Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

一部のお客様でアクセスできない場合がある

2025-01-12 | SNS・BLOG研究
2025/1/10 16:40 追記

現在、引き続き調査中となっているのは以下の事象です。

・外部サイトへの共有の際、OGPのサムネイルが表示されない
・記事投稿時に、一部サイトのリンクが挿入できない
・メール投稿がエラーになる場合がある

また、現在一部のお客様でアクセスできない場合があることを確認しております。

現在、多くのお客様よりお問い合わせをいただいており、ご返信にお時間をいただいております。
最新情報はこちらのスタッフブログを更新いたしますので、今しばらくお待ちいただけますと幸いです。

■【暫定復旧】gooサービスにアクセスしづらい事象について
https://help.goo.ne.jp/help/article/2851/

ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。復旧まで今しばらくお待ちください。

https://blog.goo.ne.jp/staffblog/e/a28fd96c4a75faf7c7ecab5ddebddcea?_ga=2.42252133.1334583118.1736636103-1804130608.1736636103
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海外からのアクセス不可

2025-01-08 | SNS・BLOG研究
以下の様な事情で、noteの方への全面移転を検討中。

https://note.com/pfalz




2025/1/7 12:36 追記

以下の不具合については、現在解消しております。
・リアクションボタンが正常に動作しない(表示されない)

もし上記不具合が継続している場合は、以下ページの「こちらよりお問い合わせ」よりを問い合わせしていただきますようよろしくお願いいたします。

■【暫定復旧】gooサービスにアクセスしづらい事象について
https://help.goo.ne.jp/help/article/2851/

ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。深くお詫び申上げます。復旧まで今しばらくお待ちください。
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深く息をついてから

2024-11-27 | SNS・BLOG研究
水曜日のボストンでの批評が出ている。同地の音楽ブログのようだが、前回もそのサイトを読んだ。前回は、マーラー作曲七番交響曲ではなく、もう一つのコルンゴールトの交響曲のプログラムだった。つまり今回初めてペトレンコ指揮の真価が問われるところとなった。その通り、ユダヤ系の筆者がその合衆国での音楽の流れの視点から書いていたりした。それに比較すると今回は交響曲における指揮者の構成力と等される見識が試されることになった。それは一夜のプログラミングによって語れれる物とはまた異なる楽曲の創作への深い視点が要求されるものだ。

筆者のゲンツ氏はケルティックと文学をハーヴァードで学んだようであるが、楽曲への個人的な視点は明白である。恐らく録音評などもしているのだろう、楽章ごとの演奏時間や主題のテムポそしてその動きに注目している。炬燵記事の音楽ジャーナリストと言えるかもしれない。

先ずは、ベルリンとは異なってボストンでこの曲が演奏されるのは珍しくて、1959年、2007年の演奏とゲストとしてはマゼール指揮クリーヴランド管弦楽団以来としている。要するにブルックナーはあまり人気がないということだろう。然し今回はネット販売で完売していたので指揮者と楽団、ブルックナーにとっての成功と書いている。

比較としてネーヴェ・ヤルビの採ったテムポで62分の演奏、チェリビダッケの90分そしてその中間にあるベーム、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュらの中間では、アレグロは早過ぎず、二楽章は遅すぎずの70分ほどが適当だという認識から入っている。

そこで、結論からするとペトレンコ指揮では一楽章は若干早くても、二楽章は若干遅くても、フィナーレのコーダはもう少し大きくても良かったのではないかとしている。要するに個人の評価基準は録音比較でしかないかもしれない。然し細かなところでの拘りはあって、20分掛った一楽章でのテムピ運びにおいて、主題でピアノからフォルテシモへの繰り返しで多くの指揮ではそこで吹かすのだが、楽譜にはそうなっていないと、ペトレンコ指揮の正しさを指摘している。二主題でも悲しみはあっても後悔とはならない、三主題の加速は伝統通りとしている。それらを以って、構造的な把握を評価している。これをその指揮技術的なこととはせずに音楽的と考える筆者である。

二楽章は16分のようで、ポリリズムの扱い方が今迄には聴かれたことがないとしていて60メトロノームはアダージョの限界であるが、その「とてもゆっくりに」は、マーラー自身がアダージェットを交響曲五番で使った様に、マーラー自身の指揮に合わせるとそのもの16分になるだろうと算数をしている。つまりカラヤンの22分やチェリビダッケの24分は間違いとなる。

13分の三楽章では電光石火のスケルツォとその後のレントラーのヴァルツァーへの流れなどを、多くの指揮者がテムピを落としてしまって、レントラーが更に遅くなることがなかったと評価している。

ブルックナーの言葉として、最初に「大切なことを話す時には、いつも深く息をつくのだ。」と提示されているので、テムピとその拍の関係には直接言及されていないが、間違いなくそこに気づきがあったのだろう。(続く



参照:
Petrenko & Berliners Triumph in Bruckner 5, Jeffrey Gantz, The Boston Musical Intelligencer of Nov. 21.2024
暗黒の歴史を払拭へ 2022-11-15 | マスメディア批評
祝祭的でないブルックナー 2024-11-24 | マスメディア批評
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前世紀に生きる人達

2024-11-17 | SNS・BLOG研究
火曜日のその壮行会演奏会の評ももう一つ出ている。そこでは先ず会場のアルテオパーの音響が本拠地のフィルハーモニーと比較されている。個人的には支配人にルツェルンとの比較を書こうかとも思ったが、先方はよく知っているのだから、態々それを評価するつもりはないと思った。だからアルテオパーの音の行間で言及したつもりだ。勿論フィルハーモニーのワインヤード型の会場ではルツェルンのそしてアルテオパーでの音響は得られない。ルツェルンは理想的で後者は限定的なのはそこでも指摘されていて、ベルリンでの様に分析的に聴きとれるのはバルコン席と平土間前三分の一だという評価である。個人的にはコロナ期間中に席が限定されたことから丁度言及されるような位置にも座ったことがある。前者はシューベルトやヒンデミート、スコッチの三曲だったが、ヒンデミート以外はそれほど感心しなかった。

ここでこの筆者の認識を理解しても良かったのだが生憎乍ら出来ずに読み進める。最初のピチカートの出だしから総奏になって退けづり、その座席位置で充足してしまう楽団は他にないと書いて、フィルハーモニーでは全てが明晰に鳴って、映画に比するべきと書いてある。なぜここで「映画」が出てくるのかさっぱり分からない。そしてそこで身を退けづり、もうこうなると直接音のそれから逃げられなくなったと、堪忍ししたのだろうか。

ここで筆者の言いたいことを推して知るべきだった。音圧が大きすぎるなら距離をおけと言いたい。然し、事実をも報告していて、フィルハーモニーの場合は音が分散するから細かなところがばらばらに聴けて、尚且つ威圧感が薄いといいうことの証明にもなっている。この筆者が聴いていないのは和声の流れである。

だから音の行間と評したのであり、その特徴が流れの様に捉えられるのがルツェルンのホールであり、そこまでの方向の定まった流れではない渦が生じるのがアルテオパーである。長年通ったホールなのでその特性もよく知っているので言えることであり、最もよい位置での評価は決して悪くはない。

何故この人達がその一方今回の公演で自発的な拍手が生じそうになった二楽章ではプログラムにあったような「夢みる夜想曲」なんかではなかったと批判する。その木管の受け渡し、そしてふくやかな金管を弦の立派なカンタービレが支える繊細さをおしても、あまりにもXXLサイズで、そしてここで答え合わせだ。大フィルムサウンドトラックに彩られた風景でしかないと書く。

心象風景どころではなく、サウンドトラック映画の風景らしい。これを解析すると、この筆者は音楽の語り口ということには全く関心が向かわないらしい。どうも判断するのは大管弦楽団から声部を聴きとり、それと同時に心打つサウンドの可否らしい。その点では先の批評には、ベルリナーフィルハーモニカーの熱く冷たい天からの捧げものとしている。然しそれと音楽的な本質則ち一筆一筆と進める作曲家の創作の過程が全く読めない人が多いようだ。要するにこれらは全てサウンドのイメージでしか聴いていない人たちで、それゆえにサウンド云々やストラヴィンスキー的リズムとかにとても言及が多い。自ら書くように20世紀後半の後遺症から抜け切れていない。こういう人達にはクセナキスの名演の意味も全く理解できていないであろう。



参照:
寂寥感溢れる心像風景 2024-11-14 | 文学・思想
お話しにならない耳 2024-11-15 | マスメディア批評
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独語圏からの物見雄山

2024-10-30 | SNS・BLOG研究
スカラ座の再演「ばらの騎士」最終日である。前夜には新制作「ラインの黄金」初日があったので、ドイツからも沢山の人が出かけている様である。

その前に最後から二回目の10月25日公演の独語の評がオックスを歌ったグロイスベェック氏によってリンクが張られていた。余程いいことが書いてあるのだろうと思って読むとその通りだった。キリル・ペトレンコと並べてその第一人者ぶりが紹介されている。

それによるとニーダーオーストライヒからのバリトンは正統的であり、立派で素晴らしく、無茶苦茶いいと評される。長い息で深いCが劇場中に長く響き渡ると書かれると、彼が地下駐車場でまさにその音を隣で試て出しているのを思い出して仕舞う。初日の隣のおばさんにもそれを伝えると笑っていた。

笑うのはそれだけでなく、この筆者は、先ずは写真でも紹介した世界一立派な商店街アーケードからボックス席に居座る物見雄山の人々を揶揄しながら、私達と同じように天井桟敷へと通されると、エクスクルシーヴだと書く。私もその入り口には結界があって、いちいち外して招き入れてくれるので、同じことを会場の娘さんに言った。初めは分からなかったのだが、休憩時にもそれがあったので、天井桟敷連中が下階に行かないようにしているのが分かり、書き手は行き場を失ったのだろう最上階のロビーが素晴らしいと全く同じ挙動をしているのが分かった。

そしてペトレンコ登場には階下ではざわざわしていてもやはり天井桟敷にはファン層がいるようでと報告して、その雰囲気で楽団が力強く弾み、幕の終わり毎にしかるべく更に大きな酔いしれた喝采になったと伝える。通常の大編成のシュトラウスの編成乍息をのむような羽根の生えた軽やかさと活き活きとした奈落からの音響で魅了する。チェレスタのアコードは劇場の場所に散らしていて、甘いシュトラウスの響きのご褒美で耳を擽ったとある。

この書き手が肝心な音楽をあまり聴いていないことは、オタマジャクシ毎に感情を正確に伝える素晴らしいマルシャリンの一幕の最後には言及しても三幕には言及していないことで認識される。然し、ゾフィーの歌に関してはその歌声と、その台本以上の意味合いを大勝利と評価している。

そして、このヴェルディの殿堂においてのシュトラウスはヴィーンにおいての「テューランドット」のようなものでと、その位置づけと同じく主要レパートリーではないのかと、この「ばらの騎士」が世界の頂点で鳴り響いたとしている。見出しはその通り「ペトレンコとグロイスベェックが「ばらの騎士」クローンをスカラ座に持ち込んだ」である。

その一方では、演出の手直しなどからヴィーンらしさがなくなっていてと、正しくこの演出の核心をペトレンコ指揮でとり直したことをよく理解していないようである。こうした節々に書き手のその認識の程度が垣間見える。

さて前夜のそれとは打って変わって、再演の最終日を見届けた評論家諸氏のその反響を待ちたいとは思うのである。価値のある為になるような評が出るのを楽しみにしている。



参照:
Kirill Petrenko und Günther Groissböck bringen die goldene Rosenkavalier-Krone auch in die Scala, Andreas Schmidt, Klassik-begeistert vom 27. Oktober 2024
四半世紀を越える感興 2024-10-28 | 雑感
持ち交わす共感のありか 2024-10-14 | アウトドーア・環境
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隈も何もない浅墓さ

2024-05-25 | SNS・BLOG研究
眼の下の隈が改善されている。これならば取れる可能性がある。抑々原因は眼鏡の関係で眼精疲労だと思っている。石鹸効果もあるのは間違いない。何も必ずしも薬用石鹸ばかりを使っていたのではないのだが、多用していた傾向があった。先ずは全く使わないようにしている。コラーゲンスープを二週間に一回を若干増やしている。

水曜日にパリのマガジンからの報道が出て、先日その顔を合わせた指揮者ロート氏のセクシャルスキャンダルが問題になっている。2005年ぐらいから話題になっていたようで、当時の仕事仲間であったパリの放送交響楽団のコンサートマスターがSMS攻撃を氏の滞在先のホテルの部屋から受けたとある。絵文字に留まらず直ぐに陰茎の写真が送られて、ヴァーチャルでシャワーを浴びようとお誘いがあったという。2009年前にそのような行いは繰り返されていたようで、2019年のパリ管の後任候補になっていた時にはパリ市から情報が寄せられていたという。

要するに正式な被害届は出されていたようで、女性にだけでなく男性にも向けられていたらしい。2012年ザルツブルクのビアガルテンで出合ったライプチッヒの劇場の広報担当者にも執拗なSMSが寄せられたという。

仕事関係で行っているのでMeTooには確かになるが、セクシャルハラスメントとして裁かれるべきかどうかには疑問が多い。しかし陰茎の写真を送り付けるなどはそれが犯罪とされるので、性的な迷惑行為には違いないだろう。

先日も身近で顔を見て、また向こうからも感想を伺われたのだが、また昨年の復活祭での楽屋口でタバコを吹かす様子を観察していて、また数多きハートをSNS上で貰い、最後は先週貰ったばかりなのでその人間性や生活はよく分かっているつもりだ。

一つはSNS中毒で、それは仕事ついでの活動で決して悪くはないと思うのだが、SMS中毒の方が具合が悪い。その性的な傾向はこれはどうしようもないのだが、やはり普通はもっと慎重になるだろう。

秋からの新シーズンに首席指揮者の就任するSWR交響楽団では、前歴の同放送局の交響楽団でもこれといった情報はないとしている。現在のケルンでもそれは苦情としては出ていないらしい。問題は立場を利用したハラスメントが存在するかどうかであろう。

やはり焦点になるのは先々週に聴いた氏の創設した楽団レシエクルでの事件があるかどうかではないか。そこで問題が出ているとなるとやはり厳しい。今迄に消えて行った若しくは逮捕されたミュンヘン音楽大学の学長やティロルの音楽監督などはそうした立場にいて、明らかなハラスメントの事例であった。

個人的にも昨年やはり映像を送ったり、双方向でのネットチャットを思い留まったことがある。それはどのような関係であっても、または先方から誘われたとしても少々の用心深さがあれば誰もやらない。仕事場で口説いたドミンゴなどはその点分かりやすい。

水曜日にはチャットパートナーの彼女が再びインスタグラムの通信を見返したらしいが、彼女にしても用心深いぐらいの方がやはり真面であって、いい加減なことをするような人間ではやはり真剣に付き合えない。

指揮者ロートに関して感じていたのも実はそこであって、馬鹿とまではいわないが、やはり浅墓としか思われないのだ。それが彼の音楽に対する私が示した態度だった。私の表情を覗き込んでいたが、そういう反応をしっかり伝えておいた。


引用 — 「この指揮者がブーレーズのその任の跡を継ぎたいと思ってもそのようには指揮出来ないのはなにもあのリズムの精密さや明瞭さの技術的な問題だけでなくて、音楽的な思考に準拠するものだと理解した。」(虻蜂取らずになる活動)



参照:
虻蜂取らずになる活動 2024-05-10 | 音
主役を担うのは歌える歌手 2022-12-22 | 文化一般
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突然変異のレセプター

2020-05-12 | SNS・BLOG研究
コロナウィルスの遺伝子分析から色々と想像が出来る。所謂中国発と欧州発のウイルスが異なり変異が起きていて、特に抗体のレセプターに関するところが変異しているのではないかという論文が話題になっている。自分自身も何回も掛かっている感じがするので、まさしくその抗体が出来上らないという感じの説明となる。しかし門外漢の者はそれ以上は何も言えない。誰も決定的なことは現時点では言えない。

しかし、ドイツで最初の感染例を調べて、そのウイルスが変異した所謂欧州型であると言う話しは様々なことに合致していて、充分に状況証拠がありそうだ。そしてあまり知られていないその感染源となったとされる中国法人の女性従業員らしき人が上海からミュンヘンに飛んで来ていて、旅行以前に彼女の出身地武漢から両親を迎えていたという報道と、彼女がミュンヘンを後にした1月22日後の24日に上海郊外で欧州型の検体が採取されているというのは偶然に思われない。

先ずBavPat1とマーキングされた検体は1月28日に採取されているので、ドイツでの最初の陽性者で、件の女性とミュンヘン郊外の本社でミーティングなどで彼女の滞在中の1月19日から22日までの間に接触していた。そして彼女がミュンヘンを後にした27日(月)前の週末に熱っぽくて、週明けの出勤後に検査して陽性が確認され、隔離された。その後2月11日までに千人ほどの従業員の8人が陽性で、家族などを含めて大掛かりに検査と追跡調査がなされた。

これが、従前に準備していたコッホ研究所が早期に調査等したと自負しながらも具体的にはヴィーラー所長が一切語っていないものだ。その様子から何かに口を瞑んでいるという印象があったのだが、その理由は恐らくこの背後事情にあったと思う。

当該の会社Webastoは車のカブリオーレの屋根を作る会社で世界戦略をとっていて、上海だけでなく武漢にも新工場を建てて、昨年9月7日にメルケル首相直々テープカットをしている。そのこと自体には問題はないのだが、会社が従業員を守ったというその情報の出し方に問題が無かったのだろうかとヴィ―ラー所長の表情などを見て思う。

要するにここから変異したウイルスが北イタリアへと運ばれ多大な被害と感染の原因となり、その後の中共帰国者ニ名を除くバーデンヴュルテムベルクでの第二例や、死者を多く出した第三例のノルトラインヴェストファーレンへと逆輸入されたことになっている可能性があり、当然のことながらコッホ研究所は仮説と証明が殆ど出来ているに違いないということだ。なるほどイタリアなどよりも早く把握していたという自負になる。途中で、ボルドーで流行っていたフランスから帰宅後に感染確認、ドイツで最初に亡くなった67歳のバイブリンゲン近郊の男性、その奥さんの北アフリカから帰国して感染後死亡した女性はこの変異型ではなくて中共直輸入型に感染した可能性が強い。しかしその後の同地方での感染状況や死亡状況はあまり変わらない様に思う。つまりミュンヘンでの通勤圏と居住地域との差もほとんど出ていない。十万人に300人超えの陽性率である。

武漢は1月23日に閉鎖している。それ以降EU内でも中共との航空便を減らし、停止するような動きになった。恐らく件の女性はそうした動きの時に急遽帰国した可能性もあり得る。そして熱などの症状を呈したことから上海の空港で引っかかって24日検体Zhejiang/HZ103 となった可能性もある。所謂欧州型に変異したウイルスがそこで見つかっている。もし空港で隔離されていれば中共では欧州型のウイルスの感染は先ずとめられたことになるのだろうか。

そしてミュンヘンの会社のクラスターからの拡散は止められなかった可能性が強い。当地の大まかな環境は一昨年、昨年、そして今年も6月に泊まりに行く予定をしていたので分かるのだが、ミュンヘンの市街地からアルゴイ地方にかけてと可成り大きな範囲で通勤や物資の動きがあるところだ。家族の学校とかを含めて容易に感染を喰い止めることは出来なかったに違いない。

バーデンバーデン祝祭劇場のスタムパ支配人がSWR2のインタヴューを受けている。まだ州からの支援はブロックされているようだ。中止になっていない聖霊降臨祭や夏のフェストも中止になって四百万オイロから八百万オイロの損失となるらしい。復活祭も含めて、それ以外の方法での開催は事実上難しかったとする。これは納得のいく言葉だが、新シーズン九月以降の問題もプランBは出て来ない。収益性の問題でもあるだろうが、損失額は大したことはないので先ずは何かを動かすべきだろう。協力すれば損は補填できると思う。ザルツブルクもプロムスもルツェルンも思わせぶりな態度を保持している。全てはこの五月に決定されるということになっている。



参照:
衛生へのタスクフォース 2020-05-11 | 文化一般
南仏か、高地ドイツか 2018-10-05 | アウトドーア・環境
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怖れや喪失や萎縮、孤独感

2020-05-03 | SNS・BLOG研究
早めに出かけたが、パン屋の外で二人ほど待った。それでも二分も掛からなかっただろうか。書き忘れていたが先日は爺さんがマスク無しで入って行った。事情があるのか、知ってても敢えてつけないのかは誰も咎めなかっただろうから分からない。爺さんはうつるとおぼなそうなので放っておくしかないだろう。そもそもあのような爺さんが症状無しで感染しているのなら世界中誰も何もしないで済む。それで終わりだ。

ベルリナーフィルハーモニカーのユニセフ寄付の語り掛けをペトレンコがしていたものだから、それに留意を払って送金口座を提示した。もうこの時点で一銭も払わずには逃れられないなと思っていたが、ナミビアのユニセフおばさんらしきから礼のコメントを貰ったのでもう堪忍した。マーラープロを聴く予定でキャンセルとなって戻った金でも払い込まなければいけないかと思った。SNSは結構怖いものだ。

そもそもああした大組織に寄付などしたくはないのであり、今回初めてベルリナーフィルハーモニカーがやっていたことを知った。しかし今後も何だかんだとペトレンコが寄付を呼びかけたらどうしようかとも不安に思った。

「芸術や文化を共に体験することは断念できる不要なものではありません。このことを今改めて、それどころかより今こそ強く、その失ったものの価値を見出すことになっています。芸術や文化は、書く其の侭の意味において、生活必需品なのです。」とヨーロッパコンサートの冒頭の言葉としてシュタインマイヤー大統領は語った。

「その気持ちや感情は、私たち皆が感じていもので ― 怖れや喪失や硬直や孤独感などです。」とペトレンコが恐らく寄付呼びかけの収録の席でとても珍しくカメラの前でインタヴューに答えている。



参照:
二年越しの重点課題 2020-04-06 | 文化一般
見出す乗り越える路 2020-04-08 | 音

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切り捨てる腐ったキュウリ

2020-04-07 | SNS・BLOG研究
独第一放送で陽性者数の少ない国を洗っている。ポーランドは、市民の意識が日本と似ている程度の国で同様に極右ポピュリズムが政権をとっている。そしてまったく日本と同じようにコロナテストがされていないと反体制派は騒ぐ、実際にそのテスト数は今迄僅か五万件のテストが三千八百万人の国民になされただけという。その一方政府は早い時期から国境を締めて国民に外出禁止を科したことから、その陽性者数が危機管理の成果として受け止められているとされる。その意味からは日本の政府よりは遥かに独裁的で賢い政府である。しかし実際にはテストを受けたくても受けられない人が多く、実際の感染度は知られていない。

もう一つのEU加盟国の例としてポルトガルが挙がる。こちらは同時に日本では神風のように心のよりどころとなっている「BCG接種でコロナに感染しない若しくは重篤化しない」の非科学的な仮説の根拠の一つとなる感染率の低い国として知られる。その対抗策は最初期に外出禁止に近いものを敷いたからで、そもそも海外からの定年者を集める国であり人口の五分の一以上が65歳というのでそもそも外出の必要が限られる。それによってある程度の制御が可能となったとされている。

しかし、両BCG接種国も現在は無視できない増加を示していて、なにも難しいマックスプランク研究所によるハイテク接種VPM1002の臨床試験結果を待たずともその根拠自体が似非科学であることがハッキリしてきている。要するに日本にも神風などは吹かない。

似非科学に反論することも出来ないが、1989年以降はドイツではBCGが禁止になっていて若い人たちは打っていない。つまり同じように感染している若い層に重篤患者が出たとは聞かないのが不思議なのである。日本では逆にある年齢以上はBCG接種をしていないということで重篤化しているという基本的な状況を重ねて仮説の根拠にしている。似非科学の所以である。

日曜日の夜に英国首相ジョンソンの入院が伝えられた。一週間経過してからの呼吸困難の様である。調べてみると英国のコロナ医療における死亡率は一割に達していて、治癒率も3%ほどである。首相が最初に語っていたように「多くの家族が愛しい人を失う」という政策が自分自身の身に降り注いでいる。重要なのは集団免疫を早く作ることでその過程で犠牲になるのは仕方がないという事だろう。
Coronavirus: PM says 'many more families will lose loved ones'


水曜日に購入したキュウリが腐った。最初から痛みがあったりしたが、直ぐに黴ていた。黴を除去して塩をつけておいたが、黴が増えて駄目になった。一本のキュウリを駄目にしたのは初めてである。原因はスペインやオランダからの国境超えで時間がかかって、スーパーに並ぶ時から悪かったという事だろう。最早野菜は地元産のものを八百屋で購入するしかなくなってきた。徐々に供給が厳しくなってくる。

ベルリナーフィルハーモニカーの五月の公演のキャンセル決定が続いている。ヴィーン公演が無くなったことで既にキャンセルされていた本番のマーラーフェストと共に消え去った。その他のツアーはまだキャンセルされていないが、そもそもメーデーのイスラエル公演が駄目になるのは明らかだ。ベルリナーフィルハーモニカー側からはキャンセルできないのは当然だとしても、イスラエルが躊躇しているのはなぜだろうか。その他の公演も一部ドイツの外交部の後援を受けているので通常の興業ではない。



参照:
二年越しの重点課題 2020-04-06 | 文化一般
政治的パフォーマンス 2020-03-24 | 歴史・時事
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一万回も呟いたか

2019-08-13 | SNS・BLOG研究
いつもながらのブルーマンデーである。中々仕事が捗らない。日曜日のスイスからの放送は、疲れて忘れて、眠ってしまったていた。スイスの中継VPNがダウンしているようで中身は確認していないが、ユジャ・ワンの音楽祭デビューである2009年のクラウディオ・アバド指揮のプロコフィエフ三番と、昨年のキリル・ペトレンコ指揮の演奏が比較されて放送されたようだ。後者はARTEのものを落としたので、それとの質の比較となる。その後先日ラディオ放送されたのでそれほど関心は無い。前者の者も他所では観れるようだが、文字通り比較してみたい。

呟きが一万件を超えた。最初はBlogの更新お知らせのようなものだったが、知らない内に回数が増えた。それでも二つのBlogと放送などのお知らせ情報が主で、その他はコメント程度しかない。それでも数は増える。

ザルツブルクからの「イドメネオ」生中継を流した。流石に無料お試しでは切ってくる。だからまともには観れない。この機会を狙って制限を掛けてくるのは商売としては正しい。しかしそこで再読み込み度に流れるロレックスの宣伝は馬鹿だ。イメージを悪くするだけで、そもそもロレックスの高価な時計を買おうという人はそんなケチな考えは持たない。無料で見ようとする人には見識がある。だから悪いイメージしか植え付けない。少なくともロレックスのご厚意で30分ほどご覧くださいと流す方が有難味が湧く。ぶつぶつ切られると逆恨み感情しか湧かないだろう。それでも気にしない私は概ねの骨子を掴もうと読み込みを繰り返す。

ざっと一幕を観た感じではやはり大分「ティトュス」とは異なる。舞台も平面的で、緊張感も生まれていない。個人や合唱の演技自体はあまり変わらないが、同じ暗めの舞台でもハイライトがあまり当たっていない。全体の演出からそのようになっていると思われるが、細かな感情が演技として活きない。ソリスツにもキャラクターを示すだけの存在感が欠ける。一人の歌手の眼が大きく表情豊かだっただけでも前回は違った。何よりも欠けるのはドラマテュルークの構成で、可成り不味い。その大きな責任は音楽にあるのは間違いなく、舞台関係者が性格を正確に研ぎ澄まして強化していくためには音楽的に能弁でないと駄目なのだ。責任は指揮者クレンツィスにある。

音楽でドラマを作れない限り演出が何をやっても駄目なことは明らかだが、この舞台を見ていると悪いウィルソンのそれよりも冴えない。逆に復活祭の様にメータ指揮でドラマの骨子が出来上るとそれでもとても説得力が出てくる。二幕、平土間で歌わせて何を得ようとしたのだ。

因みに歌の一人一人は全然悪くない。評価がされにくいラッセル・ト-マスでも「ティートュス」の時よりも単調ではなくなってきている。残りはこれもオンデマンドになるならば一通り観れるのではなかろうか。



参照:
反レーシズム世界の寛容 2017-08-11 | 文化一般
無視にしか価しないもの 2019-07-29 | マスメディア批評
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なにがどのように繋がるか

2019-05-07 | SNS・BLOG研究
発注していたもう一つのコードレス電話機が届いた。予定通り寝室に設置する。そしてステーションにケーブルを繋いで、電話機と交信するが電話が掛からない。前回と同じで電話線と正しく接続されていないのだろう。仕方がないのでDECT電話機としてルーターから直接飛ばす。これは問題なく接続できた。問題は通信電波を出来るだけ抑えたいことにあるのだが、どうせベット脇にはタブレットを置くので、電話一台ぐらいはあまり変わらないかもしれない。ルーターの方ではスタンバイに消費を抑えるような機能になっている。

同時に発注した充電池も届いた。こちらも完全充電までには時間が掛かるが、従来の回線には繋げたので、少なくとも屋根裏部屋の机の脇において、どこから電話が掛かったぐらいはこれで分かるようになる。電話に出ても問題は無いのかもしれないが、暫くは様子を見よう。新しい電話機の方が明らかに機能が高い。少なくともこれで電話が掛かってきても動きながらでも応対可能となった。

翌朝起きて問題が発覚した。怪訝していたステーションの振動音である。耳障りな蚊のような周波数を聞いた。これは駄目だと思った。折角針音のしない目覚ましを購入してもこれでは台無しである。そこで一走りしながら考えた。そして結論は充電時間だけ電源を通すようにタイマーを挟むことにした、現在使っているのは冬季の小電球用なのでこれを夏季には代用して、冬季になった時にもう一つ購入すればよい。

最初の充電時間は6時間だったが、それほど長電話をするとは思えないので、先ずは一日昼時に二時間ほど分けてオンにするように設置した。それで足りなければ通電時間を長くしていけばよい。兎に角耳につくのだが、もう一台の方は事務机の横で大抵はPCが点いているので問題は無い。オーディオ的には消したいところだが、まあそれはいづれ検討しよう。

行くことも無いカナダのオペラ劇場情報がフィンリー経由で知らされた。今回はそこでオテロを歌っているのがラッセル・トーマスで、ザルツブルクでの「ティトュスの寛容」出演時からフォローしている。本当はあのキャスティングの中で一番情けなかったのだが、こちらの呟きを見つけられたものだから仕方がない。しかし徐々にサンフランシスコ辺りから歌い始めて、大役での出演が増えている。再度ザルツブルクだけでなくミュンヘンにも登場するようなことも書いてあった。要するにキャリアーをゆっくりと上っている。
Trailer | Verdi's OTELLO


そこでフィンリーのヤーゴばかりの映像のところで、漸く聞けたのがオテロの第一声だった。ウォールストリートジャーナル批評から「革命的」という言葉が見出しに使われているが、なるほどドミンゴ以来の迫力がある。見た目もザルツブルクの時は何かぎこちなさがあったが、このオテロは上手く嵌っていそうだ。

呟きだけでもフォローしてきたのでその人物像は良く知っている。一度は皆にフォロワー数を増やしたいから手伝ってくれと呼びかけたりしていて、全く舞台でもそのキャラクターを隠せない不器用さが個性になっている。確かに声質もオテロに合っていそうで、肝心なところをもっと聴いてみなければ判断は出来ないが、決して悪くはなさそうなのだ。CBCあたりで放送が無いものかと探している。
OTELLO: "Una vela!...Esultate!"


その情報を集めていたら、今度はそこで指揮しているヨハネス・デーブスという指揮者がフォロワー申告してきた。こうなれば仕方がない。調べてみると、もともとミュンヘンでも振ったことがあり、フランクフルトから出てきたようで読響監督ヴァイクルなどの仲間の様だ。日本でも振っているようだ。しかしカナダの監督になってからそこに集中しているようで、こちらでの活躍は少なくなっている。だからこうした話題になるのはとても大きなことなのだ。そして私のところでペトレンコと一緒に乗せて貰うとそれは誰の目につくかということになる。そうした細々したことの積み重ねでしかない。実際にフィンリーのイアーゴだけならここまで扱わなかっただろう。なにが助けになるか誰も分からない。



参照:
ザルツブルク、再び? 2017-11-17 | 文化一般
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
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ワークインプログレス

2019-05-02 | SNS・BLOG研究
パリからの中継を観た。またまた頭の悪そうな歌手が歌っていた。今時あのようなヴォ―タンを歌うのは余程舞台を知らない人だろう。それはどうでもよいのだが、一番の関心事は指揮者のハーディングである。その名前も、少年時代のこともよく聞くが、興味が無かったのでその指揮はあまり知らない。一度パリ管での中継を観たぐらいだ。その時と同じ印象で、その私生活でのエアバスパイロット振りとは遠く離れていて、動性が無く静的な指揮をする。その問題点は大凡分かったが、折角決めれるところでアインザッツをしっかり叩けないのが痛い。

ラトルにおける問題とはまた異なるが似ているところもある。しかし同じ年齢でのラトルの方が遥かに良かった。ベルリンでも頻繁に呼ばれているが、あの指揮にはこれだけの交響楽団は勿体ない感じがする。彼もサロネンと同じようにストックホルムからロスフィル、ロンドンへと、そしてサンフランシスコになるのだろうか。これまた似ているところがある。たとえ総合的にハーディングの方を評価するとしても、サロネンは少なくとも若い時はもっと動性が高かった。ハーディングのプログラミングはバーデンバーデンでもやっていたようにフィンリーとの歌曲とか面白そうなものがあるのだが、こちらを納得させるまでの説得力が無い。まさにその指揮の通りである。そしてヴァークナーなどを振るようになるとサロネンの失敗を先取りしているようなものである。下らない管弦楽などは初代バイロイト音楽監督に任しておけばよい。

コンセルトヘボー管弦楽団の次期首席候補としてハーディングの対立候補になっているのがザヴィエーロートである。こちらはSWRで振っていた時に聴いているのでその弱みも分かっている。レートナイトで聴いたラヴァルスは期待外れだったので、今回は評判がとてもよいながら、BBC3でオール・ラヴェルプログラムを聴くまでは疑心暗鬼だった。しかしここのところの快調を裏切らず、以前には出来ていなかったことが出来るようになっているようだ。しかし一番大きいのは自身の楽器集団のお蔭で奏法への拘りとその指示が徹底するようになったのか、音の断面がとても磨かれていて、丁度対抗馬のハーディングが成せていないところが鮮やかである。

特に興味深かったのは「ボレロ」をワークインプログレスの4m33sと同じコンセプトの画期的な創作としていて、実際に演奏も最後に吹かせていたので思い通りの演奏だっただろうか。SWRの時はあれが全く出来なかった。不思議なことに、どこででも語っているように、今の方が忙しい筈だが、準備が行き届いている感じがする。ハーディングは兎も角、何回も書いているようだがサヴィエーロートの方はここが勝負所である。

他人事ながら気になるのでちょこちょこと観察していて、騙されたと思って、BBC3を紹介を呟いたら、いつものように隠れフォロアーのロート氏が早速反応した。そしていよいよ観念したかに見えて、表フォロワーになるように決心したようだ。その背景には部外者の我々が感じるように、その必然性が出てきたからで、ベルリンでペトレンコが振らないようなプログラムを仰せつかうだけでなくて、バーデンバーデン復帰が既に確定しているのかもしれない。少なくともこれまでは関係が無くても新支配人スタムパはコンタクトを取ったと思う。関心事はブーレーズ祭りであって、こちらは2025年が生誕百年となる。余談ながらルイジ・ノーノが一年早い2024年となるので、こちらはミュンヘンの新体制が企画しているだろう。



参照:
茹で過ぎにならない実力 2019-04-07 | 料理
「デキる係長」の考え 2019-02-27 | SNS・BLOG研究
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「デキる係長」の考え

2019-02-27 | SNS・BLOG研究
本日も暖かかった。パンツを脱いで走れた。それでも明け方は放射冷却で布団の中が寒かった。ここ暫く暖房を消している。昼の温もりを最大限利用している。ワイン街道は日差しが強いのがいい。

昨晩夕食前に指揮者ロート氏のガーディナン紙へのインタヴューの一部を引用して提示した。高級紙にしては通常の紙面らしくどんな音楽をどのように聞いているなどつまらない質問をしているが。一つだけいい質問をしていて、クラシックコンサートの改善点を一つというものだ。それに対して、「コンサートの開かれる時間と場所」と答えている。私などは彼の指揮で通常のコンサートそれも本来ならばギーレン指揮の筈が引退したのでメッツマッハーが振ったマーラーの六番のあとに無料でレートナイトを聞かせて貰ったのを思い出す。

それが付け足しの作品ではなくて二三年で最も成功した新曲としてハース作曲の数台のハーフトーンに調律されたピアノのための協奏曲となかなか手の込んだ演奏を始めたのだった。その後もレートナイトが最後だったが、確かにこの指揮者のプロジェクトでは普通のものよりもこうしたものの方が面白かった。要するにクラシックな作曲や様式ながらコンヴェンチョナルな作品ではないということになる。その点に関してはもう少しブレーンストーミングする必要があると思うが、具体的に休憩をはさむ必要もなく一時間でもよいと答えている。要するに自由自在で、今までの現代音楽コンサートを超えてということだろう。

その他では、この半世紀の作曲された最も価値のある曲としてレポーンを挙げたのは、フランス人としてブーレーズに近づいた人物としてはそれでいいのかもしれない。またタイムマシーンの目的地として20世紀初頭のなんでもありのパリを選んでいた。まあ、カラオケで歌う曲がエディットピアフの愛の賛歌で、スティングのアルバムが最初に買ったアルバムで、最後に買ったCDがブーレーズ指揮のマーラーの九番などはどちらでもよいだろうか。但しこの指揮者が今おかれている位置などがよく分かる。正直最後のフライブルクでのコンサートから暫く冷や飯を食わされるかと思ったが予想よりも早く脚光を浴びるようなところに近づいてきている。

通称「デキる係長」の風呂場の鼻歌を思い浮かべるよりも肝心な本題について頭を巡らせながら、台所に立っているとタブレットで音がするので、まさか数分のうちに反応してこないだろうとは思った。もしそうならば私よりも完全に暇人である。売れっ子の指揮者でそれはありえない。やはりそうではなかったが、起床すると夜中に一時間遅い英国からいいねが入っていた。オルドバラのスネープでの演奏会でもあったのだろう ― 私も忙しいので調べるのも面倒になっている。しかし、通常の情報ではなく恐らく係長のプロジェクトとしていつも考えていることなのだろうから一人にでも多く訴え掛けたいだろう。たとえ高級紙で話してもそれに本気で耳を傾ける興行師などはいない。精々音楽祭や、近場で言えばバーデンバーデンの新体制などで、ブーレーズの家構想ぐらいで議題に上がってくるプロジェクトである。フォロワーが二十人ほどのところで気の毒だと思った。

しかし分からないもので、フォロワーの数など以上に情報が必要なところに届けばよいので、何もマスに届く必要などは無い。実際のどのような経路でどのような人が見るかは分からないのだが、やはりその内容からターゲットへ自ずと届くというのはあるようだ。「音楽の友」のオペラ劇場ベストテンのリストが日本語しかなかったのでアドレスをリスト番号順に入れておいたら、不思議なことにドイツ語圏からばかり反応があった、元記事はトップのミュンヘンで英語で書いてあったにも拘らずである。せめて四位のコヴェントガーデンや七位のウンターデンリンデンぐらいからは来ても良いと思った。十位のチュッリッヒは不本意かも知れなかったが反応があり、二位のメトや三位のヴィーンはもっと不本意だったのだろうか。要するにミュンヘンのサイトをよく監視しているのは「チュッリッヒ」と「ゼンムパーオパー」なのかもしれない。

そのゼムパーオパーがいいねをしてから「ダンケシェーン」を書いてくるまでに数時間掛かっていた。十分に呟きをスクロールされた可能性がある。情報たっぷりだからついついリンクを読んでしまうものもある。ティーレマン関連はもはやこうした担当者はザルツブルクの方での私のコメントを目をしているだろからどこかで関連に気が付いただろう。どんでもなく危ないサイトである。寧ろ、ジルフェスタ―コンツェルトのメスト推しに気が付いて、ブロムシュテット爺の講話をついつい見てしまったのではなかろうか。

ブロムシュテットと言えば偶然にまた一つの演奏会の日程が目に入った。ハイティンク指揮のコンサート同様に行くつもりなどはなかったのだがどうしようかとカレンダーを見るようになっている。その対抗馬になっているのはケント・ナガノとロート指揮の演奏会だ。



参照:
Facing the music: François-Xavier Roth, The Guardian, Mon 30 May 2016
こまめなSNS生活 2019-02-12 | SNS・BLOG研究
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
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こまめなSNS生活

2019-02-12 | SNS・BLOG研究
バイエルンの放送局で放送された「ヴァルキューレ」の批評が出ている。そもそもラトルがなぜこの曲を振りたがるか分からないと、皆と同じことを言う。実際に散らかし放題で、管弦楽ばかりに拘って、歌はやらせ放題だと批判される。我々サイモン・ラトルファンからすると今更と思い、放送管弦楽団がこのようなプロジェクトに公共料金を払う意味が問われる ― それどころか映像も放映され、「指輪」プロジェクトは新ホールに持ち越されるというから恐ろしい。

一幕や三幕のハイライトに差し掛かると前のめりになり、こうしたコンサート形式の上演に、交響楽団に求められる精度に至ることが無く、お手本のペトレンコ指揮座付管弦楽団に及ばないとされる。歌手陣においても二幕で僅かしか歌わないクールマンのそれ比するだけのものはなかったとされる。

管弦楽団の楽器群がその行先を失っているのが、そのアインザッツ同様に総奏でも聞かれたたとされる。そこまで書くならば、なぜこの交響楽団がこうなっているかについて少なくとも示唆すべきだ。この書き手の名前は憶えがあるが、突込みが足りない。

客演ということはあるが、ラトルの指揮は当然のことながらしっかりしている。歌手が途方に暮れて歌い難くとも、管弦楽団はアンサムブルがしっかりしていればベルリンのフィルハーモニカーとまではいわないまでもそこそこの演奏が出来て当然なのである。

昨年引いた新しいネット回線が止められている。それどころか違う回線の電話も閉鎖されている。原因は、全て独テレコムにあって、どうも新回線の銀行引き落としが出来ていなかったようだ。警告書が届いて初めて気が付いた。だから先週の木曜日頃に引き落としの同意書をボンの本局に送ったが、処理できていないのだろう。いつものことながら請求書とその回線閉鎖で顧客の善良な市民を怒らす。それしか回線がないならば困るが、ラディオ放送ぐらいは古い回線でも録音できると思うので構わない。順番待ちまでしてテレフォンセンターで苦情するつもりもない。先ずは様子を見よう。そもそも関係の無い電話回線を止めて、問題の回線を活かしていることがおかしい。使い勝手が悪いのは新回線に合わせたNASストレージにしているからそれを使うにはいちいち切り替えなければなにも記録できないことだ。

日曜日はオランダからの放送があった。それを紹介して、特にそこでのコンセルトヘボーでの「英雄の生涯」は期待していた。なぜかというと、日本でも活躍していた指揮のロート氏は元手兵だったSWF放送管弦楽団で全集を録音していて、その紹介に放送で語っていたからだ。それによると「カラヤンやティーレマン指揮の湯船の鼻歌は間違いだ」という意見で、それは間違いなく正しい。それでもあのコンセルトヘボーでどれほどSWFのようなシャープな演奏が可能かどうかが疑問で、聞いてみたかった。それでも前半のエマールの「皇帝」などちっとも聴きたくもないものがあって、適当に考えていたら、またまた指揮者のロート氏が登場した。放送は一月末の録音なので恐らく本日ケルンでの演奏会もあってケルン近郊の自宅にいたのだと思う。前回「ディゾルターテン」でいいねを貰った時も同じような状況だった。この人も私の呟きファンではないかと思うぐらいだ。フライブルクに住んでいたぐらいだからプファルツにも一定の印象を持っている人かもしれない。

そこまでは普通で、更にリツイートしてくれたお蔭で、情報が不完全で更なるスレッドを開けないと分からなかったのだろう、フランスのおばさんが「今日か?何時?」と尋ねてきた。放っておいてもよいのだが、ロート氏本人にも質問していることになって、こちらも言いだしっぺなので、急いで14時と答えておいた。暫くすると恐らくそのコンサートに出かけていたオランダの親爺が14時15分だと正確な時刻を書き添えた。調べて分かっていたが、いつもその放送を聴いているのではないので餅は餅屋の情報で助かった。

演奏は案の定「皇帝」はあまり聴く価値もないばかりか、良くもこのピアニストをインレジデンス演奏家に選んだなと、この楽団の人選などはいったいどういう組織でやっているのだろうと改めて思った。お待ちかねの「英雄の生涯」は中々面白かった。やはりああいう風に演奏することで楽劇と交響詩との間にある創作過程の端々を知ることが可能となる。

それなりに満足していると、先ほどのオランダ親爺がグレートコンサートと書き込みをしてきた。いいねだけは二つ付けておいたが、暫くしてからロート氏がそれまでリツィートしていた。結構熱心にSNS活動をしている人だと分かる。コンセルトヘボーも後任探しがまだ決定していないのだろうから、客演する人は皆色気を持つのは当然だろう。少なくとも打診ぐらいは受けたいと思うのが人の常だ。当然地元で熱烈に応援してくれる人は力になる。一時のメディア戦略によるマスの時代がこの業界では異例で、コツコツとどぶ板選挙のような活動をするのが大切である。



参照:
音が鳴り響く環境の考査 2015-04-01 | 音
広島訪問と米日関係のあや 2016-05-16 | 歴史・時事
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一流の催し物の周辺

2019-02-10 | SNS・BLOG研究
日本からの呟きを見ていたら消去されていた。理由は法律に抵触するのでドイツでアカウントが消去されたというものだ。内容はそれ程のものではなかったと思うが、アカウント名からしてクライズライターと恐らくナチか東独の社会統一党でしか使われない言葉を名乗っており、そのアイコンを見るとなんと総統らしき写真が載っている。勿論ドイツ国内では禁止どころか訴追されかねないが、更に怖いのはユダヤ人組織である。日本でも有名になったヴィーゼンタールセンターなどを筆頭にそれこそモサドまでが世界中に網を張っている。マンの「ファウストュス博士」の人物像ではないが呵責容赦ない追求である ― 私のような横着な人間でも確認したが敢えて写真の部分は消す。そんなものを晒しても誰も喜ばない。

そもそもその手の連中が何を呟こうが無知を曝け出しているようなもので耳を傾けるに値しないのだが、無知が無知を呼ぶような構造がSNSの世界で、ホワイトハウスからの呟きが最もその頂点にいるかと思うと殆ど正夢だろうかと頬を抓らなければいけない。それにしてもそもそもああしたカウント名を付けて何を主張したいのだろうか?タブー破りの面白さなのか、ちっとも面白くないのである。とても趣味が悪く幼稚なだけである。誰も見たくはない。要するに黒いコートを羽織った露出狂のオヤジと変わらない。

特に芸術、更に音楽関連などになるとユダヤ系の人の活躍無しには一流の催し物は成り立たない。何が言いたいかと言えば、無関係であるからなどと言えるのは余程の鎖国された島国の人か孤立している人なのだが、そういう人種に限ってこうした無配慮な言動が目立つのである。所謂スピナーと呼ばれる人種だろうか。

先日車中のラディオで、シナのドイツ企業買占めの話しが出ていた。ドイツ工業協会理事の声明だと思ったが、同時に本国の景気の鈍化からそもそも買占め数が減ってきているというのである。恐らくその方が正しいのだろうが、そもそも生産拠点や貿易の問題ではなく、技術への興味から盛んな買占めに走っていた訳だから、技術さえ移転してしまえばあとはお払い箱である。そうしたことから寧ろ社会的にはシナへのアレルギーはまだ今後広がるのではなかろうか。

先日のヴァイオリニストのカプサンではないが反応が思わぬところから来ると、どうしようかなと思っているストリーミングプログラムも紹介した責任で聴かなければと思うことが少なくない。メトからの中継は、「青髭」と「イランタ」を組み合わせたプログラムで、最初に後者を未知のソニア・ヨンツェヴァの歌で聴きたかった。四月には一月のメトに続いてバーデンバーデンでデズデモーナを歌うからだ。そもそもMeTooガッティ指揮だから券を購入していなかったが、メータ指揮で歌うことになり興味津々だ。それもチャイコフスキーのオペラとなると嘗て大屋政子プロデュースで食中り状態のロシアオペラをこの辺りで正常に戻したいのだ。メトデビューの指揮者は先ごろまでペトレンコの後々任としてコーミッシェオパーで振っていたナナーシという名のある人だ。勿論この二作品の組み合わせと後半の「青髭」をフィンレーが歌うとなっては外せない生中継である。そのように紹介したら本番前にフィンレーがいいねをしてきた。もう殆ど私の呟きのファンではないかと思わせる。番組は風邪気味とアナウンスのあったヨンツェヴァなどで無事始まって、それを聴いて録音する価値はあったと喜んでいると、休憩時間にそのフィンレーとイディト役のドイツ人のデノーケという歌手が出てきていた。

私などはメトからの中継もNHKで殆ど聞いたことが無く、今のようなこのライヴ感覚は夢のようにしか思えない。それだけでなく実際にインターアクティヴな関係が築かれるとすれば、考え方を変えなければ話しにならなくなってきている。なるほど日本などの地理的にも島国にいることからすればニューヨークは一寸異なるのかもしれないが、ここからすれば海の向こう側で時差六時間はそれほど遠くはない。

そして「青髭」の管弦楽が良く鳴っていて、指揮者の実力もあるのかもしれないが驚くほどである。なるほど監督のネゼサガンが振ればこれぐらいはと思うが、これだけ座付楽団が鳴らせるところは無いと思った。やはり監督が言うようにメトが世界一の座付で、フラデルフィアは世界一の管弦楽団というのもそれほど間違ってはいない。そしてお待ちかねのフィンレーの歌はハンガリー語のニュアンスは評価できないがとても良かった。所謂銭をとれる歌手で、まだまだキャリアーも相当するギャラも上るかもしれない。そして相手役も全然悪くはなかった。この辺りがメトの実力でそれが次から次への演目でそれぐらいの歌手が続いている。ロンドンのコヴェントガーデン劇場とは違うのは当たり前かもしれないが、これがオペラの殿堂だ。



参照:
「ナチは出て行け」の呟き 2019-02-07 | マスメディア批評
Go home & never come back! 2017-08-24 | 歴史・時事
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