プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

松林茂

2016-10-12 22:41:59 | 日記
1973年

ビュフォード、レポーズという太平洋の売り物をこのルーキーはいとも簡単にうちとった。五イニングを投げ、福富に二塁内野安打されただけ。引きあげてくるなり、ネット裏でしぶい顔をしていた太平洋の中村オーナーを横目で見ながら「打たせなくて悪かったでしょうか」とニヤリとした。心臓の強さも相当なものだ。入団発表の席でも「二十五歳のひねたルーキーです。だから将来のメドを一日も早く立てなければならない。バリバリやるしかないでしょう」とケロリとした顔で抱負を述べた。昨年のいまごろは、雪の北海道で柔軟体操に明け暮れていた。ドラフト二位指名。よほど会社に残ろうかと思ったが、両親の「広島なら故郷に近いし(生まれは岩国)帰ってこい」という勧めに従った。いまでは「プロに踏み切ってよかった。働けば金になるし、好きな野球一本で進めるだけでもいい」という。日南キャンプでのシート・バッティング、紅白試合でも衣笠、三村らの主軸打者を手こずらせた。元中日の下手投げ投手、小川健太郎ばりのフォーム。グッと浮き上がる速球、外角に鋭く流れるカーブはキラリと光った。これまで広島の新人でオープン戦の第一戦で先発したのは、この松林が初めて。それだけ首脳陣が期待をかけている証拠だ。一回先頭打者の福富には内角に二球速球をずばり決めた。ビュフォード、レポーズはシュート攻めにし、バットを折らせている。「キャンプでは味方なので投げなかったが得意球はシュート。これからどんどん投げて自分のよさを見てもらう」という松林。別当監督も即戦力とみた。「これで使えるメドがついた。あのシュートは立派に通用するね」あまりほめない長谷川コーチも「実力あるピッチャーだから第一戦に投げさせたんだ。このままいけば面白い存在になる」とその力を認めていた。1㍍76、68㌔、右投右打、岩国工ー大昭和白老。
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石井茂雄

2016-10-12 22:29:41 | 日記
石井茂雄投手

1978年
・昭和33年、岡山県の郡部にある県立勝山高から阪急ブレーブスに入団。西鉄ライオンズ全盛時代に、当時は灰色カラ―といわれた阪急で下積みの苦労をした。3年目に2勝2敗と初めて勝ち星を残したが、その後も1勝1敗、4勝9敗と停滞ぎみのシーズンを送り、大きく開花したのは、ようやく6年目に入ってからだ。38年、西本監督を迎えた阪急で17勝の高成長ぶりを見せ、一躍、米田、梶本と並ぶエーストリオの一角を占めたのであった。翌39年には28勝をあげ、2位躍進の原動力となった。40年も21勝と、2年連続20勝台に乗せたが、この年チームはBクラスに転落し4位。シゲやんのエース時代も、ここで終わりを告げることになった。41年には10勝へと一気に後退した。負け数が13だから彼にとっては4シーズンぶりの負け越しだった。チームは42年から3年連続で優勝し、1年おいた46年からまた2年連続優勝を飾り、いわゆる阪急の第一期黄金時代をうたいあげるのだが、シゲやんの右腕はすでに疲れ切っていたのである。45年の16勝で、やや立ち直りを見せかけたが、あとは7勝、5勝と二けた勝利から遠ざかってしまう。転落のコースといってもいいだろう。エースから中堅級への後退だから、それはその通りなのだが、どっこいシゲやん、このあとの生きざまが他のエース体験者たちとは全く違っていたのだ。ほとんどの元エースたちが、低迷期の入口で肩やヒジを痛め精神的にも滅入り込んで、寂しくユニフォームに別れを告げることになっている。しかし、シゲやんこと石井茂雄投手の場合は一味違った。自らのピッチングが、もはや通用しなくなったことを悟った時に彼はためらいもなく「力」を捨て「技」を選んだのだ。47年に5勝したところで彼は住み慣れた阪急を元・エースにはふさわしくない金銭トレードで追われる。「ちょっとしたこと、例えばカッときてマウンドにグラブを投げつけてみたり、ベンチの中でふて腐れてみたりといったことが、監督やコーチに嫌われる原因になったようだ」とは阪急の某重役。とにかくシゲやんは48年に西鉄を買収してスタートを切った太平洋クラブ・ライオンズに「友情トレード」されている。阪急の15年間に投手としての精力を使い果たし、もはや10勝以上の勝ち星は残せないだろうと見られていた彼が、何と移籍した48年には、ノンプロに毛が生えた程度と酷評された打線をバックに12勝をマークする健闘をやってのけた。その後は登板数も年々減り、勝ち星も8,9、5,5,5勝と1ケタ台にとどまっているが、今シーズンは前期に東尾、山下らのお株を奪って7完投、3完封、無四球試合4と大いに健在ぶりを見せつけたものだ。180センチ、77キロの均整のとれた長身はプロ入り以来ほとんど増減なしで、ゼイ肉なしの理想的な投手体格をいまだに保っている。サイドハンドからのシンカー気味に落ちるシュートを決め球に、フワリと曲がり落ちるカーブと高めに伸びて横にすべるスライダーを混ぜ、これにスピードの変化をミックスするから、投球はイヤでも多彩になるわけだ。これで打者のタイミングを狂わせ読みの裏をかくのだから焦った相手打者は、まんまと彼の術中にはまり込んでしまう。勝ち星の割にシャットアウトが多いのも、そんなピッチングの特性を証明してるといえるだろう。タイトルは阪急時代に一度だけ勝率第1位投手になっただけで、むろんエースの立場もとっくに卒業してしまったのだが、いまだに一線級の実力を持ち続けている。元・阪神ー毎日で活躍した故・若林忠志投手が引退した42歳までは現役続行を目指し、「中4日の休養なら十分。一週間もあけないかんようになったら、その時は引退や」ともいい続けてきた男が、自らギブアップする前に球団から戦力外通告を受けてしまった。「本当にいいにくいのだが、来季の戦力構想にキミは入っていない」と気の毒そうに切り出す坂井代表に石井は静かにうなづいた。そしてひと言だけいった。「記録に区切りをつけてからやめたいので、拾ってくれるところを探してもらえないでしょうか」記録・700試合登板→あと10試合、
200勝→あと13勝。これが21年目のシーズンを終えたシゲやんの、たった一つの「注文」であった。なお、石井の退団が決まった11月25日、高垣、松岡、中島啓、吉田隆、吉野、米沢、丸川、ハンセン、川島の9選手もヒッソリと「最後通告」を受けた。中堅級を容赦なく放出して田淵、野村、古沢らのベテランを入団させ、他方では若返りと称してベテランを切る。人気と実力との奇妙な組み合わせを図る「新生・西武ライオンズ」の強烈なアラシの前には、さしもの長距離ピッチャーも無力であった。
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駒田桂二

2016-10-12 19:53:23 | 日記
1950年

梶岡ブツたおれ、藤村弟傷つき、田宮復調せず、野崎また元気なし・・・というんじゃあ猛虎タイガース牙も無かろうというもの、その傷だかけの虎がこれでなんとかゴマかしたいもんだとマウンドに押出したのが駒田君、コマダ?あんまり聞いたことねえ投手ー左腕、雇ったばかりの社員に大会が持たせられんと同情、未知数の新人、大切な公式戦にチョイチョイ顔を出せるハズもない。「ナイターのとき、中沢不二雄、サトウ・ハチローの両大人がネット裏でみていて、カーブを投げぬ面白い新人だといっていたけど、どうして投げない・・・」「まだカーブが投げられないんです。軟球界にいたときも速球だけで・・けっこう打たれませんでした、いつもヒット四、五本におさえてきました」野球選手としては眼のキレイなまあ上品な顔、新人だけに借りてきた猫のようにおとなしいが、言葉の調子に、芽が出かかったハリがノゾいている。「いまのピッチングで押すつもり?」「とにかく低目の速い直球と自然に落ちる球が出るンで、当分このまま・・監督さんも思い切りほうれといわれるんで・・・」「投げていて心細くないかナ」「やっぱり、いつ打たれるかと心細くてネ、だから御園生さんにカーブを習っているんです、しかしたまにカーブやってみると、スピード落ちるせいかキット叩かれちゃってネ・・」「でもこないだの夜と廿二日の大洋戦は大出来・・・」「まア、自分でもあの程度にほうれるようになって嬉しいんです。コントロールがついて、球にノビが出るようになったと先輩もいってくれるんで・・・」その先輩の一人、御園生主将によれば「カーブはほうれんが、コントロールがいいからネ、のびる男や。背は五尺七寸で十分やが、横がもう少しほしいナでもこんな時助かる、この頃の駒田は立派なもんや・・・」そうだ速球投手だけに、スタルヒン、別所、藤本あたりが目標だという。ナイターは気が楽だという「夜は速球が打てんことになってますから打たれそうで当らないフフ・・・」「もう少し肉がほしいネ」「これでもプロに入って太ったほうですよ、小さい時から野菜嫌いで偏食したからこんなにヤセているんでしょう、でもいまは無理して何でも食べてます、身体のために食べるってこと、ようやくイタについてきました」・・負傷者続出で腕の見せどころ「だからまア、チャンスなんです、暑いのは苦手ですが・・・」無理して夏も食べてる駒田君である、国鉄、広島、大洋に三勝、まだ黒星はない、廿四歳。
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