デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ある言葉が浮かび最初だけ変えてみた。

「不老長生へ至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はわずかである」

不謹慎かもしれないが、この言葉は先日少し触れた道教に関する疑問の答えの手がかりになるであろう。今回は、ずばり道教の世界観と死者観が道教徒にとってどれほど切実なものなのか、奈良氏の本では省かれていたことについて書きたい。
上の言葉は某聖典のパロディだが、でも道教徒にとってみても、大体同じことが言えるのではないか。とにかく道教を信奉する者にとって不老長生(仙人となる)を得ることは相当困難なことであるらしい。いうなれば、道教において人は死ねばそのほとんどが三塗(地獄)に行くということになるのだが、仙人になるのが困難である理由を明らかにしようとするならば、道教の死者観が半端なものではないところにその手がかりを見出せる。

 多くの道教徒にとっては、死とは単なる肉体の死滅ではない。人が死ぬことは生物として避けられない一つの自然現象であるとは考えていない。道教徒は人の死に対して、その人の犯した罪過という倫理的行為を結び付けて考えるのである。言わば、死はその人の犯した罪過が招いた報いであると見るのである。人が病気で死ぬのも、その人の罪過が死に値したからである。死を避けるには生まれて以来の罪過を、上章や斎や醮などの一定の宗教儀式を通じて除去しなければならなかったのである。
 では、「道教」ではなぜ死と罪過を結び付けるのであろうか。この考え方の背景には「道教」に特殊な因果応報観がある。「道教」の因果応報観を「功過の思想」とも呼ぶが、この功過の思想では、人は善い行い(功)をすれば、病気や災厄を除くことができ、多くの善行(例えば、千二百善)を積めば不死の神仙(天仙)にもなれるが、悪い行い(過)をすれば病気や災厄を招き、自分の寿命を縮めることにもなると説く。寿命を縮めることを「奪算」、という。算とは三日のことで、寿命が三日奪われるという意味である。人が悪事をなせば、他の人に気づかれなくとも、神々(多くは司命)が監視していて犯した悪事の程度に応じて、その人の寿命を記載した帳簿から一定の日数を削って寿命を縮めると考えられている。
 不死を願う道教徒にとっては「奪算」は恐ろしい罰である。それ故、教団の戒律に違反した場合は、『玄都律文』などではその罰を「罰算一紀」とか、「罰算三紀」と表す。この「罰算一紀」とは、戒律に違反した罰として寿命が一紀(三百日)短縮されるという意味である。罰の重さを奪われる寿命の日数によって示すところは、儒教や仏教にはない、「道教」独特の倫理思想である。
  中国学芸叢書 小林正美 著『中国の道教』(創文社)p185~186

逆に言えば、不老長生への願いがとても強いことを示す内容かと思う。(この文のあとには「死者は罪人であるから三塗(地獄)に落ちる」と考えられていること、三塗にいる祖先や自分の犯した罪という穢れを除去する方法(滅罪法)も説明されているが、ここでは触れない)
現代に道教を信仰する人々がどれほどの切迫感でもって日々の生活を送り陰暦の年中行事にたずさわったりするのか私には知る由も無いが、ただ、かつて年末に日本の中華街で見た口元に飴を塗りたくられたカマド神の図像だったか人形だったかの意味が、これでようやく少しは分かったように思う。
もちろん私には、そこの中華街で商売を営む人々の信仰心うんぬんについては知りようが無い。カマド神を祀っていたところで信仰心が篤いのか長年付き合ったわけじゃないのでわからないし、分からないついでに勝手な想像をつけたすならば、案外いまは道教徒ではなく昔から続けていたというだけの惰性的な習俗・年中行事にとして飾ってあったのかもしれない。
ただ、物の形をとって表れるものは馬鹿にできないのである。そこには現世利益という言葉だけでは説明しきれなかったものがあったのだと今にして思う。常に清らかに生き続けないと不老長生を得られないという思いが強いからこそ道教の習俗は残り続け今に至っているのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )