プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

土屋紘

2014-08-10 23:00:40 | 日記
1967年

・土屋は長野県臼田高二年のときからエース。当時から低めにコントロールされた重い速球は定評があり、一試合平均10以上の三振を奪っていた。三十八年、三協精機、電電信越に誘われたが、駒大に進学。盛田(拓殖銀行)菊池(元日鉱日立)伊藤久(中日)ら名門出身の投手がいたため、デビューはおそく、三年生(四十年)の春の対芝工大一回戦。在学中の通算成績は二十七試合、11勝9敗。土屋の真価が発揮されたのは今春電電に入社してから、春の選抜東京大会では早くもエースとして登場、名門全鐘紡を破った。夏の都市対抗では準決勝まで進出、平松(日本石油ー大洋)に2-1で投げ負けたが、優秀投手に選ばれている。また、秋の産業対抗では電電九州にただ一人補強された。土屋の将来性をきかれた電電東京・大神田監督は「重いくせ玉をプロの打線相手に生かすためにはコントロールをさらにみがきをかけることが必要」といっていた。

土屋投手「最初のうちはどうもプロでやれる自信がなくてちゅうちょしたが、田村スカウトと会談しているうちにだんだんプロでやってみたい気持ちになった。いまは、とにかくやってみよう、という心境だ。中日のことは先輩の新宅さんに二度ほど電話して聞いている。早く第一線に出て初白星をあげたい」
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板東順司

2014-08-10 20:45:58 | 日記
1967年

坂東順司投手・・徳島県板野郡板野町川端出身

鳴門高二年のときから上級生の森と交互にマウンドを踏んでいた。1㍍82の長身から投げおろす本格派として定評があった。四十一年春の選抜で、
二回戦の小倉工戦に登板している。昨年夏、早大のテストに参加、その後、ノンプロ日本楽器に就職が内定していたが、一年生のときから「ピッチングでは大器の素質があり、百㍍11秒台の足、バッティングもいい」とマークしていた巨人・伊藤スカウトの熱意が実った。

坂東投手「がんばるだけだ。ノンプロでやるつもりでいたが、まさか巨人にはいれるとは思ってなかった。武器のシュートにみがきをかけたい」
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中室幹雄

2014-08-10 20:26:29 | 日記
1967年

津山商・中室幹雄外野手(18)=1㍍78、75㌔、右投右打=の巨人入りが十八日決まった。同日午後七時から前川スカウト担当は岡山県真庭郡勝山町新町の中室選手宅に父親・幸男さん(45)をたずね、母親・たみ江さん(42)、津山商・横山野球部長、本人をまじえ約二時間話し合った結果、前川スカウト担当の掲示した条件で納得したもの。あらためて十九日正午、前川スカウト担当に入団を伝える。中室選手は、二年生のときレギュラー・ポジションを獲得。今春、選抜大会に初出場が決まりながら、応援団の不祥事件で出場辞退、甲子園に出場できなかった。浪商ー東映の球歴をもつ東谷夏樹監督(37)は「長打力のある一番打者」として中室を育てあげた。今夏は十九打数四安打と不振だったが、俊足好打は定評がある。津山商は、夏の甲子園大会東中国準決勝で米子工に1-0で敗れている。

津山商・中室選手「小さいときから、巨人が好きで、長島さんにあこがれていました。巨人が日本一になるには、きびしい練習があったからと思います。ぼくも負けずに思い切りやります」
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永田哲也

2014-08-10 19:08:16 | 日記

永田哲也投手・・加治木工、1㍍82、76㌔、左投右打。

1971年

・永田を四位に指名したのは左投手にありがちなコントロールの悪さもなく「ストレートが低めに決まる」(庄村同行監督)ということを買ったもの。
高校二年まで外野手として活躍、また三年でエースながら打力を買われ、登板しないときは外野手として出場していた。三年生の公式戦の成績は六試合で3勝3敗。夏の甲子園大会予選では四回戦で負けたが、それまでの三試合を完封勝ちしており、隠れた逸材として西鉄は期待している。
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高井諭

2014-08-10 18:20:59 | 日記

高井諭投手(22)・・日本コロムビア、右投右打、名商大中退

1967年

・中京商時代、投手としては三輪田(早大)のかげにかくれていたが、打力を買われて右翼で五番を打ち三十八年夏の甲子園に出場。名商大に進学してからは、三十九年秋のアジア大会選考試合で愛知大学リーグのエースとして神宮のマウンドを踏んだ。三年生の昨年九月、第一回選択会議で中日が誤って交渉権を獲得(その後取り消し)この事件とは関係なかったが、中退してことし日本コロムビアに入社、川崎予選の前半戦で活躍した。
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久保田一

2014-08-10 18:06:12 | 日記
1968年

久保田は、昨年のドラフト会議で東映を含めてどの球団もリストアップしなかったが、東映では、指名したノンプロ電電九州の田中捕手がとれない見通しとなったため、手薄な捕手陣を強化しようと、一月二十日から入団交渉をしていた。契約金百万円でまとまった。同捕手は一年生から外野手として活躍、その後捕手にコンバートされ、強肩でならした。昨年は年間打率三割五分をマークしている。
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後藤清

2014-08-10 15:53:20 | 日記
1967年

西鉄は十八日午後三位から福岡市天神二丁目の球団事務所で新人選択会議で交渉権を得た電電東海・後藤清投手(21)=1㍍81、67㌔、右投右打、多治見高出=の入団発表を行った。背番号は43。後藤は三年間、電電東海に在籍していたが、この間毎年、東海、北陸地区の優秀選手にあげられ、今シーズンも選抜大会の伊勢地区予選で五試合を完投、六試合目に負けたが、速球、シュートを武器の本格派で、城島スカウトが交渉を進めていた。発表の席には母親かずさんも立ち会った。

後藤選手「一度プロで自分の力をためしたいと思っていました。母と二人暮らしですが、母はプロ入りについてはわかってくれているので、別に問題はありませんでした。からだは細いですが、小学校から高校まで十二年間一日も休んだことがないので、からだには自信があります」
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山口和男

2014-08-10 13:15:34 | 日記
1968年

南海は八日、昨年のドラフト会議で交渉権を獲得していた唐津東高・山口和男投手(18)=1㍍76、75㌔、左投左打=の入団を発表した。同選手の入団交渉には九州駐在の石川スカウトが当り、昨年末には入団を決めていた。上手投げで直球が武器。バッティングもよく四番を打っていた。

山口和男投手・・唐津東高、1㍍76、75㌔、左投左打、佐賀、背番号43

・ボンボン育ち。まずプロの水に慣れること。スカウト仲間では打に及第点がついている。
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金博昭

2014-08-10 12:22:26 | 日記
1967年

立正佼成会・金(こん)博昭監督兼外野手(28)1㍍66、68㌔、左投左打、日大二高出=の中日入りが二日、正式に決った。田村スカウトは同日午後二時半東京・千代田区内幸町の喫茶店ヒビエンヌで同選手の相談役である中日・小川投手もまじえ話し合い、条件を掲示。金選手は希望額とは多少の食い違いはあったがこれを了承した。契約金は四百万円。年棒は最高額の百八十万円(いずれも推定)。金選手は、ことしの八月、立正佼成会野球部の解散が本決まりになったことから、同チーム出身の先輩、中日・小川投手に身のふり方を相談していた。中日はこれまで二度、折衝していたが、監督兼任の金選手の「ナインの就職先が決まってから・・」という要望で条件提示など具体的なはなしはしなかった。田村スカウトは、三十七年、やはり立正佼成会から小川投手の獲得に成功している関係もあって一発で入団が決まった。正式契約は、さきに入団が決まった立正佼成会・若生投手の入団発表がある六日前後になる予定。金選手は、日大二高出身、明大、日大を一年ずつで中退、三十五年五月、当時準硬式だった立正佼成会にはいった。三十六年九月硬式に転向、三十九年主将、四十年コーチを経て、昨年十月プレーイング・マネジャーとなった。俊足、好打には定評があり、ノンプロでの通算打率は三割を上回っている。
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松室武

2014-08-10 11:00:17 | 日記
1967年

南海の近藤重役は竜谷大・松室武外野手(23)=1㍍77、75㌔、右投右打=を貝塚市脇ヵ浜504の自宅にたずね、父親治さん、母親きよ子さん、本人をまじえ第一回目の交渉をした。この日はあいさつだけで条件提示までいかなかった。

1968年

松室武外野手・・浪花高、竜谷大、1㍍75、76㌔、右投右打、京都、背番号38
・馬力はあるが、荒さが目立つ。ここ二、三年、ファーム暮らしか。子供のころから熱烈な南海ファンだった。

1969年

・ツボにくれば軽くスタンドに運ぶパンチは魅力

68年 ウエスタン・248
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富田晴吾

2014-08-10 09:56:26 | 日記
1969年

「まあ見ていてくださいよ」とアドバルーンをあげているのは北川コーチだ。「投げるときのバランスがすごくいい。制球力は抜群だし、球は速い。キャンプのはじめに左足を故障したため、ランニング不足。さらに卒業試験のため十日間ほどブランクがあったので、いまはできあがりは五分というところ。島野や松原よりだいぶ遅れているが、そのうちグングンのしてくることは間違いないよ」といやに買っている。北川コーチばかりではない。中尾二軍監督は「これおど投手としてのセンスを持ってる男もいない」といい、武宮コーチは「フォームに変なクセがない。実にすなおな投げ方をしているよ」と大変なほれ込みよう。富田はIBMに就職を決めていたが、昨年のドラフト会議で巨人に十番目に指名され、プロ入り。中大法学部を間もなく卒業するが、野球部出身ではない。作家・藤原審爾氏がオーナーをしている準硬式リーグの名門藤原チームのエースだった。オーナーみずからすすんで熱っぽくその実力を語る。「パーフェクト・ゲーム二回、ノーヒット・ノーラン四回、四日間で六試合完投したスタミナもある。マウンドを富田にまかせておけば、もう負ける気がしなかった。チームをつくって十年目になるが、まあ、こんなピッチャーはもう出てこないね。ぼくの夢である全国制覇(は)を一度するまで、手放したくなかったんだが、巨人さんがどうしてもほしいというので・・」と残念そう。軟式からプロ入りして成功した例では大友(巨人ー前中日コーチ)土橋(東映コーチ)などがある。ボールの違いにまずとまどうものだが、富田は「硬球の方が小さい感じがするし、指のひっかかる部分が多いので伸びが出るし、変化がつく」といっている。都城キャンプでは下半身の鍛錬に重点をおいた。「やっとプロの練習についていけるからだになったところ」(北川コーチ)だ。もともと大きな鋭いカーブを持っていたが、シュートもおぼえた。キャンプのはじめは自信なさそうに沈んでいた富田も「みんなといっしょにやっているうちにやれそうな気がしてきました」といまは元気にとびはねている。1㍍76、73㌔、左投左打、中大出、二十二歳。
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北村哲治

2014-08-10 09:00:13 | 日記
1971年

中日は二十一日午後四時、市内中区新栄の球団事務所でテスト生・北村哲治投手(21)=1㍍80、74㌔、左投左打、倉敷工出=の入団を発表した。同投手は四十三年倉敷工を卒業してから関ヶ原石材松久(岐阜市内の繊維商社)で準硬式野球をやっており、上手投げの本格派で、ことし30勝1敗の成績。中日の秋季練習に一か月参加、採用された。
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辻正孝

2014-08-10 08:49:32 | 日記
1972年

いまはやりの木枯し紋二郎を気どっているわけではない。だが、なぜか彼の人生は旅から旅へというぐあいになってしまう。バット一本ぶらさげて、球団から球団へテスト生活がつづいている。ツキがないのか、ウデが悪いのか?「一生懸命やっているんですがねえ」東映の辻正孝選手は、うらさびしい多摩川土手を歩きながら何度もクビをひねった。それにしてもこの男のテスト生活はすさまじい。四十四年の大洋のテストは不採用、四十五年、ヤクルト不採用。昨年、中日の田村スカウトの紹介で、中日のテストに合格したものの、本多二軍監督と衝突してしまい一年で自由契約。ウエスタン・リーグは二十八試合に出場、打率は一割にみたない九分一厘だった。そして、ことしが東映。修得高時代は甲子園に出場、四十一年のドラフトでは中日に九位で指名されたが、これをけってノンプロのいすゞ自動車に入社。そこで野球をやっていたところ、グローバル・リーグの東京ドラゴンズに引っぱられ「日本で野球をやるより、世界を相手に試合をした方がおもしろそうだ」と飛びこんでみたものの、リーグはすぐ解散してしまった。あとは森監督が、「グローバルが存続していたら日本チームの四番打者だ。すごいリキを持っている」と感心したウデっぷしをたよりに、あっちでテスト。こっちでテスト。「グローバルの仲間で、いまプロ野球に残っているのは、ボクとローダイに行った石塚だけになってしまった」実家の商売は、コンピューター占いの機械をデパートにおくレンタル業。「すごくもうかるんだ」テストに落ちると家業を手伝いながら、次のチャンスを待つ。「ことしの成績を占ったら?」といわれ「アレ、当らないんだよ」とニヤリと笑う。どんなケが出ても、やはり野球から離れられない野球バカなのだ。
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