「シューマンの指」
奥泉 光
講談社
私は推理小説は読まないのだけれど、ただただこのタイトルに惹かれて手に取ったものだから、筆者の思惑通りに、素直に深~くのめり込んだ分だけ、思いっきり最後に放り投げられて、本を閉じた感。
最後のどんでん返しに次ぐどんでん返しで、それまで読んだのは何だったのかとさかのぼって思い出してはそう思うのである。
(これから読む方のために内容は書きませんが)
ただ、登場人物の語る音楽論が、クラシック音楽に多少なりとも関わっている人間としては興味深く、鵜呑みに出来ない部分も含めて、結構面白かった。
たとえば
シューマンに晦渋さがあるとしたら、それは伝統と前衛に橋をかけようとする彼の芸術的野心ゆえであり、楽譜に潜む魅力を十全に引き出しうるか否か、シューマンの管弦楽曲は、指揮者とオーケストラにとって一つの試金石といっていいだろう。誰が振っても「感動的」に盛り上がる、チャイコフスキーのごとき凡庸な音楽とシューマンは根本から違うのだ。
音大の「画一的な」教育法は、真に才能のある人間にとって有害だとの思想は、この頃すでに広く流布していて、つまり長峰修人がアメリカで音楽学校に通わず、幅広い知識を養いながら個人レッスンで腕を磨いていることこそ、彼の一流の証しだ・・・
ベートーヴェンは、ピアノソナタというジャンルを完成させた。と同時に、それを壊して見せた。後期の、とりわけ最後の作品111のc-mollは明らかに破壊だろう?偉大な完成者が自分で解体してみせるところまでやり尽くしたジャンルで、後から来た人間に何ができるだろう?
シューマンは小曲集でソナタを書いたんだ
歓喜や平安のなかに哀愁や憂鬱や不安の翳りがよぎるのは、ロマン派音楽の特徴である。闇をはらまぬ光はなく、闇には必ず光の気配がある。けれども、大抵の音楽において、光と闇があくまで交差するのに対して、シューマンの音楽には、闇が全体にねっとりまとわりつくような印象がある。喜びと悲しみが、交わり合い、重なり合うのではなく、喜びがそのまま悲しみであるような音楽。
ピアノの練習は、スポーツと同じく、純粋に肉体的な、メカニカルな鍛錬が少なからぬ部分を占める。いわゆる西洋のクラシック音楽は、ほとんど曲芸と呼びうるほどの技術を器楽奏者に要求するのであり、ピアノを弾くのに適した筋力と柔軟性と俊敏性を獲得するには、毎日欠かさぬ長時間の練習が必要である。私の知りうる限り「練習の虫」でないピアニストは存在しない。
(音楽俗物を具体的にいうと)ピアノといったらショパン、みたいにいう人たちさ。あるいはチャイコフスキーやブラームスが、シューマンよりずっと偉いと思い込んでいるような馬鹿な人たちさ。
下手でもかまわないではないか。どのみち人間が演奏するのであれば、どんな名手が弾こうが完璧はありえない。「音楽」はすでにこの世界にあるのであり、演奏されるされないなどは本質の問題ではないのだ。
演奏する人の個性といえば、聞こえはいいけれど、要するに、癖だとか勝手な思い込みだとか、そういうもので音楽は汚されてしまう。演奏されたものが不完全、なんていうのはまだ優しいいい方で、つまり演奏は音楽を滅茶苦茶に破壊し、台無しにする。その滅茶苦茶になった残骸を、僕らはずっと音楽とよんできたんだ
「演奏なんかしなくたって音楽はもうすでにそこにある。演奏はむしろ音楽を破壊し台無しにする」
最近、音楽との対峙がいい加減になってきていたと反省。
もう少し、誠実に向き合おう。
と、思えただけでも読んだ甲斐ありですね~(フフ)
コンサートに向けての選曲を想う。
奏者と聴衆の好みのどこら辺にポイントを置くかで随分違ってくるが、演奏することを生業としている場合はある程度、聴衆に媚びた選曲になってもいたしかたない。
であれば、アマチュアは自分本意でも良いのでは。実力よりほんの少しだけ(あくまでもほんの少しだけ)難しい曲に取り組んで練習し、少し腕を上げる。
理解ある聴衆に暖かく見守られながら、少しずつレベルアップできたら、それが理想。
聴衆受けの良かった、実はグジャグジャな演奏の後味の悪さ…これだけは避けたい。
奥泉 光
講談社
私は推理小説は読まないのだけれど、ただただこのタイトルに惹かれて手に取ったものだから、筆者の思惑通りに、素直に深~くのめり込んだ分だけ、思いっきり最後に放り投げられて、本を閉じた感。
最後のどんでん返しに次ぐどんでん返しで、それまで読んだのは何だったのかとさかのぼって思い出してはそう思うのである。
(これから読む方のために内容は書きませんが)
ただ、登場人物の語る音楽論が、クラシック音楽に多少なりとも関わっている人間としては興味深く、鵜呑みに出来ない部分も含めて、結構面白かった。
たとえば
シューマンに晦渋さがあるとしたら、それは伝統と前衛に橋をかけようとする彼の芸術的野心ゆえであり、楽譜に潜む魅力を十全に引き出しうるか否か、シューマンの管弦楽曲は、指揮者とオーケストラにとって一つの試金石といっていいだろう。誰が振っても「感動的」に盛り上がる、チャイコフスキーのごとき凡庸な音楽とシューマンは根本から違うのだ。
音大の「画一的な」教育法は、真に才能のある人間にとって有害だとの思想は、この頃すでに広く流布していて、つまり長峰修人がアメリカで音楽学校に通わず、幅広い知識を養いながら個人レッスンで腕を磨いていることこそ、彼の一流の証しだ・・・
ベートーヴェンは、ピアノソナタというジャンルを完成させた。と同時に、それを壊して見せた。後期の、とりわけ最後の作品111のc-mollは明らかに破壊だろう?偉大な完成者が自分で解体してみせるところまでやり尽くしたジャンルで、後から来た人間に何ができるだろう?
シューマンは小曲集でソナタを書いたんだ
歓喜や平安のなかに哀愁や憂鬱や不安の翳りがよぎるのは、ロマン派音楽の特徴である。闇をはらまぬ光はなく、闇には必ず光の気配がある。けれども、大抵の音楽において、光と闇があくまで交差するのに対して、シューマンの音楽には、闇が全体にねっとりまとわりつくような印象がある。喜びと悲しみが、交わり合い、重なり合うのではなく、喜びがそのまま悲しみであるような音楽。
ピアノの練習は、スポーツと同じく、純粋に肉体的な、メカニカルな鍛錬が少なからぬ部分を占める。いわゆる西洋のクラシック音楽は、ほとんど曲芸と呼びうるほどの技術を器楽奏者に要求するのであり、ピアノを弾くのに適した筋力と柔軟性と俊敏性を獲得するには、毎日欠かさぬ長時間の練習が必要である。私の知りうる限り「練習の虫」でないピアニストは存在しない。
(音楽俗物を具体的にいうと)ピアノといったらショパン、みたいにいう人たちさ。あるいはチャイコフスキーやブラームスが、シューマンよりずっと偉いと思い込んでいるような馬鹿な人たちさ。
下手でもかまわないではないか。どのみち人間が演奏するのであれば、どんな名手が弾こうが完璧はありえない。「音楽」はすでにこの世界にあるのであり、演奏されるされないなどは本質の問題ではないのだ。
演奏する人の個性といえば、聞こえはいいけれど、要するに、癖だとか勝手な思い込みだとか、そういうもので音楽は汚されてしまう。演奏されたものが不完全、なんていうのはまだ優しいいい方で、つまり演奏は音楽を滅茶苦茶に破壊し、台無しにする。その滅茶苦茶になった残骸を、僕らはずっと音楽とよんできたんだ
「演奏なんかしなくたって音楽はもうすでにそこにある。演奏はむしろ音楽を破壊し台無しにする」
最近、音楽との対峙がいい加減になってきていたと反省。
もう少し、誠実に向き合おう。
と、思えただけでも読んだ甲斐ありですね~(フフ)
コンサートに向けての選曲を想う。
奏者と聴衆の好みのどこら辺にポイントを置くかで随分違ってくるが、演奏することを生業としている場合はある程度、聴衆に媚びた選曲になってもいたしかたない。
であれば、アマチュアは自分本意でも良いのでは。実力よりほんの少しだけ(あくまでもほんの少しだけ)難しい曲に取り組んで練習し、少し腕を上げる。
理解ある聴衆に暖かく見守られながら、少しずつレベルアップできたら、それが理想。
聴衆受けの良かった、実はグジャグジャな演奏の後味の悪さ…これだけは避けたい。
同感!!!!!
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