山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

休眠預金

2012-02-18 00:37:34 | 日記
政府は、国民の休眠預金を使って、国の財政に利用しようと考えているそうだ。
休眠預金とは、10年以上放置されたままになっている口座のことらしい。
少額の場合は、もう要らないと思っている人も多いかもしれないが、単に出し入れをしないでいるだけの場合もあるので、勝手に使われては困るのだ。あわてて手続きをしに行く人も多いかもしれない。

私も10年以上放置している口座がいくつかある。
何度も転職をしており、そのたびに給料振込のために、職場が指定する銀行に口座を作ったりしたが、結局退職を機に、給料も振り込まれなくなり、それ以外には使う必要もないのでそのままになっている。キャッシュカードで1000円単位までは下ろしたが、それ以下は下ろせない。800円とか残っていたものは惜しいが、解約するには平日しかできないし、その銀行に行くのに電車代の方がかかったりするから、もう要らない。

そういえば、つい先日も、すぐ近所の銀行で、長年使っていなかったキャッシュカードを使ってみたところ、やっぱり使えず休眠してしまっていることがわかった。現金を送るのに、同じ銀行の口座から口座に送れば身分証明なしでATMから送れるし、振り込み手数料もかからないので、それを使おうと思ったのだった。
その時、通帳を持っていけば復活できると聞いたのだが、その後まだ行ってない。この銀行は近所にあるから時々使っていればよかった。
おたおたしてると、私のお金を政府に使われちゃうかもしれない。たぶん100円くらいしか入ってないと思うけど・・・。

実は、最近モニターを始めたので、それで入ってくる収入を、その銀行の口座に振り込まれるようにしようかと思っている。と言っても、半月で150円分くらいにしかなっていないので、この調子だと1000円になるのは1年くらい先かもしれない。しかし、いつ何かのことで収入が増えるかもしれないので、振り込み口座を指定しておきたいのだ。
普段、給料が振り込まれている口座と同じだと、それだけでどのくらいの収益になったかが実感できないので、銀行ごとに分けるのが良いと思ったのだ。でも、古い通帳が見つからず手続きができていない。行くなら早い方が良い。

それにしても、国家財政もついにそこまで逼迫してきたかという感じだ。我が家でも、お金が欲しいと思って、どこかにないかと、引き出しの隅を探したり、昔の貯金箱をこじ開けたりしているが、それと同じようなものだ。つい最近も、引っ越し前の缶の中から予期せぬ小銭が見つかったので、口座に入金して、たしにしようかと思ったばかりである。
国もそんなことをやり始めたのだから、金欠は重症だ。


(缶の中からみつけた貴重なお金 いくらあるかな~?)

休眠口座の金額は、年間800億円にもなるというから驚きである。でもたしかに、1億人以上いるのですからね。私もたぶん合計800円くらいは休眠口座に入ったままです。

中には100万円以上入った口座を放置している人もいるそうだ。1万円以上だと銀行から連絡がくるらしいが、引っ越したりすると連絡が届かない。それで放置していると全部消えて無くなってしまうかもしれない。もったいない。
そういう人は、早く休眠口座を復活させないと、無くなっちゃうぞ~
りそなでは、休眠口座管理手数料を年間1200円取るそうなので、びっくり!要注意ですよ!!!
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天声人語とスカイツリー

2012-02-15 23:45:06 | 日記
昔はよく、天声人語を読めと言われた。天声人語は、文章として非常によくできているので、これを毎日書き写す人もいるそうである。だが、書き写しただけでは、文章力は身に着かないそうである。
私は、朝日新聞をとっていないが、最近パソコンで天声人語を読んでみることにした。
しかし、読むたびにどうもピンとこない文章が多かった。自分にとって関心のない内容だからかもしれない。今日も読んでみたが、ぴんとこないので、最近のものをさかのぼってみた。そうしたら、2月12日に、スカイツリーの事が書いてあって、多少は理解しやすかった。それが、下の文章である。それにしても、段落がずらずらと連なっていると、わけがわからないので、間隔を空けてみた。
それで、意味はわかったけれど、いまいちピンとこない。最後の文をみると、筆者はスカイツリーに肯定的なようであるが、だからと言って、喜びが伝わってくるわけではない。それは私の心持ちのせいなのか? スカイツリーの良さが、まだわからないからかな?

2月12日 朝日新聞天声人語

▼東京スカイツリーの中国語訳をご存じだろうか。公式サイトによれば「東京天空樹」だが、天空樹はあちらで商標登録されていた。ならばと、よりふさわしい表記を出願中という。開業まで100日、準備は胸突き八丁を迎えた

▼上るにはしばらく予約が要る。長蛇に連なる苦労がない代わり、下は雲や霧で真っ白という不運もあろう。遠方でなければ、ほとぼりが冷めた頃、晴れた日に並ぶ手もある。450メートルの天望回廊まで大人3千円なり。眼福あってのお代である

▼東京タワーは、欧米何するものぞと頑張った高度成長の記念碑として、今も「三丁目の夕日」が照らす。かたや中国の広州タワーから世界一を継いだツリーは、商魂たくましい隣国に一矢報いた格好だ

▼バベルの塔、ピラミッド、天守閣。人は古来、神に近づき、権威を誇示するために、他を圧する高さを求めた。建築技術の勝利を担ったのはエッフェル塔だ。完成前から、文化人らが「無用で醜悪、パリの恥」と抗議する騒ぎになる

▼鉄骨の未来を信じる技師エッフェルは「設計図ではなく、実物を見て判断を」と訴えた。大衆の視線にどんなメッセージを返すか。いつの世もランドマークの真価だろう

▼震災を挟んで伸び、出直しの年に咲く大樹には、国威や技術より希望が匂う。下町の空を突く立ち姿は、さあ上を向こうと背中を押す。遠望に癒やされ、仰ぎ見て元気をもらう塔も悪くない。去年でも来年でもなく、今の日本が欲する、意味のある高さである。

以上でした。

気になる表現

「準備は胸突き八丁を迎えた」  ?

物事を成し遂げる過程で一番苦しい正念場
富士登山で頂上までの8丁の険しい道。転じて長い坂道。

そんなに苦しいのかな?ツリー自体はすでに出来上がっているようだけど・・・。
中国語訳の言葉がみつからないことが、胸突き八丁なの??

「眼福あってのお代である」
眼福 = 珍しいもの美しいものを見る事が出来た幸せ

「胸突き八丁」とか「眼福あってのお代」とか「一矢報いた」とか、ずいぶんと古い言い回しだ。
年輩者が書いているのかな?

「今の日本が欲する、意味のある高さである。」
そんなものを日本が欲しているのか? 本当に意味があるのか?

今日の、ニュースでは、1月にスカイツリーから雪氷の塊が落ちて、周囲200メートルの範囲にある地上の建物のプラスチックの屋根などが数カ所壊れたとのことだ。それで、スカイツリーの会社が弁償をするのだとか。雪氷の危険性が発覚してからは、塔の上を熱で温めて、氷が着かないようにしているそうだ。
華々しいものの影には、かならず迷惑を被るものがいるのだ。弁償をしたり、改善したりするのはいいけど、熱であたためるなんて、なんとも、エネルギーのかかる事だなあと思った。

また、スカイツリーの電波に切り替えると、新たに電波障害になる地域があるとかいう記事もあったような?

果たして、東京タワーができたころのように、人々はスカイツリーを眺めて、夢と希望に胸をときめかせ、喜びを感じることができるのだろうか?
そもそも、東京タワーができた時も、一般住民はどのように感じていたのかな?

スカイツリーに関しては、あんなでっかいものをつくっちゃって、でも今さらいらないなんていえないし、作ったからには肯定しなくては、ってな感じかな。

展望台としては高すぎるように思えますが、電波塔としては、やはり必要なものだったのですかね?
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壽惠廣

2012-02-14 22:09:44 | 日記
「すえひろ」とは、扇子のことである。一種の縁起物だ。
末広がり。「ことぶき」に「めぐみ」に「ひろい」という良い意味の漢字を当てはめてある。
何に使うかというと、例えば祝い事、結婚式の黒留袖の帯に挟んでおくものだ。
一種の飾りか???
別に、なくても良いのではないか?
でも、これを帯に挟んだほうが、挟まないよりカッコいいのではないか?
縁起がよいものだから、無いよりあるほうが良いだろう。

てなわけで、買ってきたのでありました。



レンタルで黒留袖を借りると、これも小物一式としてついてくるようです。
私は母の着物を借りましたが、母は「すえひろ」を持っていなかったし、その存在さえもしりませんでした。次女が、美容学校で着つけの勉強をしたときに、「すえひろ」というものがあったと言いました。仕上げに、「すえひろ」を差し込むらしいです。それで、初めて知りました。次女が「箪笥屋」で1000円くらいで売っていると教えてくれました。



買ってきた「すえひろ」を広げてみると、とても扇げるようなものではなく、広がり方が普通の扇子より少ないです。日本舞踊にも使えません。
表が金で、裏が銀です。



買う時には、広げてみることができませんでした。
模様がないし、実際に広げて使うわけではないので、中を見る必要はないということなのでしょう。
でも、ちょっと広げてみたいですよね。

うちは貧乏人なので、実家の母は「すえひろ」なんてものは要らないのではないかと言っていました。必需品でないものは買わない主義です。
装飾品は必要なわけではありません。無いよりあったほうが良くても、無くても済むものは買わないというのが、貧乏人の法則です。

う~ん・・・
美容師の娘は、着つけのとき、「すえひろ」を挿すのが通例という。
しかし「がばいばあちゃん」みたいな母は、「やめとけ」という。
すえひろは何に使うのか?と聞くと、娘は首をかしげるばかり。

たぶん3000円だったら買わないけど、1000円ちょっとだったので買いましたよ。

それで、式に出て見ると、新郎の母の帯にも「すえひろ」が。
今まで、留袖を着ているおばさんの帯に「すえひろ」がささっていたというのは、気づいたことがありませんでした。

さて、集合写真の撮影です。
「すえひろ」を右手で持って、左のてのひらは上を向け、そこに末広を載せてください。
との写真屋さんの指示。

おお~~っ
「すえひろ」は、こういう時に使うのか!
買っておいてよかったね。
思わず隣の次女と顔を見合わせた。

撮影が終わって、末広を帯に戻す。
あれっ、どこに挟まっていたのかな?
帯締めと帯の間だったかな?
それとも、帯と着物の間か?

一番外側の帯の布のすぐ内側に入れるそうです。

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石子順造的世界(府中市美術館)

2012-02-13 20:52:32 | 美術・美術館


昨日、府中市美術館に行って見たのは「石子順造的世界」である。
石子順造なんて人、全然知らなかったのだが、昭和40年代に現代美術や、それを取り巻く漫画やキッチュなどを論じた評論家なのだそうだ。それで、展示されているものは、本人の作品ではなく、彼が興味を持った絵画・造形・漫画・キッチュなどであった。

キッチュとは、初めて聞く名前だが、和訳すると「まがいもの」「通俗物」などとなる。具体的に言えば、マッチ箱のデザイン、銭湯の背景画、店ののれん、看板、レストランの見本料理など、芸術というほど格調の高いものではなく、世の中にごろごろしている大衆的なものである。

昭和という時代を感じるものでは、「ペナント」があった。今時、ペナントを知っている人は、50代以上の人しかいないであろう。旅行などに行くと、横に長い三角の旗のような形をした壁に張る記念品が売っていて、想い出に買っては、自宅の壁に張ったり、人に土産としてあげたりしたものらしい。私が子供のころには、こういうものを家の壁に張っている人が結構いた。

それから、観光地の絵ハガキ。修学旅行などに行くと、たとえば「京都」「奈良」などという名前のセットで、「奈良」ならば大仏や大仏殿や奈良公園のシカや法隆寺などの四季折々の一番美しいと思える写真が、何枚かセットでおさめられているのである。当時は、カメラは高価なものであり、写真もいちいち現像に出さなければいけなかったので、絵ハガキを買ってくる事が多かった。今、絵ハガキを買う人はいないだろうな。

ブロマイドとかポスターとかも、いかにもって感じのものばかりだ。物々しく、何とも言えない。

当時、石子順造がそういうものをどのように論じていたのか?肝心な評論については、今回の展示で紹介されていたとはいえなかった。今になると、その時に全く「普通」であり「あたりまえ」であった物品が、ずいぶんなインパクトを持ってせまってくる。

なんだか、キッチュの印象が強かったが、例えば他に、つげ義春という人の「ねじ式」という漫画の原画が展示されており、妙な、何とも言えない独特の世界に見入ってしまった。



美術もパロディーみたいなものや、だまし絵みたいなもの、一工夫二工夫で笑ってしまうものも多く面白かった。巨大な電球の表面が草でできているのは、その異質感がなんともいえない。電球とはつるりとして光っているものであるという固定観念をみごとに裏切る。
でも、考えてみれば植物は光合成でできているので、そう思うと関係があるのか?
本物の零円札とかも笑ってしまった。零円なら偽札をいくら作ってもよさそうだ。

この展示を思い返してみて、なんだか、たのしく生きていけそうな気がした。

府中市美術館では、2月12日、日曜日の午後、横尾忠則氏が来て、創作の実演をしたらしい。通りかかったときに、会場にカメラを構えて取材の準備のようなことをしている人を見かけたので、もしや来るのかと思ったが、会場には具体的な日程が掲示されていなかったので、帰ってきてしまった。もう少し残っていればよかったな。
この人の作品は、特に好きなわけでもないので、単なる有名人見たさにすぎなかったが、見ればみたで面白かったに違いない。
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今日の運転(カーナビ怪奇現象?)

2012-02-13 00:21:28 | 運転・車・道路の事

今日は、久しぶりに車に乗った。行き先は府中市美術館だが、環八は混むので青梅街道から五日市街道に入って小金井街道を南に向かった。小金井公園では、昨日から梅祭りが始まったとかいうことで、五日市街道が混んでいるかと思ったら、そうでもなかった。梅はまだそれほど咲いていないのだろうし、桜よりも人気がなさそうである。
府中市美術館は小金井街道沿いにあるのでこの道を行くが、小金井街道は狭いのであまり好きではない。

JR武蔵小金井駅の辺りでは、線路が高架になったので、渋滞しなくなったが、ここでちょっと運転をミスった。元踏切だったあたりから信号が数メートルおきにいくつも立ち並んでいるのであるが、走っていくとそれらが一斉に黄色に変わった。うわ、これは止まらなければと思いつつ2個ぐらい通過し、やっと3個目の信号の前で止まったのだが、そこには停止線というものがない横断歩道だった。車の信号は赤だが人は渡っていない。なんで停止線がないのかな?とキョロキョロすると、右側が駅のターミナルであり、そこから路線バスが出てきて右に曲ろうとしている。つまり、そこはバスからするとT字路であり、まさしくバスが右折でターミナルから出るための交差点だったのだ。なんと、そのど真ん中に私の車が停止しているということだ。わっ、こんなところに止まっていたらダメじゃん。

しかし、バスの運転士さんはなんら反応するわけでもなく、涼しい顔をして、少し右(対向車線)よりに進路を取りながら、私の車をよけて右折したのだった。そのすぐ先にも信号があり赤だったので、バスは曲がったところに停まった。バスの後ろに1台くらい入れるスペースがあったので、赤信号の横断歩道を超えてバスの後ろについた。交差点の中に居続けるわけにはいかない。そして、そのあとはバスの後ろを走って行った。
それにしても、なんかわかりにくい信号だ。あんなにたくさん並んでいるとそれぞれに停止線があるのかと思ってしまう。そこが駅だとは知っていたが、T字路とは思わず、横断歩道の為の信号かと思った。

前を行くバスは府中行きだったので、東八道路を超えた先までずっと後ろについて行った。道路は1車線で、センターラインは黄色。バスが時々バス停で停まるが、対向車は来ないように見えても、バス停の前が交差点だったりするので、曲がってくるクルマがあるかもしれないから、追い越しはやめておいた。バス停の道幅が広くなっているところでやっと抜かした。

美術館の駐車場は、府中の森公園の交差点で左に曲った一本木通りにある。11時前だったので、まだ置く場所は余裕があった。進行方向右側に入れる方が入れやすいが、左側のほうがたくさん空いていたので、左奥の方の角に近いところに入れようとして、一旦右前方に出ていたら、いつのまにか右後ろから車がやってきていて驚いた。あとから入ってきた車を止めないようにと、奥の方まで進んでいたので、もう来ないと思っていたのだが、それは出る車だったらしい。驚いた瞬間にハンドルに腕の重さがかかってクラクションが鳴ってしまった。やばい。鳴らそうとして鳴らしたのではないのだが、相手はどう思ったのだろう。
私が通路をふさいでいるため、その車もまたバスのように涼しい顔で、進路を右に移動しながら、通路ではない駐車スペースを通って出ていった。

その後、適当に下がって右側のラインを見ると、30センチくらい空いていて、うまい具合に入ったように思えたが、クルマから降りてみると、左側が70センチくらいも空いていることがわかった。もう一度前に出して位置を中央に補正した。相変わらず車庫入れは大変だ。
あとから入ってきた車はどんどん置いて降りていくというのに、こっちはかなりの時間を要してしまった。

帰りは、ナビを「自宅に帰る」にセットした。駐車場から左に出てまっすぐ進むと、すぐに道がつき当たるので、右に曲がるつもりでいたら、つき当たらないでまっすぐのびる道ができていた。そこに進んでいいものやら、とっさの判断がつかず、ナビも新しい道の存在は感知していないので、今までどおりに進んで新小金井街道に出た。後で地図を見ると、点線になっている未完成道路は、そのまま新小金井街道につながっていることがわかった。次はまっすぐ行こう。

さて、新小金井街道からは、ナビに任せていると、小金井街道に入った。その後東八道路に右折するものと思っていたら、右折と言わないので、東八道路を横断してそのまま小金井街道を北に進んでしまった。来た道を帰るとなると、午後になって、小金井公園付近の五日市街道が渋滞していないかというのがちょっと心配だった。五日市街道に曲がらず、まっすぐ進むと西武線の踏切渋滞にかかるのでもっと悪い。どうも小金井街道はいやな気がした。

小金井街道から五日市街道に右折するときに、そのすぐ手前に上水桜通りに右折する部分があって、そこの交差点の信号もわけがわからないので、あまり好きではない。
五日市街道が渋滞している時は、右折したくても詰まってしまっていることもありうる。
ちょうどそのあたりに差し掛かるころ、なかなか前に進まないときがあったので、渋滞しているのかと思った。そうなったら、逆に左折して西に向かって、新小金井街道に出て北上したほうがよさそうだ。

でも、実際には五日市街道はうそのようにガラガラだった。

さて、ここである。タイトルの「カーナビの怪奇現象」が起きたのだ。
それは、小金井街道から右折して五日市街道を東に進んで走っていた。左側には小金井公園の建物園あたりがある場所で、蔵寿司などもある。そのあたりで、ナビが「左に曲がってすぐ右です」と言いだした。えっ???
ここでは、ただまっすぐ何kmも東に向かって走って青梅街道に出るだけのはずなのに、なんで左折してすぐ右折なのか?蔵寿司に入るわけではないし、小金井公園だってそんな場所からは車では中に入れない。民家や店などに入る路地はあっても、基本的に通り抜けられる道路はないはずである。
そういえば、今日はナビの案内がどことなくおかしかったが、いよいよ気が狂ったか・・・。

ナビのGPSは位置ずれを起こすことがある。それは衛星を上げている米軍が軍事的な必要性から意図的にしていることらしい。しかし、これでは数メートルの位置ずれどころの話ではないだろう。

人の話では、ナビが山の中でどっちに曲がれとかしつこく案内することがあり、その方向が墓地だったりするそうである。では、これも昼間の怪奇現象???

自宅に帰ってからも、気になって、五日市街道のそのあたりに左に曲がるような道があるのかと地図を調べてみたが、やはりなかった。

が、しかし・・・
あっ、そういえば、「左に曲がってすぐ右です」と案内されたことがその近辺であるのだ。

そうだった。小金井街道から間違えて上水桜通りに右折してしまったとき、何百メートルか進んでから左に曲がり、玉川上水を渡ると五日市街道なので、すぐ右に曲がることになる。
五日市街道と上水桜通りは、玉川上水を挟んで並行して走っており、その距離は数メートルしか離れていない。
ナビは、GPSの誤差によって、この数メートルのずれを起こしており、実際には五日市街道を走っているのに、上水桜通りを走っているものと認識していたということだ。

怪奇現象でもなんでもなかった。
それにしても、知らない道だったら本当に左に曲がってしまったかもしれない。
ナビはどこまで信じてよいのか、難しいところです。
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面白そうな面接授業

2012-02-12 01:25:10 | 放送大学
神奈川学習センターで「読み書きワークショップ」(共通科目 人文系)というのがある。
この内容は、「新書を読んで、コメントし、短い書評を書いてみる」というものだ。

日程
1 「読む」とは何か――本というメディアについて考える。
2 どんな「読み」があるか?「点検読み」をしてみよう。
3 付箋を片手に「ひたすら読む」
4 ブックトークと「図読」
5 書評とはなんのためか?――書評について考える
6 書評のための「図読」と相互コメント
7 書評を「ひたすら書く」
8 書評合評会(句会のように、おもしろい(すぐれた)書評を選ぶ)

この授業に参加するにあたっては、面白い新書1冊とおもしろそうな新書1冊、付箋1束を用意すること。
「能動的に読むこと」と「おそれずに書く」ことの練習をするそうだ。

日程は土日なので参加はしやすい。
この授業を受けたら、今まで知らなかった読み方や書き方を勉強できそうだし、自分にとってかなりの刺激になりそうだ。

しかし、受け身的でない授業なだけに、結構大変そうだ。
だいたい、授業の日までに「面白い新書」というものが見つからなかったらどうする?
これから見つけるんじゃ、なかなか難しい。すでになにか思い当たるものがあればよいのだが・・・。さらに、面白そうな新書ってのも、私のように、なかなか最後まで本を読むことができない人間にとっては大変だ。私の場合、「面白そうだ」と思っても、10中8・9は、「つまらないから途中で止めた」という結果になっている。またまたさらに、書評をなんとか書いたとして、受講者同士で面白い書評を選ぶ場合、自分の書評が全くつまらないものであって、誰からも見向きもされないものであったらどうする?などと、いろいろと問題が湧いてきてしまうのである。
この授業は、よほどの読み書き得意意識のある人間、実際にそういう能力のある人間ばかりが参加することになるだろう。
参加型ってのは、いいんだけど、ヒヤヒヤものだ。
自分にはちょっとハードルが高すぎるようだ。

てなわけで、これは非常に興味深い授業なのですが、パスですね。
場所も横浜なのでかなり遠く、2日連続ではつかれてしまうし、交通費もかなりかかってしまうので、やめときます。
しかし、神奈川学習センターは、他のセンターには無い内容の科目も多く、非常に興味深いです。横浜国大の先生が担当される場合が多いようです。

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文学に関する面接授業

2012-02-11 23:33:54 | 放送大学
放送大学で、次期の科目登録にあたり、受講してみたいなあと思った面接授業が「川端康成を読む」というものだ。私は現在、旧「自然の理解」コースなので、まるで分野違いだが、もともとは文学が好きなのである。

この授業の内容は、
1 対照読解について 川端康成について
2 川端康成「十六歳の日記」と志賀直哉「祖母の為に」
3 川端康成「硝子」と江戸川乱歩「人間椅子」①
4 川端康成「硝子」と江戸川乱歩「人間椅子」②
5 川端康成「伊豆の踊子」映画との比較①
6 川端康成「伊豆の踊子」映画との比較②
7 川端康成「抒情歌」と夏目漱石「夢十夜」①
8 川端康成「抒情歌」と夏目漱石「夢十夜」② まとめ
というものである。

授業は、平日2コマずつ4回。
よし、半日ずつ有給休暇をとって受講しよう!!!

と、思ったのだが・・・
なんと、
10:00~11:25
11:40~13:05

一応午前中の授業ということなんでしょうけど、午前は10時からだから、終わるのが1時を過ぎてしまうのですね。4週連続1日有休ってのはいくらなんでも無理だなあ。
普通の大学のように9時からの授業なら、午後の仕事に間に合うはずですけどね。

内容がいいなあと思うと、
日程の折り合いがつかず、がっかりしてしまいます。
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ツグミが出てくる文学作品

2012-02-11 10:38:01 | 読書
ボッケニャンドリさんのブログに「ツグミ」の写真とツグミのことが書いてあった。ツグミと言えば、その名はよく聞いたことがあるが、実物は見たこともなく、どんな鳥か知らなかった。名前からすると、かわいい感じがしていたもので、ボッケニャンドリさんのブログの写真を見ると、想い描いていたイメージとそれほど違わなかった。

名前を聞いたことがある、というのは、音声で聞いたわけではなく、文字で読んだにちがいなかった。文学作品の中に出てきたと思ったのだが、ほんの一部分の情景描写のようなところに、「1羽のツグミが飛び立った。」とか「2羽のツグミが梢にとまり、~をついばんでいた」などというふうな文があったような気がしたのだった。それは、ちょっと古い地味な小説かなんかの一文だというような気がした。当然、何の作品だったかなどということは思い出せないし、最初から記憶もしていない。

しかし、気になるので、ちょっと「つぐみ」を検索してみた。そうしたら、青空文庫の中に宮沢賢治の「よく利く薬とえらい薬」という作品を見つけた。その他に、萩原朔太郎の「利根川の岸辺より」という詩にも出てくることがわかった。
だが、これらは、あきらかに、私が以前読んだことのあるものではなかった
「つぐみ」といえば、吉本ばななという人が、「TUGUMI」という題名の小説を書いているらしいが、それは女の子の名前のようであって、鳥のことではないらしい。

ところで、宮沢賢治の作品には鳥がいっぱい出てくる。いろいろ検索していたら、宮沢賢治の作品を朗読しているサイトがあった。そこで、「よだかの星」と「よく利く薬とえらい薬」の朗読を聴いた。「よだかの星」は昔、中学の教科書に載っていたが、ちょっと陰気くさくて好きではない。改めて聴いてみると、やはり、よだかは、なんでそんなに悲観的なのかと思うばかりだが、鷹が夜鷹に「名前を“いちぞう”に変えろ、“いちぞう”という札を首から下げろ」などと言っていじめるのは、まさしくパワハラであった。それにしても、弟のカワセミなどは「兄さん遠くに行かないで」と言っているのに、どうして星になってしまったのか。ごく一部の人に愛情があったとしても、多くの者からいじめられるものは、やはり生きていく気にはなれないものかもしれない。

さて、「よく利く薬とえらい薬」には、最初からつぐみが出てくる。
(引用)
清夫は今日も、森の中のあき地にばらの実をとりに行きました。
 そして一足冷たい森の中にはひりますと、つぐみがすぐ飛んで来て言ひました。
「清夫さん。今日もお薬取りですか。
 お母さんは どうですか。
 ばらの実は まだありますか。」
 清夫は笑って、
「いや、つぐみ、お早う。」と言ひながらそこを通りました。
 其の声を聞いて、ふくろふが木の洞の中で太い声で言ひました。(引用終わり)

と言う具合だ。
“つぐみ”のほかに、“ふくろう”や“よしきり”も出てくる。

清夫は母のために一生懸命ばらの実を取っていたが、そのひとつぶを食べると急にすがすがしい気分になり、身体の機能が健やかになった。その実は透き通っていて美しかった。それで、家に帰り母に食べさせると、母はみるみる元気になって病気が治ってしまったという。

その噂を聴いて、他の人もばらの実を探そうとした。その中に、大三(だいぞう)という悪い人間がいた。

この男は、象のように太っていて大きく、アタマがぼんやりするのは病気か栄養が足りないせいだと自分では思っているが、実は食べすぎである。この男は、偽金を作って本当のお金に換えていたので、金持ちだった。
ということだ。

まあ、なんというタイミング。私はこのあいだ偽金かもしれないお金に振り回されていたので、こういう悪党は許せない。

で、物語はどうなるかというと、この大三は、ばらの実をものすごくたくさん取ったが、清夫が見つけたような透き通る実はみつけることができなかった。

そこで、大三は、自分で作ってしまえば良いのだと思いついて、透き通った実を作ろうとする。

物語の最後のくだりはこうだ。
(引用)
それからにせ金(がね)製造場へ自分で降りて行って、ばらの実をるつぼに入れました。それからすきとほらせる為に、ガラスのかけらと水銀と塩酸を入れて、ブウブウとふいごにかけ、まっ赤に灼(や)きました。そしたらどうです。るつぼの中にすきとほったものが出来てゐました。大三はよろこんでそれを呑(の)みました。するとアプッと云って死んでしまひました。それが丁度そのばんの八時半ごろ、るつぼの中にできたすきとほったものは、実は昇汞(しょうこう)といふいちばんひどい毒薬でした。
(引用終わり)

欲張りな悪人が、善人のまねをして、同じ恵みを得ようし、その貪欲さゆえに最悪の事態に行きつくというのは、昔話によくあるパターンだ。
「こぶとりじいさん」や「したきりすずめ」「金の斧と銀の斧」などと同じパターンだ。
こどもに読んで聞かせるのに、こんな面白い話はない。良い人の名前が「清夫(きよお)」であり、象のように大きい悪者の男が「大三(だいぞう)」というのも笑ってしまう。
宮沢賢治の言葉の言い回しが愉快であり、人間の言語と鳥がさえずる声とをかけ合わせたような描写も面白い。

そして、この「昇汞(しょうこう)」とは、いきなり化学だ。
「昇汞」とは、塩化水銀のことだそうで、昔は消毒に使われたこともあったそうだが、猛毒だという。水銀と塩酸を入れれば猛毒になるのは当然なようだが、大三はよほどのバカ者なのだろう。それにしても「昇汞」=塩化水銀というのは、1つ勉強になった。

宮沢賢治はあまり好きだと思ったことはなかったが、まだ読んでいない作品で面白いものがありそうである。



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科目登録

2012-02-10 23:29:45 | 放送大学
試験も終わり、自由の身になって、いよいよ来年度の登録科目を決定しなくてはいけない。科目案内を見ているときりがなく、なかなか煮詰まってこない。それだけ、面白そうな科目が多いってことだ。もう少し「基礎科目から順にやらなくてはいけない」とか「自専攻しかとってはけない」などの規制があれば、自然に選ぶ科目も決まってくるのだろうが、とにかく自由自在である。基礎だろうが、専門だろうが、どの分野だろうが、何をとっても構わないというのが、良いところでもあり、迷いの種でもあるのである。

怠け者の私は、放送を視聴していると必ず寝てしまうし、自主的に見ようという意志も足りないため、やはり面接授業がよさそうだ。とにかく、教室に入ってしまえば、そこに居なくてはならなくなるので、集中力のない自分にも何とかなる。

来年度からは、渋谷の学習センターでは、平日の朝や夜に授業があり、勤務の前後に行けるのが魅力だ。これならば、土日をつぶさなくても良いのだ。平日の夜は、どうせテレビを見たりパソコンをいじって遊んでいるだけなので、勉強をしに行ったほうがよいのだ。朝も、早く起きて仕事前に勉強をしてしまうというのは、かなり時間を有効に使える。しかし、朝はちょっと無理かなと思う。私の仕事時間は9時半からになり、朝の面接授業は8時55分に終わるので、授業を終えてすぐに出勤すれば間に会いそうでもある。しかし、ちょっときついかな?教室を出て駅に行き電車に乗るまでにどのくらいの時間がかかるかは、やってみなくてはわからないので、今回はやめておくことにする。

一方、夜間の場合は、一旦家に帰ってから出かけることになりそうだが、これもちょっと億劫になるかもしれない。ということで、1つは、平日の昼間に半休を取って通えるものを選ぼうかと思っている。4~6月くらいは、仕事はそれほど忙しくなさそうだから、それで有休を消化しよう。それで、平日の科目で、ちょっと良さそうかなと思ったものが複数あるが、ちょうど午前と午後を跨いでいるような場合は、半休ではいけないことがわかり残念である。

そのほかには、土日集中型を毎月1科目くらい取ることにした。月に週末が何回もつぶれると疲れてしまうが、1回くらいならそれほどの負担にはならないだろう。それで、とりあえず4科目くらい面接授業を申し込むことにした。合計22000円也。

放送授業は「失敗予防の住まい学」が再履修となるので、それ1科目だけをやる。「物質・材料工学と社会」は、裏技で調べたところ、履修済になっていたので、合格したらしい。
「住まい学」は今期はまじめに取り組まなくては。
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ひさびさの晴れ

2012-02-09 23:45:34 | 日記
数日、天気の悪い日が続いていたが、久しぶりに晴れ渡った。雨が降るというのは、春が近づいてきた証拠ではあるが、毎日暗い空が続いていて気が滅入っていたところだったので、晴れは嬉しい。
今日は、以前より日差しがとても強く感じられた。職場は東側に窓があるが、朝日で暑いくらいだった。
もうそろそろ、梅などが咲いているころかな?今年は本当にどこにも出かけていないので、そろそろ花見くらいには行きたいところだ。

五十肩は相変わらず治らず、特に寝ていると悪化し、目が覚めたときに痛くて大変だ。整形外科で牽引やマイクロ波をかけていたが、状況がかわらないので、先週あたりから行くのをやめてしまった。
なんだか、要領を得ない治療である。患者任せっていうのか、診察する先生とリハビリをする療法士の人とは何ら関係がないような感じだ。五十肩くらいならそれでもいいけど、歩行の訓練などをしている人は、どのくらい歩けるようになっているのか、先生が直接確認しなくてもいいものだろうか?
たまにはしているのかな?
あまりに分業だなと思う。病院によっては、血行のよくなる薬などを処方してくれるところもあるらしい。ビタミン剤等を飲んだほうがよくなりそうな気がするが、ビタミン剤は保険はきかないのかもしれない。薬局で買うと何千円もするので、今のところ飲んではいない。しかし、サプリメントなど飲んだほうがよいのかもれない。結局、自分で考えてよさそうなことをするしかないのだろう。
暖かくなったら、良くなるような気がする。
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だめだ

2012-02-09 01:00:58 | 日記
1月から仕事の状況が変わったのは以前にも書いたが、今度は年に1度統計をとっていたのを毎月ごとに結果としてまとめなくてはならならなくなった。
これが、結局のところ、サンプル数は少なくても平均を出したりまとめたりする手間は変わらないのであって、この忙しい時に、毎月まとめるなんてとても時間が取れない。
1月分を2月の初めにまとめようと思っていたのだが、結局もう3分の1が終わってしまった。
もう仕事時間中にやるのは無理なので、自宅に持ち帰ってやるしかないということになったが、今夜エクセルの資料を開いてみると、やっぱり自宅のパソコンでは勝手が違ってわけがわからない。自宅はwindows7であり、会社はXPなのだ。
エクセルで、非表示の部分をぬかして、表示されている部分だけをコピーしたいのであるが、会社では出来るのだが、自宅のパソコンでは、やり方がわからない。
だから非表示ではなく、削除してしまってコピーするという方法をとるしかないが、削除した部分がなくなってしまうと困るので、いちいち全部をコピーしては要らないところを削除してそれをコピーするしかない。実は年末はこの方法でやっていたのだった。しかし、正月休みでもないので、こんなことをしているわけにもいかず、これでは夜が明けても終わらないだろう。
やはり、使い慣れた会社のパソコンでやったほうが速そうだが、とにかく普段の仕事だけで手いっぱいで、まとめている暇などないのである。
困った。とにかく、自宅では効率よくできないので、今夜は寝ることにする。
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モニターが終わってしまった

2012-02-08 00:23:55 | 日記
昨年からやっていた某モニターがこの1月で終わってしまった。
1月の末頃にアンケートの依頼が来た時、ちょうど気ぜわしく、その日のうちに回答を送ろうと思いつつも、うっかり日付を過ぎてしまった。1度くらい逃してもまた数日後に別のアンケートがあるので、その時はちょっともったいなかったなと思うくらいだった。
ところが、そのすぐ後に「モニター期間は終了しました」というメールが来て驚いた。3月まであると思っていたのだが、始めたのが昨年の2月からだったようで、1月で終了だったのだ。このモニターは30分くらいのアンケートに意見や感想を記入するだけで200円ほどの報酬がいただけたので、今6000円分の商品券が手元にある。あと1000円分いただけるのだそうだ。なかなか割りのよいモニターだった。
収入源が切れるのも残念だが、アンケートに答えるために、いろいろな物事に注意を払って見聞きするという行動が自分にとってよかったと思える。今となっては、なつかしく、それをする機会がなくなることが寂しいきがする。

その後、別のモニターを始めたが、新しいほうはなかなか点数に結び付かない。基本的に何かを購入したり、加入したり、サービスを申し込んだりして、後日それに対してのアンケートに答えるなどすると報酬が出るようだが、まず自分のお金を払わなくてはいけない場合が多い。そういうものは全部除外しているので、ほとんど換金につながる点数は加算されないのだ。アンケートに答えるなどという簡単なことでは、なかなか金もうけはできないものである。

また、何か良いモニターはないかなあ。
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偽札事件

2012-02-07 00:53:53 | 日記
ある日曜日、人々から回収した現金をまとめてATMから送金しようとしたところ、1枚の1万円札が受け付けられず、戻ってきてしまった。何度やり直しても戻ってきてしまう。いったいどうしたことか。別の銀行のATMに行ってみたがやはりだめだった。

あきらめて一旦自宅に帰ったが、銀行に電話して聞いてみると、お札がよれよれだったりすると受付けられないことがあるそうだ。しかし、この1万円札は「ぴんさつ」であり、折り目さえないのであるから、そのようなことは考えられない。もしかして偽札?

自宅に別の1万円札が2枚あったので、その1枚と比べてみた。全く同じようだ。が、よく見ると番号の色が違う。自宅の1枚は茶色いが、それは黒いのだった。「あっ、これは偽札だ」と思った。ところが、よく見ると、自宅にあったもう1枚も黒い。インターネットで調べてみると、古いものは黒く、新しいものは茶色いそうで、両方ともアリだった。使う番号がいっぱいになって、同じ番号が重なってしまうので、色を変えたのだとかいうことだ。

自宅の本物2枚とこの偽札の違いは何であろうか?ずいぶんと巧妙にできているらしく、すかしも何もかもが本物と同じである。しかし、どうも紙の厚さが違うのだ。その偽札は微妙に薄い。目をつぶって触ってみると、必ずその違いを区別することができた。
それにしても、微妙な厚みの違い以外にはなんら変わったところはないお札だった。1万円札をよくよく観察すると、かなり精密に作られているもので、すかしはもちろん、ぴかぴか光る部分もあるし、手で触って凹凸がある部分もある。そう簡単に偽造できるものでもなさそうだ。もしできたとしたら、それを作るのに1万円以上の技術と手間ヒマがかかりそうである。

だが、ピン札にもかかわらずATMを通らないなんて、やっぱり偽札なのだろう。ATMでは、紙の厚さや重さまで測っているのであろうか?そんなことまでしているとは思えないが、何らかの方法で区別しているのだろう。人間の目で見てもまったく偽札とはわからないが、さすがに機械では見分けるのだろう。

我が家の1万円札はすべてATMから出てきたものだから、本物である。だいたい1万円札というものは、おつりでもらうものではないので、やたらに人から人へ移動するものではなさそうだ。いったい、この偽物1万円札はどこからきたのだろうか。

困ったことに、これが偽札だとしたら、私はどうしたらいいのだろう?1万円損をしてしまうではないか。複数の人間から集めたお金であるので、この偽札は誰が出したものかはわからないのだ。自宅の自分の1万円札に取り替えてお金を送金すると、自宅に偽札が残るだけである。自宅にある2万円も近日中にATMから支払いをするためのものであるので、取り換えることはできない。

で、いろいろ調べてみた。まず、偽札を作ったり使ったりするのは犯罪である。銀行に行けば、本物か偽物かを判定してくれるそうだ。だが、判定はするが、銀行で本物に取り替えてくれるわけではないそうである。にせものでしたということで終わりだ。

偽物だったら、次に警察に届け出るのだそうだ。(警察は本物か偽物かの鑑定はしないそうで、それはあくまで銀行がするのだそうだ。)そして、偽物だとわかったものを警察に届けても、警察が本物に取り替えてくれるわけではないそうだ。法律では「偽造通貨発見届け出者に対する協力謝金制度」(1977年制定)というのがあり、警察に偽札を届けると、その偽札の額と同程度くらいの謝金をくれる場合があるそうだが、それはあくまでも協力に対する謝金なので、くれると決まっているわけではないらしい。すでに解決済みのもの(偽札を作った犯人が捕まっている場合)であれば、協力の意味はないので、謝金も無いと言える。

この「謝金制度」ができた背景は、偽札をつかまされた人が、そのお金を警察に届け出ても没収されるだけであれば、その人にとっては何ら益がなく、そうなるとばからしくて誰も届けはしなくなり、自分でお金として使ってしまったほうがよいと考え、偽札が流通してしまうという悪循環に陥る。そういうことをなくすためにできた制度だそうだが、上記のようにあくまでも本物に取り替えるということではない。

そして、偽札使用は、物の売り買いなどをしたときに、確かに相手が居て、その相手が故意に偽物のお金で支払いを済ませ、だましたような場合は犯罪だが、例えば何かの会費を多数の人々が払って、その人たちの中の誰かが、自分の1万円を偽札だと知らないで出したのであれば、犯罪でも何でもない。

例えば、神社のお賽銭にも偽札が混じっていることがあるそうだが、それも誰かが偽札を作ったことは犯罪だが、お賽銭を投げたものが誰かもわからないし、偽札と知っていたかどうかもわからないので、お賽銭は単に元から「お金ではなかった」というだけのことで、神社が損失を被ったとか、だまされたということにはならないようだ。

しかし、そうなると、偽札と知っていて、それで買い物をなどしたのであれば犯罪で、知らなければ使っても犯罪でないのであるから、銀行に持って行って偽物かどうかを判定してもらって偽物とわかってしまったら困ったことになる。これは、本物だと信じていたことにして、偽札かどうか判定できないような小さなお店で100円くらいの買い物をして、おつりを9900円くらいもらうとよいのではないか?近頃はスーパーマーケットなどでも、レジがお札を挿入する機械になっていて、偽札ははじき出されるのかもしれない。

しかし、偽札かもしれないお金をそんなふうに使うのは良心がとがめる。
だが、貧乏人にとって、この1万円札がお金であるかそうではないのであるかは、大きな問題だ。
人のお金を集めておいて、その1枚が偽物であり、それがお金で無かったからと言って、自分がかぶるなんてそんなむごい話かあろうことか・・・。

う~ん・・・
1日中、偽札とにらめっこだ。あまりにもよくできている。本物と何ら違わない。
何ら違わないということは、本物なんじゃない???
偽札は、大きさが微妙に違っていたり、印刷の色合いが違っていたりするそうである。
しかし、このお札は本物と同じである。
ならば、なぜ、ATMを通らないのか???
唯一、紙の厚さが違うようだ。
我が家にはあと2枚しか1万円札がないので、厚さはその3枚の中での比較しかできない。
本物でも、厚みが多少違うものがあるのか・・・。
この1万円札の厚みは、千円札くらいの厚さであるようだ。
う~ん・・・  疲れた・・・

もし、本物と全く同じ偽物があったとして、その区別がつかないのであれば、その虚偽は発覚しないし、偽物だという証明もできないから、それは本物ということになるだろう。

ずっと、一万円札の表ばかり注視していた。
ふと、裏を見た。
裏の模様も本物と同じだ。

あれっ?うっすらと、しみがついている。
ちょうど親指のあとのような形に、お札の元の色よりもわずかに濃いような色になっている部分があった。

もしかして、これが原因か?
まったくのピン札である。
表からみると新札だ。何の汚れも無くしわも折り目もなかった。
しかし、よくみると、裏に薄いしみがあったのだ。

これで、はじき出されたのか???

自分の通帳に入れるということにして平日に銀行に持って行った。
「ATMに入れても入金できないのですが、このシミのせいでしょうか?」
「じゃあ、こちらで入金しますよ」
銀行の人が窓口であっけなく受け付けてくれた。
「やはり、中の機械でも入りませんでしたね」
と言いながらも、何の疑いもなくお金として扱ってくれた。

日ごろお金を扱っているプロが見てるんだから、問題ないだろう。
やはり本物だったようだ。

しかし・・・

しみがあるからはじかれる。
「原因はしみである」ということにする。
わざと偽札にしみをつけておく。

しみはカムフラージュだった????

考えてるときりがない。




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観葉植物に水を飲ませる

2012-02-05 22:56:24 | 日記
冬になって、ベランダでは寒すぎる観葉植物を部屋の中に入れてある。幸福の木とパキラとテーブルヤシとアンスリュームだ。パソコンのある机のすぐわきの南の窓際に置いてあるので、すぐ手が届くところである。にもかかわらず、どうしても水不足になりがちだ。家の中は20℃以上の温度があるのがふつうであり、乾燥もしているので、本当はかなり水が必要なのかもしれないが、夏にベランダにおいてあったときのように毎日水をやるという習慣がなくなっていた。それでついつい水をきらしがちになってしまう。なんとなく、水を運んでくるのが面倒臭いし、じょうろ(そのシャワー部分を外したもの)だと注ぎ先がちょっとずれただけで、水がとんでもないところに噴射して床を濡らしてしまったりするのだ。
それが、先日ふとペットボトルに水を入れてきてやってみたところ、なかなか注ぎやすいことがわかった。あまった水にはボトルに蓋をしてそのままそばにおいておけば、次に水をやるときに運んで来なくても良いことがわかった。人間が水を飲むようにペットボトルから水を注いでやれば良いのだ。
これはいい方法だ。これで、水不足が解消できそうである。
これらの植物は、狭い住宅にはとんだ場所ふさぎだが、温かくなるまでは室内の日当たりのよいところで、すごさせなくてはならない。
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厚着より運動

2012-02-04 01:23:20 | 日記
今年の冬は寒い。それで、以前から続いている節電のこともあり、暖房は控えめにして、服をたくさん着るようにしていた。
ところが、昨年末から五十肩がひどくなって、肩や腕が痛くてたまらなくなった。服を脱いだり着たりする時にも特に痛い。この痛さは、きっと、翼がもげかかった鳥のようだと思う。整形外科に1日おきに通っていたが、あんまり良くもならなかった。
あるときふと、下着を脱いだときに解放感を感じるときがあった。あまりに寒いので下着を2枚重ねにして着たりしていたのだが、これがかなりぴっちりと身体をしめつけていたようだ。だから、脱ぐとほっとするのだ。
ということは、身体にとっては、着ているよりも着ていないほうが楽なのである。もしかして、重ね着をすると血行がわるくなるのではないか?と思った。
2~3日前から、重ね着をするのをやめた。薄着になったところで、特別寒くは感じなかった。五十肩が急に改善されるわけでもないが、どちらかというと、腕を回したり軽い体操などをして、身体を動かすほうが効果があるように思えてきた。
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