山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

飛ぶ鳥

2010-12-22 01:09:17 | 日記


この写真は、今日撮ったものではないのです。
今日は、こんなにいい天気ではありませんでした。

そびえたつマンションを写したら、知らないうちに、鳥が写ってました。

偶然にも、いい場所に写ってくれたな、と思います。

実家の母の具合は、相変わらず良くならず、整形外科にかかったものの、
むしろ悪化しているのではとも思えます。
近々、行こうと思います。

明日はとにかく、仕事が忙しくて休めません。
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ネタが無い時は

2010-12-21 00:48:12 | 日記


今日は、何も書くことがないなあ、と思った時には、昨年の今日は何していたのかな?と思って、1年前のブログを開いてみたりします。
それで、昨年の12月20日の自分が書いた文を見てみると、それは日曜日で、なんと7つも記事をアップしていました。20日の記載は、土曜の深夜から日曜の夜までで、実質2日分ということですが、我ながらよく書くよとあきれ果てます。こんなことばかりしているので、なんら外から得るものがないのでしょう。
「あなた方は、学生なんだから本を読みなさい!それも、ただ読むのではなく、よく考えながら、真剣に読まなければだめです。」
そういえば、最近、放送大学の先生にそんなことを言われました。そうです、社会人だから時間が無い、などという甘えがあるんですよね。高校を卒業して進学した学生に比べたら全然読書時間が足りないでしょう(欠点①)。放送大学の学生の特徴は、その他に、英語と数学に弱い(欠点②)。たしかにこれも私に当てはまります。数学や英語から離れて何十年もたってしまっている年配の人に多いと思います。そして、放送大学の学生は、教科書に書いてあることよりも自分の経験に基づいて物事を考えたがる(欠点③)。理論ではこうだけど、実際の社会(会社・業務)ではこうだとか言って自論を振りまく人などもいるようです。自分もそんな傾向があると思う。こういうの、改善しなくちゃね。
ああ、また話が支離滅裂になってきた。自分の経験等を書くことばかりに時間を取らないで、読書や勉強など、外から吸収する活動に時間を取るべきだなあ、と反省したことを書きたかったのでした。

でも、昨年自分が書いたことは、今日の自分のためにならないことではなかったかとも思います。昨年の今日は、車のオートマ解除の教習を受けていて、見極めが全然合格しない段階だったようです。つまり、その活動自体は、自分に無いものを外から得ているのだから有意義でした。そして、今の自分は、免許証がオートマ限定解除になったものの、その経験がほとんど身についていないのが現実。
実際、マニュアル車の運転を路上でしたことがないので、絶対に運転なんかできません。免許証に「オートマ限定」の但し書きがないなんて、困ったことです。もし、いきなりマニュアル車運転しろなんて言われても、全く無理というものです。それに、難しいし、アタマがこんがらがるから、今後もマニュアル車を運転できるようになろうなんて気はさらさらありません。このあいだ、前の車が坂道発進でバックして来たときも、つくづく感じました。自分がその立場になったら大変なことだと。
でも、マニュアル車ってものがどういうのかを知ることができたから、それだけでも無駄ではなかったと思います。

昨年は、教習にお金はいっぱい使っちゃった。しかし、昨年に増して今年は金欠重傷。年が越せないぞ。年賀はがきを買うお金も惜しむ状況。おせち料理とか正月料理とか、お金かけられないし、帰省の電車代もきつい。なぜならば、今年は年末の微々たる賞与が無いからです。教習の代わりに、放送大学にお金を使っているかも。学費のほかに、面接授業の交通費がバカになりません。横浜なんか行くと、往復で2000円近くかかったりします。その上、外食なんかするので出費が多すぎます。入って来るお金はなし。望みは、年末調整くらいかな。いくらか戻ってくるかな~。

今日は、テレビで「流れ星」の最終回を見て、そのあと、映画「秘密」を途中から見ました。最初わけがわからなかったのだけど、娘の身体に母親の意識が入っているのだということがわかりました。そういえば、うちの娘が以前そんな話をしていたなと思いだしました。東野圭吾原作。東野圭吾の小説は読んだことがないけど、今度読んでみようかと思います。村上春樹よりいいかもしれません。今、「ノルウェイの森」の下巻を読んでいますが、なんか気分が悪いです。実際、読んでいて「反吐がでそう」な会話です。なんで、あんな話題ばかり話すんだろう。登場人物の男も女もどうも好きになれないタイプです。不快感です。うんざりです。でも、最後まで読まなければと思っています。

書いているうちに21日になってしまいました。
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世田谷散歩

2010-12-19 23:43:31 | 日記
今日もまた、放送大学面接授業の日。
実際、今期は面接授業取りすぎですよ。休日が全部つぶれちゃってる。車に乗るヒマもない。当然、大掃除をする暇もなしです。それにしても、面接授業はすばらしい。まるで、私のために企画してくれたかのような内容で、驚くばかりだ。休日をつぶしていくだけの価値あり。

実は、田舎の母がちょっと具合を悪くしている。病気ではなく、老化現象により、体の一部が痛くて動けないという状況。そのため、かなり不便な生活をしているようなので、行って買い物や料理でも手伝おうかと思ったのだが、そのためには、面接授業を棒に振るしかない。私の場合、面接授業の単位は卒業要件には関係ないので、単位を取る必要はないから、休んだとしても支障はない。しかし、受講料を払っておいて、全部棒に振るのはもったいないので、昨日だけ受講し、そのあと田舎に行き、今日の面接授業は休もうと思っていた。それで、昨日母に「これからそっちに行く」と電話したら「来なくていい」というので、行かずに面接授業に出ることにした。
そうしたら、今日の内容は、また一段と私の仕事にとって役に立つものだったので、本当に出席してよかった。



授業のあと、世田谷学習センターの近くを歩いた。学芸大学の駅までは歩いて10~15分くらいである。行きは渋谷からバスに乗って、学習センターの前で降りるが、最近、帰りは学芸大学駅まで歩いて、東横線で渋谷に帰る、というコースにしている。

天気は良いものの、昨日も今日も嘘のように寒い。がたがた震えながら歩いて行った。このあたり、下馬・五本木という住所表示があるが、高級住宅街と言っていい。一戸建ての比較的大きくてセンスの良い家が立ち並んでいる。家の外回りの草木もきれいに手入れされ、クリスマス飾りなどが清楚に品よく飾られており、外車なんかも普通に庭先に置いてある。写真に写したくなるような家も多いが、個人宅だからそれは控える。途中に、まるで外国であるかのようなルーテル教会があったので、それを撮影してきた。



もう少し進むと、ひときわ鮮やかな紫の花をつけた樹木が見えてきた。近づいてみると、ノボタンのようだった。ノボタンってこんな冬に咲くものだったかな?今年は山茶花がみごとに咲いている家が多いが、ノボタンはあまり見かけないので、めずらしい。



駅前は商店街があって、いろいろなお店が立ち並んでる。昨日入ったお蕎麦屋さんは、今日は休みだった。前回のお蕎麦屋さんはちょうど家族連れが入って行くところだったので、やめた。これらのお蕎麦屋さんのある通りとは別の、商店街のメイン通りと思しき方向に行ってみると、マクドナルド・ケンタッキー・ドトール・日高屋・王将・タパスなど、庶民的な飲食店がいくらでもあった。ここでの食事は選び放題だ。てんやの前にふと立ち止まったら、「いらっしゃいませ」と言われたので、入ることにした。
いつも天丼を食べると、終わりごろに、オェ~っとなってくるので、今日はてんぷら定食にしてみたが、やっぱり終わりのほうでは、オェ~ッとなってきた。てんぷらが好きなのでついつい食べてしまうが、食後は苦しい。次回は別の店に入ろう。

最後に、これは、以前歩いた時にみつけた建物であるが、ちょっと変わったおしゃれなアパートだな、と思って写してみた。



知らない街を歩くのはなかなか楽しい。
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そば・うどん

2010-12-18 20:30:19 | 食べ物
 
放送大学面接授業の日。東横線学芸大学駅前のお蕎麦屋さんでお蕎麦を食べました。
予算の関係上、「かけそば」の次に安い「きつねそば」を食べました。
やはり、てんぷらは1000円を超しますね。キツネは750円です。
麺は細く、おいしかったです。今後もこの程度のものにしようかな。蕎麦粉は、みな新蕎麦になっているのですね。
このお店は、以前入ったお蕎麦屋さんの並びにあるのですが、間口は同じくらいなのに、中に入ったら広くて驚きました。どちらのお店もおいしいです。

 

さて、渋谷駅のホームで、どんべいの店を撮影。以前から、気になっていたんですよね。
200円で食べられるんですね。普通のスーパーで売っていない、地方限定のものなどもあるようです。今度食べてみようかな。うどんでも蕎麦でもいいですね。「ごぼう天うどん」「芋煮うどん」なんかも食べてみたいです。



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“長後さくら橋”と“新河岸橋”

2010-12-16 21:06:38 | 旅行・街歩き
 

今年の春、浮間舟渡の駅のホームから、遠くに水色のアーチ橋が見えた。
あの橋のところまで行ってみたいと思っていた。(写真左)
そして、ついに実現した。浮間舟渡の駅から歩いて5分くらいだろうか。(写真右)
「新河岸川(しんがしがわ)」にかかっているその橋は“長後さくら橋”だった。
この川は、水害を防ぐためか、両岸が高い塀になっていて、川沿いの通路は低い場所にあるが、橋は塀の上にある。だから、橋を渡るときには、高いところまで上っていく。駅から見た左上の写真で、橋ではない手前の道路のようなところを歩いている人たちがいるが、いったいどういう位置関係なのかと不思議だった。つまり、あそこが橋に通じる道路なのだった。

 

まず、川沿いの低い道路に行ってから、橋に上ってみた。

長後さくら橋の南隣には“新河岸橋“”、北隣には“平成橋”があった。3つのアーチ橋が並んでいるのだ。“新河岸橋”は緑(左下写真)、“平成橋”は濃い青(右下)である。

 

“長後さくら橋”(左下) と“新河岸橋”(右下)が近かったので、この2つを渡って比べてみた。

 

“長後さくら橋”は、車道1車線と歩道のスペースがあるが、車止めがあって、車は橋には進めないようになっている。普段は自動車は走らず、歩行者用の橋のようである。
一方、“新河岸橋”のほうは、センターラインのある片側1車線ずつの車道と、その両側に歩行者用の歩道がある。新河岸橋のほうが幅員が倍くらいあり、一般の自動車通行道路である。交通量も断然多い。
両方ともアーチ橋だが、上梁のデザインが違う。“長後さくら橋”は平行に並んだ梁のほかに斜めに渡ってクロスしている細い梁がある。新河岸橋の梁は平行に並んでいるものだけである。

 

構造を見ると“長後さくら橋”は、桁が太くて長く、水平にまっすぐで、その上に小さなアーチが載っているような形である(左)。
通路は平らである。つまり、アーチ構造よりも、桁構造の要素が強いようだ。2005年7月11日に開通したそうだ。新しい感じがする。

一方、“新河岸橋”の構造は、桁の部分もアーチのように中央が盛り上がる形で湾曲していて、橋の端から端まで全体がアーチである(右)。だから、道路も岸に近い両側が低く、川の中央が盛り上がっている。
自動車が頻繁に走る道路だけあって、歩道橋っぽい長後さくら橋に比べると、重量に対する強度もありそうだ。

この橋は、ネット上でいろいろ調べてみたところ、以前の橋は、老朽化して10トン未満車しか走ることができず、2004年ころ架け直し工事が着工されたそうだが、なかなか完成せず、やっと2010年に完成したとのことだ。それで、車道・歩道ともに幅員も充分あり、きれいに整備されている。橋を渡ると確かに新しい感じがするが、全景を見るとできたてというほど新しそうではないのは、やはり完成するまでに年月がかかっているからかもしれない。

“新河岸橋”から見える“長後さくら橋”(左下)と、“長後さくら橋”から見える“新河岸橋”(右下)
どっちも、比較的新しい橋といえる。

 

もう一度、“新河岸橋” 
 

花をあしらった橋名の石標は、橋に対する愛を感じる。「いい橋作ったでしょ」という感じで、ちょっと誇らしげだ。どっちの橋も、このへんの住民にとっては嬉しいものだろう。

今度は北側の“平成橋”のほうにも行ってみようと思う。
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泣き続ける子ども

2010-12-16 01:24:08 | 日記
スーパーで、小さな男の子が大声で泣きわめいていた。
上には行かないよ。ぎゃあぎゃあ
上にはいかない。
上にはいかないってば。ぎゃあ~
上にはいかない!
上にはいかないからね。ああ~ん ああ~ん ああ~ん
上には行かないっ ああ~~~~ん

うるさい クソガキ 静かにしろ  (心の中で叫ぶ)

ああ~ん ああ~ん
上には行かない ああ~ん

母親 平然
散々売り場を歩き回った挙句、
レジに並んでも騒ぎ続ける子ども

上には行かない ぎゃあぎゃあぎゃああああ~
ぎゃあぎゃあぎゃあ~~~~

男の子は上に行きたくないらしい。

母親は「わかった。上には行かない。」と言っている。

上には行かないよ ああ~ん ああ~ん
行かないよ ぎゃあ~~ぎゃあ~ぎゃあ~ぎゃあ~~~~~~

母親も上には行かないと言っているのに、
なんで、この子は泣きやまないのだろう。

私だったら、横っ面を張り倒してる。
うるさいっ、上には行かないって言ってるでしょ。もう黙りなさい!
バチンっ

(代わりに張り倒してやろうか?)

僕、うるさいから お黙りっ! バチン

それとも、うるさいわねえ と厭味ったらしく つぶやこうかな・・・

(お前、上には行かないってお母さんもいってるだろうが、いつまで泣いてるのっ)

私はエスカレーターで上に上った。

しばらくしたら、エスカレーターの下から男の子の鳴き声が上に近づいてきた。

上には行かないよ~ ああ~んああ~んああ~ん

(上にあがって来るじゃん?)

(あの母親、いつも嘘言ってるんだ。)

(だから、泣き続けてたのか・・・)


ってか、上に上がらないと、家には帰れないけどね。
地下だからね。
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筆が進まない日

2010-12-16 00:53:04 | 日記

表題のとおり。  
          -終わり-


というわけにはいかないだろう・・・

さっきから、いろんなこと書こうとしたけど、どうも筆が進みません。

実は、橋の事を書こうとしてるんだけど、どうも調子が出ない。
このあいだ、散歩した時にあった「アーチ橋」(3コも)です。
構造についてとか、いろいろ書きたいことはあるんだけど、どうしてなのかな・・・。
あまりにも落ち込んでいたからかな~

今度書きます。
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失言

2010-12-15 01:22:10 | 日記
最近、言葉というものは恐ろしいものだと、つくづく感じる。
言葉によって、誤解が起こり、傷つけたり傷つけられたりすることが、あまりにも多いからだ。世の中は失言だらけである。そして、あとで撤回しても補足しても、もはや修正はできない。

つい最近も、菅首相が「いままでは仮免だった」と発言したことで、また野党などから批判が起こっている。「喩え」というのもまた最も危険な言葉であるといえる。本人が喩えた部分以外の意味で極端に捉えられてしまうからである。
菅さんはきっと本当の「仮免」について、あまり深く考えていなかったのだろう。つい最近まで教習をしていた私にとって、「仮免」の記憶はまだ新しい。仮免とは、所内のコースを走るのにやっと合格したものであり、隣に免許を持っている人が同乗しなければ路上を運転することができない。当然に一人前に運転をする資格は与えられていない。そして、半年のうちに、本免許を取らないと、仮免さえもなくなってしまう。
そのようなことをそっくり総理大臣の職にあてはめたとしたら、大変なことだ。自ら一人前ではなかったと言っていることになる。菅さんが総理大臣になったのは6月8日だったようだから、すでに半年が過ぎたことになる。もう仮免の有効期間は終わった。
だが、まさか本人がそんな意味で言ったはずがないことは明らかである。菅さんは「これからは自分の色を出していきたい」と言っている。「仮免」より、もっとふさわしい喩えとしたら「試運転」のほうがよかったのではないかな、と私は思った。
「修行」だの「仮免」だのと言っていると、自ら自分が未熟であると公言していることになってしまう。それは、話者の意図から離れて、その「言葉」がその人間を決定してしまうのだ。全く恐ろしいことだ。

最近私はわけの分からなないことを書いていて、読む人には意味不明だったと思うが、このブログ意外の場所で私が書いた言葉について、自分が意図したものとは違う受け取り方をされてしまうという出来事があった。それについて、「そういう意味で書いたのではない」と弁解をしようとしたところ、「書いてあることは事実であり、そのように書かれていることは、そのように思っていたからだ。それをあとで、そういう意味ではなかったなどと弁解しても、それは欺瞞である。別のふうに本当に思っているのなら別の書き方をしたはずだ。」というふうな反応をされた。さらに、別の部分でも私が意図したようには受け取ってもらえなかったので、そこでも弁解をしようとしたところ、「あれもこれも、自分で書いておきながら、あとで言い訳がましく反抗するのは、欺瞞以外のなにものでもない。」という反応がかえってきた。
つまり、「書いた時はそう思っていたのに、人から指摘されたからといって、そういう意味ではないと、あとで誤魔化そうとする卑怯な人間だ」という指摘だった。
私は、そんなずるがしこい人間ではない。
相手を不快にさせないためには、そこで、「はい、私がそれを書いたときは、あなた様が読みとられた通りのように思っておりましたが、それはご指摘のとおり間違いでした。申し訳ありません」と素直にしていれば、その人のお怒りは無かったのかもしれない。そうすれば、少なくとも「欺瞞」ではなく、相手にとって私は「自分の非を素直に認める人間」でいられたのだと思う。素直にはいはいと返事をしていればよかったのか???
でも、やはり私はそこで弁解しないではいられなかったのだ。やはり、自分が意図したとおりには受け取られていなかったからだ。
また喩えになってしまうが、「紫色」のものがあったとして、その成分には「赤がある」と言った時に、「青はない」と受け取られたようなものだ。だから、「私はそれが赤だとは思ってはおらず、紫であることは認識していた。」と弁解したところ、「紫だと知っているのに、赤のことだけを書くはずがない。」と言われたというようなことだった。
弁解や補足をすればするほど、話はこじれるばかり。自分がどんどん醜い人間になっていってしまう。
結局、最初によく吟味して言葉を選ばなかった自分が悪かったというのが、反省点だ。

言葉とは本当に難しいものだ。

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仕事は癒しだった

2010-12-13 22:49:18 | 日記
 

今日は馬車馬のよう働いた。
朝は早く行って、昼休みは10分で食べ、わき目も振らずに働いた。
しかし、2時半ごろ1度限界に達し、ロッカールームに行って、窓から外を眺め、目を休ませた。そして、腕や首を回し、屈伸体操をして席に戻った。そのくらいはしなくちゃ、持つはずがない。
4時を過ぎると、急に視力が減退してきた。細かい図面が見えなくなってきた。文字もゆがんでいる。4時半を過ぎると、残業を申請しなくてはならない。今日中という書類を全部読むと6時を越えるかもしれない。夕方までという依頼だったので、できるところまでやって返すか、それとも遅くなっても最後までやるのかを担当者に聞きに行ったら、明日の午前で良いことになったので、4時半を過ぎないうちにタイムカードを押してから、残業をせずに帰って来た。
目は異様に疲れて、痛い。夕飯の前に少し目を閉じて休んでいたら、いくらか良くなった。
パソコンをやるとまた目に悪いが、見るものや角度が違うので大丈夫だろう。

最近、年末だけあって、さすがに忙しくなってきた。しかし、これは、先週有給休暇を1日取ったのが尾をひいているとも言える。その日の6時間分のしわ寄せがきている。やはり休暇を取れる状況ではなかったのかもしれない。明日からは、仕事を溜めないようにしなければと思う。自分があとで苦しまないで済むためには、朝や昼休みに10分ずつでも多くやっておく事である。12月はもう1回有休を取りたいと思っているので、何でも早めに消化しておこう。

それにしても、理系人間で構成されている会社はまるでサナトリウムのようだ。それは、この会社に入社した時に感じたことだった。人と人のつながりが希薄な分、ぶつかりあったり、言葉で傷つけあったり、論争を起こしたりすることが、ほとんどない。それは、あるときは人間味の無さを感じることがあるが、疲れた心にとっては安らかである。自然科学はいいなあと、思ったものだ。
「人間」のことを考えていると、心がずたずたになってしまうのだ。昔の傷が痛んでくるのだ。「人間」に向かって「人間」のことを論じることが、一番神経を蝕むのだ。それを忘れていた。

きっと、人間とのやりとりで、ごたごたしていると、車の運転も危ないかもしれない。余計なことは考えないことだ。

 
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論じることのむずかしさ

2010-12-13 01:44:41 | 日記

「戦争で死ぬことに意味なんかない」
その言葉に対して、それが根本的に間違っている、と言っていいのか?

「意味がない」という人が、本当にその言葉通りのことだけを思っているわけではないことは、誰にでもわかるはずだ。

異国の若い兵士と若い兵士が、たまたま戦地でぶつかり合って、戦って殺し合うことに意味があるのか? それは、不条理なことである。
そういうことを「意味がない」という。

戦争が終わり、兵士が心にも肉体にも傷を負って戻ってきて、敵対していた国と国には、何らかの平和が訪れたとする。それは多くの人が流した血によるものだ。
その労苦に関して、「意味がなかった」というわけはない。
また、戦地での経験が人生の中で「意味がなかった」などと思う人はいない。
また、残念ながら平和は訪れなかったとしても、そこで戦った人の労苦に「意味がない」わけではない。

しかし、戦争というもの自体、尊い命を失うのは「意味がない」ことだと表現する。
そういう犠牲はつきものだが、願わくば、ないほうがいい。失うものが多すぎるからだ。
でも、人間はすべて、「無駄」なものにやっきになる。それを「無駄」なものというと、またつっかかる人がいる。

意味があるのかないのか。
無駄なのか重要なのか。
精神病なのか精神病ではないのか。
その両極は、どっちも、実質同じことなのだ。
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存在理由

2010-12-12 20:03:14 | 日記
今日も、いっぱい写真を撮ってきました。
でも、実は、かなり落ち込んでいます。身も心もボロボロです。
身から出たサビです。自業自得です。

人間は苦しまなければ成長できない。
人間は恥をかかなければ成長できない。

だから、何なの?

まるで、自分が苦労してるから、成長するんだ、みたいな書き方じゃないか。

自分は苦労してます、みたいなことを、自分で書く人ってイラつきますよね。
だからって、自分は楽してます、みたいなのもいやだし。

世の中には、自慢する人と卑下する人。
自己満足の人と、自己嫌悪の人、どちらかだ。
っていうか、同じ自分のなかに、その両方が存在している。

どっちも、いやだ。

もう、何も考えないで、橋の見物でもしよう。

そんなふうに散歩をはじめたけど、
こんなものを撮ってしまう心境。



そういうことを披露するのも、いやらしいけど、
やっぱり、精神病かと思う。



精神病の人に、あなたは精神病ではない、と言って慰めるか、
あなたは精神病ですが、それでもいいんだ、って言って慰めるか、
他の人もみんな精神病ですから、って言って慰めるか?
どれも結局、同じじゃないですか?

「精神病」を肯定する という表現は、
それは、精神病を受け入れること。
受け入れるとは、それ自体が無意味なものではなく、排除するべきものではないということだと思う。
そして排除することが不可能である(避けることができない)からこそ、そういう考えにいたる。
そういう意味で「肯定する」という言葉の使い方をすると、ダメなのかな?

人間は何に救いを求めますか?
どうやって納得しますか?
何に癒されますか?

自分では、真面目に考えたつもりだったけど、
その考え自体が、間違っているということであれば、
わかりません、という結論しかない。

死ぬか開き直るか、屁の河童か、です。

全部冗談です。



完全な絶望は存在しないそうです。
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酒なし忘年会

2010-12-12 01:11:06 | 運転・車・道路の事
車で居酒屋レストランに行ってきました。自転車でも行ける距離ですが、冬は寒いし、友人たちに、夫の田舎から送って来たリンゴをあげたいと思ったので、荷物も多くなるので、思いきって車で行ってきました。不安だったのは、駐車場が混んでいないか、暗くないかということです。
6時集合で、現地に5時50分ころ着きました。土曜日はいつも店の中は混んでいますが、居酒屋ゆえに車で来る人は少なく、時間も早いのでまだ大丈夫だろうと思いました。
現地に着くと、駐車場入り口の手前の路上に1台の普通乗用車が停まり、ハザードランプを点滅させて運転手が乗っています。あれっ、駐車場の空き待ちかな? ここは、誘導員などはいません。道路は片側1車線+2輪車用くらいのスペースがあるので、駐車禁止ではあるものの、その車の後ろに停車させてハザードランプをつけたまま車を降り、駐車場の中を見に行きました。駐車場は奥まっているので、車に乗ったままでは様子が見えません。すると、駐車場にはたった1台の車しかなく、余裕で置くことができました。
自分の車に戻り、前に駐車している車を追い越して駐車場の中に入りました。すると、ちょうど、たった1台置いてあった車が出ようとしているところでした。その車をよけて奥に入っていくと、照明が点きました。この駐車場、暗いのではと思っていたのですが、動く物を察知するとちゃんと明るいライトが点くことが判明。うまくできているものです。
自宅の駐車場は、外灯があるので真っ暗ではありませんが、夜はやはり暗いので、昼間ほどラインなどがはっきり見えなかったりして、勘が鈍ることがあります。初めて行く満員の駐車場でそんな感じだとイヤだなと思ったので、そのようなことが無くよかったです。最近、どこかで、「駐車場内の事故が多発」というニュースを目にしました。
帰りは、11時を過ぎていたので、幹線道路もガラガラでした。走っているのはタクシーくらいです。今日は、昼間は家の中でゆっくりしていたので、少しは運転をしたいと思っていたため、ちょうどよかったです。
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ハイドンピアノソナタ50番

2010-12-11 15:37:42 | 日記



この曲は1~3楽章まで弾いた。特に1楽章と3楽章は好きだった。
2楽章はどうも苦手だ。早く終わらないかな~などと、弾きながら思っているくらいだから、聴く人を感動させるような演奏ができるわけもない。
いまだに、やはりだめだ。どうもテンポの遅い曲はダメだ。感性がないらしい。


ここに、モーツアルトのソナタは載せない。
というか、私が弾いてた曲、モーツアルトのピアノソナタ5番だと思うけど、2楽章しかYou Tubeにないようです。これが、また苦手で、先生から「センスがない「とか「ハイドンは弾けるのになんでモーツアルトの感性が欠落しているのかしら?」とか言われてばかりいた。だから、モーツアルトはトラウマだ。
でも、目をそらしちゃいけないと思って、載せておこうかと思ったら、2楽章しかない。
2楽章は苦手だし、好きじゃないからやっぱり載せないことにした。

なんだかな~ 中途半端な子供時代でした。

学校に行くつもりで東京に出てきたまま、ずっとこっちに住んでいるので、実家には泊まりにいったことはあるが、親と暮らしたのは高校までだった。
実家を離れると同時に、ピアノに触ることもなくなり、30年以上経つ。
姉が嫁に行った後もピアノはしばらく実家に置いてあったので、帰省した時に弾いたりしていたが、姉が家を建てたときに持っていき、今では実家に帰ってもピアノはない。
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ベートーヴェン ピアノソナタ

2010-12-11 15:16:39 | 日記



昔、ピアノを習っていた。
最後の頃に弾いていた曲はこれだ。
ベートーベンのピアノソナタ第8番?第3楽章。
意外と好きだった。
ピアノソナタ第8番は「悲愴」だ。1楽章は有名だ。
しかし、1楽章も2楽章も弾かずに、3楽章が宿題だった。
たしかに、1楽章を弾く柄じゃないし、人間性もないし、技術もなかったんだろう。
3楽章だって、ピアニストの演奏に比べたら、もう全然違う。
だいたい、当時の私は、お手本になる演奏を聴いたこともなかった。聴こうという気もなかった。ただ、楽譜を見て弾き、先生に言われたように直すという感じだった。
だから、今、改めて聴くと、ここはこんなふうに弾くべきだったのか、という発見がある。
昔、You Tubeがあったらよかったな。
まあ、パソコンなんてものは存在しなかったからね。

私のピアノ歴。
小学校1年生のときに初めてピアノを習いだしたが、バイエルが終わったくらいでやめた。
当時は、電気オルガンだ。
そのあと3年生のころに、また習い始めた。アップライトのピアノを買った。
ブルグミュラーやソナチネをやった。そしてほどなくやめた。
中学になって、また習い始めた。そして、またすぐやめた。
中3から高2くらいまで、また習った。それが最後だ。合計、4人の先生に教わった。
私が高校生のときには、姉が音楽短大を出てピアノ教師をしていたので、家にはグランドピアノもあった。クラシック全集のレコードもあった。でも、あまり聴かなかった。レコードって面倒くさい。表面のほこりを取ったり、ステレオの針を液体のマニキュアみたいなのでふいたりしなきゃならなくて、いつ針をぶっ壊すか、レコードに傷をつけるかって感じ。ひやひやだ。細心の注意を払わなきゃならなかった。姉がいないときに、こそこそやっていた。

もっとちゃんと習っとけばよかったなあ。
人生は1度しかない。そんなこと考えてないんだよね、子どものころは。
それでも、ピアノソナタを弾く経験ができて、よかったと思うよ。

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今年の一文字「行」

2010-12-11 12:06:33 | トラックバック練習・ご意見板
私の今年の漢字は「行」かな?

これは、菅総理と同じ文字なんだけど、菅さんの場合は「修行」の「行」なのだそうだ。
私の場合は、文字通り「行く」の意味。
なぜかというと、昨年10月の末に車を買って以来、毎週「どこに行こうか」と考えない日は無かったと思うからだ。今になって思うと、大した場所には行っていないのだが、それでも、免許取り立てで教習コースしか走れなかった私が、西は「八王子」まで行って来られたというのは、自分としては大きな進歩だった。これからも、少しずつ範囲を広げていきたいと思う。
今年1番よく行ったところは、「府中」だった。車っていうのは、自分でそこに行こうとして自分の意志で運転しなければ絶対に到着しない。徒歩でも当然同じことだが、切符を買って電車に乗って、座席に座って寝ていれば自然に着くのとはわけが違う。全行程意識をしっかり持って前に進まなくちゃならない。行ったらちゃんと帰って来なくてはならないのも当然で、かなり緊張する。でも、楽しい。
明日は車でどこに行こうかな? となると来年も「行」が続くことになる。

さて、話は変わるが、菅さんが「行」という文字を提示したら、「無」だろうとか、何もしないじゃんなどと批判するする人もいるようである。
確かに「修行」は、本人にとっては役に立つことだけど、総理になってから修行をしていたのでは遅いと言えるだろう。だからって、最初から総理にふさわしい力量のあるひとなんて、今現在、この日本にはいないようだ。だから、足ばっかり引っ張ってないで、不完全な代表に協力しなくては・・・。このままでは、誰がやってもうまくいかないし、ころころ首相が変わる国だと言うことで、外国からもバカにされるばかりである。菅さんに、修行の猶予を---。

「行」といえば、私は毎週火曜日にNHKのドラマ、「セカンドバージン」を見ている。
そこに登場している主役の男が「鈴木 行」という。この男、優秀な人間だが、野心ゆえに法律に触れるようなことをして、転落の道に進んでしまう。17歳も年上の女と恋に落ちたのがそもそもの人生の行き先を変えてしまうきっかけだった。このドラマ、なかなかのものだ。来週は最終回だから、絶対に見逃せないぞ。鈴木京香はきれいだけど、中年のキャリアウーマンを良く演じている。鈴木行役は「長谷川博己」と言う人である。背が高くて、美男ではないが、不思議な魅力がある。わき役も適役ばかりで面白いったらない。

あっ、またまた話がそれてしまった。今夜は忘年会に行きます。明日は、また放送大学の面接授業に行きますよ。
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