昨日、府中市美術館に行って見たのは「石子順造的世界」である。
石子順造なんて人、全然知らなかったのだが、昭和40年代に現代美術や、それを取り巻く漫画やキッチュなどを論じた評論家なのだそうだ。それで、展示されているものは、本人の作品ではなく、彼が興味を持った絵画・造形・漫画・キッチュなどであった。
キッチュとは、初めて聞く名前だが、和訳すると「まがいもの」「通俗物」などとなる。具体的に言えば、マッチ箱のデザイン、銭湯の背景画、店ののれん、看板、レストランの見本料理など、芸術というほど格調の高いものではなく、世の中にごろごろしている大衆的なものである。
昭和という時代を感じるものでは、「ペナント」があった。今時、ペナントを知っている人は、50代以上の人しかいないであろう。旅行などに行くと、横に長い三角の旗のような形をした壁に張る記念品が売っていて、想い出に買っては、自宅の壁に張ったり、人に土産としてあげたりしたものらしい。私が子供のころには、こういうものを家の壁に張っている人が結構いた。
それから、観光地の絵ハガキ。修学旅行などに行くと、たとえば「京都」「奈良」などという名前のセットで、「奈良」ならば大仏や大仏殿や奈良公園のシカや法隆寺などの四季折々の一番美しいと思える写真が、何枚かセットでおさめられているのである。当時は、カメラは高価なものであり、写真もいちいち現像に出さなければいけなかったので、絵ハガキを買ってくる事が多かった。今、絵ハガキを買う人はいないだろうな。
ブロマイドとかポスターとかも、いかにもって感じのものばかりだ。物々しく、何とも言えない。
当時、石子順造がそういうものをどのように論じていたのか?肝心な評論については、今回の展示で紹介されていたとはいえなかった。今になると、その時に全く「普通」であり「あたりまえ」であった物品が、ずいぶんなインパクトを持ってせまってくる。
なんだか、キッチュの印象が強かったが、例えば他に、つげ義春という人の「ねじ式」という漫画の原画が展示されており、妙な、何とも言えない独特の世界に見入ってしまった。
美術もパロディーみたいなものや、だまし絵みたいなもの、一工夫二工夫で笑ってしまうものも多く面白かった。巨大な電球の表面が草でできているのは、その異質感がなんともいえない。電球とはつるりとして光っているものであるという固定観念をみごとに裏切る。
でも、考えてみれば植物は光合成でできているので、そう思うと関係があるのか?
本物の零円札とかも笑ってしまった。零円なら偽札をいくら作ってもよさそうだ。
この展示を思い返してみて、なんだか、たのしく生きていけそうな気がした。
府中市美術館では、2月12日、日曜日の午後、横尾忠則氏が来て、創作の実演をしたらしい。通りかかったときに、会場にカメラを構えて取材の準備のようなことをしている人を見かけたので、もしや来るのかと思ったが、会場には具体的な日程が掲示されていなかったので、帰ってきてしまった。もう少し残っていればよかったな。
この人の作品は、特に好きなわけでもないので、単なる有名人見たさにすぎなかったが、見ればみたで面白かったに違いない。