Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

薄ら寒い夏時間への移行

2008-03-30 | 生活
ドイツの夏時間が始まった。今回は一時間の時差を感じないですむ。その代わり旅行による時差ぼけを観察している。自身としては比較的珍しい経過である。旅の初めから回想すると、ドイツ時間で火曜日の夜12前には床につき朝5時ごろには何時ものように目が覚めた。それから肉屋などに行き、10時に自宅をあとにした。そして、水曜日の午後2時前にテークオフ、そして翌朝の未明1時過ぎには日本に到着した。

日本では午前中である。機中の飲食の悪さが祟って、頭痛と消化不良であった。その後、シャワーを浴びて町へと出かけ、知人の事務所で話し込むが何時も以上に頭が冴えない。なるほど動き回って飲んで夜中である。当然である。

夕食にざるそばを食し、ビールを飲んで、機内で買ったスコッチをやると夜10時には起きていられなかった。しかし、目が覚めたのは12時ごろで、それから一睡も出来ずに、金曜の朝を迎えた。ドイツの木曜の夜である。

朝から風呂に浸かったに関わらず眠くならない。結局、その日もそのまま過ぎて、夜9時過ぎには立ちながら眠っていた。丁度、徹夜明けの午後1時の感じである。10時には熟睡していた。

そして土曜日は朝早く目が覚めてしまった。そして、午後には急に眠くなったが、飲酒後も気持ちよく、やっと夜半を過ぎて眠りに入った。そして、朝も通常の感覚で目が覚めた。体温が始めて上昇した気がした。土曜日の晩餐会が功をそうしたのだろうか。

そして今、ドイツならば夜中である。ブランチを終えて、初めてヒータを入れた部屋で、また急に眠くなってきている。
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経費節減お粗末さま

2008-03-29 | ワイン
今回の飛行では、飲食も不満足であった。もし高額のチケットを購入する者がいたとして、現在のレヴェルなら苦情が出るに違いない。

そのメニューには、ファーストビジネスクラスの献立は二ヶ月ごとに著名調理人に作らせているとある。今回は、ヴァイマールのホテルエレファントのチーフ、マルチェロ・ファブリが担当していた。

同ホテルには宿泊したことがあるが、マンの小説でつまり「ヴァイマールのロッテ」で有名な、第三帝国時代は象徴的なホテルであり、なかなか素晴らしいホテルである。

さて、このたびのメニューは、離陸後の歓迎ドリンクに続き、日本食を全く無視すれば二種類の前菜・メイン・デザートが選べる。

前菜には、子牛肉のスライスをツナソースであえたヴィテロ・トナートとスモークド・ザイブリンクのフェンチェルオレンジソースと芥子がついている、肉と川魚の選択で、前者を選んだ。

そしてサラダをつけたメインは、ラムの背肉とジャガイモのグラタンもしくはティラピアから前者を選択。

それに合わせて、ワインを選択する。先ずはアペリティフにシャンパーニュで、、ピノノワール・シャドネー・ピノムニエーのキュヴェーにてスルリーの二度目の発酵の酵母臭さが特徴である。そのためか、ストローの色付やヘテアローマにりんごやウイリアムス梨の味とあるが、シャンペンに求められる爽快さはない。うがった見方をすれば、これならば前回の飛行のように一人で何本も空ける私のような乗客は出ないに違いない。全く嘆かわしい。

それを確かめるように少なくとも四杯ぐらいは飲んだのだが。

そして、前菜には、ケープタウンからシャドネーを試す。燻製香と噛みながら味わうが、なるほど機体はこれをケープタウンで積んできたのだろう。それにしても食前酒と同じ傾向で余り杯が進まない。

そこでやっと楽しみにラインガウの名門シュロース・ラインハルトハウゼンの2006年産辛口QbAリースリングを所望する。これがまた甘くていけない。どうも出す方も分かっているらしく、明らかにコスト削減に奔っている。名前だけ名門だも質が悪いものを安く納入させているのだろう。しかし、こうした商品を出していると、醸造所の名に関わるのではないだろうか?

更にヴァルター・ビーボなどとマイスターまで紹介されているとなると始末に置けない。説明には、長く置ける地所などと書いてあるが、もちろん素晴らしいリースリングを作っていてもこの商品とは殆ど無関係である。もう少し冷やさせるて注がせるべきだったか。

いよいよラム肉で佳境に入ってきて、ボルドーメドックを飲むが、これまた同じ傾向である。仕方ないのでスーパーの安売りで御馴染みのスペインのうティエル・レクアナに変える。

そして、最後にはチーズを食べるが、重い気分の悪くなるワインばかりで、家の冷蔵庫を片付けるために持ってきたベルクケーゼがもう咽喉を通らない。胸が一杯である。

そして胸が悪いのを我慢して一眠りするが、目が覚めると頭痛がする。悪酔いである。ワインを飲んで悪酔いなどは何年振りであろうか。

デル・マネゴのワインのチョイスであるが、きっと購入係は名前があって量が進まないワインを中心にチョイスしたに違いない。

朝食にも不味いチーズが出て、乗務員の知っている通り、何もかも落とし過ぎである。こうなると、飛行機の旅などは私のように出来るだけ避けた方が賢明である。

雑誌などの提供品も下がってきているとしか言いようがない。燃料飛行等分を経費削減して、料金競争に耐えているのだろう。

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タクシー運転手への寸志

2008-03-28 | 生活
行き掛けにタクシーに乗ったことを書いた。何時もと違う運転手が来た。荷物を入れるときに、「重いよ」というと、「先ごろ手術して」と言うので、「悪いね」と手伝った。

二台の車の異なる方なのだろう。燃料費高騰のことを話していると、八年に一度の料金改正の次の時には再び燃料が上がっているかどうかという話となった。現在の高騰以上に進むとはだれも信じたくないのである。

しかし四年ほど前に比べて、値上がりしていたのが、50ユーロ近くになっていた。それでもバスの移動した発着場所まで走らせ、鉄道の切符を買うまで待たせたので、少しチップを渡した。

さて、日本ではシャトルバスが到着場所はホテルなので、タクシーをドアボーイに頼むと、重い荷物をトランクに入れてくれた。チップを渡すのを忘れたが、流石である。

手荷物とあわせて、全部で34キロほどあったので、小柄な日本人には大変である。

桜の季節は長く知らない事などや昔のその界隈のことなどタクシーの運転手と話しながら、一万円札から釣りはありますかなどと話して、到着した。ドアボーイに聞いていたタクシーの料金よりも安く、細かな金で間に合った。百円ほど足して払うと、日本のタクシーには珍しく車を降りてきて、荷物を出してくれた。重かったので、腰でも逝かしてないだろうか。
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縁があるのかないのか

2008-03-27 | 生活
飛行機会社の倹約振りは予想以上である。マンハイムやハイデルベルクからのシャトルバスは予約乗り合いタクシーになってしまっていた。それも八人乗りなので、もちろん座席はない。同じような間違いを犯した者がいて、そのトルコ人をそこまで乗ってきたタクシーに誘ったが、フランクフルトの空港までの100ユーロの三等分は高いといって断られた。

そこで急遽ドイツ連邦鉄道を利用することにした。乗車時間は三十分ほどなので、殆ど同じ時刻に到着した。

ターミナルのはずれの国鉄駅は始めてであったが、アップグレードには特別にボーディングカードを出してもらう必要があった。なかなか皆慣れていないようであったが、一列目を確保出来て、エアバス340-600が就航した当初に乗った反対側の座席であった。

飛行機もその時に乗ったニュルンベルクと名づけられた機体で、新車の車が古くなるような経年変化を感じた。19機ある中で同じのに乗り合わせるのは縁があるんですよと、パーサーやチーフスチュワーデスに言われて気分よく乗車した。

しかし、乗用車と同じく、内装などのがたつきが酷くなっていて、当初の静けさはさすがになかったがエンジン音やその他は少なく、やはり優れた機体には他ならない。

八年おきの改装というのでまだ暫くこの状態で飛ぶようだ。その日は、ケープタウンから飛んで来ていて、大阪へと向かい、大阪からフランクフルトへとトンボ蹴りをするので、再びケープタウンへ行くのではないかとお話をした。

そして客室乗務委員の方は48時間後に、操縦士は明くる日に、再び仕事をしながら、フランクフルトに戻ると言うことであった。時差を出来るだけ慣らさないうちに戻るのが最も身体に良いと聞いていたから質問したのであった。

決して、最初に挨拶代わりに言ったように、「機体だけでなくて、客室乗務員も縁がある」ということではないのである。
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三世紀を架ける思い出

2008-03-26 | 雑感
遠縁の日系二世が亡くなったと知らせを受けた。いつの間にかメールアドレスがなくなり、本人から直接音沙汰がなくなってから、三年ほどになる。その後は、三世の娘さんの家族とのメール交換が主な付き合いとなっていた。

そして、昨年のクリスマスメールには、娘さんの家庭のツリーの横にいる母親である奥さんしか写っていなかった。それから、もしやメールを見落としたのか、それとも敢えて連絡がなかったのかと、ご本人の消息が気になった。

あとから考えれば、思いきって聞けば良かったと後悔している。メールには、一月ほど体調を壊し、たった四日間の入院で安らかに亡くなったという。享年94歳とある。

消息を聞くのを躊躇ったのには訳があった。それは2001年に義理の娘さんの実家のあったコルマーに寄って、シュヴァルツヴァルトを案内したときにも本人が主張していたことが頭にあったからである。神経科医であった彼に言わせると、「うちの家系にはアルツハイマーは無い」となぜか好い加減に確信に満ちて断言していたからである。

なるほど本人が電子メールを打てなくなっても決して老人呆けが急激に進んだとは思わないが、発信するものが少なくなっていた感じはしていた。本人の名誉のために好い加減なことは言えないが、果たしてどうだったのだろう。

実は昨晩、久しぶりにホームグラウンドのワイン地所を散歩して、最後に会ったときのことを少し思い出していた。既にその時86歳になっていた彼は戦後日本から迎えた幾らか若い奥さんと共にとても元気だった。

あの観光地のトリベャークの滝に連なる急坂を息を弾ませ、休みながら登っていた情景を思い浮かべる。昔、京都で習ったと言うドイツ語を駆使して、店などで交流を図る様子は、日本人観光客のぎこちなさとは異なり、またそこいらの野放図な米国人観光客とは異なり、ある種の親近感に満たされたものであり且つその年齢故かなかなか含蓄に富んだものであった。

Ich habe Deutsch in Japan gelernt.

とか、なんとか話し出していたのを覚えている。こちらがまだ三週間ほどしか経っていない新車を試し試し運転しているのを見て、歩道に乗り上げるように路肩に停める時は長く斜めに乗せなさいとか、細かな指示をしてくれたのを覚えている。

お互いに共に過ごした時間はとても限られたものであったが、彼にとっては、百年以上前に太平洋を渡って南米の日本大使館に潜りこみ、その後合衆国に渡り、世界大戦中は兄弟二人を故郷に送り教育させた、亡き父親の面影を私に見たのであった。

と言うことで、どうしても共通の先祖は三代前に遡るがするとさらに分家となってからの五世紀に渡る歴史のようなものを考えて仕舞うのである。それはまさに、昨晩葡萄の生育とその土壌を見た時に感じた、循環する歴史なのであった。

兄の方は戦後米国に帰国して、弟の方は日本に残り医学部を退官後十年ほどして亡くなった。四半世紀ほど前のことである。

故人と最後に会った2001年9月11日は個人的にも忘れられない日付となり、そのとき貰ったちょっとしたものが彼の形見となったのである。
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塩チョコにリースリング

2008-03-25 | 料理
ワインを取りに行った際、間違った商品を手渡された。ばたばたしていることもあり、車を車庫に一度入れながら、そのまままた交換しに行った。

間違った理由は分かり、無駄足を運ばさないと、ワインに合うチョコレートを貰った。

各種洋酒などに合うように様々な種類があるようだが、嬉しいことにリースリングに合わすチョコレートというものがあるのには驚いた。

さて、家に持ち帰って早速リースリングに合わせて齧ると、独特な味がしてその南国の果物の味だけでなくなんとなく懐かしい味がするのである。

よくみると塩入チョコレートとある。なるほど懐かしい味は大西洋の海の塩であった。どうして大海は人類にとって懐かしい味とみえる。

ネットを観覧すると、BLOG「雑に」に「塩チョコ」と題して記事が投稿されているではないか。どうも愛好者がいるだけでなく、最近は流行しているようである。

昔から、チョコレートボンボンは当然のこと、ウイスキーやカルヴァドスなどにチョコレートを楽しんだ。以前は飛行機にもこれにコーヒーが組み合わされて勧められたものだが、最近はカルヴァドスは少なくともルフトハンザから消えた。

しかし、塩チョコレートにリースリングがつきものとなると、今後が楽しみである。間違いなく新しいリースリング愛好者の市場が広がるに違いない。
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多様な価値感を履く

2008-03-24 | 生活
靴を買いに行った。冬の間使っていたブーツが冬の間使っていたブーツががたがたになり、夏場使っていた同じく安売りの靴もボロボロで磨いてもしかたない。スーパに行くにも具合の悪い代物となってしまった。

そこでまた、この地方で靴街道として有名な南プファルツのレットアウトが集まる場所へと遠足をした。50KMを三十分もかけて高い燃料代を使った価値があったかどうかは怪しいが ― 途中の小山や古城に残る春の雪は美しかった ―、二時間ほど廻ってなんとか一足の靴を見つけた。

価格以上に、普段履きでありながら、ジャケットに履いてもおかしくなく、尚且つワイン畑を歩いても汚れ難い物を探した。十年ほど以前はそうした用途に英国のクラークスのものを愛用していたので、それを見ようと思ったのだが、価格はどれも90ユーロに近く高めで売れ行き不調なのか以前よりも品揃いが減っていて、奇抜なものかありきたりの物しかなく選ぶことは出来なかった。ドイツだけのことかも知れないが、あのような商品を出している限り、経営状況は決して良くないようにしか思えない。昔からの愛好者がいる銘柄であるが、なんとも高級車ジャグァーもしかり、こうした製品や産業を見る限り英国経済が好調な理由が全く分からない。

結局、ドイツで最も売れていると言う銘柄から、見た目は悪いがとても履き易い物を見つけた。これならば紳士物を別に旅行に持っていく必要がないので大変助かる。価格は、55ユーロとかなり廉いので、いつまでマトモに使えるかなどはあまり考えていない。少なくとも最初だけでも紳士靴として使えれば、後は突っ掛け代わりに気持ちよく使えると思っている。

クラークスの評価に戻れば、昔は直ぐ内装が破れたりしたが、あのなんともふてぶてしい感じが気に入っていたのである。しかし最近のデザインによらず、足入れなどがもう一つと気がつくようになってきて、こちらの靴文化が一ランク上がると、個人的評価ではその銘柄の靴も一挙に価値が下がってしまった。
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バロックな感性の反照

2008-03-23 | 
先日体験したテレマン作曲のブロッケス受難曲においても、信心の三重唱などがあって、ややもするとその扱いによってはかなり誤解を招き易い描写となっている。それを後期バロックとカテゴリー付けしてしまえばそれで終わるが、その中身を覗きこむことが肝要なのである。

そうした観察を難しくしている時代の流れと、謂わば当然のように連なる反動的な文化的進展は、同じく反動的な立場で議論を展開するアドルノのシェーンベルク擁護などにも見られる。そこで図られているのはハイドン以降の欧州の芸術音楽の美学の総否定的決算である。

先日来幾つかの好事家のブログ等でも話題となっているのが、ヴァイオリン協奏曲がその終焉にあたって歴史上初めて構造的に完成したとされる、シェーンベルクが米国亡命後に完成させた協奏曲の新録音である。

該当録音は未聴であり、その機会はないが、先ずはその新聞評などを読んで、この名曲であると同時に難曲を観察してみる。

この曲はハイフェッツを脳裏に描いて創作されて結局その難解さから断わられたように、その本格的なヴァイオリン演奏にブラームスやマーラーを聞くとするのが、若いヴァイオリニスト・ヒラリー・ハーンが録音した制作に対する新聞評である。

この若い女流ヴァイオリニストはお写真しかみた事がないのでなんとも言えないが、この評にて大体の傾向は想像出来る。そして、其処で比較として挙げられているルイス・クラスナーとミトロプウーロス指揮のケルンとミュンヘンでの録音は知らなかったが、それらよりはヴァイオリンの技術は優れていると言う。

さて、当方のリファレンスレコーディングとの比較では、ピエール・アモワイヤル演奏でブーレーズが指揮したものよりも速いテンポで演奏されているようである。この女流自身が語るように、伝統を逸脱したポジション取りや早いアルペジオの稽古に年月をかけたと、正しく発音することがなかなか伝統的な教育を受けた器楽奏者には梃子摺る代物であることを示している。

それがアモワイヤルの演奏では、恐らく奏法の相違からももたされているであろうフランス人の十二分に「弾ききれていない発声」に違和感を感じつつ、軽いテンポのブーレーズの指揮と相俟って上手く流しているのとは対称的に、ラファエル・クーベリックの支えを受けたツヴィ・ツァイトリンの録音では、この新聞評でも動機的な明晰さが指摘される。

特にこの一楽章においては、楽曲分析で度々取り上げられるカデンツァ後のヴァイオリンの連続する三連音による管弦楽の受け渡しに、ヴァイオリンでは十二分な音の積み重ねとそれに対応する管弦楽の対位法的な展開が然るべきフィナーレを形成するのだが、その部分におけるクーベリックの指揮はその精妙な面白さを十二分に伝えていない。

後年のピアノの協奏曲ではあれほどの効果を挙げたラファエル・クーベリックの演奏が12音の音列作法の分析的な繊細を活かしきれていないのが驚くに値しないのは、器楽奏者がそうした伝統的な技術教育を受けているのと同じく指揮者においてもどうしてもその楽曲解釈のよりどころが古典ロマン派的な調性機能が基本になっているからだろう。

それと比較すれば、女流を支えるエサペッカ・サローネンは、ロンドマーチなどでも、鳴らない音列にダイナミックスを与える事に全てを懸けている風情が容易に想像出来る。

その点から、シェーンベルクの編曲で知られるヘンデルにおけるバロック技法とともにこうしてテレマンのそれを平行して考えてみる機会となったのである。それをフランスのリュリからラモーへのまた当時の楽典議論によりどころを見つけても、ただ単にオブリガートによるその旋法を見ても良いが、音楽愛好家としては何よりも出来る限り後年の価値観に侵されていない音感覚を取り戻したいと期待するであろう。

反対にシェーンベルクが、第四弦楽四重奏曲の作曲を挟みながら二年越しで完成させたこの音列による創作がヴァイオリンと言う宿命的な調性楽器のために作曲した意味を ― 後のいよいよ自由闊達な境地にその作曲家自身の境遇を垣間見せる12音平均率のピアノ協奏曲と比較して ―、考えるだけで、アカデミックな音列の分析をして府分けしていくよりもこの曲を理解する鍵を多く与えてくれるかもしれない。

今回の録音が、話題を提供して尚且つ、技術的な水準に達していることから、次世代の演奏実践に繋がる、それ以上に多くの音楽愛好家にこの創作の真価を少しずつ伝える契機になりそうである。



参照:
シェーンベルクとシベリウスのヴァイオリン協奏曲 (♯Credo)
バッハの無伴奏ヴァイオリンおよびチェロのための作品 (西部戦線異状なし)
同じ考えの人が他に6人もいた (4文字33行)
ハーンのシェーンベルク (ピースうさぎのお気楽クラシック)
ルソー
ルソー (現象学 便所の落書き)
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世界平和へ改心を促す

2008-03-22 | 雑感
冷たい雨のカーフライタークである。日蝕の空である。ヴァチカンでの昨晩の教皇の復古調儀式は大問題となっている。一貫した復古主義は、現在のカトリックの政治文化的な位置付けを考えれば必ずしも悪くはないと思われる。

今回のラテン語によるミサでは、「ユダヤ人への改心の促し」は宗教としては当然の行ないに違いない。しかし、ヒトラーユーゲントの過去をもつベネディクト16世がこれを行ない、ドイツのアウグスブルクなどの教会がこれを儀式とするとやはり大問題となるのである。

キリスト処刑の加害者ユダヤ人の日蝕の記載を大分修正してあると言うが、ユダヤ教会にとっては「放っておいてくれ」ではなく「許されない」事となるのである。年に一度の祈りの儀式的言葉であるが、ユダヤ人を屈辱したとされる。

この問題に対して、教皇のアドヴァイザーが記事を投稿している。それをみると若きラッチンガーが1962年から取り組んでいたテキスト改正の詳しい進展が分かるのだが、何よりもユダヤ人迫害の歴史が強制改宗としての過剰反応を起こさせているとするのは間違いなかろう。

ローマ人の使徒への手紙11章が根拠とされ、そこの「イスラエルの再興」に示されているように、「この計画とは、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、その後全イスラエルが救われると言うことです」。聖書に次のように書いてある。

「救うかたがシオンから来て、
ヤアコブから不信人を遠ざける。

これこそ、わたしが、
彼らの罪を取り除くときに、
彼らと結ぶわたしの契約である」。

要するにキリスト教信仰におけるユダヤ人と異邦人の関係はそのドグマに定められているので、容易には切り除くことはできないが、一神教内での対話が道を開くとするものである。

余談ながら、メルケル首相のイスラエル訪問は成功理に終わったようであるが、イスラエルとドイツ連邦共和国との歴史的な契約とは別に、偽りのない強いプロテスタント心情がこの女性宰相の胸には確信を持って隠されているだろう事も見逃せない。

今後の反響によっては、謝罪や訂正などに追いやられる可能性もあるが、所詮カトリックの教義自体が現代からすれば大きな問題を抱えていることであり、ドイツカトリックのヴァチカンに対する批判も、なにもこの問題だけに留まらないのは事実である。

反対に高度な議論を尊ぶ教皇とは言えども、最近になって出揃ってきたラッチンガーの私書「ナザレのイエス」に対する反論とは異なり、こうした儀式に関しては強い指導性を示していかなければならないに違いない。

カトリック教会自体がそうした微妙な伝統感覚のなかでしか生き残れないだろうから、こうした態度は仕方ないように思うのだがどうだろう。そして、チベット弾圧に関して中共政府を非難した教皇の発言に、「内政干渉だ、放っておいてくれ」と反論する中共政府がある。問題は、同じように対話を繰り返して理解して行くだけの共通の素地があるかどうかである。もし、そうしたものの存在に否定的な見解を支持するとすれば、そもそも各々が国際協調どころか平和や友好などという言葉を使うのも馬鹿馬鹿しい。

各々のドグマから容易に解き放たれる訳ではなく、ひっそりと仕舞われて各々の立場が出来上がっていることは確かなのである。聖金曜日の天候は、一時間おきに、霙交じりの悪天とカンカン照りが繰り返されている。
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食後のグランクリュ試飲

2008-03-21 | ワイン
お誕生日会のグランクリュ・ワイン試飲はなかなか上手く行った。特に2006年のカルクオーフェンは、評判がよく、幾らでもすいすいと飲めるという評価が男女二人づつ一致した。

その次に2001年産のペッヒシュタインが講評されたのだが、その香りは最も気高く高評価であった。その期待に応え切れずに、味の方は少し抵抗があるとする意見が多数で、ただ一人朝から試飲したお蔭で口の中が荒れているに係わらずその特殊性を問い続けた。正直言えば購入の際の試飲の時とは異なり口内や喉に若干抵抗を感じたのは事実である。黒パンを摘んだが、それでは戻らなかった。

勿論、美味しいと誰もが言うのだが比較の中で若干、こぼれたようであった。おなじ年のウンゲホイヤーは、その点フローラルな香りが十分に受けて、「お花畑の中のよう」な気分を皆さんに味わって頂いた。

結局、最初の新鮮なワインの飲み口が良過ぎて、評価はひっくり返ることがなかったのだが、皆さんに楽しくワインの土壌を勉強して貰えて大満足であった。

そのことをこのワインの選択に智恵をかしてくれた醸造責任者に話してみた。すると、カルクオッフェンのそのあまりに飲み易いと言う高評価には若干異論があったようで、ペッヒシュタインの細身のクリアーさをやはり推薦していたようであった。これは試飲会前の予想であった訳なのだが、その結果は若干異なった原因は今一つ分からない。考えられる条件は、この試飲を始める前に食事に四種類ほどのワインを飲んでいたことであろうか。つまり、口内が若干食事などに影響されていた可能性である。

ワインの選定と食事、そしてその条件作りは途轍もなく難しい。だからその晩の食事もソムリエによって選ばれたものであったのだった。



参照:
誕生日ワイン会の計画 [ 生活 ] / 2008-02-02
花園に包まれていたい [ ワイン ] / 2008-03-04
倹約家たちの意思の疎通 [ 生活 ] / 2008-03-05
ワイン地所の王道を行く [ ワイン ] / 2008-03-09
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金網越しの文化的虐殺

2008-03-20 | マスメディア批評
人から教えて貰い独第一放送のチベット特集を観た。座談会部分は見なかったが、少ないラサの映像に加えて、中国国内での報道映像に独自に取材した街でのインタヴューを交えて、十分ほどにまとめていた。

その視座は、中国国内でのネット報道規制が示す中国社会の現実と中国人の教育やその報道規制から生まれる飼いならされた社会性を如実に映す事で、我々がこうした人民とどのように付き合えば良いかを問い掛けるものであった。

親中派を自認する者としては、その実態の示し方は誤りではないと思い、また我々の問題として捉える場合の参考になる視点であったように思う。

特にその中華思想は、攘夷でもある民族主義でもあるが、それが情報操作というソフトな情報鎖国にあるとき、その進む方向はコソヴォなどにみられるもしくは第三帝国に見られるようなジェノサイドに至るのではなく、ダライ・ラマが呼んだような「文化的虐殺」に繋がるのだろう。

お馴染みのマルク・ジーモンスが、これを中国最初の「反近代主義への反乱」と呼んでいる ― 暴徒化した若者達が破壊する信号機や自動支払機などのこそがその対象なのだ。つまり、五億七千万人民元に及ぶ中央政府のチベット振興策は、ラサを中心とした経済成長を齎し、嘗てないほどに鉄道のみならず仏教寺院などが観光の対象として整備されて来たようだが、その実は元来そうした近代化にそぐわない密教文化を破壊するものであって、これに対する蜂起こそが中国で最初になされた反近代主義の事件とする意味である。

TVに映された恐らく北京であろう街角の漢民族の反応は、「野蛮人の反乱は大きな中国の中で大した意味はない」とか「オリンピックボイコットなどは、スポーツの政治化で受け入れられない」とか、その与えられている情報のみならず与えられた教育のなせる技で、サファリパーク化したチベットどころか中国大陸の人民が共産党一党支配の下で上手く飼いならされていることを映し出していた。

我々の視点も、その与えられた情報を吟味することなく容易に判断すれば、こうした檻の金網の内側にいるのか外側にいるのか直に定かでなくなるが、少なくとも公に声を上げて議論する素地がある限り、その立ち位置を確認することが出来る。

各地でのデモンストレーションは、その意味からも自由民主主義度の一種の確認作業に違いなく、特にインドにおけるチベット亡命政府筋のそれは、対中国関係からも慎重を期されていて、ダライ・ラマ自身もその政治生命を懸ける必要に迫られている。

チベット入りを禁止されている登山家ハンス・カメランダーは、「破壊のチャンピオン」と中共を呼ぶ。旅行者との個人的な接触を規制され奴隷のように扱われるチベット人を語る。そうした前近代的な植民地政策こそは、毛沢東自らが「宗教は麻薬」と断言していたダライ・ラマ支配の封建社会から、チベット人民を解放した統治政策の結果なのである。

しかし、それは拡張主義的で人種主義に彩られた中華思想そのものであり、そこに米国風の市場原理主義のグローバリズムが加わったことで、文化大革命の残照を残したかのようにイスラム原理主義よりも明らかに文化破壊を推し進める危険思想となっている。

北京政権のダライ・ラマ攻撃はかなりのレヴェルに達しているように見えるが、対話相手として彼以外の人物がいないことからすれば、北京がその影響力を恐れるダライ・ラマの首を替えることで、チベットの運動はいよいよ過激化暴力化して本格的な独立運動になるのではないか?



参照:
Museum des Hasses, Mark Siemons, FAZ vom 18.3.2008

青藏鉄道 (私は日本映画が大好きです)
軽視されるチベット文化 (月山で2時間もたない男とはつきあうな!)
思いを巡らす (うたた寝の合間に)
今日も風邪気味 (日々雑録 または 魔法の竪琴)
それはチベットから始まった (アヴァンギャルド精神世界)
チベット平和の為の署名を!! (Hodiauxa Lignponto)
チベットでの暴動について (Die Sorge)
チベット自治区暴動への対応 (ポラリス-ある日本共産党支部のブログ)
言論統制してもいいことないのにね。 (Famiglia Nera[ 妖婦の日常劇 ])
不愉快な北京オリンピック開催 (ドイツ日記 Les plaisirs et les jours)

麻薬である信仰-2008? [ マスメディア批評 ] / 2008-03-18
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様々な銘柄への批評

2008-03-19 | ワイン
先日東京の水産庁の捕鯨政策を批判した。それに対してオーストラリアのカンガルー政策の記事を読んで、コメントをした。そして、本日になってまたその肉が健康食として欧州でも入手可能と知って驚いた。

前輸出量の八割過多は欧州向けでドイツも主要輸入国という。個人的には、今世紀に入ってから肉食量が減ったので代用牛肉も必要なくなった。だから未だに食していない。油が少なくBSEフリーで野生肉の味で健康的というが、元来牛肉を愛するので、現地でならいざ知らず、今後とも冷凍ものを態々食する気もしない。

アボリジニーの食事としてあったのは日本における鯨の食用と同じで、その繁殖力とラムやビーフに比べて人気が無いことから、今や海外に輸出されているのはやはり不思議である。

Australusと名付けられたカンガルーの肉は、オーストラリア政府の後押しで産業化しているところも鯨肉の場合と全く同じようだ。当然ながら、ポール・マッカートニーやブリジット・バルドーなどという反捕鯨で名の挙がるような反対者が運動していることを付け加えておけば充分だろうか。

ついでながら、先日来吟味したワインについて加えておく。一つは、フォンブール醸造所のムーゼンハング・キャビネットで、そのグレープフルーツ味に絆されて購入した。なるほど斜面の上部にある地所だけに、朝晩よく冷やされてかその酸が素晴らしい。まだまだ瓶詰め後日数を経ていないとは言いながら、大変瑞々しく、現在の状況でその酸の強みに言及されても、まずいと言う者は殆どいないであろう。

しかし、翌日には既にバランスが崩れていて、その落ちた酸のあとに糖などが残された感じがして良くない。勿論、まだ若すぎると言う事実があるにせよ、許容範囲なのであるが、その幾らでも清涼飲料水のように楽しめる前日との差が大き過ぎる。最初のピークを先ず楽しんでしまうのも悪くはないが、9ユーロの価格設定からすると、もう少しあとで試してみるのも良いかもしれない。

もう一つは、ミュラー・カトワール醸造所のMCリースリングと呼ばれる最も廉価なリースリングである。試飲した時の印象と同じで、上のものと最高を争そうほど今までに試飲したワインの中では最も鋭い酸が特徴で、尚且つ気持ちの良い酸である。これも初日は大変楽しめたのだが、明くる日に残りを試すと、完全に落ちて仕舞っていた。しかしこちらの方は、一本6ユーロであり、その価格からすれば「村醒め」度には腹が立たない。しかし一人で飲もうが、二人で飲もうが一晩で消費するとなると、決して廉くはない。また、これは夏までの最初のピークに消費してしまわなければいけないような気がするワインである。



参照:ハイドン作曲、交響曲第84番 (yurikamomeの妄想的音楽鑑賞)
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麻薬である信仰-2008?

2008-03-18 | マスメディア批評
チベット紛争はどうなるのだろう。19年振りの大掛かりな紛争となっているようだ。その実態は報道管制からなかなか流れて来ないようで、TV放送などは映像が無いと報道機関として全く役に立たない。

暴動が起きて、中共軍が警察隊として制圧にあたっているのは間違い無く、ダライ・ラマがオリンピックを前に最後の勝負に出たのも充分に予想される。しかし米国の態度やダライ・ラマ自身の発言などから、今一つその戦略が見えて来ないのは何故なのだろう。

北京オリンピックのボイコットも囁かれるが、映像を含めた報道によって虐殺行為などの実態が伝わらないと、世界の世論は今一つ盛り上がらない。ベルリン政府なども修復したばかりの対中関係から、慎重な態度と共に本来のオリンピック開催までの山場を見極めているような感じがある。

つまり、ボイコットは世論が盛り上がれば、最後の最後まで待って、無駄な費用が掛からない内に決定すれば良い。先ずは、北京政府の対応を注意深く観測するのだろうか。突発的な衝突による死傷者や見せしめ的な弾圧はあっても、組織的な大量虐殺の危険性は少ないのかもしれない。

現時点では、根本的な解決を促す形で、北京とダライ・ラマ亡命政権との対話を求めて行くのが正しいだろう。その過程にて、陰謀や虐殺に繋がる実態が国際社会に知れるようになれば新たな解決方法が生じてくる可能性がある。

ボイコット問題に関する「オリンピックのボイコットは正しいか?」と問うフランクフルターアルゲマイネ紙のネット投票があったので、一票を投じた。上から、

「ボイコットは、スポーツ家を犠牲にするだけだ」、
「中国は世界の若者の祭典を催すべきではない」、
「過去のボイコットは、何ら効果がなかった」、
「中国を制裁出来るのはこの方法だけだ」、
「スポーツと対話は、隔離以上に役立つ」、
「スポーツも政治的な責任がある」とある。

迷ったのは六番目と二番目だが、二番目に投じた。

1936年のナチのベルリンオリンピック、1980年のソヴィエトによるアフガニスタン侵攻、そして中共によるチベット虐殺となるのか、どうかは判らない。ただ1980年を思い起こせば、まだ当時はアマチュアリズムが一部には信じられていて、上の選択肢でも一番上に投票した人は今よりも多くいたように思う。そして六番目の選択肢の代わりに「スポーツと政治を切り離すべきだ」とする「信仰」があったに違いない。

これに近い発言は、リーフェンシュタールの「純粋な肉体の祭典」を演出したナチス政権のように、オリンピックを政治プロパガンダに利用する北京筋が逆説的にこの「言葉の組み合わせ」を用いて、またオリンピック協会などの事業主である「胴元」が、メディア産業やスポンサー企業を代弁して、今でもこれを主張している。両者が詭弁するこの理屈は非常に似通っていて面白い。

また、冷戦下でのアフガニスタン侵攻には、その事情を察する余地もあったように思い、鉄のカーテンの向こう側との交流を望み、五番目の選択肢も支持を受けていたように思う。

しかし、ナチ政権に対する三番目に含意される効果が無かった様に、何よりもこれ以上の犠牲者を出さないように圧力をかけつつ、それを武器化するならば上手に使わなければいけない。少なくとも北京は、あらゆる分割問題には一党独裁体制をかけて強い覚悟で臨んでくることは必至であり、死を掲げた武力的抑圧には躊躇しない。

四番目の制裁方法は事情によっては幾多あるのでこの場合はあたらないだろう。六番目の選択肢で、「商業的な責任」以上に「政治的な責任」があると期待するのは、そもそもお門違いの信仰ではなかろうか?



参照:
Ist ein Boykott der Olympischen Spiele richtig? 
96%が北京五輪ボイコット支持 伊紙調査 (IZA)
好んで求められる選択 [ 文化一般 ] / 2007-11-20
保守的な社会民主主義 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-13
国益と理想の内政干渉 [ 歴史・時事 ] / 2007-09-26
風が吹けば、気が付く [ 生活 ] / 2007-03-05
コメント (2)
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知的エリートの啓蒙芸術

2008-03-17 | 
演奏実践は予想を遥かに越えていた。受難曲公演としては珍しく、最上段席が閉鎖されるなど、作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマン不人気か、これほど価値ある公演に充分な観客が集まらなかった。そのお蔭で二階席の四列目で、十年に何度も無いような画期的な演奏会を体験出来た意味は大きい。現代におけるテレマンの芸術の受容の限界を考えつつ、唯一無二の演奏実践を振り返ってみる。

この受難曲は、フランクフルトの有志の会のために、「パウルス教会」の前身「裸足教会」で1716年に初演された「ブロッケス受難曲」と呼ばれるものである。この当代随一のドイツの作曲家による受難曲の中でも、これの存在は、ヘンデル等の作曲があるに拘らず、恥ずかしながら全く知らなかった。残念ながら、当日のプログラムには、この受難曲の重要な作詞家であるハレで法学と哲学を修めたバルトールト・ハインリッヒ・ブロッケスのプロフェィールについて詳しいが、この受難曲オラトリオについては短くしか紹介されていない。そこには、当時のフランクフルトの市民貴族の団体に九年間務め、英国で名声を掴んだヘンデルと並ぶ大作曲家になるテレマンの毎週土曜日の入場料を取った演奏会と、そのシリーズでただテキストブック販売だけで催されたこの受難曲オラトリオの上演が記されている。そして招待客の太っ腹な寄付金が語られる。

そして、今回のフランクフルトのバッハ会員には、これがどのように受け止められたか?その前に、このオラトリオで女性ソリスツによって歌われる、主観性をもつ「シオンの娘達」を紹介しておかなければいけない。この二人は、旧約聖書でエルサレム市を意味するのだが、ここでも擬人化された形で、市民つまり依頼主であり創作活動の中心となっているフランクフルト市のパトリオリズム団体が「受難」に対峙していることになるのである。

先ずは、それが実際にはどのように響くかをみていこう。このオラトリオでは、リリックなソプラノとドラマティックなソプラノの二人が登場して、リリックな歌声はオーボエやブロックフルートのオブリガートに支えられて長いメロディーを切々と歌い上げ、ドラマティックな声はオペラで典型的なそれを適度のアクセントが加えられた管弦楽上で表現する。この二人が、各々信心Iと信心IIさらに乙女IIIと乙女IIを担当するように考え抜かれた配役マネージメントが施されている。

其処に三人目の女声である「イスカリオテのユダ」がキリストの死に直面して俄然重要性を増してくるのだが、このメゾソプラノの声は同じく、信心IIIと乙女Iを担当する。この役柄の意味深さは、例えばユダがタールや硫黄の気配が雷や地獄と共にテキストに暗示されるときのみならず、信心IIIが命の水の泉と歌う時のオブリガートの鮮烈さは、二百年以上後になってリヒャルト・シュトラウスが表現したそれ以上であり、その意味するところの効果は比較にならないほど深みを有している。モーツァルトのそれとテレマンにおけるそれを、「主観性の発露」と「環境への反照」として比べてみたくなるのである。

そしてそれは、一体何を示すかと言えば、まさにテレマンが死後急速にその名声を失って行ったのとは反比例して、啓蒙思想が異なる方向へと芸術が「疾風怒濤」の方へと向って行った社会背景の変化とすることが出来るのだろう。

つまり、ルイ王朝下に咲き放った「ヴェルサイユの芸術」のエッセンスを引き継いで、主観に容易に奔らない、高品質で最高に知的な芸術を具象化したドイツ最高レヴェルの知的文化人であったに違いないこの大作曲家は、英国で大成功をしたヘンデルのエンターティメントとは異なり、また中部ドイツの伝統的なルター教徒のバッハの至芸とも異なる、知的文化を体現していたのだろう。

その差は、批判されながらもドイツ音楽の伝統として組み込まれていくようになる、このオラトリオのシンフォニアにみる和声進行や、福音師家とキリストのレチタティーヴなどにみられる殆ど二十世紀のパロディーであるバッハ作曲「マルコ受難曲」の突き放した「ビックブラザー」に共通していて、テレマンが頭に描いた聴衆が、ロマン派時代や近現代の教養ある音楽大衆とは大きく異なり、如何に知的水準が高かったかが察せられる。

現代においてもこの作曲家の真意が今一つ広範に伝わらないのは、その客観的な視点を尚且つ多感様式と呼ばれるような繊細な表現で、それに相当する管弦楽法を駆使して声楽を支えていると言う技術的に高尚な卓越以上に、其処で描かれている一般的には啓蒙主義思想と呼ばれる「ライフスタイル」がエリート中のエリートの市民層から何時の間にか異なる支配層へと移って行った社会変動にあるとする仮説が成り立つ状況があるからではないだろうか。それをスノビズムの氾濫と呼んでも差し支えなかろう。

その仮説で議論されるエリート層の再構築こそが現在連邦共和国で教育問題として最重要視されている問題なのである。元来、王侯貴族から市民層へと芸術のパトロンは移って行った訳だが、その結果現在公費を費やして育成され助成される芸術文化活動は、大きな経済システムの中で娯楽以外の何物でもなくなってきている。だから本当の「教育価値」というものが見失われている中にあって、劇場文化を市民の教育の場として活かし、芸術を育んでいく必要がある。

それにも拘らず、「素晴らしかった」と歓声をあげるフランクフルトの良き聴衆は、有閑の高年齢層となってしまっていることが現在の問題なのであり、働き盛りの若い聴衆こそがこうした知的で感慨深い芸術に接してこそ、本当のエリート層が現代社会を支えることになるのである。

音楽芸術の化身となったバッハの受難曲オラトリオやエンターティメントの代弁者であるヘンデルの芸術が現代社会において広く一般的に受け入れられる一方、テレマンの芸術の価値が充分に知られない現代社会は、ますます何処かで履き違えた啓蒙主義を引きずっているとしても良いのかもしれない。

啓蒙思想家レッシングがこの作曲家の芸術を批判した言葉「テレマンにおいては、音楽が描くべからざるものまでを模倣するという悪趣味にしばしば陥っているのである」は、今日においてどのように読み解く事が出来るか。

敢えて言えば、こうした中庸な視点の芸術は数多くの優れた啓蒙思想家の創作にあるのみならず、おそらくエラスムスの思想などに共通するものをここにみる事が出来る。

ここまで書けば、その力強い合唱の力と繊細を極める音楽実践で、演奏者も想像がつくかもしれない。ルネ・ヤコブス指揮、三十人を越える古音楽アカデミーベルリンの演奏で、六人のソリストを加えてリアス室内合唱団が歌った。



参照:
それは、なぜ難しい? [ 音 ] / 2007-11-10
正統的古楽器演奏風景 [ 音 ] / 2005-11-13
企業活動という恥の労働 [ 雑感 ] / 2008-01-25
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
襲い掛かる教養の欠落 [ 雑感 ] / 2007-07-27
周波の量子化と搬送 [ テクニック ] / 2007-02-26
地域性・新教・通俗性 [ 音 ] / 2006-12-18
漂白したような肌艶 [ 暦 ] / 2007-04-02
エロ化した愛の衝動 [ マスメディア批評 ] / 2007-01-04
楽のないマルコ受難曲評I(14.1-14.11) [ 暦 ] / 2005-03-22
楽のないマルコ受難曲評II(14.18-14.44) [ 暦 ] / 2005-03-24
楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72) [ 暦 ] / 2005-03-25
楽のないマルコ受難曲評IV(15.14-15.47) [ 暦 ] / 2005-03-26
ヘンデルの収支決算 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-20
滑稽な独善と白けの感性 [ 歴史・時事 ] / 2005-03-10
われらが神はかたき砦 [ 文学・思想 ] / 2005-03-04
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送料免除の希望商品表

2008-03-16 | 生活
朝早くアマゾンで注文した物がPOSTによって配達された。先日来ネットの情報漏洩で日本で問題となっているようである。BLOG「日々雑録 または 魔法の竪琴」でも記事を見つけ、お怒りの様子が分かる。


各国のシステムはよく似ているようで、その実この機能をほとんど使った事はないが、ドイツのサイトも調べてみた。問題となっている「お望み商品メモ」頁の設定を調べて見ると、「自分だけに」にチェックが入っていたので問題ないことが分かった。

しかし一番上の欄には、「私を詮索する皆に知らせる。(サーチマシンでヒットする場合も注意ください)」とある。二番目は、「許可した人々にダウンロードできるように」とあり、その意図が明瞭なので三番目を選んでいた。

現時点で日本のサイトをみると、設定は、「設定内容を変更する」のリンクより変更できます。とありながら、全くそのリンクも機能も存在していない。かなり混乱をきたしているようだ。

ドイツにおけるアマゾンは、書籍を除くとその仕入れルートに大変問題があり、EU統一化も進んでいるようだが、全幅の信頼を置けるネットビジネスには程遠い。特に外部の販売元の商品が並ぶようになってからは、オークションネット最大手のEBAYサイトの安売りなどと競合となっていて、ネットビジネスの拡大と頭打ちが感じられる。

米国アマゾンの流通資金不足が解消されたのかどうか判らないが、こうした大きなネットビジネスを使う場合はおのずから、こちらにとって大きな利得つまり先方にとってはあまり割に合わない注文しか段々と出さなくなってきっているのも事実である。

つまりこちらにとって都合の良い商品だけを選りすぐって注文して、本当に欲しい商品はむしろ他の専門的なネットショッピングなど使う事が多くなって来ている。それでもクレジットカードでの支払いなど今まで取引があり問題がなかったネットとしての価値もあることは否定出来ない。

EBAYオークションも、あまり売りたい物もないので使ったことはないが、廉く購入できた物は間違いなくあるがこれの使い方も限られて、アマゾンでの第三者からのオファーも使った事は無い。

さて、今回注文したのは、暮れに購入した掃除機の使い捨てゴミバックである。スーパーでは、純正品はなく、逆に高価であって、先ずは純正品をアマゾンで注文した。それだけならば送料がかかって不利益である。其処で数年前から頭の片隅の「希望リスト」に入っていた文庫本の易い物を加えてみた。本は送料無料なので、全てが送料無料になるか試してみたのである。送料はまだ加算されている。

そうなれば、最低20ユーロのラインを越えなければいけない。あれやこれや考えてもう一冊を探し当てた。古典的な名著であればペーパーバック化されていて易いのだが、何も急いで買う必要が無い。其処で見つけたのが、南ドイツ新聞の20世紀文学シリーズの限定販売商品である、其処から幾つかが候補に上ったが結局いつかは買う可能性の強いW・G・ゼーバルトの作品「アウステリッツ」を選んだ。

このようなハードカバー本が、5.90ユーロで入手出来るのも喜びで、これで送料無料である。そして送料を無料にする「個人的ウィッシュリスト」に何年も入っていたのは、バーナード・ショウの「ピグマリオン」つまり「マイ・フェアレディー」の英文であった。



参照:
私に適ったガラテアちゃん [ 女 ] / 2004-12-12 08
観られざるドイツ文学 [ 文学・思想 ] / 2007-11-07
帰郷のエピローグ [ 暦 ] / 2006-12-10
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