プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

田中達彦

2014-06-12 21:08:19 | 日記
1966年

村上投手らと共に、サンフランシスコ・ジャイアンツに野球留学、第二の中西と期待されていた大型内野手田中達がいよいよ、打者をあきらめ投手に転向した。大型打者にありがちなもろさが致命的な欠陥となり、三年間の通算成績26試合45打数6安打、打率一割三分三厘で期待を裏切ったが、その一つの原因は、銚子商時代からの近視が命取りになったともいわれている。投手転向後の初登板は九月末の対西鉄七回戦。七回から救援したが、2ランホーマーなどを喫して、デビューを飾れなかった。内野手として鉄砲肩で鳴らしていただけに、首脳陣も、その強肩に期待をかえ、鍛えようによってはおもしろいと語っている。
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柳田俊郎

2014-06-12 20:59:24 | 日記
1966年

「十二球団中、最も順調」と他球団をうらやましがらせた新人獲得で、球団事務所では、相次いで新人紹介の記者会見が行われているが、この十人近くの新顔の品定めで、早くも明暗二様の評価が話題を呼んでいる。明だったといわれるのは、高校球界のスラッガーと鳴り物入りで獲得した九州学院の柳田外野手の方。記者会見では「左打者が左投手をニガ手なんて、お話になりません」と大見得をきって、側の国広社長を苦笑いさせたが、フリーバッティングでは、プロ入り七年目の井上善の投ずる2-1からの外角球を左翼線へライナーの二塁打で打ち返して、さらにファームの上別府や金子らの左腕も問題にしないといった調子で、先刻の大言壮語がウソでないことを実証した。これには、中西監督も大喜びで、いままでの新人打者の「評判倒れ」に泣かされどおしのせいか、つい「うまい。張本タイプの打者になれる」と、ちょっとほめすぎかと思われる評価を下したほど。もっとも、すぐ「どこまでプロの変化球についていけるか、これからの育てようが問題だね」と付け加えていたものの、ほめすぎと割り切っての「評判通り」だったことは喜ばしいこと。
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岡村佳典

2014-06-12 20:12:25 | 日記
1966年

残念ながら、第一次選択会議で第一位にリストアップした岡村投手(浜田高)が「第二の森安」と狙ってはみたものの、どうやら今のところでは、まだまだのようだ。秋の合同練習で学業のひまをみて参加した時のコーチ陣の、「第一位にリストアップするほどのものではなかった」の意見は岡村には厳しいようだ。岡村が高校三年間、ワンマンチームにいたことも、禍いしているようで、指導が適正でなかったためフォームがばらばらというのだから「まだ、二、三年はかかるでしょうね」(重松コーチの話)この評価には誰も反論は出していない。
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大本則夫

2014-06-12 20:06:48 | 日記
1977年

生年月日 26年1月11日
近大、巨人→ロッテ
1㍍76、75㌔ 右投右打
妻=ちとせ 長男=高広

巨人からテスト入団。球威もあるが、大きなフォークを武器に一軍入りをねらう。
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