山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

どんどん大変な自分

2008-10-09 21:52:01 | 日記
私の仕事は机に向かったきりだから、ものすごい運動不足になる。
動かないということは、体が活性化しない。脂肪がどんどん蓄積し、血液の循環が悪くなり、筋肉も退化してしまう。これは不健康だ。
毎日働かないで、1日おきくらいに働いて、休みの日はウォーキングでもして、複数のスーパーのセール品をチェックし、安い品物を買いにいけば、肉体も健康的だし、経済的にもいいことだ。
しかし、私は毎日働き続け、運動不足に陥っている。
そして、やせるためにスポーツセンターなんかに通ったら、またさらにお金がかかり、どんどんどんどん金銭的に苦しくなり、そして多忙となる。

・・・なにもかもやめちまったらどうなんだろう・・・

いっぱい働いていっぱい浪費するのと、少し働いて少し浪費するのとはどう違うのか。

働いているということは、世の中のために何かしているってことだ。
そして、お金を使っているということは、世の中を活性化しているし、誰かを儲けさせているということだ。
だから、自分のしていることは無駄ではない。

・・・そうだよ、だから頑張っているんだ・・・

・・・しかし、なんか疲れるな~・・・

昔専業主婦だったときに、お金を稼がないで物を消費するだけの自分が恥ずかしいと思っていた時期がある。それで、働き始めたということもあるのだが、その考えは間違っていたのかもしれない。
つまり、ものを消費すること自体が、世の中の役にたっているということなのだ。
お金もちの奥様が毎日お昼にフランス料理のレストランで食事をしたとしよう。そうすると、そのレストランは、その人のおかげで収益を得るわけだ。
いらない高級な服をバカスカ買ったとしよう。そうすれば、洋服屋さんが収益を得てよろこぶわけだ。だから、お金を使う人こそ世の中の役になっているといえるかもしれない。

体操クラブに入るつもりで、スポーツウェアなど買いました。うわあ、またお金がかかる。
でも、これも無駄遣いじゃないよ、世の中のためと自分のためだよ。
私はお金持ちじゃないから、お金を使うためには自分で稼がないとね。

・・・ふう~っ、行きていくって大変だね。・・・
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最近思った事

2008-10-09 21:27:52 | 日記
非正社員という同じ傷を舐め合っていた仲間の1人が、転職して正社員となる。
そんな日は、思いもかけないある日、突然やってきた。
そうだ、人間というのは、日々立場が変わるわけだ。正社員がクビになることもあるし、非正社員が正社員へとランクアップすることもある。
同じ人間なんだから、短期間のうちに中身まで変わるわけもないのに、外から見たところ、別種の人となるのである。
その人が同じ会社にいたら相変らずパートタイマーなわけだ。時給1000円で雇っていた人を、いきなり給料20万円、ボーナス・退職金ありの待遇に変更するわけがないのだ。
だから、やっぱり正社員になるには、転職するしかないだろう。

正社員にならなくていいから、時給上げてくれないかな~。

世の中、株価が下がって雲行きが悪い。こうなると、どんな会社も勢いが落ちてくる。仕事も減り、収益も減る。だから、時給が上がることは望めないだろうし、仕事時間を減らされるおそれもある。

話は変わるが、株を買う人がいなくなると、企業はつぶれる。だから、株を買ってくれる人がいないといけない。だから、株の収益については非課税にするという案が出ている。
そうだ、世の中を動かすのは、お金もちである。貧乏人がいっそう貧乏になって死んで行っても、世の中びくともしないんだ。
でも、お金持ちが勢いを無くすと困るわけだ。
貧乏人がビビたるお金を一生懸命貯金しても、そのお金は世の中を活性化するわけでもない。だから、貯金の金利を非課税になんかしたところで意味はない。
それよりも、株の収益のほうを非課税にすれば、お金持ちが喜んで、もともと持っていた余り金で株をいっぱい買うから、会社はそのお金を運用し、世の中が活性化するわけだ。

地方の医療が疲弊しているという。でも、地方の貧乏人のお年寄りが充分な医療を受けられなくて、数年早く死んでしまったとしても、世の中何にも困らないということだ。
そんなことが、最近わかってきた。

だから、政府に何か望んでもだめだということがわかる。
結局は、自分で自分をなんとかしなくちゃいけないということだ。

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ごき

2008-10-09 00:06:33 | 日記
誤記をみつけるのは、私の仕事だ。
今日みつけた誤記は、「二酸化酸素」

にさんかさんそ?そんなものあるかな?
二酸化炭素はCO2である。(添え字ができないので、2は大きく表示しておく。)
そうしたら、二酸化酸素というのはOO2ではないか。そりゃ違うでしょ。そりゃないよね。Oが3つだとO3で、オゾンだったかな?それのことでもないし・・・。
車が走ると二酸化酸素が出るという文脈だから、やっぱり二酸化炭素の間違いに違いない。
その文書は昔からあった文書だったので、その間違いは何年も前からそのままだったということだ。いまごろになって発見されることもあるもんだ。

しかし、化学に詳しくない私としては、もしかしたら二酸化酸素というものが存在するのではないだろうか?などと思って不安になるのだった。

人の誤記を探すのは得意といえば得意だが、そのくせ、自分の誤記がひどい。
会社では、パソコンの掲示板に「サイボウズ」というのを使っている。
ここに、仕事のマニュアルや、いろんな重要な仕事上の情報が載せられる。
そのことに関してメールを打っていた。
作成したメールを念のために読み直してみると、「サイボウズに掲載されています。」というところ、なんと「細胞図に掲載されています」と書いてあるではないか。
うわっ、気がついてよかった~。細胞図じゃ、まるで意味不明だ。

「サイボウズ」といえば、「最坊主」などと変換されるかもしれないな~などと思った。
坊主なんかに変換されたらもっと笑っちゃうぞと思ったのだが、「サイボウズ」ってどういう意味の外国語だろうと興味がわいた。
そして、検索してみた。
そしたら、なんと、サイボウズのボウズは「坊主」だった!!!
サイボウズのサイは「電脳」を意味する「cyber」から取ったもので、ボウズは親しみを込めた「子供」の呼び方「坊主 (bozu)」なのだそうだ。サイボウズは社名だが、「電脳社会の未来を担う者達」という意味も込めているらしい。
ふうん、おもしろいねえ。
[参照:サイボウズ株式会社]

それにしても、人の誤記をみつけるのはいいけど、自分の誤記には要注意だな~。
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雨の中の遭遇

2008-10-07 23:15:38 | 日記
仕事を終えてロッカーに行き、薄いコートを羽織った。今朝は暖かかったので、上着を着て行かなかった。でも、帰りは肌寒いのではいかと思い、以前置きっぱなしになっていたコートを着て帰ることにした。
このコート、もう何週間もロッカーに入っていた。なぜかというと、ロッカーが私の席からも出入り口からも非常に遠い。どうも生活動線が悪すぎる。それで、秋口になって最初にコートを着て行ったときに、ロッカーに立ち寄るのを忘れてそのまま帰ってしまったのだ。
その後、上着を来て行ったときに、自分のロッカーの扉を開いたら、1枚のコートがぶら下がっていた。「誰?間違って私のロッカーにコートを掛けてるのは・・・」と思ったら、なんのことはない自分のコートだった。
しかし、ロッカーに立寄るときはいつも上着を着ていくので、着て行った上着を着て帰るから、最初のコートは残ったままだった。
それを今日はついに着て帰れることになった。

コートを着て会社を出て、会社近くのスーパーで夕飯の買物をし、出ようとすると、なななななんと、かなりの雨が降っているではないか。とても傘がなければ無理である。
そういえば、このコートはレインコートではないのだが、よく雨の日などに着るものだったので、なんか、コートが雨を呼んでしまったような気がした。
それにしてもこの本挌的な雨では、到底ずぶぬれにならないで帰ることはできない。
にわか雨だったら止むかもしれないけど、どうなんだろう・・・。
スーパーから会社までは自転車で1~2分である。会社には、傘がある。
今さらもう一回会社に出勤?するのはどうかな~と思ったが、背に腹は換えられない。やはり傘が必要だ。
そこで、思い切って雨の中を自転車に飛び乗り、会社に戻って傘を取ってきた。案の定、会社の人たちに会ってしまったが、「途中で雨が降ってきたので傘を取りに・・・」と説明した。会社の人たちも突然の雨に驚いていたが、ある人の話では、天気予報で午後6時に雨が降ると言っていたとのことだ。この雨はにわか雨ではなく、明日の朝まで続くそうだ。

傘をさして自転車に乗り、自宅に向っていると、突然さらに雨脚が強くなり、バケツをひっくり返したような降りになってしまった。傘をさしていてもずぶぬれになるのは時間の問題だ。路上には傘を持っていなくてずぶぬれの人もいる。子どもがわずかな軒下で雨をよけていたりした。5時半くらいでもうあたりは真っ暗である。
すると、傘のない高校生の男の子が前方から走ってきた。顔にかかる雨をよけるために、あんまり前を見ていないらしい。私の自転車に向って突進してくるではないか。
ちょっと危ないよ、どこ見て走ってくるの。自転車のスピードを落としたりよけたりしてなんとかぶつからずに済んだ。考えてみたら、その子がちゃんと前を見ていないのも確かかだったかもしれないが、私が自転車のライトを点けていなかったのも原因のようだった。行く先には交番もあるので、急いでライトをつけた。

公営住宅の敷地に到着すると、路上に水溜りがいっぱいできていた。アスファルトで舗装されているにもかかわらず、こんなにデコボコでいいのかな~。
何十年も経つと、舗装もそのままというわけにはいかないようだ。いつのまにか、こんなになっちゃったんだな~。舗装を直す前に建て替えだろうね。

駐輪場につくとなにやらうごめくものが・・・。
カエル君、やっぱり雨が好きなんだね。もうケロケロ鳴く季節ではないものの、まだ冬眠はしないらしい。一階で池を作っている家の人も最近は少なくなってきた。だんだんカエルたちの棲家もなくなっていきそうだ。

携帯で写そうとカメラを向けると、すたすたと逃げて行く。暢気そうに見えるが、ちゃんと警戒心はあるらしい。
暗いので、フレームの中のどこにカエルがいるのかもわかりにくい。一応シャッターを押したが、やっぱり真っ暗でわけのわからないものしか撮れなかった。
カエル君は自転車置き場の裏のほうに姿を消してしまった。



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イタタタタタ

2008-10-06 23:39:15 | 日記
今日は、体操教室の体験レッスンに行った。
最近全く運動をしていないし、どんどん太って行くばかりなので、なんとかしないといけないと思っていた。
会社の人たちや友人などもスポーツジムに通っている人が多くなっている。痩せるためにお金を払っていちいち運動をするというのもどうかと思っていたのだが、そんなことは言っていられなくなってきた。
体の線は崩れるばかりだ。腹は出てくるし、太モモもどんどん太くなってきたのだ。
物事は10月から新しくなると思ったので、教室案内など見ていたら、ちょうど今日開講されるものがあった。しかし、参加してみると新人はいなくてずっと続けているひとばかりだった。でも、親切に教えてくれた。
普段使わない足や腕の筋肉、腰周りや腹の筋肉をかなり使った感じだ。
終了直後は大したことなかったが、帰宅してから何やら足や腹の筋肉が痛くなってきた。
これは何かの変化がおきている。単に疲労しただけかもしれないが、もしかしたら脂肪が燃焼しているかもしれない。これを続ければ今までよりも引き締まった体になれることは確かだろう。でも、月に7~8千円も出せるかな~。
食費を節約して体操に当てようかな~。
スラリとした足、引き締まったウエスト、ぴんと伸びた背筋になりたいものである。
以前から習っている人たちを見ると、やはり太った人はいない。抜群のスタイルの人もいないが、中高年にしてはいいほうだ。先生などは20歳は若く見える。
これをやっても抜群のスタイルにはなれないとは思うものの、普通に見えるその人たちは、少なくとも私よりはいいようだ。
つまり、そんだけ努力をしてやっと普通を保つわけだから、努力しないと全然だめだということだ。
週に1回くらい汗を流し、衰えた筋肉に刺激を与えるのもいいかなと思った。
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「エ」なのか「メ」なのか

2008-10-05 23:48:48 | 日記
化学系の書物の校正をする場合、やはり化学の知識がないのはかなり苦しい。
先日、誤記の確認をしていた文章の中に、「ジエチルエーテル」と「ジメチルエーテル」が出てきた。文の流れからして、おそらく同じ物質のことを言っているはずなのに、「エ」と「メ」が違う。いったいどっちが正しいのか?
これは、以前書いた「重油」と「C重油」の違いどころではないだろう。「C重油」は「重油」の一部だが、「ジエチルエーテル」と「ジメチルエーテル」は別物のはずだ。しかし、似ているものなのだろうか?それが置き換わっても矛盾はないのだろうか?
恥ずかしながら、そんなこともわからなかった。

そこで、また調べてみる。
まず、これらの物質の共通点は「エーテル」である。エーテルとは「C-O-C]の結合をしているものだ。

ジエチルエーテル(diethyl ether)はC4H10O、示性式はC2H5OC2H5.。別名エトキシエタン。
特異臭があり、麻酔性がある。揮発しやすくきわめて引火しやすい。油脂などの抽出溶媒として用いる。消防法で第4種危険物の特殊引火物として指定されている。普通、エーテルというと、この「ジエチルエーテル」をさすとのこと。

ジメチルエーテル(dimethyl ether)は、C2H6O、示性式はCH3OCH3.。別名メトキシエタン。
エーテルの一種で最も単純なもの。DMEと略称される。LPG(=liquefied petroleum gas液化石油ガス)の代替となる。LPGより引火性が低いので、ドライヤーを使うスプレーなどにも使用されている。

ということで、高校化学の参考書などを調べてみると、メチル基はCH3-、エチル基はC2H5
であって、簡単に言うと、メチル基の方がエチル基より炭素が少ないということだ。

ジメチルエーテルは燃料となり、ジエチルエーテルは溶媒となる。
ジメチルエーテルは引火しにくく、ジエチルエーテルは引火しやすくて危険。

このくらいの基礎知識があれば、文脈からジエチルエーテルなのかジメチルエーテルなのか、どちらがふさわしいかはわかるわけで、やはり、化学の基礎知識が必要だ。
化学のベンキョーしよ~っと。

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本の処分

2008-10-05 18:17:59 | 日記
秋晴れの2日間だった。
今日は、快晴ではないものの、思ったより天気が崩れなくてよかった。

昨日は午後から夕方まで昼寝をしていてもったいないことをしたが、今日は、なかなか有意義に過ごせた。

まず、古本をブックオフにもって行った。多くは日本語教材だが、一般の新刊単行本や、文庫・新書も少しあった。古本を預けて2時間くらいして結果を聞きに行ったら、21冊に値段がついて900円くらいになった。もう少し高くついてくれたらなあと思うが、そんなもんらしい。
しかし、最初に結果を見た時に、見たこともない本の題名やコミック・ゲーム機、などの明細を見せられて、他人のものと間違っていることが判然としていた。それで、違う旨伝えると、何やら調べていたようだが、新たに明細を見せられることなくレシートだけが戻ってきた。それを見ると、文庫と新書は一冊あたり10円、単行本は20円、雑誌は70円くらいに計算されている。雑誌を出した記憶はないのだが、雑誌という分類になったものがあるのか、よくわからない。
ものすごい混雑だったので、人の物とこんがらがってしまったのかもしれないが、もう面倒くさいからそれでいいことにする。

日本語教材はかなり多くもどってきてしまった。新品同様のものだけ出したのだが、小さな名前の版を押してあるものがあった。一時、ボランティア教室に教材を貸してあった時に、個人のものであることを区別するために押してあったのだが、それが裏目にでてしまった。
値段のつかなかったものは廃棄となるという。0円の買取でも売ってくれれば世の中の役にたつが、売りに出さないならば、もったいないから家に持ち帰った。
「みんなの日本語」という教科書はⅠとⅡがあり、ごく一般的な日本語の教科書だが、これは日本語学校で教師に配布されたので、2冊づつもっていた。その新品のほうを持っていったのだが、1冊はどうしても問題の解答が見つからず、古い解答をはさんで出した。そうしたら、それは値段がつかなくて、もどってきた。
だから、家にある古いほうを捨て、新しいほうを自宅に残すことにした。

それから、自宅に帰って、時代遅れの日本語教材は資源ごみに出すように束にしてまとめた。例えば「新日本語の基礎」というものは「みんなの日本語」の前の時代のもので、「文化初級日本語」は「新文化初級日本語」の前のものだ。これらの指導書なども一式捨てる。

そのほか、日本語教師養成講座の教科書や、教育実習のときの資料なども捨てることにした。これで、かなり本箱がすっきりとした。

整理をしていると、買ったものの読んでない本が何冊も出てきた。そんな本買ったことも忘れていた。一度は自分で読もうと思った本なのだから、これから読もうと思う。

まだまだ整理しなければならないものがたくさんあるが、かなり宿便が取れたという感じで、すっきりした。
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コミュニケーション

2008-10-04 19:44:14 | 日記
私の勤めている会社では、社員同士のコミュニケーションが不足していると言われている。
個々に仕事に取り組むことが多く、神経を集中させるために、各自の机は高いパーテーションで区切られていた。しかし、それではさらにコミュニケーションが取りにくいということで、数ヶ月前の改装と組織変更の時に、パーテーションを低くしたり、必要以上に区切らないように改善された。しかし、それでもコミュニケーションが行き届くようになったとはいえないようだ。

そうなると、仕事中はともかくとして、それ以外の時間にコミュニケーションをとる機会をもつことが望ましい。そこで、たまに部署ごとの飲み会があったりするし、秋には社員旅行がある。
しかし、この社員旅行に参加する人間も40パーセント程度のようだ。1日目は金曜の平日になるが、2日目が土曜日で、自分の休日がつぶれるというのを嫌がる人も多い。経営者や上司と旅行にいってもくつろげないから、どうせ行くなら個人で勝手に行きたいなどと思うらしい。特に役職のない若い社員の参加率が悪い。幹事は必死に参加者を増やそうとしているが、幹事とて、自分が幹事でなければ参加なんかしたくないという状況かもしれない。
昔は社員旅行といえばほぼ強制的な感じだったが、今ではそうではない。まあ、行きたい者が行ってコミュニケーションをとり、楽しめばいいのかと、割り切った考えをするしかないようにも思う。いずれにしても、パートタイマーには関係なく、その日は有給休暇をとるのでゆっくりできる。
旅行に参加しない社員は、特別の理由がない限り会社で仕事をするということになっているらしい。

ところで、今日は、日本語を教えていた時に買ってあった本などをブックオフに持っていこうかと調べていたところ、「ファシリテーション革命~参加型の場づくり技法」という本が出てきた。この本はほとんど読んでいないのだが、ファシリテーターとは参加者と参加者をつなぎ、情報を引き出したりコミュニケーションをさせたりする役目である。司会者ににているが、むしろ裏方として会場を走り回るというか、お助けマンのような存在だと認識している。
これが日本語を教える場で活用されるのは、言葉や文化の違う外国人が日本にやってきて知らないもの同志緊張しているところを、リラックスさせ、交流させてお互いに情報を交換したり友達になったりするために使うのだった。

知らない者同士に話をさせるというのは難しいことだが、簡単な方法がある。
その中で、以前、地域の日本語教室でやっていたことの1つを思い出した。
何十人かいる参加者に、会場の中で輪になって誕生日順に並んでもらうというものだ。この場合、参加者は自分の誕生日を人に伝えたり、人の誕生日を聞いたりしなければならなくなり、自然に言葉を交わす。その中で、誕生日が近いとか同じとかいうことで親近感をもったりする。一通り並んだところで、間違いがないか誕生日を言ってもらうが、特別な日に生まれた人などもみんなの印象に残ったりする。

そのほかによくやったのが、「部屋の四隅」というものである。ひとつの質問に対して4つの答えの選択肢を与え、それに当てはまる4隅のひとつに移動してもらう。
たとえば、朝食にご飯を食べる人、パンを食べる人、そのほかを食べる人、食べない人というふうに分け、それに当てはまるところに移動してもらう。移動したところでそれに関するインタビューをする。
4隅に分かれるための質問は何でもいい。たとえば、好きな食べ物、好きな色、好きな動物を4択で答えたり、通勤時間や通勤方法を質問し4つに分かれてもらい、分かれたところで、同じ部類の人同士話をする時間をとり、次にみんなの前で、より詳しい内容や、選んだ理由などのコメントをしてもらうと、その人についての再発見があって楽しい。

ふと、思ったのは、会社のレクリエーションなんかでも、ただお酒を飲んだり、新人に自己紹介をさせたりするだけではなく、こういうことをしたら、今までにないコミュニケーションが取れるのではないかなと思ったりした。




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10年後の自分、10年前の自分

2008-10-04 11:24:52 | 日記
ふと、思い出したことがある。
それは、40歳のころ、「10年後の自分へ」という手紙が募集されていて、応募したことがあるのだ。100通くらの優秀作が冊子となって紹介されたと思うが、当然のことながら私の自分への手紙は、駄作のひとつとして葬り去られた。当時は、ワープロで書いていた。ワープロは捨てちゃったし、自分が書いた文を印刷して保存してあるわけでもないので、今となっては読み返すこともできない。

ただ、そこにどんなことを書いたかというと、当時日本語教師になったかならないかという頃であり、「10年後には日本語教師のベテランとして活躍していることでしょう。活躍していればいいな。今のような未熟な自分ではなく、堂々と活躍していることを信じます。」というようなことを書いたのだった。

来年のことを言うと鬼が笑うというが、10年後のことを予測したりするのは、全くあてにならない。早くも3~4年で挫折し、全く違う道を歩み始めてしまったのだ。
何が日本語教師のベテランだ、ちゃんちゃらおかしいね。

そして、それからまだ10年も経ってはいないが、今日はついに本箱の肥やしになっている日本語教材を処分しようと思っている。もうかなり処分したものの、教科書や指導書などが残っているのだ。こういうの、そのまま捨てるんじゃなくて、必要な人に安く譲ったらどうかと思っていたが、自分が思うほど貴重なものじゃないということにふと気がついた。これが普通の本だったとすれば、何年か前に買って、今も同様のものが店に売られているようなありふれた品物だとすれば、それは2足3文の価値しかない。日本語教材にしても例外ではないし、特定の人間だけしか必要としない点では、普通以下の価値しかないのだ。こんなのはネットで必要な人を探して送ったりする手間を考えたら資源ごみに出してしまったほうがいいと気がついた。使わない日本語教材に埋もれてストレスを溜めている人ってのもなさけない話だ。

日本語教師には挫折したけど、道を変えてみてそう悪くはなかっただろうと今では思っている。おそらく、日本語学校の非常勤をしていたら、厚生年金や健康保険にも入っていなかっただろうし、安定した収入も得られなかったはずだ。何よりも体を壊していたかもしれない。

当時の私にとって、10年後の自分は人生の大先輩のような気がした。そりゃあ新米の日本語教師にとって、10年のベテラン教師は大先輩である。でも、実際には、挫折した人生の大先輩になっている。まあ、それでもいいか。
違う道もある、違う職業もあるということがわかったし、人間は自分の思うとおりの道に進むのではなく、思わぬ方向に進んでしまうこともあるということがわかった。
そして、今の仕事はすでに3年10ヶ月勤めているから、いままでの人生のうちで一番長く1つの職場に身を置いているということで、そういう点では自分に一番合った安住の環境を見つけたとも言えるわけだ。

これから10年後の自分は何をしているのか? 
予測できないということは、目標も立てていないということだけど、何をしていたとしても、とにかく元気で何かに向かって頑張っていられたらいいなと思う。

皆さんの10年前はどうでしたか?
そして、10年後はどなっていると思いますか?

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こんにゃくゼリー

2008-10-04 09:55:53 | 日記
こんにゃくゼリーを喉に詰らせて亡くなるという事故がここ数年多発しているようだ。
この9月にも死亡事故があったため、農水省が業界団体に再発防止策を求めていたそうだ。
食品衛生上の問題などはなく、法的な規制はできないため、野田聖子消費者行政担当相は、製造元に商品の自主回収を求めていたが、自主回収はされないこととなった。
再発防止策としては、警告表示を入れるということにとどまったようである。
この程度では、さらに犠牲者がでないとも限らず、業界の対応については、納得できない人々も多いようである。

今まで、こんにゃくゼリーで事故にあったのは、大部分が幼児と老人のようだ。こんにゃくゼリーは子供用のお菓子のように見えるし、その形状から、やわらかく消化もよさそうで、小さい子や体力の衰えたお年寄りにもちょうどよさそうな印象を受けてしまう。
まずは、そのへんの認識を変えなくてはいけないだろう。

外国では、こんにゃくゼリーの危険性から、数年前から、すでに流通しないような措置が取られているそうだ。だから、日本でいまだに販売が続けられているのはどうかという意見も多い。

だが、こんにゃくゼリーは、確かにおいしいし、その食感もかなりいいものである。危険性さえなければ、このようなものが無くなってしまうといいうのは確かに惜しい。

そして、ふと危険な食品というのはこれだけなのだろうか?と思った。
よく知られているものは「餅」だ。正月には必ずお年寄りが餅をノドに詰まらせるという事故が多発している。だからといって、餅が製造販売を中止されることはない。
餅は古来からある食べ物であり、メーカーによるものでもないので、対象外となるのだろう。
そのほかに思い出したのは飴だった。うちの子が3~4歳くらいのころ、同じくらいの年齢の子が送迎バスの中で飴をなめていたところ、突然にノドに詰まらせて、目を白黒させて苦しみ始めたのだ。その場に居合わせた大人が異変に気付き、子どもを逆さまにして背中をたたいて飴を吐きださせて助けたということがあった。
飴をノドに詰らせて死亡したということはあまり聞かないが、危険なことは確かである。
だからといって、古来からある飴が製造を中止されることもないはずだ。

となると、こんにゃくゼリーというのは、古来のものではなく、新たに発明された製法で作ったものであるというのが、餅や飴との違いということになるだろう。

やはり、製造を中止することまでは要求できないと思うが、ノドに詰まらないような改良が望まれるし、また、何よりも、危険性のあるものであるという情報を世の中の常識としていきわたるようにする必要がある。

いくらおいしくても、命を懸けてまで食べるかどうか、消費者が自分で判断するということだ。


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今週は疲れた

2008-10-04 00:43:09 | 日記
今週はすごく長く感じた。
それは、9月に敬老の日や秋分の日があって、楽な思いをする習慣が身についてしまったからかもしれない。その後、5日間続けて働くという普通の週がやってきて、どっと疲れが押し寄せてきた感じもする。
秋になって、夏の疲れが出てきたとか、涼しくなったので何か調子が狂うということもある。食欲の秋で、もりもり食べるために、物理的に肉体が重くなり、その肉体を移動するのにエネルギーが必要となって、疲れるのかもしれない。

そのほかに不調をきたしたのは眼である。夕方が近づくにつれて目がかすんでくる。ピントが合わない。目の縁がひりひりする。
それで、火曜日に目医者さんに行って、目薬を2本と、まぶたにつける薬を処方してもらった。それで、ひりひりは多少よくなったものの、まだ完治はしていない。仕事中にブルーベリーの飴をなめたりしている。家ではカシスの錠剤を飲んでる。

仕事で疲れると、「鶴の恩返し」を思い出す。あたかも、自分の羽を抜いて織物を織っている鶴のような気がしてくる。
日本語教師をしていたときは、よく徹夜で授業の準備をしていたが、40過ぎてからの新米は、かなりきつかった。やはり、肉体に無理がきかなくなってくるのだ。普通、20代で大変な思いをしておけば、40代になったところでは、経験をつんでいるから、授業の準備にそんなに労力を費やす必要はないはずである。すでに何度も同じような内容の授業を繰り返ししているはずだからだ。
徹夜で準備をすると、脳にとって非常に悪い。毎日のように脳細胞が破壊されていくような気がした。実際、そのころかなりの脳細胞が破壊してしまったのではないかと思える。
幸い、そういう危機感は今はない。
でも、眼の負担が大きいと感じる。会社では若い社員さんたちは、一日中パソコンに向って仕事をしている。翻訳の人などは、二つの画面を並べて一方の画面を読みつつ、他方の画面に打ち込んでいくとか言っていた。それは恐ろしく眼が疲れるだろう。
でも、やはり若い人は若いから、肉体の耐久性が違う。
老眼が進みつつある中高年にとっては、目の使いすぎは、致命的である。だから、この仕事も目が原因でそう長くは働けないかもしれないなあ、とふと思ったりする。
先日の視力検査で、1.2だった右目の視力が0.3になっていたのもショックだった。
仕事帰りにやったからかもしれないが、物が二重に見えるので、丸い図形のどちらが開いているかというのが全くわからないのだった。
肉体のどこかに無理をかけて、身をすり減らして仕事をするというのは、なんとかしたいものだ。

でも、働いている人っていうのはみんなこんな状況なのだろう。過労死なんてのがあるから、こんなのはいいほうである。
今、女性のほうが寿命が長いけど、それはきっと女性が家庭に入っていたからではないかと思ったりする。働き蜂だった男性はやはり体を酷使してきたから、寿命が短いのではなかろうか。今後、男女が同じように働く状況になると、寿命もあまり変わらなくなるかもしれない。

9月は、上半期の締めがあり、10月になって一段落したかと思ったのだが、今日は忙しかった。
今日中という書類が昼前に2件届いた。その前に手をつけていたものがあったので、それを終わらせてからとりかかったところ、意外にも、その2件の文書が長かったのだ。普通1件10~20ページくらいのところ、24ページと32ページだった。つまり、同じ2件でも10ページ物だったら、2つあわせても20ページである。それが2つ合わせて56ページあるということは、5件分もあるということではないか。だから週末がとどめの残業になり、疲れたわけだ。

とにかく、やっと今週の仕事が終わった。明日はゆっくりできる。
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可能性

2008-10-02 23:58:29 | 日記
今日は、テレビで「夢をかなえる象」を見た。この本は以前買って読み始めたのだが、途中でやめてしまった。靴を磨けというところでいやになってしまった。
何かを課されるととたんにいやになってしまう。別にこの本を読みながら靴を磨かなくたってよかったのだ。でも、なんだか読むのさえいやになってしまったのが事実だ。
テレビドラマは面白かった。これを機に、また本を読んでみようかと思った。

座っているだけでは何も変わらない。自分のやり残したことを実行に移そう。
人を楽しませること。人を手助けして物事を成功に導くこと。人に感謝すること。
不運なことが起きたら、運が良かったと言おう。等等、教えられることが多かった。

自分の可能性はあるのかないのか、やはり実行しない限り、可能性はゼロで終わる。

前回の学歴の話にも関連するが、自分は学歴がないからとか、自分はそんな柄じゃないとか、そういう考えから、本当にやりたいことを思いとどまることも多い。
ある理系の大学で無料の公開講座が開かれ、ちょっと感心を持っているのだが、その参加者というのは、主に理系の会社に勤めている人、研究者、理系の大学生や卒業生を対象としているらしいということがわかる。私の場合、一応放送大学の理系のコースをとっているとはいえ、1つも専門科目の単位が取れていない。また、理系の会社に勤めているとはいえ、パートタイマーのオバちゃんで理系の知識がなくてもなんとかなる。そんな人が、その講座を受講するのは場違いだと思うので、気がひけて申し込むことができない。

先日参加した、「文化財の保存修復」のシンポジウムも、申し込みさえすれば、単に文化財の保護や修復に関心をもっている一般人でも参加できるのだった。しかし、実際に活動するとなると、学芸員だったり、理系の大学を出て化学的な修復技術などを身につけたりした人でないとお呼びでないわけで、実際的には私は何もすることができない。
そういう現場に行って、力仕事をしたり、お茶を入れたりするのでも役に立つのかな、と思ったりもするが、やはり到底足を踏みいれることのできない世界だなと思った。せいぜい、どこにどんな文化財や世界遺産などがあり、それがどのように保存されているのかということを知るのに興味を抱くくらいなものである。

こんな年になったら、今さら何にもできないなあというのが実感だ。

話が飛ぶけど、小泉さんの息子さんが政治家になるのは、私はそれでいいと思っているのだ。
親の七光りなんて充分に活用すべきだと思う。土台のない人間がのし上がって行くのは大変なんだ。それは政治家に限らない。たとえば、家を持つにしても、生まれながらに家があればそれを受け継げばいいし、もし親が頭金を出してくれるなら、それを大いに活用して家を買えばいいと思う。それを一文無しから始めろってことになったら、家は建てられたにしても子供をほったらかしにして共働きしたりするような犠牲を払うことになるだろう。だから、私は親が築いたものは、その人の特権だと思うから、大いに活用すればいいと思うのだ。小泉さんの息子は1流大学でなくても、そこで可能性をためすことができるわけだ。それでダメだったらダメで仕方がないし、成功すればしたで、めでたしである。

アタマが悪くても金がある、金がなくても美貌がある、美貌がなくても知恵がある、など、人それぞれになにか1つでも武器があるなら、それを大いに活用すればいいよ。
せっかくある武器を活用しないなら、それは可能性を試すこともできないで終わっちゃうって事だからね。

時には場違いなところに出没して、可能性を試すこともアリかもしれない。
それで格好の悪い思いをしたり、結局は失敗に終わるかもしれないけど、可能性を試した結果なのなら、それはそれで納得が行くだろう。
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学歴

2008-10-02 18:45:37 | 日記
小泉元総理が、辞職して、その代わりに自分の次男を同じ選挙区の後継ぎにするということで、その小泉進次郎なる人物がどういう人間なのかということに興味を抱いている人が多い。Wikipediaではまだ記述されていない。しかし、2チャンネルやなんかでは、早くもあれやこれやと論議がかもし出されているようだ。

一般の一個人のことについてああだこうだと論議するのは失礼だが、もはや公人となっているという扱いだからしかたないだろう。
その中で、彼は子どものときからそれほど成績はよくなかった、などという情報が飛び交っている。そして、日本ではあまりいい大学を出なかったのだそうだ。そして、何か華々しい仕事についたわけでもないらしい。しかし、アメリカに留学して大学院まででているとすれば、日本の過去の大学の経歴なんかは払拭されるということだ。最初は総理であった父親のコネで入ることができたにせよ、その後、自分の力でちゃんとやるべきことをしたのなら立派じゃないかという意見もあるようだった。

学歴とは何か?と私はよく考える。この人すごい人だなと思って学歴を調べると、やはりいい大学を出ている人が多い。逆に、大学なんかぜんぜんでていない人などもいるが、だからといってそのオーラが消えるわけではない。むしろそういう人は、大学なんかにいく必要がないほど、天才的だったというケースが多い。

しかし、普通に大学に入ろうと頑張っているにもかかわらず、入れなかった人というのは、やはりあんまりアタマがよくなかったのかな~などと思う。私自身、そういう人間の一人である。

このあいだ、自民党の総裁選挙のときにも、テレビではその人の経歴として、○○大学卒などということが書いてあった。60歳を過ぎてまで40年も前に卒業した大学の名前が云々されるわけだ。出身大学というのはそんなにも重要なものなのだろうか。出身校のレッテルが一生つきまとうものなら、やはり18歳のときにちゃんとした大学に入れるように必死にがんばらなければいけないと思うしかない。もうそこで人生が決まっちゃうという気もする。
だから、小さいときから頑張っている人も多いのだろう。

小泉総理の息子さんが政治家として優秀で、将来総理になるということがあるのだろうか。もしそういうことがあるとしたら、そのとき、彼が卒業したという日本のあんまりよくない大学というのは出てくるんだろうか。そして、その大学は格を上げるのだろうか?それとも、3流大学出身の彼が優秀な政治家になることはありえないのだろうか?

人間なんて「東大を出ている」といえば、その姿を見た時に、いかにもそれらしく見え、「そうなのか、やっぱり利口そうだな~」などと思ってしまうんじゃないだろうか。
でも、事実として、一流大学を出た人と出なかった人の差は厳然としている。
特別の事情もなく、自分の学力のなさゆえに一流大学を出られなかった人が、人生を後で挽回することはできるのだろうか。

親の七光りで出てきた息子に対して、「3流大学だし、何なんだ~」と思う人が多いし、またその考えは自然である。
しかし、小泉進次郎を出来が悪く期待できない人間だと決めつけて否定するならば、3流短大にしか入れなかった自分自身をも否定するのと同じだ。

世の中の3流大学出身者の諸君、頑張ろう!

(なぜか、そういう結論になりました。)


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社員いろいろ

2008-10-02 00:25:17 | 日記
小泉元総理が国会議員を辞職するということになり、話題になっているが、それと同時に、小泉語録も再び取り上げられて、いろいろ思い出されておもしろい。
その中に、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」というのがあった。
この言葉、なるほどな、と思う。

私のところには、いろんな社員さんの作った書類が届けられる。
同じ様式で作っている書類であるが、それぞれ個性がある。
まず、クリップの留め方だ。私の場合、上辺の左端に上から下に向けて止めるが、上の真ん中に近いところでとめる人もいれば、左の辺から水平に向けてとめる人などがいる。クリップの裏表も人によって違う。
私は書類を預かると、クリップをはずして書類を点検し、その人がもともと閉じてあったのと同じようにクリップを戻すようにしている。もし閉じ方が違っていたら違和感を覚えるだろうと思うからである。クリップを全然使わないで、ただ重ねただけの人もいるし、ホチキスでしっかりとめたい人もいるようだ。はずさないと点検しにくい部分があるので、ホチキスではとめないようにお願いしている。
書類をひとまとめにクリップで留める人と、種類ごとに分けて留める人などもそれぞれである。

それから、左ききの人が3人いる。左利きの3人のうち2人は、上と横が開いたクリアファイルの場合、左開きになっている。もう1人は右利きの人と同じに右開きにしている。
こういうのも、もともと入っていたように戻して返すようにしている。
左開きにする2人は、別の形式の書類では、書類の入れ方の向きがそれぞれに違っている。どっちも、右利きの人たちとは違い、書類の向きが逆さになったり裏返しになったりしている。どういう理由でそういう向きになるのかと、ちょっと面食らうが、自分が左ききになったつもりで書類を戻してみたりする。

ほんの小さなことでも、こんなにやり方が違うのだから、本当に人は何事に関しても、いろいろなんだろうと思う。


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