バーデン・バーデンでのヴェルディ「レクイエム」
二日目の評がネットに出ている。音楽ジャーナリストのものらしいが、興味深いのは当夜のベルリナーフィルハーモニカーへの評価である。クリストフ・ヴルツェルという人に言わせると、フィルハーモニカーがペトレンコ指揮で聴いた両夜は創造的な演奏で、ムーティ指揮では光り輝くルーティンということらしい ― なるほどカラヤン時代にジュリーニが同曲を振った時にはルーティンとはなりえなかったのであり、私が当時よりも現在のフィルハーモニカーの程度が高いとするその意味するところでもある。
後者の心はそのフォルテッシモでのダイナミックスや最高品質の技術を意味しているので、ある意味我々の見解を裏側から見ている。そして同時にムーティ指揮では木管楽器が比較的色褪せて、遠くからの金管効果などが犠牲にされたという。
木管に関しては、あの晩年のヴェルディの書法の中で何をという気持ちはするが、先ずは全奏におけるムーティ指揮のフィルハーモニカーはとてもいい鳴りをしていて、シカゴのそれと比べてもストレスの無い鳴りだった。反面、弦楽に関しての言及が無く、ヴェルディの音楽を鷲頭掴みにするムーティの指揮の把握と正確さの中でも、細かな表現の表出の限界を説いている。ここは当日のガイダンスにおけるヴェルディの音楽表現への見解となるところで、やはりその書法に戻って考えないと議論にならない。大雑把な言い方をすれば、ムーティにおけるエンターティメント要素というのはヴェルディにおけるそれであり、中欧的な繊細な表現をそこに求めるべきかどうかという比較文化論的な視線が必要となる。この人がランランの演奏についても触れているのを読むと、これ以上議論する必要はないかと思う。兎に角映像の放映が待たれるところだ。
水差しの栓のクリスタルグラスをタイル床に落とした。首が破壊された。腹立ち紛れに掃除機で吸い取ってしまったので、実用的に埃よけとして使うにも首が座らないことに気が付いて、一部修復しようとしても破片をごみの中から発掘しなければいけなかった。とても腹立たしい。背後で鳴っていたのはMETからの「神々の黄昏」で、その演奏からあの二代目のジョルダンがなぜとか考えていての事故だった。
バイロイトの「マイスタージンガー」に続いてまともに流し始めたが、とても最後までは流しておける代物ではなかった。どんなにいい管弦楽団やアンサムブルでも壊してしまえる指揮名人だと思った。そしてここぞというときに泣き節で歌わせる。恐らくこの指揮者はおとうちゃんと同じように映画業界でサウンドトラックを指揮していれば丁度良い ― 要するに楽想楽想を繋ぐことも儘ならないぐらいにしか楽譜が読めていない。音楽監督と同じ事務所ということでミュンヘンでは一度振らせたようだが、皆口を塞ぐしかなかったであろう。ヴィーンの次期監督とは七不思議であり、本当に就任できるのだろうかとしか思われない出来の悪さである。パリの音楽監督ということで、その劇場の音楽的な水準がドイツの二流の国立劇場程度と知れるところとなる。恐らくヴィーンの音楽監督史上最低の監督ということになるのは間違いなさそうである。それにしても指揮者が出てきてMETが少し沸くのはファンクラブのお蔭かそれともサクラを入れているのか?
監督としての能力としての問題から蹴られてしまったティーレマン指揮で生中継を流す。そしてそのブルックナー二番に合わせた委嘱曲の程度の悪さ。こうしたネオロマンティズムの曲を委嘱する方もする方で、演奏するものが馬鹿にしか見えない。
次期音楽監督には音楽的にはティーレマンの方が適任ではなかったかという妄想もそのブルックナーの第二主題が出るところぐらいで簡単に雲散霧消する。やはりこの不器用な指揮者はアゴーギクを効かすというよりも指揮者としての基本技能であるテムポを保つということが出来ないようだ ― こちらも楽譜が読めないのとの二重苦になっている。全てのその政治的な主張とか云々とかあらゆる要素を打ち消してもやはりキャリアをそもそも歩けないようなどこの地方にでもいるようなドイツ人指揮者でしかかったことを如実に思い起こさせてくれる。こちらはドイツェグラモフォンの責任だが、最近はソニーが全ての美学的な価値観をポピュリズムで壊してくれている。
嘗てのホルスト・シュタインとかその辺りのカペルマイスターと比較して、現在のその人たちの技量の低さを思う。一方では指揮技術などの洗練で程度が随分と変わってきているのにも拘らず、埃っぽいオペラ劇場で奈落の中で仕事には発展が無いようである。大体あの手の指揮者助手は歌劇のピアノ譜を適当に音にするだけで、自分が正しいリズムを作ってテムポを維持するというのではなくて指揮者や歌手に合わせて伴奏するというのが能力なのだろう。
今回奇しくもズビン・メーターがフィルハーモニカーの指揮台でオペラ指揮の妙味を見せてくれていたが、やはりあれは現場で歌手に合わせているようでいながら、実は胴を取っていて ― ムーティなどでもメーリに合せた指揮を展開していた ― フィリップ・ジョルダンが場面に合わせた繋ぎ合わせのサウンドトラックを振るようには全くならない。どうもあの手の指揮者はお頭が悪いというのに尽きる。
週明けにはベルリンからのプレス会見中継がある。不思議なことに、改めてベルリナーツァテュングが8月25日がお披露目と書いている。25日はザルツブルクの初日で、それはありえない。ベルリン在住の人は本当の期日は、またなぜこうした誤りが罷り通るのかが想像可能かと思うが、私は分からない。少なくとも24日が初日だろう。昨年はベルリンで二日あったが、今年は一日だけなのだろうか?
参照:
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女
怖気づいた伊人の実力 2019-03-16 | 女