Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2008年1月

2008-01-31 | Weblog-Index



七面鳥に喰らい付いた話 [ 料理 ] / 2008-01-31 TB0,COM0
六リッターのワインの箱 [ 試飲百景 ] / 2008-01-30 TB0,COM0
脱思想・脱原発・脱体制 [ 歴史・時事 ] / 2008-01-29 TB0,COM0
ローランド・コッホ負ける [ 生活 ] / 2008-01-28 TB0,COM2
Change! Yes, we can! [ マスメディア批評 ] / 2008-01-27 TB0,COM2
暖かい一月の物価高 [ 生活 ] / 2008-01-27 TB0,COM0
批判的に叙述する記録? [ BLOG研究 ] / 2008-01-26 TB0,COM0
企業活動という恥の労働 [ 雑感 ] / 2008-01-25 TB0,COM0
おかしな正月料理の記録 [ 料理 ] / 2008-01-24 TB0,COM3
引きちぎられる携帯電話 [ 歴史・時事 ] / 2008-01-23 TB0,COM0
塩気の欠けた米国の話 [ 生活 ] / 2008-01-22 TB0,COM2
制限されたカテゴリー [ ワイン ] / 2008-01-21 TB0,COM0
お手本としてのメディア [ 雑感 ] / 2008-01-20 TB0,COM2
モデュール構成の二百年 [ 文化一般 ] / 2008-01-19 TB0,COM2
改革に釣合う平板な色気 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-18 TB0,COM6
腹具合で猛毒を制する [ 生活 ] / 2008-01-17 TB0,COM2
魔物が逃げ隠れるところ [ 雑感 ] / 2008-01-16 TB0,COM0
希望へ誘うオバマ候補 [ 雑感 ] / 2008-01-15 TB0,COM0
お好味のテュルガウ牛 [ 料理 ] / 2008-01-14 TB0,COM0
プァルツの真の文化遺産 [ ワイン ] / 2008-01-13 TB0,COM0
枝打ち作業の行動様式 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-01-12 TB0,COM2
医者・薬要らずの信念 [ BLOG研究 ] / 2008-01-11 TB0,COM4
三種三様を吟味する [ ワイン ] / 2008-01-10 TB0,COM2
吹っ飛んだ休肝日 [ 試飲百景 ] / 2008-01-09 TB0,COM4
中国式英語で新春日和 [ 雑感 ] / 2008-01-08 TB0,COM2
VDPプファルツへの期待 [ ワイン ] / 2008-01-07 TB0,COM2
天下の場環境の把握 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-01-06 TB0,COM0
ポスト儒教へ極東の品格 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-05 TB0,COM0
ユーモアに佇む齧り付き [ 生活 ] / 2008-01-04 TB0,COM0
文化的土壌の唯一性 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-03 TB0,COM2
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02 TB0,COM4
茶緑から青白への相違 [ 生活 ] / 2008-01-01 TB0,COM2
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七面鳥に喰らい付いた話

2008-01-31 | 料理
七面鳥の上脛を食す。二ユーロ少々のものであるが、鶏とは違い食べ甲斐がある。捌いてあまった場所をグリルにしてあるものだ。

つけ合わせにはお馴染みのザウアークラウト。

なぜか肉の最後の一欠片まで食せなかった。まあ、労働量が少なくなかったとは言え、充分に肉があったと言うことである。

鳥インフルエンザの危険性は払拭出来ないが、どうしても喰らい付いてしまうのである。
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六リッターのワインの箱

2008-01-30 | 試飲百景
もう一つ心身ともにしゃっきっとしない。それでワインを試飲に行った。丁度入ろうとすると、お婿さんが出てきた。作業着だったので澱引きか何かの合間に事務所に寄っていたのだろう。

「2007年産の売りものがある筈だけど」と訊ねると、

「あんまりないけど少しはあるから」と「XXちゃん宜しく」と、ということでいつもの女の子が相手をした。

先ずは既に所持している価格表を睨んで三種類のワインの試飲と順番を相談する。三種類ともリッター瓶である。

今買える2007年産の最も単純なワインは、リースリングQbAで、新鮮・力強く・口当たり好しとなっている。価格は、4ユーロ90で昨年ではなかなか手に入らなかったお買い得である。

香りは、何処でもあるような単純なものであるが、悪くなく、味も、新鮮さの中に苦味が感じられるが、苦にならない。買い付けた葡萄での醸造としてはなかなかよく出来ている。

二本目は、グーツヴァインで、活き活きとして・力強いとなっている。香りは先のと全く同じである。味は、苦味がミネラル成分に抑えられている印象があるが、前者と大変似ている。価格差は60セント。試飲においてはこの差は殆ど付けがたいものであったが、自らの葡萄を使っている素性が異なる。しかし、双方ともそれほど地域差や土壌差がないことも事実で、この差異をつけるのは厄介である。

そのように思っていると、他の顧客が入ってきて、奥さんはいるかと尋ねる。居ないが、それでも試飲買いつけをする。2006年産ブルグンダーなどを再び所望のようであったが、売り切れなどもあったようだ。あまり関心がないので聞き耳を立ててはいなかった。

なにせ、上の二種類の差が判らないので、こちらは少し心理的に慌てているのだ。そうこうしている内に、ティーンエイジャーの娘を連れたその主婦は、二ダースほど二種類買い付けして、支払い時に、「若奥さんと親しいので」18%のディスカントを受けて、名前を控えさせられていた。

なるほど、家庭で消費するワインをここ一件で殆ど賄っているような印象がある。良く考えればそうしたお得意様が、個人消費のもっとも多いタイプであって、当方のようにそこここへとちびちび試飲して歩くのは特殊なケースなのであろう。

その客に商品を渡す間に、次の一本を開けて注いでくれる。ミュラーテュルガウもしくは最近はリファーナーと呼ばれるお得な白ワイン種である。これのつまらなさは、飽き易い味の強さと単純な香りなのであるが、自然な酸味が利いていてフルーティーである。硬直したような味となっていない。花の咲き乱れたような果実風味と書いてあるのは必ずしも誤りではない。4ユーロ20の価格にも惹かれた。

結局、この三種類を混ぜ合わせて家でゆっくりと試飲することにする。

「充分に違いが分からないから、家で試すね」と言い訳をすると、

「それは分かるわ、落ち着いて試さないとね」と慰めてもらう。

どうも、もう一つピリッとしない試飲などはこうしたものなのである。手にソムリエ学校の案内チラシなどを握って、どうしようというのか、我ながら分からない。
六リッターのワインを買いこんで、〆て29,20ユーロ。我が休肝日が瀕死に面している。

空箱を返そうとすると、「ああ丁度良かった。でもそれでは入らないわ」、

そうリッター瓶ばかり六本もあるのだ。
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脱思想・脱原発・脱体制

2008-01-29 | 歴史・時事
ヘッセン市民は高嶺の見物と洒落ても良いだろう。混迷を極めているが、こうした時に政策の寄り合わせや論議を踏まえて、民主的な方法で政治的な解決を行なえるかどうかが、政治家に問われているのである。

与党のコッホ首相がミュンヘンで起った暴力事件などを挙げて、その問題を外国人の移民を引き合いに社会治安の問題にすり替えてしまったものだから、野党のSPDはそれを非難し易かった。今日でも、反テロ政策や治安維持を盾に、防衛当局として、コッホを支持する声があるからCDUの一部はショイブレ内相と同じで話にならない。

実際、それは問題発言に他ならなかった。しかし、そうした青少年の問題は教育問題であり、それこそは連邦州の管轄にあり、州民は自らの教育システムを規定することが出来る。州内に住む有権者にとっては特に子供がいれば最重要問題なのである。

ドイツの教育システムは、ここでも取り上げているように様々な問題があるが、塾に頼らない全日制の小学校や均一化の総合学校と言われるシステムへの要求とか、またはエリート教育とかの必要性など多々あり、一口に教育の機会均等と叫んでも容易ならざることは断わるまでもない。詳しくこれを語ればやはり自身の意見にしかならない。

元々、SPD社会民主党にとっては、ポスト最低賃金制度が党を挙げての大きな取り組みであるが、コッホの挑発的な発言を否定的イメージ戦略に結びつけた。それに対してCDUは、議席獲得への最低得票率5%ハードル突破を狙う左派党に議席を奪取されないように投票率を上げようと努力したようだが至らなかった。

昨日の開票番組でローカルの様々な争点を見ると、州議会選挙は国政とは異なり地域によって多種多様な争点が存在している事が知れた。最も興味深く思えたのがそのもの身近な生活環境問題である。

一方にはフランクフルト空港の拡張に伴う新滑走路航路下の立ち退きや騒音問題などがあり、一方には国政で決まった原子力発電からの脱皮を柱とする新エネルギー政策がある。片や経済的な成果や貢献を挙げて、片や環境問題とする構図は、二十世紀後半に世界の先進工業国で繰り返された政策論争であり、一方に自由資本主義があり一方に社会主義的な思想の葛藤が続いたのは周知のことである。

しかし、今回の地元の様子を見れば分かるように、煙を上げる石炭発電所の町で市民は、「自らの環境のためなら生活改善を含めて大抵の努力はするが、冷蔵庫を使わない者は居まい」と言うように、もしくは「風力発電は美観や観光資源としての自然の価値を下げる」とする市長の発言に、「少々のことよりも原子力発電を止めることがもっとも優先」とする主婦の声が全てを語っていた。

つまり、議論は多極化して一つの解決方法を目指すことが出来ない世界であり、タブー無き政策の緑の党の伸び悩みとその活動への期待こそがここに全て現れている。

それは、教育の問題として、個人の経済活動を築く政策としての社会のあり方への議論ともなっている。それゆえに、左派党の議会進出は、その支持層の多くが失業者であり、もしくは公務員や労働組合組織員であることを考えれば、上記のような多極化した議論ではすり落ちてしまう問題に光を当てる。謂わば、二十年ほど前ならば極右政治団体が失業者の声を代弁して、「外国人に労働を奪われた」とすればそれで済んだ問題が、今は「グローバル経済の中の民営化で公共従事の機会が失われ、労働者には市場論理の中で教育の機会も与えられてない」と言い換えて、尚且つラフォンテーヌ代表のように外国人排斥をそこに旨く混ぜ合わせれば都合の良い配合になるのである。

その結果、左派党がある程度の議席を獲得して、社会民主党左派が支持を食われ、社会民主党によって緑の党がエネルギー政策を専売特許とは出来ず、FDP自由党が緑の党のアナーキーな市民性を奪えば、CDUキリスト教民主同盟が経済界を牽制して左派党以上に統制を図ろうとするとき、どうしても今のような卍巴のように入り乱れた政局が発生する。

だから、特に州に権限がある政治課題を得票率を鑑みながら最優先に調整して、実行していくことこそが今の政治課題なのである。そして、国民二大政党であるCDUとSPDが其々高齢者と働き盛りの若い世代に支持層が別れてきていることは、少子化や高齢化の進む先進国の今後の政治地図を考察する場合大きな要素になってくると思われる。因みに男性にはCDU・FDPの連立が、女性にはSPD・GRUENENが好まれているらしい。



参照:
ローラント・コッホ負ける [ 生活 ] / 2008-01-28
葡萄の地所の名前 [ ワイン ] / 2006-01-21
ドイツ語単語の履修義務 [ 女 ] / 2007-07-16
一緒に行こうか?ネーナ [ 女 ] / 2007-06-18
中庸な議会制民主主義 [ マスメディア批評 ] / 2007-05-13
煙に捲かれる地方行政 [ 生活 ] / 2006-12-12
日曜の静謐を護る [ 生活 ] / 2006-11-11
麻薬享受の自己責任 [ 生活 ] / 2006-12-08
正書法のフェデラリズム [ 歴史・時事 ] / 2005-07-20
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ローランド・コッホ負ける

2008-01-28 | 生活
ヘッセン議会の選挙が行なわれた。予想に反して、与党CDUが伸び悩み、野党SPDが第一党になるばかりか、左派党が議席を獲得しそうである。ヘッセン首相ローランド・コッホの外国人への厳しい態度が選挙民に嫌われた。

戦前から、左派党が議席を獲得すれば、FDPとの連立以外単独では政権担当は不可能と予想されていたが、第三党と躍進したFDPと組んでも過半数に達さないばかりか、SPDの予想外の善戦で、ヴィースバーデン議会での第一党の位置を譲り渡しそうである。まるでベルリンのような状況になった。土曜日にアルテオパーの前で友人のアンゲラ・メルケルが演説したが及ばなかったようだ。


追記:全議席数110中、CDU42、SPD42、FDP11、緑の党9、左派党6の内訳となる。 結局最終的にはCDUが得票率の僅少差で第一党に落ち着きそうだが、首班指名で可能性のあるSPDのアンドレア・イプシランティ女史が連立工作の主導権を握り、成立しなければ暫定的に統治する前任者が議会を解散して、やり直し選挙となるようだ。いずれにしても同日に行なわれたニーダーザクセンの選挙における議会にも左派党が躍進して議席を獲得したように、格差是正を訴える左翼に支持が集まった。



参照:
Wahl.hr-Online.de
脱思想・脱原発・脱体制 [ 歴史・時事 ] / 2008-01-29
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Change! Yes, we can!

2008-01-27 | マスメディア批評
バラック・オバマ候補のサウスカロライナでの予備戦の勝利宣言を観ている。黒人票を予想以上に固めて予想通り大勝したようだ。

しかし、いつも冷静な感じで演説が旨い。市場至上主義で、ブッシュ政権でズタズタにされた米国の感情を癒し、変革によって再び下からの活力を期待する意識は米国の中産階級にも強いのだろう。

ケネディー大統領の娘さんが評するように、オバマ候補はケネディ大統領のそれに近い盛り上がりを見せて来るのだろうか?

兎に角、信じるものは救われる。嘗ては、米国人のスポーツ選手などがオリンピックで見せ付けたような、自尊心からの強い米国像こそはこうした感覚から生まれていたように思うのだが。



参照:
希望へ誘うオバマ候補 [ 雑感 ] / 2008-01-15
トマトの価値(I Only Feel This Way When I'm With You)
オバマ、圧勝 (虹コンのサウダージ日記)
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暖かい一月の物価高

2008-01-27 | 生活
厭に一月としては暖かい。二桁に近い外気温である。日差しが強く、五時過ぎても夕刻がなかなか暮れ難くなってきた。このようなことは初めてかもしれない。天気が良いのは嬉しいのだが、やはり体がだれる。

先日来、ここでも紹介した安物スパゲティーが39セントから54セントに高騰した。他の乾麺類も相当に値上がりしているようだ。こうなったからには廉い麺は買わない。個人ボイコットである。少々99セントと高いブイトーニの6番で暫らく楽しめなかった繊細な面類を食べる。すると反対側においてあるシュペツェレが88セントと廉いのに気が付いた。これで良いのだ。

その分、今度は600グラム49セントのお買い得の米を食する。この米は粘り気がなく、一袋125グラム毎になっているので炊き易い。これは、炊飯器を引っ張り出して炊くと様々な料理に使えることが分かった。水気が少なく軽い分、丼飯などに素晴らしく美味い。簡単に二合ぐらいを平らげられる。しかし、どうも米が腹に堪えるという、腹持ちが良いと正反対の感想は消えない。

ジャガイモも今の季節は今一つで、大根なども年末のような美味さは消えて価格も上がっている。どれほどのインフレ率になるだろうか。
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批判的に叙述する記録?

2008-01-26 | SNS・BLOG研究
BLOGを巡っていて、中級ドイツ語文法問題に行き当たった。参考になったかどうかは怪しいが、書き込みさせて頂いた。例文が誤っていたり、大変な誤解が生じかねないとみるとどうしても口を突っ込んでしまう性分なのである。「よく犯人に刺された人を振り返って、そう言えば子供の頃から正義感の人一倍強い子だったから」というようなやっかいな性分である。

内容は未だに定かではないが、文法的に接続法の現在と過去が話題となっている。前者は、直接話法から間接話法に変えると英語では時制の一致があるので複文内では現在とは往々にしてならないが、ドイツ語の場合は時制の一致がないので現在形がとられる。後者の場合は、現在の状況からみて、起らなかったことなどを仮定して因果律などを考えて利用される。

つまり後者は、英語で言えばIFを使ったり使わなかったりする動詞の過去形をあてがう仮定法過去である。つまり、一般的には過去に起っていないことを接続法にする場合が一般的である。しかしここに来て、実はそのIFによる仮定法ではなく、直接話法から間接話法に言い換える、つまりここでは記録者としての第三者のジャーナリスティックな視点が強調される文例の前者の問題と気がついた。

しかし、その部分的に引用された今回の例題は、過去に起った記録を接続法過去に書き換えてあるのでおかしいと思った。その例文である。

― 彼らは、各々に指示した。「一本づつワインを持ってくるように」
― Sie baten jeden Gast, „Bring bitte eine Flasche mit!“

それは、第三者的な批判的な様相を帯びる叙述である接続法を用いて以下のように書き換えられている:

― 彼らは、各々に一本づつワインを持ってくるように指示していただろう。
― Sie hätten jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitbringen.

この二つは、前者が起った事象を叙述しているのに対して、後者は起っていない事象をなんらかの条件が揃っていたならば事象が起っていた可能性を仮定しているので、事実関係としては正反対の過去の二つの事象を説明している。

一般的にこうした書き換えはありえないので、先ずは前の例題のbatenがウムラウトによってbätenとなる接続法過去形となる印字間違いと疑った。それとは違うと言うことで勝手に書き換えの後の文章を否定した。

― 彼らは、各々に一本づつワインを持ってくるように指示していなかっただろう。
― Sie hätten jeden Gast nicht gebeten, er solle eine Flasche Wein mitbringen.

これならば、如何なる文節においても二つの文章は同じ事象を異なった視点から叙述することになる。更に後半の文章は、原因となり得るIF文が除かれているので、次のように勝手にIF文章を補った。

― もし、このようなことになるならば。

そう、各々が安物ワインを持ち寄ったから乱闘騒ぎになって、警察が駆けつけてこう呟いたのである。

しかし、どうも例文には前後があって接続法過去で肯定つまり事象を否定しているようだ。また例題の文章は、友人が語ったことを記録者が綴ったもののようだ。

例えば記録者は、現場にいた友人から聞いた内容をここに綴っているとすれば、その友人は上の持ち寄りの指示を聞いてその事実を語ったようだが、記録者はその信憑性に不審を持っているかもしくは批判的に第三者としてその事象を伝える必要が生じる。その場合、友人の証言を自らの言葉として記録する方法は、新聞記事のように間接話法で接続法現在を使用するが、接続法現在が接続法過去によって取り替えられる場合も考えられる。

次のようにな直接話法の場合である。

― 友人は、「彼らは、各々に指示した。『一本づつワインを持ってくるように』」と語った。
― Der Freund sagte: Sie baten jeden Gast, „Bring bitte eine Flasche mit!.“

これを間接話法に纏めると次のようになる。

― 友人は、「彼らは一本づつのワインを持ちよる指示を与えた」と語った。

― Der Freund sagte, sie haben jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitnehmen.

しかし、これでは英語のように時制の一致がないので、通常の叙述と変わらなくなるから、ここで接続法過去を使うと言うことがこの例題の焦点のようだ。結論:

Der Freund sagte, sie hätten jeden Gast gebeten, er solle eine Flasche Wein mitnehmen.

しかし、これを部分的に初めのように比較すると全く異なる意味にしか聞こえない。このような、現実の叙述と記録もしくはジャーナリズムの手法が全く異なる事象を叙述するのはただの偶然なのだろうか?それともドイツ語特有の問題なのか、分からない。
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企業活動という恥の労働

2008-01-25 | 雑感
背任横領のスキャンダルで揺れたジーメンスの株主総会が開かれた。本社小株主でもないので興味はないが、新聞の文化欄は企業文化について語っている。

端的に言えば、収益を求めるのが会社役員の任務であるが、こうしたスキャンダルは、たとえ市場での競争を勝ち抜くためとはいっても最終的には企業の信用を落とすことになって、企業の収益に結びつかないというのである。

ジーメンスのような伝統的な大会社において、その企業哲学とは裏腹に、多くの分野においては過当競争に切磋しており、マイクロソフトのような寡占に近い商売は出来ないという。

結局、対抗馬から抜きん出て契約をとるためには、賄賂をばらまくという形態になったとしている。その賄賂も1999年以前は必要経費として税制上落とされたのだが、そうした税制がなくなり、十三億ユーロの使途不明金に対し、結局一億七千九百万ユーロの追徴税を含む罰金など合わせて十五億ユーロの支出となったとされる。

そもそもこうした巨大組織においては、一部幹部やCEOが個人的に判断を下せる訳ではなく、労働組合を巻き込んでの不祥事となったのである。

そのような状況を見て、先日のケーラー大統領のエリートへの期待ではないが、如何に巨大企業が形而上の神を擁いていようが、こうした不正行為が最終的にはその企業行為の目的に背くことを各々が自覚しなければいけないと語っている。

国際的な企業において、脱税行為を含む裏金作りやマネーラウンダリングは常識であり、そこから多額の賄賂が支払われている構造があまりにも無感覚な違法行為となって居ることを指している。

それをして、生きるための会社員の仕事は、BLOG「田村伊知朗政治学研究室」で語られた「労働は恥?-ニートの原初風景」における「恥」と、定まった目標の追求である自動化された企業活動として、変わらないのではなかろうか?

実業界での労働がエリートとは関係ない「恥の労働」化しているのは、昨日ダヴォースを訪れた投資家ソロースが本末転倒に語った「市場原理主義の問題」でしかないのだろう。更に、そうした痴呆化した実業界を正しく導くことが出来る政治や政治家が存在しないかぎり、もしくは本物のエリートが存在しないかぎり、世界は巧く機能しないことは当然なのである。
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おかしな正月料理の記録

2008-01-24 | 料理
なんとなく公開を躊躇っていた写真である。ノイヤースコンツェルトを観ながら食した魚尽くしなのである。三週間の距離をおいてこうして眺めると面白い。

小鉢の魚は「家庭の主婦風若ニシン合え」でドイツの最も有名な魚料理である。ザワークリームを使っていないのでマヨーネーズが分離して美味く乗っていないが、日数を置いてあるので味はよく馴染んでいた。よってリースリングワインにもジャガイモともどもなかなか癖がなくて良かった。89セントほどで二食分の魚の量があるのがなによりも嬉しい。

もう一つのメインは、なんといってもサーモンの燻製とイクラであろう。これも二ユーロほどの安物であるのでそれほど美味い事はない。しかし、後味の臭みもなく楽しめた。

偽物キャヴィアやチーズもたいしたものではなかったが、こうして見ると門松がなくとも小カブの日の出とパイナップルの扇子が面白い。一体いつの間に神道に感化してしまったのかどうか判らないが、おかしな意匠を考えたものである。

さすが自称元新日本食研究家の面目躍如とは誰も言わないだろうと思って、公開を見合わせていたのである。先日のライストルテとあまり変わらないとは思わないのだが、文化の記憶の範疇にあるだろうか?
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引きちぎられる携帯電話

2008-01-23 | 歴史・時事
ベルリンの連邦政府内での亀裂と成果がよく聞かれる。外務省がフランスに負けずにシリアとの親交を深めている一方、首相府はそれを批判する。ダブルスタンダードの二股外交は、ダライラマや対中国外交だけではない。しかし総じて連合政府は巧く運んで居ると言うのだが、なんとも不思議である。実際、中国との外相会議も近々開かれて関係修復に進んでいる。

先日発表されたノキア社のボッフム工場の閉鎖は、予想以上に携帯電話の汎用技術全般に関する職場を奪うらしい。昨年はフレンツブルクのモトローラの工場が、その前はジーメンス工場が台湾のベンキューに身売りされてから閉鎖されたので、ドイツにはその汎用技術を活かせる工場は無くなることになるからだ。所詮汎用技術のエンジニアーリング自体が、今後は発展途上国にこそ必要になるので、技術者の求人も次から次へと新興国に移る。開発部門は工業先進国に残るかどうかも、IT部門同様に大変微妙な問題となってくるだろう。市場に近い技術やサーヴィスは、移植性が少ないのかもしれないが、こうした汎用技術に関してはなんとも言い難い。

しかし少なくとも、SPD代表ベックやCDUの消費者大臣ゼーホファーがノキア製品のボイコットを訴えるポピュリズム政治は、輸出大国ドイツの基本政策に矛盾している。なるほどフランスの大統領とは違い、ドイツ首相は健康への害を心配してか、二代続いて携帯電話をあまり使用しないなど、ドイツでは携帯電話は外回りの商売を除けばそれほど重要ではない。そして最も携帯電話を利用しているのは回線を保持していない出稼ぎの外国人不法労働者である。

携帯電話などはなくても構わないかもしれないが、こうした政治が全く効を奏さないとは断定的に言い切れるのである。また独テレコムの人員整理が進むと聞いたが、I-Phoneもこのような社会ではその売り上げにあまり期待出来ないように思われる。
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塩気の欠けた米国の話

2008-01-22 | 生活
不思議なことではない。独日協会の新年会で、既に通常に生活した期間は生まれ故郷よりもこちらの方が長くなりかけていることに、改めて思い知らされる。

日系米国人が、スライドで映されている日本の映像をみて郷愁はないかと訊ねるので、「エキゾティックでしかない」と答えた。どうも不思議なことに旧ソウル生まれの彼には郷愁があるようだ。

一つには、知っているつもりで知らないことが多すぎるのと、また一つには知らぬ内に時代が変わって仕舞っていることに気が付かない場合もある。知らない明日香などを含む地方の情景や宇治周辺の美術館などの写真を見ても全く分からないのと、箱根や日光や水戸や益子の情景を見てなんとか想像できる状況がが入り混じる。

絵に描かれているのが有名な女性だと見せられて、清少納言が直ぐに出て来ないで、小野妹子などとお馬鹿さんな返答しかできないで失笑を買うのである。そのアジア趣味の人物が創作した米ゴマトルテは、写真の通りの代物である。

中には鱈のマリネーとカボチャが挟まれている。米は好みの別れるスシ米が敢えて避けられて味付けもなくもちゃもちゃとしていた。寿司でも無くサラダでもないので食べ方に困った。醤油をぶっ掛けて、粉山葵をつけるにはしのびなく、批評として、「米を炊く時に薄塩で味を付けろ」とアドヴァイスしておいた。

こうした米の食べ方は、個人の記憶を越えた文化的な記憶の一つと感じたのである。もう一つ面白かったのは、鎌倉の発音を尋ねられて、それは流石に米国流のアクセントはおかしいとバイエルン方言のその質問者に答えておいた。上の日系人に言わせると日本語はフラットに発音するべきだと言うのだが、どうだろう?

上のスライド映写の中にて、大根を干してある歳時記のような風景など多くの興味深く、美しい風景が散りばめられていた。そうした情景を絵葉書的と言うか、観光写真風と言うかは判断が難しい。しかし、有り余る観光資源が日本には存在していて、保護されているのも事実であろう。晴海周辺や隅田川の河口風景なども未知でなかなか面白かった。

東京と言うとそこを絶賛する北ドイツ出身の女性に先日初めてあった。日本の自動車会社から招聘されていた技術者のご主人に付いて最近二年ほど東横線沿線で生活したらしい。特に、渋谷界隈がお目当てのお出かけ先で、浅草や六本木周辺も悪くはないと言っていた。行動範囲の問題もあるのだろうが、時代性もあるのかと考える。それでも、人ゴミ嫌いの当方にとっては、珍しい人もいる者だと言うのが偽らざる印象であった。

東京のような都市がドイツにはないのは周知だが、ロンドンやパリなどは一極集中でそれに近い。しかし、彼女の言うようなカオスと活力と言うことでは、上海の方が遥かに面白いと思うのだがどうだろう。夏はドイツに帰っていて、東京を知らないと言うから最後に納得した。

上の日系米国人が、風花のことを鼻風邪と言った。それがどういうものかは少なくともこちらには分かった。

パン食でも米国とはこれ如何に?
米を食してジャパンと言うが如し。 福田赳夫
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制限されたカテゴリー

2008-01-21 | ワイン
グーツヴァイン(GUTSWEIN)と言うカテゴリーのドイツワインがある。これは名前の農園を表わすグートが示す通り、高級ワイン団体VDPが独自に基準を設けた醸造所のハウスワインのカテゴリーである。先日の記事でVDP会長が高級ワインへの入門者に進めるカテゴリーである。

一本五ユーロから八ユーロ台が一般的な価格帯である。このカテゴリーへの自主基準は、一ヘクタール当たりのワインの収穫量を75ヘクトリッター以下と定めている。これは最高級のカテゴリーグランクリュもしくはエルステスゲヴェックスが50ヘクトリッターと比較しても二分の三にも至らない収穫制限である。価格は、それらが二十ユーロ以上から六十ユーロ台まであるので、面積あたりの経済からすれば大変収益率が悪い。

それならば購入者にとってCPが高いかと言えば決してそのようなことはないのである。なぜならば、土壌が違うからである。つまり地所によってはそれほどに経済価値が異なるのである。

もちろんこのカテゴリーには、最上級カテゴリーのような「手摘み」、「伝統的製法」などの細かな制約はないが、上の収穫量制限から大切に醸造して売らないことには経済的収支が合わなくなるのである。

さて、2007年度産のこのカテゴリーでは、フォン・ブールの7.7ユーロのものとA・クリストマンの8ユーロのものを比較試飲した。前者はキャビネットクラスの同カテゴリーのものに比べて飲みやすく快適なリースリングであるが、ミネラル成分が浮かび上がって来ない限り、個性が薄く飽きが来るかもしれない。後者は酸の香りが強くリンツェンブッシュの土壌の個性に極似している。しかし、時間が経つとどうしても残糖感などが出てきて、11度アルコールの弱いワインの欠点が出てくる。前者の上手に醸造されたワインに対して後者は素直に風味よく醸造されているのが特徴である。

総じて、現時点では価格が廉くアルコール11.5度の前者の方が酒飲みには明らかにお買い得で、質は後者が上回っているので同価格なら後者の方が初心者には価値のある参考になるワインである。

しかし、双方ともリッター瓶に比べて、1.6倍ほど高価であり、これを態々買うときにお買い得であるかどうかはあまり重要ではないかもしれない。また、この上のキャビネットクラスのワインと比較するとき、この価格帯のワインの存在価値はやはり薄れる。
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お手本としてのメディア

2008-01-20 | 雑感
承前)創作過程からその経済を見てきた。バッハ音楽の演奏実践においても、従来言われていたような「有機的で思惟的な構造」こそが、こうした「即物的な創作態度」にこそ相応しく、尚且つバッハの機会音楽としての生産の経済こそが、こうした合理化のなかでこそ可能であった時代背景に根ざしていることを思い起こさせた。

そしてそこから導かれるバッハ音楽の本質こそは、ヨハン・セバスチァン・バッハの家族における先人の情緒豊かな創作などと比べて一段と抽象化されて、プロテスタンティズムの本質に再び回帰しているのが、音楽表現での芸術化の集大成となった結果ではなかろうか。

こうした考え方は、音楽史的な思考であると共に、現実的な実践の中においても意外と容易に導かれるものだったのである。するとバッハの芸術において思惟な創作態度が、作曲家の子沢山の経済に基礎づいていることすら演繹されるのである。そしてそれがプロテスタンティズムの本質に他ならない。

自由意志によるかのようにテキストの採択によって左右される音響は、不安定な管弦楽の響きと相俟って、ルネッサンス音楽における故デーヴィド・マンロウの音楽実践を髣髴させるような狡猾で経済的なバッハ像を鋳造する。そのような実像は、大晦日に新聞で紹介されていた「まるで禅寺出身のようなバッハ像を実践する鈴木の研究」からも生まれているのだろうか?鈴木メソッドでもスズキ自動車でもない、オランダ人コープマンの薫陶を受けたこの日本のバッハを、2005年の中部ドイツアンスバッハでの初お目見えに続いて、我々のフランクフルトの会でもそろそろ一度体験してみたいものである。

最後に再び、ルーカス・クラナッハの絵画における当時の先進国であるオランダ絵画の影響やイタリアのそれを見る事で幾つかの発見があることを付け加えたい。前者においてはその表情や動きからの内省的な感情表現、後者においては特に一コーナーが設けられていた。ラファエロやペルジーノの絵の描写対象とその構図を、「イエスを膝に乗せるマリアと半年違いの赤ん坊のヨハネスが横からあやす姿」を並べて比較していた。そして、その表情と共に1490年の作品の背景が比較的抽象的なイタリアの山並みであるのに対して、1514年のクラナッハのものは御得意のアルプスと山城を遠景に森が描かれている。クラナッハの絵で特徴的なその背景の山や城や町並みである。これらは、余談ながらアルトドルフの絵画においてもアルプス越えの可能性のある描写について既に触れた。

研究者の見解としては、クラナッハもこの時代にイタリア滞在をしているのではないかとの強い推測があるようだ。しかし、問題の背景のアルプスや森や川や山城が、手分けされて、モデュールとして使い回しされていたことに加えて、ヒェロニムスシリーズのライオンなどが鬣の無い長髪のそれらしからぬ風貌をしている事から、デューラーの「ディノザウルス」のように、お手本がどこかに存在していたとするのが専門家の見解のようである。

それと同時に、アルプスの南北を往来する必要は北方人には今以上にあったに違いなく、それらに描かれている山岳風景が意外に、最も往来の激しかったブレンナー峠附近ではなくてより絵画的なスイスの山並みが数多く写されているのも興味深い。クラナッハの旅のスケッチ帳も展示されていたが、確定的な記述はそこには見つからないらしい。

さらに、背景としてもしくはゴルゴタの丘として毎度描かれている森の情景も、平素の環境を好んで用いたとする私見に対して、当時の欧州人の砂漠などへの無知がこうした代替となっているとする説明を聞いたが、それならばやはりアルプスの場合は実地で見聞してスケッチした場合が圧倒的に多いことにはならないか?

余談になるが、今回の展示会のクラナッハの展示室へと進むまでの空間に、多くの所蔵の常設展示の名画を覗くことが出来た。キルヒナー、ノルデ、ムンク、ピカソそれにファイニンガー、モネーやロートレック、ピサロなどは久しぶりに観た。セガンティーニのものは背景の岩峰が特定できなかったがベルゲル山群であった。それらを横目で見ながら行き来して、クラナッハの展示室へと出たり入ったりすると、それらのどれとも異なるメディアとしての機能を持っていることが印象深かった。

それゆえに今回のクラナッハ展においても、学校からの見学を多く受け付けているようで、午後に訪問したので学生はいなかったが年配の団体のバスは幾つか入っていたようである。そして、ガイドによって子供達に「ヴィーナスに寄り添うアモール坊やが蜂に刺されている情景」や「ダイアナに鹿に変えられて自らの犬に襲われるアクタイオン」などが詳しく教育的に語られるのである。

そうした英知が語られるとき、アレゴリーが説明されるとき、その話題は尽きないのである。余談ながら、終了間近、大判の「ヒエルニムスの絵」など数点あるブースに一人取り残された。それほど強い絵ではないのに、到底個人の日常生活空間に飾って置けるような絵ではないことが知れた。そう言えば、首の絵は持ち主によってその部分が塗りつぶされていたようだ。(終り)


写真:マイン河にかかる橋柱に飾られているのは、次ぎに開催されるファン・アイクの絵である。



参照:
北方への旅:デューラー
北方への道 (時空を超えて)
Bachs College, Ellen Kohlhaas, FAZ vom 31.12.07
腹具合で猛毒を制する [ 生活 ] / 2008-01-17
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モデュール構成の二百年

2008-01-19 | 文化一般
承前)蛇のように開いた目、しゃくれた鼻、厚い唇、小さなおちょぼ口の顔が、華奢で狭い肩、小さな乳房、細いウェスト、長い腿ぼねの肢体に乗るのが、頭である父クラナッハの好みに合わせて11人のスタッフが制作するクラナッハ工房の作品である。

そうして制作された作品は、クラナッハの「蝙蝠のを付けた蛇のロゴ」を入れたブランド商品として注文者に引き渡された。我々がその作品を、シリーズとして分類できるのも、その裸体などが掌を上に向けたり下に向けたりと、頭を傾げたり背景を動かしたりと、少しずつ細部を換える事で、唯のコピー以上の価値の作品を納入出来たその制作過程が故なのである。

作品数にして同時代のデューラーが百作品を完成させているのに対して、クラナッハ工房は千の作品を供給している。それも、再版のコピーではなくてオリジナル作品としてどの作品も一定の水準を越えているのである。

ルネッサンスの芸術を思い起せば、なにもデューラーがせっせと擦って尚且つその版権を考えた版画ならずとも似たような現象にぶつかるのだろう。特定の注文主や特定の機会を離れた芸術作品としてもしくは独立した芸術家の創作としての認知へのその経済行為がこうした現象を引き起こしている。経済そのものが文化になって来るのである。

その後のバロック時代における音楽芸術なども、独立した作品としての用途と機会芸術としての用途が交差している時代例であろう。クラナッハの展示を後にして、レーマーカテドラルを右に見て、とっぷりと暮れたマイン河に架かる歩道橋を渡り、旧フランクフルトのザクセンハウゼン側から新フランクフルトの旧市街に戻ってくる。車をアルテオパーの方へ移し替え会場に入る。他には催し物が無く珍しいほどひっそりとしていてまるでベルリンのフィルハーモニー周辺のようである。コーヒーを飲みながら時間を潰し、プログラムを態々好みの女性の元へと取りに行き、先ずは今見てきたものを回想しながらメモを取る。

クラナッハの映像表現を初期のプロテスタンティズム芸術とすれば、バッハこそがプロテスタンティズムの音楽表現の頂点を築いたとしても異論はなかろう。その期間二百年にバロック芸術が興り既に終焉を向かえていた。

コンラート・ユングヘーネル指導のカントュス・コェルンの演奏会は、中ホールで素晴らしいバッハ家族を取り巻く声楽曲を堪能して以来、大変楽しみにしている。今回はバッハのカンタータをBWV172、182、21と三曲演奏した。そして今回も最近のバッハ演奏では、最も信頼置ける演奏実践と感じた。

最も分かり易い例がアンコールのカンタータ「心と口と行ないと営みと」BWV147の有名なリフレーンのアーティクレーションに顕著に現われていた。まさにバルターザー合唱団等と基本的には変わらなかったが、ここではその双方の差異を綺麗にア-ティキュレションとして歌い別けていた。そこだけ聞いただけでもこの合唱団の指導と基本姿勢の正しさが確認出来る。

そしてその姿勢は、今回三人のゲストを迎えた正式な五人の声楽メンバーを中心に徹底していて、その姿勢を管弦楽のアーティクレーションが合わせる。BWV182の「天の王よ、よくぞ来ませり」のコラールなどもそこに見事な綾が聞かれた。

要するにアーティクレーションへの拘りは、原曲が使い回しされようが、そこに付けられるテクストによって全く新たに生まれ変わるほどの音楽的な再生を齎し、そこから管弦楽的な部分部分と全体の組み合わせである作曲の妙がここに明かされる。

それは、「鳴りひびけ、汝らの歌声」BWV172での響きの美しさに、管弦楽的な多様性として、また面白い対位法的な究極の表現にも繋がっている。更に、「わが心に憂い多かりき」BWV21をこうして演奏されると、そのハ短調の調性が下げられたピッチゆえ(休憩後とはいえ三曲目なので一曲目のピッチとは当然異なる)のみならず全く違って響くのである。実際この曲は、当時のヨハン・マテーソンと称する音楽理論家から「テクストの退屈な繰り返し、好い加減な間合い」と厳しく批判されていたようで、推測するに先人の時代から躍進している作曲技法こそが槍玉に上がっている感すらある。

特にシンフォニアに続く二曲目の合唱などは、大バッハの家族の先人が実践してきたものを一挙に組み合わせて抽象化してしまっている快さが、そこでは殆ど苦笑しているかのようにすら響くのである。まさにそこにこそバッハの創作の世界があり、モデュールな音楽要素の扱いが、その後の二百年の歴史の中で、再び主観的な表現意欲を持った視点によって誤解釈されて行くのだろう。

これを聞いて思い出すのは、先ほど見てきたばかりのクラナッハ工房での制作過程で触れた作業方法そのものである。例えば習作様の数々で示されているような頭部の画像、体の特徴や背景の風景などは、現在の工業でなくてはならないモデーュル工法と同じく、必要なところに必要な形としてそれを埋め込むことが出来るように描かれている。

こうした絵画における制作過程がどこから生まれたかは興味深いが、こうすることによって、工房における分担作業を各々の得意とする分野に効率よく専念させることが出来て、ブランドマークをつける最低品質が得られやすい。更に、細部の取替えによって、シリーズ化された中で新作品を容易に提供することが出来る利点が生じている。(続く
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