プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

財津守

2016-10-30 18:59:55 | 日記
1962年

財津が初ホーマーした。七回一死後水谷投手の初球内角高目のストレートだった。「ぼくは力のある方じゃないですからね。むしろホームランより確実にヒットすることを心がけているんです。ホームランはミートがよかったからでしょう」財津はあたりまえといわんばかりだ。「腰がスムーズに回転していると思っているし、バットも出ているんだが・・・」という財津は紅白試合の通算打率は二割一分二厘。昨年森(大洋移籍)の代打で登場していた当時とくらべてさびしいかぎりだ。「いまはヒットするよりポイントを確実につかむ段階だ」とフォームの調整に夢中だが、濃人監督は「財津はうまいバッティングをしていた。しかしもう一つ甘いところがある。自分でボールと思ったらツー・ストライク後であっても絶対に手を出さない。一線級の投手に当って、コーナーぎりぎりの球をきれいなコースでもファウルするようにならなければ」といっている。昨年後楽園の対国鉄戦に左足小指をスパイクされて骨折したとき財津はスパイクを切ってまで出場したほどの根性の持ち主。だからチーム内で「財津の目の色を見ろ」と競争相手の合い言葉になっているほどだ。その財津がねらっている右翼には強敵長谷川が控えている。「ぼくは競争するからにはどんなことがあっても負けたくない。泥棒でも日本一になればいいと思うくらいですよ」最近の紅白試合ではもっぱら一塁を守っているが、寺田が当たっていないだけにあるいは財津がその位置を奪うことも考えられる。そのためには中日一の根性の持ち主も好打者に生まれ変わらなければならない。
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妻島芳郎

2016-10-30 18:31:52 | 日記
1962年

妻島はノンプロ時代にコントロールがいいと聞いていた。ところが試合になると立ち上がり中にホーマーされたせいもあるだろうが、堅くなり、コントロールがくずれた。腕がちぢんでしまった。三回一死もとれずに降板、打者十六人安打九(本塁打三)失点八、オープン戦とはいえプロ入り初登板にしてはさんざんな成績。妻島のウイニング・ショットはスライダーと沈むシュートだというのに、スライダーをはじめから多投して自滅した。内、外角をつくバラエティーにとんだピッチングをするべきだった。日大二高時代の球拾いからプロ入りするまでになった選手。「非常にまじめで典型的なサラリーマン・タイプ」というトレーナーの器だがまじめさだけではプロ球界ではとり残される。もっとドライに割り切った方がいいのではないか。日大二高、日本通運、1㍍78、70㌔、右投右打、二十四歳、背番号11。

毒島投手の話「力が十分出せなかった。中さんに0-2からど真ん中に投げ込んで一発を打たれたショックが消えなかった。コントロールもなかった」
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