今、自分が務めてすべきことは、普通に暮らすことなのだと思う。
被災地の人が、東京の人はどうしてそんなに落ち込んでいるのですか、と言ったそうだ。
被災地の人たちが、あんなに頑張っているのに、はるか離れた東京がなんでこんなに元気がないのか。
原発の不安にかられ、落ち込んだところで、どうにもならないのだったら、全てを忘れ、普通に暮らしたほうがまだいいだろう。
それにしても、普通である、ということがいかに有りがたいことだったかと思うこのごろ。
店には商品が戻ってきてはいるが、昼休みにご飯を買いに行くと、やっぱりコンビニの棚は空っぽに近かった。
だが、唯一、たったひとつお弁当が残っていたのだ。そのお弁当を迷わずに買った。
まるで、私のために残っていたかのようではないか!
お弁当がたった1つしか残っていなかったことを、悲しむのか。
それとも、たった1つ残っていたことを喜ぶのか。
どっちの人間が幸せになれるかと言えば、後者に決まっている。
だが、どうしても、自分がお昼にありつけたという良い結果よりも、社会がそういう状況になっていることについて、悲観的になってしまう。
コンビニの人に聞いたら、やっぱり品物がいつもの数だけ入ってこないのだそうだ。
被災地に行っているのかな?だったらまあいいんだけど。
スーパーには相変わらず茹で麺と生麺類がない。ラーメンやうどんは被災地のほうで作っていたのかな?納豆もない。
卵はある。スーパーでは、水やペットボトル飲料、卵など、1人1個の制限にしているので、売り切れてはいないようだ。大家族の人はいつもの量も買えず不便だろうと思う。
お昼はやっぱり、おにぎり持参に限る。
今は、仕事も忙しいし、気もそぞろになる原因が多いので、4月になったら、ドライブも再開して、普通の生活に戻りたいなと思っている。休暇も取って一休みしたい。