デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



カズオ・イシグロ(土屋政雄 訳) 『わたしを離さないで』 (ハヤカワepi文庫)、読了。

作者自身の経歴が作品に反映されていない、いや、作者が作品に自身の経歴を反映させていない作品というのは私にとっては性質が悪いなぁと思うことがある。「この作家ならこのパターンだな、経歴から察せられる名言は作品内のみならず後世に名言集に収録される形で残り続けるな」といった作家の個性を見つけ、それを引用して所感を述べれば記事は手堅くも大した内容にはならないとはいえブログの記事の一丁上がりというお手軽さを享受できないからである。
そういった読み方の間違いが少ないであろうと安心できる既定のパターンを木っ端微塵に打ち砕く作品が、作者が作品に自身の経歴を反映させていない作品である。今の私にとってはカズオ・イシグロ作品がそれで、作品の中の穿った言葉や金言や定石めいたアフォリズムも作品を構成するための一要素にすぎなく、否応にも作品そのものと向き合わざるを得なくなり、大概自分の読みの能力が進歩していないことや読みの自信の無さを自覚させられるのだ。同時に、小説は言葉や文の芸術だから文芸作品というのだろうけど、作者の文芸職人としての器用さを見せつけられることである種のフラストレーションも溜まってしまうというかなんというか...(笑)。
作品に描かれるエピソードは、みずみずしいまでの自己顕示欲やプライド、よかれと思ってやったことが結果的に周囲に誤解を与えてしまった体験、やましくも打算的行動ともくろみが上手く行き過ぎて良心の咎めを覚えた体験、抑えがたい性的な衝動、保身に走ってしまいたいがための苦しい弁解やとりつくろう思考やしぐさ、はじめて外の世界と対峙して得られる戸惑い、残酷なまでの覆水盆に返らずな別れの際の告白など、決して特別なものではなく、ありきたりなものだ。
決して特別な存在ではない普通の人々の営みをいとおしくかけがえの無いものという意味で読者に登場人物たちが唯一無二なものであり、個々人の思い出をその他大勢なチープなものとシニカルに捨て置けない気持ちにさせる効果を実感できたことに素直に驚けた。
それは最後の急転直下な展開でなおさら際立ったように思う。作者に問題提起の意図の有無はともかくとして、作品自体がいろいろな問題を提起してしまう凄みに充ちている。
また今回は作品と真っ向から向き合うというよりは、作家が文学賞を受賞したことで再放送された特集をじっくり視聴して予め刷り込まれたあらすじや結末のみならずいろいろな人の作品感想も見聞きした上での読書だった。しかしそういった先入観も今回の読書には邪魔にならなかった。

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