ネルソンズ指揮の演奏を聞いてみたかったからだ。

昨年はブロムシュテット指揮でなるほど欧州でベルリンのフィルハーモニカーと並び称されていた意味は理解したが、今回は委嘱作品もあり、得意と言われる古典からロマン派までの音楽以外でどれほどの演奏が出来るかが知りたかった。一曲目のヴァンデルング好きの作曲家シュライヤーマッハーの曲は、その名の通り紗幕が掛けているような音響で放送技術的な問題かとも思ったが ― どうも会場のメインマイクロフォンの響きもそうなのだが放送のサラウンド放送のミキシングの悪影響がステレオサウンドに出ているような不満だ ―、少なくとも指揮は左右の手で振り分けているような流石に業界の評価が高い指揮者らしきは確認できた。BGMとして流していただけだが、その後のベルクの協奏曲が悪かった。これならばミュンヘンの座付きがペトレンコ指揮で演奏すれば遥かに素晴らしい演奏が出来ると思った。

なるほどボストンの交響楽団を率いての日本公演でもあまり評判が良くなかったように、就任演奏会で何も出来ていないのには呆れた。恐らく器用貧乏の指揮者で、大陸間の掛け持ちなどの時間的な制約よりも落ち着いてしっかり仕事の出来る指揮者でないのだろう。若干アスペルガー気味の才能なのだろうと思った。それでも楽員には評判が良く、ソロパートなどが表情をつけるとそれに合わせて振ってくれるというのである。それにはミュンヘンの座付きの楽員たちもころりと惚れ込んだようで、様々な次期監督候補者模擬試験で登場したヨロウスキ―やジョルダンなどとは一頭抜きんでて評判が良かったようである。

しかしアンサムブルの質やその方向性については導くような指導力が無いようで、シャイ―が残した成果に匹敵するものは残せる人ではないだろう。そういう音楽作りであるからオペラ劇場では成功する可能性があるのだが、恐らく指揮者としては超一流からは遠いと思う。やはりアルバン・ベルクの書法などを考えると、読み間違いとまでは言わないが、そこまでの深読みの出来るような能力の指揮者でないのだろう。一流の才能があって恐らく現在の業界で指折りの中に入っているような人だけにとても残念なことである。これではこの名門管弦楽団の素晴らしいのコンサートのプログラムに出かけるというようなことはなさそうだ。ボストン然りである。この指揮者には小澤征爾のような才能は見られない。そしてここ一番であの押さえつけたようなメンデルスゾーン演奏は一体なによ、これならば快活さが無いようなユロウスキー指揮の方が遥かに飛翔があるではないか。

「ペトルーシュカ」を昨年のラトル指揮の実況で聞いた。日本でも演奏したらしく、そちらの方が名演だったと囁かれていたが、なるほどそこまでは更っていなかったかもしれない。しかし関心ごとはその解釈と演奏実践である。ネットで落とした楽譜には二種類あったが、片方はとても悪いもので全く音楽が出てこないもので、想像するにストラヴィンスキーの書法を従来の西欧風に分かり易くしたものかもしれない。楽譜の版もあるらしいが、印象としては指揮者のお得意のストラヴィンスキーをソリスツの名妓を引き出しながらの計算された演奏実践のようだ ― 因みに私はラトルが青年時代にユース管弦楽団を振ったお宝「春の祭典」LPまで保持しているファンである。なるほど楽譜から音楽が広がるのだが、ここここは違うのではないかという疑問が幾つも見つかった。

主に弱拍での音楽の流れやアクセントの付け方なのだが、もっと端的に言うと後任者のペトレンコならば絶対流さないというところが頻出する。まさしくそこにストラヴィンスキーの音楽があると確信する。そのあたりはブーレーズは逆に上手く誤魔化して早いテムポでサクサクと進めるのだが、少なくとも誤らないような配慮が行き届いている。打楽器奏者出身のラトルが音楽を計算通りに作っているのは間違いないのだが、欠落しているものがあるのではないかと思った。日曜日のイスラエルのフィルハーモニカーが立派な演奏をするなどとは期待していないが、少なくとも何が欠落しているかを分からせて呉れるだろうと楽しみにしている。そのピアノを弾く王はとても重要なことを学ぶだろうと思う。



参照:
Accept 華為 or 羽佳!? 2018-02-23 | 雑感
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Accept 華為 or 羽佳!? 

2018-02-23 | 雑感
前日に発注したタブレットが届いた。想定外の迅速さだったからトラッキングも注意していなかった。小さな会社だから直ぐに対応するのだろう。加点要素だ。さて外箱を持つと思ったよりも軽い、開けてみると白いしっかりした内箱が入っていた。立派な箱で中華製の安物の中共の印象が無い。更に封印がしっかり張ってあって、破れていたら受け取るなと書いてある。まさしく中華文化とは正反対なものだ。恐らくこの会社の企画者の中には海外の特に欧州などで学んで長く住んでいた人たちが中心になっているのだと思う。ある意味ソニーや日本ブランドなどよりも西欧風である。

そして内箱を開けてみるとまたその大きさのタブレットがきっちりと入っていて驚く。隙間なくしっかり入っている。もうここまでである種のブランドイメージが出来上がる。そして包んであるビニール以外は全て再生紙のようだ。これでフェアートレードが打ち出せるなら鬼に金棒である。しかしそこが結局中共の社会構造の問題となるのだ。

しかし正直日本製の過剰包装などよりもこの機能性感が好ましい。ビニールに包んであるが、そのままにして、付属品だけを確認する。なぜならば最初の予定通り開封と同時に安全シートを張り付けるつもりだからだ。同時に発注したアマゾン配達の方が遅れて、明日にしか配達にならないからお預けである。

付属のミニUSBケーブルを確認すると、アマゾンのオリジナルよりも細い。この機種の弱点と書かれている4時間半の充電時間が、太いケーブルで解決する可能性があるのを確認した。明日防護グラスを張った後で直ぐに充電していろいろと試してみよう。機械さえ壊れていなければこれで週末はタブレットが使える。二週間近くタブレット無しで過ごしたことになる。まるで絶食でもしていたかのようだ。

因みにこの機種は、日本では三万二千円ぐらいなので、今回の購入価格290ユーロよりも安い。しかしそこから19%の付加価値税は還付されるので、それを引くと244ユーロとなり安くなる。

週末にテルアヴィヴからライヴ放送がある。ワンとペトレンコのイスラエル公演の最終日である。十日ばかりの間に八回の公演があって、前期日程は「ルぺリ」、「プロコフィエフの第三協奏曲」、そしてブラームスの一番で締める第一プログラム、後期は同じ前半に続き「ペトルーシュカで」締める第二プログラムの全四曲が各地で演奏されている。第二プログラムが放送される。先ずは「ペトローシュカ」の楽譜に目を通しておきたい。バーデンバーデンの復活祭で前任者のラトル指揮で演奏されるからだ。そして注目されるのがそこでピアノを弾くのがワンである。

なにも態々彼女が弾かなくても幾らでも管弦楽団付きのピアニストはいる筈なのだが、本人が希望したのだろうか。兎に角、この女流を、そのハイヒールと露出度の多い衣装以外にはスポーティーな打鍵ぐらいしか知らないので、何とも言えないが、「ペトルーシュカ」のピアノは面白そうなのだ。なるほど協奏曲もプロコフィエフである。

今年の一連のキリル・ペトレンコとの協演も、今のままでの売り込み戦略の限界を超えるための新たな試みのようにも見えるのだが、この「ペトローシュカ」もその意味からとてもハマっているかもしれない。そのあたりが上手く行くと、ブーレーズにおけるエマールやフォンカラヤンのヴァイセンベルクなどと同じような位置づけが王羽佳に確立するのかもしれない。

さて「ペトルーシュカ」であるが、ストラヴィンスキーの三大バレー曲の中では一番関心が薄かった曲で、あれこれ録音などは手元にあるが熱心に聞いたことも無い。そもそもストラヴィンスキー楽曲を生で聞いた印象があるのはカンブレラン指揮「レーク・プログレス」をザルツブルクで聞いた覚えぐらいで、ブーレーズ指揮で何かを聞いているぐらいであまり記憶が無いのである。勿論ピアノもポリーに演奏や室内楽ぐらいである。流石に「春の祭典」ぐらいの楽譜は持っているが、その曲を生でも聞いたことが無いと思う。可成り様々な曲を知っている心算なのだが、今回の演奏で新たな視野が開ければと期待している。YouTubeライヴをDLするのは難しそうなので何時もの動画スクリーンショットでコピーしてFlacで録画録音して、更にAudacityで録音するぐらいだろうか。



参照:
零下7.5度の寒さを超えた 2018-02-17 | アウトドーア・環境
所轄の警察に出向く 2018-02-22 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

所轄の警察に出向く

2018-02-22 | 生活
警察に出かけた。犯罪の申告である。詳しくは改めて事後にしたい。状況からすると個人的には被害は出ないと思うが、事後にしか確定的なことは書けない。地元の警察には数回出掛けている。その中はよく知っている、それでも一寸緊張する。子供の時は落とし物などで駐在所などに出かけたり、自宅の泥棒で指紋を取られたり、調書を取られたり、また日本旅行の際に信号無視でパトカーに乗せられたりしたことはあるが、ドイツ連邦警察ほど深くは係っていない。

パトカーで移送されたり、呼気検査を受けたり、様々である。挙句の果てには拳銃まで構えられているのだからシャレにならない。なるほど日本の派出所などの軽微な接触はないのだが、何か起こるたびに申告したりする面倒がある。要するになにも犯罪は起こしていなくても微妙な関係がいつも存在する。

今回も所謂クリポつまり捜査課に出向かなければいけなかったのだが、皆出払っているということで防犯課の警官が制服で調書を取ってくれた。いつもは呼び出しなどがあると二階の捜査課に行くのである。まるで酔っぱらいが調書を取られているような次の間であった。

なるほど日本の様に詰まらないことで拘置所に長く入れられたりすることはないが、少なくとも公務を妨害したりすると逮捕権があるので、一晩ぐらいは簡単に泊められてしまうような状況はやはり覚悟しなければいけない。それこそ日本の転び公務執行妨害のようなことはしないと思うが、やはり警察に出かけるだけで一晩拘留されるようなことは無いようにとは思うようになった。要するにどのような民主的で公平な社会が存在するとしても公権が向こうにある限りは、裁判以前に構えなければいけないということである。権力とはそういうものであることを肝に銘ずべきだという話しだ。

パン屋にはオースターハーゼが出ていた。これは初めて見るものなので購入してみた。まだ期間はあるから上手ければまた買える。森の中は予想以上に凍り付いていた。このところ晴天で眩しいぐらいなので、まさかと思ったが地元の森でもそれどころか斜面の上部の家並みの北側の屋根には雪が残っている。走り出すと氷の上を通って、風が吹くと上から白いものが落ちてくる。森の坂道には雪がついていて、一昨日とほとんど変わらない。シャーベット状に固くなっているだけだった。苦しい思いをして折からの樵作業で閉鎖されているために短いコースを降りてきた。走りながらこれならばシュヴァルツヴァルトの滝も凍り付いている可能性があると思った。週末はまた冷えそうなので、月曜日にでも出かけてみようかと思う。暫く乾いているので余計条件は良いかもしれない。

タブレットの次機種選びをしている。調べているとなるほどレノヴォは安く、IBMの遺産などを上手に使っているのだが、少なくともタブレットにおける信頼性は中華の域を出ないようで、今や華為が中華のクオリティーを抜いて、ドイツでも日本でも同じようにそれも購入者から支持されているようだ。サクラもあるとは思うのだが、全く当て外れな情報を流しても意図したイメージ作りにはならないので少なくとも方向性は間違いないのだろう。

そして聞くところによると地場市場でも数年前までは安かったのだが今や中共での国内価格も国外価格も差が無いという。少なくともこちらでは三星の方が安い感じでメードインチャイナでイメージする安かろうがない。勿論三星の方は自己製チップを使ったりで総合技術は間違いなくありそうだが、そのギャラクシーなどを見るとハンディーを大きくしただけの感じで食指が動かない。またもや三ツ星製品を買いそびれそうだ。業界筋では以前から分かっていることなのかもしれないが、今回初めて知って、もはや三星の市場での立場が危うくなったことを実感した。方や大市場とインドでの生産拠点などを保有するこれからの企業であるから、この時点で勝負ありではないか。

比較対象にアップル社の製品が出て来るわけだが、なるほど価格相当の出来のようであるが、そこまで投資する必要もないものなので、あまり魅力が無い。弄りたがりにとっては出来上がってしまった製品には食指が動かないのである。見本市などで韓国の技術者や営業の人間を見ているとやはりこの人たちとは一緒に遣れないなと言う気持ちが湧くのであるが、シナの連中もここ暫くで大分変わってきているのかもしれない。華為の創立の1980年以降の生まれになると鄧小平改革以降であるから、感覚は大分違ってきていて当然だろう。

韓国の現代は駄目だが三星も駄目となると北と一緒になるしか生き残りの可能性は無いかもしれない。日本の企業もソニ―などが高額で何を出してもアップルに勝る訳でもなく、華為の方が信頼性と今は割安感がある。華為の前ではアップルも空前の灯にしか思えない。それにしてもある程度の価格でダンピングをしていない華為のタブレットは全然安くないのだ。日本の二流メーカーが一掃されたのは必然であった。



参照:
コムピュータ犯罪の証人尋問 2014-07-20 | 生活
イタリア人より始末が悪い 2006-09-06 | 料理
遠近両用眼鏡用モニター 2016-08-17 | 雑感
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蛇足を画策したのは誰

2018-02-21 | マスメディア批評
雪の上を走った。土曜日の雪で音が鳴った。日曜日から冷えているからだ。先週書いた零下7.5は間違いであったことが判明した。ディスプレーの液晶表示が傷んでいるので0.5度を錯覚したらしい。街と森の間で5度差はおかしいと思っていたが、間違いだった。朝はその零下0.5度の森だ。

路面等は開いているのだが氷結していて、坂を走って上がれるかと思ったが、森に入ると雪が乗っていて比較的問題なく走れた。陽が当たる部分は殆ど雪が無かった。下りは日向が続くので助かった。曇天で気温が下がらなかった分比較的気持ちよく走れた。それでも流石に駐車は少なく、樵作業が沢沿いで始まっていた。代替コースを検討しておかないといけない。

前日に頂上を目指さなかったのは正しかった。走っていたら積雪量と氷でとても苦しいことになっただろうと思う。無理をして身体を壊していた可能性もある。疲れて、終日タブレットの修理どころではなかっただろう。それでも雪の上を30分近く走ると芯から冷えてしまった。

ベルリンのフィルハーモニーでの演奏会評が新聞に載っている。来シーズンに先駆けそこでデビューする指揮者などがズビン・メーターの休演で続いている。注目されたのはヴァイオリニストのミヒャエル・バレンボイムであるが、そのシェーンベルクに関しては既に書いたので、改めて紹介する必要はない。一流の奏者である。そこに合わせた指揮者がまたデビューで、このデビューは蛇足だったと書かれている。日本で人気のあるペトレンコである ― SNS上ではサクラも沢山いるのだろうが。勿論キリルではなくヴァシリーである。その指揮に関してYouTubeで盲目らしきピアニストと共演しているのを少し見たので分かっていた。その通り、一流ヴァイオリニストと共演して一流交響楽団にデビューするような事が蛇足だというのだ。

フィルハーモニカーの反応も明らかに怠く、受け身でしか無く、適当でいい加減な「伴奏」ではこのソロに対応するにはどうしようもないと、将来が危惧されている。しかし、もう一人のペトレンコがいるからと閉じる。要するにこのデビューは、二人のペトレンコの紛らわしい状況を、コミュニケーション戦略的に見れば、もう一人のペトレンコを場外に送り出すことで解消したことになる。ラヴェル作品では少し改善されて、不器用な若者の、気分に乗って病気の如く空を掻き回わす指揮者の潜在能力を見せたと精々書かれている ― なんて潜在能力だ!。私には流石にここまで辛辣な内容を綴る力はない。流石ドイツでトップの高級紙だけのことはある。

要するに会場のお客さんにもはっきりしたということだろう。ファンにも本人にも気の毒なことなのだが、悪いのはその周りで銭を毟る業界であり、皆ご本人たちがその業界のお陰で自己実現をしているのだから、こうした無謀なサドンデス興業も断れないのだろう。そしてこれだけ叩かれると便利屋さんにもなれない。容赦ない罠に引っかかったのは誰だ?

同じような若々しい容姿の指揮者もいてメディア産業が市場を開いているが、それは丁度身障者の芸がコミュニケーションテクニック上脚光を浴び易く、それによって知名度が出て市場が開けるという構造と全く同じである。それが商業メディアによる主な仕事であり芸術とはあまり関係ない芸能界なのである。そもそもオペラ歌手などの世界はまた別の世界であるが、そこには身障者はなぜかあまり出ない。それでもまだ容姿が良いとか身障者ならば分かり易い明確な市場が開けるのだが、豚のような男がメディア戦略に乗ったのがどうしても解せないのである。要するに紛らわしいのである。

個人的にはこれを読んで、2018/19年はまだ知られていない若手がフィルハーモニーの指揮台に立つとされているが、本当に30歳代で将来を期待出来る人がどれぐらいいるのだろうかと訝るのである。キリル・ペトレンコにしても30歳過ぎには気鋭として既に注目されて無名ではなかった訳だから、20歳代ぐらいの経験の薄い人しかありえないと思う。要するに残りは二流の指揮者しかいないということになる。新聞ではないが、大丈夫だろうか?



参照:
十二音の対位法の映像化 2013-12-20 | 音
零下7.5度の寒さを超えた 2018-02-17 | アウトドーア・環境
論評できない異次元 2018-02-12 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

eMMCを完全初期化

2018-02-20 | テクニック
タブレットの修理を断念した。土曜日の積雪が日曜日も山沿いに残っていた。晴天の放射冷却で零下5度以下だったので、頂上往復を断念して朝から修理に備えることにした。最終の試みだ。一週間も粘っていたのにはそれなりの理由があって、故障を見つけるためなのだが、ほぼ疑問は解決した。

結論からすると、PCのHDDやSSDに相当するeMMCの書き込みが出来なくなったのが故障原因となる。なかなか分からなかったのが、ソフトで書き込みが出来ていたからで、もう一つのソフトで書き込みが出来なくなっていたので漸く認知した。どのような方法を使ってもリセットで319.17MBまでしか書き込みが出来なかったからである。焼き付けるファームウエア―などの不備を否定できなかった。前回12月には綺麗に所謂ROM焼きが可能だったからだ。

今回は風呂場のタイルの上に一メートル近い垂直落下をさせたことで決定的になったと思うが、二月毎にアンドロイドが立ち上がらなくなっていたので、症状は使用開始後三年を過ぎてからぼちぼち出ていたことになる。その間にアンドロイドシステムの基本構造を垣間見たのだが、リノヴォのプロセッサーを提供するMTの書き込みシステムが大変有用だった。最終的にはプリローダー含む領域までフォーマットした。

これは殆どの英語のフォーラムでも僅かな日本語の情報でもタブーになっている。それらの説明ではPCのBIOSと同じでそれを消してしまうとハードにアクセス出来ないというものだ。しかし最終的にこれも試してみると、読み込むROMのプリローダーで事足りることが分かった。つまりアクセスをするソフトは上のようなフラッシュメモリーには記録されていないということになるのか?兎に角、その領域を消去しても10Mほど領域が開くだけで、期待した大勢には影響は及ぼさなかった。潔癖症ならばこれも新たに書き加えるられるだけである。

但し、アンドロイド自体が数百MBの容量が必要なので、アンドロイドは使えないが、それ以前のプログラムは読み込めるので機械として動くことは動くのである。フラッシュメモリーの特定のアドレスを除去するとかHDDのような区分けとかが出来るのかどうかは知らないが、また勉強する時間が掛かるだけで、傷んだメモリーが復活する見込みはないと思った。裏蓋を開けてみてもメモリーが簡単に取れそうなことにはなっていない。

これらを考慮して次期タブレット購入検討に入った。IPadなどは十年経っても使えるということだが、仮に使えても十年の進化についていけないだろうと思った。アンドロイドならば三年使えるとして、10インチでも90ユーロほどからあるので、適当な価格ならば、やはりアップルに1000ユーロ投資する気にはならない。なによりもアンドロイドは弄りやすい。

壊れたレノヴォのヨガは試しで使ったタブレット一号機だったので、大体使い勝手も分かった。一番良かったのは重いだけに充電池が強く、夜中に充電するだけで動画を見続けない限り不自由が無かった。WiFi機能も優れていたので今回はSIMカードを入れれるものにしておこうかとも思う。画面は更に進化しているようで、1K再生には問題が無さそうだ。あとは、楽譜を最初から最後まですらすらと飛ばして流し読みできる位の速さは欲しい。その他音質も悪くは無かったが、ノイズキャンセルのヘッドフォンを購入して繋ぐつもりなのでそれも考慮したい。

GPS時計の方も使い始めから三年経たずに駄目になった。500回の充電とか書いてあったが、精々500回の使用で、充電はその四分の一以下だろう。これは若干安物買いの銭失いの傾向がある。一万円ほどの物なので、そんなものかなとも思う。こちらは充電できても直ぐに空になるので、三十分ぐらいしか使えない。短い距離ならば問題が無い。記録を狙うような体調ではないので、万歩計もあり、慌てずにもう少し信頼性の高いものを購入したい。

もう少しすると籠り部屋から出ることになる。それまでにモニターを追加新調する。こちらは2016年8月に購入したものが良かったので、その上級機を購入する。価格差もあまりなく、一回り大きな24インチの予定だ。春の準備である。



参照:
比較的良いヨガの初印象 2014-08-13 | テクニック
上野での本番などの様子 2017-09-20 | 文化一般
キットカットにリカヴァリー 2017-09-22 | テクニック
覗き込んだ世界の裏側 2017-12-17 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーデンバーデンへの想い

2018-02-19 | 文化一般
ニューヨークのメトからの放送を聞いた。「パルシファル」初日に続いて二度目である。初日は劇場のネット配信音声だったが、今回はラディオ放送だった。結論からすると、録音してよかった。相変わらずタブレット修繕で忙しいので、危うかったのだが、時間を作った甲斐があった。音質が全く異なり、高音も伸びて、使い物になる。ハイレゾ仕様の価値がある。これで初日のそれはきっぱりと消去できる。演奏も更に良くなっていたようで、ルネ・パーペのグルネマンツのふにゃふにゃな歌唱には不満があったが ― ミュンヘンではどれほど修正してこれるだろうか -、あとは大分よくなっていたと感じた。片手間で流していただけなので、詳しくは再生して聞き返してみないと分からない。

それでもネゼセガンの指揮は初めてまともに聞いたが、一流の指揮者で、オペラ指揮者としては前任者のレヴァインより才能があるように感じた。メトに乞われるのだから一流は当然であるが、この指揮の難しそうな曲をこれだけ振れる指揮者が世界に何人ぐらいいるだろう。あれだけの指揮をする人だからベルリンでも候補者になっていたのだろう。指揮が上手いから、この引き摺りかねない曲を上手に捌いていた。テムポに関するインタヴューではメトロノーム以外の音響を含めたものに指針を求めているとあったが、やはり早めには感じたがどうなのだろう。

最近のペトレンコ指揮ではテムポとそのアーティキュレーションの間にとても大きな可能性を秘めていて、テムポを上げてもとてもゆったりと歌わすことが可能になって来ているが、流石にそこまでは行っておらず、指揮の技能的にもそこまでは行かないのかもしれない。フロリアン・フォークトのインタヴューもよかったが、この曲はこうして聞いてみるとやはりヨーネス・カウフマンの登場を期待させる。「マイスタージンガー」では容姿的には当たり役だったが、まだカウフマンの歌の真骨頂までは経験していないからだ。

さて、サイモン・ラトルはどの程度この曲を指揮できるだろうか。「トリスタン」で経験しているので、そのオペラ公演での指揮の技能とは別に、どのようなヴァークナー演奏をするかは分かっている。ベルリンのフィルハーモニカーとしては成功している方であるが、明らかに交響楽団の楽劇演奏で、落ちているものが痛い。中継を流しながらベットで復活祭のプログラムに関してラトルが語るバーデンバーデンからのマガジンを読んだ。

そこで、まるで小澤征爾かのように「子供の時から熱心だったが、大人になって指揮者としては劇場のポストに就いたことがなかったので経験が薄く、上演不可能なグライボーンでもコンサートで振っていて」とか語っているので大丈夫かなと思わせる。更にアムステルダムで「ペレアス」を振ったことで歌手のロバート・ロイドの勧めで「パルシファル」に移行したことを語り、その両作品の関連性に言及する。そのことはドビュシーへの影響として触れてきたが、要するに反対方向のヴェクトルと言うことだ。

実際に久しぶりに全曲を放送で流してみると、ここ彼処に「ジークフリート」以降の書法が聞こえてくる。二幕の魔界の「ラインの乙女」だけでなく、最も顕著なのはトレモロのクラスター風の響きやその他ミクロの動機などでの表情がそのままのところがある ― 勿論劇的には誰でも知っている「ローエングリーン」ではなく「タンホイザー」との関連にも気が付く。以前は、ラトルが語るように「巨鳥が海面すれすれに飛翔」するような「低音から自由」な無重力感のある和声でぐらいしか分からなかったが、楽匠の無意識層へと飛翔して、声と管弦楽の協演が可能になったとしているのも興味深い。

これらのことは、ペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践を通して、またその準備を通して十二分に学んだ。そう思うといつものことながらキリル・ペトレンコには感謝に堪えないのである。ラトルは言う。低空飛行を楽しむために、祝祭で「パルシファル」の券を何の心の準備も無しに購入するとは思わないが、バレンボイムが言ったように、「聴衆がやり遂げられるかどうか」と、指揮するのは問題ないが座っているのはきついと話している。まさにそこがミュンヘンに通うようになって初めて分かったことなのだが、質の高い音楽劇場では音楽祭でなくても歌手の質が揃って、とても劇的な盛り上がりがあっての劇場なのだ。

ラトルのインタヴューに戻ると、そもそも「パルシファル」は前任者のアバドがザルツブルクで「ホヴァンシチーナー」の予定をしていたのが急遽「パルシファル」に変更になった曰く付きで、2013年に備えて新たに準備をしていたのだが、バーデンバーデンへの引っ越しが決まって、ザルツブルクが少なくとも作品の権利だけを保持しようとしたので、「魔笛」になったということだった。当時のコメントは、大きな作品にはキャスティングが容易に集められないということだったが、こうした背景には気が付かなかった。ペトレンコへの移行もそのことを思っていたので、少し情報量が増えた。

もう一つオーガナイズのことについて語っていて、バーデンバーデンが全てお膳立てをしてくれるのでとても助かるといううことだ。これは、内部事情としてとても重要で、要するに歌手との交渉が含まれるだろう。当然のことながら、ペトレンコ体制になるとレヴィン事務所が係ってくるのは当然であるが、同時にバーデンバーデンもスタムパが新任するため、新たな関係が付け加わる。少なくともオペラ分野では顔が広くなり、間違いなく配役の水準は上がるだろう。

そして、ザルツブルクの聴衆とは違ってバーデンバーデンは多様性があり、町中で様々な公演が出来て、その広さよりも身近にあるピットと舞台など、フィルハーモニカーにはザルツブルクよりも向いていたと語る。同時にザルツブルクは座付き管弦楽団が良かったのだろうから、ティーレマン指揮のシュターツカペレが入って、それをゼムパーオパーに持ち帰れる。フィルハーモニカーには、「バーデンバーデンはそれどころか唯一の選択であった」と断言する。その漸くの実現を楽しみにしている「パルシファル」を午後と晩の稽古でやってしまうというからディータ・ドルンが驚いていたというのは当然だ。この点は、ペトレンコ時代になったら是非ベルリン公演を前に持ってきて欲しい。そこで録音でもするなら兎も角、真面目にスーパーオパーを遣るというならば、幾ら舞台との距離感が近いと言っても、逆でなければ不可能である。ペトレンコには妥協して欲しくはないところで、ペトレンコの仕事ぶりを知っているならばベルリンからバーデンバーデンを訪れる人も出て来るだろう。

更に今回のプログラムについて、エリーナ・ガランチャの声で何を聞きたいかということでラヴェルとべルクになり、同時に「ドンファン」と「ペトローシュカ」が対になっているようだ。またバーンスタインの「不安の時代」はロンドンシンフォニカーで作曲者と共演したジメルマンの勧めで入れたという。子供の時に父親が公務で出かけた合衆国からLPを持ち帰ったのだが、成人してから振るのは初めてだという。

そして最後に「バーデンバーデンの復活祭に再び帰って来られますか」との質問に答えて、「残念ながらノーです。16年間も家を不在にしましたから、家族と過ごします。」と言うことだ。ペトレンコの下でのラトルの登場は間違いなくあるだろうが、バーデンバーデンは無いということになる。一体誰が出るのだろうか?


写真は、昨年バーデンバーデンで自ら「パルシファル」の鐘を試すサイモン・ラトル。



参照:
細部から明らかになる 2018-02-14 | 音
伝達される文化の本質 2018-01-23 | 文化一般
入場券を追加購入する 2018-01-18 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

舞台祝典とはこれ如何に

2018-02-18 | 
承前)二幕においては月夜の枕もとのアルベリヒの場面から ― この演出では女を侍らせたハーゲンをしてMeTooと書かれる場面だ ―、 白み始め、日の出、ライン河面の輝き、屋敷、丘へと時間の経過して、光の具合が変わる。まるで教則本のようになるが、それをどのように楽匠はイヴェント毎に和声的にも綴っているかである。まさにそこが精妙に示された公演でもあったのだ。

三幕の狩りの合唱共にもう少し男性合唱は出来たかと思うが、2015年の時よりは纏まっていたかもしれない。バイロイトほどの人数が恐らくいないので、蓋の付いた奈落の管弦楽の競演とも異なり、蓋無しとしてはこれでよいのではないかと思う。しかし先ずここで触れておかないといけないのは三人のラインの乙女であり、これも以前中村絵里が歌っていたそれをアンサムブルとして遥かに超えていた。ノルンと共に大きな役目を果たしていたのは当然なのかもしれない。また2015年の配役を調べると、ヴァルトラウテは、前回まではシュスターが歌っていたようだが、今回は乙女から出世したノルンを引っ張ったフォンデアダメローでより柔らかい。小振りとの批評が多いマルクス・アイへのグンターを喰ってしまった言われるグートルーネ役のアンナ・ガーブラーもノルンから出世して特筆すべき存在で、今後お呼びが増えることは間違いない。そしてフィンケのジークフリートのモノドラマはとても大きなヤマを作っていた。恐るべき疲れ知らずの歌唱だけでなく、ここはとても重要な音楽で、懐古調のセンティメンタルから抜け出た音楽運びが本当のクライマックスへと繋げる。

そして「ジークフリートの葬送」は、2015年12月よりも早かったかもしれないが、バイロイトよりはゆったりとしていた感じだった。なによりもダイナミックスに注目していたが、完全に明らかに落とし気味で、続く三場に更なるヤマ場をもってきていたことは明らかだった。改めて過去の記録を調べると、なんと全く声が出なくて存在感の無かったブリュンヒルデは日本で有名なぺトラ・ラングだった。私は間に合わせの歌手だからブーイングも出ずに、最初から管弦楽が抑えめに合わせていたものと今まで信じていたので経験の豊かな人だとは思わなかった。あの人がブリュンヒルデを務めた前回の「指輪」と、そもそも小振りでしかなく体調が優れないとか書かれていてもシュテムメのそれではやはり月と鼈だ。

ニーナ・シュテムメの歌唱はやはり立派である。なるほど子音がはっきりせずに字幕を読んでいても音符しか聞こえないのは相変わらずだが、どうもこの人は体調が良ければヴィヴラートも全く問題なく制御して、声が出る人であることを確認した。要するにテクニックである程度はカヴァーしている人なのだと認識した ― ラングはそもそも声が出ないのでペトレンコが労わるかのように付けていても、その歌の構造がふにゃふにゃで言葉どころか歌の骨格が浮き上がらないので殆ど事故状態だった。あの長い自己犠牲を立派に歌い上げ、それにメリハリ良く管弦楽がフィナーレを飾っていた。とても美しい放射線が第三夜に、そして前夜祭からの大きな虹となってヴァルハラ落城に掛かっていたのである。そして彼女の歌唱は、誰かが「カラスのメディアの様」と評したがまさしくそうしたギリシャ的な様式感がある。

同時にペトレンコ指揮のヴァークナー演奏実践は慎重にミトースを捌いているのだが、もはや下らないアンティテーゼではなく、恐らく今回のクリーゲンブルクの演出のように楽匠の意図していたミートスの形式化相対化の正しい表現だと思う。否、エートスと対象化なのか。四部作を通して第三夜のフクシマの演出が乖離していると思われているようだが、あれは歴史的にバビルの塔のような本当に情けない世界の歴史であり、七年たった今それが明白になって来ていて、クリーゲンブルクの見識の高さを見直した。ペトレンコは、何時かイスラエルで演奏禁止となっているヴァークナー作品を実演することがあるだろうか。

余談だが、予定通りペトレンコ46歳のお誕生日の祝福があり、管弦楽だけでなくあの歌手陣による「HappyBirthday」の合唱がとても贅沢だった。流石に声が出る人たちが軽く歌うだけでも輝くソプラノだった。歌手陣も可能な限りの歌を披露して存分な喝采を受けた。シュテムメ、フィンケ以下皆がその指揮と指導にとても感謝したのは間違いないだろう。(終わり)



参照:
HappyBirthday, Wanderer (FaceBook)
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
なにが黄昏れたのか 2018-02-11 | 音

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

零下7.5度の寒さを超えた

2018-02-17 | アウトドーア・環境
灰の水曜日はこの冬最も冷えた。車の外気温表示が壊れていると思った。零下7.5度だった。そして森に辿り着くと、零下1.5度まで上がった。ついに温度計まで壊れたかと思った。しかし充分に寒く、期待した太陽は森の陰に隠れていた。青空で恩恵が殆ど無かった。走り出して直ぐに左足の膝に違和感を感じた。寒さである。何とか戻ってきたが、温まるとまでは行かなかった。

そして街へ戻ってくると再び低い外気温を指すようになった。明らかだった。冷たい空気が街に溜まっているのである。春ならば霜被害が出るところだろうが、まだアーモンドの花が咲き始めたぐらいで、葡萄には関係が無い。それにしてもこの気温差は信じられなかった。地元の公式気温計は山の上にあるので、この気温は出ていない。精々零下5度までの予測だった。

駐車場に先日から木こり仕事の案内が出ていた。前日は冷えた地面に十分な積雪があった。寒さも緩むと、そろそろ時期なのだろう。ヴァンダ―ヴェークが閉鎖されることが増える。そのご案内である。

冬のミュンヘン行が終わって、次はバーデンバーデンの音楽祭だ。その幕開けの「魔笛」を指揮したサイモン・ラトルの最後の登場ということで最後の販促を行っている。この二日間ほどで大分の券が掃けたようだ。ラトルのオペラや指揮以外のハーデング指揮やフィッシャー指揮の演奏会は29ユーロでもなかなか売れない。

そしてマガジンが届いた。「パルシファル」に関するインタヴューなどが載っている。こちらは、先ずは一通り楽譜を落とした。「パルシファル」は一昨年バイロイトのそれを聞くために落としたと思うが見つからない。新たにペータ―ス版を落としたが、最終的にはショット版を研究しなければいけないだろうと思う。

そして、ラヴェル「シェーラザード」、「ドンファン」、「ペトローシュカ」を落とした。流石にベルクの「初期の七つの歌」はピアノ譜しかなかったが、これで十分だ。まさかこれだけの資料が数分で揃うとは数年前までは考えられなかったことだ。バーンスタインは無くても仕方ないが、時間を掛けて探せば結構な資料が出て来ると思う。

要するに私のような人間でさえ一通り楽譜に目を通して出掛けるのであるから、新聞等に何かを書こうと思えばその手間を惜しんでいる者は殆どサヴォ―タージュでしかない。少なくともそれぐらいは最低の準備としてジャーナリストに要求されているのだが ― さもなくば貴重な紙面を酔っぱらいの殴り書きに金を払っているようなものだ ―、そして昔と今ではその便利が大違いで、同時にそうしたプリントメディアに物を書き糊を凌ぐ者への世間の目は更に厳しくなっている。分野に拘わらず、ジャーナリストになにも高度な解析などを誰も期待しないが、少なくとも職業人としての襟は正して欲しいと思うのが当然である。少なくとも金に群がったり、権力や権威に縋り付いているようなそぶりを見せれば、全面的に攻め立ててやるべきだ。そのようにしてしかジャーナリズムは健全にはならない。

今年は、「パルシファル」、「七番イ長調」とベルリンの前任者後任者の聞き比べが出来るのだが、そこに「ペトローシュカ」まで加わる。次の日曜日にテルアヴィヴからのYouTube中継がある。生中継は日頃試聴しているが今まで音楽を録画したことはない。それまでの間に同様の放送で様子を見てみたいのだが、イスラエルフィルの様にやっているところはあまりない様だ。調べてみたい。イスラエルは政治的に大変問題があるのだが、生放送を見ると何か分ることがあるだろうか?



参照:
爪先走りで膝を立てる 2012-08-16 | 生活
遊び心のエゴイズム賛 2007-03-08 | アウトドーア・環境
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バラの月曜日の想い

2018-02-16 | 
承前)アンドレアス・クリーゲンブルクの演出にも触れておこう。批評などを読むと、そのコンセプトとなる構造を読み取るのは、風刺などと考える多くの人には一寸難しいようだ。もしかすると音楽的な構造理解度に準拠するのかもしれない。今回は座席も2015年12月に観た時とは視角も変わって、どちらにも死角があるので確証はないが、少なくとも最初のディスプレーで東北の大災害らしきが映されているのは気が付かなかった。冒頭のノルンの場は、世界中に報道された福島県の子供たちが防護服を着た男たちにガイガーカウンターを突き付けられている情景である。

予定調和の破局の向こう側にあるのがフクシマであったのだが、その後の情景にもフクシマ禍が描かれていることにもなる。勿論フクシマは、金に代表される欲望の世界の経済成長の資本主義の惨禍として捉えて、欧州同盟のユーロ批判の対象とされているとしてもしてもよいのだが、どちらも楽劇とは関係が無い。それでも、シェロー演出の資本主義批判よりも遥かに本質的な「指輪」解釈がそこになされていると思ったのは、前記したような音楽の流れが正確に実践されていたからに違いない ― 残念ながらケント・ナガノの音楽を完全に超えており、古い写真の入った当時のプログラムを態々買う気にはさせなかった主な理由である。

芝居としても音楽としても記録することには欠かないのだが、楽匠のテキストにも興味が向かった。一つは言葉遊びのようなジーク・フリートであったり、グート・ルーネであったりと所謂「おやじギャグ」を書き込んでいるのだが、そこに留意をすると、見えて、聞こえてくることがあった。これは昨今の字幕のお陰であり、何度楽譜を見ていてもシラブルが切れて読み切れていないことが殆どだ。要するにテキストが楽譜の読みの助けになるということもあるに違いない。それは、構造主義的な読みとなるだろうか、そうなるとブーレーズの演奏実践が外していたものを、もしかするとペトレンコの譜読みをこれが特徴付けるかもしれない。

劇作としての面白さに、二幕の隠れ兜を被ったジークフリートが兄弟杯を交わしたグンターに変身してブリュンヒルデの岩山に到達して、征服する場面がある。その複雑さについては既に触れたが、これに関する話しを往路の車中で聞いた。折からのカーニヴァルでの仮面についての話しでフライブルクの教授は質問に答えて、「(アレマンの仮面の行進が)異教の影響というのはあれは間違いで、それはプロテスタントが古いカトリックの影響を落とそうとした」解釈だとして、「例えばロットヴァイルの悪魔でない善のお面は、バロック以前のもので、まさしくルネッサンス時代のカトリックのそれだ」と言明していた。そして、「仮面を被ることで仮面の下の社会的なそれを超越する本性を示す」こともこの仮面の文化としていたのだ。それをこの隠れ兜に重ねて観察することは決して無駄ではないだろう。勿論私たちは、楽匠自身のテクストを通してそれを如何に音楽化していったかの経過とその読み取りに関心があり、それがどのように音楽実践されるかを批評しなければいけない。因みに、この舞台では全面舞台縁に前向きに立ったブリュンヒルデと舞台奥にその背を眺める兜の黒っぽい男がこちらを向いて立っている。この演出の幾つかの映像映えする場面の一つである。

楽匠の関心が、「タンホイザー」でも、ここでも、また「パルシファル」でもそうしたドッペルゲンガー的な人格を描くことでその方面の関心に向かっていたことはたとえそれが劇作的な手法であったとしても無視できないであろう。同時にこの四部作では、それが空間的、時限的なパラレルワールドへと通じていることは繰り返すまでもない。舞台祝祭劇と命名された所以である。その意味からクリーゲンブルクの演出が、前夜祭から第三夜まで一貫して、文字通り人海(まさにラインの波や炎などであるが)を使いながら、見えない世界を「もう一つの事実」から浮かび上がらせている。(続く



参照:
アレマン地方のカーニヴァル 2005-02-07 | 暦
非俗物たちのマスケラーデ 2005-02-08 | 文学・思想
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミュンヘンのアラキー

2018-02-15 | 
ピナコテークデアモデルンで、ゲオルク・バーゼリッツの特別展示を覗いた。記憶は無かったが1986年に訪問した。当時は所謂クラシックなものにあまり関心が無かったので、肝心のアルテピナコテークだけは入っていない。そして今回も時間が無かった。情けないが、駐車場や日曜日の割引を使えばミュンヘン詣での序に機会があるだろうか。

観光客も多いが、地元の人はアラキーを求めてきている人が多かったようだ。写真にあるようにアラキーのパネルにおばさんたちが見入っている。荒木と言えば我々世代には、ビニ本収集の小室直樹と同じように東京の深夜番組の常連だった。サブカルの人である ― そう言えば山本信也も中央線沿線で見かけた。おばさんたちがどのような感興でそれを見るかは知らないが、世界のアラキーになってからその受け入れられ方が分からなかったので、腑に落ちた感じで、アラキーの展示物を入り口で探し、それに見入るその人達の方が鑑賞対象になった。

その他の展示は、ロ-トレックやマティス、キルヒナー、ピカソなどに混じって、ボイスの展示もあったのだが、規模からするとヴィースバーデンのそれには到底及ばないような気がした。兎に角、昼飯の方が重要なので流した。やはり、バイエルン王室ヴィッテルスバッハ家の美術品は当然のことながら王権を失うまでのものでなければあまり価値が無い。例のルートヴィッヒス二世がどのような美術品の中で育ったかなどは、勿論レジデンスの方の展示にもあるのかもしれないが、家族の美意識はアルテピナコテークを訪問しなければ分からないかもしれない。

さて肝心のバーゼリッツのカビネット展示だが、結論からするとあまりにも小さなもので1ユーロの日曜日割引でなかったら文句が出たろう。それでも本物を見ることで印象はついた。連邦共和国の国宝法の強化に反対して、自らの作品のを引き上げて、ザルツブルクへと移住したという俄かオーストリア市民である。八十歳の記念にパトロンでもあるフランツフォンバイエルン公爵のコレクションが今回展示されたようである。6月上演の「パルシファル」の美術を担当したことで、今回も初日には公爵とバーゼリッツが王のロージュに並ぶのだろうか?私もディナージャケットを着て行かなければいけないかもしれない。

古い1960年代のものはモダーンで、輪郭がハッキリしないものなのだが、1980年代のものは文字が書き込まれている連作や、また色差見本のようなものがあった。当然オペラのそれは最新のコンセプトで来るのだろうが、文字だけはやめて欲しい。ただでさえ情報量の多い舞台神聖劇で更に文字情報が加わるのは御免だ。演出家もあまり信用の置けそうなことを語っていないので、その仕事ぶりには懐疑的なのだ。その点、バーデン・バーデンのディーター・ドルンの方が安心だ。

バーデン・バーデンで、ツェッチマン女史、クヌート・ヴェ―バーのベルリンのフィルハーモニカ―を迎えての記者会見があったようだ。第一報を見るとやはり2019年はオテロ上演で、指揮者は三月になって発表と言う。誰になるか分からないが、ムーティが断ったことまでは最初から知られていたが、それに匹敵する人でフリーの人は誰だ?イタリア人では浮かばない。ズビン・メータしか浮かばない。これならばと思う人も居ない。安ければとは思っても、主役を昔のドミンゴ以上に歌える人もあまり浮かばない。シャイ―ならばと思うが、時間がある筈がない。もしかすると先日メトで名前を見かけたロベルト・アバドぐらいなら一度聞いてみたいと思う。まあ、どちらでもよいなと思う。

肝心のキリル・ペトレンコは、どうも登場するようだ。それも「オペラ指揮者としてのバイエルン音楽監督は違う背景」を強調して、「新たな魅力」というのだ。それ以上は秘密で、ただ「ペトレンコは、祝祭劇場の音響にとても魅了された」と付け加えたのが味噌だろうか。

「違う背景」で余興でピアノを弾くとは考えられないから、また昨年同様の通常の交響曲を並べる訳ではないだろう。つまり音響を駆使した作品且つミュンヘンのアカデミー演奏会では取り上げないような作品となる。バロックなども片手間では出来ず、20世紀の作品ならばある程度モニュメンタルでなければ話題性にも乏しい。ああ、そうか、マーラーの八番はミュンヘンではやらないかもしれない!ギーレンの指揮で聞いた印象では音響的に問題ないだろう。「グレの歌」まで勉強する時間は無い筈だ。ここまで推論するのに三時間ほど掛かった。

すると、2019年4月21日の復活祭に「千人の交響曲」、その前の3月頃か、6月末に「トリスタン」上演か?またオペラフェストになる。また並ぶのか、仕方ない。カムペがベルリンで既に歌っていることからすれば、自然な成り行きだ。2018年8月末オープニング、小演奏旅行、9月末の「マイスタージンガー」に続いて、10月マーラー、12月暮れに一つ目の新制作か?インサイダー情報も何もないところで、これぐらいの予想が精々である。



参照:
山場を越えた安堵感 2018-02-13 | 雑感
宮廷歌手アニヤ・カムペ 2018-01-22 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする