プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

醍醐俊光

2014-06-08 22:36:15 | 日記
1966年

産経の醍醐といえば、東京の醍醐捕手の五つ違いの弟。プロ野球では数少ない兄弟選手だが、「地味な感じは兄貴にそっくり」といわれている。この醍醐、三十七年に早実から入団していらい捕手ー三塁ー投手と転々、ようやく投手に本腰をいれはじめたもの。一軍戦では開幕の阪神戦にリリーフで投げたが、まだまだ力不足。しかし、イースタンでは十七日の東京一回戦で木樽に投げ勝ち、幸先きのいい一勝をマークしている。「自然にスライドするタマが特徴。しかし、他は取りたてていうほどのタマはない」という醍醐だが、ことしは二人前だと張り切っている。一月九日に幸子夫人と新家庭を持ったのがそれ。同僚の倉島、篠田らと同じ日に挙式したのに、この醍醐だけは球団にも通告せず、事後承諾。「とにかく万事が地味。控え目なのはいいが、野球をするとき位はパッとハデにやってほしい」とは関係者の声。
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川内八州男

2014-06-08 22:24:41 | 日記
1966年

二軍から一軍へ登用される場合、最も有利なポジションは投手である。その意味で、今シーズン、必ずチャンスをつかむと予想されるのが川内八州男投手(二一)だ。佐賀県鹿島高出身で、今季で三年目。一メートル七七、七四キロと大柄ぞろいの近鉄投手陣では目立たない方だが、オーバー・ハンドからのカーブがいい本格派だ。昨シーズン、二軍からは田辺が抜てきされ、一気に5勝をマークするなど活躍したが、この川内は田辺とともに二軍戦では二本柱の一本的活躍をした。勝ち星も7勝(二軍)と田辺を上回り、保井二軍チーフ・コーチは「田辺は変則的投法だけに、その日その日で、調子にムラがあるが、川内のピッチングには無理がなく、それだけ安定感がある。今年は必ず一軍に抜てきしてもらえる」といっている。ただ、昨シーズン、田辺のように大胆に起用しなかったのは「ストレートがときどき高目に浮く制球力の甘さがあるため」で下半身をもっと鍛え、一球一球低目へたん念にコントロールする根気があればじゅうぶん通用する」といっている。
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平田英之

2014-06-08 21:48:32 | 日記
1979年

広島カープから移籍したオーバーハンドの本格派で変化球を武器にしてプロ入り三年目の本年こそロッテ・オリオンズで花を咲かせようと決意もあらた。
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土師一男

2014-06-08 21:34:02 | 日記
1965年

土師一男投手(二〇)=佐賀工出身。一メートル八十三、八十二キロ=は、このほど近鉄を退団、以前から勧誘を受けていた大相撲井筒部屋に入門することになった。同投手は、高校時代からその恵まれた体格で、野球はもちろん、相撲選手としても出場するなど万能選手として活躍。同校卒業時すでに角界から誘いを受けたが、本人は野球界にあこがれて三十九年近鉄入り。当時は、その巨体から未来の近鉄のエースと大きな期待を寄せられた。しかし、巨体の割りにスピードがなく、不器用でフォームも安定しないところから過去二年間全くの鳴かず飛ばず、角界からの熱心な誘いもあり、ついに退団を決意し、角界入りに踏み切った。プロ野球選手から角界入りしたのは土師投手がはじめてだが同選手は、「野球界では落第しましたが、井筒部屋では必ず立派な相撲とりになる覚悟です」と語っている。
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下村栄二

2014-06-08 21:25:52 | 日記
・・・下村栄二投手

下村は名古屋商大を中退。テストで合格した。体はやせすぎで小さかったが、野球に対する情熱は人一倍あった。

1965年

新しいスターの卵が相ついで入団してくる。テスト生の矢崎(巨摩高)を皮切りに、同じテスト生の川内(広陵高中退)待望の左腕白石(四国鉄道局)大物の鎌田(法政大)竹野(駒沢大)第一次選択の佐野(専修大)テストを受け、臨時選択会議で決まった下村(名古屋商大中退)山本真一(専修大中退)ら多士済々だ。「こんなに順調にことが運ぶとは思わなかったわ。これとねらいをつけた選手は全部獲れたし、難航している球団が不思議でならんよ。交渉権さえ得ればあとは楽なのに・・・」西野育成部長をはじめスカウト連は、悦にいっている。新人選手のなかには、いろいろ変わり種がいるが、左の速球投手で、今季からさっそく第一線登用が期待されている白石は、阪急、巨人、近鉄、大洋、東映なども熱心だった投手。ことに阪急はウエーバーで広島にさらわれたため、おしいことをしたと口惜しがっていたほど。この白石、大の練習嫌い。「プロへはいったら、そうもいっておれませんが、どうも練習は苦手ですね。契約するときも。それが気になってしょうがありませんでした。でも、いまではランニングをやってスタミナをつけるようにしていますが・・・」素直に認めるあたり正直な選手ではある。臨時選択会議にかけられる最初のケースになった下村も、左腕。強化練習のときテストにきて認められた。一メートル七十一という小柄ながら、シャープなピッチングをする。長谷川監督の現役時代のピッチングを左にしたようなもの。切れ味の鋭さを買われたらしい。「皮肉のつもりじゃないがね。あまりからだのデッカイ人は、小回りがきかんからダメだね。野球はアタマでやるんだから、からだは小さくてもいいよ。下村は、きっとよくなる。ワンポイント・リリーフとして期待しているんだ。白石は先発、完投型だがね」長谷川監督は、大羽、森川、白石、下村と左を四人もそろえてご満悦。そうして早くも来季の皮算用をしている。
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村上弘通

2014-06-08 21:11:03 | 日記
1966年

秋季練習で見慣れぬ下手投げ投手にお目にかかった。それも三人。それがそろいもそろって一八〇センチを越す長身の投手だったから二度驚いた。「なあに、上から投げていてもパッとしないもんだから思い切って下手投げに変えてみただけだよ」と天保コーチはいう。話題の主の一人は一八四センチ、梶本につぐ長身の村上。もう一人はこれまた一八二センチの金田。背高ノッポ二人が下手投げとは恐れ入ったが、これも長身を上手投げでは生かし切れなかった苦肉の策というわけだ。
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嵯峨野昇

2014-06-08 19:59:40 | 日記
1966年

日立製作所の嵯峨野選手が、東京の新人選手のトップとして入団した。嵯峨野選手はドラフトで大塚、木樽についで三番目に交渉権を獲得した選手で、大塚、木樽が難航している中に、白川スカウトが、三度にわたり交渉した結果、条件の折り合いがついたもので、前田につづく三塁手として、首脳陣は大いに期待をかけている。国学院大時代は、それほどは、目立たなかった選手だが、社会人となってから一躍台頭し、ノンプロ入り二年目の、ことし春の選抜大会では、アゴを五針もぬうほどの負傷をしながら敢闘し、見事最高殊勲選手となったファイターである。こうしたファイトは、無気力な現在のオリオンズには欠けていたものであり、その精神力は技術以上に高く評価してよいだろう。と、いって別にその技術が精神力よりも劣るのではない。ドラフト第三位にランクしてあった選手だけに、「肩もフットワークとも、もうしぶんない。打撃も四番を打っていたのだし、三拍子そろった好選手だ」というのは、青木スカウトの嵯峨野評である。気分屋の前田ひとりで、手薄だった三塁も、この嵯峨野の成長如何では、内野の一角は強化され、それに、前田も刺激されて発奮することにもなろう。
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竹野吉郎

2014-06-08 19:45:43 | 日記
・・・竹野吉郎選手

足が早く、器用さが売りものの選手。ただバッティングのパンチ力に乏しく、伸び悩んでいる。趣味は犬の飼育で、その腕前はプロ級といわれる。

1966年

「だれが一番いいかって?それはいえんよ。まだ評価する段階じゃないしね。それに新人にはあくまでも夢とチボウ(希望)を与えなくちゃいかん」どこかで聞いたようなせりふをいい、新人勤務評定をされりとかわす首脳部だが、日南、呉キャンプを経て、大体の評定はできそうだ。いちばん評判がいいのは、なんと無名の竹野(駒大出)だ。駒大監督仕込みのしぶ好みの選手。まるで高倉(西鉄)を思わす攻守を見せる。「そんあに似ていますか。ボクの目標は古葉さんですが」当の竹野は、古葉の実践的なバッティングを身につけようと懸命だ。
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鳥谷元

2014-06-08 19:20:20 | 日記
1966年

福岡の築上中部高から入団した新人の鳥谷元(とりたにはじめ)投手の名前を、(とりや)と呼ぶことに球団で決めた。それは とりたに というのが呼びにくいため とりや としたもので、外人選手の本名を略して呼ぶのと同じ流儀である。外人選手はともかく、日本の選手にこういった方式がとられたのはこんどがおそらく初めてのことだろう。
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岡村佳典

2014-06-08 19:13:08 | 日記
1966年

バッティング・ケージからはじき出された打球を追って外野を走り回っているひときわ背の高い選手がいる。それが岡村投手。野球部創立六十年の歴史をもつ浜田高のすぐ近くで生まれ育ったせいか「野球がメシより好き」というほど野球の虫になっていた。小学校のころから家の前(浜田市黒川)の広っぱでボールを手にガキ大将でやっていた。それが浜田一中から浜田高にはいるとき「わがまますぎてチームワークがとれない」と佐々木監督から一度はことわられたほどのわがまま選手となっていた。父親勲さん、母親登美子さんも手に負えないでいた。そんなわがままが監督にしごかれてもいつの間にか岡村の頭にこびりついてしまった。プロ野球にリストアップされたとき、山陰路の片いなかで野球をたのしみだけでやっていた岡村には「びっくりしてしもうた」ということになった。「プロのスカウトの方たちが見に来ていたのは知っていた。しかし、わたしたちはプロで通用するとは思っていなかったので、大学にやることだけしか考えていませんでした。西鉄のスカウトがあいさつにきたときは、信じられなかったです」と母親登美子さん。親子がこんな気持ちでいる原因を佐々木監督はこう説明した。「技術的にはプロで通用するかもしれないが、精神的にはまだ幼稚でダメだ。ことしの春の地区予選で大東高相手に八回まで無走者で押えていた。その裏、補欠の選手が三塁打して大量点がはいり、八回でコールド・ゲームになってしまった。完全試合をのがした岡村は試合のあと殊勲打の二年生をつかまえておこった。また練習は見ていないと全然やらない。頭から押えると、だまって動作で反発する態度をとるなど、わがままいっぱいな投手だ。これではプロにはいっても自分自身に負けて二、三年でつぶれるだろう」だから「自分でここならやれそうだという見通しをもった亜細亜大学にいくのが一番よい。成功すればさいわいということのあるプロより、安全な道を踏ませ勉強させることにしたい」ということだそうだ。亜細亜大のほか中大も誘っている。岡村の「お山の大将的なものの考え方」でも、技術的には一流の折り紙がつけられている。スカウトの目に岡村の印象を強烈にやきつけたのは、監督もいっていた地区予選のときだった。速球や低めにビシビシと決め、ときおり高校生では珍しいフォークボールを投げ、大東高をひねったときだった。二年の春、全国選抜大会で初めてヒノキ舞台を踏んだものの、長身にありがちな下半身の弱さで二回戦で敗れてしまった。こんな苦い思い出がその冬、トラックのタイヤ三本をロープにつけて、それをひきずって腰をきたえ、五回戦ボーイというありがたくない汚名を返上させ、見る間に力を発揮しだした。それ以来の成績は十一試合9勝2敗、防御率0.90というりっぱなものになった。「バックが打てないので、0点で押えなければ・・・」というりきみすぎがアダとなり、大事なところでポカを出すこともあった。二年間岡村だけを見てきた西鉄・直良スカウトは「バックのよいチームで投げさせていたらどれほどすごい成績を残したかわからない」と高く評価している。「ぼくは足がおそいせいか、全体にバネがないようだ。これから冬の間陸上部にはいってダッシュ練習や、長距離をやって足をきたえ、バネをつけるつもりでいます」と前向きの姿勢を見せる。十一日、あいさつにおとずれた川崎西鉄球団常務をつかまえ「どうしたらもっとスピードが出るか」「切れのよいカーブを投げるにはどんな握り方がよいのか」としつこくきいて川崎常務を感心させた。「野球のセンスだけなら70点はつけられる」という佐々木監督。残りの30点についての意見は「どんなピンチに立っても耐えられるだけの精神的な強さをもつことだ。岡村はそれさえなおればハイクラスの野球ができるようになる。そのためにも、もっとしごかれて勉強すべきだ」とつけ加えていた。1㍍80、72㌔、右投右打、十八歳。

勉強してムラ気なくせ

浜田高・佐々木監督
「コントロールはよいが、もう一つ低めにのびのある速い球がほしい。球の種類はストレート、シュート、カーブ、フォークボールの四つだが、中でもフォークボールの威力は中国地区ではピカ一。ただ精神的にムラが多く、練習でも横についていないとやらない。そのため気分がよいときはどんどん投げていい成績を残すがそうでないとすぐ連安打をくってしまう悪い面がある。こんなムラが岡村の成長をとめているといえる。これからもっと野球に対して欲をもち、地道に勉強することがより岡村の力を発揮することになる」
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