Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2020年8月

2020-08-31 | Weblog-Index


フランクフルト劇場再開 2020-08-31 | 生活
忖度無いジャーナリズム 2020-08-30 | マスメディア批評
音楽会を愉しめるように 2020-08-29 | マスメディア批評
不可抗力に抗う肉感性 2020-08-28 | 音
薄氷上の騎行の芸術活動 2020-08-27 | マスメディア批評
カヴァティーナまで 2020-08-26 | 歴史・時事
最後の交響楽演奏会 2020-08-25 | 文化一般
コロナはただの風邪に? 2020-08-24 | 雑感
マリオネット化された啓蒙 2020-08-23 | 音
ルツェルンからの報告 2020-08-22 | マスメディア批評
お茶を濁さないように 2020-08-21 | 生活
今夏最後の暑い空気 2020-08-20 | アウトドーア・環境
伯林疫学研究所長の妄言 2020-08-19 | 文化一般
折り返し点での喧騒 2020-08-18 | 文化一般
女性の楽劇と評されたもの 2020-08-17 | 女
表情のヴィヴラート 2020-08-16 | 女
まるで夏の打ち上げ花火 2020-08-15 | 文化一般
塩浴のザルツブルク 2020-08-14 | アウトドーア・環境
プファルツ風ポテトサラダ 2020-08-13 | 料理
矛盾のザルツブルク音楽祭 2020-08-12 | マスメディア批評
バイロイトのアンデルセン 2020-08-11 | 音
ザルツブルクの勘違い 2020-08-10 | 文化一般
オペラのヴィーナー 2020-08-09 | 文化一般
トウモロコシはまだか 2020-08-08 | 生活
ダポンテの最後の啓蒙作品 2020-08-07 | 文化一般
アルコール無しの特効薬 2020-08-06 | 雑感
野蛮の自己飼育具合 2020-08-05 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
ザルツブルクからの中継 2020-08-02 | マスメディア批評
フラマン人の誇り 2020-08-01 | 文化一般
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フランクフルト劇場再開

2020-08-31 | 生活
アンドロイドで三種類のブラウザーを使っている。PCと同調させるものもあればさせないものもある。クロームはアンドロイドの親会社でこれはアンドロイドを使う限り外せない。その他にはオペラ、フィア―フォックスである。以前はその他も使っていたが、結局ここに落ち着いた。同調させずにでも使う理由があるのはファイアフォックスだ。

実はこれを使うと動画でも其の侭音声のみをマルティタスクとして流しておくことが出来る。YouTubeはなぜか無理なようだが、その他多くは他のページで仕事をしながら音を流せる。これはシングルタスクしかできない筈のアンドロイドでは取り分け嬉しい。

なぜこれを今書くことになったかというと自動的にアップデートされてその機能が使えなくなったからだ。それならばこんなブラウザーを使う事も無い。PCでのダウンローダとしてだけで十分だ。そこで古いヴァージョン67.0.3を正規サイトから落として再インストールした。そしてマルティタスクが可能になった。しかし暫くするとまた自動アップデートされた。

メニューを見てもアップデートを避ける方法が分からなかった。仕方が無いので検索して調べるとあった。メニュー検索してabout:configで肝心のメニューが出てくるので、そこでextensions.update.enabledをfalseにするとなっている。しばらく置いておかないと分からないが、これで解決すると思う。一年前程のリリースに戻す必要があった。

ブラウザー製作側からすれば、CMをしっかり見て貰うことなどはその集金条件になるのだろう。するとマルティタスクなどは以ての外、更にアドブロックなどで広告をストップさせるとネットビジネスが成り立たなくなる。YouTubeなどでも専用APPで見ると広告が入り続ける。PCで全てを抑え込むことは可能だが、アンドロイドではそれなりに工夫がいる。

フランクフルトのオペラ公演の席を予約した。再開最初のオペラ公演である。1375席に390席しか入れない。三四席に一人の割合だ。だから再演の演目とは言っても定期会員以外でどれぐらい出るか分からなかった。流石に初日木曜日は無理だった。日曜日の午後の公演で手を打った。前回の11月もそこでマルヴィッツ指揮でフォーレ作品を観て、その足でアルテオパーのユロスキー指揮ロンドン響の第11交響曲に駆け付けた。今回は、デビューの女流指揮者オクサーナ・リニヴ指揮で「清教徒」である。休憩無しに短縮して演奏される。歌は、数年前にミュンヘンでペトレンコ指揮でツェルビネッタを聴いたブレンタ・ラエである。恐らく指揮者とはミュンヘンで顔馴染であろう。

週中盤ではなく週末までの先送りになったのでお勉強の時間がある。更にオリエンテールングのヴィデオも出るようで、それも吟味できる。しかし何といっても、ミュンヘンで近くで話しているのは知っているだが、彼女の指揮を体験するのは初めてである。中継された「青髭」と管弦楽の協奏曲組み合わせがあまりに素晴らしかったので早めに聴いておきたいと思っていた。来年の復活祭の「ツァイ―デ」も二枚も買っていたのだが変更になってしまった。期待するところはあるのだが、先ずは生でしっかり判断したいと思っている。

ミュンヘンでキリル・ペトレンコのアシスタントの後グラーツの音楽監督としてやっていたので、コンサート活動と同時に次のポストへと現在武者修行中で、独国内ではキャリアを昇るポストは限られている。放送交響楽団に行くか国立劇場に行くかであるが、さてその実力は如何に。



参照:
注目が高まる女流の登場 2020-04-27 | 女
定まるテムポの形式感 2017-09-04 | 音
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忖度無いジャーナリズム

2020-08-30 | マスメディア批評
二度寝したが、七時にはパン屋に居た。これから温度が下がって、早起きも辛くなるかもしれない。土曜日の早起きはパン屋で並ぶのが嫌だから、空いていれば気温は関係が無い。だから時間があれば都合さえつけば走れるようになる。日差しを避ける必要は無くなった。

スーパーなどもマスクで汗を掻くことが無くなったので、適当な時刻で混んでいなければ構わない。盛夏の三四週間の都合が限られただけだった。アマゾンで冬用の防寒マスクを購入する予定だ。又散髪屋にも暫くしてから行くので、其処でマスクをまた一つ調達できる。だから今まで一つもマスクなるものを購入したことが無い。

帰りに寄った肉屋ではバーベキュウ用の細いブラートヴルスト購入した。夏以降はグリルも出来ないので久しぶりだった。どうしてもジャガイモが欲しくなり、残りのそれを全てカトッフェルサラタにしておいた。月曜日まで残っているかどうかである。

夜は先日から生中継を繰り返していたネルソンズ指揮でのアムステルダムからの放送を観た。途中から観ただけでが、先日観たロート指揮と直接比較が出来た。ロート氏の指揮も熱く勝負をしている真剣もがあったが、ネルソンズ指揮はやはり楽団がよく鳴る。ここ暫く低迷している名楽団だけにやはり上手に鳴るのを聴くのは嬉しい。曲が何であったかも印象に残らないような指揮であるがどこの楽員にも人気がある指揮者なので次期指揮者になってもいいのではないかと思った。

少なくともトレーナーだったリカルド・シャイー以外で、ハイティンクとヤンソンズを考えればやはりこのネルソンズが一番いい。するとライプチッヒのゲヴァントハウスの契約を延長しないという事になるだろう。ネルソンズで決めてもいいのではなかろうか。

するとライプチッヒが空く。居酒屋人事では、早めにヨアーナ・マルヴィッツを客演させて、試してみればいいと思う。夏のヴィーナーフィルハーモニカーのデビューも大成功で、ベルリナーフィルハーモニカーも既にデビューの計画をしている。ニュルムベルクより上のランクの劇場で適当なところがなさそうならば、もう少し併任の形でやった方がいいのかもしれない。

本当は今月末に二日続けてコンセルトヘボー管弦楽団をルツェルンで聴いているところだった。ロート指揮についでヘルベッヘ指揮のオラトリオ演奏会だった。来年はどのようなプログラムになるのか知れないが、ネルソンズでも構わない。

金曜日のオープニングの批評が出ている。ベルリナー新聞だがとても面白い。先ずは、バレンボイムの言葉から入っていて、彼自身のコンサートであまりに人が入っていないのを見てまるで葬式だと言ったところから始める。しかし直後に葬式と言ってもそこで慰められ、心が晴れる事も決して稀ではないとする。

ここまで読めば、バレンボイムが客にマスクをさせて満杯にするように求める、さもなければ当局を訴えるとまるで「コロナはただの風邪派」の主張のようなことを声明したのに対応している。なぜバレンボイムが騒いでいるかは、この自らのコンサートとしたことでばれている。勿論彼自身のホールの運営が成り立たないから聴衆の安全よりも大損失から人手に渡ることを避けたいという意思でしかないだろう。それはベルリンの国立歌劇場音楽監督としてパワハラで話題になったその姿勢そのものである。

そして、ペトレンコ指揮で一曲目のシェーンベルク作曲「浄夜」が始めるのを聴いて、その死者の蝋のような青ざめた色がユニゾンで奏でられるのを聴くと、必ずしもその葬式という言葉が的外れではないことを知ると書く。

更に、音楽が進み、不協和音を制御しながら、後期ロマン派のそれから注意深く距離を置いて指揮して感情を殆ど紛れ込まさないとする。

そのように賢明に音楽の素材を紡ぐことでペトレンコをロマン派音楽の当代最高の指揮者としていると続ける。

またもやネオロマンティズムの演奏家バレンボイムに突き刺さる。権力者の前でジャーナリズムはなにが出来るかという最高の例の一つだ。



参照:
Kirill Petrenko zieht die Zügel an, Clemens Haustein, Berliner Zeitung vom 29.8.2020
矛盾のザルツブルク音楽祭 2020-08-12 | マスメディア批評
薄氷上の騎行の芸術活動 2020-08-27 | マスメディア批評
音楽会を愉しめるように 2020-08-29 | マスメディア批評
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音楽会を愉しめるように

2020-08-29 | マスメディア批評
ベルリンからの中継放送を聴いた。定員の四分の一465人が入ったベルリンのフィルハーモニーからの新シーズンオープニング演奏会であった。先ずは30分ほどの時差でのラディオ中継。ARD網のキー局をSWR2がやっていたが、敢えてRBBから録音した。スタッフはそこの人たちだ。音質も悪くないので現地主義を取った。それが終了したのが21時30分前で、番組は無観客で演奏された「グランパルティータ」のアーカイヴへと移って行った。22時30分から今度はRBBのTV中継録画が放送されるので、それを録画する準備に入った。

内職の成果は、録音は綺麗に出来たと思う。まだ確かめる時間はないが、先ずが映像を見ないでどのような配置でどれぐらいの大きさかなどを想像していた。特に「浄夜」は5月23日に放送されていたのでそれとの比較となる。人数は、今回が40人で、前回は20人と倍になっている。その配置のバラバラ感とか、原曲の六重奏曲に近いのは前回の演奏だった。この曲に関しては、ザルツブルクのティケットが7月に売り出された時もあまり期待していなかった。必ずしも六重奏版がいいとは思っていないのだが、最初に生演奏を聴いたのが岩淵龍太郎指揮の室内合奏団で、その演奏自体はロマンティックだったのだが、室内楽の延長でその楽器間の受け渡しやその音響の手もとがよく見えた。どうしてもそれが欲しいのである。

だからその当時から手元にあったフォンカラヤン指揮の録音は全く駄目な録音であることは分かった。その後に聴いたのはマンのジュリアード四重奏団にトラムプラーとマが入っている録音だ。その後、ダニエル・バレンボイム指揮のシカゴ交響楽団の録音を聴いて、これが決定版となった。シカゴを世界一番だと思っている私にはもう選択が無い程の出来である。

当然のことながら制作録音とライヴ放送とは比較などは出来ないのだが、なによりもそのテクスチャ―の透明さを求めると、今回の演奏ではやはり具合が悪い。ペトレンコの楽曲紹介のヴィデオを見ていないのでその趣旨はよく分からないが、やはりこのプログラムの原型だったヴェーベルン作曲「パッサカリア」に続いてメンデルスゾーン交響曲一番ハ短調には代えがたい。

11月のアルテオパーでの公演はこのオリジナルプログラムは残されている最後のものであるが、何とか実現して欲しいと思っている。フランクフルトのアルテオパーは、9月分に関しては、見込みの無いシュターツカペレドレスデンなどの公演の中止を除くと、短くしたプログラムを倍額近くにして売っている。減員して、倍額払っても人が集まる演奏会というのが本物だと思う。

アルテオパーでのベルリナーフィルハーモニカー演奏会は、2月にも筆頭スポンサーのドイツェバンクが招待などで、格安で提供している。その意味から倍にしてくれても個人的には構わないのだ。それどころか、もっといい席に代えてもいいと思う。

間隔を空けて、倍額、それでも解決しないのは舞台上の間隔で、新たにシァリティが提出した配置提案によれば、遮蔽などを使って管楽器の前の間隔を2mへと縮め、弦楽器奏者間も1mへと縮める。当然のことながら、客席も1席空けて半分まで入れれるようになる。そして長めの休憩を入れれると良いだろうか。その前提には、現地だけでなく連邦共和国内のコロナの新感染がぐっと下がっている事だろう。

その意味からもTVの司会者が、「皆が規則を守れば、もっと新感染者が減って、普通に音楽会を愉しめるようになりますよ」と態々声明を出していた。同時に最新の空調が効いているフィルハーモニーの券がまだ余っていると宣伝していた。このことが多くの事を語っていたと思う。



参照:
実績を踏まえての期待 2020-05-24 | 音
怖くないコロナ第二波 2020-06-12 | 雑感
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不可抗力に抗う肉感性

2020-08-28 | 
承前)ザルツブルク新制作「エレクトラ」のプログラムをさっと読んだ。中々纏まらない点に関して多くの示唆と幾つかの情報が入っていた。オペラ公演のそれに眼を通す人は殆どいないと思う。新制作の写真が載っていて、それ以外は重要な情報よりも観光旅行地の御土産みたいなものだ。だから前回のザルツブルクで観た浅利慶太演出の時のプログラムも殆ど読んでいなかった。そしてそれを捲るとその公演の演出に合わせて物語のアウトラインや文化的な背景などに触れられているが、ホフマンスタールやシュトラウスの創作には無関心だ。日本のチームがその本質に切り込んでいたとは誰も思っていない通りの上辺だけの古典上演だった。指揮のマゼールもそれで満足だったのだろう。

その点、今回のそこに書いてあるのは、分かり切った「エレクトラが中心にある」に対して、三人の女性に焦点を当てている意味合いだ。それは演出家のヴァリコフスキーの話しにも出てくる。先ずそのフェルゼンライトシューレの幅広い舞台に如何に劇場空間を、それもこのコロナ禍の後に新たに開くかという事に苦慮したとある。

その一つにプログラムに写真として使われているシチリアのマフィアにおける抗争の死体写真などを並べたレツィーリア・バターリアの写真集がある。要するに血で血を洗う抗争をこの話しへの肉付けとする。ホフマンスタールがこのギリシャ古典に注目して驚いたのもシェリーマンの考古学的な成果からで、ホメロスの世界が現実であったという事が分かるようになったことであるとされる。

オイディプスコムプレックスのフロイトの研究から、そしてこの1909年初演のリヒャルト・シュトラウス作曲「エレクトラ」を観たユングがエレクトラコムプレックスに1913年になって言及した様だ。教養のあるヴァリコフスキーは、三人の女性に注目して行く。その前にアガメノンも弟のオレストも男性陣は二人とも同じ境遇であると括ってしまって、一人目に犠牲者は生贄にされた長女のイフゲニ、二人目の犠牲が母親となる。つまりここで既にその劇中の扱いは定められてしまっているというのだ。

それに対して三人の女性陣は遥かに自由で、このオペラにおける人心を超えた巨大な暴力と神の意思に逆らい、運命と偶然に抗う非人間性を描くことで本来のギリシャ神話を描けるという構想になったとしている ― まさしく不可抗力としている。その程度の差こそあれ、既にこの基本構想に於いて浅利とは全く異なる。

ホフマンスタールのディアローグの見事さとして、エレクトラとオエストが出合う場面の其の際の会話を挙げている。そこでは復讐への執着によって性的な開花無く大人になった娘と弟の再会が描かれるのだが、今回のキャスティングの始まりだったところだろう。指揮者のヴェルサーメストの言葉を引用すれば、最近トスカとサロメを歌った歌手を探せとかあったが、まさしくここの抒情的な歌唱は今迄のエレクトラ歌いでは出せなかったキャラクターで、アウスリーネ・シュテュンディテを起用したのは、演出家と指揮者の協調作業にザルツブルクの恐らく芸術監督が正しく動いた成果だったろう。

そうすることで、これまた「子供が欲しい」と歌う三女のクリムネストラの病的な性質が際立つことになり、最後の最後までホフマンスタールが加筆したフィナーレへと続くことになる。従来の演出においても幾らかは重要な配役としてキャスティングされることは時々あるようだが、今回のアスミク・グリゴーリアンの起用はよって決して興業的な意味に収まらなかった。

既に言及されたようにエレクトラとその母クリテムネストラとのディアローグこそがこの作曲家の真骨頂でもあるのだろう。そしてここでもキャスティングも妙味があって、どうしてこの人が選ばれたかというターニャ・バウムガルトナーで、次に重要になる肉感性という事ではその役や年齢に関わらずおばさんがとても舞台を飾っていた事を先に述べておこう。

そして、この三人の女性を主役にしての肉感性がこの演出の味噌であり、それがオペラ作品の否当時のユングの流れを汲む精神分析へとその意味を問うていくことになる。大まかなアウトラインを引きだすだけでも可成りの整理が必要になるが、こうした作品を捉え、劇場で演出するとなると今更の如く二つ三つほどの博士号でも取得していないとお話しにならないという事になりそうだ。(続く)



参照:
へそ出しもビキニも 2020-08-03 | 女
フラマン人の誇り 2020-08-01 | 文化一般
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薄氷上の騎行の芸術活動

2020-08-27 | マスメディア批評
ノイエズルヒャー新聞がコロナ禍での文化活動を考察している。病人の為の費用が加わると、その催し物の費用を計算するSNSから口火を切っている。ルツェルン音楽祭のヘフリガー支配人が同紙のインタヴューに答えたことへのコメントである。そのミニフェスティヴァル決定までへのプロセスであり、訪問者保護とをその秤にかけての決断が、その投稿者には信じられなかったという事だと書く。

研究家や専門家、当局よりもよく分かっているというのは先ず無視。多くの主催者は、衛生環境を整えて、入出場をしっかりマネージメントして、更にマスクの有無を検討してテレコテレコのチェス盤状に聴衆を入れて行くというのは長く主張され続けていた。しかしそれを超えて、南ドイツ新聞の「ザルツブルクは文化のイシュグルになる」との予言には、どの責任者も関心が無い。

そこで「音楽会場には絶対の安全などはない」とする議論は正しい。それはスーパーであってもバスであっても日常の身近にあるもので、人生こそが唯一の危険としてもいい。しかしである、芸術家の絶え間ない、そのものの喪失を癒すような若しくは日常からの逃避をさせてくれるような行動的な投入によって、その危険性がもはや釣り合わなくならないのか?

この禍の真っ只中において「文化とは」をコムパクトに表現するとすれば、「なくてはならないより良い生活の要素」であり、それと同じくして批判的な鏡として、「ただ娯楽的に消費されるだけ」の文化であってはならないという事とする。

三十年戦争後の勝利の踊りやそして1945年後のドイツにおける文化は、覚醒させられそして癒されるに欠かせないものであった。それが生きるための糧とされるものだ。

ここスイスに於いて、このコロナ禍において、他の欧州諸国の様に守り抜かねばならないものでは無い。五月にキリル・ペトレンコ指揮でベルリナーフィルハーモニカーが無人のホールで演奏したのが中継された時、それがライヴであるかどうかという事が皆身に沁みた。ザルツブルク音楽祭がその水準で以って二つのオペラを上演した時の業界の固唾を飲むのは聞き落とされるものでも無かった。

その途端各地で表現されたように、芸能では避けることも儘ならないルーティンや多くの断層がそこに生じ、それ以下でもないことが生じた。それ故に各方面で、その集中した中での尋常ではない特別な芸術が生じる。

そこでコンサート会場や劇場なども当面は変更を余儀なくされる状況での計画を立てなければならず、そこで新たな場を使っての創造力が試されている。

ここでは、経済の事に関しては口を噤み、その芸術性に関しての出納表を見ると現在のところは様々だ。ザルツブルクの様に戦闘的に存在を表明するところはまれで、バイロイトの様にリーダー無しで暴走して、目前の計画しか立てられない。

シュレスヴィッヒ音楽祭の様に柔軟に処した音楽祭はスイスにはなく、ワクチン待ちであると此の侭2021年の前半を越えて待ちの状態が続くだろう。

だから大きなものでは工場のホールとかに場所を変えて、また小さなものでは演奏者と聴衆が目を合わせながらとかいう可能性の追及をやってみるべきだ。

しかしそうした大変な試みに価値があるかどうかというのが最初の問題提議だ。もしそうした軽率な合奏団や聴衆から大きな感染が出た時、そのコンタクトから調査をするという計画はその通り一つではあろう。そしてそこからのイメージの損傷は、当事者を越えて業界全体へと、遥かに厳しいものとなる。

勇気とやり通すことはなるほど名誉で、それは当事者にとっての生き残りでもある。しかしウイルスは、他の業界をも巻き込んで対抗するかのように焦土化させる。個人的な安全と芸術的な必要を秤に架けるときには、聴衆は少なくとも冷徹であり得る。

既にそれは、多くの人はそうした冒険には制限を設けていることに表れている。それらの公演の入場削減された席が当日になってもあるというのは新たな事であり、ルツェルンでもその九割以下の入場者に留まっている。自らの安全を真剣に顧みるというのは前記の投稿者一人だけではない。

芸術の正統性に価値を置くという者は、人生の高きも低いきも全てを包括的に、ザルツブルクでのノーリスク、ノ-アートに寄与するだろう。ザルツブルクの指導部が「薄氷の上を行く」とする騎行のカルカチュアーにである ― 「危険無しに芸術は無い」。



参照:
Kultur geht nur mit Risiko, Christian Wildhagen, NZZ vom 26.8.2020
ルツェルンからの報告  2020-08-22 | マスメディア批評
矛盾のザルツブルク音楽祭 2020-08-12 | マスメディア批評
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カヴァティーナまで

2020-08-26 | 歴史・時事
10月の公演を審査する。ミュンヘンでは次期音楽監督ユロスキーが一月間活動する。表面上はアカデミーコンサート二回とルツェルンへのツアー、更に「ヴォツェック」再演を四回指揮する。近い所に居れば行くのだが、裏ではバリーコスキー演出「ばらの騎士」の舞台準備がある筈だ。ベルリンやロンドンでの日程は知らないが、来年の準備に時間を割くのだろう。

あとは幾つか9月、10月で出かけたいところがある。座席削減でどれもこれも入手が難しいかもしれない。先ずは定期会員向けに配って、余ったものが一般売りに出る。定期会員も辞退者は少なくないだろうが、四分の一とかの入れ方であると中々余らない。さあどうなるだろう。

ザルツブルクからの中継録音を聴いている。映像流れているものでも耳で聴きたいというものも少なくない。ベルチャ四重奏団の中継がそれでプログラムも良くは知らなかった。ラズモフスキーのハ長とへ長の間を作品番号無しのヴェーベルンで繋げている。休憩が無いという事でこうした構造も有り得るだろう。

最初の紹介のアナウンスが明らかにチェロとヴィオラを間違えていて、クリストフ・コルチャフスキーをチェロで創立メムンバーとして東欧風としていたが、一体何が言いたかったのか分からなかった。可成りミスリードで、私でさえどうしても四重奏の響きにボロディン四重奏団のそれなどを聴いてしまう。何よりも収録のマイクロフォン設置も音楽的に洗練していなかった。あまり分からない人たちが収録にも集まったという事だろうか。そもそも今まで聴いて、この新装された中ホールの音響があまり良くない。この設置ならばエベーヌ四重奏向きではないか。

録音したものを聴き返すとアンコールの「カヴァティーナ」までそれはそれなりに聴かしていた。中々楽器間の絡みとその音響を正確に伝えるのは一回の本番を録音しただけでは難しい。この四重奏団の合奏芸術の妙が愉しめないとそれは矢張り惜しい。

愈々ザルツブルクの感染状況が他のオーストリア都市と同じように指数で50を超える水準に至っている。ヴィーンは100を目指している。国全体で21とロシアを追っている。つまり16のスェーデンを軽く追い越した。そのやっていることをその管弦楽団の扱い方だけでも見れば明らか。インスブルックなどが落ちてきているのが何よりもの朗報だ。フォアアールベルクは11とかで安定している。やはり市民がどこまで横着な人間かがよく分かる。やはり気質の違いが大きく出ていると思う。それにしてもフランスが何時の間にか43と上がりルクセムブルクの52の後ろが見えてきている。フランスも50を超えると危険国に指定される可能性がある。パリでやっているように街の中でのマスク義務などで効果が出るとはにわかに信じ難い。



参照:
マスクを素早く着脱 2020-07-11 | 文化一般
アラテデスコの響き 2020-06-25 | 音
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最後の交響楽演奏会

2020-08-25 | 文化一般
管弦楽コンサートの席を確保した。二月のあのアルテオパーでの交響的舞曲に続いて初めての管弦楽演奏会である。十月にフォアアールベルクでマーラーの交響曲第九番が演奏される。指揮はキリル・ペトレンコ。昨年千人の交響曲に出かけて、この里帰りシリーズの最後はどうしても行きたいと思っていた。それも昨年は会場の大きさからフェルドキルヒでは演奏出来なかったので、ブレゲンツの祝祭劇場へとその定期演奏会も移されて開かれた。だから最後にどうしてもペトレンコの第二の故郷での演奏会に行っておきたかった。会場も1150人程度で親密な地元の人の様子も感じてみたかった。昨年も若干は感じたが、今年はコロナの影響で半数しか入れない。五百人程度の所でマーラーの九番が聴ける。

既に知られているようにオーストリアはドイツと異なりヴィーナーフィルハーモニカーが切り込み隊長となってソーシャルディスタンシングの無い管弦楽の演奏が可能となっている。一方ドイツではマーラーの交響曲は年内は演奏不可能とされている。勿論ペトレンコは来年二月にこの曲をミュンヘンで指揮して、更にライプチッヒのマーラーフェストでベルリナーフィルハーモニカーを指揮する。十月はその前準備でもある。

だから今年二月のあの名演に続いての大管弦楽演奏となると想像しただけでも胸が一杯になるのである。入場者数が制限されていることからそのような小さな大ホールで席が得られるかどうか不安だったが、一昨年の発売日のブログを読み直して手順を確認しておいた。「五時過ぎに起きてPCを点けると既に発売が始まっていた」と書いてあったので、目覚ましで目を覚まして零時に入ると既にリンクが張られていた。希望の席は会場の写真等を審査して予め見当をつけていた。しかし五割入場の販売方法は入ってみなければ分からなかった。そして、券の売り方は、既に出た定期会員などを除いて、マニュアルにペア席とシングル席を左右に一席だけ空けた方法でオファーしていた。つまり訳の分からぬ爺さんがペア席を強引に一席購入しない限りは間違いなく隣は空席となる。更に又前後に余裕のある角席を狙っていたので何とかなると思う。ザルツブルク以上の間隔は開けられるだろうか。

旅行の予定としては、当日ピクニックの準備を整えて、14時にフェルドキルヒ手前の町のホテルにチェックインする。早くても18時過ぎに会場近辺の駐車場に入ればよいので一休みできる。交響曲一曲で終了は21時30分とされているので、其処で食事も可能だが、翌日のマティネーにも出かけるので早めにホテルに戻り、就寝したい。翌日は早め起床して、ピクニックで朝食として、チェックアウトして、ブレゲンツへと帰宅方向へと移動する。10時過ぎに駐車場入りなのでそれほど余裕はない。昨年の勝手を知っているから楽員たち同様にそれほど負担にはならないであろうか。13時には帰宅の途に就けるので昼食だけを考えておけばよい。

二日目のマティネーの方は前回とは異なり合唱曲ではないので、視界を優先させた。独伝統的楽器配置を取るだろうから、コントラバスは下手だろうか。兎に角、弦楽器間での受け渡しが視覚でも確認できると助かる。ここでもまた早めにネット入りしたので定期会員に続いてまだ距離間の取れる席が空いていた。これが何よりも有難かった。同じ料金を支払ってもそれは大分付加価値が異なる。音響に関しては昨年の経験からそれほど癖などはないと想像がついている。

マイクは何処で入るか分からないが、一番良く券が出ているのは最終日の最終公演である。このシリーズがこれで終止符を打たれるとして共に喝采したいという常連さんも多い事だろうと思う。祝祭劇場は収容1500人程であるが、発売数800席ほどから250席ほどしか発売されなかった。これは直ぐに完売しそうだ。しかし個人的には違うところに焦点を当てた。勿論二泊も出来ないというのもあった。最後の演奏会が始めるころにはワイン街道に戻っているだろうか。

「千人の交響曲」とこの第九の間の距離は遠い。第九の生演奏と言えばバーンスタイン指揮のイスラエルフィルのそれだった。その間に二年前に引退したハイティンクが指揮した最後の第九を聴いた。これで漸くバーンスタインを乗り越えて行くことが出来るのだろう。

ペトレンコがブレゲンツの会場に戻ってくるとすれば、ベルリナーフィルハーモニカ―となのか、それとも新たな企画の為か、はたまたヴィ―ナーフィルハーモニカーとなのか?



参照:
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
今夏最後の暑い空気 2020-08-20 | アウトドーア・環境
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コロナはただの風邪に?

2020-08-24 | 雑感
涼しくなった。気持ちが良い。Tシャツ猿股では寒くて、真夏に続いて窓を閉める。基本は乾燥しているので直ぐに空気が変わる。お蔭で空咳が出るようになった。近づいてくるものがいたらこれで我がテリトリーを確保する心算だ。窓を閉め切って就寝したが理由がよく分からない。季節の変わり目である。クシャミも激しく出た。

ベルリンのシャリティの研究者がオクスフォードの研究として、変異が急速に進んでいて、コロナの弱毒化を予想している。人間に合わせて変異して行くと鼻に潜むだけでいいようだ。肺に行く必要などはないとなり、今度は症状が出た者は自己隔離して行くと、コロナもそれ以上に感染しない。無症状もクシャミ一発で終わりとなる。要するにただの風邪だ。新感染者の重篤化の状況などを観察して行けば分かるのだろうか。

個人的な経験からして、確かに気持ちの悪い性質を持っているウイルスであるが、その症状は通常の風邪よりも軽く短く出て、全身症状に影響を与え続けることはなかった。言うなれば症状が出る先から免疫力がとても働くのだ。だから鼻の中に留まってくれるなら全く気にならない。直ぐに慣れてしまう。

やはり粘り腰でその時を待つような心構えが必要で、先が読めなくても辛抱である。アウトドーアスポーツなどに馴染んでいる者はよく分かるだろうが、「待てば海路に日和あり」で、これまたダポンテの「コジファンテュッテ」となる。潮目が変わる時は思いの外とても早い。

それで思い出したが演出家のバリコスキーが先日のシャリティ―の会場を満席にするアイデアに対して出していたコメントがとても素晴らしかった。流石に実際家の劇場者で、先ずは一メートルとかの間隔に縮めて何もなければ更に詰めて行けばよいととても科学的なことを語っていた。

個人のパーティーの人数制限を連邦共和国全体で統一して、明らかに完全の温床となるアルコールが入っての口角泡飛ばす状況を避けて、無用な感染を減らすことは必至だ。私などはそれがよく分かっているのでワインの試飲会などは絶対駄目である。どれほど知らない人と唾を飛ばし合う事か。年内は断念したい。

ザルツブルク特集の番組余白で「ジュピター」交響曲の1966年8月24日のライヴが流れた。ベーム博士指揮ヴィーナーフィルハーモニカ―の演奏である。エアーチェックなどをしていた時代ではないので初めて耳にする演奏だと思う。後年の同曲の同ヴィーナーフィルハーモニカーの演奏に比較するとより剛直で、それほど洗練されていない。

車中のニュースの二つ目はドイツェバーンのマスクコントロールの話しだった。偶々週末に列車や駅ではマスク着用義務になっていると知ったのだが、実際には守られていない例が多く、特に23時以降は甚だしいらしい。そこでパトロールのパーソナルを増やして、更にカメラでの監視を強化するという。そもそもマスクは近郊交通機関のものと認識していたので長距離移動にも使われていると知って驚いていた。



参照:
マリオネット化された啓蒙 2020-08-23 | 音
主夫業修行のスイート 2008-07-28 | 生活
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マリオネット化された啓蒙

2020-08-23 | 
懲りもせずに「コシファンテュッテ」の再放送を聴いた。今回は高品質MP3でというのもあったのだが、演出家と指揮者の話しが聴けた。特に指揮者のマルヴィッツのそれが良かった。この人は、指揮者としては結構感覚的な話し方もするのだが、その内容はいつも内容がある。話しが上手な指揮者だ。ドイツ語を母国語とする指揮者は少ないが、最近耳にする中ではトーマス・ザンデルリンクや元祖ティーレマンなどが馴染みのある中で、両者とも寝ぼけたような戯言に近いので話しが面白くない。その中では断然話しが巧い。移民のペトレンコなどと比較して語彙としてはとても大雑把感じがするのだが、少なくとも個人的には考えていることがよく分かる。恐らく素人玄人両方に語り掛ける内容を何時も語っている。

そして今回はここでも書いた「最初のスタートダッシュ」について奇しくも詳しく語っている。私が言及したのは公演の特殊事情やら劇場感覚として身に付いた判断力だと思ったが、それを作品のドラマテュルギ―としての音楽内容から、なによりもテムピ設定に重きを置いていたことが明らかにされた。

つまり序曲から一幕へと走ったのは、そもそもその後の事件が起こる前の屈託のない日常であって、その後の早いナムバーと遅いナムバー若しくは小節内で変わる変化にモーツァルトの意思が活きているというのである。「流れていれば何も起きない」と、コロナ以前と後を想起させてくれる。この指揮者が音楽の流れとその変遷にとても気を遣うのは知っているのだが、まさしくこの作品に最もその境界が激しく露出しているというのは本当だろう。
100 Jahre Salzburger Festspiele | Così fan tutte


実は番組の余白に歴史的演奏であるベーム博士傘寿のお祝い公演から「気になるところ」が抜粋で流された。今回の公演をして評論家によってはアーノンクール指揮の公演以来としていたが、私はベーム指揮と比較すべきだと考えていた。あらためて同じ放送から聴こえるのは、ベーム指揮のそれは和声の移り変わりが、外から内へと管弦楽の中でも歌のオブリガートを交えての音楽美となっていて、これまた奇しくも今晩同じく余白で流されるジュピター交響曲の美とも通じる。

興味深いのは、其処で歌うペーター・シュライヤーのフェルディナントの軌道を外れそうになる事などで、この歌手が初期にはポストを得るのに苦労したその人間性もよく表れる。今回は同じ意味ではエルサ・ドライシークが特に最初は若干攻める印象があったのだが、決して脱線までとはならなかった。上手く嵌るようになったのは二幕以降だ。

その背景に、マルヴィッツの言うダポンテ劇へのドラマテユルギーの音楽、モーツァルトの天才が見え隠れする訳で、最初に走ってしまって「何も起きない」のがこのドラマジョコーソの本質となる。確かムーティなどはそれをレティタティーヴォを含めたドラマとして描いていたと思うが、ここではその作品成立まで遡ってモーツァルトの意思に迫ることになる。

まさしくその移り変わりにこそ作曲家の心情が浮かび上がる。その点でベーム博士のあまりにも音楽的に粋を尽くして、まさしく吉田秀和が書いたようにドレミの音でこのような深い心情が描かれる事への畏敬へと繋がるのだ。それはそれで素晴らしい事なのだが、更に提示される「一体、悲しいのか嬉しいのか分からない」と「魔笛」をして涙する吉田は明らかに音楽の観念に雁字搦めとなる。

これまた演出のクリストフ・ロイが語る「マリオネット化」の危機こそが、十代の時からとても気になっていた古典オペラの舞台上演の事象であって、番組でも言及されていた本来上演されるべき中劇場でのレンネルト演出にも付き纏わっていたものでは無いか。

今回の縮小に関しての話しでも、モーツァルトの創作の過程をみればそうした観念的な音楽が創造されたよりも、もう少し肉体性を伴った創作であることは他の管弦楽器楽曲を見ても合点が行く筈だ。それどころかこの作品は19世紀の啓蒙主義からすれば不完全で外れたものであったのも当然で、こうして21世紀から眺めるとやはり紛れもない啓蒙の芸術である。古楽器演奏実践とかそうしたものの本質はどうしてもそこへと導かれるものでしかない。

涼しくなった。この夏のミルカの新製品にはライスが入っている。ライスこそは清涼感のある穀物の代表である。これはとても成功した新製品で少なくとも夏は残ると思う。



参照:
表情のヴィヴラート 2020-08-16 | 女
覚醒させられるところ 2019-01-22 | 文化一般
ああ無常の心の距離感 2020-08-04 | 女
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ルツェルンからの報告

2020-08-22 | マスメディア批評
今晩は三回目の「コシファンテュッテ」の放送である。録画録音もしてあるのだが、高品質MP3で聴いてみようと思っている。粗探しのようなつもりで始めるのだが、いつもそうした技術的なことを忘れて終わりまで進んでいる。劇場上演としては、最初は行くつもりでいて断念したように、現場で聴いていても満たされないものもあったかもしれない。昨年の12月に指揮者ヨアンナ・マルヴィッツの醸し出す劇場の雰囲気は分かっている。ザルツブルクの客が直ぐにスタンディングになっているのも今回の放送の幾つかで共通している。要するに批判的に劇や音楽を吟味できる人はそんなに多くは無い。

嘗てザルツブルクに通っていた頃は、まさしく地元のマンハイムなどでは到底高度な芸術には触れることが無いので手っ取り早くザルツブルクへとオペラ勉強に出かけていた。オペラ劇場などなかった日本からだったので何らかの教育的な方法を選択するのは仕方が無かった。確かにその質は高かったのだが、今回久しぶりに行くとやはりミュンヘンの劇場の客層などとは全く異なることも確認できたのだ。

新聞にはルツェルンから音楽祭の報告が載っている。鐘のインストレションやオープニングコンサートなどについて報告している。二日目の93歳のデビューの走り出すと止まらない快速振りとそれに動じず急ブレーキを掛けるアルゲリッチに振り回された様子が書かれている。寧ろここでは協奏曲では何も出来なかったブロムシュテットがベートーヴェンのエロイカを振ったことが評価されている。ザルツブルクでのデュオリサイタルの批評と共にとても評価の視座が異なっていてとても興味深い。やはりブロムシュテット指揮の音楽を知っている玄人がとても少ないのが分かる。

ヘフリガー支配人が、半分売りに出した入りがとても良いとしていて、例年のように僅か五パーセントを占めるアメリカや日本からの訪問者がいないが、国内や北イタリアやオーストリアやドイツからの訪問者で埋まっているとされている。音楽祭のヴィデオを見ると入り口で特製マスクが配られていてマスク着用のお詫び代わりになっている。しかしそのようなもので騙されて言い訳が無い。又夏季セミナーは四週間を十日に短縮してヴォルフガンク・リームが予定通りに入っているようだ。

朝の車中のニュースはベルギーのブルッセルが危険地域に指定されて、EUの本部の所在地は必要が無ければ出入りが出来なくなった。根拠としてはベルリンの外務省は新感染者指数十万人50人を超えたからと一種の都市封鎖でもある。先日解除されたルクセムブルクなどは可成りの数値だったが国境沿いなので通勤者などもいて特別処置をとっていた。ブルッセルの方は遠いの外相会議とかが支障になるだけのようだ。大抵の企業のロビーグループもEU連絡事務所などがあってあまり関係ないのではなかろうか。外交官同様にPCR検査などが必要になるのだろう。

ドイツのPCR検査数が旅行帰りなどから急増したことでその処理能力を超えた。この16日までの一週間分の中17,142件が未処理で残った。41件の検査所で875,000件がこなしきれなかった。その前の週の578,000を大きく上回り、4月26日までの一週間の364,000を倍以上の総数となっている。これを見ると人口比で、大阪府などは四月ごろのドイツの検査数の半分も行っていないことが分かる。



参照:
折り返し点での喧騒 2020-08-18 | 文化一般
まるで夏の打ち上げ花火 2020-08-15 | 文化一般
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お茶を濁さないように

2020-08-21 | 生活
ザルツブルクからの生中継を流した。ピアノのアルゲリッチと息子のようなヴァイオリニストカプサンのデュオリサイタルだ。新装なって暫く経つモーツァルトホールからの中継で音響は昔の中ホールよりも良くなったと感じた。ベートーヴェンは先日のルツェルンでの協奏曲同様に中々いい音楽で、二十年前のこの女流ピアニストよりも今の方がいい音楽をするのではないかと思った。嘗てはおかしな趣味の演奏家と共演が多く、あまり長続きしなかったクレメルなどを除けば、その共演者の音楽だけで聴いていられなかった。その点はカプサンはそれほど悪くはない。この二人の共演が可成り相性がいいと思う。サンモリッツから続けて弾いてきているのもいい影響となっているだろう。

しかし二曲目のプロコフィエフとかフランクとかになると全くレパートリーが後任のユジャワンと重なる。するとどうしても比較してしまう。特に後者は今年ヴァイオリニストの弟のチェロと聴いたもので、編曲物との相違はあるとしてもピアノ音楽自体の精妙さは若い人のそれには到底及ばない。

その後のアンコールのベートーヴェンやクライスラーなどはこれまたなかなか良かった。少なくともユジャワンでは駄目だろう。ユジャワンもスイスに落ち着くようになれば変わるかもしれないがさてどうだろうか。但し音響としては先日のkklの響きはやはり音楽作りにも影響が大きく、その点ではザルツブルクのそれはバーデンバーデンの大劇場よりも特に良くないかもしれない。以前はもっとデットな感じがあったと思う。

それが終って涼んで就寝しようかと思って、YouTubeを除いていたらライヴの表示が見えてショパンとか出て来た。ベルチャ四重奏団と書いてあるので遅かったかと思って戻してみると流れた。オンデマンドとの入れ替え中だったかもしれない。兎に角、録画しておいた。

6月に態々泊りがけでドルトムントまで出かけて聴いてきたのだが、実はまた近所でそれも同じ大フーガ付きを演奏するのでどうしようかと思っている。他に何を演奏するかにもよるが、もう一度放送等をじっくり聴き返してその価値を吟味し直さなければいけないと思う。まあ、演奏を聴くというよりもこの類稀な曲をもう少し深く知ろうとするならばあの演奏には不満が無いと思う。又前半の選曲が発表されておらず、ドルトムントではベートーヴェンマラソンだったので本当にいいところが聴けてないかもしれない。そのプログラムに期待したい気持ちもある。しかし同時に聴いたエベーヌ四重奏団が同じようなベートーヴェンプロを演奏してお茶を濁すところを見るとCD販売キャムペーンの弊害としか思われない。折角ならもっと得意なところを演奏して呉れれば序でに出かけられたのだ。

昨年三月の購入したトレイルランニングシューズの紐が切れた。そこで部屋までもってきて洗ってから修理した。特別な締め具を使っているのでちょこちょこと結び直さなければいけなかった。それで使える。底の減り方はトレーニング用のものにしては全く問題がなかった。但し横などが破れかけてきているので、次のも選定しておいて安売りを待って手を打とう。最低一年半は使いたいとは思う。



参照:
軽いトレイルランニング 2019-03-23 | アウトドーア・環境
21世紀の機能和声の響き 2020-01-26 | 音
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今夏最後の暑い空気

2020-08-20 | アウトドーア・環境
水曜日は涼しかった。お蔭で朝からワイン地所の斜面に霧が掛かった。夏の霧は雨でも降らないと珍しい。前夜に少し振ったかもしれないが、翌朝は快晴だったの放射冷却となったからだ。摂氏14度ほどまで下がったかと思う。半袖ではすかすかした。前日までは暑かったのでとても気持ちよかった。

これで夏も終わりかと思っていたが、車中の天気予報は週末にはとても暑い空気が入ってくると脅かしていた。確かに空気が重く湿気があるので、陽射しはなくても朝から重苦しかった。沢沿いの道を走るのは二週間以上前だから八月に入ってから二度目かも知れなかった。走るコースの中では最も起伏が少ないのが、両方向に往復ともそれなりに上るので苦しく遠く感じる。

秋の準備をし出した。どうなるか分からないが、予定だけは立てて置かないとどこにも出かけられない。当分マスク着用義務のスイスには行かないので楽になったが、11月以降の事はよく分からない。先ずは一つ部屋を押さえた。一泊でも二泊でもよかったのだが、安売りで68ユーロと少し高めの部屋が広くてキッチンスペースまでついているので、朝食はついていないでもピクニックが出来る。勿論夜食をとるのは全く問題が無い。出来れば軽く引っ掛けて一寸したものを引っ掛ければそれでいいのだが、翌日の都合にもよる。

最近はこうした一寸したキッチンスペースのあるところでも短期に泊まれるようになっていて有難い。特に音楽会とかで遅く終わって所謂夜食難民になるようなときにはとても助かる。朝食も自分の時間で出来るのもいい。

兎に角これで夏は終わりそうである。窓を閉め切って就寝した翌晩は開けてとか中々落ち着かないが、もう太陽に力が無い。例年ならばグローセスゲヴェックスの試飲会に大忙しとなるのだが、今年は限られると思う。調べると月末のワイン街道自転車開放の催し物も早くから中止になっている。あまり人が集まるのは迷惑至極である。

先日見ると葡萄は一部焼けているのもあった。水気も少なく陽射しが強かったので当然かもしれないが、多くは固く、まだ暫くいい成長が期待できる。量も充分ありそうだが、どちらかというと質ではないかと思う。重要なのは十月の天候だろうか。



参照:
その時は未知の人だった 2020-07-05 | 女
検討対象のアップグレード 2015-07-11 | 雑感
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伯林疫学研究所長の妄言

2020-08-19 | 文化一般
ベルリン大学病院シャリティの一研究所長の論文が波紋を呼んだ。既に報じた通りだが、その書面による提案原文を確認した。まず現状認識に関して、一日に十万に一人ぐらいの新感染者数は取りに足らないと疫学研究所の所長らしからぬ発言をしている。七日分で所謂新感染指数で7である。五月以来のドイツ連邦共和国におけるロックダウンからのコンサート等の緩やかな開放が功を奏していると書いている。要するにヴィーナーフィルハーモニカーとは異なるという事を語っている。

しかし専門家の立場として、感染拡大からそこでいうドイツの医療システムの国際的に高度な能力を保ってというのもとても所謂結果論で楽観過ぎる。その一方間隔の制限等が到底正常化とは遠く、そうした催し物の団体に非経済性を齎したとして、特にクラシックの啓蒙された聴衆に対しても特別な配慮がされる必要があると説いている。

前提条件として、間接的な接触に拠っての感染は殆ど起こっていないという研究結果から、その感染経路を飛沫並びにエアロゾール感染としていて、特に閉鎖空間での空気感染が新たな感染となる危険性を評価している。

それ故にクラシックの聴衆が規律に富んで、催し物中に会話をしないという前提で、13項目の提言を箇条書きにしている。

既に概論から分かるように、重要なのは高度なフィルターの高能力の空調システムで、空気中にウイルスが長く浮遊して止まらないことが大切な様で、唐突にインサートされて偽造されたような第10項の違和感が甚だしい。そこだけ完訳する。

10.)コンサートホールやオペラ劇場では同様にサージカルマスクを正しくすることが義務とされる。その規約の元で会場を満員にすることは可能である(マスクが無い時は間隔を1m空けることが守られる)。

全くこれだけの新機軸を突然持ち出して、研究所本体の病院長に未合意の内容で危険な結果を生じることに無責任と非難された。同時にエアロゾールへの注意が顕著で、一体どのような科学的な根拠がそこにあるのかどうかも明らかにされていない。

宜しいそこに再度書いてあるように一通りの消毒をして、隣り合って座ってもひじ掛けなどからコロナがうつり難いとすれば、またサージカルマスクで言葉を交わさず飛沫が防げるとして、エアロゾール感染が最も危ないとしている。

個人的な経験からすれば、もし間接的接触による感染が無いとすれば、閉じられた空間での空気感染しか有り得なくなる。俄かに信じがたいが、それならばサージカルマスクは感染防御にはほとんど役に立たない。KN95やFFP3などの本格的なマスクでなければ危険で仕方がない。隣にコロナの陽性者が座っているとしたらその周辺の何人かには感染する。髪の毛が逆立つような場内換気システムなどは飛行機ぐらいにしか有り得ない。

やはりこの所長がまともの科学的な見識で以って今回の提言をしたとは到底思えない。そのポストを勤められるような正常な判断力を有しているかどうかとても疑問である。一方、シャリティ―と協調して、今後の活動への提言をしているベルリナーフィルハーモニカーは、会見の席上、九月始めのベルリン当局との話し合いに於いて、11月以降の次の一歩について提言することが伝えられた。それによると、現行の舞台上で管楽器2mの間隔を保護板を立てて1.5mと縮小して大管弦楽演奏を可能として、客席は現在の1.5mを1mへと縮小して現在の四分の一の収容から半分の収容へと拡大したいというのである。もし現行のままならば暮れまでに一千万ユーロの損失になるとした。

比較するまでもなく合理的な段階的な提言である。可能性としては、フィルハーモニーの大会場に千人以上を入れた場合のその中に陽性者が紛れ込む確率となるので、11月時点で新感染者指数がその危険性に見合うだけ小さくなっていることが求められる。要するにマスクをして隣り合わせに座るなどは論外で、健康なものまでが病院で感染病に罹るようなものである。



参照:
折り返し点での喧騒 2020-08-18 | 文化一般
ザルツブルクの勘違い 2020-08-10 | 文化一般
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折り返し点での喧騒

2020-08-18 | 文化一般
ベルリンのフィルハーモニカーの券が発売になった。少し遅れてから見ると、売り切れもあったが、買える券も二人綴りで同棲者しか申し込みが出来ない。名前を書いて同定するとどうしても家族以外には恋人という事になるのだろう。連邦政府の保健相が恋人男性と四億円以上の家を購入したというが、それほどは高くはない。先日パーティー禁止の提案を出したので、ネットの書き込みでは「豪邸で勝手にパーティして呉れ」とかの嘲笑が目立った。この売り方はどのような事であっても合理的で、もしどうしても行きたければ一人で二席を確保すればよい。要するに距離を充分に取りながら危険性を高めずに収容人数を倍にまで上げれる。もしバーデンバーデンでこのようなことになれば迷うことなく二席を購入する。ルツェルンもそうすることでマスク不要にすればよいのである。

ベルリンは指数16で決して良くはないが、ここは観客500人までで60人までの編成でじっくりと我慢してやってほしい。コロナに関しては正しい判断さえしていれば、必ずや報われると思う。ロックダウンだけは避けないといけない。二回目はもう皆が我慢できない。

その意味からはヴィーナーフィルハーモニカ―は大胆だ。ヴィーンは新感染者数が十万人中50人を超えた。なにも特別な処方箋もなさそうで本当に手が付けられなくなってしまう。彼らが現在滞在中のザルツブルク音楽祭が折り返しに入った。

そこで東京からベルリンからと同時に出て来た学術の体裁をとった対コロナ提言の内容が殆ど同じで、要は会場を満員にして舞台も妥協して演奏会を開いても危険性は変わらないというものだ。ベルリンの提言者は、今回東京での実験をやったようにベルリンで実験を行った大学病院のシャリティの感染症専門家ステファン・ヴィーリッヒで指揮もしている人のようだ。この専門家が言うには、座席もマスクさえしておけば飛沫感染の起こる可能性は隣通しでも変わらないという。つまり二席に一人など無用で、それまでの四五席に一人などは無駄となるだろう。

その一方で手すりや触れるところは一度毎に消毒してと書いてある。それは当然として空調を重視しているので矛盾も甚だしい。そもそも1.5mから2mのソーシャルディスタンシングは飛沫感染を避けるためだけではなく、肉体的な接触と空気感染をも妨げるのに最も重要な感染予防法と考えられていて、実際にこれが出来ているところと出来ていない所では感染の傾向が異なる。勿論締め切った室内か戸外かで変わるのは空気感染である。呼気からのウイルス拡散となるのだろう。これがこの人物の推奨するヴィーナーフィルハーモニー方式が非科学的かの意味である。

要するにこの人物の提言は矛盾している。全く同様の事を実験結果としてN響が満を持して発表していて、一席空けても詰めてもマスクをしている限り飛沫に関しては差が見られないと自明の結果を自慢げに大きくSNSで流した。流石にこれらの事を陰謀論者でなくても不思議に思わない人はいまい。

そして上のヴィーリッヒの勤める大学病院が間髪を入れずにSNSで警告を流した。先ずは氏の見解は合意された見解ではない事、そしてこれが今後の提言としてもこの感染拡大期に出されることは、現状を全く無視したものであって、それによって齎される危険性を無視していると批判している。

まさしく私の見解はそこにあって、なぜここで東京とベルリンで同時に外れた提言がなされたか、とても歪な魂胆と政治的な背後をそこに感じた。ベルリンのフィルハーモニカーも11月以降の計画を発表するまでまだ少し時間がある。収容人数を上げたいのは分かるが精々二席に一席の可能性をどのように確保していくかだけである。その前提には感染が縮小期である必要がある。

それどころかこの専門家ヴィーリッヒは、そうした会場に来る多くの年長者や基礎疾患のあるような人は出かけて危険かどうかは自分自身で判断してくださいと語っている。まさしくこれは選別思想であり、損益を最重要視したネオリベラルの言葉でしかない。先日のルツェルンからの中継でも気が付いたが、マスクを演奏中もさせてという行為の背後にはこうした非人間的な姿勢があるとしか思われない。



参照:
ザルツブルクの勘違い 2020-08-10 | 文化一般
奈落拡大計画の実験 2020-06-24 | 文化一般

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