デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 











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「大」の字の裾野から走り登る部員もいた

先日、地元の高校の野球部の部員がコーチとともにトレーニングのために登ってきていた。


水筒もきちんと携行しているようだ



絵になるなぁ(笑)

青春ドラマのような雄叫びはなかったが、彼らは火床での筋力トレーニングをしたり、他の登山者に「甲子園行きます!」と熱意を込めて大きな声で返事するなどし、年配の登山者も彼らの若さにつられて登山を活気付けたようだった。

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先月末このニュースは前代未聞の年齢詐称疑惑の見出しでもって報道された。
このニュースを見て、私個人は楽器を触る者として周囲から年齢の逆サバを読まれるようなこと、つまり自分と同じ世代の曲より数十年前の曲を好んで弾いていたことがあったゆえの「逆サバ」経験があったことを思い出したものだ。
しかしミナーラ選手のつぶやきは年齢以上のものがあるといい意味で思わせてくれるなぁ(笑)。

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ヴェネツィアにて

昨日の画像の手前の人に断って船端に寄り、サン・マルコ寺院の鐘楼とドゥカーレ宮殿を望んだのが上の画像。水上バスがこのあたりに来るとどうしても鐘楼を入れたショットを撮りたくなったものだ。
上の画像の右中央やや下部分を拡大してみると



こんな風である。
こちらのターナーの絵の場所とは当然角度も違うし、画像のほうの嘆きの橋の左右にあるドゥカーレ宮殿と牢獄は部分的に修復工事の書割に取って代わられてしまっているし、嘆きの橋自体も写っていないが、でもなんとなくターナーが描かんとしたものは分かるように思うのだ(笑)。
もちろんこの旅行時に嘆きの橋を見ることはできた。しかし仕方が無いとはいえ、橋の両側に据え付けられていた書割のせいでちょっと変テコなものに見えてしまったことは事実であった。

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ヴェネツィアにて

昨日、ファイルを整理してたらターナーのこちらの絵の画像に目が行った。
そこでかつてヴェネツィアで撮った画像で、同じような場所から撮ったものは無いかと探してみた。当時はターナーの絵の存在を知らなかったわけだし、意図的に同じような場所から撮ろうとするわけがないのだが、近い場所からヴェネツィアの海上でヴァポレット(水上バス)に揺られ風を感じながら撮った分があった。
ヴァポレットのエンジン音や水を切る音はけっこう大きく騒がしいのだが、夏や秋に船上で感じる風はとてもさわやかで気持ちよく、外国旅行してる!という気持ちにさせてくれる。

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カメラにワイドモードというのがあったので、どれほどのものか試してみた。


レンズを向ける角度を変えるだけでこんなに
違うのはワイドモードに限らないが(笑)















普通のショットで写る画像の上下をカット
しただけのモードのように思えてきた(笑)






通常モードに戻すのを忘れただけなのだが
これはこれで影の長さとか強調できるかも?


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加地伸行 著『沈黙の宗教―儒教』(ちくまライブラリー99)読了。
 
日本人が人生のあらゆる場面で、とくに社会でのマナーの教養が必要な場面や儀式の場で、なぜだか心底から起こってくる揺るがしがたい当たり前の心情とか、問題の解決の判断の根拠にしている、動機や理屈の前にある当たり前の心の動きがどういったものに由来しているのか、深く知りたい方におすすめの本である。
この本と『儒教とは何か』を読んでみて、なんだかんだいって自分もあの世でなく「この世に死んだ人の霊魂がある」と、それも心の奥底で思っている東北アジア人で日本人なのだと気づかされた。それは以前感傷のまま書いた、こちらこちらこちらの記事をご覧いただければすぐに分かると思う。
ただ、加地氏の著書が決定打というわけではないけれども、祖母や他の親類の葬儀に出ていろいろ考えてきて、やっぱり日本の仏教は"儒仏教"なのであることをひしひしと実感する。そのせいか、私が死んだら寺や葬儀業者が関わる葬儀はお断りと改めて思った。
↑の3番目のリンクの記事に

>逝った私を偲ぶ人がいたとしたら、お盆の時期にこの護摩木になんか書いて、遺灰の一部でも混ぜてくれれば(気持ち悪かったら混ぜなくていいが(笑))、私はもうそれでいい。

と書いたが、今となっては私を思い出せる人が任意に思い出せばよいと思うし、私の遺灰は一片たりとも残さないでほしいし当然墓もいらない。
私個人は以上の結論に至ったわけであるが、それはともかくとして、加地氏の著書の東北アジア人の死の問題の説明の仕方の詳細は読む価値があるし、儒教の歴史と実際的な道徳性からみた日本に入ってきた日本人による西洋思想の履き違えについては考えさせられることは確かだ。
著者の加地氏は勇気のある人だ。人の心の琴線に触れかつ非常にデリケートな問題の奥底にある"儒教の宗教性"を、長年の研究で知り尽くしてなお日本における儒教の解釈を自らつまびらかにし、世に問うことはなかなかできないと思うのだ。たいていの人は歴史の記述に留まり、難しい言葉で説明した気になって終わるのが関の山だろう。自らの解釈を思い切って書いた加地氏に対し読者は、(第5章の時事的な内容については本が書かれた時期が1990年代ゆえ若干古い印象を受けるだろうが)「君にも私の言うことが実感として分かる時が来る」と言われたい、たとえ癖があろうがこういった人に喝破してほしい喝を入れてほしいと思うかもしれない。

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太閤岩のすぐ傍。ここも人工的に切り取られた岩が。









3月には無かった道が作られている






踏み跡もしっかり。とてもありがたい。









右に行く
(左奥を登れば幻の滝および頂上へ。)






右の道を行く



お、見覚えのあるところだ(笑)






あとは火床を目指すだけ


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Song for the asking (cover)

サイモン&ガーファンクルのSong for the askingを外に出てひさびさに弾いてみた勢いのまま弾き語り。
この曲は以前にもギターのパートだけ弾いて動画にしたことがあるのだけれども、今回は歌も自然に出てきた。
きちんと鳴ってない音もあるし、ピッチの狂っている箇所もあるし、"Thinking"の発音がしっかりしてないとかいくつかミスがあるけど、細かいことは気にしない。見てくださる方の脳内変換に期待する(笑)。

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Love is all around

数ヶ月ぶりに、ギターを担いで外へ。大して弾けはしなかったのに、何ヶ月も弦楽器を触らなかったから、鳴らしてみた時はひどいリズム感となっていた。しかしなんであれ、昔覚えた歌を弾いてみるととても楽しいものだ。
曲は歌詞を覚えたこともある使用コードが少なくて弾きやすい Love is all around で、トロッグスがオリジナル、Wet Wet Wet がカバーしている名曲だ。
歌声で音を外しているところもあるし、ストロークもたどたどしいところが残るが、細かいことは気にせずに弾けていい気分転換になった。

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