1966年
村上投手らと共に、サンフランシスコ・ジャイアンツに野球留学、第二の中西と期待されていた大型内野手田中達がいよいよ、打者をあきらめ投手に転向した。大型打者にありがちなもろさが致命的な欠陥となり、三年間の通算成績26試合45打数6安打、打率一割三分三厘で期待を裏切ったが、その一つの原因は、銚子商時代からの近視が命取りになったともいわれている。投手転向後の初登板は九月末の対西鉄七回戦。七回から救援したが、2ランホーマーなどを喫して、デビューを飾れなかった。内野手として鉄砲肩で鳴らしていただけに、首脳陣も、その強肩に期待をかえ、鍛えようによってはおもしろいと語っている。
村上投手らと共に、サンフランシスコ・ジャイアンツに野球留学、第二の中西と期待されていた大型内野手田中達がいよいよ、打者をあきらめ投手に転向した。大型打者にありがちなもろさが致命的な欠陥となり、三年間の通算成績26試合45打数6安打、打率一割三分三厘で期待を裏切ったが、その一つの原因は、銚子商時代からの近視が命取りになったともいわれている。投手転向後の初登板は九月末の対西鉄七回戦。七回から救援したが、2ランホーマーなどを喫して、デビューを飾れなかった。内野手として鉄砲肩で鳴らしていただけに、首脳陣も、その強肩に期待をかえ、鍛えようによってはおもしろいと語っている。