デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



余華の体験的中国論と社会批評である2冊、『ほんとうの中国の話をしよう』(河出文庫)、『中国では書けない中国の話』(河出書房新社)を読了。2冊とも数ヶ月前には読み終えていたが、感想を書こうと思うまで時間が掛かった。
余華の作品は『兄弟(BROTHERS)』が印象深く、バルザック以上にグロテスクで随分血なまぐさい容赦の無い描写が多いなと思ったものだが、今回の2冊を読んで『兄弟(BROTHERS)』が文革時代の中国を身を持って体験していないと書けない作品であるのは当然だなと思うと同時に、旅行者頭の私には内容的にかなり読んでいてきつく深刻なものだった。それでいて本に出てくる人たちに不思議と同情を覚えさせ、ページを繰るごとにユーモラスな苦笑いが起こってくるものでもあった。
とくに文化大革命が起こった当時は倒すべき階級が存在しなかったのに文革を起こしてしまった悲劇があったが、改革解放後こそ文革が必要な事態に陥っているという指摘には、かなしいかな鋭いものがあった。また著者にとって文革は、若かりし頃に文革の名分を嵩(かさ)にきて盲目的に行動し時に立場の弱い人に対し暴力でもって制裁を加え悦に入っていた時代でもあったわけだが、当時の自分の行動を思い起こすと心の痛みとなって著者を襲っているという告白は、まさに著者の痛みは中国の痛みであることを示すものだろう。
個人的には『ほんとうの中国の話をしよう』の「魯迅」の章が最も印象に残った。私は世界から高く評価されている国民的作家の作品は自国民にとっては学校で習わされる単なる先人の権威の押し付けな解釈の内容しか覚え込まされないもので、ひょっとすると少なくない人が生涯「単なる先人の権威の強要の印象」を抱いたまま倦厭したままで終わり、自身による再評価はおろか再読も試みないのではないかと思っているが、どの国でも同じようなものであることが多いのかもしれない。ただ余華の場合、魯迅作品のすごさに衝撃をうけたり、魯迅作品が中国人の著者にとってどういったものだったのか考えさせられたりしたのが歳を重ねてからであったという。単に再読や再鑑賞に耐ええるものこそ傑作というだけには収まりきらないこういった体験談を読み、私は自分も自国で醸し出されたものに対してじっくり向き合っていないことが多いことを意味するようにも思った。

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