山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

茂田井武展

2008-10-24 00:32:54 | 美術・美術館
先日、いわさきちひろの美術館に行ったとき、特設展をやっていたのだが、それが「茂田井武展」だった。そのことについては書いていなかったので、書こうと思う。

この人の名前は知らなかった。だから、最近出てきた現代画家かと思ったくらいだ。しかし、岩崎ちひろよりももっと以前の人(1908~1956)であることがわかった。ちょうど100年前に生まれた人である。この人は、戦前にヨーロッパに渡っていた。
ヨーロッパまで行って、その絵を勢力的に描いたという点で、いわさきちひろと共通する部分がある。
いわさきちひろがヨーロッパに行ったころ(1966年)も現代のように海外旅行が普通に行なわれるような時代ではなかったが、この人の場合は、さらにもっと珍しい時代であり、まずは中国にわたり、そこから陸路を経てフランスに着いたようだ。旅行ではなく、現地に滞在し、レストランなどで働きながら、生活の中で街の風景などを書いていたそうだ。そのころは、まだ画家ではなく、絵を志す青年といったところだろう。
当時の絵は個人的な画帳に残され、ほとんど公開もされないままになっていたようである。
会場には、そのころに描かれた画帳の絵を並べて展示してあったが、ヨーロッパのモダンな店の風景や、様々なものが楽しく色美しく描かれていた。
その中には、恋人の娘が作者を見つめる絵など、青年の恋愛を思わせるような意味深のものもあり、印象に残った。
その後、強制送還となり、日本に戻ってきたそうだ。

帰国後も画家ではなく、様々な職業で苦労をして生計をたてていたようだが、日本に戻ってからの絵は、打って変わって急に色合いが暗いものになっていた。ヨーロッパの絵を描いた人と同じ画家とは思えないような画風である。そして、最初に横溝正史の小説の挿絵を書いて画家としての収入を得たのだそうだ。横溝正史といえば、八つ墓村とか犬神家の一族とか、気味の悪いものを連想するが、当時の絵はいかにもそれに合いそうな画風に思えた。時期的には、八つ墓村などよりも以前の作品の挿絵であると思える。

戦時中は、知人の家に身を寄せて暮らしていたようだが、月夜の中に座る女性の絵(竹取物語?)など印象に残っている。そのほか、その知人の家の様子などを描いたものが画調に残され、戦争に行く前に知人に渡して行った絵や、恩人にお礼として渡して行った画帳など、現在に残されているものが多いようだった。画帳は本来写経などをするものらしく、広げると屏風のように絵が連なっていく形が面白かった。
また、子どものころの思い出を画帳に描こうとしていたらしいが、完成はしていない。幼少のころの駄菓子屋さんの風景や、自分が育った旅館の庭の風景などが描かれ、そこにコメントがことこまかく書かれているのも絵巻物のようで面白い。そういえば、フランスの時代の画帳にもフランス語でなにやら書いてあったようだ。絵のみならず、そのような絵日記のようなところが面白い。これらは画家という職業ではなく、あくまでも個人的なものなのかもしれない。

別の展示室には画家という職業人としての作品が展示されていた。これらは戦後のものとなるようだ。明治製菓の広告絵などもあり、ポスターも多い。絵本の絵では、セロ引きのゴーシュなどがあった。熊が檻に入っている絵本の絵はどこかで見た記憶がある。キンダーブックの挿絵もあったが、キンダーブックという子供用の月刊誌みたいなのがそういえば私が子どもの頃あったなと思った。

病気のため、わずか48歳でなくなってしまったようだが、亡くなる数日前まで絵を描いていたようだ。
一生を降りかえってみると、あまり幸せではなかったように思えたが、結婚もして子どももいたということを知り、ちょっとほっとした。それに、晩年は職業画家としても成功していたといえるだろう。
この人が亡くなったのは、私が生まれる4年前であり、亡くなった年齢は今の私の年齢である。

全展示を通して、あのヨーロッパで描かれた若い頃の絵が素敵だなと思うのが一番の印象だ。

そこで、なんとなく連想される画家が2人いた。「絵の中からこっちを見つめる目」と「恋愛」という点で、まず青木繁を思い出した。青木繁の描いた漁師たちがサメを担いでいる絵があるが、その中の漁師の一人の顔がなぜか女の顔のようであり、それがこっちを見つめている。その視線にどきっとする。あの絵は、もしかしたらそこに命があるのかもしれないと思う。
茂田井武の恋人の娘の視線もなぜかドキッとするものすごいインパクトがある。恋人の娘というからには、その恋人は妻子のある人で許されない恋だったのかもしれない。当時は血気盛んな青年であったはずで、裸体でベッドの脇に立つ青年の絵なども描かれている。その恋人の娘の絵は、大きな瞳が抗議するような強い視線でしっかりこっちを見つめているが、恋人の娘であるからには、きっとその瞳は恋人に似ているに違いない。非常に印象深い。作品の中に、画家の恋愛があふれでるとでも言おうか、そういう共通点を感じた。

もう1人思い出した画家は、入江観氏である。この人の本人の話を聞きに行ったことがあるが、やはりフランスに行って絵を描いていた。しかし、日本に帰国してからしばらくはどうも調子が出なかったのだそうだ。それは多くの画家が経験することだという。つまり、ヨーロッパと日本では光も景色も色合いも町並みも何もかもが違うのだそうだ。
簡単に言えば、フランスはきれいで日本は汚いのかもしれない。多くの油絵の画家はそこで1つの壁に突き当たるようである。フランス的な美を日本で探したところで、本当のそれは存在しないのだ。そして、フランスにないものを見つけるところに行き着く。
茂田井武は油絵ではないだろうが、やはり日本に帰国してからの色合いの変化は驚くばかりである。そして、何でそんなに真っ暗になってしまうのかと思ったりもするわけだが、むしろその当時の日本独特の雰囲気はその暗さにあったのかもしれない。明るさやセンスではフランスに存在するものが日本に存在しないのなら、まるで違う要素を見出すしかない。すると、暗闇の中に浮かぶ月とか、妖艶な感じを求める方向に行くのかもしれない。また、その暗さは戦争の時代や本人の生活状況という背景もあるのかもしれなかった。
外国人が日本に魅力を感じるときには、何かと忍者なんかにあこがれるようである。欧米の映画などを見ていると、日本という国は、薄暗い屋敷や竹やぶなんかが出てきて、髪の黒い神秘的であやしい日本女性や茶室なんかが描写されている。外国になくて日本にあるものというと、そういう要素になるのかもしれない。
風土というのは、絵にとって動かせない要素だ。

画家は一生を通して、絵がその人を語る。その人がどのように歩んだかを描かれた絵が物語ってくれる。そして、その人がした経験は何一つ無駄にはならず、その人を形成していくことがわかる。
画家でない人間は、何がその人を物語るのであろうか。
何か一生を通して1つのことをやり続けた人は、そのことを通して、そのことがその人を物語る。

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フィットネス

2008-10-22 00:03:47 | 日記
フィットネスとは何か?
英語の苦手な私はふと考えた。考えたところで、わかるわけがないから、調べてみると、「健康を維持するための運動」なのだそうだ。
フィットネスクラブというのは、和製英語で、「各種の運動施設を備え、専門のインストタクターを備えた会員制のクラブ」(goo辞書より)だそうだ。

このごろフィットネスクラブに通う人が多くなっているように思う。
なぜ、そうなのかというと、健康のためなわけだが、20年前に健康のためにフィットネスクラブに通っていた人は今ほどいなかったと思え、それは、健康を気遣う人が少なかったからであるが、つまり、健康を気遣う必要性も少なかったからではないかなと思うのだ。

だいたい、メタボリックなんていう言葉も無かったわけで、そういう人間もあまりいなかったということではないか。
しかし、今や、メタボリックシンドロームというのは、社会現象なのだ。そして、同時にメタボリックシンドロームを阻止しようとする人間がフィットネスクラブに殺到しているのも社会現象なのだ。

なんでメタボになるかといえば、食べ物が欧米化してカロリーが高いものを食べるのも原因だし、どこに行ってもエスカレーターやエレベーターが設置されていたり、道路や交通手段も発達して、人間が自ら歩かなくても移動できてしまうというのも1つの原因なのだろう。

だが、振り返ってみると、昔もやせるために体操なんかをしていた人はいた。それはどんなものかと思い描くと、「美容体操」というものではないだろうか。そして、この美容体操というのは、3食昼寝付きの奥様方が太らないように、美しくなるように、体操をしたわけだ。

私がこの秋、初めて体験レッスンに行ったのは、文化センターで開講されている「整美体操」というものだった。これはヨガのような要素と、音楽に合わせて体を動かす運動もあり、またバーを使っての柔軟体操もあったが、結局のところ「美容体操」だなと思った。先生はすでに老年の域に達しているので、時代から言ってもそういうものだろう。
この場合、入会金5000円に3ヶ月の受講費が2万数千円ということで、合計3万円近くの金額がかかるものだった。
週に1回1時間ちょっとのことに、これだけの金額をかけるのは、いくら美容のためとはいえ、高いなあと思う。

というのも、それに比べて、フィットネスクラブのほうが断然安いということがわかったのだ。フィットネスクラブの場合は、月に8000円から12000円くらいかかるようだが、大体は毎日使い放題である。まあ、実際毎日通える人というのは少ないわけだが、それでも文化センターの習い事としての体操に比べたら断然自由がきく。エアロビクスやヨガ・ピラティス・水中ストレッチなどいろいろできる。シャワーやお風呂なども完備している。

思うに、もはや文化センターの形式は古い。そして、運動はやはりフィットネスクラブのように毎日できるというのがいい。
そして、いまや、三食昼寝つきの奥様ではなく、仕事人間が健康のために、体をほぐしたり、脂肪を燃焼させたりするために通うものともなっている。

実際、私の身の回りでは、会社の40代の男性がジムに通ったりしているし、また、若いOLたちもフィットネスクラブの会員になっていて、仕事の帰りに寄ったり、休日に通ったりしているのである。フィットネスクラブ以外にも、テニス・乗馬などのスポーツやフラメンコ・ハワイアンなどのダンスなどをやっている人もいる。
主婦の友人には、午前中にパートタイマーで働き、午後は毎日フィットネスクラブに通っている人がいる。平日昼間会員はかなり会費が安くお得なようである。

私も、こういう健康や体力づくりに力を入れる周囲の風潮に影響され、区の体育館に通いだした。区の体育館は数年前とは違い、民間に経営を委託しているのか、各種インストラクターがいて、まるでフィットネスクラブのようになっているのだった。
税金も使われているのか、会費がかなり安いので、私はここで「健康を維持するための運動」に励むことに決めた。



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原稿用紙10枚を書く力

2008-10-21 00:24:01 | 日記

「原稿用紙10枚を書く力」(齋藤孝)という本を読み終えた。
この本、大分前に買ったもので、半分くらい読んだまま放置し、その存在すら忘れていたのだが、先日要らない本をブックオフに処分しに行こうとして、机や書棚の周りを整理したら出てきた。そこで、再度読むことにした。
こういうのを読むと、そこに書いてあるとおりにしてみなければいけないような気分になり、そのプレッシャーに負けて読むのもいやになってしまうことが多い。だから、今回は、とにかく最後まで読み飛ばそうと考えた。
書く前に、材料や構成を考えること。3つのポイントを選ぶ。自分のポジションを決める。
まず量から始める。等等、文章を書くにあたっての要点がいろいろ書かれていたが、それをなんとなく頭の隅にとどめる程度にして、当面、好きなように書き続けようと思った。

私は日頃、全く直感的に文を書いている。それほど長いものでもないし、大したテーマがあるわけでもないから、それで一応成り立っているのだが、結局駄文を超えることができない。しかし、いいものを書こうとすると、それはなかなかエネルギーのいることであり、そう毎日努力することはできそうもない。だから、自分を甘やかして、とにかくなんでもいいから書いてしまえと思っている。まあ、いつかは気合を入れて書くときが来るかな?
そのときは、またこの本を参考に開いてみたりしてみよう。

ところで、「文章の書き方」みたいなテーマの本は今までも何冊か買ったことがあるように思うが、この本は何で買ったかと思うと、私の場合、著者のプロフィールを見て、「1960年、静岡県生まれ」なんてところで選んでいるのである。おお、私と同じだよ、と思って親近感を持ってしまうわけだ。ところが、その次に「東大法学部卒業」なんて書いてあって、なんだ、私とは全然違う部類の人間だな、と思ったわけだが、それでも最初の共通点を捨てがたく、買ってしまったわけだ。
だいたい、同じ年に同じ郷土に生まれたからって気が合うとは限らない。同級生にもいやなやつがいっぱいいたわけだが、なぜか、特に同年代の人間に関心を持つわけだ。
自分と同じくらいの年月生きてきた人間、しかも本を出すような優れた人間が、何を考えてるのかってことは興味がある。私は、そういうのを追い求めるクセがあるらしい。

この齋藤孝という人、他の著書では「声に出して読みたい日本語」という著書で話題になった。この本はかなり売れただろう。私も買ったような気がするが、結局読まずにブックオフに売り飛ばしたような気がする。本当に声に出して読んだ人はどのくらいいるのだろうか。確かにいい文章が載っていると思うけど、私の場合、作品を朗読するような趣味は今はない。それもひとつのプレッシャーになってしまう。
だから、少しでもいやだなと思うことはやめて、やりたい事をやって行こうと思っている。

ああ、構成を考えないで書くとこういうことになるのです。
支離滅裂になってきました。
結論を書かなくちゃね。

この本は、実際、結構書くための参考になりましたよ。
ただ、実行に移すのはもう少し猶予をください。
それから、この本はわかりやすく読みやすかったので、この人の他の著書、「読書力」「人を10分ひきつける話す力」「自己プロデュース力」なども読もうと思っています。

  以上。


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初めてのエアロビクス

2008-10-19 21:27:21 | 日記
今日はまた区民センターに行き、エアロビクスの教室に参加してみた。
これがもう大変だ。最初のうちは先生の真似をして、楽しくついて行けていたのだが、ステップが複雑になり何種類かつなげられ、手の振りもついたら、もう何がなんだかわからなくなってきた。汗だくになり体力も疲れてきた上に、頭の回転がついて行かない。もう手はあきらめて足だけまねしたりしてたけど、きっと手の振りがついたほうが体が動きやすいのだろう。しかし、手をつけるとステップがわからなくなるし、みんなが手をたたくところで自分が手を叩かず、自分が叩けばみんなが叩かないところだったりで、もう悲惨だった。

そういえば、昔からこういう素質だったんだよ、私は。
中学のとき体操部だったんだけど、半分は個人の体操(器械体操)で、もう半分は団体の体操に振り分けられた。団体のほうは何も持たない徒手体操や、ボールやリングを使う新体操をやったが、団体の場合はつまりみんなで音楽に合わせて「踊る」部類である。
それで、私の場合は、団体のほうはどうにも苦手だったわけだ。まず、動きができない上に覚えられない。のろまでバカなわけさ。結局、今になって思うと、人並みに動けないので、それで手一杯になってしまって、動きながら覚えるところまで同時にできないってわけだ。

こういう人、他にも知ってるんだよね。それは誰かというと、うちの長女。
長女も異様にダンスが苦手なんだそうだ。かわいそうに私に似てしまったのだ。それでも世の中に自分以外に同じ人間がいるというのは何か心強いのだが、それは身内だからあんまり喜べたもんじゃない。苦手だからやらないようにしよう、ではなく、なんとかせねば・・・、苦手だからこそ、他人よりもいっぱい練習して克服しなくちゃいけないんじゃないか、長女にも少しはやっておいたほうがいいぞと勧めておこうと思った。

受講者は30代から60代くらいまでいて、私より年上の人も多いようだったが、ちゃんとまともに動いている。すごいな~。やっぱり他人は運動神経がいいのかな。
しかし、みんな初めてではないようだったし、私よりスマートな人ばかりだ。そういうことを日ごろからやっているひとたちに違いない。
そうだ、きっともっと運動神経が悪い人や、もっと贅肉のついた人は、世の中にたくさんいるはずだ。
子どものときから、体操部に入ろうと思った時点で、運動部に入ろうという運動神経のよい部類の人たちの中に入ってしまったのだし、茶道部だの手芸部だのには、もっと運動の苦手な人がいたのかもしれないのだ。
だから、悲観することはないよ。40代のうちに苦労しておけば50代になってもできるはずだ。これが50代・60代になっていきなりエアロビクスなんかやろうとしたって、もっとブザマな状況になるのは決まっているから、今始めたことはよいことだ。
と思うことにした。

ところで、先生は多分40代で、そんなに若いわけではなかったが、とてもきれいなひとだった。動きもきれいだけど、顔もスタイルもすばらしい。
どうしてあんなにすらりとしているんだろうか。それは生まれつきのものもあるだろう。私がどんなにやせたところで、短い足や大きな顔は変化の仕様もない。それはあきらめるしかない。それにしても、どうして私はこんなにどってり太ってるんだ?なんとかしなくては。鏡にうつる自分に唖然とする。せめて動きくらい人並みにしたいものだ。

それから、エアロビクスってのは、よくもあんなにいろいろな動きが考え出されているんだな~と感心した。
汗もいっぱいかいた。1キロくらいやせた。

これからも頑張って、美しくなりたいと思った。
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剥がす

2008-10-19 20:43:26 | 日記
今日、夜の8時少し前にテレビをつけたら、石原良純と劇団ひとりに「はがす」という字を書く問題が与えられている場面だった。
「ムム?“はがす”とは、先日のあれだよ。剥離の剥だよ」と思った。
会社で、この「剥離」が変換されずに苦労したときに「ところでこの字、手で書けるかな?」と思って、引き出しから裏紙を出して書いてみて、覚えたばかりだったのだ。
もともとは、チェックをしていた書類の中の文章に「剥離」というのがあって、自分の記入する書類のほうにも、同じことを記入しなければいけない状況でのことだったので、「剥」という字は目の前にあった。確かにちょっと変わった字だ。
テレビは「平成教育学院」だったが、劇団ひとりさんがみごとに正解していた。良純さんもいつもなかなかの正解率だが、今回は残念ながらできなかった。
私は、このグッドタイミングで正解できたので、うれしかった。これも仕事のおかげだ。

「剥離」ということばは、工業系の文章には比較的良く出てくる。
何かに表面加工などしたときに、それに耐久性があるかどうかを検査するとき、粘着テープなどをわざと貼り付けて引き剥がすという実験をするのだ。そこで、どれだけ剥がれたか、剥がれずに残っているかで、表面のコーティングの性能を確かめたりする。
また、何か汚れてはいけないものの表面に一時的にセロファンみたいなものをかぶせて保護している場合があり、それはある程度の粘着力で貼り付いている。最終的にはそれを剥がす必要がある。その場合、きれいに剥がすことができるかなどということが問題になる。保護はできても剥がした後が汚くなったり、元のものが破損してしまったりしたら意味がない。
ということで、「剥がし」て「剥離」状態を調べる実験というのがよく行われるため、このような言葉は結構でてくるのだ。

テレビを見ていたら「剥がす」は漢字検定準1級の問題とのことだった。
日本語教師になるときに、漢字検定2級をとった。その後、漢字検定準1級にも挑戦しようと考え、問題集を買ってやってみたところ、わからない漢字ばかりだった。
しかも、こんな漢字普段使わないだろうと思うようなものばかりで、結局は投げ出してしまった。木の葉ガス(←これだから困るね)、 この「剥がす」という漢字も、ひらがなで「はがす」と書けば不便はない。そもそも訓読みというのは和語だから、漢字は意味から当てたものに過ぎない。しかし「剥離」は「はく離」より漢字がいいように思う。
「剥」はやはり常用外の漢字だが、熟語をひらがな交じりにするのはどうかと思う。

ま、とにかく今日のテレビで「剥がす」という漢字をしっかり覚えることとなった。
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ちひろ美術館・東京

2008-10-19 02:08:34 | 美術・美術館
上井草にある岩崎ちひろ美術館に行って来ました。この美術館に行ったのはたぶん3回目です。
1回目は短大の時に文芸科の友人たちと、2回目は子連れで公園仲間と、そして今日は近所に住む友人と行きました。
そして、今回は今まで行ったとき以上に、岩崎ちひろとその絵を、興味深く感じることができました。

今日、展示されていたのは、ちひろがヨーロッパ旅行に行ったときのスケッチとその後に描いた絵の数々でした。
ちょうど館のひとが解説をしてくれる時間にあたったので、説明を聞きながら絵を見ることができました。
岩崎ちひろさんは、それまでもアンデルセンの物語などに多くの挿絵を描いていたそうですが、ヨーロッパの風景や調度品などを見て、より具体的な形やイメージを自分のものとすることができたようです。それは、街の情景・魔女の姿・お城の風景・ストーブの形など様々なところに現われています。
そして、以前の作品と比べるとその変化は歴然としていました。年月を経て絵が上手になったというだけでなく、物語の絵の構図や町並み、背景など、実際のスケッチから取り入れられたものも多く見受けられました。

確かに、より一層魅力を増したといえます。そして、人間というのは、ある経験を通して自分の器を大きくしたり、一歩も二歩も上のレベルに上がることができるものなのだなと思いました。
彼女はもっといい絵が描きたいと思っていたにちがいありません。そして旅行に行けばそれができるという確信があり、そしてそれは事実でした。
自分に何が必要なのか、何が足りないのか、というのは、自分自身がわかることであり、それがどうしたら得られるかがわかるならば、それを追い求め実行することです。
そのことにより、人間は本当に変化することができる。

もちろん、この人はまれに見る才能の持ち主でもあるでしょう。目に入った風景を記憶にとどめて絵にしてしまったり、その色彩や配置や線の美しさなどは、凡人がどうがんばってもできるものではありません。
でも、その上にたゆまない努力をしているし、天才というのは、自分を成長させる方法を知っているとしかいいようがありません。

自分の成長のために必要なことは、実行しよう!
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痒いところに手の届かない文

2008-10-18 02:30:24 | 日記
今日は異様に眠かった。
眠くなる理由のひとつは、温度が高いことだ。
私の場合、けっして冷え性ではない。夏に女性の同僚たちが冷房の中で、カーディガンを羽織って仕事をしているときでも、私は半そででちょうどいい。
そういうわけだから、このごろ冷房もいらなくなったんだけど、今度は暖房してるんじゃね~か?と思うような暑さを感じてしまうのだ。
まさか、暖房はしていないだろうが、暑いのだ。冷房を入れるわけにもいかないし、周りを見渡すとやはり同僚はカーディガンを羽織って涼しい顔して仕事をしているのだ。
私は薄手の7分袖のセーターを着ていた。これははちょっとまずかった。金曜日になると着る服が尽きてくるし、このごろはあんまり薄い服では寒いから、ちょっと冬素材のものを着ていったら、微妙に厚すぎたわけだ。
それで、仕事の効率が上がらない。
トイレに行ったり、更衣室に行ったり、何度か席を立って気分転換したが、どうにも睡魔に教われてしまった。

あれっ、話がそれたぞ。
眠いのは実は、厚着のせいだけではなさそうだ。
つまり、表題のごとく「痒いところに手の届かない文書」だったからじゃないかな。
つまり、内容のチェックをしている文書に、インパクトがない。
機械や装置を説明している文書なんだけど、どうも焦点がぼやけてる。その機械の機能とか特徴とかがぐ~んと見えてこないのだ。
理系の文書だから、理路整然と客観的に書いてあるのはわかる。だが、全体像を説明しているなかに、ポイントがあるはすだ。そのポイントが見えてこない。
最後に、この装置のポイントはここですという風な部分があるのだが、ず~っと読んできて、えっ、ポイントはそこだったの?それで、その部分はどうなってたのかな~?書いてあったという記憶はないけど、たぶん推測するところこんな感じなのかな?なんて具合だ。つまり、そのポイントの部分とは全然関係ないような部分も含めて平坦に延々と説明され続けているから、わかりにくいのだ。
そういう文書がかなりの割合で発生していると思う。
そういうのは、読んでいてもなかなか意味が理解できないし、その文書の世界に突入できないわけだ。

わあ、この文も痒いところに手が届かないよ。
企業秘密だから、装置のことを具体的に書けないからね。

つまり、喩えて言うと
サイボーグA子さんというロボットがあるとする。
A子さんは顔が美しく、スタイルがよい。
顔は、目は大きく二重、黒目が大きくまつげが長い、瞬きが美しい。鼻の穴の形は3角形、口びるは笑うと口角がきれいに上がる。バスト85センチ・ウエスト58・ヒップ87で、腹は出ていない。腹の中心にへそがある。へその周りに贅肉はない。股下は75センチ。足のサイズは23センチである。足の筋肉も発達しており、30cmジャンプできる。
などという説明があり、このA子さんのチャームポイントは何かと聞かれたら、読んでるほうは目かな?足かな?なんて思うわけだが、最後に「よって、このA子さんのへそ周りは贅肉がないため年数を経ても太くならない~~」のようなことになり、えっ、へその周りのことを言いたかったんですか!と初めて気づくというわけだ。
だったら、もっとへそ周りを中心に説明したらどうなのかな~と思うわけだ。

あっ、上の説明は適切ではない。実際には、・・・顔面の中央上部左右に目が2つある。目は内部に白目があり、その中央に黒目があり、周囲上部はうわまぶた下部はしたまぶたで開閉できるようになっている。上まぶたの縁には長さ1cm程度のまつげが生え、下まぶたの縁のまつげは5mmである。顔の中心には鼻があり、その下部に唇が位置し~~などという陳腐な記述が延々と続いているわけだ。そういう説明がまるで頭のてっぺんから足のうらまで続いていくような文書なんだ。

だから眠くなるんだよな~




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パソコンのバカ変換

2008-10-16 00:42:14 | 日記
「はくり」が出ない

会社のパソコンで言葉を入力していると、どうしても変換されなくて困るという状況がたびたび起こる。
いつも困るのが「木曜日」をあらわすための「木」だが、「もく」と入れると「藻区」となってしまうため、「き」と入れるようにしている。
エクセルでは「も」と入れると「木」が出るのだが、間違えて「く」まで打つと「藻区」になってしまう。

今日困ったのは「剥離」だ。家のパソコンでは「薄利」と出て、次に「剥離」が出たので、「剥離」を選択すると、次からは「剥離」が一発で出るようになったが、会社のパソコンは何度やっても出ない。
なぜか「は栗」になってしまう。「は」は何か別の漢字だったかもしれない。そして、まともな言葉として出るとすれば、やはり、薄い利益の「薄利」である。
言葉としての使用頻度は「剥離」より「薄利」のほうが多いのだろう。
この場合、「はくりする」という「スル動詞」にすると「剥離する」と出るので、そこから「する」を削除するという方法を繰り返してなんとかワードを打ち終えた。
確かに「剥離がおこる」「剥離によって」というような名詞としての使い方よりも「剥離する」「剥離した」という使い方のほうが多いかもしれない。しかし、「網膜はく離」など、よく使われる名詞もあるのだから、剥離がでたっていいじゃないかと思う。
あっ、この場合、「網膜」とつなげて変換すると「剥離」の「剥」がひらがなで出てくる。
この「剥」という字は常用漢字ではないのだろう。だから、かたくなに変換されないのかな?
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5S

2008-10-15 22:49:23 | 日記
近頃、職場に「5S」を徹底させようというポスターが貼られた。
5Sとは、整理・整頓・清掃・清潔・躾 とのことだ。
仕事場は比較的整然と片付いていて、共有部分についてはきれいな部類の職場ではないかと思うが、汚いのは各自の机の上や中である。それも人によるが、机の上にものを積み上げたり、周囲にものを散らばせて置いたりしている人もなきにしもあらずである。
それで、こんなポスターが貼られることになったらしい。

私は、見えるところはそんなに散らかしてはいないのだが、ポスターがふと目に入ると、不思議に「かたづけなくては」という気になる。
いらなくなった書類を、なんとなく机の中に溜め込んでいたりしたので、先日かなりたくさんシュレッダーにかけた。人によっては不要と判断した書類はそのたびに1枚ずつシュレッダーにかけに行く人がいる。よほどの潔癖症なのだろうか。
私の場合は、裏をメモにでも使おうかと一旦は引き出しに入れ、実際に何枚かは裏に何かメモったりした後、いらない紙が何枚か溜まった時点で、暇な時にやっとまとめてシュレッダーにかけるという具合だ。だから、机の中にどうでもいいものがいろいろ入っている。
書類のほかに、お昼にコンビニで買物をしたときのおしぼりや、レジ袋や、プラスチックのスプーン、割り箸、などもはいっているし、なぜかハンカチがどんどんたまっていたりする。
こんな状況を人に見られたら恥ずかしいし、5Sのポスターが目に入ると、それをきっかけに片付ける気になったりする。ポスターというものは本当に効力のあるものだ。

この5Sのスローガンは、私にとっては、会社よりも自宅にあったほうがいい。
このとおりにすれば家の中ももっとスッキリするに違いない。
自宅でも5Sを心がけよう!

(モチベーション・アップ株式会社ってのがあるんですね)




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恩田陸「小説以外」

2008-10-15 00:53:41 | 日記
先日、図書館に行って、この本を借りてきた。

最初、「阪急電車」ってのがあるかなと思って、図書館のパソコンで蔵書を調べたら、あるようだったので、該当の書棚を探してみたがみつからならない。図書館の人に聞いてみたら、貸し出し中であり、なんと、リクエスト241人待ちとのこと。
そんなに人気のある本だったのか!とびっくりした。
これでは、1年待っても回ってこないだろうから、図書館でリクエストするのはやめた。

それで、代わりになんかないかな~と思ってみつけたのが、この本だ。

この人の小説は読んだことがない。でも、テレビドラマは、「光の帝国 常野物語」「六番目の小夜子」など見たことがあり、面白いな~と思っていた。

ただ、その原作や他の作品を読んでみようとまでは思えない。たまたま、エッセイの棚にこれを見つけたので借りてきた。
で、少し読んでみたところ、推理小説やミステリーを読むのもいいかもしれないなと思えてきた。

以前も書いたが、私はこのごろ普通の小説にのめりこむ事のできない性質になってしまった。連続テレビドラマもどうしても毎回見たいと思うようなものは少ないし、自宅で映画など見ていても途中でどうでもよくなってしまうことが多い。
そんな中で、2時間物のサスペンスドラマは好きだ。殺人事件物というのだろうか。
作り話とはいえ、殺人なんていう不吉な内容のものを見て楽しむというのも不謹慎な話である。事件の中の被害者に対してはほとんど感情なんか湧くわけでもない。ドラマでは、誰かが殺されなければ話が始まらないから、それを当然のように受け入れてしまう。そのあたりは、人の命に対して鈍感であることが前提だ。
焦点は、そこではなく、わからなかった真相がしだいに解明されていき、最後には事件が解決することで、その間楽しめるし、妙にストレスが発散できるところである。
犯人がわかってみると、なんのことはないような動機だったりして、いかにも陳腐なストーリーであることが多いが、日本各地の観光地が事件現場になったりして、景色を楽しんだり、アリバイの解明、交通手段のトリックなどがわかるのが面白い。
テレビドラマで、恋愛物や歴史物などに熱中できず、サスペンスやミステリーなら楽しめるのなら、読書とて同じことかもしれない。だから読んでみようかななどと思った。

それから、自分が小説を書くということでも、ミステリーとか事件物とかもありうるのかな?とも思った。
私の場合、ストーリーは考えたことがないのだが、トリックとか犯人の怪しげな行動とかはいろいろ思い浮かんだりするのだ。

たとえば、私は自宅の前から1キロ先の踏み切りの向こう側に、誰にも姿を見られずに移動する方法を知っている。
それは、何十年も前に、宅地が造成される時に地下に大きな土管を埋めたのを知っているからだ。実際に、子どもの頃、その土管の中を歩いて線路の反対側に行ったことがある。だから、ある事件を追っていた刑事が、容疑者のおさななじみの思い出話から、その土管の存在を知り、トリックを解明するなどという場面を作ることもできそうだ。

また、以前自分自身が証拠隠滅をしようとしたことがある。送られてきたメールはそのままにしておくと、誰かがパソコンを開いて読む可能性があるから削除しなくてはいけない。しかし、削除してしまうと内容を忘れてしまう。それで、一旦は印刷し、メールは削除する。プリントアウトしたものは、必要な間は人に知られないように持っていて、用が済んだら廃棄する。しかし、世なのかの誰にも読まれたくないものなので、そのまま捨てるのは危険だ。印刷物をどこに捨てるかも問題だ。自分には全く関係ないところに捨てるべきだ。
それで、たまたま通りかかったコンビニのゴミ箱にびりびりに破いて捨てたわけだが、実際、その行動自体が余計にあやしい。
だいたい、紙くずをびりびりに破いて捨てる人はいないから、その行動は目立つ。人に見られたくないものを捨てていることが判然としている。
コンビニの店員がその様子をふと店内から見かけ、その後、ゴミ箱のごみを処理するときに、細かく破かれた紙くずを拾い集め、自宅に帰ってジクソーパズルのようにつなぎ合わせてみる。などということもありうる。
だから、びりびりに破いているところを人に見られないよう、トイレの中なんかで破いてから、何の変哲もないような袋に他のゴミと一緒に入れて、何気なく捨てるという方法もあるが、トイレの中からものを破く音がしました、などという証言が出るとも限らない。

会社のシュレッダーにかけて隠滅するという方法がある。ところが、その時に限ってシュレッダーの調子が悪くうまく裁断されないという可能性もある。そこで戸惑っているうちに、なにかの拍子に同僚が来て秘密文書の内容を見てしまうということもありうる。
実際、私の職場のシュレッダーはすぐにゴミがいっぱいになるため、頻繁に扉を開けて溜まった紙くずを押さえたりしないと動かないことが多い。その間、秘密文書は上に置きっぱなしである。会社の秘密だからいいけど、個人の秘密では社内の人に見られては困るだろう。

なにか隠そうとするといろいろとボロがでてくるものだ。完全犯罪はできないぞ。

「砂の器」では、血のついた衣服をこまかく刻んで電車の窓から紙ふぶきのように外に撒いたりする場面があるが、それも人の目について結局足がついた。
あるテレビドラマでは、ある女が犯行に使った服と靴をブティックの紙袋に入れて、自分が乗らない新幹線のゴミ箱の中に捨てて去るという場面があった。結局、その袋を持っている姿を目撃されていたことや、清掃員がゴミ箱からそれを拾って持ち帰ったことから足がついた。証拠隠滅は大変だね。

まあ、推理小説の細かいネタになりそうな場面はいろいろ考えられるのだけどね~。

しかし、推理小説を書くには、推理小説をたくさん読まないといいものは書けないらしい。
推理小説でも読んでみようかな。
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筋肉痛

2008-10-14 00:45:58 | 日記
連休3日目、最終日。
どこか、山か公園にでも出かけようと思ったのだが、家事もたまっているし、疲れるので、遠出するのはやめた。

それで、近所を散歩するにとどまったが、夫といっしょに隣駅まで歩いたのちに、地域をぐるりと回って戻ってきたら2時間くらいかかった。

最近、スポーツセンターに行き、シェイプアップ体操などをして、体のあちこちが痛くなっているのだが、さらに今日のウォーキングで足の筋肉がますます痛くなった。
そのほかに、お腹や腕などもいたいのだ。
しかし、かなり汗をかいているにも関わらず、一向に体重は減らない。
運動をすると余計に食欲が出て、いっぱい食べてしまうから、痩せられないかもしれない。
でも、いくらか筋肉が引き締まることを期待し、運動は続けようと思う。

明日は仕事再開だ。頑張ろう!

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告別式

2008-10-13 00:57:20 | 日記
秋の3連休の2日目。今日は、団地の外掃除とお葬式。お葬式は夫方の親戚筋。夫が仕事で行けないので私が代行した。
亡くなった人は、もう80代半ばなので、年齢からいって仕方がないといえば仕方がない年齢だともいえる。親戚にしろ近所の人にしろ、やはり80代後半になってくると寿命を考えなくてはいけない。しかし、老衰ではなく、何らかの病気で亡くなる人が多いから、それはやはり残念だ。
最近は、お年寄りが亡くなった場合、参列者が非常に少ない場合が多い。私が子どもの頃の田舎の葬式といえば、亡くなった本人の兄弟姉妹に子ども、そして、孫たちなどがいて、配偶者の兄弟姉妹・甥姪なども来るから、近所に住んでいる親族だけでも50人以上は簡単にあつまってしまうような有様だった。
しかし、最近では、故人の兄弟姉妹も既に亡くなっていたり、生きていても遠くに住んでいてご老体で来られなかったりするし、子どもの数も1人か2人で、その子どもが結婚しているとも限らず、そのため、その配偶者もいなければ孫もいないというケースも多い。身近な親戚・近所の人・故人の知人を集めても20人に満たないようなこともある。
定年までは会社に勤めてバリバリに働いていたような人でも、それから20年以上もたてば、仕事関係の人との交流もなくなり、以前勤めていた会社との関係も全くない。そうなると、せいぜい老人会なんかで何か一緒に活動をしていた人程度しか知人がいないということになってしまう。
そういう状況で、息子でもいれば、その仕事関係の人などが義理で葬儀に参列したりする。そういう人は、是非とも参列したいというわけではないはずだから、どんなものかなとも思う。そして、お通夜か告別式かどちらかにということになるので、参列者が分散し、それぞれの人数が減る結果にもなる。しかし、お通夜と告別式の両方があるから、なんとか都合をつけてどっちかに出られるともいえるので、参列者が少ないから一回にまとめてしまうというわけにもいかないだろう。また、仏教の儀式としては両方をする必要があるのかもしれない。
どっちにしても、その儀式の盛大さにくらべて、参列者が少ないのではないだろうかと思うお葬式が、最近多いように感じる。
そのうちお葬式の形も変わってくるのではないかと思う。

しかし、若い人が亡くなって、たくさんの人が参列するお葬式は悲しすぎる。80~90も過ぎて、少ない人々に静かに見送られていく葬式のほうが、自然でいいと思う。

まだまだ、血のつながりとか、婚姻関係とか、親戚というものについてもいろいろ感じることはあったが、今日はこのぐらいにしておこう。
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体操

2008-10-11 17:23:06 | 日記
このあいだは、民間の体操教室に行ってみたが、今日は区でやっている体操教室に参加してみた。そうしたら、なかなかよかった。
やはり値段が安いのが一番の魅力だ。入会金もないし、民間の3分の1くらいの値段で済む。インストラクターは20~30代前半の若い人だった。
このあいだの先生はかなりの老齢だった。それでも、ぜんぜん年を感じさせない肉体で、すばらしいわけだが、年寄りっぽい親切さは長所でもあり短所でもある。
若いインストラクターは、他の参加者がどうだとか、自分の経歴がどうだとか、そういうことはいちいち言わない。純粋に体操だけを教えてくれるのが、私にとってはいい。
私は、人間関係の面倒くさいのがあんまり好きではない。このあいだ見学したとき、義理や人情でやめにくくなったりするのはちょっとイヤだなと思った。
その日、帰るときには入会するようなことを言ってしまったが、民間のほうは辞めて区のほうにしようかと思っている。予算の問題も大きい。

それにしても、シェイプアップ体操などしていると、汗をかくし、普段使わない筋肉を動かして気持ちがいい。テンポの速いものなどは、体の動きを理解したり、反射神経を使ったりで、脳みそも必死に活動する。ボケ防止にもなりそうである。

そして、もしかして、私って運動が好きだったのかな?と思った。
広い床の上に立つと、逆立ちや側転などしたくなるのは、中学のとき、器械体操をやっていたからでもあるが、高校時代やっていた演劇も、そういう要素があった。
演劇部っていうのは、文化部ではあっても、腹筋運動をしたり発声練習をしたりして、肉体を作る必要があったし、やはり俳優というものは肉体を基本とする。舞台の上で、演技をするということは、普通の動きではないわけである。
だから、体育館とかステージとか、そのような「床」を見ると、アクティブな気分がふつふつと湧いてくるのである。

自分のこと、運動はキライだと思っていたが、意外にそうではないのかもしれない。

それにしても、私の下半身デブには愕然とする。体は硬いほうではないのだが、太ももの肉のせいで、脚を組むと前屈が止まってしまうような状況もあった。とにかく痩せたい。
参加者はみんな私より痩せていた。どうして太った人は来ないのだろうか?
こういうことに努力する人ってのは、本当になんとかしなくちゃいけない状況の人ではないようで、すでに充分格好の良い人が大部分である。あまりにも最悪の状態だと全身が映る鏡の前に立つ勇気は湧かないのかもしれない。
鏡の中の自分の現実の太さに唖然としてしまうが、事実を受け止めて、改善に向おうではないか。

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歓送迎会

2008-10-11 01:02:05 | 日記
会社を辞めていく人と、入ってきた人がいる。それで、歓送迎会をすることになった。
その出欠確認のために、社内の人間全員にメールが回っている。
入社してきたのは正社員で、その人のために歓迎会をする。辞める人は正社員と非正社員がいるが、送別会は正社員だけである。しかし、案内と出欠確認は全員に回っている。
何年も働いて辞めていく非正社員の立場になったらどうなのかな。私自身、自分の送別会をやって欲しいとは思わないにしても、こういうメールが本人に回ることを考えると複雑な気分だ。辞めていく人と同じ部署に限らず、他の部署の人だって仕事でかなりその人とかかわりを持っていたはずなのに、正社員と同じように快く送り出してあげようという気は起こらない会社なのだろうか。

非正社員であるパートタイマーは、歓迎されたり送別されたりする人間の対象にはなっていないが、歓迎したり送別したりする人間の一部にはなっている。
そのへんが矛盾しているな~と思うが、一応知らせが来るだけいいと思うべきかもしれない。

この矛盾を解決するためにはどうしたらいいかというと、歓送迎会のようなものには、非正社員は参加しなければいいということになる。そうすれば、人に対しても歓迎送別をしないし、自分自身も歓迎送別をされないということで、矛盾がなくなるということだ。
今まで、正社員の人とコミュニケーションを取るために参加していたのだが、私は今後社内行事には参加しないことにする。

もう1つの理由は、パートタイマーは幹事にはならないということだ。つまり、もしこのような行事に参加するとなると、いつも人の世話になっていて、自分自身は何もしないということになる。
いつも楽をしておいしいものを食べるばかりのような状況だ。
正社員の場合は、いやでも順番で幹事が回ってくるのだ。
だから、何年たっても幹事をしないような立場の人間が、そういう催しに出るのはやはり矛盾しているということになる。

これが、スーパーや飲食店なんかでは、店長だけが正社員で、あとの店員は全部パートタイマーかアルバイトだったので、一緒に働くもの全部が宴会に出ていたし、パートリーダーなどが幹事をしていた。日本語学校でも非常勤講師の割合が多かったので、それなりの幅を閉めて当然のように参加していた。

でも、今の会社では各部署に1人か2人、アシスタントとしてパートタイマーが入っており、その割合は10分の1くらいである。

正社員と非正社員はやはり全然違うものだ。日常、一緒に力を合わせて働いているつもりだが、それは単に「つもり」なのであって、上層を泳ぎ回る熱帯魚の目に、水底のコリドラスは魚としては映っていない。
だから、脇役に徹するのが身の程をわきまえた行動だ。
パートタイマーの先輩が誰もいかなる行事にも参加しないのはそういうわけなんだと思う。
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納得できない思い出

2008-10-10 00:57:20 | 日記
なぜだが、仕事中に過去の出来事を突然思い出した。
なんで、それが思い出されたのかとんと見当がつかないのだが、どうにも気の治まらない思い出だ。仕事で読んでいた文章の中に何かその記憶を引き出す語句でもあったのだろうか?と思うものの、やはり全くわからない。
頭の中にはたくさんの引き出しがあると聞くが、その中の引き出しのひとつを何かの拍子に引っ張り出してしまったらしい。
そして、その引き出しから飛び出してきた記憶は私の中で次第にくっきりとし、大きくなって仕事どころの気分ではなくなった。
いけない、仕事に集中しなくては・・・と思うものの、何であのときほかの方法はなかったのか!などという思いがはびこってしまい、しばらくその気持ちにとらわれてしまった。

それは、他人が聞くと大したことではないのかもしれない。
以前、新宿のとある店で子どもの服を買った。子供用のTシャツについては、サイズがS・M・Lとあって、身長によって3段階に分かれていた。
うちの子は3歳違いの女2人であり、上の子がL,下の子がMを買えばちょうどよいサイズだった。そこで、いろいろ子どもたちと一緒に選んだ後に、レジに子ども2人分のスポーツタオルやソックスやTシャツを持って行って買った。そのときはバーゲンだったので、返品はできないと書いてあった。
レジは店の奥にあり、会計を済ませて出口に向かい始めたとき、Tシャツ売り場を通り、はたと気になって、買ったばかりのTシャツを確かめてみた。あっ、上の子用に買ったTシャツがMサイズになっている。Mではダメだ。Lじゃないといけない。間違えた。上の子の気に入ったデザインを買ったのだが、子どもが選んだのをそのまま持って行ってしまい、サイズを確認し忘れたのだった。
レジに戻って、今買ったばかりだが、Lサイズに交換してくれと頼んだ。
すると、店員は、交換はできないと言った。バーゲン品は返品交換はできないきまりなのはわかっている。しかし、買ってから3分もたっていない。他にレジに並んでいるお客さんがいるわけでもないし、Tシャツはサイズが違うだけで値段も同じだし、ただ袋から入れ替えてくれるだけでいいはずだった。バーコードなんかが違って交換できないのだろうか。
Mサイズは下の子ならちょうどいい大きさだが、もともと下の子がそのデザインを好きなわけではなく、あくまでも上の子用に上の子の好みのものを買ったのだ。
なんとかお願いできないかと頼んだが店員は頑として受け付けてくれない。下の子がいるのを見越しての態度だったかもしれない。それは下の子に着せて、上の子は上の子でもう1枚買えばいいでしょうという魂胆のようだ。しかし、バーゲン品でも1枚2000円以上する品物を追加して買う余裕などはなかった。
今の私なら、店長さんか責任者を呼んでくれと言って談判するに違いないが、そのころはまだ30代前半くらいでおとなしかった。子どもの前でぐだぐだごねる母親もよくないように思った。
Mサイズじゃいりませんっ!などと言ってTシャツをぶん投げて帰る。
とにかく、取り替えさせてもらうわよ、と言って勝手に袋に入れ替えて強行する。
いろんな考えが浮かんだが、
実際には、「そうですか。・・・・じゃあ、下の子に着せるしかないですね・・・」という具合で悲しく帰宅した。そのときは、下の子が着ればいいかと確かに思っていた。

ところが、実際のところ、サイズは確かに下の子にちょうど良かったのだが、下の子はそのデザインが好きではなく、結局全く着ないまま捨ててしまった。上の子には、かわいそうなことをしてしまった。

結局は私が悪いんだよな~。無駄なことしたな~。バカだな~。

それにしても、むかつく店だったな~。
むかむかむかむかむか~~~~~~~~~~
なんだか、落ち着かない。
なんで、10何年も前のことがこんなに頭に来たままなんだ?
とにかく、このことを忘れなければ仕事にならないぞ。

あっ、そういえば、あの店はその後何年もしないうちに無くなってた。
つぶれたんだ。
そりゃそうだろ、あんなサービスの悪い店はダメに決まっている。
ざまあ見ろだ。
店が長続きしなかったのが、私にとってせめてもの救いだが、
やっぱり納得できないなあ~

そもそも、私が間違えたのがいけないとはいえ、
上の子のサイズに交換してくれたら、物も無駄にならなかったし、上の子が喜んで毎日着たはずなのにな~

バッカヤロー
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