Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2015年7月

2015-07-31 | Weblog-Index


美味すぎるリースリング 2015-07-31 | ワイン
WIN10を待ちながら 2015-07-30 | テクニック
MP3で試聴する更年期状態 2015-07-28 | テクニック
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
あり方が問われるようなこと 2015-07-26 | マスメディア批評
記録的な七月の暑さ 2015-07-25 | アウトドーア・環境
自虐的国家主義安倍政権 2015-07-24 | マスメディア批評
存続危機状態の裸の王様 2015-07-23 | 文化一般
市場であるより美学の問題 2015-07-22 | マスメディア批評
危机と紙一重の良机の七十年 2015-07-21 | 歴史・時事
危険領域に立ち入る責任 2015-07-20 | 生活
おどる阿呆にみる阿呆 2015-07-19 | 文化一般
比較の仕様がないのか 2015-07-18 | 雑感
ほのぼの家族の領域 2015-07-17 | マスメディア批評
なんかとてもかんじよいよね 2015-07-16 | ワイン
合理的に物事を処理する時 2015-07-15 | アウトドーア・環境
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
まるで白昼夢のような感覚 2015-07-13 | アウトドーア・環境
お披露目、忌憚のない感想 2015-07-12 | マスメディア批評
検討対象のアップグレード 2015-07-11 | 雑感
デジタルコンサートを試聴 2015-07-10 | テクニック
久しぶりにキンキンのビール 2015-07-09 | その他アルコール
体温よりも低いアルゴリズム 2015-07-08 | アウトドーア・環境
Grexitへのオウンゴール 2015-07-07 | アウトドーア・環境
夏の橇滑りのあとに 2015-07-06 | アウトドーア・環境
淡くうたたかな夏の午後 2015-07-05 | 生活
悩ましい暑気払いあれこれ 2015-07-04 | 暦
MP3でなにを聴くべきか? 2015-07-03 | 音
スーパーワインで備える 2015-07-02 | 生活
猛暑が予想される今日この頃 2015-07-01 | 暦
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美味すぎるリースリング

2015-07-31 | ワイン
森の中は摂氏14度と気持ちよかった。陽射しも十分なので今晩辺りはボールダー日和か?体調も悪く時間もないので短く軽く走る。GPSを見るととんでもないところを走っていることになっている。日によってこれほどずれるのは衛星とのコンタクトのためなのか?実感としてはくだりの走りは決して悪くはなかった。

走りながらWIN10を自らお迎えに行ってダウンロードすることを考えていた。準備は出来ているので時間があるときにアップグレードしてしまう方が良いと考えたからだ。しかしダウンロードに七八時間掛かりそうだ。

昨晩はホッホハイムのキュンストラー醸造所のシュティールヴェークのアルテレーベンというのを空けた。開けた前日よりも粗が見えたが、2014年物としては上手に出来ている。酸が適当に賑やかなので粗が隠れるようになっていて、鼻には独特の香料臭さのようなものに気がつくがそれほど嫌味ではない。以前よりも木樽を上手に使うようになって、質が向上したのだろう。美味いリースリングなのだが、例えばミュラー・カトワール醸造所のビュルガーガルテンに比較するとどうしても単調さは否めない。

それが今でもカビネットなどと名乗るリースリングを出している所以で、その地所の都合からか致し方ないのかもしれないが、現行のVDPの方針からするとどうしても物足りない。要する美味過ぎるのだ。お便りの中に表彰されグローセスゲヴェックスについての記事が入っていたが、そこに「大先生諸氏を唸らせたロベルト・ヴァイルの2013年物」と並べられて「再び注目を集めるラインガウヴァイン」として書かれている。

それはある意味、木樽の使い方などでは共通しているのかもしれない。しかしVDPの理念として重要なのは、フランスのシャルドネには負けないための酸化法の醸造であって、決してそれは樽を使うことが目的ではなく、瓶熟成の可能性のあるテロワーを反映したワインでなければいけないのだ。それだけで、この醸造所はスクリューキャプを喜んで使っていて失格である。それどころか蔵から出そうと思ったら、瓶の首のところに白いかカビがついているのだ。瓶詰め時に汚れていたのかと思って、瓶を洗って冷やして、スクリューキャップを回すとワインらしい駅が弾かれた。これはどうもスクリューの外側のワインが溜まっていたようだ。心配したようには外気と中が通じてはいなかったようだが、スクリューキャップといえどもあまり信用できないことが知れた。

そうしたもろもろのことをあわせて、この醸造所がVDPの中で中位以上のクラスに入ってくるのか否かは、今後の親仁のあり方に尽きるのではないだろうか。勿論十年ぐらいは同じ方向で突き詰めていかなければいけないだろう。

日本のYAHOOを見ていると屏風岩で宙づりになっている人がいるとあった。その救助作業のVIDEOから中央壁のようで、ブッシュの間を登るようなところである。年齢からしても今時あの辺りを登るのは大分昔に登っていた人なのだろう。四十年ほど前でも多くは冬に凍結する時を目指していた人は居たが、この暑い時期の登る人は限られていた。日陰になる程でもなく、水が取れるわけでもないから南向きはさぞかし暑いことだろう。



参照:
とんでもないことになる 2015-06-27 | 歴史・時事
WIN10を待ちながら 2015-07-30 | テクニック
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WIN10を待ちながら

2015-07-30 | テクニック
WIN10にアップデートしょうと思ってカレンダーに書き込んでいた。しかし前日になって申請しておかないとアップデートできないと知り、急いで準備をしようと思ったら、GETWIN10と呼ばれるアプリケーションがないと申請できないという。そこでアップデートを繰り返すと、なかなかそこまでいかないことに気がついた。そこで29日中には無理になったようだ。

それまでに準備万端整えておこう。開き領域は22,9GBあるので十分だろう。そしてQ&Aを見ていると外国語の扱いについて書いてあった。どうも主要言語を変えられるようだ。実は昨年初期化して再インストールした際にドイツ語のWIN8が英語版になってしまっていたのだった。それはそれで問題がなかったので使い続けたのだが、WIN!0になる時に再びドイツ語に戻すならばそれはそれで使いやすいと思ったからだ。調べてみるとWIN8で変える方法が書いてあったのでその通りしてみるとドイツ語版に戻った。それでも再スタートなどをするとプリーズウェイトなどと出てきたが、ドイツ語に戻って使いやすくなった。更にしたいと思えばフランス語でも日本語でも使えることも分かった。

火曜日は久しぶりの沢沿いを往復した。気温が低いので走りやすい。調子が悪くゆっくりと走り始める。途中で見かけぬ車が背後から近づいてきたので道を開ける。ある程度体が温まってきたところで少しだけよい走りが出来た。前方に先ほどの車が見えた。沢の真ん中に巣箱が置いてあるのでルートヴィっヒスハ-フェンの番号ながら蜂蜜を集めに来たのだと分かった。昨今は八が少なくなる問題があるが、どうなのだろう。市場価格はそれほど上がっているようには感じない。横を通るときに見ると親仁はネットもなにも被っていなかった。動かすとこちらに飛んでくるかと思ったが気温も低いので動きも少ないのか。復路でも横を通ったが仕事をしていた。駐車場に戻ってきたときもその車は戻ってこなかった。



参照:
ヴァージョンアップ準備完了 2015-06-15 | テクニック
クリーンインストールをする 2014-05-07 | テクニック
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胸パクパクでラインに転覆

2015-07-29 | 
ネット生中継放送を聴いてまた不覚にも感動してしまった。昨年の前夜祭「ラインの黄金」では、初めての指揮者であり、ロシア人のヴァーグナーなどとけちの付け所を探していたのだが、弦楽器の漣が押し寄せてくるときには完全にローレライの岩礁に引き込まれていた。そして、MP3では聞き逃してしまうが、生中継ではPCでもホルンの合奏のうねりが実感できて、改めて腰を抜かしてしまった ― 土曜日の更年期のおばさんと同じように胸がパクパクしてしまった。その見事なアーティキュレーションから、ただの三和音ではない殆どライヴエレクトロニクスのうねりを引き出してしまう譜読みは天才のなせる技としか考えられない ― あの奈落ゆえに反射が定常波として出てくるのを逆利用しているのだろう。というよりも楽匠の創作過程を考えると恐れ多い、とそのように感じさせる必然性のある解釈実践がこの指揮者の真骨頂であって、そこがベルリンのフィルハーモニカーの選考理由の一つになっていたのだ。

そうした必然性を感じさせた指揮者にカール・ベーム博士などもいたが、今日からみるとそれは新即物的と呼ばれるような美学的イデオロギーでもあり、独特の弦楽の運弓の扱いなどに執拗な厳しさを感じさせたところも嫌味でもあり、当時の管弦楽の最も美しい鳴らし方でもあったのだろう。そこで気がつくのは、ペトレンコ指揮の時々印象的な弦楽の強い響きに、名手オイストラフなどに聞いた流派を思い出させて、ヴァイオリニストの父親もそのような音色を奏でるのかと思わせる。

バイエルン放送局のレイポルト氏がコムパクトに三年目の「ラインの黄金」初日を伝えている。新加入歌手などについても紹介しているので詳しくは触れないが、映像撮影の関係か、とても準備が出来ているのを感じた。歌唱の質やアンサムブルが昨年よりもよくなっていて、独特の緊張感があった。どうも最初に予定されていたように第ニツィクルスのものが映像化されるのではなくて、その都度出し物によって選択されて組み合わされるようだ。「ラインの黄金」は音楽的にも最も完成度が高かったので、新たなローゲやアルベリヒを迎えてとても引き締まっていた。

生中継を流してから、総譜を一挙にダウンロードした。そしてまた、第一場への序奏の聞き比べをしてみた。ペトレンコ以上に声部間のバランスを「ミキサー調整」しているのは作曲家ピエール・ブーレーズの指揮だった。しかし、弦の小波は押さえ気味でそこに木管が浮かび上がったりするのだ。そして最後の転覆もスムーズに第一幕へと流れ込んでいる。

フルトヴェングラーはそうした具象性を排する方向にあることは想像できていたが、意外にもクナッパ-ツブッシュ指揮が表情豊かで、ベーム以降のカイルベルトやフォン・カラヤンそしてサヴァリッシュまでの世代は寧ろ純音楽的な演奏解釈を心掛けている。一番最後の転覆を強調していたのはクレメンス・クラウス指揮で、ペトレンコが遣っているように思い切った表現をしている者は居ない。もしかすると作曲家の協力者であったハンス・リヒターなどが似たことを遣っていたのではないだろうか。楽匠自身がその効果を喜んでいたに違いない。



参照:
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
前夜祭ならではの祝祭感 2014-07-08 | 音
MP3で試聴する更年期状態 2015-07-28 | テクニック
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
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MP3で試聴する更年期状態

2015-07-28 | テクニック
ストリームラディオをリッピングするために新しいフリーウェアーを試してみた。ドイツ製で日本ではあまり知られていないようだ。No23レコーダーと称するもので、サウンド信号として流れたものをコピーするものだが、ダイレクトサウンドから直接入力するということなのでよさそうだと思った。

BRクラシックの生放送や土曜日の楽劇「トリスタン」初日の録音をダウンロードしながら録音してみる。残念ながらUSB-DACを使っていないので、MP3をビットレート320kbpsにして外付けのHDにコピーして、CDプレーヤーのUSB入力を通してよりベターな条件で試聴してみる。MP3圧縮ファイルながら今まで試した中で最も音質の水準が高い。これならばラディオ中継と変わらない。そもそもネット中継は、態々ネットのために水準を落としているのではなく通常のデジタル回線に流すのと同じものを流しているから当然なのかもしれない。

ノートブックのスピーカーをミュートにしてしまうと音自体が消えてしまうので、スピーカー出力を抑えて、録音のマスターを開けっ放しで録音してみた。全くひずみは感じないが、それゆえにかサーノイズは増えた。しかし、それも機械的なそれ以上に祝祭劇場を引き回している長いケーブルの録音側の雑音でもあるようだ。兎に角、MP3にしてここまで綺麗に聞こえたのは初めてだ。これならばWAVで記録しておけば使い物になりそうである。

新聞には土曜日の評が載っている。管弦楽の特に第二幕のアゴーギクとその加速を、胸がどきどきするダイナミックと絶賛している。これでは、指揮者も含めてまるで更年期の爺婆のお話のようだ。そこまで誉めていると確かめてみなければいけない。MP3でもPCで聞くよりは大分細かく聞ける。二幕の最初からそこまでの流れ自体もどうも子供っぽいと感じさせるのだが、トリスタンとイゾルデの逢瀬へと大きく管弦楽団を鳴らしてからのその後の運びも、第一幕前奏曲同様、そこまで聞けば当然のことながらクライマックスも十分に予想できる ― 要するにおこちゃまの飯事だ。

指揮者フルトヴェングラーの名盤ではドラマテュルギー的にもクライマックスへとカタストロフの頂点が大きく築かれるが ― この生死が反転する救済思想の現出こそがナチズムと一体化したのだが ―、音楽的にそこへと至るには、全体の音楽的な素地が吟味されていることが良く分かるのだ。この指揮者が有機的なとするのは必ずしもソナタ形式における連関だけではないことが示されているのだが、バイロイトで日本人指揮者が振ったときのように前奏曲でそれがどのような結果になるかが分かるのである ― ティーレマンは、一方ではそうした思想的なものを否定しない発言をしながら、一方では指揮者バレンボイムが示したような「灰汁抜き」を目指しているかにみえて、実は指揮者として「お手上げ」といった無力感を漂よわせる。

この初代音楽監督のオペラ演奏を聞いていると、とても近視眼的な職人的な仕事はしているのだが、敢えて繰り返すまでもないが、造形芸術と同様にもしくはそれ以上に時間の流れの中での全体像に目が届かないとどうしようもない。それが芸術的なセンスとか才能と呼ばれるものであるが、これもある程度経験を積めば幾らかは上手になる筈なのだ。しかし新聞評が絶賛するところをこうして確かめてみると、どうも音楽のコマーシャリズム帝国の裸の王様状態が存在すると考えずにはいれない。音楽評論などの評論もそうしたセンスがないととんでもないことになる好例なのだろう。

次は、「ラインの黄金」のライヴストリーミングである。



参照:
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
ネット演奏会の幼児保育 2009-01-15 | 文化一般
術にならない頭の悪さ 2015-04-10 | 音
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ハリボ風「独逸の響き」

2015-07-27 | 文化一般
バイロイトの祝祭劇場からの2015年初日の生中継放送をPCで流していた。聴取条件も悪く、流しているだけだからその音楽も十分には判断できないが、それでもその退屈さは十分に実感できた。二幕が始まる前に、一幕前のメルケル博士に続いて、八億円のギャラを公共放送から受け取って問題になったゴットシャルク氏にロビー中継アナウンサーが感想を聞こうと試みる。結局どこかのおばさんが「前奏曲から惹きつけられるあらたな解釈だと思う」とそのビーダーマイヤー風のそれがお気に入りのようだった。それが初代音楽監督ティーレマンの真骨頂だったのだろう。それは、我々が特別の楽劇「トリスタン」に期待する音楽文化歴史的な全てを完全に裏切って、ただのフォン・ウェーバーからの継承としてのロマン派音楽でありながら、まるでそれを乗り越えれない音楽創作かのようだ。

これをしてドイツの響きだとかなんとか新たに定義したいのならば、ここまでの全ての歴史を文化を全てなかったことにしなければいけないだろう。そもそも初演のその時直前に仮想的に響いていた音楽などを再現できるわけがないのである。そこには、時間軸などを想起できないアナクロジカルな反知性主義が存在するのである。ティーレマンのインタヴューを聞いていると、そこに至る楽匠の創作過程とか、それがどれほどの創造的な破壊力を有していたか、その必然性などへの視線などがさらさら見つからない。

引けてからいつものように放送局の立ち話会放送が始まった。イゾルテ評が散々なのは、ピンチヒッターとしての登場やその前にエレクトラをミュンヘンで歌ってきたことを差し引いても、仕方がないであろう。トリスタンの歌唱とも管弦楽団のテムポとも合わないのも仕方がない。カタリーナの演出は、ブーイングが全く起きないほどに箸にも棒にも引っ掛からなかったのはその通りなのだろう。指揮者も演出家もこうしたものが持続性があるような弁明をしており、それならば時間を凍らせて、何もかもをハリボのゴム菓子のようにしてしまえばよいのだ、適当に甘く。それとも売り上げだけが目標か。

そして、ティーレマン派のFAZの評論家女史は、アゴーキクが素晴らしくて今まで聞いたことのない声部が浮かび、透明性がなどと昨年のペトレンコ指揮のそれと同じ言葉を吐き出すのを聞いていて、本当にこの人は音楽を分かっていない人だなと改めて認識した。オペラ舞台演出評論家でしかないのである。「ティーレマンファンではないけど」としながらそれに符丁を合わせる評論家も話にならない。

なるほどPCでは分からないことが多いが、少なくともバイロイトからの中継を知っており、そこの音響を知っており、そしてティーレマンの指揮を知っている者としては、管弦楽を含めてとても程度の低い上演であったと認識する。昨年のペトレンコの前代未聞と思われるほどの音響は誰も求めてはおらず、初登場までにバイロイトの劇場に何年も通って指揮者仲間の演奏する音響を研究尽くしたといわれるペトレンコには及ばないとしても、少なくとも何年もそこで指揮をして初代監督の座を獲得した指揮者のトリスタンとしてはお粗末過ぎた。

「ドイツの響き」などは、彼の「美しい日本」と同様のもので、フルトヴェングラーの名録音でも戦前のそれとは異なり、そもそもその管弦楽の響きはとんでもないものだったことが知られている。要するに戦後のフォン・カラヤンのピラミッド型の壁を厚塗りしたようなサウンドとも、またイタリア人のアバドの美的に磨かれた響きでもなかったのだが、当時の管弦楽の響きとしては途轍もなく斬新に響いたのだった。それは当然で、過去のビーダーマイヤー風の耳辺りのよいサウンドを完膚なきまでに破壊して行った芸術的な作業であったから当然であろう。躓きの石のプレートが嵌められたヴァーンフリード亭の歴史と環境を正しく認知することこそが芸術心であって、もしネオロマンティズムのノヴァーリスなどの効果を狙いたいのならもっともっと管弦楽を磨かないと話にならない。

何週間ぶりに初めて窓を閉め切って就寝した。流石に熟睡できた。朝も街中は摂氏17度で、森の中は12度以下だった。久しぶりに気持ちよく走れた。一週間前に痛めた左足首もこれで大丈夫だ。そろそろ本格的に身体を動かせるような感じになってきた。



参照:
Neuer "Tristan" in Bayreuth" (BR-Klassik)
市場であるより美学の問題 2015-07-22 | マスメディア批評
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
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あり方が問われるようなこと

2015-07-26 | マスメディア批評
台風一過のように土曜日は風が吹いて涼しくなった。しかしまだ降りそうだ。午後にはラディオ中継でも聞こう。町では植木鉢が横倒しになっていて、仮の道標なども倒れていた。短い時間だが台風並みだった。

今週は二種類のリースリングを開けた。一本は2014年オェコノミラートで、もう一本は2013年フォムブントザントシュタインだった。特に後者は前者の序に追加購入したのだが、購入してから少し後悔していた。理由はポトリティスが入っている辛口などに意味があるのかどうかという疑念であった。その価格17,50ユーロでなにが買えるか、2013年産ならばロベルト・ヴァイル醸造所のシャルタやキードリッヒが買えた、そして新しい瓶詰めのヴァッヘンハイマーなども対抗馬だが、ミネラル感がもう一つだ。そして二年経過時点で比較すると保証できるレープホルツ醸造所のこれは価値があるだろう。ポトリティスが入っていて蜂蜜味があるがそれ自体が否定的な味ではないのだ。この纏め方でやはりドイツで指折りの醸造所に違いない。

九月には、昨年に続き、グローセスゲヴェックス試飲会が支部長レープホルツのところで、会長クリストマンや盟友ヴィットマン、ナーヘからシェーファ・フレーリッヒ醸造所などを集めて開かれるが、そこにモーゼルのアンスガー・クリュセラート醸造所が入っているのを見ると来年ぐらいに新加入でもするのだろうか?先日近くを通ってきたところなので驚いた。

ここで何度も繰り返しているようにフランクフルターアルゲマイネ新聞はドイツの高級紙としてあらゆる指導層への影響力が大きい、そしてその影響力が世論調査から出ている。それを見ると、政治・経済・役人がニュース、経済、信用度でそれぞれのプリントメディア媒体を評価している。どの層もどの分野においても53%から70%がこの新聞を選んでおり、圧倒的な信頼を勝ち得ている。最近耳にすることのあったヴェルト紙やツァイト紙は20%前後で話にならない。健闘している南ドイツ新聞でも23%から60%までで地方紙よりも下位にある場合が少なくない。シュピーゲル誌もニュース面では39%から54%と予想以上に健闘していて、SPD支持者も少なくないことを反映しているのか?ノイエズルヒャー新聞も下位にリストアップされているのは流石と思う。

ここでなにが言いたいか。日本国フランクフルト領事がフランクフルトアルゲマイネ新聞本社を殴り込みをかけた事実は、独日関係において少なからぬ影響を今後とも与えるということである。幸いながら親日・知日派が編集部やその著者人陣が ― 先日も前財東京大使シュトュンツ博士が一面を使って論文を寄稿していた ― 揃っているので単純な反日攻撃などはありえないのだが、やはりその国のあり方などが安倍独裁政権の特殊性を超えて問われるということにもなる。



参照:
Deutschlands Führungskräfte lesen die F.A.Z., 23.7.2015 vom FAZ
存続危機状態の裸の王様 2015-07-23 | 文化一般
自虐的国家主義安倍政権 2015-07-24 | マスメディア批評
なんかとてもかんじよいよね 2015-07-16 | ワイン
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記録的な七月の暑さ

2015-07-25 | アウトドーア・環境
この七月は記録的に最も暑い七月になるようだ。実感としてもその通りだが、2003年よりは過ごしやすい。なぜならば八月の暑さではないからだ。八月はまだ分からないが、朝晩が冷えるようになってきている。昨晩も開けっ放しで寝たので、三週間以上になる。こんなことはなかったが、それでも夜中中摂氏20度を越えていた夜は少なかっただろう。シュヴァルツヴァルトから東斜面では雹が40CMほど積もっている。あの辺りではあまりワインなど栽培できない理由がここにある。ワイン街道でもバートデュルクハイムへにける谷沿いで雹が降ったようで、なぜ土壌だけでなくオフミッテルハールトになるかの理由がここにある。要するにミクロクリマと呼ばれるものだ。

二月ぶりに登りに行った、ボールダーは四月以来だろうか?肩の故障が大分良くなってシャワーカーテンを普通に閉めれるぐらいになり、街中で顔をしかめて呻く必要もなくなった。そのお陰で気持ちも大分やすらんだ ― 慢性的に痛みを持っている人の心理状態が想像できた。現地についてマットの上に腰掛けると靴下を忘れていることに気がついた。暫く遣っていないとそのようなものだ。それで直に足を入れてみると思ったよりも問題なく足が入った。夏になって伸びやすくなっているのだろう。

幾つかの課題を触ってみたが、肩が使えなかったときとは足の使い方が大分増えた印象だ。そして嗚咽を上げないでよくなったのが嬉しい。ただし指先などは若干弱っている感じで、身体を慣らしていかないといけない。兎に角足先感覚が強くなった感じがするので期待できる。ゴムが温度になじんできていることもあるだろう。秋口に焦点を合わせればよい。森の中も26度ほどなので、条件としては悪くはなかった。もう少し気温が下がれば最高のコンディションに近づく。

先日からGPS時計をタブレットで使う研究をしているが、やはりGPSマスターと呼ばれるソフトのアンドロイド版がないために、時計とコミュニケートするのは難しそうだ。それほど難しいソフトではないので誰か作ってくれないかなと思う。それほど手間が掛かる作業のようには思われないが、アンドロイド端末があれば時計と同じように使えるから態々時計と情報を受け渡しする必要がないということなのだろう。

ボールダーに行く前に先日気がついた缶代をもどすためにビールの缶を下げて出かけた。一缶25セントなので、あわせて4ユーロ以上になった。今まで捨てていた缶代金を合計すると100ユーロぐらいになるだろうか?最初から缶代別料金だったかどうかは分からないが、兎に角気がついていなかったのだ。缶ビールを購入するようになったのはここ一年半ほどのことなので、週に三缶としても250缶にはならない。つまり額としては最大その程度の放出だった。それでも外で飲む半額以下で、ワインよりは大分安い。

帰りにエネルギー政策アラフランセーズが伝えられていた。核発電率を減らす一方、排出率も同時に減らしていくというものだ。エネルギーを出さないでいくことはとても大切だ。エネルギー効率を如何にに高めるかということはテクノロジーの最高課題であり続けることは変わりない。



参照:
Grexitへのオウンゴール 2015-07-07 | アウトドーア・環境
久しぶりにキンキンのビール 2015-07-09 | その他アルコール
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自虐的国家主義安倍政権

2015-07-24 | マスメディア批評
火曜日に発表された防衛白書から水曜日のフランクフルターアルゲマイネ新聞は伝える。そこでは釣魚島周辺で天然ガスのプラットフォームが増設されて、そこにレーダー基地が設置されかねないこと、そして日本の防衛当局が大きな猛威と感じてきていると。そうした内容に関して社説が書かれている。

「その推測が正しいとすると、対抗処置が施されるところで緊張が高まるかもしれない。日本の安全は、シナによって益々脅かされている。北京は、ともかく対話を呼びかけ、その実、近隣に正反対のことをしている。シナの関心は定義されよう。そして、それが顧みることなく実行される。近隣が名を挙げてそのことを明白にするときに、シナの指導層は憤慨させられたように演じる。日本は、安全保障領域においては今まで正しく処しており、それは無害だった。しかし残念ながら、安倍政権は、その正統的な業務を国家主義的レトリックによって裏打ちしてしまった。その政権は、それによって自らの国を傷つけていることを直視しようとしない。その脅迫のリストに、北朝鮮など多くのものが入る。東京の政権は、今寝た子を起こしてしまったのだ、そして今までも分かっていたことを公にしてしまったのだ。イランとの原子力プログラムの合意は平壌とのモデルにはならないのか?北東アジアは、誰もが平和を語りながら誰も相手を信じていない一つの紛争地域でありえる。」

これに何も書き加えることはないが、そもそも新聞にあるように2012年の島の国有地化が問題の起こりであり、その後の民主党前原の海上保安庁事件などを見ても、全てが合衆国主導でここまで進んでいることは明らかだ。勿論シナでもそのことは良く知られている。そしてそうした日本の傀儡政権や官僚組織などのお陰で、中共は、それらに強硬姿勢で反応することで、ありとあらゆる政治目標を達成している。合衆国が政策的にフランスの社会党を陰で支援していたということだが、日本会議などと呼ばれる民族主義も合衆国の支援を受けているのだろう。安倍政権の本当の姿が良く見えくるような社説だった。さて日本の市民はどのように反応するのか?



参照:
Alte Feinde in Fernost, Peter Strum, FAZ vom 22.07.2015
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
安全保障上去勢された日本 2015-02-02 | マスメディア批評
日本も普通になりたがっている 2014-07-16 | マスメディア批評
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存続危機状態の裸の王様

2015-07-23 | 文化一般
安倍首相が在外大使にお願いしていたと、本人がTV出演で話していた。それどころか「それが大使館の仕事だ」と圧力を掛けていたことを吹聴する。それが外務省のFAZ日本特派員への会食の誘いであり、フランクフルトの本社への領事の殴り込みであったようだ。日本国外務省もいい加減にしないと通常の外交を大幅に逸脱していて、間違いなく将来に禍根を残すことになる。それにしてもヒトラーやムッソリーニでも自らは手を汚さなかったようなことをTV番組で自慢しているのには腰が抜けた。

まさしくこれは、先日学者の会記者会見で、立教大学の哲学教授が強調していたことで、マスメディアが知性云々と質問するのに対して、「全くその反対で通常の理性を持っている一般市民が知性などなくとも判断できる」ようなことを詭弁を使って正否を捻じ曲げようとしている現在の日本社会の権力構造そのものの事象なのだ。

YOUTUBEに上げられているあの映像を喜んで多くの人に見て貰うようにしている。要するに言葉とか文化とかを超越したバカだからだ。その内容も含めてこの映像は世界のビックリ映像として残るような気がする。それによって命までを失った中川何某外相の酔っぱらい会見に相当する。そして未だにDL出来るのを見ると、政府がフジTVに抹消を依頼するどころか、皆に見せたいと考えていることが分かる。子供達に正しく指摘して貰おう。

土曜日に初日を向かえる「トリスタン」上演を前に、バイエルン放送が初代音楽監督ティーレマンにインタヴューしていて、そのVIDEOを観た。なるほどマザーコムプレックスを示すお気に入りのピンクのシャツを着ていて、どこか自信無げに答えている。こうしてその人物像を観察するのは初めてだが、今まで数多く接してきたインタヴュー記事の答え方そのものの受け応えだった。

要するにとてもその反応が鈍いので、誠実に答えているかに見える話し手の脳内の働きを想像することになる。なるほど職人的な経験についてはある程度実感をもって反応されるが、その経験や事象を聞き手にメッセージとして送ることなどは一切計算されておらず、あまりにももナイーヴ過ぎる ― 極右のポピュリストではないのだから仕方がない。その音楽へのアプローチの仕方もどことなく朝比奈隆などを思い起こさせて面白い。そして、彼が考える職人技の積み重ねとしての伝統的なもしくは自らが保守と呼ぶものの本質にまでは頭脳が回りかねるようだ。そうした職人芸的な継承は結構なことなのだが ― それゆえにレパートリーが小さ過ぎて、当然次期監督は駄目だったということになっているらしい ―、残念ながらこうした芸術部門ではそうした過去の典型が固定観念となって響いているようではどうしようもないのである。そうしたものは結局はどんなに巧く運んだとしてもアナクロマテリックでキッチュなアイデアから逃れ得ないものなのである。

その下に、「指輪」演出のカストルフのインタヴューがついているので、それも聞いてみた。とても興味深いと思ったのは、何度も繰り返されている言説で、彼の演出は「子供でも分かるが、分からないのは高等教育の教授だけだ」という言い方で、そこに「裸の王様」事態が繰り広げられているとすることだ。まさしく彼が示すような、世界の複雑化の中で、一般市民の理性を頼りに物事を判断すること、これはメルケル首相を代表とするように「連邦共和国の純粋理性」へと高められてきている事象でもある。

今、日本で進行している学生たちを筆頭とする「文化革命」は、68年に欧州が為しえたが日本では成就しなかった脱構造もしくはポストモダーンと呼ばれるようなイデオロギーから更にもう一つ進むと、今のようなことになるというものである。日本国外に長く住んでいる者は誰でも気が付くが、彼らはその二段階の「発展」を軽く一挙に超えてしまっているのだ。



参照:
エリートによる高等な学校 2014-11-03 | 文化一般
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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市場であるより美学の問題

2015-07-22 | マスメディア批評
土曜日にはバイロイトの音楽祭が始まる。注目されているので自宅にいれば生放送を聞いてみたいと思っている。早速新聞文化欄には録音の比較視聴が扱われている。先週亡くなった歌手ヴィッカーズの「トリスタン」が、定評あるメルヒオールと並んでいる。ジョン・ヴィッカーズはカラヤン指揮の録音である、ブリテンの作品で実演に接する機会を逃したのがとても残念だ。ここではそのトリスタンの歌の困難さに注目している。そして通常の上演ではそのモノローグなどが縮小されていることが多いのは知らなかった。

上部にはカタリーナ演出の土曜日が初日の舞台稽古写真が載っていて、何か鯨のあばら骨状のものが横たわっていてその上にシリンダー状が乗っていて、美術的には面白いと思う。しかしその横に立っているイゾルテのブルーの服など、以前あったカタリーナ演出のマイスタージンガーのキッチュさを思い起こさせる。そのように想像すると、トリスタンもロメヲと同じようにしてしまえると感じた。要するにその美術を見ただけでその音楽構造を想起させるようなものではなかったということだ。それはマイスタージンガーでも同じことなのだ。要するにこの女流演出家にとっては、トリスタンのそれはマイスタージンガーよりは抽象性が強くて、ごたごたしていないといった程度の音楽分析なのだろう。

日曜日には販促のためのFAS新聞が入っていた。音楽祭特集もあることだろう。そこで、キリル・ペトレンコの記事を目玉に持ってきていた。予想通りで、ティーレマン派の女史が書いている。敢えて反ユダヤ主義の一切を改めて引用とともに取り上げていて、それら一連の事象を批判しながらもまるでそれらを強調しているかのようだ ― FAZから掛かってくる電話に偶々出たらこのことは批判してやろう。

「一体、ペトレンコって」というお題目で書いていながら、最後にはデジタルコンサートの録画を含む、記憶に残った実演の体験を纏め上げているところを見ると、どうもこの音楽評論家は次期監督に選ばれたのが今でも納得がいっていないかのようだ。記憶に頼らないといけないように制作録音がないことと、コンサートでの実績を問うことに、「十分にドイツ的か」と、他人の言葉としてその不信感が垣間見せるのだ。同時に態々バイロイトで「両ヴァーグナー演奏の巨頭」が相見えるのは「当分の間ありえない」としていて、自らの信奉するティーレマンをその権力をさり気なく持ち上げる。

さらに、反ユダヤ主義の言動の引用は改めてその引用する気もしないが、音楽的な批判として下らない批判を引用しておきながら、それをして「そのような主観的で、それらは音楽とは全く関係ないことで、心理的なものでしかない」と書く。それに続けてロベルト・シューマンを出して、音楽でしか表されないものを語らしているのだが、そこにこの女流評論家が音楽について書ききれない苛立ちが見える。

芸術でもワインや料理でも同じだが、特別な処方がなければもはやそれについて書くことは玄人の遣る仕事ではなくなった、一つにはネットで素人の幾らでも立派な評論が提供されて、金を取る読み物ではなくなった。反面玄人は経済的な裏づけが必要なので、そこにコマーシャリズムの影響を強く感じさせるだけなのだ。

それを端的に示しているのが、FAZの二人の女流評論家で、ここでは再びベルリンの次期監督の選考に関して、135人の楽員から漏れてきた情報としてお定まりの情報が再掲されている。要するにそこでは、注意深く商業的価値のまだあるティーレマンの芸術的敗北をどのように目立たないように伝えるかが謀られているとしか思われない。そしてその背後にはやはり美学的明確さを欠く見解というようなものが横たわっていて、その心は市場とはまた違ったところで動いているというかなり専門家の問題である事象に陥っている。

詳しくは今は触れないが、恐らく業界が今回の事象でふらついている原因で、例えば「ドイツ音楽」だとか「その響き」だとか、ユダヤ云々の裏返しである美学的な考察なのだ。これは二十世紀の美学が大衆化されていくところで生じている戸惑いのようなものでしかないだろう。



参照:
MP3でなにを聴くべきか? 2015-07-03 | 音
術にならない頭の悪さ 2015-04-10 | 音
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
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危机と紙一重の良机の七十年

2015-07-21 | 歴史・時事
ヴァイツゼッカ-大統領の「荒れ野の40年」と呼ばれる演説を初めて聞いた。そしてVIDEOも見つけたのでDLした ― ドイツ語学習者には、明白なレトリックに言葉も比較的平易で明快なのでとてもよい教材だろう。40分以上の敗戦40年を記念したボン共和国議会での演説である。それを聞く前に調べると、ビットブルガーの論争との関連に触れてあって、同じく先ごろ故人となったギュンター・グラスの「名言」も載っている。戦死者を護る記念塔にボン政府も知らなかったSSも合祀されていて、そこへコール首相がドナルド・レーガン大統領を連れて行くという事件である。その事件の影響で上の演説の最大の目的であったナチの責任からの開放の一環として、ナチ犯罪者ヘスの恩赦が削られたというものだ。そうした修正がこの演説の背後にあったことは無視できない。まさに大統領の言葉を使うと、「危機(危机)という言葉も好機(良机)」と紙一重なのだろう。

演説の中で、なぜ敗戦40年かと訊ねられても難しいとしているが、1985年の冷戦の終焉に近づいたときであった連邦共和国が未来へ、次世代へと向かって過去の負の遺産から開放されて、要するに戦後レジームからの開放へと模索していた時期であり、そうした政府方針に沿った演説内容であったのだ。だからこそ、反ソヴィエトでも、反米でもあってはいけないと最後に訴えかけてもいる。

先ず何よりもこれからの若者に負の遺産を相続しないこと、それと同時に歴史化の中で同じことを繰り返さないように勇気を持って史実に向き合い、記憶を風化させないことを訴えている。目を瞑ることは共犯だとしていることがここにも活きる ― ヒトラーが東進した時には、祖国存続のための防衛権を主張して、石炭の確保を謳っていたことを改めて認識した。

70年に安倍総理が談話を出すというように聞く。そこに「謝罪」を入れるとかと聞くと、一体誰に語りかえるのだろうかと、その真意を疑う。まさしく、戦後レジームを総決算して、ヴァイツゼッカ-がありえないとする「過去を乗り越える」ことを果たそうとするこの独裁者が一体なにを話すのか?新法案の強行採決によって、良識ある若者たちに、過去の責任を負い被せるかのように、自らの責任を果たさない大人たちは一体なにを果たせるのか?

将来の日本人に負の遺産を残さないためには、安倍一味の母体であるような日本会議と称するようなイデオロギー集団を徹底的に攻撃して、靖国のようなものから手を切ることこそ今果たすべき責任ではないのだろうか。ああした民族主義イデオロギーこそが、今後とも負の遺産を増殖させて、将来までにその社会に影を落とさせるものに違いない。そうしたイデオロギーを決して認めない強い意志こそが今こそ日本社会には必要なのではないのか。

「集団的責任などというものはない、それは無罪においても同様、個人的な責任なのだ」とヴァイツゼッカーは冒頭に語っている。



参照:
"Der 8. Mai war ein Tag der Befreiung" (ARD)
IDの危機と確立の好機 2005-04-20 | 文学・思想
危険領域に立ち入る責任 2015-07-20 | 生活
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危険領域に立ち入る責任

2015-07-20 | 生活
南仏でのジャーマンウイングスの犠牲者遺族に対しての慰謝料が少な過ぎると拒絶された。一時金の額は忘れたが、さて慰謝料はドイツ国籍者の相続者に二万五千ユーロ、それに加えて恋人や子供などを亡くしたドイツ在住の近親者に銘々一万ユーロとなっている。家庭内で両方足しても三万五千ユーロ、大衆車の新車が買えるかという額だ。

個人が事故で車を壊して対物保険で弁償するとかではあるまいし、明らかにルフトハンザに監督責任がある事故だったので、これでは気が済まないのは当然だ。弁護士は更に広範な身内に各々十万ユーロ以上の額を要求するとしている。

土曜日は日本各地で反安倍行動が広げられたと聞く。今週中だけでも、付き合いのあるもしくは登録している600ばかりのブログの中で何人もの人が抗議行動に参加している。決して組織された人々でもない極一般的な市民であることが分かっているので、これは大変な人数だと思う。BLOGを書いているような人は意識も高く、ネット内での情報も集めているので、極一般的な日本人とは異なるとは思うが、徒事ではないものを実感する。プラカードの文字「アベ政治を許さない」が95歳の金子兜太の文字と知って驚く。

やはり学生の活動が大きな原動力になっていると見た。大阪の行動などを見ていると、若い人の活力があると同時に明らかに今までとは異なる層が主体となっている。そしてそこで以前の反戦などとは違う立憲主義への侵害が指摘されていて、脱イデオロギー化が定着してきているのを実感できる。特に大阪は先の住民投票があったので、自身で政治を決める自覚と自信というようなものが漲る。安倍政権への支持率が下がる一方で、危険圏内までもう一息である。

八月に敗戦70年を迎えることになる。日本人もここに来て初めてその戦後を振り返ることになっている。その間、朝鮮戦争があっても、ヴェトナム戦争があっても、誰一人として戦闘で命を落とさなかったことの意味を、その平和を享受してきたことを。現在の日本国民が「その過去」について考えることは、そのことであり、反省などではないだろう ― そもそも日本会議などという狂信的な集団がなかったならば誰もそんなことは今の日本人には求めてはいなかっただろう。なぜ敗れたのか、どこに責任があったのか、そこから生まれたパシフィズムの意味を考えるべきなのだろう。そして、そのパシフィズム憲章の恩恵と今後の外交戦略への展望が重要だ。現在の自国民に向けた言葉としては亡くなったヴァイツゼッカー大統領の演説内容があまりにも有名だが、日本国民に語りかえる言葉として、それ以外にはありえない。

朝早かったが、雨がぱらつく前にと走った。最初の沢沿いは比較的快調に走れた。10分47秒は気温22度超えとしては順調である。長い谷登りはいつものように歩いて、そこから走って降りる。太い樫からのくだりは12分台と頑張ったが、MBXを追い抜かせるときに横方向に動いて左足首を捻ったので記録とはならなかった。しかし新しい靴でスピードが上がることと、漸く足が馴染んできたのでこれからが楽しみになった。汗を存分に掻いた、心拍も明らかに160を軽く超えていたところがあった。体重71,1KGは夏としてはとても軽い方だ。



参照:
はん旗が掲げられる日々 2015-03-27 | 雑感
比較の仕様がないのか 2015-07-18 | 雑感
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おどる阿呆にみる阿呆

2015-07-19 | 文化一般
ルフトハンザの新しいクレディットカードが届いた。まだ引かれていないが三万マイル引かれる予定だ。その代わりマイレージの期限切れを示す図が無くなっているようだ。そのためにアップグレードしたのだから当然である。年間100ユーロは少なくないが、仕方がない。

散髪屋に行った。二月ぶりだが、まだそれほど伸びていない。しかしこの夏最後の暑さを凌ぐには必要だった。予想通り二週間先は床屋も夏休みに入っていたのだ。これで力強く乗り切れる気持ちになる。

USB-DACの情報を日本のサイトで見ていると大事なところを誤魔化しているような戦略が見られる。呆れたことに昨年購入したSACDプレーヤーのUSB入力でハイレゾリューション再生が可能と評論しているサイトまである。MP3しか使えないことは明らかなのだが敢えていい加減な情報を流布していると思えば、更に輪を掛けたようにハイレゾ再生は昔の録音ではないといけないと言い張るオーディオ愛好家まで登場する。

なるほどSPレコードをLP化した様に、リアルPCM録音以前のものも効果は出ないことはないだろうが、どうもハイレゾリューションという言葉に踊らされている気がしないでもない。そうでもなければ必要もないのに十万円を超えるようなDACの市場があるわけがない。

そうした事情を裏づけしているのは、東京で外務省から圧力を受け続けたゲルムス氏がハノーヴァ北のゼンハイザー本社を訪ねて、農家の三代目のオーナー兄弟にインタヴューしている。今や音楽鑑賞は移動中のものになっていて、国内だけでもこの四半期に二百七十万のヘッドフォーンを販売していて、2014年の売り上げも7.5%拡大の634,8ミリオンユーロになり、営業収益も34,7ミリオンと拡大している。アジアでの三割の売り上げ拡大がきいていて、2015年も同様な傾向にあるらしい。330人の開発技術者と2600人の全世界従業員での収益だから、投資家が放っておかないので、ひっきりなしにヘッジフォンドのお誘いに煩わされているらしい。

MP3で育った若い世代が、音質だけでなくてその素材の質などに目覚めたことで、決して安くはないゼンハイザーの製品へと人気が集まるのも、結局そうした情動的な受け取り方があるからだとされる。なによりもシナ、日本、韓国などの技術信奉がその市場を支えているというのだ。

昨夜はとても暑かったが、2003年の八月のように布団を被れないほどではないが、夜中の束の間の雷雨もあり、熟睡など出来なかった。鬱陶しい。



参照:
比較の仕様がないのか 2015-07-18 | 雑感
サマーカットにはしる 2015-05-15 | 生活
異常なI’m not Abeな事態 2015-04-30 | マスメディア批評
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比較の仕様がないのか

2015-07-18 | 雑感
「no pasaran」と国会前で若者が叫んでいる。はじめフランス語かと思ったが、フランコ独裁政権と戦った共産党の使ったスペイン語だった。どこからその言葉が今使われているのかは知らないが卑近な例ではロシアのプッシーライオットが着ているTシャツに印字されているという。安倍はプーティンとは比較の仕様がないが、彼の権力者とは政治手法も大分異なるが、まさかロシア並みに日本国民がそれを叫ばなければればいけない状態になるとは考えてもみなかった。とても情けないことである。

新聞にパシフィズムが大きく捉えられていたように、旧社会党支持者ならば非武装中立論としてそれが捉えられていたのはお馴染みであるが、今でも大江健三郎などの知識人が九条護憲などとして、日本国憲法の特許であるかのように宣伝しているためにより一般的な視座が得られなくなっているのを感じる。パシフィズム自体はなんら新味のないイデオロギーであるから、特に若者のシュプレッヒコールにはあまり似合わない。

引き続き、ネットオーディオについて調べている。オーディオフィルの可能性である。そこで分析ソフトをダウンロードしてみた。そして今までダウンローしたもので感覚的に最もよさそうなVIDEOを分析した。バーデン・バーデンでのブーレーズ生誕90年のものである。なるほどサムプリング周波数は48KHzでハイレゾリューションなのは、SWR2によるそのままの中継をキャッシュに残っていたのをダウンロードしたので間違いない。しかしビットレートは意外にも125kbでAACだからMP3程度だった。これも一つのコンサートで3GB以上あるファイルだから、DVD程度と考えてよい。

そこで改めてDVDをコピーし直して、分析してみる。768ビットレートしか出ていないのは何故か分からないが、SACDに比較することは出来ないが、CD程度は期待できるのだろう。あまり安売りがなくてオペラのDVD二組しか所有しておらず、今後とも劇場中継以上の制作物が出てくる可能性は薄いのでどうでも良いのだが、PCからUSB-DACを使ってHiFiで流す音質もそれほど期待できないということになる。しかし、ネットでの素材も含めて、DVDの音を聞くために、外付けオーディオカードに相当するUSB-DACを調べてみる。勿論そこではハイレゾレーション再生が狙われていて、CDを超えた音響というのだが、既に調べてきたようにそのようなマスター相当の素材は有料でもなかなか入手できないのである。

CDの音響でさえ十分な市場がないところで、SACD市場さえ確立されないところで、一体どのような可能性があるのだろうか?そもそも一方マルティメディア自体にも未だにそれだけの制作品は殆ど生まれていない。そして今後とも制作費の膨大なマルティメディア作品が制作されることも殆どない。しかし、コンシューマー市場のない高価なUSB-DACなどが販売されているのだ。



参照:
ほのぼの家族の領域 2015-07-17 | マスメディア批評
なんかとてもかんじよいよね 2015-07-16 | ワイン
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