デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



中国学芸叢書 小林正美 著『中国の道教』(創文社)読了。(創文社中国学芸叢書は全28巻の刊行の予定らしいが、中には『魯迅「故郷」の読書史』なんてタイトルのものまである。これもまた深そうな感じだ(笑))

我ながらなんとまぁ専門的な内容に踏み込んだ敷居の高い叢書のなかの一冊を手にしてしまったことかと思っている。
ただ、これも奈良氏の現代に生きる道教をテーマにした著書ではきちんと把握できなかった道教の教理とその歴史について知っておかないと、現代の道教のこともあいまいな理解のまま、いや誤解したままで終わる気がしたからこそである。逆に言えば、狭義の「道教」を知った上で奈良氏の現在の中国を取材した労作を読めばもっと理解を深めることができるように思った。

さて、小林氏の『中国の道教』だが、読み終えたとはいえやっぱり敷居が数段高かったし正直理解できているかとなると自信がない。しかし、著書のはしがきで述べられているとおり、道教の教理と教団とその歴史について思想史的に体系的に研究したものを概説した本として大いに手ごたえがあった。
まず注目したのは中国の儒教でもない仏教でもない「道教」という呼称が成立したのはいつ頃であるのか、また儒教や仏教と対比できる「道教」とそれに繋がっていく神仙道のいくつかの流派(神仙思想をもつ信仰集団のこと)とを一旦区別し各々の神仙道の神仙術・教法の特徴や歴史を整理して、道流(後漢から東晋までの主だった神仙道)がいかにして劉宋時代に仏教に対抗できる教団となっていったのか分かりやすく書いている点である。単に「道教って仙人になるための宗教」としか考えなかった私には更なる解説が必要だったと思うので、この点が詳しく書かれていてとてもよかった。
道教も宗教として現代まで続いている以上、それなりの歴史が、当事者にとってみれば時に苦々しいが読者にとっては興味深い出来事があったという記述を読むのも楽しかった。たとえば、道流には教義が行き過ぎて黄巾の乱を起こしたあげく活動を停止してしまった神仙道もあれば、東晋を瓦解させてしまったきっかけをつくる乱を起こしたが劉宋の初代皇帝に討伐されたことで皇帝に積極的に恭順して生き残るため教団内部の改革を行なった神仙道もある。また南北朝時代から時代はくだるが、「道教」と認められていなかった流派が金の滅亡を予期し、金の皇帝の招聘に応ぜずにいたことで、その後の元から支援を受けて大きくなっていった神仙道もあったりする。道教がその時代時代の王朝と巧くつきあうことで、つまりはその時代の波をうまく乗りこなして現代に至っていることがよく分かるのである。

ほかにも「道教」が成立するには、道流で伝えられてきた道書(道教の経典)を収集し分類する作業が欠かせず、その後、「道教」が成立してからも道蔵(道教の経典の典籍群)として編纂はつづけられるが道蔵に半ば無理やり道書を組み入れた流派があったことを説明する章や、道教の世界観と死者観が道教徒にとってどれほど切実なものなのか考えさせられる箇所など、いろいろ触れたいところはあるが、きりがないのでまたの機会にしようと思う。

つづく

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プラサート・プラテープ・ビドーン(ロイヤル・パンテオン)

ここには先王達ラーマ1世からラーマ8世の彫像が安置されているそうだが、中は見れなかった。


装飾の幾何学模様も規則正しく美しい。



プラ・モンドップ

ここは経堂で、螺鈿で装飾された厨子の中に三蔵経トリピタカが納められているそうだ。三蔵の経典を納めているときくとやっぱり仏教の国であると思う。

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ワット・アルンにもあったヤックの像がここにも



さっき私の隣で境内の図を広げていた人じゃないか(笑)



仏舎利の塔が映える



日傘?も目立つ

この場所だったように記憶しているが、中国人の若い女性三人から写真を撮ってくれるように頼まれた。撮り終えたあとの会話で器用に「お元気ですか?ありがとうございます」と日本語で返され、参りましたという感じだった。今なら、不客气と返事できるかもしれない。

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ルーシィの像の前は混雑していたので、像の後ろ側に回り境内の図を見開いてみた。↑の二人も同じ考えだったようだ。ちなみに左に写るホー・プラ・ラッチャコラマーヌソーン堂にはアユタヤ王朝の年代記が描かれているらしいが、特別な式典の日だけにしか堂は開けられないらしい。


多くの観光客が訪れている



ワット・アルンにも同じようなものがあった
ワット・アルンの分は金箔がはげていたが。


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神戸三宮で開催されている「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」を鑑賞。

エジプトの遺跡に関してはエジプト本国で見るのが一番だろうし、大英博物館やメトロポリタン美術館、ペルガモン博物館(ベルリン)ですら神殿や墓の一部を持ってくるのが精一杯(それでも瞠目する規模だ)なのだから、日本に貸し出せる展示物なんてごく一部にすぎない。
今回来ていたのは、ニューヨークのメトロポリタン美術館内ではほぼ素通りしてしまうようなものばかりだが、しかし貴重なものばかりであるのは間違いない。どうしても「有名なもの」や様式美がしっかりしているもの、大きいものに目がいきがちな私にとっては、紀元前15世紀のエジプトの女王の像やエジプトの人々が崇めていた神々の像、エジプトの人々が使用していた楽器や護符、大工道具、化粧品や化粧道具、内棺やミイラ板などを間近に見れたことは貴重な体験だったように思う。
また神々の役割の分かりやすい説明もよかった。古代エジプトもいわば多神教だけれどもその一つ一つにもいろいろな性格があって人間味を覚えさせるところがまたいいのだ。いつかエジプト神話の本を再読したいものだ。

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セキュリティー・チェックを済ませた後ですぐにお目にかかるのが、ルーシィの像と呼ばれる腰を下ろして右ひざに右腕を掛けている像である。この像はワット・プラケオの本堂の裏側に位置する。


ルーシィの像

現地では目の前の像とガイドブックに書かれている内容を照らし合わせて、理解した風に思ってじっと見つめるという作業を繰り返していたが、今になってガイドブックの内容を再確認するとルーシィというのが仙人という意味であるのに注目せざるを得ない。(現地ではふーんそうなんだ、という程度だったのだが。)
というのはこの1ヶ月ほどで道教の本を二冊読み、現在三冊目を読んでいるからで、人が多くの善行を積み修行の福果で不死の神仙(天仙)になり天上界に至れるようになることを最高の理想する道教の仙人の像が、本堂の裏側とはいえタイ王国の王室寺院の境内にある、それも多くの人が目にできる形で置かれているのはおもしろい。上座部仏教も非出家信者が徳を積む点では道教と共通するところがあるのかもしれない。
タイの仏教は上座部仏教といえど一言で説明するのは難しい。そのあたりのことについてはガイドブックの受け売りの域を出ないがまた触れたく思う。

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引用のメモが、それもどのページか分かる形でしっかり残っており、どういった表紙のデザインで全体の内容もどういったものだったかある程度思い出せるにもかかわらず、肝心のタイトルをメモし忘れている本を再度探すのに30分近くも時間をかけてしまった。
一般のキーワード検索では数万冊もの本が該当するので、以前家の近くの市立図書館でかつて借りた分を、その図書館だけに絞って検索した。しかし検索結果に出ないのである。
そんなはずは…と思ったが、どうやらしばらく借りない間に図書館側が閉架図書を扱える別の区にある市立図書館に移したようなのだ。
で、さらに検索ワードを絞り、市立図書館を全体を対象にして検索すればようやくヒットした。念のためヒットした本のタイトルを画像検索にかけて間違いないことを確認した。
元をたどれば、本のタイトルをメモしておかなかったことがいけなかったのだ。これからはせめてメモの一番上の行に本のタイトルを書いておくことにしたい。



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仏舎利塔が見える

入場券売り場ではにこやかに手を合わせて挨拶してくれる女性がいた。入場券は500バーツなので、1000バーツ札を使う。
入場券売り場の傍には売店があって、絵葉書その他が売られていた。少し見ていきたかったが後でもどうにでもなると思ったのでさっさと検札とセキュリティーチェックへ。



検札もセキュリティーチェックもすんなり。警備員たちはもちろん入場者をしっかりチェックしているんだが、礼儀正しく挨拶すればすぐにおだやかな雰囲気が感じ取れるのである。

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入口はもう少し先だった

ワット・プラケオにやってきた。間違えて出口の門から入ろうとしてしまったが、その場にいた軍のような制服を着た人に注意される前に「入口はどこですか?」話しかけた。その時「エントランス・ティーナイ」と英語とタイ語が混ざったものになってしまったが、軍服の男性はにこやかに英語で「あっちにある門を右だよ」と答えてくれた。(ちなみにタイ語の入口は「ターン・カオ」)
門から入ると、


おおっ?



隊列を組んで移動していた

一瞬カメラを向けていいものかどうか迷ったが、なんてことはなかった。たぶん王宮の警備を担当している軍人?さんたちなんだろうが、ライフルを近くで見るとやっぱり緊張する。

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昨日の未明、BSチャンネルでR・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』が放送されていたが、録画予約の操作をしっかりしていたつもりがミスしていて、録画できていなかった。
自分のミスゆえ仕方がないがやっぱりくやしい。録画しそこなったからこそ、無性に見たくなってきてしまう(笑)。
ただ、この作品はカルロス・クライバー指揮の分でDVDが存在しているゆえ、図書館等で鑑賞することはできる。ひさしぶりにクライバー指揮の分で見てみようと思った。

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