Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

索引 2007年12月

2007-12-31 | Weblog-Index



非連続の鏡の中の逡巡 [ 暦 ] / 2007-12-31 TB0,COM0
強力吸い過ぎにご注意 [ 生活 ] / 2007-12-30 TB0,COM5
降臨の気配に天国作戦 [ 雑感 ] / 2007-12-29 TB0,COM0
芸能人の高額報酬を叱責 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-28 TB0,COM0
憶いを凍かして雪見酒 [ 生活 ] / 2007-12-27 TB0,COM0
酒樽一杯、胃袋一杯 [ 料理 ] / 2007-12-26 TB0,COM2
白いクリスマスイヴ風景 [ 暦 ] / 2007-12-25 TB0,COM4
クリスマスメールの下書き [ 暦 ] / 2007-12-24 TB0,COM2
冬至に春の息吹きを想う [ 暦 ] / 2007-12-23 TB0,COM6
語学学習の原点に戻る [ 生活 ] / 2007-12-22 TB0,COM0
形而上の音を奏でる文化 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-21 TB1,COM4
躁状態での酸状態吟味 [ 試飲百景 ] / 2007-12-20 TB0,COM2
YOUTUBEで品定めをする [ 音 ] / 2007-12-19 TB0,COM0
ゴーストバスター請負 [ 文化一般 ] / 2007-12-18 TB0,COM0
放射冷却の午後に温まる [ 暦 ] / 2007-12-17 TB0,COM2
肉体に意識を与えるとは [ マスメディア批評 ] / 2007-12-16 TB1,COM5
しなやかな影を放つ聖人 [ 文化一般 ] / 2007-12-15 TB0,COM4
木の実パンで乾杯 [ ワイン ] / 2007-12-14 TB0,COM2
ファウストュス博士」索引 [ 文学・思想 ] / 2007-12-13 TB0,COM0
脱構造の日の丸の紅色 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-12 TB0,COM2
スッキリする白いキョゾウ [ マスメディア批評 ] / 2007-12-11 TB0,COM0
待ち焦がれた破局の興奮 [ アウトドーア・環境 ] / 2007-12-10 TB1,COM3
永遠に続く生の苦しみ [ 文学・思想 ] / 2007-12-09 TB0,COM2
限界に近い今日この頃 [ 生活 ] / 2007-12-08 TB0,COM0
新春が楽しみな青林檎 [ ワイン ] / 2007-12-07 TB0,COM2
人命より尊いものは? [ 生活 ] / 2007-12-06 TB0,COM0
初冬に香るリースリング [ ワイン ] / 2007-12-05 TB0,COM2
ど真ん中にいる公平な私 [ 女 ] / 2007-12-04 TB0,COM3
既視感と焦燥感の恍惚 [ 文学・思想 ] / 2007-12-03 TB0,COM4
民族の形而上での征圧 [ 文学・思想 ] / 2007-12-02 TB0,COM0
妻フリッカの急逝とその娘 [ 女 ] / 2007-12-01 TB0,COM0
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非連続の鏡の中の逡巡

2007-12-31 | 
秋に髭剃りを新調したことはここに書いた。その後も何度も充電して、尚且つ洗浄液で洗いながら使用している。二月経過した時点での感想である。剃り味は、幾らか刃が丸くなったのが新品の時分のシャープさは無くなった。それに髭剃りの時間も初めの時点より短く無精になってきた。剃り味が悪くなるとどうしても拘りが失せる。細かなところが面倒になる。それでも、ある程度時間をかけて少し圧力をかければ良く剃れるとは思っている。

しかし、どうも以前使っていた充電池よりも質が悪いような気がして来た。刃の動きが同じだとすれば、以前の物の方が一週間以上も充電が持った。毎週一回は洗浄をする時間はあるので、それ以上保つ必要はないが、せめて一週間は充電無しで動いて欲しい。

なるほど、新製品の発売時から継続して売り込む場合は、生産コストを押さえて行くのは工業家やそのエンジニアーにとっては当然のことである。しかし、充電池は中国か何処からかの買い付けであって、電圧の減衰データーを基にして、使用者に気が付かれないように「余分な能力」を削っていかなければいけない。自動車でも髭剃りでも同じである。その分、同シリーズの欠点も改良されている。

何れにせよ、髭剃り使用時間をあまり長くは懸けたくないのである。するとどうしても剃り残しが出てしまう。そうなると新品を買ったにも拘らずと、日中どうしても不愉快な思いをする。

髭剃りも髪の毛と良く似ていて、その「気になり方」が問題なのである。最近幾つかの記事を読んで、なるほど短すぎても長すぎても放っておいても手間をかけ過ぎても上手くいかないのである。

笑福亭鶴瓶の小ネタに、髭剃りのものがあって、髭を剃ってさらにモミアゲをモミアゲ剃りを当てて、更に剃りだすとその境目が判り難くなって、何処までも剃り込んでしまうと言うお得意の強迫観念ものがある。これも、もみあげの生え際とその延び方の一様でない形状と、自然にして置きたいが、その自然さが何処まで行っても追求できない不思議さがあり、それをモミアゲとして手入れする難しさにこの恐怖心が湧き起るのだ。

その点、髭を剃るのは容易で、何処までもツルツルになるまで剃ればよい。境目はハッキリしている。充電を使い果たさないように、少し圧力をかけながら執拗に剃れば良いのだ。

それにしても洗顔や歯磨き時にはあまり出ない一人喋りが髭剃りによく出るのはなぜか?決して怠慢な態度で鏡を見ている訳ではないのだが、どうしても小言かなんとかが出て来てしまうのである。なるほど歯の汚れとは異なり、髭の成長と言う連続した時の推移が髭剃りによって断行されるからだろうか?

するとどうだろう。区切りが分らないモミアゲこそが、連続性を表象しているのではないだろうか。しかしである。その連続性を何処かで断行しようとするから、ついつい強迫観念に襲われてしまうのである。

暦の上の一年の終りも、これに似ているかも知れない。その区切り自体は冬至のようになんらハッキリした区切りにはならない。しかし、なんとなくここで区切ると言う感じである。だから、カウントダウンなどするのと、モミアゲを何処までも剃り込まずにどこかで任意に線を引いて止めるのと、心理的に似ている。
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強力吸い過ぎにご注意

2007-12-30 | 生活
掃除機を新調した。17年ほど使ったフィリップスのクリーナーは、半年ほど前から、部分欠損が始まっていた。開け閉めする蓋のヒンジ部分である。更に二月程前には、頭の小さなノズルも行方不明となった。ゴミと一緒に捨ててしまったのだろうか。

そのような状況から、新調しなければいけないことは覚悟していた。12月に入ってから、ネットで調べると利用者の製品評価のすこぶる良い商品が割安で提供されているのを見つけた。そうなると、どうにも落ち着かない。クリスマス前に売り切れないか、棚卸で在庫がなくなるのではないかと心配になるのである。

しかし、それほど投資した筈もないロイヤルダッチの商品でも、ここまでもてば決して悪くはなかった。千ワットの入力?は充分であり、横長であったので引きずり回しやすかった。ブランドイメージも悪くはなく、当時の超有名メーカーAEGやSIEMENSやMIELEなどと比較しても割安だったのだろう。見た目からして軽めであったのもブランドイメージに相当していて、反面耐久性にはあまり期待していなかった。しかし、交換の吸引袋なども廉く、モデル商品がドイツの大手小売チェーンから売り出されていてお徳であった。4フィルター方式で、排気のエアーも清潔な感じであった。

さて、今回の商品購入では、特に選定ポイントはなかったが、お買い得感のある評判の良い商品を探した。ジーメンスは、富士通ジーメンス以外はパン切り機やあとは見えない部品ぐらいで、この名門ブランドの商品を殆ど使っていない。恐らく、どのような商品も価格的に競合商品に比べて割高なのだろう。ネット評価も製品の仕上げが良いということで、割安商品の割には満足感があることを期待した。

配達された梱包は思いがけず小さくコンパクトに纏まっていた。その原因は、ノズルに繋ぐもっとも長い真っ直ぐなパイプ部分がアルミで出来ていて伸縮するアイデアだと分かった。その機能はネットで読んで知っていたが、現物を見ても良く分からなかった。何よりも通常以上に重くがっしりとしたそのパイプに驚いた。使う人の身長などに合わせた伸縮させる使い勝手は、使っていくと腰への負担などで都合が良いだろうが、それよりもその硬性は、今までの掃除機の印象とは大きく異なり、絨毯の上などでの動きが安定して気持ち良い。

そして何よりも、予想以上に音作りが出来ていて、回転系のジェットエンジンや機内のようなBMWの高級乗用車内の音作りを思わせる。電源でパワーを無段階に変動させれるので、絨毯向きの半分のパワーでかなり落ち着く。最大パワーまで吹かすと流石に音は大きいが、先ず最大パワーは殆ど使わないだろう。どれほど強力かと言えば、最大パワーでは絨毯の上で転がすことが不可能となるぐらいなのだ。

ノズルの先のブラシも掃除し易そうである。パイプの持ち手は握りやすく太くして、突起を刻んであるとあったが、この部分は明らかに大女向きで、ドイツ女性でも小柄な人には太すぎるような感がある。インターナショナルな取扱説明書になっているが、ドイツ語圏以外ではこの点から家庭ユーズでは評判は悪いかもしれない。

その反面、先頃失ったノズル二点セットは、蓋の内側に収納出来るようになっていて、失くすことも無く、いつでも使えるようにしたアイデアは大変気が利いている。

暫らく使用してみないと判らないが、不織布のゴミ収納袋はランニングコストを上げそうで、吸引能力が強いだけに直ぐに一杯になりそうな気がする。仕上げは悪くはないが、ヒンジ部分などはやはり注意しないとプラスチックの加水分解や紫外線で壊れ易いかもしれない。二十年もたそうとは思わないが、フランスの製品のように壊れてから本格的に使うような様にはなって欲しくないのである。

重量も見た目の堅牢さほど重くはなく持ち易い。ただ、引っ張ると転び易い傾向はありそうだ。最も複雑で壊れると面倒な部分が、電力調整を兼ねたスイッチ部分であろそうだが、今までは適当にスイッチを足で踏んでいたことを考えると、踏み難くなっているのでかえって長持ちするかも知れない。

取扱説明書を見ていると、人間や動物への使用には不適とあった。レースのカーテン向きにコントロールしたとしても、強力な吸い込み力は膿を吸い出すだけのパワーがあるだろう。

送料・税込みで82ユーロは、希望小売価格の60%割引と書いてある。
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降臨の気配に天国作戦

2007-12-29 | 雑感
チャイルドポルノの大強制捜査がクリスマス二日目に行なわれたようだ。作戦名「ヒンメル」で操作対象となったのが一万二千人とあるから大規模である。バイエルン州だけで一千九百人が対象となった。それとは別に海外七十カ国での容疑者の特定がなされている。

前回はハレを中心に行なわれた作戦であったが今回はベルリンが司令塔であったようだ。そのためかハレの地元の中部ドイツ放送が前情報を流して、直前にデータを消去した容疑者も多かったようである。勿論通常の消去では痕跡からその証明が可能となる場合が多い。

主に手入れされた業者への支払いやネット上での目立ったダウンロードの動きを一年以上も前から内偵していた結果が今回の成果に結びついたようである。クレジットカード会社の支払い伝票の捜査への提出協力も大きい。そればかりかスパムメールを誤ってダウンロードしてしまったならば、警察に届けなければ容疑として扱われると強硬な立場を採っている。

こうした市場がある限りは、最も問題とされる児童への虐待があとを絶たない。また市場がなくとも趣味の世界として虐待や殺人が繰り返される例がこと欠かないのが、こうした性的犯罪の特徴でもある。

この問題には、ゆえに二つの課題があるのだろう。一つは、市場の有る無しに係わらない虐待の犯罪行為の防止、もう一つはそうした性的偏向の社会的な評価であろうか。

前者は、後者の偏向が社会に存在する限り、いかなる量刑をもっても防止は出来ない。だから、こうして大量のコンピューターが没収されて持ち主が刑罰や社会的制裁を受けても同じように再び繰り返される。また後者においては、こうした偏向がどのように評価されるかによって、前者の犯罪に当たらないアニメーションや漫画における同等の表現の規制にも更に踏み込むことになる。そこでは、所謂、エログロの表現は規制されるのが、その効果の如何に関わらず当然だとされる。

そうした規制に対しては一切「表現の自由」を盾にした反論は無意味である。その反面、少年少女や子供のヌーディズムにあまりに不寛容であることは、さらなる文化問題を引き起こすに違いない。しかも、今回もザクゼンアンハルトなどで市長がこの捜査に引っかかり辞任したことのみならず、こうした幅広く掛けられた網が間違えば政治的にも使われかねない危惧をもっている。そしてそこには、ある種プロテスタンティズムの強い意志が見え隠れすることも大変不快である。

事情は若干異なるが、ネットでの音楽交換サイトのユーザーの摘発も日夜数限りなく進んでいる。突然、捜査令状を手に、警察が一般家庭を訪れ、家宅捜査後に該当のコンピューターが押収されて二度と戻って来ないと言われる。その多くの利用者は、戸主と同居しているティーンエイジャーなどで、莫大な罰金はネット回線の契約主である戸主が支払わせられることになっていると言う。その責任能力には法的な議論が存在するようだが、否応無しに弁償を迫れているのが現状のようである。

これらに関連してますます身近にあるのが、新年冒頭からの効力を発揮する携帯電話を含むあらゆる電話通話等の半年間に渡る電信記録の保管法案である。テレコムでは百テラバイトの記録スペースが必要になると言う。EUのガイドラインでは重大犯罪にのみこの記録が捜査に使われ法廷で証拠とされるが、ドイツの法案ではより広範に犯罪捜査に使える。一年後には、ネット利用も全て半年間、その記録が保存されることになる。

しかしそのEUガイドライン自体が不安定なものであり、また実効果にも疑問が持たれる。実際に、外国人などの方が一般の市民よりも様々な携帯電話の番号を保持しており、また不透明な携帯電話同志で通話をする限りなんら事件と無関係に通話がされるのであろう。

どうもこれらの処置は、犯罪防止どころか、重大犯罪に対する訴追立件にもそれほど効果がないようにしか思えない。新聞の紙面の隣の記事に目をやると、「リベラリズムは死んでいる」と見出しが付けられ、ベルリンの大連合政権下で成立した禁煙やら最低賃金、進行中の高額報酬・給与議論のように、一時は元気の良かった自由党が孤立して来ていることが書かれている。いよいよ、テロとの闘争で幕開けした二十一世紀の気配が日常生活に迫ってきているようだ。
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芸能人の高額報酬を叱責

2007-12-28 | マスメディア批評
連邦共和国の最初の二十年ほどは、「我々は国をもっていなかった。それは民主主義のベールに有益者の政府駅舎が隠れていた。」と1960年代に述べ、1970年代には「労働組合の限られた関心と無関心に、CDUの政治家は多くのアドヴァイスを必要とした」と、カール・シュミットエルンスト・フォルストホッフの往復文書で戦後に交わされた内容である。

そもそも法治国が憲法の土台として存在するのか否かは、公平さを齎す国社会として存在するのかの問いかけとした法学者フォルストホッフが、同じく第三帝国の法的根拠を築いたシュミットと、戦前から最後まで交わした文書を軸とした新刊書籍の新聞評を読む。

門外漢には難しい、国社会の機構や法治国のあり方の議論は、アンゲラ・メルケル現首相の収入格差への議論が、それとはまた異なる形で、大統領に次ぐ連邦共和国第二位の地位の国会議長ノベルト・レンメルトから切り出された議題にも含まれる。

それは、クリスマス前に再びキリスト教民主同盟側からの声として、上場企業重役への報酬や退職金のみならず、スポーツ選手や芸能人への法外な報酬に怒り、それを叱責するものである。これを伝えたのがビルト・ツァイトュングと言う写真大衆紙であり、メディアの元締めであることも忘れてはいけない。

ミュンヘンのクラブがブラジルの少年に払った高額な金は、多くの一家の主が一生掛かっても稼げない額であることを叱る。法的には規制できないことであり、当時者に良識を求めるとしているが、これはそのような問題であろうか?

少し考れば、これはドイツの国内問題ではないと判る。グローバルな市場競争の問題であることぐらいは素人でも推測できる。しかし、スポーツ選手や芸能人に限っても、それがその能力とは全く関係ないところの人気市場で評価されていて、それを食い止めることが出来ないのは、あれだけ世界で罵られた元日本サッカー選手などの法外な収入でも判るのである。それどころか、自転車競技などでの薬品の使用の常習化は、その報酬が「誤り」であることさえ証明している。

そして、上の政治家も「なにも政治家の収入と比べる訳ではないが」と付け加える必要がある。どうしてもそのような興味となるのが、こうした収入の政治議論の難しさなのである。

さらに、国が富みの分配をその税制によって司れるかと言えば、スイスやモナコなどのヤクザ諸国が世界に存在する限り不可能なのである。世界のマネー・ラウンダリングは法規制されているが、移住や居住は自由であり、当然ながら自由な報奨の支払い方法も自由な経済活動の基本である。

多くの人気者や著名人が社会奉仕に私財をつぎ込んでいることは知られているが、寄付金の非課税だけではこうした善意が充分な機構として、社会の不平等感を解消するに至らない。

シュミットが上の文章の中で一度、社会学者フランツ・オッペンハイマーが「重要なドイツ人」として記念切手に採択された節に、あまりにも政治的であると痛烈に批判している。少数民族であるそのユダヤ人こそが、政治的な方法での社会の公平化を乗り越える自由経済の経済的方法を考え、先日なった欧州の往来の自由とTV電話を2023年の社会に予測していて面白い。余談ながら、慶応義塾大学に招聘され東京への脱出を果たしたが、その第三帝国の同盟国ではナチの圧力で講座を持つには至らず、上海経由で米国へ亡命したとある。

そのような事を考えていると戦後公職復帰後ハイデルベルクの正教授を務め、キプロスの総監となったフォルストホッフが、元凶であるマスメディアやジャーナリズムを1967年に批判する言葉に行き当たる。

「19世紀とは異なり、報道機関が、公共の議論において、もはや根本的なアンチテーゼを提示しないで、ただ一つのシステムの中でのヴァレーションを示すのみとなっている」と、報道の可能性を「自己の姿勢を示すだけに限られる」と定義している。

この考え方にあるジャーナリズムの姿勢は、今回シュプリンガーグループの大衆紙がこうした議論を大きく紹介して、税制上の調整無しに社会の不公平感を募るような収入格差が埋められる可能性の無い、国の税制を簡素化する方向にある自由主義市場システムの中では、こうした政治家の発言こそが殆ど無責任にしか響かないことに相当するのである。つまり、それは大衆紙の主要読者である大衆の動員を目指すポピュリズム政治であり、市場の中で自己の立場を築く破廉恥なメディアでしかない。有権者の「人気」取りを命題とする民主主義政治の限界ともなる。

こうした悪循環から逃れる方法は、はたして存在するのか?メルケル首相の提唱する「社会と経済を司る政治の実現」は本当に可能なのか?

フォルストホッフは、作家のユンカーなどと同じく消極的なナチ協力者もしくは節度を持ったナチ批判家としてとしてのアリバイをこれ見よがしに提示する。一方、シュミットがただ単に法律的にナチの基盤を整えたのみならず、強力な反ユダヤ主義者であったことを思い出せば、国社会がなすべきことは大衆のルサンチマンの心情に動かされるものではないことは明白な筈である。



参照:
Eine große Rührung, von Wolfgang Schuller, FAZ vom 24.12.07
Rezension über ein Buch:
"Ernst Forsthoff - Carl Schmitt" Briefwechsel 1926-1974
Hrsg. von Drothe Mußgnug, Reinhard Mußgnug, Angela Reinthal
Alademie Verlag, Berlin, 2007
ケーラー連邦大統領の目 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-02
東京でのヒトラーの遣い [ 文化一般 ] / 2007-08-16
キルヒホッフ税制の法則 [ マスメディア批評 ] / 2006-12-24
美しい国は何処に? [ 雑感 ] / 2006-10-01
「現代福祉国家における自律への権利」 (『法の科学』28号掲載) ―
笹沼 弘志 (静大教育学部)
「市民の厚生を見据えるEU、軍需利権へ媚びる日本/リスボン条約の核心」
(『toxandoria の日記、アートと社会』)
格差事情 (文化芸術暴論)
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憶いを凍かして雪見酒

2007-12-27 | 生活
昨晩は、夜更かしをした。天気予想通り、湿った大気が入りこんで、温度は上昇して、セントラルヒーターにサーモスタットが掛かり、夜中はあまり暖房が効いてはいなかった。そして、朝になると教会の鐘に天窓を叩く音が重ねられた。霙まじりの大きな湿った雪が降り出した。梢の霜は細り、木々は黒々として来て、すると今度は地面や屋根が雪で白くなった。

古い白黒番組などのシーンをネットに見つけると、その生放送時代の記憶に残っているだけのTV番組などに見入ってしまう。なにも映像が、永六輔の作や演出としてまたは映像技術として面白い訳ではない。子供の頃の記憶はやはり鮮明のようで、そのような番組を観ている自分の状況を曖昧ながら少しづつ思い出してくるのが興味深いのである。

古い自分の写真などを見ていると、写されているときの主観的な心境のようなものが幾らか辿れるときもある。その多くは明文化できない感情のようなものである事も多いかも知れない。

以前は、カメラを写している取り手の視点からそうした感情を辿って見て、その状況を想像してみた。つまり、写真としての映像記録を記憶として読み解いて見たのだが、写されている自分は元来その視点にはなく、被写体としての記憶しかない。つまり、その記憶を記録として脳のどこかにしまいこんであるかどうかに興味がいくようになった。

ここでの記事においても、試飲やその他の記憶は、なんらかの記録によって特定できる時刻と場所などを徐々に思い出して行くことで、それに纏わる自己の感覚的なものを思い出して行くことがある。これは特に試飲と言う一種の感覚的に研ぎ澄まれた記憶が、その状況の具体的な記憶に結びつく例である。

簡単に申せば、印象に残ることは必ず覚えており、漫然と記録されている記憶に対するなんらかの特定が出来ればそれはかなりの程度呼び起せる。その時は、推測や状況の判断よりも、心理的な面に注目すると糸が解れるように記憶が新鮮に蘇ってくる。

しかしこうして記憶を辿るのは、コンピュータのハードディスクの圧縮してあるデータを開くようなもので、役に立つ選別された記録から、強制的にしまいこまれた記録を呼び出すようなものである。だから、開いたものも結局は用が済めば、再び圧縮してしまい込んである必要がある。その場合、新たな関連性などをつけることも出来る反面、必要がないと判断されたものは消去してしまうことも出来るかもしれない。

年末の雪では、アルペンスキーのメッカ、ザンクトアントンからの帰路、二百キロ以上もスケートリンクとなった高速道路を帰ってきたことを何度も思い出し、経験として人にも伝える。家近くまで来て、ヘッドライトが暗くなっていることに気が付き、ほっとしてワイン畑横の道端に停めた車を見て驚いた。車は、滝の落ち口のような五センチ以上の硬い蒼氷の中に包まれていたのであった。

天候と寝不足が祟って頭が重いので、雪見酒と洒落こんだ脳の解凍作業は、これまた楽しい。
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酒樽一杯、胃袋一杯

2007-12-26 | 料理
胃袋が破裂しそう?暴飲暴食はしない。しかし、二キロ以上のザウマーゲンをはじめて購入した。小さなものとの差は、その噴門と幽門の存在が大きい。一方に食道が繋がり、また一方の細くなっている方をPars Pyloricaと呼びその弁をPylorusと呼ぶようである。

雄?豚の胃袋とはこれぐらいの大きさなのか。しかし、胃袋一杯にザウマーゲンを食すると、人間も豚のようになる。

さて、お味や食感の方は、味はこの特大の方が茹でてもなかなか味が外へ逃げないようで、水っぽくならない。しかし、皮はいつも以上に分厚く食べ過ぎると消化が悪い。それに合わせて、大根などの消化を助ける物を添えたとしても充分に温野菜を食べると、これまた暴食気味になる。

さて、ワインの方は上等も開いていたが、敢えてリッターヴァインを開ける。現在、二種類の新鮮なこれを変わり番こに試している。すると、その醸造所のコンセプトなどが見えてくるのである。

今開いている方は、A・クリストマン醸造所のリッターヴァインで、アルコール度は11.5度と少し弱めである。そして、さっぱりした柑橘系の味と香りは、清涼飲料水的でさえある。酸の質が良いので酸っぱいとは思わない。そして、杯も進むが、決して水のように飲んでしまうと言うのではない。なぜかと言えば杯を傾けるだけで、口内がさっぱりして、食物をさらにワインで流し込む必要がないからである。ワインを味わえるのである。シーダーに近い感じもある。その意味からこれは良い食中ワインである。

さて、もう一方のリッターヴァインはフォン・ブール醸造所のもので、なによりも12度のアルコールとその香りは素晴らしい。クリストマンのものを飲んでその微かなミネラル風味とこれを比べたが、これも予想に反してミネラル風味が楽しめた。どこの葡萄地所からの収穫を買いつけたかは明かされていないことや、そのミックスは多岐に渡ると思えたからである。それほど美味く味を調えてある。流石に量を均等な質で出さなければいけない大手の醸造所の品質管理とも言える。

しかし、ワインはアルコールであり、ある量を越すとどうしても酔いが廻る。そしてその酔い心地はとても大切な判定基準となる。ここで、高級ワインと呼ぶ物は、飲み過ぎてもアルコールが幾らか体に残る感覚だけで、決して気分の悪くなるようなものではいけない。欧州のワインは天然飲料であり、決して人工的なものであってはいけない。

アイスヴァインに代表されるような甘口ワインはどうしても、保存と安定のために硫化物投下量が辛口に比べ何倍にも跳ね上がる。だから、アルコール度は甘口に比べ遥かに高くとも辛口は悪酔いせずに沢山楽しめる。それでも、ワインレストランなどで飲む廉いワインは、口当たりが良くとも、酔いが直ぐ廻る。そして、飲み過ぎると悪酔いに近くなる。それは発酵を無理に止めたりして味を調えているからだ。だから、最近は三倍もの価格で売られる安物ワインをレストランではグラスで二杯つまり半リッター以上は飲まない。

同価格の上の二種類を比べると、味香り共に好悪は付けがたい。その葡萄の出所が味から分かり易いのはクリストマンのワインであり、味の華やかさではフォン・ブールのワインである。そして、酔い心地は、フォン・ブールの方が遥かに悪い。これをケミカルの混入が多いと一般的には称する。何故そうなるかは、上に既に述べた。アルコール度が高く、まだ酵母臭が残る状態ではある程度は仕方ないのだが、先ず喉の渇き方が違い。そして酔いが上の方に廻る。その覚め方ももう一つスッキリしない。昔から、村醒めとかなんとか言うが、これには個人差があるが、夕食に飲んで、寝る前に完全に醒めているぐらいでもう一度寝酒に試して見たくなるワイン、これが良い酔いなのである。



参照:
肢体がスルッ鼻がプルン [ 料理 ] / 2007-05-16
栗色のザウマーゲン [ 料理 ] / 2006-10-19
桃源郷の豚の胃詰め [ 料理 ] / 2006-01-30
利のある円錐形状 [ 料理 ] / 2006-01-26
典型的なザウマーゲン [ 料理 ] / 2005-12-27
公共堆肥から養分摂取 [ 女 ] / 2005-01-11

女性歯科医のミュンヘンマクシミリアン大学での医学博士号修得の論文は豚の噴門附近の免疫システムと歯茎のそれの関係を見るもののようである。図示を見るだけで、豚は腹持ちが良さそうである。
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白いクリスマスイヴ風景

2007-12-25 | 
さて、なんとかクリスマスメールを「定刻」通り発送した。あまりご無沙汰しているところには送らないが、少しご無沙汰しているところに発送すると、アドレス不明で二件ほど戻って来た。いくつものアドレスがあって、アドレス帳に古い物が入っていると分からなくなる。改めて新しい方へ送った。しかし、一通は移動していて、ホームページなどを調べないと、本人がどうしているのか分からない。また一通は、留守中で新年まで戻らないと自動的に返事をして来た。これはそのままで問題ない。

ラジオで聞いたのだが、フランスは半ドンではなく平常どおりで、25日の零時からクリスマスのなるとは知らなかった。確かにスキーリゾート地ティーネで過ごした時は、リゾート地故と思っていたが、そのような感じがあった。

昨晩考えていたように、写真を撮りに行った。生憎の天候で、あまりまともな写真は撮れなかったが、全部で四十分以上歩けたのは良かった。三十分歩くだけでジョギング効果があると言うのは本当だろう。

初めの十五分ほどは零下の外気の中で、体が動きにくかったが、三十分ほど歩くと体が温まってくる。そうして、歩き終わって家に返ってくると、足に少しの疲れと、運動をした感じが体に残る。

ジョギングして暫らくしたあとの感覚である。急坂でもない限り、歩行では心肺機能は鍛えられないが、運動不足解消とカロリーの消耗には十分である。特に外気が冷えていると空腹感を感じる。喉が渇く。先ずは、これ以上何を求めようか?

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クリスマスメールの下書き

2007-12-24 | 
相変わらずの氷点下である。冷えたまま穏やかなのが珍しい。まさに凍りついた感じである。一日中で陽が幾らか雲の上に指したのは数分ぐらいであろうか。

しかし、霧が晴れた戸外を見つめると、何人も散策している人がいた。樹氷見学に出かけようかと思ったが、見通しが利いて明るくなるのを待っていて、機会を逃した。

英独語でクリスマスメールを出そうと思うが、あまり良いアイデアが浮かばない。また、誰それに出すかに迷っている。今年はなぜか、殆ど買っていないのにワインの醸造所からプレゼントなどを貰い、それは別としてもご無沙汰している人にメールでもしておこうかと言う気が起ってしまった。つまり、型のグリーティングスに一言添えたい気持ちになってしまったので余計にややこしい。

例年ならば、今年のハイライト写真などを添えるのだが、それも今ひとつ思い浮かばない。明朝パンを取りに行くついでに、樹氷の写真でも取れればそれをハイライトとしておこう。

そのようなことを考えながら、下書きなどをしてみる。

Liebe Damen und Herren,

ich wünsche Ihnen

Fröhliche Weihnachten und ein gutes Neues Jahr

aus der gefrorenen Weinstraße
mit freundlichen Grüßen
Ihr
Pfaelzerwein

しかし、それにしてもアルプスの峰のようになった稜線はどうしたものか、雪でもないのでこの辺りでは珍しい風景である。
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冬至に春の息吹きを想う

2007-12-23 | 
朝一番に新鮮なパンを取りに行った。予定通りの行動で、そのために早めにベットに入ったようなものだ。月曜日はイヴで午前中だけなので、来週木曜日までの食料を調達しておかなければいけない。特に野菜類は、直前になるとまともなものは残らなくなる。

八百屋で、予算の倍もつぎ込んで様々な野菜や果物を調達した。これで、まあ暫らくは大丈夫だろう。車で向かう途中、外気温は摂氏マイナス6.5度まで下がっていたが、これほど乾燥した冷気は気持ち良い。色々と思い浮かべるのだが、これだけ快適な冷気は初めてである。樹氷もその分神秘的な軽やかさがあって美しい。このまま晴れてくれると嬉しい。

その空気のお蔭でブロートヒェンもサクサクしていて、バターをつけるだけでなにも要らない。買いたての半熟卵一個で二個も食してしまった。久しぶりに美味いブロートヒェンを食して、またして亡くなったマイスターの天候に合わせた匙加減の腕前を思い出す。こうした幸運な冬至である。

ここ暫らく目が疲れることはなかった。何故だろう。物を読む時間が少なかった訳でもないと思うのだが、むしろVIDEOなどは見る機会が多かった。戸外が霜で明るくなっていて室内も明るかったのは事実であるが。

先日、買い物ついでに町の近くのワイン地所をはじめて歩いた。ミヒャエルスカペレと呼ばれるチャペルの丘に小さなグランクリュ地所がある。嘗ては、町からゴンドラが出ていたが今はもう無い。そこに上がると細尾根でへーレンベルクと呼ばれるやはりグランクリュの地所へと繋がっている。

しかし、歩いてみて大変失望した。歩道の脇はゴミだらけで、観光客や土地の年寄りが漫ろ散歩していて、ワイン作りの清潔さとは程遠い。更に、尾根の上の石垣などに火山性の岩が露出しており、いかにも不味そうなのである。

ヘーレンベルクは決して悪いワイン地所ではないが、その程度だと改めて認識した。要は、一般的に少しの丘は土壌的にも興味深い断面をみせるのであり、日照時間の長さも有利に働く。ボルドーのメドックなどの海につき出た半島を例外とすると平地には良い葡萄は育たない。そうした平地の土壌の水捌けなどは歩いていても悲惨なものである。

しかし丘と言っても様々である。ここでも一度触れたが、墓場の下の土壌は人間の骸から湧き出る水が良いカルシウムなどを抽出すかもしれないが、最近は有害な無機物質を特に臨終の患者などは医療のために多く体にしみこませているだろうから、こうした土壌汚染は避けられないかもしれない。やはり、出来る限り水質も保全されている清潔な葡萄畑の方が良いのである。

その点から言っても、一級の地所とそれ以外の地所の差は歴然としていて、一級の地所は資本のある地主が歴代しっかりと所有権を抑え、そうでないところは小作農業者が区画を整理できずに葡萄栽培をしていることが多い。つまり、こうした規模の地所では水質土壌の汚染はどうしても進み易いのである。これは、農業経済的な現実でもある。幸い、ここプファルツはモーゼルのように人跡未踏の危険な斜面にアクロバット宜しく葡萄を栽培する不都合はないので、その経済格差は栽培される葡萄の好悪としてのワインの品質の差としてのみ表れる。

そのような現実から、同じワインの地所を散歩するにしても、第一級のグランクリュの地所とそれ以外の地所を比べると快適さは格段に異なる。これが現実なのである。

ルッパーツベルクの地所を散策した。ホーヘブルクと呼ばれる台地から、南へ向かって行くとガイスビュールと呼ばれるブルックリン・ヴォルフの独占地所がある。そのワインは、超一級ではないがルッパーツベルクを代表する質の良い奥行きのあるワインであることには違いない。そこを、より丘上のホーヘブルクから歩いていく。日陰は霜で真っ白である。夏も台地を風が抜けそうである。

その端の南側がリンツェンブッシュと呼ばれる地所となっている。ここでも注目した土壌で、そのワインはおかしな味がする。クリストマン醸造所のために作業中の爺さんに声をかけた。枝払いをしているところで、一本もしくは二本だけ残しておくと来年はそこからまた力強く芽が吹き出てくるのである。
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語学学習の原点に戻る

2007-12-22 | 生活
この写真をみて懐かしいと思う人が居る筈だ。マンハイムのゲーテ・インスティテュートのロビーである。フランスのアリアンス・フランセーズに当たる、外国人がドイツでなにかをしようと思えば強制的に行かされる連邦共和国外務省管轄の語学学校である。英国のブリティッシュ・カウンシルにもあたる。

私をここへ追い遣ったのは友人の会席で知り合ったおばさんである。彼女が教育者だったか、どうかは覚えていないが、知的階層の女性であったのは間違いない。そのようなことで強制的送り込まれた。当の学校は移転やら何やらで、その後も改装されて元の位置に戻ったとかいたと聞いていたが、殆ど当時と変わっていなかった。本年も催し物などあったがなかなか行けず、偶々近くへ寄った折に覗いて来た。そう言えば当時の教師が校長になっていることを忘れていた。声をかけてみても良かった。まあ、当時の馬鹿振りを改めて確認してもらうようでもあるが。

当時時間があったことも幸いして、我武者羅にドイツ語学習に熱中して短期間にドイツ語をマスターしたと言いたいが、それは真っ赤な偽りである。流石にトラウマにこそなっていないが、情けない想い出に満ち溢れるのみである。まだ当時は、昼からビールを飲むことが健全なドイツ生活の第一歩と考えており、昼飯時には飲んでいたのであった。そうすると宿題を抱えてワイン街道に車で帰宅する頃には、充分に出来上がっているのである。さもなければ帰りにワイン酒場で昼飯を平らげるのである。蔵出のワインを忘れてはいない。

そして気持ち良く昼寝が出来れば、夕方に起きてお勉強が出来る。しかし、直にまたお夕飯ですとなると、フーテンの寅さんのような生活となる。もちろん近くのスーパーで買いつけた安物のワインなどを飲むのである。

一杯飲むと、居睡りした後の喉の渇きが失せ、清涼感と共に杯が進む。これがいけない。一杯が二杯となり、二杯が三杯となる頃には、宿題は明くる日の朝早くにしようとなる。そして、また居眠りをすると、外は真っ暗で、朝かと思うとまだ夜半である。朝起きをしなければならないので、寝酒をまた一杯。

朝は、すっきりしない。ぐずぐずしている内に通学時刻となる。渋滞で遅刻をすると、あれよあれよと言う内に終えていない宿題をあてられて言い淀む。そのような日々を過ごしていては少しも上達しない。

講義に出ていればなんとか語学力が付くと思っていたのが甘かった。多くの同僚は、良く考えればなかなか優秀な人材が多く、皆さんは世界中で活躍している。そうした人材は、こうした勉強態度ではなかったのである。

今こうして当時のことを考えて反省ひとしきりであるが、もう一度その時へ時を戻すとしても、あまり私の勉強態度は変わりようがないことに気が付くのである。情けないかな、虎屋の森川信演ずるおいちゃんではないが、「馬鹿だねー、馬鹿は死ななきゃ治らないとはよく言ったもんだねー」となるのである。

しかし、それはそれなりに色々と考えることもあって、当時「ヒアリングが出来るようになって来ているので、いずれなんとかなるだろう」と励ましてくれた教師など、またあの時にもっと我武者羅に何を勉強していたら、語学力で差異があっただろうかなどと。

語学学習の二つの方法を吟味することが出来る。一つは、もし母国語が一つしかないとすれば、それに拘りそこから外国語を翻訳していく方法と、もう一つは出来る限り母国語の言語に影響されない外国語を身に付けていく方法である。前者は、旅行外国語や初心者から中級者にかけてはその確実性で、自己の知識などを移植しやすい利点が多く、表面上の進歩も早い。また後者は、中級から上級にかけてはこの方法でなければ文章を読むことも出来ないのみならず、速読などに必要な語学力養成には不可欠である。反対にこれは、年嵩を経た学習者には習得がほとんど不可能であり、出来る限り子供の方が良い。これをして、マルチリンガルと呼ぶに相応しい。また、前者の方法では、あるレヴェル以上の語学力の養成は不可能であり、如何に豊富な語彙から言葉を繋げてもその言語の言葉とはならない。一般的に日本人の英語力と呼ばれるものである。

すると、当時から後者の方法を採用して来たつもりであるが、反面日本語の思考に自信がなくなることも多い。最近、川端康成の「雪国」を原語で読んでみようと思い、ここ二月程枕元においても二頁も進まない。いつも停車駅の情景で詰まってしまい、列車はいつまでも発車しない。内容を読み取れない。あれほど読み易かった三島の文がとても面倒になった。慣れの問題かもしれないが。日本語活字の表面上の見難さは、致しかたがないとして、こうして自分の書く駄文を読むよりもアルファベットの方が頭に入り易く、完全に逆転してしまったのは比較的最近のことである。

これが何を意味するかは、現時点では不明であるが、この機会にドイツ語のみならず、ドイツ語との切り替えが今ひとつ落ち着かない英語や、見聞きだけでは一向に明らかな語彙不足から学習効果の上がらないフランス語のものなどの読書量を増やしてみたいと思っている。読みものは充分手元にある。外は一日中霧氷の霧である。夜は長い。

さて結論はこうである。当時もっと我武者羅に勉強しておくべきだった事は、精々発音の基本ぐらいで、あとは一にも二にも文法でしかない。三四がなくて五に文法である。語彙は、当時の勉強ぐらいは知れていて、その吸収量からするとどうせあまり役に立たない。
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形而上の音を奏でる文化

2007-12-21 | マスメディア批評
ベーゼンドルファーのヤマハによる買収問題が紙面を賑せてから暫らく経つ。新聞を読んでもその事情は良く判らないが、その文化的な意味をどう見るかで二つの別個の記事が並列されて補いながらこの事象を間接的に語るように紙面が使われている。

ベーゼンドルファーの歴史などは各々が調べるとしても、創業以来五万フリューゲルの生産規模は大きくはない。フランツ・リストやブゾーニなどの名前と深く結びついているヴィーンの会社である。

その楽器は、コンサートホールや音楽学校などでも見掛けることがあり、またこのピアノの音色を謳い文句としている録音なども数多い。現在の名ピアニストにおいてもアンドラーシュ・シフやクリスチィアン・ジメルマンなどは、こうした楽器をも尊重する。つまり、スタインウェー帝国においてのこうした欧州の「古楽器」の位置付けがここでは扱われる。

しかしドイツにおいては、やはり度重なる敗戦*とナチ化**と非ナチ化の洗礼を受けたベッヒシュタインこそがフリューゲルそのものなのである。フランツ・リストからゴドヴスキーを経由してラフマニノフに引き継がれ、バックハウスからケンプへともしくはアルテューロ・ベネデティー・ミケランジェロが弾くピアノであり、ドビュシーに「ベッヒシュタインのために、ピアノ音楽は創作されるべき」と言わせた楽器である。そこで使われている天然素材の配合や手心のノウハウに対してのスタインウェーの世界制覇が話題となる。

ドイツ出身のニューヨーカーの会社、スタインウェーアンドソンズの採った戦略はリチャード・K・リーバーマンの書に詳しいらしい。その音楽マネージメントを複合した戦略を読むと、アルマ・マーラーの記した作曲家の保養地の仕事場にピアノを売り込みにやってくる姿やそれらを加味したマンの「ファウストュス博士」におけるユダヤ人音楽マネージャーの示す「文化的な意味合い」を、そこに見る事が出来る。これは、この記事が語るピアノの「形而上の文化的意味」そのものなのである。

しかし、もう一つの記事は、その極東からの安物の商品が、それもヤマハなるシリンダーの金きり音が個性もなく発せられる硬い音が、この吸収劇で誰が叩こうがそのフェルトと木の頭で柔らかくだらしなく響くベーセンドルファーのようになろうが、そのままであろうがどちらでも構わないのだと吐き捨てる。

そして、シュタインウェーが奏でる、ルービンシュタインのショパンのホ短調協奏曲を挙げ、もしくはブレンデルのシューベルトのD959ソナタを挙げて、そこにこそ形而上の世界があり、これは王者の姿でしかなく民主主義などへそくらいだと訴える。

この記事の背景を示すかのように、また新たな記事が掲載された。それは、ブッパータールのイバッハが中国からの安物攻勢にまけて店仕舞いするニュースである。つまり、ここにも典型的なシュタインウェー社においても進んだ大衆化つまりジョン・レノンが愛用したZシリーズなどへの移行から、今や中国の下請けや生産無しには成り立たない市場の変化が近代経済の変遷として示される。

それならば、ヤマハにおけるようなヴィーナーフィルハーモニカーの楽器をレプリカするような技術までを含めて、工業製品の歴史としてピアノのミトスを考えていくべきなのではないか?さもなければ、ヤマハなどの緻密な科学技術文化を批判出来ない。中国人ピアニスト、ランランの後ろ手で「トムとジェリー」を弾くのを批判するのは容易だが、ヴィーナーフィルハーモニカーの現在の否定はそれほど容易ではない。それが矛盾であり問題なのである。

そもそもアルフレード・ブレンデルの芸術そのものが、こうした大衆化した大ホールでのスタインウェーの大問題に真剣に対峙したものなのである。そして、スヴェトラフ・リヒテルがヤマハを愛用したこと自体が同じようにミトスとなっているのを忘れてはいけない。

鼻に皺を寄せたドイツ人を、唯一無二のナショナリズムと語ったのは、マンの創作に登場するユダヤ人である。そして、ユダヤ人はコスモポリタンであるから、両民族が協力することで世界が開けると誘惑する。ピアノと言う近代社会とその精神を映し出す工業製品を考えることが決して無駄ではないと思えば、今回のヤマハによる買収行為の一連の関連記事は全く十分ではない。

文化欄を書く者は、形而下と呼ばれる技術的なことも充分に勉強しておくべきで、それをもってはじめて形而上の立場からこれを語る資格がある。現場の人間に、形而上の思考が判るように示さなければいけない。

あるフランクフルトの調律師が、その楽器の事とそれを弾くピアニストのことを語った。ピアニストとその楽器の録音のロマンティックなレパートリーからすれば、これまた活きた形而上の思索などは彼らには存在しないのは、火を見るより明らかなのである。

そうしたところに、トーマス・マンの自己批評が向っていて、それは今でも何ひとつ変わらない。資源も人材もない未だに大工業輸出国ドイツ連邦共和国が生き残るには文化と智恵しかない。だから、文化欄は何は差し置いても重要なはずなのだ。

*第一次世界大戦を受けてベヒシュタインホールは、英国で最も重要な室内楽ホール「ウイグモアーホール」と改名されて今日に至る。
**カール・ベヒシュタインの孫娘は、ゲーリングとヒットラーと親密な関係を結び第三帝国の楽器となる。



参照:
Mal. Bechstein, mal!, Eleonore Büning
Sing, Steinway, sing!, Gerhard Stadelmaier
FAZ vom 13.12.2007
Kann der Ibach kein Ibach bleiben, muss er untergehen,
Von Johannes Schmitz, FAZ vom 18.12.2007
ヤマハがベーゼンドルファーを買収?(弁護士 Barl-Karth)
河島みどり『リヒテルと私』(日々雑録 または 魔法の竪琴)
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躁状態での酸状態吟味

2007-12-20 | 試飲百景
陽射しは強くも、風があって寒い。氷点下に至っていないと五度ほど温度が高いので、随分と暖かく感じる。しかし、微風が吹く限り裸にはなれない。

ギメルディンゲンのカペーレンベルクと呼ばれる小高く盛り上がった丘の下に車を停める。そこから、高度差八メートルほど登り、太い稜線を更に高度差三メートルほど登っていく。

反対側に降りていくとそこはマンデルガルテンと呼ばれる地所で、グランクリュの地所ともなっている。1456年以来台帳に載っているメーアシュピネと呼ばれる地所である。丘の斜面と平地のような二箇所があるが、有名な醸造所二件のクリストマンとカトワールは、現在この平野部に横に並んでリースリングを栽培している。

そこから再び小さな丘を越えて車へと戻っていくと、既に四十分ほど過ぎていた。そこから町中へと車を走らせ、いつもの場所に車を停めて呼び鈴を押す。姿を見られていたのが応答もなくドアが開かれる。

先代の奥さんはいつもの調子で躁状態である。最新リストを貰ったからと言うと、「まだ充分にないからね」と答える。「売るものはあるでしょ」と念を押すと、旦那が出てくる。そこで、「グーツヴァインとリッターヴァインもないの?」と訝ると「それはある」と先代。「ここに12月からと書いてありますよ」と正すと、もぞもぞとされる。

それでも、楽しみにしていた当てが外れなかったので、ほっとして試飲をはじめると、リッターヴァインは今ひとつ埃臭い。瓶を見ると半分ぐらい空いているので、時間が経っているようだ。その分、酸味も和らいでいるのだが、競争相手の物とは魅力が薄い。

そこで、「手済みで自己栽培の葡萄で作っていると書いてあるが」と尋ねると「そうそう、全部家の」と言ったかと思うと、「いやフォルストの仲間のとこと、ギメルディンゲンの両方だが、栽培方法も摘み取りも家の方で」とあやふやになる。

「バイオで栽培して、それで手摘みでしょ」とこちらが勝手に決めつけて、「シュティフトに似ているけど、そうでしょ?」ととことん絞る。「まあ、、、、違うけど」。しかし、フォルストにはそこから外れたものは殆どないはずなのだ。

さて、グーツヴァインの方は新たに栓が抜かれた。流石に素晴らしい香りがする。初めから「あまり早く出したくないんだよね」と弁解していたように若干酵母臭がある。それでも今年の三週間の早熟は、こうした年内の楽しみに繋がった。ライタープファードの斜面の間下で、リンツェンブッシュのとなりの地所の葡萄らしい。道理で、ライタープファードのような青林檎系とパイナップル系が混ざっている。それにしても、昨年のものとは大分異なり、繊細である。

「2007年度産は、既に他所の醸造所バッサーマンやブールで試しましたが、酸が良いですね」と、それに口ごもる様子を見て「違いますか?」と追い打ちを掛ける。

「丸みがある」と自己評価するので「酸の種類が違いますよね、良い年ですよね」と言うと、「非常に良い年だ」と答える。

昨年もリッターヴァインは販売されていたのだが、春には売り切れていて知らなかった。「ほらさ、なにもいつも高級なヴァインばかり飲む必要はないから。ザウマーゲンなんかにはこれでプファルツはいいんじゃないの」と言うから、ザウマーゲンの高品質には反論せずに「まあ、これを家で飲んで翌日などの変化を見てスタンダードにするかどうか決めますよ」、そして、「今年は廉くて美味いワインの競争が激しいからね」と価格カルテルに一矢を放っておいた。

どちらも素晴らしいワインである。例年は酸が厳しくマニアにしか受け入れられないこの醸造所のリースリングであるが、2007年産はその酸の質が異なる。林檎酸の比率が異なるのである。

いつものように、ワインを取りに倉庫に行くと、これまた新鮮な顔が迎えてくれて、小春日和の夕刻を迎えるのである。
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YOUTUBEで品定めをする

2007-12-19 | 
日曜日はなぜかYOUTUBEを一日中見てしまった。映像の力も見直すことが出来た。また映像の無力も再確認出来た。

俗に言う音楽VIDEOそれもピアノのものなどを探すとダイジェストでなくソナタ全曲がそのままアップされているのである。TV制作品なら元々公共のものであり仕方ないと思うが、制作作品で市場に出ている物がこうして提供されるのを見ると、ああした制作品がいかにYOUTUBEから料金を徴収してもなかなか採算が取れない状況が窺える。

例えばピアノソロの映像などは必要な者にとってはこうしてVIDEOで見てしまえば用が足りて、それ以上に購入する必要もない。また、音楽愛好家にとっては結局映像は音楽鑑賞には殆ど役立たず音声だけで用足りるので、こうした映像は一度見れば充分で二度と見ないだろう。

しかし、オリヴィエー・メシアンの「アシズの聖フランソワ」初演のカットは素晴らしい。CDは、当時から所持していたのだがその演出が一部とはいえこうしてみらるのは貴重である。映像の存在は予想していたが、それを見たのは初めてである。その音質も映像も決してよくないが大変有意義なもので、当時TVで放送されたものなのだろう。

二幕の大詰めの第六景は、この作曲家のお得意である鳥との対話のシーンでその最後は、会話の出来る聖人の祝福を受けたひっきりなしの鳥の四組に別れたざわめきの合唱と東西南北に飛び去る場面である。

十字架が白く浮かび上がる演出は、ピーター・セラーズ演出、ケント・ナガノ指揮によるザルツブルク二度目の公演とは全く異なったものであり、初演の様子を圧倒的に伝えている。小沢さんの指揮振りも、まさに天与のものとして、このVIDEOとして永遠に記録されるだろう。

それからするとここでも触れたが、オークションでただ二つだけ手に入れることが出来たシェロー演出ブーレーズ指揮の「ニーベルンゲンの指輪」四部作なども、殆ど繰り返して観ることはない。そして、落せなかった「神々の黄昏」をネットで摘み見すると、充分に用は足りて急いで購入する必要がなくなる。当時ラジオ等で批判を聞いていた面や故ギネス・ジョーンズ女史の終景などを見ると購入意欲が薄らいでしまうのだ。
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ゴーストバスター請負

2007-12-18 | 文化一般
美術館などに行くとどうしても新聞を読む時間がない。それでも、取りおいた頁には出来るだけ早めに目を通しておこうと努力する。

10日付けの新聞には、スカラ座でカルロス・クライバー指揮以後初めての新演出「トリスタン」初日の批評が載っていたが、シェロー演出バレンボイム指揮のそれよりも、同じ日に一面となっていたシュトックハウゼンの話題をここで扱った。四千オイロもするチケットに数人の大統領(緑の党のヨシュカ・フィッシャー元外相*を含む)を集めて、毛皮反対者などが玄関前に居並び、共産主義的な演出で上演されたようだ。

むしろそれより目を引いたのは、クリストフ・シュリンゲンジフの南米での活動である。サンパウロとブエノスアイレスをまたにかけて活動していたいようだ。

具体的なアニマトグラフと呼ばれるものは、本人のHPでの北方伝説を扱ったものやパルシファルのバイロイトでの演出で測る以外にはないが、いつものプロジェクターを使ったものなのだろう。何れにせよ、下町の交通の波のなかにゴーストバスターをと狙っていたようだから、その廻り舞台から幾らか想像出来る。

しかしそれに飽きたらず、ブエノスアイレスの工事中のコロン劇場を下見に行ったらしい。カルーソーやクライバー、シュトラウスやニルソン、カラスらの亡霊を払うためにそこでもゴーストバスターを目論んでいるようだ。そこの亡霊は甚だ性質が悪いに違いない。

こうしてゲーテインスティテュートの後援を受けて、世界のゴーストバスターを請け負っているが、東京に派遣されることはないだろう。そこの亡霊は、金で立ち退きも受け入れ、そもそも第二国立劇場は吹き飛ばされないように、初めから耐震構造で防火装置が完備している。



参照:
VIDEO-
サンパウロの「幽霊船」の演出風景。ひざまずき立ち上がるカメラワークが面白い。会場のインタヴューの緑のライティングは監督本人の演出指示とか。

ドイツで行動中にばあさんに瓶で殴られるゴーストバスター。

記事-
Fliegender Holländer im Berufsverkehr, Josef Oehrlein,
FAZ vom 14.12.07
Kennst du das Haus, wo die Juwelen blüh’n?, Julia Spinola,
FAZ vom 10.12.07
伝統という古着と素材の肌触り [ 文化一般 ] / 2004-12-03
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
不可逆な一度限りの決断 [ 女 ] / 2006-01-25
*更に振り返って見ると [ 歴史・時事 ] / 2005-10-09
豊かな闇に羽ばたく想像 [ 文化一般 ] / 2006-08-20
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