デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



Guercino(1591-1666), "Sibilla Persica (Persian Sibyl)"(1647)

古代ローマの彫刻の傑作が集められているカピトリーニ美術館のなかにカピトリーナ絵画館がある。絵画館にはカラヴァッジョの「洗礼者ヨハネ」などの有名作品があるけど、それらに加えて私の目を惹いたのはグェルチーノが描いた上の女性像であった。
Sibilla Persica (Persian Sibyl)を訳せたり知っている人ならば、タイトルはわかるのだが、ラテン語、イタリア語、英語が分からない私には「ペルシャの女性(の像)」といったタイトルの当りをつけた程度で、正確なタイトルはおろか何の作品なのか分からないまま、何度もこの作品を食い入るように見つめ続けた。美しい絵であることは間違いない、でも何の隠喩だろうか?、ルネサンス以降の「バロック期に描かれた女性が学問をする風潮が高まってきた象徴だろうか?」などと勝手に解釈を自分の中ででっち上げたりしながら、カラヴァッジョとこのグエルチーノの絵の前を往復していた。
カピトリーニ美術館に行ったあとの数日後、ヴァティカン博物館に1時間以上並んで入館した。博物館には充実した作品が本当にたくさん展示されているが、中でもシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの壁画・天井画はハイライトといっていい。いわずもがな、観光客は大量に押し寄せていたし、私もその一部となったわけだが、一応礼拝堂ゆえ静粛にしなければならないものの、あまりの観光客の多さゆえか、警備員が少ない日だったゆえか、「サイレント!(静かに!)」って注意の言葉が一切発せられないのだった。
ざわついた礼拝堂の中で事前に調べていた壁画に関する資料を読みながら、見たいと思っていた絵の場面を気忙しく探し目を鑑賞用にこさえ凝視しつつ、すごいな!と思いつつやっぱり落ち着かなかった。傍にいた日本人ツアー客の人と言葉を交わしたことがきっかけで、壁画の数枚について語りだしてまで集中しようとした。
あれを見とかなきゃ、とシステマチックに目をやった。天井画「アダム創造」「楽園追放」「デルフォイの巫女」その他、壁画「最後の審判」、ボッティチェリによる異時同図法を用いた旧約の「モーセ伝」、層々たるメンバーでもって描かれた「新約の物語」、どれもじっくり見たつもりだが、どこかざわついた印象のまま絵画館へ向かった。

帰国後、上のグエルチーノの絵の絵葉書を送った人からお礼の電話をもらった。これは何の絵ですか?と問われ、「ペルシャの女性の絵ですね」と気軽に返事して現地のことをいろいろ話したのだが、電話を終えたあと自分の中で何かが引っかかり、"Sibilla Persica"ってどういう意味だろう?思い調べてみた。この語句で検索したらなんとミケランジェロの天井画に描かれている「ペルシャのシビッラ(巫女)」がヒットした。


ミケランジェロ《ペルシャの巫女》(システィーナ礼拝堂)

そのおかげで、"Sibilla Persica"の意味が《ペルシャの巫女》の意味だったことを、より正確には《ペルシャのアポロンの神託を告げる巫女》だったことが分かったのである。
その瞬間、私の中でグエルチーノ、ミケランジェロ、そして古代ギリシャ・ローマが一気につながった。ルネサンスは宗教改革に対抗するための反宗教改革運動を推進させる狙いに加え、古代ギリシャ・ローマの古典人文学的要素を取り入れて、教皇の権威を維持、もしくはより高めようとした狙いもあった。
ミケランジェロが創世記を主題にした物語を描いている天井画の中には、聖書の預言者たちだけでなく古典人文学的要素を象徴する「デルフォイの巫女」「ペルシャの巫女」なども描かれているわけで、それに着目しただけでも大きい壁画の中にルネサンスの要素というか"姿勢"を見て取ることが十分にできるのだ。
そうか!グエルチーノの《ペルシャの巫女》は、いわばミケランジェロの時代に見直されたものを受け継いでいたのか!ひいてはルネサンスだけじゃなくバロック時代においても、ローマ帝国を意識する古代への余情はあって、巫女像を描くことも画家にとって大きなテーマだったんだ!といった、重要なことは帰国後に気づくのだ。現地にいくまで自分なりに勉強し、ルネサンスの概要を理屈では分かっていたことと、絵の読解力は別物だと改めて気づかされた。パッと絵を見ただけでは肖像画を意識した「美しい絵」にしか見えず、なぜ彼女がターバンをしてあのような服装でいるのか、書物を横に置いてるのか、ルネサンスの頃の人がイメージした「ペルシャの人の像」の典型とまでは言わないが少なくともミケランジェロの《ペルシャの巫女》との共通点はすぐに見出せたはずなのに、こういったことは思いの他、現地で気づくことができないのである。おそらく、Sibilla Persica (Persian Sibyl)を現地に辞書を持ち込んで訳してたところで、気づかなかったに違いない。(まぁ出国前にミケランジェロ作品の原題もチェックしておけよ、なんて意見もあるだろうが、それを言われたら甘んじて受け入れる)
このようなことがあったあと、見苦しいようだが、自分で撮ったグエルチーノとミケランジェロの《ペルシャの巫女》を見比べて、「私はあの時ミケランジェロの《ペルシャの巫女》も凝視していた」ことを必至に確認した。でも、やっぱり「見る目がある者は見よ」であり、見て美しいと感じたものも意味とその理解が伴っていないと、帰国後に改めて得た作品の印象はどこか苦いものが混じるような気がしている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )