デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



一昨日の午後、ギターを練習していたら5・6人の5歳児か6歳児の子供に、周りを囲まれた。私の目の前に立ちはだかって、おもしろい表情をしたりして、私の演奏を邪魔しようとして、けたけた笑っていた。
10メートル後方ぐらいに、大人の女性二人(子供達の母親であろう)が、私のいる方に向かって、「邪魔をしたらダメ」と子供らを注意をしていた。
でも子供達は私の周りから離れる兆候すらない。私はこれもある意味練習というわけで「上の空」を決め込み練習し続けた。
静かな曲を練習していると、母親達の大きい声での会話も聞えた。その内容というのが「あそこのスイミングスクールはどうのこうの」とか、親であれば子供のため、ということで大いに関心のある教育の最重要な話題なのかもしれない。
でも、スイミングスクールに対する真剣な井戸端会議より前に、子供達に教える重要なことがあるだろう? 自分たちの子供らの傍若無人さを見よ!
それでも再び飛んだ「邪魔したらダメ」の声は、子供らに聞えていなかった。そりゃそうだ、親はスイミングスクールの話題のほうに真剣だったから。自分たちに向かって真剣に投げかけられてない注意の言葉なんて、子供らの耳に届くはずも無い。
子供らが私から離れていったのは、スイミングスクールの話題がひと段落してからだった。
あんな親にはなりたくないねぇ。

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歴史の資料が数多く残っているゆえか、ユリウス・カエサルの話となると、分厚い単行本二冊の分量になる。
彼を中心的に取り上げた『ローマ人の物語』の第4巻・第5巻は非常におもしろく読めた。次の日、眠気が襲ってつらくなると分かっていたのに、寝る間を惜しんで読みふけったのは久しぶりだった。
もし、多くの人に偉大なリーダーであり政治家といえば誰?と問えば、カエサルの名を挙げる人も少なくないだろう。またローマのあるイタリアの教育では、カエサルのことを必ず学ぶのは当然かもしれない。
カエサルという人は何においてもスケールが大きかったんだなと感じた。塩野氏の作家という立場から、カエサルが女性にもてた理由を考察した箇所もおもしろかったが、私はカエサルが金の使い方を知っていたという点に興味を覚えた。カエサルは莫大な借金もしたし、またガリア戦役以降は儲けもしたが、自身の私財を貯めこむことには無関心だった。自分の野心が満たされることがすなわち公共の利益につながるように、惜しみなく私財をつぎ込む(いわば莫大な寄付)のは、なかなかできない真の一流のお金の使い方だと思う。現代でも、多額の寄付やその他で価値あるものを世間に還元した人は、権威を得るだけでなく尊敬もされる。(尤も還元した対象の広さによっても評価は変わってくるが)
歴史に「もし」はないと、塩野氏も本の中で繰り返しているが、カエサルを暗殺して結果的に得したのは誰?とか、カエサルが生きていたら?、などと、正直思った。カエサル暗殺について、私が思ったのは権威や権力を持っているだけでなく、自らが積極的に動いて大きな仕事を成す人というのは、周囲が抱いている嫉妬や羨望に疎い面があるということだ。カエサルの天才ゆえの欠点は、そこかもしれない。それに人は人から許してもらうよりも、悪態をつかれたりするほうが、まだ気持ちの整理がつきやすいことがある。いろいろ意見はあろうが、なんとかの三分の理というやつをブルータスやカシウスに対して想像してみるのも、あながち無駄ではないと思う。殺害には至っていないものの、現代でも部分的であれカエサルのような能力を発揮するような人が、一線から葬り去られるようなことは少なくないのだから。
カエサル亡きあとの内乱の話、つまりアントニウスとクレオパトラ、そしてオクタヴィアヌス(のちのアウグストゥス)をめぐる歴史は、後世のシェイクスピアをはじめとする多くの芸術家たちの作品、演劇やオペラ、映画・ドラマもあるので、親しみやすかった。しかし、演劇も映画もやっぱり描かれ方に「特徴」や「個性」がある、ということを改めて認識した。それに史実だけを見ると、アントニウスは単純に、、、いかんやろ!?

ところで、いつも世話になっている楽器屋で、この第4巻と第5巻の内容から、ヘンデルのオペラに『ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)』という作品があり、そのなかのアリア"Piangero la sorte mia"という曲をおすすめいただいた。聴いてみると、たしかに哀しく美しい旋律だった。すばらしい曲を教えていただき、感謝!

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ふりむく。


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ミレー「羊飼いの少女」(1862-64)

この作品も日本に来たことがある。
日本放送出版協会『オルセー美術館1』の解説を引用すると、「美術愛好家ポール・テッスによる注文作。羊飼いの少女という主題はミレーがすでに何度も描いていたものであり、この作品は綿密な完成度を見せている。1864年のサロンに出品されて大好評を博したが、有力な批評家ポール・マンツは「この静謐な風景、優しくばら色で、詩と光に満ち満ちた空」について語っている。シャイイの広大な平原を舞台に羊の群れを背にして編み物をしながら立つ少女は愛らしく、全体の構図も巧みにまとめられている。」とのことだ。
作品は農村に抱く理想の典型の一つとして、この作品が農民画家にしばらくのあいだ影響を与え続けたそうである。解説をなかで大好評を博したとあるが、私はこれまでのミレーの描いてきた農村の風景に批判的だった人々が、時代の変化で作品に好意的評価あたえるように考え方を変えてきたのではないか、と思っている。
こういった逆光でとらえられる風景を、派手な彩色を使うことなく抑えた色使いで表現しているところは、画家の力量を感じさせる。抑えた色調なのに細かい表現ができる、というのはミレーの画家として円熟期を示すものではとも思う。
それに作品自体も心を打つなにかがあると思う。以前にも同じようなことを書いたが、私の感覚では、旅行時に写真に撮れたら非常に幸運だ!と思うような光景だ。とはいえ、実際にそういった光景に出くわしても、羊たちがワサワサうごめいて、羊飼いも編み物どころではないだろうなぁ(笑)。

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火床にて

一昨日、友人とともに、ひさしぶりの大文字山に登ってきた。先週の春の前の嵐ゆえか、登山道はぬかるんでいて、ちょっと油断するとズルっとこけてしまいそうだったが、なんとか火床までたどりつけた。午後に登ったらいつもいる東山の山道に詳しいおじさんも、いつもどおりいた(笑)

下山したとき、向かいから来る観光客のグループが振り返りながら止まっているタクシーの方を指差して、なにやら騒いでいた。


そのタクシーとはこちら

私には分からなかったが、友人は彼らが騒いだわけを知っていた。これは珍しい四つ葉のタクシーなのだ(笑)。京都通の観光客のなかには、このタクシーが見つかれば幸運といった、いわば観光の一つの楽しみにしている人もいるのだそうだ。
それを聞いた私も、せっかくだからというわけで、カメラに収めてしまった。タクシー会社もいろいろ考えるなぁと、ちょっと感心した瞬間だった。

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