ハンス・プフィッツナーの曲を含む、ミュンヘンのユダヤ協会における、室内楽演奏会のプログラム変更を余儀なくされた。それは先日シュトュンツ氏の記事として
紹介した、ナチズムとの作曲家の個人的な係わりに対する見解である。
それに対しては、ナチの焚書や演奏禁止等の行為に類する、現在でも世界中で行われている文化検閲と言う野蛮行為との共通性を見る意見も存在する。つまり、ある種の裏返された技術・技巧優先の芸術文化至上主義がそこに存在する。
さて、そこで何度も繰り返されるこの議論に行き当たる。芸術文化行為自体が、どのような発言・思想の自由を有しているかとの問いかけである。
それは文化芸術行為が一体何をアウトプットして、一体何がインプットされるのかと言う問いかけでもある。
今回の場合、対象は最も抽象的とされる音楽芸術であり、その芸術的価値は作曲家の行動には関係しないとする見解も理論的には成立する。すると、その作曲行為が、作曲家の行動と矛盾するとすれば、一体その創作行為は何であったかが問われる。もしくは、作曲家の行動と平行した関係にあるのかが審議されるのである。
ミュンヒナーフィルハーモニカーの音楽監督でプッフィッツナー信奉者のティーレマンは、ナチ賞賛の作品を演奏するならば、「少なくとも、説明しなければいけない」と言明している。ここに音楽芸術の演奏行為と言う、創造行為を仲介する芸術行為が存在していて、だからこそその表現の可能性を駆使しなければいけない。
そこでは既存の創作に対して仲介の労を厭わぬ芸術的価値が存在するとの見解が前提となる。要するに、演奏行為(純粋な演奏実践以外にも舞台上でのパフォーマンスやレクチャーなどの表現方法を含む)を通じて、その見解を明快に示す義務が職業芸術家には生じている。
それを文化芸術的なアウトプットとするとき、インプットされるものは「今日の視点からの遠近法を伴った」批判でなければいけない。なぜならば、演奏行為と言う芸術行為は、現在の空間で執り行われ、それを受容するのは現在の聴衆であり社会であるからだ。同時に古典とされる芸術に対しては、繰り返し今更ながら再び受容される価値があるのか、無いのかが審議される。そして、喝采や拒絶の批評として再びアウトプットされる行為が、今日の古典の実質価値となる。
例えば、先日のヨハネ受難曲の演奏行為を、フランクフルトの聴衆として
批評するとき、そこでアウトプットされた文化は、中部ドイツにおけるプロテスタント文化の伝統とかルター派の各共同体でのプロテスタント音楽の実践と、比較対照されることは避けて通れない。それだからこそ多文化主義の脱構造主義的な ― バッハにおける構造上の数字や
象徴などの合理を無視することを必ずしも意味しない ― 視座を聴衆に要求する前に、それに対して古典を創造解釈する職業音楽家は、明快なヴィションを示し、その行為が価値あることを示す必要がある。
もし仮に、先日のあの指揮者が、十分な示唆も暗示もなく、ゴルゴタの丘でのイエス・キリストを舞台上で自ら体現して受難劇を演じていたとすれば、それはあまりにも思考的に 飛 躍 したシアターピースである。実際、その指揮者フランス・ブリュッヘンは、左手で脇腹の*スティグマを押さえ、倒れるばかりに台座へと辿り着き、十字の向こうの腰掛に固定される。その管弦楽の器楽的な正確さに対置する群集の合唱は、正確でふらつかない福音師を除く、不安定な人々の独唱とともに、絶望の不条理にその成就を見る。そして、それがシアターの枠組みを明かさずに、あくまでも本気でなされるところが、この音楽家をして「アムステルダムのイエスス」と呼ばせるに足りていた。
聴衆は、こうした行為に何を見て、どのように反応するのか?少なくとも、管弦楽のハーモニーを一音たりとも聞き漏らすまいとして全身を耳にして、制御の効かない声楽に眉を顰めるのでは、何一つも体験しなかった事になるのである。そもそも、これは、そうした硬直した感受性と馴らされた感覚を伴う態度を意識させて、その自己欺瞞を突き放し、全てを懐疑へと落しいれる現象であるからだ。
その大きな否定の矛先は、オウトプットする側の、バプテストかなにかの、狂信的な態度にあるかも知れないが、しかし同じぐらい、現代の音楽会場にて演奏される受難曲オラトリオに不審を懐かない ― それがたとえ後期バロック以降の伝統だとしても ― インプットする側の、日常生活から分離して演奏される空間に覚醒しない近代文明信仰に向けられて、先ずはそれを断罪する。つまり、ある技術的な成果や洗練や精神的なもしくは感情的な高揚を芸術文化活動として、信じて止まない姿勢こそが無批判で狂信的な近代の無知と同義となる。
すると、改まって現在における芸術文化の価値を顧みるとき ― 当然の事ながら、その価値がそもそも存在しないなら、その行為も評価も無用である ― 、その対象や視野を狭めることなく批評して批評しつくす事にこそ意義がある。そしてそこに、定まった決まりや基準が固定された時点で、芸術文化は骨董品やドグマとなって、希少価値や需要供給によって値が決められる商品となりつつ、あるイデオロギーをプロパガンダする格好の道具となるのだ。
*そこで、兵士たちがやって来て、イエススといっしょに十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエススのところに来てみると、既に死んでいたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人がやりでイエススのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。それを目撃した者が証しており、その証は真実である。その者は、自分が真実を語っている事を知っている。それは、あなたたちも信じるようになるためである。これらのことがあって、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現した。また、聖書は別の所で、「彼らは、自分たちの突き刺したものを見る」とも言っている。(ヨハネスによる福音19章32-37)
In one house shall it be eaten; thou shalt not carry forth ought of the flesh abroad of the house; neither shall ye break a bone thereof. (
EXODUS 12.46)
They shall leave none of it unto the morning, nor break any bone of it, according to all the ordinances of the Passover they shall keep it. (
NUMBERS 9.12)
And I will pour upon the house of David, and upon the inhabitants of Jerusalem, the sprit of grace and of supplications: and they shall look upon me whom they have pierced, and they shall morn for him, as one mourneth for him only son, and shall be in bitterness for him, as one that is in bitterness for his firstborn. (
ZECHARIAH 12.10)
参照:
高みから深淵を覗き込む [ 文学・思想 ] / 2006-03-13