Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

おこちゃまライスの響

2024-12-31 | マスメディア批評
大晦日のジルフェスタ―コンツェルト初日の批評が出ている。やはり目玉はトリフォノフのピアニズムであって、目立つどころかドールらのソロに反応して音を出していたようだ。まさしくペトレンコが本来ならばヴァルトビューネでもラフマニノフを合わせて期待していたその音楽性である。

地元放送局RBBの評のそのような大絶賛に対して、同じ演奏を地元のベルリナー新聞ではどうしてこんなに木っ端で曇った音しか出なかったのだろうと、後半の「マイスタージンガー」前奏曲を聴いてからの感想を漏らしている。そのようなおこちゃまには芸術など分からないと言いたい。同じような批評を日本でもしている人がいたが、要するにそこで求められているのは粒だった平均化されたまるでヤマハのピアノの様なもので、それ以上の音楽の内容はどうでもいいということでしかない。ベルリンでも同じ様な「玄人の批評」があるということは、恐らく前世紀の音響の音楽から逃れられていないからであろう。

アルザスへ買い物から無事帰宅した。往復140kmにワイン街道で給油や買い物にも寄ったので全160km程の走行だった。然し、車を引き取りに行った帰り以外では初めての中距離走行で、とても沢山のことを得た。機能としては自動追い越し装置を初めて使った。それ以外にも対面交通でのトラックとのすれ違いや前車追走など得ることが多かった。若干センターラインに合わして半自動に走るので、大きな車輛の場合は若干外側へとハンドルを動かす必要があった。逆に言うとそれだけで安全運転に繋がる。その他、機械と人工知能との協調つまりシステムを可也把握していないと恐らく事故率の大激減への機能を使い果たせないと実感した。殆ど飛行機操縦の少なくとも計器飛行若しくは小型ジェット機並みのコックピット認識が無いと使いこなせないと思った。情報量があまりに多いので、ぐずぐずしていると余計に危ない。残り数週間ぐらいで身につけたい。

最も関心事であった蓄電池の使い方は分かった。70%蓄電に出かけ前のヒーターで、少し補給して出発したが、何時ものスタンドで既に若干減っていて、56%でバイパス幹線道路となった。そこからは蓄電一定保持モードで走ると、最後まで僅かに上下しながら保てて、最後の車庫入れで2%消費し52%で終えた。燃料は15リットル給油で175kmが今は残量が82kmになっているので、上の数値からすると、30kmぐらいは回生エネルギーで走れたことになるか。ハノーファーへは蓄電量を80%から上にして、宿で残り70%、ハノーファーの市街迄往復で、40%残量ぐらいで、翌朝発進出来ると、帰宅しても残りは10%を超えている筈だ。やはり少し残していおくと、燃料の注油にも余裕が生じる。冬場の渋滞や休憩の時の暖房にも余裕は欲しい。

自動追い越し装置は自分自身の判断よりも出る方も戻る方も慎重で判断は若干遅いが、自動的に指示器が出てから自分自身で目視できる安心感がある。要するにそれを全て自分で行うよりも遥かに楽で安全度が高い。教習で助手席に乗っている感覚である。その感じで走れば間違いなく疲れなく、疲れていても巡航速度を上げられることが確認された。最高速度の状況よりもそちらの方が有効かもしれない。現時点でのアクティヴセーフティーの最高峰のシステムの車輛であることを認識して投資したつもりなので、これを最大限引き出すのが責務でしかない。

出かけ前にギャラクシーのフォイルが届いた。三つ組で価格を上げて細かな配慮のある中共製であるが、作業枠までついていて懇切丁寧な割に直感的に経験でやって全く問題がなかった。余程わけの分からない客層を考えているのだろうと分かる。



参照:
Mit Kirill Petrenko und Daniil Trifonov, Silvesterkonzert, Antje Bonhage, RBB Drei vom 30.12.2024
Lohnt sich das Silvesterkonzert mit Kirill Petrenko und Daniil Trifonov?, Peter Uehling, Berliner Zeitung vom 30.12.2024
歳末の片づけを一通り 2024-12-30 | 生活
永く記憶に残る熱狂ど 2024-09-19 | 音
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そのオーラをそっと出し

2024-12-17 | マスメディア批評
ザニューヨーカーに記事が載っている。書いてある内容はベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアーに関して、シカゴやボストンで評されていたり、コメント欄に書き込まれていたことと共通していて、そこにあったカーネギーからボストンへと追っかけて回った筆者の記事である。

これは時間をおいた記事だけにその後の若い指揮者とコンセルトヘボ楽団の演奏会も扱って、如何にその世界が異なるかでそのペトレンコ指揮の芸術に光を当てるような記事となっている。

それどころか前任者ラトルとの差異を浮かび上がらせている。その完璧さを求めての日本で頻繁に評される「猛獣使い」指揮とその彼に楽団との関係を「論争好きで自尊心強く、インテリ」だと語らせ、何故上手くいかなかったか、それに対してそれ程期待されていなかったペトレンコがどのように指揮をしているかを綴る。

そして今の現状は、フルトヴァングラーのその哲学的なオーラを今に伝える同一的な群としての有機体というよりも融和同化しない声な楽団だとしている。その例として最初の曲「死の島」でのそれは計算された不一致だとして、オールを漕ぐようにチェロ、コントラバス、ヴェンツェルのティムパニ、ラングラメのハープが入ってくる受け渡しの繋がりだという。

このことは特にスカラ座デビュー後の顕著な音楽表現でありなによりもアーティキュレーションを活かしたその歌い口とここで再三再度評している指揮の進化である。

更に新入りの曾韵がホルンソロを担って、深く暗い音を出して、人気奏者ドールと張り合っているというのである。高く低く三次元的な音響として特筆されている。まさしくフルトヴェングラー時代の音響を引き継いでいるというのだろうか。正しくドールにはないものだ。

そのホルンとオーボエ、クラリネットの私で嚙んだというやつである。然しその理解の難しいブルックナー交響曲五番がボストンでの演奏でははっきりしてきて、漸く呑み込めたというのだ。まさしく指揮者が何度も演奏して真面に演奏できるようになる目標として定めたところにたどり着いたという証になっている。

それはパズルのようにブルックナーが嵌め込んだ楽想がフックスのクラリネットによって終楽章で表されるように、コメディーとして理解されたという。それはまさしく自笑ではなく突き放した自己省察となる知的な演奏行為ということで、オクターヴ下降がフガートとなり、祝祭的なチェロとバスの再現部はラグビーのスクラムの様に押出し、管の総奏はブラスバンド途への咆哮へと突き進む。そこでティムパニーのフォーゲルの記譜されていないスタンドプレーが大フィナーレへと推し進める。

ペトレンコの指揮が如何に奏者の各々の音楽性の発露を引き出し、それが一つになる時に自ずから超越していくのだという説明にもなっている。そしてその歌い口こそがベルリナーフィルハーモニカーであって、ラトルの様に派手にではなく20世紀音楽においてもより深く、独墺音楽においても為しているものだということを語っている。夏からの成果が漸く合衆国で正しく評価されている。



参照:
The Berlin Philharmonic Doesn’t Need a Star Conductor, Alex Ross, The New Yorker of Dec.9, 2024
誠心誠意に演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

quaque nocte?

2024-12-11 | マスメディア批評
予定外で買い物に出かけた。前日となると最早警察に停められてもお願いしかないと考えた。新車で天候関係なしにスーパーに停めるよりも気が楽だ。燃料も余っているので本当は時間があって安全域なら車を走らせたいぐらいである。

トランクルームも片付けた。車内も一通り私物を除去した。塵まではもう掃除しない。ミラノ行前のその儘である。流石に歯の欠けたやつは回収した。なんだか車が動くとまだ使っていたくなるのが不思議で、操縦性走行性が悪くなっても此の侭使いたいと思わせる。前の車では直進安定性まで失ったのもあるが、全くそのような感情は生じなかった。やはり新車から注文生産させて長く走らせると思い入れが違うようだ。あとはボードコムピュータ―を初期化するのみ。

そのスーパーの駐車場で1番の番号を見た。その前は二文字でQNだった。Qの姓はあるが、それでも珍しい組み合わせだったのかもしれない。然し1番は流石に容易に見つからないだろう。特別な番号であるが、それを見た時に頭を巡ったのは、数字1が先にある様に見えたことだ。なぜかは分からないが、数字一桁はどうも先に読ませる力があるらしい。だから1NQとかいう風に読んだ。何回か見直した。その可能性があるなら自分自身もすればよかったと勘違いしたぐらいだ。それにしても1番はやはり特殊な感じがする。但し視覚的には若干落ち着かない。最後にEがついていたらどうだろうかとも思った。

自分自身ならば、その前の文字が特に優れていたら考えただろう。今調べるとなるほどQNは余っている。何故だろう。考えられるのは日本語の9と似ていてQualとかの文字が浮かぶからか。q.n.は毎晩とか水量の意味。すると3が着くと余計に立方になる。

さて、引き取りの準備は整った。地元の降雨確率は20%で最低気温摂氏3度、シュトッツガルトで2度、途中のプフォルツハイムも同じと降雪の影響は皆無だろう。最後のドライヴでマンハイムに向かい、お昼にマンハイムから電車に乗って最寄り駅まで向かう。少し高くなったが34ユーロで切符を購入できた。帰宅は何時になるか分かりにくいが、視界は悪くないだろう。世界的最新式のヘッドライプも試したい。

バイロイトからの記事が出ている。2006年以降の財政縮小での計画変更で、初めてそこで上演される初期の「リェンツィ」以外には再演のタンホイザーと毎年上演されるべき「パルジファル」以外は演奏会形式の「指環」しかできないということらしい。原因はギャラの高騰と補助金の縮小で、今後は規模が小さくなり、再演と数少ない公演数で賄っていくということになりそうだとなる。

そもそも「リェンツィ」初上演で現在までのルーティン化を壊して迄新機軸を出したのも、より脚光を浴びる為の手段であって、弦楽合奏などで人が集まる訳がない。まだ秋のバロックフェスティヴァルとの連携を取った方が可能性が高まるのではなかろうか。

全体として歴史的なバイロイト音楽祭の規模を縮小していくのは間違いないだろう。それは発券状況などを見ていれば、如何にも二流の催し物へと人気も低下してきている様であって、大衆動員型の出し物にすればするほどその質は落ちていく。

要するに芸術監督が実力のある人でないと務まらないということで、現在のカタリーナ・ヴァ―クナーには荷が重すぎる。



参照:
„Natürlich bin ich enttäuscht“: Katharina Wagner über das Bayreuther Streichkonzert, Markus Thiel, Markur vom 9.12.2024
時代のテールランプ 2024-12-10 | アウトドーア・環境
3Eの意味するところ 2024-12-02 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ライヴエレクトロの奔り

2024-12-05 | マスメディア批評
ジャージの寝具は暖かい。重量は増えて、その上にベットカヴァーを掛けるので寝返りは打ちにくくなる。それでも朝の寒気を感じないので熟睡度は違うようだ。その分床を離れ難さは更に高まった。布団カヴァーの内側に余分に掛けたカヴァーが破れていたので替えた。以前から使っていた古いカヴァーをそのように使っている。枕もこれでより清潔感が。

びくびくしながら車を動かした。パトカーとすれ違うとびくっとする。後ろにつけられると場合によっては停止を命じられる。車検の色が12月までしか残っていないから、じっくり観察したら4カ月を超えていることが分かり、罰金をとれる可能性が強いからだ。

それ以外は走る時にワイン地所に立ち寄るだけだ。アウトバーンならば後ろにつけられない様に上手に立ち回れるかもしれないが普通の街道では無理だ。減点も嫌だが罰金も嫌である。あと三回乗るかどうか。それでも燃料を15リットル入れた。どこかで余分に使ってもう一度給油に行くのもやばい。出来れば夜道を走りたいぐらいだ。折角100kmぐらい走れる燃料も入れたので一寸余分に走らせたい思いもある。

駐車場に停めると以前よりも車を一瞥して語る人が増えて来た。もう数年でオールドタイマーとして趣味の車になるからだが、こちらはびくびくする。車検ぐらいで通報する人もいないだろうが気になるのだ。

先日から淹れる紅茶が急においしくなった気がする。セカンドフラッシュで最初の半分はそれ程感動的ではなかった。色はいいのだが、何かコクが足りなかった。然しここにきてセカンドらしく紅茶臭い味が強くなって来た。あれは酵素による酸化熟成の味だと思うのだが、敢えて冷蔵庫の中で保管しているがやはりそれがなぜか強くなっている。以前はお茶は常温で缶の中で保管していたが、やはり異なって、いつまでも新鮮さが愉しめるのは、紅茶も同じである。煎茶も抹茶の様に冷蔵庫で保存するようにしている。然しそれでも熟成が進む可能性は予想していなかった。兎に角、今はとても美味く、安くて大満足だ。

先月のベルリンのコンツェルトハウスでの批評を見つけた。内容は曲が分かるともう少し想像できるが、ドイツ初演でオリジナル「スティルポイント」は1948/49年のBBCの女性エンジニアのダフネ―・オラームの電子音楽で、2018年に今回もLPを回したイラン系の女性DJフェシャカレキによって復刻再演されていたようだ。管弦楽を録音したLPを変調させて、生の管弦楽団のそれとで更に変調させていくという所謂ライヴエレクトロニクス音楽の奔りの曲らしい。50分もある大曲である。

短い映像はインスタグラムなどで紹介されていてマルチメディアでの表現としてその空間が芸術されたのは分かった。あの中に使われ演奏されたルネッサンスのデプレの曲がそこまでの空間効果を生み出さなかたっと指摘されているが、書き手もいうようにそれは自然と限界もあるということだろう。

DJとの共演ということでケルンでセクハラで下りたロート氏の企画を急遽エンゲルが代わりに振った「メルティングポット」と同じようにクロスオーヴァーものかと思っていたら全然違うバリバリの試みだったようだ。さて車があったら態々出かけたかどうかは分からない。その質は高かったようであるが。
Daphne Oram - Still Point(1948)(2016)(Avant-Garde)(Early Electronics)(Musique Concrete)




参照:
Unterwegs in Ätherwelten – Berliner Konzerthaus, Alexander Keuk, NMZ vom 25.11.2024
Experimentelle Musik, immersive Elektronik und Lichteffekte, Marleen Hoffmann, Berliner Morgenpost vom 23.11.2024
今後へ問いかけインタヴュー 2024-06-13 | マスメディア批評
生で接する慣れ親しみ 2021-12-07 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フルトヴァングラーに倣い

2024-12-01 | マスメディア批評
この冬初の零下となった。放射冷却である。屋根に霜が着いていた。零下四度となっている。

ベルリナーフィルハーモニカー合衆国ツアー前のズーム会見の記事を読んだ。初めは知らなかったがAPの記事が各地で複製されていたので読めた。昨年の日本公演前にも同じような会見をしていたので、もっとも手っ取り早い広報なのだろう。

英語で行われたのか若干その引用が曖昧であるが、要旨はよく分かった。52歳と語って、二年前にそこで演奏したマーラーへの考えから今回のプログラムであるブルックナーへと繋いでいる。

ユダヤ系とあって、十年二十年前はより興味があって、マーラーのその疎外感や何処にも家がなくて故郷がなくてと語り、きっと変わったのかもしれないと、恐らく自身の家庭事情を思い浮かべている。そこでブルックナーへと傾倒したと。

ソヴィエトでは無縁だったが、第二の故郷オーストリアでの青年時代に出合って、そこの山々、そして料理など知って少しづつ身近になって行ったと語る。要するに自分の住処と感じるようになったということだろう。

具体的には、1942年のフルトヴェングラー指揮の五番交響曲を参考にした様である。このことは此処でも言及した語り口の巧さがそのものであって、改めて比較してい見ると面白いかもしれない。
BRUCKNER: Symphony No. 5 in B flat major / Furtwängler · Berliner Philharmoniker


その他にも、マーラーをブルーノ・ヴァルター指揮、「ばらの騎士」をエーリッヒ・クライバー、クレメンス・クラウス指揮と挙げていて、成程前者の冒頭のテムポ運びはスカラ座で指揮したそのものである。
Richard Strauss - Der Rosenkavalier (Erich Kleiber - 1952)

Richard Strauss - Der Rosenkavalier (Clemens Krauss – 1953, 1936)


管弦楽団との関係において、100人の楽員が寄れば100通りの考えがあって、100通りの望みがあると答えると、楽団長でホルンのドールが楽員各々に更に多くの考えがあると口を挟む。

そしてそこでは信頼して多くを語らないと、そして見ていて、止めずに練習すると語る。ブルックナーはそして発展するのだと語る。それは奏者が全身全霊で演奏できるようになるというルーティン化の成果だろう。

そして過去の録音でその伝統を記録するの容易ではなくて、ステップアンドステップで試みていくしかないと語っている。それが楽団によって引き継がれるものと考えている様だ。やはりベルリンのフィルハーモニーをシューボックス型にしなければいけないという考えに至るだろう。

何はともあれ25回目の合衆国ツアーを二度目のペトレンコ指揮で大成功裏に終えたと言えるだろう。



参照:
Kirill Petrenko Finds Leading the Berlin Philharmonic Means 100 Opinions and 100 Expectations, AP
全身全霊で演奏する 2024-11-30 | マスメディア批評
音楽の楽しみ方の教示 2023-11-16 | 文化一般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誠心誠意に演奏する

2024-11-30 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカーがシカゴに来るとなると皆がメモ片手となる。火曜日の聴衆の中には多くのシカゴ交響楽団のメムバーが楽譜を手に混じる。同地でのメインイヴェントのオペラ公演などよりも注目を集める。

ブルックナーの演奏は様々な、どこに山谷を持ってくるかが決め手で、ペトレンコの場合は何処で落とすかで、ペトレンコの場合はマーラーでと同じように決して独白的ではなく、ディスカッションなのだと書く。これはブルックナーの交響曲において、ピチカートが戻ってくるときの扱い方に表れるということらしい。

つまり、ベルリナーフィルハーモニカーのその精妙な演奏は周知として、チェロの最初の歌の微妙さは、通路を挟んだ隣人の息が聞こえるような演奏で、そのように繰り返されてピアニッシモとなればドールのそれとが囁きでしかないと改めて驚愕している。大げさではなく、そしてそれらの模様を奏者が詩の一節を歌うようなものとしている。

ここは他の批評にもあった一楽章導入出だしの扱い方があったが、恐らく他のボストンの聴者が書き込んでいた様に、フランクフルトからも繰り返すことで更に精妙になると共に、奏者自体が全身全霊で同じイメージを持って音が出されていることが分かる。

特に二楽章での次から次へと沖の波を越えてのサーフィンでの残照の様なものを記しているのは、正しく私が時の芸術としたものであり、その発想自体は動機のポリリズム的な扱い方に端を発するだろう。

ここで一昨年にシカゴ交響楽団でブルックナーを得意としているとされるティーレマン指揮の八番交響曲との比較が為される。それは多かれ少なかれ独白的であり、それが強いられたとするのは、曲は異なっても同様に終楽章で回帰する第九交響曲の形式をとっていることからの比較としている。この点に関してはこのブルックナーの交響曲を十八番としていたドレスデンのシュターツカペレでの演奏で二楽章の浪漫的な歌い込みだけに賭けていて、その方向感が分からない主観的なそれを批評しているので、正しくそれは浪漫的独白としてもよいだろう。

そのスケルツォの早いテムポではまるでマーラーの様なグロテスクさでティムパニーとブラスが吠えて、バランスも昔のフィルハーモニカーにあった様に最終的に崩れたりしたが、とても興味深かったとしている。

然し他では見られないぐらい管弦楽団は指揮を見るのと同じぐらい他のきかっけに気を配っていて、ペトレンコは抑えるのではなくて、腕を脇に付けて微笑むとある。正しく特にスカラ座デビュー後に変わったと指摘する「抜き」であって、指揮の名人域に入ってきている。

それ以前の公演地でも最小限の動きで指揮と言及されていて、明らかに二年前の怪我で椅子に座っての指揮のその秋の合衆国初公演の時とは大きく異なっていることに気が付かれた様である。

そして、11月初めとされるペトレンコの言葉、「この交響曲を誠心誠意に演奏できるようになる様に」が引用されている。(続く



参照:
Review: Berlin Philharmonic makes another sublime stand at Symphony Center, Hannah Edgar, Chicago Tribune of Nov. 27, 2024
歴史的交響楽ホールの実践 2024-11-29 | 音
見事なシカゴの音楽会批評 2022-11-20 | マスメディア批評
「大指揮者」の十八番演奏 2014-03-18 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早めに振り返る四季

2024-11-25 | マスメディア批評
ロキソニンなどの服用を止めた、土曜日からである。日曜日は気温が上がったこともあってベットで熱っぽく感じた。なかなか体温調整が難しく、腰痛もあってまだおかしい。それでも食事も十分摂れているので、上手く行けば月曜日には一週間ぶりに走れるかと思う。コロナ期間もこれ程開けたことはないので明らかに二回のコロナ感染よりも重篤だった。

インフルエンザにどこで罹ったかというとやはりアルテオパーだと思う。12日に出かけて、17日に熱が出ているので潜伏期間としては正しいか?コロナ初期にもそこでうつされているので会場は違ってもやはりフランクフルトの空気が悪いのだろう。

薬なしでも外出は可能だった。それでもまだふらふら気味である。関節などにまだスカスカズキズキ感がある。運動を再開するかどうかの目印になる。

10月2日に出かけたクロンベルクでの「四季」演奏会の一部と二部のハイライトが街頭放送局HR2から流れた。最初にアルフレード・シュニトケ作コンツェルトグロッソ6番が最初に流された。この曲では当夜のスターであるヤンセン、クレメル、ムストーネンの三人が共演した唯一の曲で、これを放送するだけの価値はあった。その他の楽曲は別途放送されるようだが、先ずは正しい選曲だろう。最初の二人の競演でムストーネン指揮ではバッハのドッペル協奏曲も演奏されたが、出来としてはやはり落ちる。

コンツェルトグロッソだが改めて何回も聴き返したいとは思うのだが、ムストーネンのピアノが秀逸で、この曲のチェンバロ紛いでもあるのだが所謂プリペアードピアノ風のそのピアニズム、こういう風に演奏できる人はあまり知らない。作曲家としてはそれほどの人ではないと思うが演奏家としては一流の人である。

二曲目は、例の楽譜に書いてある情景を四季の合間合間にアナウンサーが朗読するという構成にしていた。決して悪くはないのだが、ライヴ性はその曲間の調音とかお客さんの雰囲気とかにあるので、その点は物足りない。

もう一つ仕事しながら流していると観ながら真剣に聴いていたものよりも短く終ってしまう。やはりそれなりにテムポも早かったのだろう。クレメルの録音などはそこで濃淡をつけていた。

そうした細やかなところでの音楽性は、ライヴではより技術的な細部への拘りと感じたのだが、やはり音だけで聴くと我々門外漢ではそこまでは分かりにくい。寧ろ淡々とした印象が強くなる。こうした音楽性は意外に先頃のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏での早いテムポと聴き逃しにも通じる。

そして放送時間が余ったので、ピアツォラの作品から夏と秋が放送された。南半球であるから北半球とは反対だという断られていた。やはりこの辺りも、この組み合わせの面白sだの一つでヴェネツィアと大都市との対照にも繋がっている。



参照:
春以来のクロンベルク 2024-10-05 | 音
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝祭的でないブルックナー

2024-11-24 | マスメディア批評
承前)フィルハーモニカ―は響きは筋肉質だが二楽章のラプソディでの温かみ、スケルツォのエレガントなダンスの脚、田舎舞踊の田舎のすごやかさを表現に余すことはない豪放なフィナーレにおいてはアップビートの第二主題が無表情なやさしさにあったとしている。ベルリンの定期からの放送で流し聴いただけなのでその旨はよく分からない。然し少なくとも音楽的な表現力が楽団の音響や指揮者の個性によって潰されているということでは無しに、その反対に豊かであることの裏返しの表現力なのだろう。

どうも言及の箇所は例のリズム的な精査に根源があるようで、ブルックナーの演奏においてもとても重要な時間的な表現となる。それでも翌日のブルックナーに関しては我々がマイクを通して聴いていた様にそうした間が十分に発揮されていたかどうかには疑問がある。

その証拠にここでもティーレマンの言葉を使って、ただ一つこの交響曲における殆ど幸福感がと引用して、ペトレンコ指揮においては愉しくとあって、これ程の意祝祭的でないブルックナーはあまり聴いたことがないとしている。

これは、ブルックナーにおける抹香臭さを避けることを嘗てのブルックナー指揮者ヴァントの様にモットーとしているペトレンコからすればパトスへ奔る表現は採らない。すれば所謂宗教的な「祝祭的」とならないのは当然であろう。

田園的な遊びに満ちていて、ペトレンコは腕を脇につけて穏やかに揺らし、二楽章のレントラーへとチャーミングに殆ど呟かせる。そして四楽章のおどけたクラリネットによって巨大なフーガが剛直ではない悦びを誘う。

ペトレンコは巨大なブルックナーとはしなかった。そこに急峻なクライマックスがあろうとも、大聖堂ではなくてチャペルでのブルックナーとして響くというのだ。ダンシーで驚くべき豊かな音色で、最後のフルートへの収斂に運ぶとしている。

放送でも感じたが、やはりアルテオパーでの名演の様に豊かな宇宙観へと想像を齎すことはあまりなかったようである。サウンドチェックでその音価などには配慮があったようだが、やはりカーネギーホールの音響は中域の張りが大きくて後期浪漫派の音楽にはあまり向かないような感じがする。

その一方一楽章における豊かな和声と軽やかな流れ、二桁三桁の二楽章の間の中間楽章の単調さは全く以ってサブコンシャス的でと記している。正しく私が非ユークリッド空間の認識としたものである。もうこれだけでブルックナーの真意が漸く後世に初めて伝わったのではないか!

それに起動する管弦楽は、吠え狂いから輝くコラール、そし渦巻、沈黙そして精密、たおやかさへと対応するとして称賛している。

既にボストンでのブルックナーを終えてミシガンに行き、火曜日のシカゴでブルックナーで締める。さてどのような批評が続くだろうか。



参照:
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
音楽芸術の時空の流れ 2024-11-20 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有機的合奏の原動力

2024-11-23 | マスメディア批評
合衆国公演からワシントンに続きニューヨークでの三晩の公演から最初に買いの批評が出ている。丁度一週間前になるがカーネギーホールから二晩目は夜中に録音したものである。

初日のプログラムの最初のラフマニノフ「死の島」から始まる。三晩の演奏会でポピュラーコンサートではないものが愉しめるとして、キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーはその力強さと同時に繊細さを兼ね備えていて唯一無二の存在であり、永遠の古典に光を当てるドヴォルジャークとブルックナーのツアーでの七番と五番に言及。そのアンサンブルはあまり真っ当に捉えられていない予期せぬ深み聴かせるとしている。

何時も繰り返している事象ではあるが、このように屡欧州の重要な公演に振れるこの新聞はアメリカで最もよい文化欄を持っているのだろう。「死の島」ではパルジファルと同じく真剣なペトレンコの指揮から重くならない柔軟で趣溢れる音楽となる。船出の近場から崩壊よりも流れが収斂する水煙へとまるで気流が渦を作って各々が散っていくようだとその中間部を表現している。その渦のそれ自体に流動性があるのではなく無為にあるかのようにである。最後にはヴァイオリンのエレジーが、時にはただムード音楽であるかのようなものが、引き剥がされるように醸し出される。

此処での文学的な表現自体にはその文字への言語への共通の感性が必要となるのだが、謂わんとしようとしているのは弦楽陣においても細心のアーティキュレーションとそしてそこにあるべきリズム的な力が与えられて通常ではあり得ない効果を醸し出していたということに他ならない。然し乍らペトレンコ指揮の音楽芸術の聴きどころを文章化しようとした試みである。

コルンゴールトの協奏曲に関してはいつもシュービズ的なものと考えることがあるのだが、日曜日においてのラフマニノフとドヴヴォルジャークに間に挟まれて火曜日にも演奏される、それはペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーによって全く洗練されたものとなったと、当初のハーンに代わって演奏したフランクの抑えた表現は二楽章での感情を書くことはない一方、決してべとべとしたものにならなかったとして、ペトレンコ指揮のそれに合っていたと評価する。

同じような印象は初めて聴いた9月のフランクフルトでも感じていたのでこの筆者の言いたいことはよく分かる。こうしたところがいい書き手いい読み手の通じるところで、所謂玄人は皆よく分かる点でもある。

そして楽員がお互いによく聴き合っていてと、最後のドヴォルジャークの一楽章では暖まった弦がフルートのラインの受け取りと正しく現在のベルリナーフィルハーモニカーが至ろうとしている室内楽団的なそのアンサムブルの在り方であり、音楽的な表現力の緻密さへと通じる観察である。勿論そうした合奏はペトレンコの指揮だけで齎されるものではなく、所謂有機的なアンサムブルの賜物であり、現在の特にスカラ座以降のペトレンコ指揮によって明らかに飛翔させられる音楽の原動力でもあるのだ。(続く



参照:
The Berlin Philharmonic Is the Best in the Business, Zachary Woolfe, The New York Times of Nov. 20 2024
聴く機会がない交響楽団 2024-10-01 | 音
歴史上唯一無二の可能性 2024-11-18 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史上唯一無二の可能性

2024-11-18 | マスメディア批評
合衆国ツアー初日金曜日のワシントン公演の評が出ている。ベルリナーフィルハーモニカーとしては21年ぶりの首都訪問らしい。ケネディーセンターでの貸し興行であったようだが、2500席のシューボックス型のホールで欧州と同じような価格で出ている。

プログラムは11月の最後の定期公演の三曲で、その評に従えば最初のラフマニノフ作曲「死の島」がハイライトだったようだ。二曲目はヴァイオリン協奏曲で本来は合衆国のヒラリー・ハーンがペトレンコ指揮で初共演する予定だったが数日前にキャンセルした。そこで急遽飛び込んだフィルハーモニカーとも初共演で偶々コルンゴールトの協奏曲をレパートリーにしている合衆国の奏者が共演した。

評によるとデルジュスの「イザーイ」の高弦の木の響きが美しかったようで、初合衆国ツアーにおいても交響曲を指揮したペトレンコの指揮を取りつかみどころのない曲をそのそのコードの読み替えしてフィナーレへと高めたとしている。ヴァイオリニストのコントロールされたヴィブラートと書かれているので相性は悪くなかったのではないか。予めそのヴィデオを観ていたが、若干表現力は弱い感じがするが、結局その後の日程で代わりに入ることになった定期演奏会でのヴェルデ・フランクと比較的方向性は似ていると思われる。恐らく楽器はシカゴ出身の彼の方が良く鳴っただろう。

「死の島」への注目はやはりそのシュトラウスに影響を受けた管弦楽法への再認識を与えたようで、5拍子のそれが波の重ね合わせとなる所でも音を落とすでもなく、ソフトに出すことで巨大な効果を上げていたとしている。こうした奏法上の卓越は本年の春からペトレンコから楽団に求められていたことで、ブルックナーの交響曲を含めて悉く成功している。昨年までとは大違いである。

そしてそのモメントの音楽と特筆されているように、リズムによる時間を非ユークリッド空間としている手法はミラノ以来ペトレンコ指揮にて顕著になって来た未だ嘗てなかった効果である。その一方その弦楽陣の一心な姿勢で弾くクライマックスへと持ち込まれ、通常ならば金切り声の高弦は低減によって滲まされてしまうのだが、とても素晴らしいバランスがとられていると、正しく現在のペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの前代未聞の美しさを記述している。

最後のドヴォルジャーク七番では、左右に対抗して配置されたヴァイオリンから行ったり来たりの効果が生じて、作曲家のアクセントが、それが舞曲にも拘らず恐ろしい精度で為されたと、そこに僅かばかりの疑問が生じているのだろうか。然しその答えは、冒頭楽章におけるその部分部分の音楽の意味への意識にあるのではないか。二楽章においてはドヴォルジャークの牧歌的な香りをベルリンの木管群が醸し出したとなる。そして突然のニ長調コーダが開き、その熱量は白熱のようだったと記している。要するに筆者はその全体像を失っているのだろう。並のお勉強をしていては歴史上唯一無二にしかない可能性のある名曲の正しい演奏で創作の全てを掴みそこなうことになるのである。

抑々大管弦楽の通常レパートリーに遠くまで出かけることのない私が熱心に車を走らせて出かけるのは歴史的に一期一会の機会であることを正しく認識しているからに過ぎない。
Benjamin Beilman and the Minnesota Orchestra: Korngold Violin Concerto




参照:
After 21-year absence, the Berlin Philharmonic more than lives up to its name, Andrew Lindemann Malone, Washington Classic Review of November 16, 2024
前世紀に生きる人達 2024-11-17 | SNS・BLOG研究
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詳説必要な舞台背景

2024-11-16 | マスメディア批評
土曜日の早朝は摂氏1度になる予報だ。既に温度は下がってきている。夕方に日没と競争で一っ走りした。気象状況は気圧が上がって来ているようで湿気が飛んで、より乾いた空気が感じられた。土曜日には4時間だけの日照が期待される。洗濯日和であるが、午後の一二時間だけでも狙いたい。その為には午前早くから準備をしておかないといけない。今迄はヒーターのフィンを一つしか使っていなかったが、二つ目を開ける。目覚めが少しでもよくなると嬉しい。

序に車の燃料を10リットルほど入れた。短い距離を走るだけでやはりガタが来ているのが分かる。エンジンとその足元が一緒になってふらふらするのである。漸く二十九万五千キロメートルを越えた程度であるのだが、本当に足腰が弱ってきている。使用年間からすれば満足したが、距離としては一寸残念だ。年間一万二千八百キロメートル程度の走行になる。新車の最初の数年はそれ以下しか乗らないと5年で六万キロぐらいか。十年ぐらいは殆ど修理費無しで過したい。

先月の「ばらの騎士」の日本からの批評がネットで出て来た。短い旅行評であるが、興味深い感想があった。リンクを張るので引用はしないが、新たな視点がある。先ず、ザルツブルクでの共同制作でその舞台美術に苦情している。その背景への違和感ということらしい。

今回はミュンヘンからの隣のおばさんと同様に先ず初日ではそのようなことを考えずに席を選んで、指揮がしっかり見える天井桟敷の捨てても勿体なくないを席を取っていた。だから、背景なども殆ど観ていない。然し、それゆえに歌手のグロイスベェックの乗った車の横で駐車場で再終幕のヴィデオを観ていた。

そしてここで筆者は、その違和感をして、背後にプロジェクターで映される映像が密度もあって質は高いが、舞台に比べてどんどん大きくなったからだとも読み取れる。

ペトレンコ指揮の精密画の様に作り込まれている音楽に対して耳が傾いているとその背景が説得力を持つようになっているというのだ。

個人的には舞台のドラマと音楽つまり言葉から歌そして演技による迫真性・劇性にしか興味はなく背景に関しては補助的な環境設定でしかないと感じる面があるので、そこまでの印象を得たことは殆どない。それでも素晴らしい舞台美術賞は何時も推薦している。そして今回のクッパ―のヴィデオもミュンヘンでの「レディーマクベス」の舞台美術にも印象は残っている。バイロイトでのシュリンゲンジーフ演出「パルジファル」のデューラーのウサギもその通りだ。

それでも音楽と舞台に美術が特にプロジェクターがというのは、最近では「アシジの聖フランチェスコ」に合わせたエンゲル指揮の合唱と音楽ぐらいだったかもしれない。プロジェクターが盛んに使われ出したころには批判が多かった。なぜならば映画的になってしまうからだが、今こうしてそれと音楽とを同等に観察するような視点があることに気が付いた。勿論背後の縮尺やその効果に関しては感想ではなく詳説が必要ではないか。美術館ナヴィというサイトでの執筆である。
Saint François d’Assise - cf. 58m28s



参照:
すべてが異次元に洗練されていた! キリル・ペトレンコが指揮したミラノ・スカラ座の《ばらの騎士》, 香原斗志, 美術館ナビ 2024年11月16日
時とは不思議なもの 2024-11-03 | 音
ブロブの720種類の性差 2023-06-25 | 歴史・時事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お話しにならない耳

2024-11-15 | マスメディア批評
車の保険を決断した。2500ユーロは自責事故の場合に自払いする。これで大分掛け金が落ちる。それでも数年間支払うと結構な額になって保険会社はある程度の事故の修理費がそれで賄える。

最初のオファーが自己負担が500ユーロだったのに比較して掛け金も4割近くになった。その毎年の差額で、駐車場でつけられるような細かな傷は直せる。もしくは二年分で可也のものも直せると思う。その差額で泣き寝入りして自分で修理しておけば掛け金も上がらない。

フランクフルトでの演奏会の評が二種類ネットに出ている。双方とも大した文章でも内容でもない。然し一つの方が明らかに先入観念で聴いていて、音楽を知らないのが分かった。

大まかにいうと、その耳は細かなところを表現すればするほど全体の大きな構成がそして音楽の核心が表現されないと思っている。こうした耳に最もあたる批判は「月を指す指を見る阿保」若しくは「木を見て森を見ない」である。

要するに正確に音化されることでこういう耳は細かなところに気が逸れてそれが全体でどのような意味を持っているかが再構成できないのだ。筆者に言わせると脱構造化するのがペトレンコの音楽らしい。

そのようなものを読む前にアルテオパーの支配人に感想を書いておいた。そこで書いてあることと全く正反対のことである。

「我々はそこで鎮静して心象風景を観照する ― 特に二楽章では、その他の楽章に並んで、ベルリナーフィルハーモニカーの伝統的なそして一心な演奏法を成就した。キリル・ペトレンコのスカラ座デビュー以降の より自由でより柔らかな拍打ちは、アルテオパーの音の行間により多くの音楽的な表現力をそして音色の多彩さを齎した。なんと素晴らしい!2015年11月がもう既に待ち遠しい。」

このように書いた。スカラ座まで行って聴いてきたのだなと思うだろうが、元ベルリナーフィルハーモニカーの芸術顧問にはその聴き方の違いは分かる筈だ。

もう一つの批評は、楽団をランク付けして、他方を貶めるようなことはしない中立であるという、これまたそのようなことと音楽の表現やその方法、そして伝統などが全く分かっていないことを吐露しているようなものである。

要するにこうした技術的に優れていることと音楽的な表現ということとの関係が全く分かっていない人はドイツでも物書きの中にも少なくないということだろう。端的にいうとブルックナーがどのようになにを創作して行ったかの過程に全く想像が及ばないということでしかない。それによって、こうしたブルックナーはバロック的な構築の精神を失って見難い巨大な建造物でしかないと表現するものだから、到底お話しにならない。



参照:
BERLINER PHILHARMONIKER – KIRILL PETRENKO. Eine Konzert-Sternstunde !, Gerhard Hoffmann, Merker vom 13.11.2024
Bruckner unter Hochspannung, Alexandra Richter, Bachtrack vom 14.11.2024
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
バックステージは如何に 2024-09-30 | 女
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

機会均等への社会的判断

2024-07-17 | マスメディア批評
一走りから帰宅への車中。SWR交響楽団の次期音楽監督ロート氏との契約の履行の決定が報じられた。そして文化局長のアンケ・マイ女史が答える。まず最初に、フランスで報じられた事件のようなことはSWR内部では断じて許されない。現在までには問題がなかったとの調査結果 — 嘗て長らく合弁前のSWF交響楽団時の見解は以下の決定過程に繋がるかもしれない。同時にその役割と昨日から楽団との信頼関係なくしては任務が履行されえない。そこから防止策として、指揮者・楽団、客演ソリスツなどに適用される基準が設定された。それを話すマイ女史も楽団のマネージャーと共に自ら監視する責任を負う。

今回の判断には公共放送局として、ケルンでは顧みられなかった、多様化の中での差別のない機会均等の権利を尊重するという社会的な使命がある。つまり本人も過去の誤りを認めていて、そして新たに適用される基準に同意していることから、もう一度機会を与えられてしかるべきだという判断。また同時に芸術創造の場、つまり感情的な親近感などの無いところでは仕事が実らないという特殊性もあって、お互いの信頼感を構築する為には基準の中で試してみるしかないというのである。

こうした判断に至る経過には既に言及した様に過去の楽団からの楽員などの支持も少なくはなかったということで、即ち楽団内にも批判もある一方今後音楽をする環境にはあるということらしい。そしてその決断が社会的に批判を受けてということになるかもしれないが、前任者の時と同じく、楽団と指揮者が何を芸術的に示せるかというSWRの主張となる。

指揮者ロートへの個人的批判点が今回のことでより明白化されることで、音楽的にも明晰化されるのではないかと期待する。舞台上や裏そして会場の受け止められ方は分からないが、最終的には芸術的な評価の如何でしかない。

スチールブラシでゴリゴリやった。昔何かに使ったことがあると思うが自分で購入して使うのは初めてだった。銀色の固い方でごしごしやったが、思っていた様に表面の痘痕が落ちるほどの効果はなかった。だから紙やすりで擦る必要はあった。回りの鱗が少し落ちる感じは悪くない。二種類の柔らかい方を使う必要は無く、やすりで表面を滑らかにするだけで十分だった。

そこで走りに行く予定だったが、まだ陽が高く摂氏30度に近かったので、断念して錆落としの薬品をピンセルで塗ることにした。念のために両方の後輪タイヤには布を掛けて保護した。

細いピンセルを使ったので最小量を満遍なく塗布するに終ったが、少なくとも削った錆の粉などはこれで綺麗に落ちる筈だ。12時間待つので、朝一番に車を動かして走ることで、又一日車を停めておくことが可能となる。上手く行くとその間に塗料も配達されてスプレー塗布も可能となるかもしれない。

念のために下塗りの材料を再検査すると3CM以上の量があり、下に溜まっているピグメントを掻きまわして溶かすと、先ずは一通りは塗れるような気がした。錆び落とした場所も深くはなく薄く濃く塗ることが重要である。痘痕を如何に平らに塗るかだけである。大きな刷毛で塗ってから、クレディットカードのようなものをヘラにして表面を平らにするしかない。



参照:
SWR hält an François-Xavier Roth fest, Anke Mai, 16.07.2024 vom SWR2
隈も何もない浅墓さ 2024-05-25 | SNS・BLOG研究
週末の小片付けもの 2024-07-15 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雷雨のあとの祭り

2024-07-02 | マスメディア批評
ベルリナーフィルハーモニカーの上海公演が終わった。フィルハーモニカー自体は様々な編成で中共公演を引き続きするようだ。予想通りに盗録が自録と称して先ず最初の二回の公演のものがアップされている。

それ以外にも地元のTV局が公演のリポートとして、ユジャワンが演奏する場面などの映像の多くのセクエンツがアップされている。但し正式のマイクロフォンとの組み合わせはなさそうだ。

中露では何でもありなので予想された事であるが、こうした遵法精神の欠如は中華人だけでなく極東に共通したもので、罰則さえ受けなければお構いなしが通る世界である。如何せん極刑が必要とされると、それらの社会が考える所以だ。

初めからこういうことになることは分かっていたのだから正式な録音なり録画をさせればよかったのではないか。まだ最後の二晩のプログラムの隠し録音は出ていない。

ざっと流すと立派な演奏をしていて、ベルリンでの野外での演奏とは格段異なる精密な演奏が為されている。それはワンのプロコフィエフでもそうであり、ドイツ風と上海で批判のあったラヴェルも素晴らしい音響で、これだけの演奏はブーレーズ指揮でも到底無かったものである。そこにはフランス風の奏法とかの徹底以上にやはり異なるものがある。やはり先入観で聴いている玄人も多いのだと改めて確認する。

その中共サイトで探していたら、てっきり先ず最初に出てくると思っていたロシアのサイトよりも早く、プラハでの音楽祭開幕「我が祖国」の実況中継オンデマンドンのコピーが二種類見つかった。音質も悪いので映像での確認ぐらいにしか使えないが、先ずはダウンロードして保存した。そのようにネットで無料で入手不可能なデジタルデータなどは皆無である。

メディアデータに限らずソフトウエア―なども殆どは無料でダウンロード可能なので、ウインドーズ以来今迄有料で購入したソフトウエアーは三種類ぐらいしかない。勿論メディアデータを有料でダウンロードしたことなどは皆無である。絶対どこかに転がっているからだ。必要ならば検索すれば出てくる。その様な実際から一時ドイツでも海賊党という政党が国政選挙に出た背景があった。上の「我が祖国」においてもウニテルが共同制作とあるようなので絶対そういうものには一銭たりとも支払わないという腹が座る。メディア産業が壊滅した背景がそこにある。

先週の夕立あたりから夏の一休みとなっている。三日も続かなかったような夏日だったが、それでもここ迄気温が落ちると体調を崩しやすい。

急激に気温が下がって、眼が塞がって中々開かない。開いても閉じそうになる。なによりも昨秋の疲れからか右肩が痛い。数年前に痛めたのは左肩だと思うが、こうして冷えてくると右肩も痛む。軽く走って来て再び様子を見るしかない。



参照:
すっきり焚いて金鳥 2024-07-01 | 生活
上海公演での指揮者評価 2024-06-29 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今後へ問いかけインタヴュー

2024-06-13 | マスメディア批評
先日新たに公表されたケルンでの演奏会、その背景が新聞記事のインタヴューで分かった。ティーテュス・エンゲルの予定表には入っていなかった「メルティング・ポット」というクロスオーヴァーの演奏会である。演奏会というよりもイヴェントというべきだろう。

内容はデスメタルの作曲家でその音楽アクセントから最も現代のブルックナーとなっているベルンハルト・ガンターの作品で、交響楽団に加えてラップやDJにブレークボクサー、ブレークダンサーが一緒にやるというものである。だから客層も双方からで、会場もホールなどではないパーティー会場。

そしてこのイヴェントは元々は地元の老舗のギュルツェニッヒ楽団をその首席指揮者ロートが振ることになっていたようで、今回のMeToo事件でサドンデスでお役目御免となったことからこの作品を既に指揮したことがあるエンゲルが飛び入りすることになった。知っていたらミュンヘンでなくてこちらに向かっていた。

初演のヴィーンでの映像が残っているようにコルネリウス・マイスター指揮で行われていたようで、それなりに再演されているらしい。しかしこうして同年配の指揮者三人が振るとなるとそれは偶然とは思えない。
melting pot, Bernhard Gander 1:1

melting pot, Bernhard Gander 1:2

melting pot, Bernhard Gander 1:3

2011 Wiener Festwochen melting pot

making of melting pot - Wiener Festwochen/into the city 2011


エンゲル以外の二人の指揮者の顔ぶれを見れば分かるようにどちらかというと保守的な指揮者のレパートリーとなっているようで、エンゲルからすると若干保守的な作品となろう。しかしインタヴューでは、異なる世界を文字通り混ぜ合わせるものだと語る。

指揮者ロートと話したかと尋ねられて、直接ガンターと話したと語るのは当然、何曲もその作曲家の初演をしているのはエンゲルであり一昨年もピアノ協奏曲をシュトッツガルトで素晴らしい演奏で行い実況中継された。そして、今回ラッパーからもその内容をテキストとして提出されて、その主旨を理解したと語っている。その方の総合音楽プロデュースに関しては第一人者であり彼以上にこういうことを上手くやれる人はいない。その意味からすれば指揮者ロートの比ではなく、楽団の後任に決まっているオロスコが如何に指揮の技術が卓越していてもこれからの音楽活動に成果を残せるとは全く限らない。そのことはまさしくここで新しい指揮者の立場が求められていて、その合意の在り方や機能について言及している。最早それ以外の指揮者なんて時代遅れの非芸術的な猿回しでしかないとなる。

そして興味深いことにクラシック音楽作曲家がそうした自由な表現の場を提供することになっているというのがとても興味深い ― このことは先日のバーゼルでの作品に深く関わっている美学的な今日からの視点となっている。

ケルン自体もフィルハーモニーの新支配人、更にペトレンコのアシスタントであったマリージャコーが放送交響団の主席になることに言及して、今後どうなるか、新たな道が拓けるのかと質問されている。それに対して、既に始まっていて、様々な道へと繋がっていて、今回の「メルティングポット」のように異なる層に訴えかけることであるとする。反対に現在の定期公演のようなプログラミングのあり方には大きな疑問を呈していて、象牙の搭に籠るようなそのようなものではなくて、新しいものへのより開かれたプログラミングなどが必要だと結んでいる。

この地元紙を読むとケルンでの活動が前提になっているようにも思われる。先行き不明のSWRのみならずWDRにおいてもジャコーらにだけは任せられないのでエンゲルを必要としているのではなかろうか。



参照:
„Melting Pot baut Brücken zum Publikum von Morgen“, Jan Sting, Kölnische Rundschau vom 11.6.2024
永遠朝七時の目覚まし 2024-06-11 | 女
文化芸術のデスメタル 2023-02-05 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする