デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ルーヴル鑑賞において、プッサンの作品に負けないくらい、ここだけは外せないというセクションにやってきた。ジャン=バティスト・シメオン・シャルダン(1699-1779)の部屋だ。
シャルダンは、これまでに何度か書いているプルーストの『失われた時を求めて』に「登場する」のだ。作中にシャルダンの名前や作品が記されているわけではないのだが、作中に描かれる料理などの譬え、たとえば魚の内臓を大聖堂の内陣に譬えたりする豊かなプルースト十八番の隠喩は、プルーストがシャルダンの作品に対して抱いていた印象そのものなのだ。実際、プルーストは「シャルダンとレンブラント」という美術評論の中で、次のように書いている。

……シャルダンの諸作品のまえで足をとどめさせるだろう。そして彼が、かつては凡俗さと呼んでいたものを描いたこの豊かな絵に、かつては味気ないものと見なしていた生活を描いたこの味わい深い絵に、かつては安っぽいものと思いこんでいた自然を描いたこの偉大な芸術に目を奪われたとしたら、私は彼にこう言うだろう。……
 こういったものすべてが、今あなたに、見て美しいものと思われるとすれば、それはシャルダンが、それらが描いて美しいものであることを見出したからなんだよ。そして彼が、それらが描いて美しいものであることを見出したのは、それらが見て美しいものであることを見出していたからなんだな。
……あなたの頭上には、何とも奇怪な姿をした、かつてそいつがうねり泳いだ海のようにまだみずみずしい怪物が、つまりえいが一匹ぶらさがっていて、そいつを見ると、美食の欲求と、かつてそいつがそのおそるべき目撃者だった海の静けさや嵐の不思議な魅力とが融けあうんだな、そして、レストランの味のなかを、植物園の思い出のようなものを横切らせるさ。えいは開かれていて、その繊細で相愛名建築構造に感嘆することが出来る、赤い血や青い神経や白い筋肉などにいろどられていて、多色装飾の大聖堂の内陣といったところさ。
(筑摩書房『プルースト全集15』p248~252)


「赤えい」(1725-26)

吊るされたエイの内臓を大聖堂の装飾や内陣に譬えるという発想が、なかなかそう思いつかないものだと思う。そこに目をつけたプルーストもすごい。しかし、それも豊かな色彩で事物の実態すら描き出しているかのようなシャルダンの絵があってこそだ。シャルダンの絵こそ、私は究極のリアリズムだと思う。


「食前の祈り」(1740)

シャルダンは玉突き台を専門に作る家具師の長男として生まれ、社交界とは無縁な堅実な小市民社会で育った。
彼の観察眼・表現力・テクニックは作品を見て感じ取ることは出来るが、本人は仕事ぶりを誰にも見せずに秘密にしていたらしく、人々は「彼は魔法のような秘密の技法を持っている」と噂したほどだ。シャルダン自身「私は絵具を用いて仕事をするが、心で描く」と言っているとか。


「若き芸術家」(1737)

ルーヴル内のシャルダンの絵は油彩の風俗画・静物画、そしてパステル画による自画像があったが、シャルダンの作品は中の事物が動きだすんちゃうか?と思えるほど多層な質感を感じ取れるようだった。本当に空気までも伝わってきそうな。


「コマ遊びをする少年」(1738)

「赤えい」については書いたので、「食前の祈り」「若き芸術家」「コマ遊びをする少年」について一言。どれもドラマチックでもなく、まして誇張など感じられず、ひとり静かに自分の世界に無心に浸っているといったような、ようするに静かな生活の営みを描いた素晴らしい作品だった。このような過去にあったような光景は、ふと注意さえすれば、今の世でも見れそうではないか。
平凡で日常的なものが、シャルダンの造形世界にかかると、人間の真実みたいに思えてくる。これまで演劇的であったり劇的な効果を狙った作品を見てきたが、シャルダンの静寂・静謐な絵は、それらに対するアンチ・テーゼといったら言い過ぎだろうか。絵画の可能性を考える、すばらしい具体例が目の前にあった。

(以下、鮮明な画像の分です)


「赤えい」



「食前の祈り」


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