山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

意外な結果

2007-03-10 15:51:38 | 放送大学
放送大学卒業認定の知らせは来たものの、再入学科目登録の振込用紙も成績結果も来ないなあと不安に思っていたら、2~3日前に振込用紙が届き、今日やっと成績結果が届いた。

そして単位認定試験の成績結果をみて、非常に驚いたわけだが、なんと「博物館経営・情報論」の単位を落としていた。成績は50~59点のDであり、60点ないと不合格だ。なんとかCくらいは取れるかな?と思ったのは甘かった。

思い当たることに、博物館法について記述するとき、いきなり制定された年を間違って書いてしまった。博物館法は1951年の制定であるが、「1950年代」「ぴったりの数字より1年ずれている」「生まれた年」というキーワードで記憶していた。正しくは夫の生まれた年そのものであるのにも関わらず、試験当日になるとどう間違ったか「自分の生まれた1960年を1年ずらした年」などと考えてしまい「1959年」などと書いてしまったのである。
もともと歴史の年数を覚えるのが大の苦手なので、制定された年など書かなければよかった。これは大きな減点だろう。
そのほかにも、「博物館マーケット」「博物館における評価」など、飛ばし読みして抜けていた部分で的外れな説明を書いてしまったものがあった。わからないものは白紙にしておいたほうがマシだったかもしれない。いいかげんなことを書いたため、それが大きな減点になったと考えられる。

試験を受けた感触としては同じ記述式の「博物館概論」とあまり違う感じはしなかったのだが、博物館概論がAで経営情報論がDという大きな差には驚いてしまった。

一方、絶対に不合格だと思っていた「日本の古典―江戸文学編」がAだったのにも驚く。
どう考えても博物館経営情報論のほうが一生懸命勉強したと思うわけだ。
その他の科目は意外にも○AとAばかりだった。

博物館経営情報論は残念だが、代わりに落ちると思っていた「江戸文学」の単位が取れたので、まあヨシとしよう。
博物館経営情報論は夏に再試験を受けるが、日程も会社が休みの日に当たっているから大丈夫だ。
「芸術系博物館活動支援」の科目群履修認証をもらいたいと思っていて、そのためには「江戸文学」を取り直さなければ単位が足りないと予測していたのだが、逆に「博物館経営情報論」のほうを取り直す必要が出たわけで、手間は同じことである。今回の失敗を踏まえ、次回はきっと○Aを取るぞ。

卒業要件単位数124に対して、習得認定単位数が127という結果だった。
結局は短大時代の国文専攻と日本語教師養成講座で学んだことの助けがあって卒業できたという感じだ。


(写真はこの記事とは関係のないものですが、先日行った「大倉集古館」の庭に展示されている仏像です。ここは“芸術系博物館”ですね。博物館学、しっかり勉強しなおそう!)


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3年間続けてきたこと

2007-03-10 11:58:34 | トラックバック練習・ご意見板
いろいろ考えてみて、唯一3年続けてきたと言えるものが「放送大学」である。

放送大学はこの3月で6年が満ち卒業となるが、振り返ってみると、平成15年度には単位を1つも取っていないので、この期間も放送大学をやっていたとは厳密には言えない。ただ、結果的に単位は取らなかったものの科目履修届けはしていたし、単位を取ろうとはしていたはずなので、一応この間も続けていたことにはなる。

そして、この15年度を除外したとしても、16年度から18年度までの3年間は単位をとり続けていたので、かろうじて「3年間放送大学を続けていた」と言えるわけだ。

3年続けているものがたったひとつでもあってよかった!

実はなんでも長続きしない性格だ。

今の校正の仕事もまだ2年とちょっとだし、その前の日本語学校非常勤講師の仕事も、かけもちなどしつつ計4校で働いたが、長い学校で2年、次に長いのが1年という短さ。スーパーの仕事も1年である。

最近の習い事では、6~7年前から中国語と韓国語をやっていたが、やはり3年もたたずにやめ、その後しばらくして中国語だけを復活させたが1年くらいでお金が底をついたためやめてしまった。中国語を熱心にやっていたころは中国語検定3級を受けてあと5点ってこともあったが、もう今ではすっかり忘れてしまい、4級でも受からないだろう。
もうやめてから2年もたつ。ずっと続けていたらとっくに3級は取れていたはずだけどな~。

でも、日本語学校の仕事もやめ、日本語ボランティアも同じ教室で3年間しっかり続けたということはなく、いやけがさしてきて中国人や韓国人と話す機会もなくなったから、もう中国語や韓国語を勉強する必然性がなくなってしまった。

これからやっていこうとするのは、3年目に入っている今の仕事で、なんとかこれは3年は続けたいところである。
放送大学にも入りなおすので、こっちもこれから3年は続けることになるだろう。そして、あまりにもできない英語を少し強化しておかなくてはと思っている。
石の上にも3年というが、これからは簡単にあきらめることなく、ひとつの事を長く続けることを頑張りたい。


(写真は、多くの人々が毎日通勤や通学に使う“線路”です!)
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短大コンプレックス

2007-03-10 02:16:57 | 未分類過去
このごろ、すごく意外なことがあった。
というのは、ある集団で、私だけが短大卒で、あとのひとたちはみんな大卒だと思っていたのだが、実はその中のある人が短大卒だったことが分かったのだ。

過去の話をする場合、よく「大学のとき~」という話がでるのだが、そのあたりは私は「学生のときは~」とぼかした言い方をすることが多い。しかし、つい「短大のときは~」と表現してしまうこともある。どうしたって「大学のときは~」とウソは言えないわけで、自然にいちいち「短大」と言ってしまう。そして、「しまった!」と思うが、そのときは4年制大学を出ていないことがバレてしまうわけである。

学歴の高い人と話をしていると、4年制大学を出ているのはあたりまえという意識の人も多いし、中には国立大学を出ているか、結果的に私立になったとしても国立を受験しているのがあたりまえのような感覚の人もいるので、なかなか肩身が狭い。

しかし、隠し事ができない性分であるゆえ、「私は短大だ」と言い、「昔は4年制大学に行く人は少なかった」などと負け惜しみのようなことを言い、「みなさんはすでに大学を出ているけど私は出ていないから今頃になって放送大学に行っているのです」などと言ったりしたこともある。

そんなとき、そこにいた人はみんな、大学を出ているような顔をしていた。「私も短大ですよ」という人はいなかった。だから全員が大卒だと思っていた。
その人は何かのおりに「大学のとき~」とはっきり言っていたと思う。確かに「短期大学のとき」だから略せば「大学」ではある。

それが、ひょんなことから、大学じゃなくて短大だということがわかった。
そのひょんなことというのが、その人の専門的な仕事が認められたことをきっかけにして、その人の経歴があるところに発表されていたからだった。

これって皮肉なことじゃないだろうか?
仕事が認められたことはすごいのだ。その人の才能と努力の賜物だろう。その人の実力である。学歴なんか関係ない。
しかし、同時に「な~んだ、大学は出てなかったんだ」という気が抜けるような変な気分になることは否めない。短大は大学の半分の厚みしかないという感覚は否めないのである。大学を落ちた人が同じ名前の短大に入ることも多々あるわけで、勉強をした期間も短いのが事実なのだ。
そのことが、才能を発揮したから発覚するなんて、皮肉なことだな~
でも、実力を証明したんだからもはや短大だったことが発覚してもかまわないとも言える。

それにしてもこのことで、大学をでていないのに出ているような顔をしている人は、私の周りにもまだまだいるのかもしれないなあと思ったしだいだ。
短大コンプレックスは私だけではないわけだ。
よけいなことを言わなければ大学を出ているように見えるわけだ。

私はやっと放送大学を卒業するが、すでに社会人でもあったので、「大学生のとき~」という言い方をすることはほとんど無く、これからも自分の若い時代をさして「短大のとき」ということが多いと思う。だから今後も人からは最終学歴が短大だと思われるだろう。

ところで、大学を卒業するときは、卒業証書授与だけではなく、「学位記授与」なのだということに気がついた。短大は卒業証書だけであり、学位記は授与されなかったわけだ。やはり短大と大学では大きな違いがあるなあと感じた。

(写真はモクレン=紫木蓮?)

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世事に疎い

2007-03-10 00:06:39 | 未分類過去
私の欠点は、世事に疎いことである。アンテナがないというか・・・
昼休みにパート仲間でいろんな話しをしているのだが、
???
ということがあまりにも多い。

最近、みんなはよく読書の話をしているのだが、これについていけない。
知らない作家の名前や作品の題名がぽんぽん出てくるが、まったくきいたこともない。
みんなはよく新刊を買って読んでいるらしい。
だから、人気作家や話題作についてよく知っている。

「華麗なる一族」3巻読んだ、とか
“宮部みゆき”がおもしろい、とか言っていたが、そのあたりは記憶にあるものの、
そのほかは、みんなが話している作家名も題名もまったくわからん。 

いったいどうやって知るのかな?

映画などはテレビの中で取り上げられていることがあるので、詳しくは知らなくてもなんとなくわかるものが多いのだが、本についてはどうもわからない。

しかも、いったいいつそんなものを読むんだろう?
テレビなんか見ないで毎日本を読んでいるのだろうか?

私の場合、読まずに書いていることのほうが多いようだ。
この書く時間を読む時間に回せば、少しは人の話にもついていけるようになるだろう。

新刊を買うのは高いし、狭い家で物が増えるのも困りものだ、という事もあって買わないが、新刊を買って読んだらすぐにブックオフに売るという手もあるようである。

お金や場所や時間があっても、私の場合やっぱり読まないかな?
そもそも読書は嫌いなのかもしれない。

しかし、人の話題についていくためにも、もう少し読書をしなくちゃいけないかな~
と反省。

こんにゃろ~ 私だって読んでやる~


(写真は我が家の庭の葉ボタンとデージーです。コサージュみたい!)

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